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東明聖王(朱蒙)とその子達

3.東明聖王(朱蒙)とその子達

高句麗の建国(紀前37年)

東扶余(トンプヨ)の王である解夫婁(ヘブル)は年を重ねても息子に恵まれなかった。そのため、霊験あらたかな名山と聞けばどこへでも出かけ息子を授かるよう祈祷した。そうしたある日のこと、解夫婁が祈祷を終えて家に戻る途中鯤淵という小さな川のほとりまで来ると解夫婁が乗った馬が歩みを止め、そばにあった大きな石を見て涙を流し始めた。解夫婁は何事かと思いながら、部下にその石を退かさせる。すると石の下には色の光を放つ蛙の形をした小さな子供がいた。それを見た解夫妻は天が願いを叶えてくれたと考え、その子を蛙(クムワ)と名付け自身の後継者にしようと考えた。
そしてその通りに、解夫婁が亡くなると蛙は王となった。

ある日、大きくなった蛙王が太白山の南の優渤水に狩りに出かけるとそこで美しい娘にあった。蛙王は娘に何故このような所にいるのかと尋ねる。すると娘は「私は河伯(ハベク)という者の娘で柳花(ユファ)と言います。ある時、私が弟たちと遊んでいると天帝の子の解慕漱(ヘモス)と名乗る男が現れ、私と結婚すると言い放ったまま戻ってきません。この事を知った私の両親が私をここに寄したのです。」と答えた。
蛙王は柳花を気に入り宮に連れ帰ったが、ある時から陽の光が柳花を追い掛け始めた。柳花が部屋へ入れば陽の光も部屋に入り、扉を閉めても陽の光は隙間から入って柳花を照らすのだった。
そんな中しばらくすると柳花は懐妊し、やがて大きな卵を産む。蛙王はこれを良くない前兆だと考え卵を犬や豚に与えたが、犬も豚も決して食べようとはしなかった。それならと今度は道に捨てたが牛や馬も卵を避けて通り、野に捨てればあらゆる鳥たちが寄って来て卵を守ろうとするのだった。
これを見た蛙王は更に不審に思い、いっそ卵をたたき割ってしまおうとも試みたがついぞ卵が割れることはなく万策尽きた蛙王は仕方なく卵を柳花へ帰してやった。柳花は卵を布で包んで暖かい所に置き、大切に見守った。すると数日後、卵から気な男の子が生まれた。子供はすくすくと健康にそして賢く育ち、7歳になると自ら弓と矢を作るほどになった。

蛙王には全部で7人の息子たちがいたが、柳花の息子に勝る者は一人もなかった。この子はあらゆる面で優れていたが特に弓使いが達者で、そのことから朱蒙(ジュモン)と呼ばれるようになった。(当時扶余では弓の名手を朱蒙と言った)
蛙王の長男・帯素(テソ)はそんな朱蒙を疎ましく思い、王に朱蒙を亡き者にしようと建議した。そんな帯素の思惑に対し王はいつまでも明確な答えを出そうとはしなかった。王は内心、朱蒙を何よりも大切に思っていたのである。しかしそうした囲の状況を察した朱蒙は次第に警戒を強めていった。
王子やその家臣たちの多くが朱蒙を疎ましく、恨めしく思う様になっていることを知った柳花夫人は、そうした人々に襲われる前に朱蒙を遠くへ逃がそうと考え、朱蒙は心から信頼できる者数名と共に南方へ向かった。
それを知った扶余の人々はすぐに軍隊に朱蒙一行を追い掛けさせたが捕らえる事は出来なかった。
朱蒙は奄利水(今の鴨緑江の東北部)に着くと「我は天帝の子・河伯の孫である! 橋が無くて河を渡ることが出来ず、後ろからは敵が追ってきているがどうしたら良いか!」と叫んだ。すると、河の中から多くの亀が出て来て道を作ってくれた。
  
無事に奄利水をえた朱蒙一行は鴨緑江の中流地域である卒本に拠点を置き、国作りを始めた。この国が高句麗であり朱蒙は即ち、高句麗の始祖・東明聖王である。朱蒙22歳、時は紀前37年のことであった。
卒本は高い山と渓谷の多い所であったが河川沿いに広がる土地は肥沃で、多くの国々と隣接しており、高句麗の征服活動と膨張には格好の条件が揃っていた。朱蒙は旺盛な征服欲で付近の松譲国・人国・北沃沮などの国を併合すると、その評判を聞いて辺の国々が進んで高句麗に集まって来る様になっていった。

沸流と温祚 百済の建国(紀前18年)

高句麗(コグリョ)・百済(ペクチェ)・羅(シンラ)の三国の中で一番あとに建てられた百済は、東明聖王の息子である温祚が建てた。東明聖王には3人の息子がいた。その内、北扶余を出る前に結婚した禮氏から生まれたのが長男琉璃(ユリ)、卒本扶余で結婚した後に生まれたのが沸流(ピリュ)と温祚(オンジョ)である。
北扶余を出て南下した朱蒙が卒本扶余に入ると、その地の王は朱蒙の類まれな才能を見抜き、自分の2番目の娘と結婚させた。そうして生まれたのが沸流と温祚である。朱蒙が高句麗を建て東明聖王となり国の拡張を図っていた頃、琉璃が父を訪ねて来て太子となった。
ある時、沸流と温祚は烏干・馬黎など10余名の臣下を連れたに国を建てるべくその地を求めて旅に出し、この事を知った多くの農民達は普段から二人の王子を大変慕っていたので自ら彼らについて行った。
二人の王子は山(現在の北漢山)と負兒嶽(三角山)に来て地形を調べた後、河南の地に来た。すると家臣たちは「北には水(江)が在り、東には高い山、南には肥沃な土地が、西には大きな海が在る。この地こそ最も都にするにふさわしい土地と言えます」と、河南城を都とする様二人に請うた。
温祚は臣下の申し出を受け入れ河南を都にしようと決めたが兄の沸流は聞き入れなかった。結局、沸流と温祚はここで決別し、一緒に来た農民達も二つに分かれた。
温祚は河南の慰禮城(現在のソウル市江東区一帯)を都と決め国の名前を十済とし、沸流は彌鄒忽(現在の仁川)に行きそこを都と決めた。しかし彌鄒忽は、海にあまりに近く塩分が多いため植物が育ちにくく、多くの人が暮らす地としては適していなかった。喜んでついてきた農民達の間にも次第に沸流を恨む声が強まり、こっそり河南に移って行く人が増えていった。
ある時沸流は弟がどの様に国作りをしているのか気になり様子を見に行くことにした。するとそこは既に都としての体面が整っており、農民達の表情は安心しきっていた。それを見た沸流は自分の判断が間違っていたことを悟り後悔の内に命を落とすこととなる。沸流について来た農民達は全て十済に来ることとなった。農民達が増えると、温祚は国の名前を百済と替え、高句麗と同じく扶余から来た事から姓を扶余とし、東明聖王の祠堂を建てた。

以上が百済の建国に関する話である。この話と一緒に伝えられている百済建国の別の話として、富軾が書いた三国史記には次のような内容が伝えられているがどちらが正しいかは明らかでない。
 
『卒本扶余の部族長である延陀勃の娘である召西奴(ソソノ)は北扶余王の解夫婁の庶孫である優台と結婚して沸流と温祚を産むが、優台が死ぬと卒本に戻って暮らした。そうした中、朱蒙が卒本扶余に定着するようになり召西奴は朱蒙と再婚をした。朱蒙が高句麗を建国して王となると、北扶余から朱蒙の息子である琉璃が訪ねて来て太子となる。すると召西奴は二人の息子を連れて南下し別の国を作る。その国こそが百済である。
兎にも角にも、百済を建国した温祚は熱心に領土を拡大させ建国13年目には百済の領土は、北には河(禮江)、東には走壌(春川)、南には熊川(公州)、西には仁川の海辺までを占めた。しかし、翌年になると温祚は都を今の南山城に移してしまう。理由は楽浪と靺鞨がしきりに侵犯してきた為であった。』