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李氏朝鮮時代の身分制度

李氏朝鮮時代の身分制度

日韓併合前の朝鮮半島の政治形態
官僚による中央集権制度で政治を行い、軍事反乱を恐れて地方豪族や軍閥を全て排除し、軍部の地位を低く抑えていた。農民の反乱を抑えることが出来ないような軍隊で500年間国を維持できたのは、中国()の属国だったからである。
富を奪う身分と奪われる身分に二分でき、奪われる側は甚だしい劣悪な生活に追い込まれ、庶民文化・教育・伝統・芸能・職人の技術・労働意欲などが全く育たなかった。
三権分立など存在しなく、地方長官や中央役人が全ての権限を握り、富を奪う為にその権限と利用していた。少数の支配者にとっては理想国家であろうが、支配される大勢の者たちにとっては劣悪非道の暗黒国家である。
日韓併合前の朝鮮半島の身分制度
階級を簡単に説明すると下記のようになります。

   (1)王族・貴族
   (2)両班(リャンバン)
   (3)中人(チュウイン)
   (4)常民(ジョウミン)
   (5)賤民(チョンミン)

李氏朝鮮の500年間同じ身分制度が維持された訳では無い。
中国から導入された両班になる為の[科挙]の試験も、試験結果で合格が決められていた時代から、合格者が賄賂の額で決められてします時代へと変化してしまった。
李氏朝鮮の後期では、身分・役職も賄賂の額により決められていた。
(1)王族・貴族
王族及び王族との婚姻関係があった族譜で記された数十の一族のみ指します。
例として一番多い氏では

   安東-金氏
   慶州-金氏
   清風-金氏
   江陵ー金氏
   姜山-金氏

それ以外の氏は平民です。
(2)両班(リャンバン)
李氏朝鮮は、中央集権の官僚制国家である。この政治制度は軍事クーデターを恐れる為に軍人の地位を低く抑えるのが特徴である。
官僚になる為には[科挙試験]に合格する必要がある。文人を出す文科と武人を出す武科で構され、合格者が文臣と武臣となり官僚に登用される。それらが[両班]階層となり支配者としての特権階級となっていく。
試験は3年に一度行われ、四書五経の膨大な知識が必要であり、その勉強のためには、それなりの経済力が必要であった。中人以上の者が科挙試験の資格があるが、李氏朝鮮の初期から、両班階級が事実上官僚機構を独占していた。
官僚政治の独占時代が続くと腐敗政治になるのは歴史の必定である。その地位の向上と安定に反比例するように、官僚自身は無能化していきます。腐敗した官僚は国王への忠誠心や国民への奉仕等には興味を無くし、自分自身の私利私欲にしか興味が無くなってしまった。
両班は身分を表しそれなりの地位は保障されているが、特権を得る為には役職に就かなければならない。役職(中央・地方の役人)の奪い合いが始まり、派閥を組み権力闘争が激しく行われる様になった。現職役人の誹謗中傷を行い、派閥のパワー・賄賂で役職の奪い合いが行なわれる様になった。
本来なら行政能力・人望で決められる役職が、賄賂の額で決まってしまう様になり、李氏朝鮮後半では役職が売り買いされているのが現実である。売るのは国王であり、買うのは無職の両班である。役職を買い取る為に投資した額は回収しなければならない。その回収先は身分の低い国民となる。
李氏朝鮮初期の両班は人口の約3%に過ぎなかったが、文禄・慶長の役(1592年)や後金の胡乱(1636年)により身分制度が流動化し、李氏朝鮮末期には国民の当多数(地区によっては7割以上)が戸籍上両班階級(労働しない階級)となっていた。次第に国内が無能者だけになって行き、軍事力も経済力も衰退していくことになりました。
(3)中人(チュウイン)
低い官職の人や門地と呼ばれる家柄が高い人、教育を受けた人など経済的には常民と同じで農工商業を営んでいました。
科挙(文科・武科は受けられず雑科のみ受験可能)を受ける資格があり、おがあれば郷校にいくことも出来ました。
しかし両班に対して平伏する義務がありました。
外国語(中国語・モンゴル語・女真語・日本語)・医学・天文学・法律学など特殊技術・能力を持ち、世襲されることがほとんどであった。
両班以外で官僚になることができる階級だったが、法で高い官職に上がることができないように制限(正三品堂下まで)したため、大部分低い官職に留まってしまった人達である。
中人は兵役の免除、刑の減免、地租以外の徴税・賦役の免除と常民より優遇され、社会的特権として常民に道や宿の部屋を譲らせる権利やその他、家・衣服・墳墓・葬礼などに対して常民に比べ、さまざまな権利を有していた。
(4)常民(ジョウミン)
普通の庶民で 農業、工業、商業を営む者、学ぶことは禁止で科挙の受験資格がありませんでした。
常民はいわゆる自由人と理解できるが、苛酷な租税をかけられ両班から略奪を繰り返されていたのが実情である。賤民同様に支配される側の身分であった。
衣服も白のみで 家屋は門を作ることが禁止されていた。
(5)賤民(チョンミン)
最下層の階級で【奴隷】と分類される身分である。
李氏朝鮮は、奴婢の供給が無ければ国が存続しない奴隷制国家だったわけである。
賤民の区分やランク付は、李氏朝鮮時代の年代により多くの方法があり変化している。白丁、奴婢、倡優、僧侶、駅人・・・などがあった。
奴婢(ヌヒ)は奴隷である。国に属する官奴婢と個人(両班・中人)に属する私奴婢が存在した。男の奴婢を奴、女の奴婢を婢と呼ぶ。奴婢に人権など無かった。殺すのも、売るの、犯すのも、解放するのも所有者の気分次第であった。
僧侶は、李氏朝鮮の崇儒廃仏政策によって賤民階級に落とされた。廃仏政策の完は17世紀前半頃と思われる。この頃には城内に僧侶が立ち入る事が出来ず、両班の娘が仏教を信仰することも禁止されていた。僧侶は主に雑益・使役に酷使された。仏教の信仰との引き替えによるものである。16世紀末から17世紀前半の3度の戦乱による人口激減も関係しているだろう。
医女と妓生は主に官婢から選別されたものであるから(ただし、妓生は両班の娘から身を落とすケースがある)、官婢からり上がる数少ない手段であった。李氏朝鮮末期になると医女と妓生の区別が付かなくなるから事実上、妓生=医女である。官奴婢と言う人材プールも無くなっていたので李氏朝鮮末期の医女のレベルは祈祷を行う巫堂(ムーダン)レベルだったようである。
巫堂(ムーダン)は、朝鮮民俗宗教(鬼神信仰)の担い手である。その必要性から社会的地位は比較的高かったとされる。
倡優は芸人、駅人は飛脚や駅の保全雑務をする者
白丁はまさに不可触賤民で最下層とされ、特別の笠を被って明示することが義務があった。大体は、屠殺・皮工業・柳器作・内臓や骨などの煮込みスープを作ることを生業としていた。この階級は近づくことさえ嫌ったというから逆に官吏達の収奪にも会わなかったとも言われている。政変で追われた官僚が最後に逃げ込むのもこの白丁の村である。官吏の追求が緩くなるからであった。
白丁が受けた身分差別は、以下のようなものがある。

   1.族譜を持つことの禁止。
   2.屠畜、食肉商、皮革業、骨細工、柳細工以外の職業に就くことの禁止。
   3.常民との通婚の禁止。
   4.日当たりのいい場所や高地に住むことの禁止。
   5.瓦屋根を持つ家に住むことの禁止。
   6.文字を知ること、学校へ行くことの禁止。
   7.他の身分の者に敬語以外の言葉を使うことの禁止。
   8.名前に仁、義、禮、智、信、忠、君の字を使うことの禁止。
   9.姓を持つことの禁止。
   10.公共の場に出入りすることの禁止。
   11.葬式で棺桶を使うことの禁止。
   12.結婚式で桶を使うことの禁止。
   13.墓を常民より高い場所や日当たりのいい場所に作ることの禁止。
   14.墓碑を建てることの禁止。
   15.一般民の前で胸を張って歩くことの禁止。

『白丁』とは?
 日本所在の朝鮮「屠戸籍」について 山内民博
『日本所在の朝鮮「屠戸籍」について』諸:山内民博 71~72ページを引用
屠漠とは屠牛を生業とする人々の称で、その生業の系譜をたどると、髙麗時代に屠牛と柳器製造に従事した禾尺才人にさかのぼる。禾尺才人は、定住せず流移した集団で、ときに醇畢禾尺と異種族祝されることもあったが、朝鮮時代に入り生業とした人々は、自丁という呼称とともに、皮匠・柳器匠といった工匠名で呼ばれるようになり、十九世紀には屠牛従十五世紀には、国家により自丁(自丁)と改称され、定住化が図られた。十六世紀以降、屠牛・皮革製造・柳器製造を生業とした人々は、自丁という呼称とともに、皮匠・柳器匠といった工匠名で呼ばれるようになり、十九世紀には屠牛従事者に対し屠漠(屠汗)という名称がしばしば用いられた。朝鮮時代における屠漠の身分的・社会的位置や生業の実態はほとんど解明されていないが、かれらが鷹視・差別を受けていたことは断片的に知られており、また牛皮は十人世紀末葉以降、日本に輸出された商品でもあった。かれらへの膿視・差別は近代に入っても続き、植民地期には衡平運動と呼ばれる解放運動が展開されたことは知のところであろう。