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李完用

朝鮮民族を滅亡から救った李完用(イ・ワニョン)

李完用は売国奴ではない。

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 国、李朝の末期、国家財政は完全に破産し、国土は荒れ、政治と行政は腐敗しきっており、列強からの借は莫大な額になり返済のあてはまったくなく、自力で国家を再建するのは無理な状態でした。国民衆のエネルギーを結集した政治団体一進会は日合邦を望みました。大帝国の内閣総理大臣・李完用(イ・ワニョン、り・かんよう)は日保護条約を経て、1910年「日韓国併合ニ関スル条約」に調印します。

 李完用は政治家人生の中で何度も暴に襲われています。1909年12月22日に洞聖堂前で、合邦反対勢力が送り込んだ刺客の李在に襲われ、全身をメッタ刺しにされ重傷を負いましたが、一命をとりとめました。彼は命がけで政治使命を果たしました。

 現在、李完用国では親日派(チンイルパ=売国奴)とされています。国政府によって公式にも親日反民族行為者に認定され2005年に国において親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法が公布された際にも、親日反民族行為者財産調査委員会は、李完用を含む親日派9人の子孫から土地を没収し、国政府に帰属させる旨の決定を行っています。国では彼の業績を一部でも評価しようとすれば、その人間はたちまち激しい糾弾を浴びて、社会的に抹殺されてしまいかねない状況だといいます。

 合邦までの時代背景を見ると国の宗主国であったは改革に失敗し、ロシアが南下してきて朝鮮半島を脅かしました。朝鮮半島はロシア支配下になるのは目に見えていました。亡国の危機に国人はなぜこのときロシアと戦わなかったのか。李完用を売国奴と批判する者はこのことに言及すべきです。

 李完用は苦悩の末、日合邦を選びました。単独で国家を保とうとすると民族は滅亡します。日合邦という合邦国家方式による民族の保存を行ったわけです。李完用は1896年に独立協会を結し、1898年、独立協会会長として、万民共同会を開催しました。京城(ソウル)都心部で独立鼓吹(こすい)の街頭講演会を多数開催しています。彼は愛国者です。その李完用が日合邦に踏み切らなければならないほど朝鮮社会は停滞していたということです。それを示すよい例があります。京城に電車が開通したとき、クーリー(労働者)がレールを枕にして寝るので、車掌たちはそういうものを路線から追い出す仕事をしなければなりませんでした。ところが、数人の高官は「人間にとって本然的なものである睡眠を妨害することは不法行為であり、電車は軌道上に寝ている人が目覚めるまで待つべきである」という勅令を布するように国王に嘆願書を出したのです。またあるとき軌道上で寝ていたものが轢かれてしまう事件がおこりました。すると暴動が生し、電車が破壊され、運転手がリンチを受けました。逮捕された暴動の指導者たちは次のように弁しました。

「市の門外で眠っている石の亀(古代の記念物)を決して邪魔をしてはいかん - もしあの石亀が目覚めるようなことになれば国中に一大事が起こるだろう。あの電車めの物音は石亀をおこすことになりかねない」

救いがたい前近代性です。このような状態では国家破綻している大帝国ではどうしようもなく、日合邦がなければ、民族の滅亡を待つばかりだったでしょう。李完用は朝鮮民族を滅亡から救った朝鮮人にとっての恩人であると言えます。

 李は大日本帝国の下で大正9年(1920年)には侯爵となりました。大正15年(1926年)には大勲位菊花大綬章を授与されています。大正15年(1926年)、肺炎により死去。その葬儀は国葬でも無いにも関わらず、葬列が4キロに達したといいます。売国奴ならこのようなことは起こり得ません。

 斎藤実総督(当時)の弔辞
李完用侯爵は東洋一流の政治家であり・・・彼の人格はあらゆる人たちの欽慕(きんぼ)の的であり、彼の死は国家の一大損失である・・・」

 李完用は日本語は堪能でしたが、大韓帝国時代から日合邦時代に至るまで、公式の場において日本語を話すことはありませんでした。朝鮮民族としての誇りを持ち、それを一般朝鮮人たちに示していたということでしょう。

参考文献
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 オークラ出版「世界に愛された日本」『玉均と李完用から見た国近代史』桜井誠
 祥伝社黄文庫「歴史再検証 日韓併合民族を救った『日帝36年』の真実 」崔 基鎬(著)
 展転社「大東亜戦争への道」中村 粲(著)
参考サイト
 WikiPedia「李完用」「日韓併合条約」