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朝鮮半島の古代 濊・・・卑弥呼の時代、三世紀頃

朝鮮半島の古代 濊・・・卑弥呼の時代、三世紀頃

先に濊、扶餘、高句麗、百済は人、羅は人が建国したもので、何れも中国から逃亡してきた人達の国であることを説明した。
その他に、羅、百済には多くの人も住んでいて、正に古代の朝鮮半島は、外来者の支配する国であり、中国の文献には朝鮮半島土着民の国など何所にも書かれていない。
ということは、朝鮮半島には、独自の文化と呼べるものなど存在せず、その原住民は極めて原始的な生活を送っていたことが容易に想像される。だからこそ、中国からの流民が多く流れ込み、彼らを支配したのである。
故にその文化は、支配階級である民族のものであり、朝鮮地生えのものはなきに等しかったと思われる。

では、実際はどのような状態であったのか。
人伝の卑弥呼の邪馬台国があった同時代、三世紀の朝鮮半島の様子を見てみよう。

まず、この三世紀には、百済も羅も存在していなかった。その前身である村落共同体あるいは都市国家程度の国とも呼べぬものはあったが。

当時、国として存在したのは高句麗と、その母体となった扶餘、濊のみであり、この三国は伝とは別に、個別に志高句麗伝、志扶餘伝、志濊伝として詳しく説明してある。
注目すべきは、この志の扱いである。濊や扶餘、及び高句麗はそれぞれ志濊伝、志扶餘伝及び志高句麗伝として単独の項目をあげて説明してあるが、それ以南のの地については伝として一まとめで簡略に触れているだけである。
つまり、後の百済、羅の地にはまだ国と呼べるようなしっかりしたものなど存在していなかったことがわかる。
つまり、当時のの認識としては、後の百済、羅の地は、多くの村落共同体が群生している、ただ雑多な種族の人間達それぞれが集落を作って生活している程度の原始地域であった為にそれらを一まとめにして伝としたのである。

では、三世紀当時、朝鮮半島の付け根付近にあった濊、扶餘、高句麗の様子を、志に記載されている記述から見てみよう。


この国は、朝鮮半島の北東部約4分の1を占めている、半島では唯一の単独国家である。
戸数は二万。これだけの広い地域にたった二万戸。
山地ばかりで肥沃な平地も少なく、おまけに寒冷地である。大した農作物もできないだろうからこれくらいの人口を養うのがせいぜいというところか。
現在の北朝鮮の東半分の地域なので、今のこの国の貧しさを考えると、この国の大きさの割に少ない人口というのも頷ける。
その記述に、「大君主はいない」「その古老は昔、高句麗と同種だと言っていた」とあり、当然のことながら「言語や法習慣は高句麗と同じ」である。
何故ならば、民族である人が難をのがれてこの地に住み着き、の武帝の侵攻により、その主力が北に逃れて扶餘を建国し、その一部が分かれて高句麗を建てたのであるから。