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[南北朝(386~589)]
⇒北朝(北,東,西,北,北),南朝(,,,),柔然,高昌
[(502~556)]
[]武帝(蕭衍)-簡文帝(蕭綱)-豫章王(蕭棟)-帝(蕭繹)-敬帝(蕭方智)
[後]宣帝(蕭詧)-明帝(蕭巋)-後主(蕭琮)
蕭衍(464~549)
  の武帝,高祖⇒。
范雲(451~503)
  字は彦竜。南郷郡舞陰の人。はじめに仕えて郢州の西書佐となり、に入って竟陵王・蕭子良に仕えて主簿をつとめた。「竟陵の八友」のひとりとなる。永明十年(492)、北に使いして、零陵内史に進んだ。郡に赴任して、減税をおこなったので、百姓は喜んだという。始興内史・散騎侍郎・広州刺史・侍中と累進した。末には国子博士となった。のち蕭衍の挙兵に参加した。蕭衍が帝位につくと、の散騎常侍・吏部尚書となり、霄城県侯に封ぜられた。尚書右僕射に上った。
江淹(444~505)
  字は文通。済陽郡考城の人。江康之の子。幼くして父が没し、貧困に苦しんだ。の武帝のとき、南徐州従事に任官した。昇明初年、蕭道に才能が聞こえて、召されて尚書駕部郎・驃騎参軍事となった。に入って、典国史となった。少帝の初年、御史中丞を兼ね、謝朏・劉悛らを弾劾した。末には秘書監・尉に上った。に仕えて、散騎常侍・紫光禄大夫に上り、醴陵侯に封ぜられた。『史』の十志を著した。少年のころ文章で知られたが、晩年には才が衰えたので、「江郎才尽」と称された。『江醴陵集』。
任昉(460~508)
  字は彦昇。楽安郡博昌の人。はじめの丹陽尹主簿をつとめた。に入って竟陵王・蕭子良のもとで記室参軍をつとめ、「竟陵の八友」のひとりとなる。司徒右長史に累進した。蕭衍が起兵して建康に入ると、驍騎記室参軍となり、沈約とともに文翰を宰領し、詔書の起草にあたった。蕭衍がの武帝として即位すると、義興太守・吏部郎・御史中丞・秘書監などを歴任した。宮中の図書古籍の修訂や四部目録の作にあたった。天監六年(507)に安太守となり、翌年に任期中に没した。『述異記』、『文章縁起』。
景宗(457~508)
  字は子震。野の人。末に天水太守となった。顕達の北伐に従って馬圏を囲んだとき、二千の兵で伏兵を設け、北の援軍四万人を破った。の明帝のとき竟陵太守となった。永三年(501)、蕭衍が雍州で起兵すると、王茂とともに先鋒をつとめ、軍を破った。散騎常侍・右将軍となる。郢州刺史に進んだ。が建てられてもそのまま郢州に鎮したが、州にあって収奪がひどく、部下の素行も悪かったので、民衆に嫌われた。天監二年(503)、北が司州を攻めたとき、援軍を出さず、司州が失なわれた。召されて護軍将軍となった。五年(506)、北の中山王の軍が鍾離を囲むと、豫州刺史の韋叡とともにこれを大いに破った。侍中・領軍将軍に上った。江州刺史として赴任途中に没した。妓妾数百人をかかえ、財貨には貪欲だったという。
沈約(441~513)
  字は休文。興郡武康の人。はじめに仕えて、奉朝請をつとめた。に入って、竟陵王・蕭子良の西邸で遊び、「竟陵の八友」のひとりとなる。末に南河太守に任ぜられた。のち、蕭衍の起兵に参加した。蕭衍がの武帝として即位すると、尚書僕射、次いで尚書令にまで上った。建昌県侯に封ぜられた。史家として『宋書』を編纂した。また、詩作しては永明体を実践し、詩歌の音律について「四声八病」の説を唱えた。『沈陰侯集』、『晋書』、『紀』。
王茂(456~515)
  字は休遠、または茂先。太原祁県の人。末に奉朝請に任官した。末に江州刺史となった。永三年(501)、蕭衍が雍州で起兵すると、景宗とともに先鋒をつとめ、軍を朱雀航の南で破った。建康を平定すると、侍中・領軍将軍となる。天監年(502)、江州刺史伯之が叛すると、征南将軍・江州刺史となってこれを討った。江州にあって農業を振興し、課役を省いて、百姓は安寧を得た。尚書僕射・司空に上った。八年(509)、再び江州刺史となり、のち州において没した。
柳惲(469~518)
  字は文暢。河東郡解県の人。柳世隆の子。尺牘や碁に巧みで、琴の名手であった。の竟陵王蕭子良に認められて、法行参軍となり、太子洗馬・驃騎従事中郎・国右司馬に上った。またに仕えて、長史・侍中・興太守・秘書監・左軍将軍などを歴任した。のちに興太守として赴任して、善政を布いた。詩作して、「登景陽楼」を武帝に奉じて賞讃を受けた。また沈約らとたな韻律を定める上で貢献した。『調論』。
鍾嶸(469~518)
  字は仲偉。潁川郡長社の人。の永明年間に国子生となる。秀才に挙げられ、王国侍郎に任ぜられた。のち安国令となった。に入って、安王・蕭綱の記室をつとめた。以来の五言詩の優劣を論じ、『詩評』にまとめた。
何遜(?~518)
  字は仲言。東海郡郯県の人。何承天の曾孫にあたる。二十歳のとき、秀才に推挙された。そのときの答案を見た范雲は大いに感嘆して、「忘年の交」を結んだ。の天監年間に奉朝請となったのを初任として、尚書水部郎・廬陵王記室などを歴任した。文は劉孝綽と並び称され、詩は陰鏗と並び称された。『何記室集』。
僧祐(445~518)
  俗姓は兪。彭城郡下邳の人。十四歳のとき出家し、定林寺の法達や建初寺の法穎に師事して学んだ。律部・蔵部に通じた。晩年には僧俗の門徒が一万一千余人に及んだという。『弘明集』、『釈迦譜』。
均(469~520)
  字は叔痒。興郡故鄣の人。天監年間に郡主簿となり、のちに奉朝請に上った。『春秋』を私撰し、『後漢書』に註した。また詩人としても有名で、「均体」は多くの追随者を生んだ。『朝請集』。
韋叡(442~520)
  字は懐文。京兆郡杜陵の人。の泰始年(465)、雍州主簿に任ぜられた。末には建威将軍・上庸太守となり、蕭衍と交わりを結んだ。蕭衍が起兵すると、郢州の留守をつとめた。初には輔国将軍・豫州刺史となった。天監四年(505)、兵を率いて北伐し、翌年には合肥を攻め落とした。六年(507)、北が反攻して中山王英率いる大軍が鍾離を囲むと、豫州の兵を率い、征北将軍の景宗の軍と合して、北軍を火攻し大勝を博した。この功で永昌侯に封ぜられた。散騎常侍・護軍将軍にまで上った。体が弱く騎馬に乗れず、輿に乗って督戦し、の人はかれを畏敬して「韋虎」と称した。
興嗣(?~521)
  字は思簒。郡項県の人。家は代々姑熟に住んだ。のとき秀才に挙げられ、桂陽郡丞に任ぜられた。に入って、給事中となった。『皇帝実録』、『皇徳記』、『起居注』などを著した。また『千字文』を撰して、今に伝わっている。
王僧孺(463~522)
  東海郡郯県の人。の侍中・王粛の八世の孫にあたる。若いころは貧しかったが、学問に励み、の太学博士となった。の天監初年、南海太守に任ぜられて赴任し、在郡二年の間に治績を挙げた。召されて中書侍郎となり、著作を領し、『起居注』、『中表簿』を撰した。のちに遊撃将軍・御史中丞に上った。また南安王のもとで諮議参軍となり、まもなく病没した。『十八州譜』、『百家譜』。
捨(469~524)
  字は昇逸。汝南郡安の人。はじめの太学博士をつとめた。に入って、尚書祠部郎に任ぜられた。尚書省内を累進し、機密に参与し、武帝の治世の前半を支えた。官は太子詹事に終わった。『書儀疏』、『正覧』。
蕭琛(478~529)
  字は彦瑜。南蘭陵郡の人。蕭恵開の甥にあたる。はじめの太学博士となり、丹陽尹王倹のもとで主簿をつとめた。北に使いして帰還すると、通直散騎侍郎となった。累進して尚書左丞となった。に入ると、武帝と旧交があったため取り立てられ、御史中丞となり、江・宣城・興の太守を歴任した。左民度支二尚書・侍中にうつった。特進・紫光禄大夫に任ぜられた。つねに「少壮にして三好あり、音律・書・酒なり。年長じて以来、ただ書籍のみ衰えず」と言っていた。『漢書文府』、『拾遺』を撰し、諸文集合わせると数十万言を残したという。
蕭統(501~531)
  字は徳施。の昭明太子。の武帝(蕭衍)の長男。母は丁貴嬪。天監年(502)、皇太子に立てられた。幼いころから聡明で、五経を暗誦したという。文学を好み、東宮には蔵書三万巻を集め、名士と交遊して、文学の盛行は以来最高潮となった。仏教に帰依し、質倹につとめた。政務を処理して、刑罰を公平に下したので、称賛された。中大通三年(531)、池で遊ぶうちに転落して、それがもとで亡くなった。『文選』、『正序』、『文章英華』。
蕭綜(502~532)
  字は世謙。の武帝の次男。豫章郡王に封ぜられた。母の淑媛がの東昏侯の宮人から武帝に寵されたため、武帝の子ではない可能性を疑い、父に隔意をいだいた。普通六年(525)、彭城に鎮していたが、北に降った。名を賛と改め、字を徳文とした。南宗室の蕭宝寅が長安で叛したときは、おそれて逃亡し、官軍に捕らえられたが、乱との無関係が証されて釈放された。孝荘帝のとき、太尉となり、帝姉の寿陽公主をめとった。のち州刺史として赴任したが、城民のに追われるところとなり、僧形に変装して逃れて陽平に潜伏したが、病にあって亡くなった。のちにの人に遺骨が盗まれて江東に帰り、武帝の子としての格式で蕭氏の墓に葬られた。
劉勰(465?~532?)
  字は彦和。東莞郡莒県の人。家は代々京口に住んだ。幼いころに孤児となった。の天監初年に奉朝請に任ぜられ、歩兵校尉・東宮通事舎人に上った。経学・仏理に通じて、昭明太子に重んじられた。のちに定林寺で出家して、慧地と号した。中国古典文学の理論書として『文心雕竜』を著した。
徐勉(466~535)
  字は修仁。東海郡郯県の人。はじめの国子生となった。のち西陽王のもとで国侍郎をつとめた。に入って官を累進し、天監七年(508)、吏部尚書となって選官にあたり、百官九品を定めて十八班に分けた。のち尚書僕射に任ぜられた。普通六年(525)、五礼を修訂し、官吏にこれを遵守させた。中書令を加えられた。顕位に上っても蓄財を行わず、「人は子孫に財を遺すが、我はこれに白を遺す」と言ったという。『流別起居注』、『会林』、『婦人集』。
陶弘景(452?~536)
  字は通明、号は華陽隠居。諡は貞明。丹陽郡秣陵の人。はじめ蕭道に仕え、諸王侍読・奉朝請などを歴任した。永明十年(492)、致仕して江蘇の句曲山に隠棲した。茅山派道教を開いた。の武帝よりたびたび出仕を請われたが固辞しつづけた。しかし、武帝の諮問には答え続けたので「山中宰」と称された。『真誥』の撰者。ほか『本草集注』。
蕭子顕(489~537)
  字は景陽。の豫章文献王蕭嶷の次男。蕭道の高帝)の孫にあたる。のとき寧都県侯に封ぜられた。学問を好み、文才に秀で、「鴻序賦」を著して沈約に讃えられた。の武帝にその才を愛され、中大通三年(531)、国子博士となった。次いで国子祭酒に遷り、侍中・吏部尚書に上った。大同三年(537)、仁威将軍・興太守となったが、まもなく没した。『南書』、『普通北伐記』。
劉孝綽(481~539)
  名は冉。孝綽は字。幼いころから聡明で、神童と称された。天監初年、著作佐郎に任ぜられた。太子舎人に進み、尚書水部郎に転じた。昭明太子・蕭統に重んじられ、その文集の序文を作った。員外散騎常侍・廷尉卿に上った。才能を恃むこと多く、五度にわたって免官され、官は秘書監に終わった。
皇侃(488~545)
  郡の人。学問を好み、賀瑒に師事し、三礼や『孝経』や『論語』に通じた。はじめ国子助教をつとめた。のち員外散騎侍郎に上った。『礼記講疏』、『論語義疏』。
朱异(483~549)
  字は彦和。郡銭塘の人。五経を修め、雑芸に通じた。二十一歳のとき、揚州議従事史となる。の武帝に寵遇を受け、尚書議郎・中書通事舎人・中領軍などを累進した。国政の枢機に参与し、徐驎・陸験らとともに専権を貪って、士人に恨まれた。太三年(547)には、武帝の意におもねって侯景の帰順を容れるのに賛同した。翌年には東と結んで、侯景を孤立に追いやり、その謀反をまねいた。侯景は朱异を討つことを乱の名分としていた。侯景の軍が建康を攻め、台城を囲むと、慚憤やまず病をして没した。
蕭子雲(487~549)
  字は景喬。の豫章文献王・蕭嶷の九男。三十歳のとき、秘書郎に任ぜられた。末に侍中・国子祭酒に上った。侯景が乱を起こすと陵に逃げ、餓死した。『晋書』、『東宮記』。
王筠(482~550)
  字は礼。瑯邪郡臨沂の人。王僧虔の孫にあたる。はじめ臨川王行参軍をつとめ、太子洗馬・中舎人に累進した。文章と声韻にすぐれ、昭明太子に重んじられて、太子詹事に上った。尚書吏部郎・太子中庶子・司徒左長史・臨海太守・太府卿・度支尚書を歴任した。
庾肩吾(?~550?)
  字は子慎。南陽郡野の人。はじめ安王・蕭綱(のちの簡文帝)の国常侍となった。蕭綱に従って各地に赴き、記室参軍などをつとめた。蕭綱が皇太子となると東宮通事舎人を兼ね、のちに太子中庶子に上った。侯景の乱が起こり、蕭綱が帝位につくと、度支尚書となった。侯景の命で江州に赴き、当陽公・蕭大心に投降を勧めたのち、江陵に逃れた。江州刺史となり、武康県侯に封ぜられた。その地で没した。『書品』、『采璧』。
徐擒(474~551)
  字は士秀。東海郡郯県の人。はじめ太学博士となり、左司馬に進んだ。のち安王・蕭綱の侍読をつとめた。蕭綱が皇太子となると、家令をつとめた。中大通三年(531)、安太守となった。のち中庶子・太子左率に上った。侯景の乱が起こり、蕭綱が簡文帝として擁立されたのち廃されると、間もなく病没した。文章にすぐれ、子の徐陵や庾信とともに文体を創始した。
侯景(503~552)
  字は万景。懐朔鎮の人、あるいは雁門の人。はじめ爾朱栄に属して葛栄を討つのに従い、のち高歓の麾下に入って爾朱氏を誅するのに従った。東のとき、司徒・南道行台に上り、兵十万を擁して河南に鎮した。西との戦いに功績を挙げたが、高歓が死ぬと高澄にうとまれ、河南を挙げての武帝(蕭衍)に帰順した。しかし、慕容紹宗率いる東軍が侯景との連合軍を破ると、東は和平したため、侯景は孤立した。そのため太三年(549)、の臨賀王・蕭正徳と結んで叛乱を起こし、建康を奇襲包囲した。の援軍が互いに猜疑しあって傍観している間に、建康を陥落させ、武帝を幽閉した。武帝が崩ずると、蕭綱(簡文帝)を擁立し、国・宇宙大将軍・都督六合諸軍事を自称した。大宝二年(551)、簡文帝を廃して蕭棟を立て、その禅譲を受けるかたちで帝位につき、国号をとした。しかし翌年、王僧弁・覇先らの率いる勤王軍が起こり、これに敗れて建康を失陥し、海上に逃れたところ妻の兄にあたる羊鯤に殺された。
僧慧皎(496~554)
  字は君白。会稽郡上虞の人。内外の学問に通じ、広く経や律を読み、会稽嘉祥寺に住持した。春には法を広め、秋冬には著述をなしたという。天監十八年(519)、『高僧伝』を著して中国仏教史上の名僧の記録を残した。また『浬槃義疏』を撰した。の末年、侯景の乱を避けて、湓城にいたり、そこで寂した。
王僧辯(?~555)
  字は君才。太原郡祁県の人。天監年間に、父に従って北よりに投じた。はじめ、湘東王のもとで国左常侍をつとめた。竟陵太守となり、大宝年(550)には湘東王蕭繹の命を奉じて、河東王・蕭誉を長沙において破り、左将軍となった。さらに郢州を落とし、領軍将軍に進んだ。翌年、大都督の位を加えられ、侯景を討って巴陵において破った。また覇先と会盟した。三年(552)、建康を陥落させ、大規模な掠奪をおこなったので、名声が失墜した。蕭繹を擁立して帝とし、鎮将軍・尚書令に上った。西征して湘州の陸納や益州の蕭紀らを討った。北軍に大勝して、功績により太尉・車騎大将軍に上った。帝が没すると、覇先とともに蕭方智を奉じて、太宰となった。のち、北が蕭淵明をの君主とするよう送ってきたため、それに従い、あくまで蕭方智を支える覇先に攻められ殺された。
丁覘(?~555)
  荊州洪亭の人。はじめ湘東王蕭繹のもとで書記をつとめた。尚書儀郎となり、安王蕭綱のもとで侍読となった。文章をよくし、隷書にたくみだった。『夢書』、『千字文』。
蕭詧(519~562)
  字は理孫。後の初代中宗宣帝。在位555~562。昭明太子・蕭統の三男。中大通三年(531)、岳陽郡王に封ぜられた。東揚州刺史として、会稽に鎮した。中大同年(546)、雍州刺史となって、襄陽に遷った。太三年(549)、兄の河東王・蕭誉が湘東王・蕭繹に攻められ、救援のため兵を率いて江陵に討って出たが、敗北した。進退きわまって、西の藩国を称した。承聖三年(554)、西が江陵を討つのに従った。江陵が平定されると、翌年には主として立てられた。江陵一州を西より与えられて、西の正朔を奉じた。永定二年(558)、王操を遣わして、長沙・武陵・南平などの郡を攻め取った。華厳・般若などの経典義疏を撰した。
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