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朝鮮半島の歴史・概説年表で古代の極東をつかむ

朝鮮半島の歴史・概説年表で古代の極東をつかむ

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■推定50万年前      半島旧石器時代の開始
■推定BC8000年頃    磨製石器の石器時代開始
■BC4000~3000年頃 櫛目文土器作(海辺・川辺生活)と拡散→※日本の有明海沿岸へ波及
■BC2000年頃       アワ・ヒエ・キビ栽培開始 海辺から丘陵地帯へ生活範囲が移動(尖底だった櫛目文土器が平底に変化)
■BC1000年頃       稲作開始、ほぼ同時に青銅器時代開始・無紋土器と琵琶形銅剣と石器農具の併用時期
  竪穴式住居から次第に穴の浅い地上型へ。
  支石墓・石棺出現→九州へ波及。
  氏族集団が徐々に初期国家「城邑(じょうゆう)国家」へと展してゆく。→古朝鮮へ

  ○古朝鮮(コチョソン)とは
    ・檀君朝鮮(タングン・チョソン)・・・これは神話上の始祖伝説国家(中国の『史記』には出てこない)
    ・箕子朝鮮(キジャ・チョソン)・・・・・中国の箕子が建国した最古の国家
    ・満朝鮮(ウイマン・チョソン)・・・からの亡命者・満が建国。紀前195年頃に
備知識 「国ではこの「檀君神話」を根拠に自国の歴史を五千年(西暦2007年は檀紀4400年)と称することが多いが、これは学問的に検証された紀年ではない。朝鮮時代に徐居正(ソ・コジョン)らが史書『東国通鑑』を編纂する過程で、尭(ぎょう・中国神話の王)の即位とされる紀前2357年から二十五年後に檀君朝鮮が建国されたと見たため、「紀前2333年」という定説が生まれた。」(水野俊平著・李景珉監修『国の歴史』河出書房社 2007)→世界中、建国神話はそうしたものである。日本の紀節=建国記念日も神話から作られた。ちなみに日本国の正しい建国は磐井の乱から壬申の乱の間。倭国は2~5世紀。

■BC145年頃       満、1000人余りの人民を引き連れてから亡命、前漢の外臣となって真番(チンボン)や沃沮(オクジョ)などを服属させ領土拡大。しかし前漢武帝の呼び出しに一度も呼応せず。
■BC108年         前漢満朝鮮を滅ぼし、楽浪郡(ナンナングン)など四郡を置く=前漢の朝鮮支配開始
■BC一世紀頃        前漢匈奴対策で虚弱化すると、半島北方に扶余・高句麗・東?・沃沮(プヨ・コグリョ・トンイエ・オクジョ)、南方に馬・辰・弁・伽?(マハン・チナン・ビョナン・カヤ)などの小国が誕生(辰十六国時代)。
この中から中国に最も近かった北方の高句麗が独立意識強く(朝鮮民族が持つテンションの高さは高句麗の立地が基礎にあろうか、南へ行くほどおおらかになるのは世界中同じ)、中国に激しく対応しながら(あっぱれ)迎合せず、領土を拡大してゆく。
 BC33東明王(朱蒙)、高句麗を建国。(伝説

三国時代の始まり
■313             高句麗、楽浪・帯方(テバン)郡を滅ぼし、大同江流域にまで領土拡大
                 この頃馬の伯済国(パクチェ・グク)が江(ハンガン)流域小国家を統合し百済(ペクチェ)立。
                 その後、四世紀後半、辰の斯盧国(サロ・グク)、慶州辺の小国をまとめ羅(シルラ)立。
                 半島最南部に伽?(カヤ)同盟(連合国家)誕生→6世紀くらいまでに大伽?へ
                           ↓↓
                         四国時代へ
■342             中国本土の動乱に乗じて高句麗の西側にある鮮卑前燕(慕容?・慕容国)、高句麗を攻略
■355             前燕、高句麗を柵封 
                  高句麗北方を前燕に奪われ南下政策をとる。
■371             百済、高句麗の平壌城攻める。高句麗故国原王戦死。
■372             高句麗に仏教伝来
■391~2年         高句麗広開土王即位。
■392秋八月         高句麗南辺をこえて百済を侵す。平壤に九寺を創建。
■393年秋七月       百済が高句麗へ侵入
■394年秋八月       広開土王、百済と海戦、これを大いに破り、捕虜八千余を獲得した。
■396             領地拡大に高句麗が半島南部に攻め込んだので、百済と羅がともにに人質などを贈って援軍を依頼し、はそれに応えて援助した
■398              慕容徳、滑台(河南省滑台)に自立して王を称す(南燕)。
■399             百済は先年の誓いを破ってと和通した(高句麗側の言い分)。
■400             後燕の 慕容盛、高句麗を攻撃して、東を奪回
                  高句麗は5万の大軍を派遣して羅にも攻め込んだ。 
羅王都を守っていた山ほどの軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、羅の王都を占領した。が帯方地方(現在の黄海道地方)に(百済のために)援軍を送ってきたので、広開土王は立ち向かった。
■427             高句麗、平壌城遷都
■433             羅・百済同盟
■475             高句麗、百済の山城攻略。百済首都を熊津(ユウジン・くまなり)へ遷す
■503             羅、国号・王号定める
■520             羅、律令頒布、官の衣服を制定(日本の冠位十二階に当たる)
■525             百済武寧王陵築造
■527             羅、仏教公認
■532             羅、官国(南伽?)併合
■538             百済、泗?城へ遷都
                  ※この頃、羅、真興王(チヌン・ワン)によって花郎(ファラン)制度始まる。
                   のちに王族花郎の春秋台頭
■562             羅、大伽?(高霊伽?)を滅ぼす
■586             高句麗、長安城に遷都

■612             煬帝、高句麗攻撃(薩水の戦い)
■642             羅に淵蓋蘇文(えんがい・そぶん)台頭 
                  ※この頃 王族花郎の春秋台頭
■644             、高句麗に開戦宣布
■645             安市城の戦い 高句麗、に勝利
■654             羅、春秋即位(武烈王、太宗)                 
■655             春秋、将軍・?信とともに巧みな外交(花郎大活躍)
■660             羅、と連合し百済滅ぼす
■663             白村江に百済・連合艦隊を大破し百済再興は消滅。百済王族大挙しての近江(蒲生郡など)などへ
■668             羅・連合、高句麗を滅ぼす

■676             羅、三国統一

■687             羅、郡県制
■698             渤海国興る
■892             後百済興る
■901             後高句麗興る
■926             契丹、渤海を滅ぼす
■935             羅・敬順王、高麗に降り羅滅亡

■936             高麗、後百済を滅ぼし半島再統一

■1231            モンゴルが高麗に侵攻→
■1259            高麗王朝、モンゴル帝国に降伏→モンゴル・高麗軍、日本へ=
        反運動高まる
■1392            李桂、王位に。高麗王国滅亡→翌年国号を朝鮮に   
■1418            世宗即位
■1443            世宗、ハングルを創製

■1590            豊臣秀吉朝鮮侵攻
  ※天下統一後、秀吉はそれまで使ってきた家臣やその下にいた草、非人たち(これが秀吉の躍進の影の功労者である)のいくさ中毒状態を抑えきれなかった。それでそのはけ口として海外に矛先を向けざるを得なくなった。このとき、浜松殿(徳川)を敵に想定する想像力があれば、この朝鮮への迷惑な派兵はなかっただろうし、豊臣の天下は続き、歴史は随分変わっただろう。

■1607            日本と国交回復(・徳川家康の江戸幕府との通信使交流)
■1636            国、朝貢を要求、の支配的時代続く     
■1832            イギリス、アーマスト号寄港し通商を要求            
■1897            国号を大帝国に改 
■1925            朝鮮共産党結
■1905            第二次日韓協約調停
■1906            日本、朝鮮総督府を置く
■1941            太平洋戦争
■1945            日本帝国主義の植民地支配から解放
■1948            チェジュ島人民蜂起、大民国樹立・朝鮮民主主義共和国樹立
■1950            朝鮮戦争
■1963            朴政権
■1965            日基本条約調印
■1973            大中事件
■1994            死去
■2002            日ワールドカップ開催