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(読み)スワエ

戦国七雄の一。

中国の国名。春秋戦国時代の国。揚子江中流域を領有し、都は郢(えい)。春秋中期にはなどを圧迫し、と対立。荘王は中原の覇者となったが、前223年、に滅ぼされた。

五代十国の一。

許州の馬(ばいん)が後から招じられて、927年に建国。951年に南に併合されて滅亡。

の旧領に建国。

滅亡後の1127年、1か月余りで滅亡。

3 中国古代の国名。「囚/四面歌」

春秋時代春秋戦国時代)の侯国。

(1)中国,長江の中流域を本拠とし,前7世紀から北方に進出,荘王は前606年,との境上に至り,鼎(かなえ)の軽重を問うた。前597年には中原に覇を唱え,以来100年,北方のと南北に対立。戦国の七雄の一つとして重きをなしたが,に圧迫され,前223年滅ぼされた。

五代十国の一つ。

(2)中国,長沙を中心に湖南による。907年馬(ばいん)が後)から王に封ぜられて建国。951年南に滅ぼされたが,956年馬氏配下の氏がいったん復興。これをが963年併合した。

五代十国の一つ。907‐951年。

中国,木工出身の馬(ばいん)が湖南に建てた国。後から王に封ぜられ,その後も中原五代王朝に服属の態度をとって皇帝号を称さなかった。それは東に(南),南に南といった十国中の強国と境を接していたことによる。鉛鉄銭の鋳造や茶栽培の奨励など富国策にみるべきものがあるが,馬の20人を超える諸子間の権力争いが激しく,まもなく4勢力に分裂し,南の支配,馬氏配下の部将行逢の自立を経て,に併合された。

戦国七雄の一つ。?‐前223年。

中国,春秋時代の侯国。代には河南南西部にあり,西周時代には丹陽(湖北秭帰(しき)県)に都を置き,と対峙し,昭王の征伐を受けた。のち都を郢(えい)(湖北江陵県)に移す。春秋時代には湖北・河南南部を収め,北のと対立,前597年荘王はを泌(河南)で破り,一時覇権を握った。戦国時代にも南方の雄として,北の諸国と対立したが,の圧迫を避け,都を(河南淮陽(わいよう)県),鉅陽(きよよう)(安徽阜陽県),寿春(安徽寿県)と東に移し,前249年にはを滅ぼした。

春秋戦国時代

中国の国名。
①に長江中流域を領有していた国(?~前223)。春秋中期に五覇の一人荘王を出し、また戦国七雄の一として覇を争ったが、に滅ぼされた。中原諸国と種族・文化を異にしていた。

五代十国の一。

②馬ばいんが後こうりようから王に封ぜられて建国(907~951)。湖南を中心に広西の北部を支配。南に滅ぼされた。

中国の国名。
[一] 戦国七雄の一つ。揚子江中流域を領有し、戦国中期までや晉などの諸国と覇を争った。のちの圧迫を受け本拠を東に移したが、前二二三年、に滅ぼされた。中原の諸国と風俗、言語を異にし、民族からは蛮夷の国とみなされた。戦国末の「辞」は地方色を示す文学作品として知られる。
[二] 末の六一六年、林士弘が江南・嶺南地方に建てた国。六二二年、に滅ぼされた。
[三] 五代十国の一つ。長沙を中心に湖南に拠った政権。許州(許昌)の人、馬が後から王に封ぜられて九〇七年に建国。九五一年、六代で南に滅ぼされた。
[四] 北滅亡後の一一二七年、の旧領に建てた国。一か月余で滅亡。

春秋戦国時代の国 ?〜前223
五代十国の1つ 907〜951
③北滅亡後の1127年,の旧領に建てた王朝
現在の湖北省江陵 (こうりよう) 付近におこった。前8世紀に王号を称し,河南に領土を広げ,前7世紀末には荘王(在位前613〜前591)が春秋の五覇 (ごは) のひとりとなった。前506年,のために壊滅的打撃を受けたが,前4世紀初め悼 (とう) 王のとき強盛となり,中原の覇者となった。のちの圧迫を受け,前223年滅亡。
始祖馬 (ばいん) が長沙 (ちようさ) を本拠として建国。湖南全体と広西の北部を領有,富強を誇った。希範の死後,兄弟間の続争いが続いて国力が衰え,南に滅ぼされた。
1か月余で滅亡。

春秋戦国時代】より
…前半の大半の期間のことが国の年代記《春秋》に,後半のことが《戦国策》とよぶ書物に書かれているからである。前453年で二分するのは,春秋の大国の家臣であったの3代が主家を三分独立し,は事実上滅亡し,以後戦国の七雄といわれるの対立抗争の時代となるからである。
歴史
 《史記》によれば,春秋初めには140余の小国が分立していたが,勢力のあったのは,(山東省曲阜),(山東省臨淄(りんし)),(山東省定陶),(河南省淇県,のち滑県),(河南省),(河南省商丘),(河南省淮陽(わいよう)),(河南省上,のち,さらに安徽省鳳台),(山西省曲沃),(陝西省鳳翔,のち咸陽),(湖北省江陵,のち河南省淮陽,安徽省寿県),(北京市)の十二諸侯であり,洛陽には王室があった。…

(前11c.~前223)]

西周,東周,春秋,戦国,,,,,,,,,,,,,,,,,
鬻熊-熊麗-熊狂-熊繹-熊艾-熊タン-熊勝-熊楊-熊渠-熊摯紅-熊延-熊勇-熊厳-熊霜-熊徇-熊咢-若敖(熊儀)-霄敖(熊坎)-蚡冒(熊眴)-武王(熊通)-文王(熊貲)-荘敖(熊艱)-王(熊惲)-穆王(商臣)-荘王(侶)-共王(審)-康王(招)-郟敖(員)-霊王(囲)-王(比)-平王(熊居)-昭王(珍)-恵王(章)-簡王(中)-声王(当)-悼王(熊疑)-肅王(臧)-宣王(熊良夫)-威王(熊商)-懐王(熊)-頃襄王(横)-考烈王(熊)-幽王(悍)-哀王(猶)-負芻
鬻熊(?~?)
  季連の末裔。の文王(姫昌)の師をつとめたという。の国祖にあたる伝説的人物。
熊繹(?~?)
  熊狂の子。王のとき、子となり、羋姓を賜った。丹陽に住んだ。
熊渠(?~?)
  熊楊の子。長江と水の間の地を平定し、庸族や楊粤を討って、鄂にいたった。蛮人を自称し、王に朝覲しなかった。長男の毋康を句亶王に、次男の摯紅を鄂王に、三男の執疵を章王に封じた。の厲王のとき、による征伐を恐れて王号を称するのをやめた。
熊摯紅(?~?)
  熊渠の次男。熊渠により鄂王に封ぜられた。熊渠が亡くなると、その跡を継いだ。弟の熊延に殺された。
熊延(?~?)
  熊渠の子。熊摯紅の弟にあたる。熊摯紅を殺して立った。
熊勇(?~前838)
  在位前848~前838。熊延の子。熊延が亡くなると、その跡を継いだ。
熊厳(?~前838)
  在位前838~前828。熊延の子。熊勇の弟にあたる。熊勇が亡くなると、その跡を継いだ。
熊霜(?~前822)
  伯霜。在位前828~前822。熊厳の長男。熊厳が亡くなると、その跡を継いだ。
熊徇(?~前800)
  季徇。在位前822~前800。熊厳の四男。長兄の熊霜が亡くなると、次兄の仲雪・三兄の叔堪と争い、仲雪は死に、叔堪は濮に亡命して、位を継いだ。
熊咢(?~前791)
  在位前800~前791。熊徇の子。熊徇が亡くなると、その跡を継いだ。
若敖(?~前764)
  熊儀。在位前791~前764。熊咢の子。熊咢が亡くなると、その跡を継いだ。ときに王室が衰え、諸侯の力が強まった。
霄敖(?~前)
  熊坎。在位前764~前758。の若敖(熊儀)の子。若敖が亡くなると、その跡を継いだ。
蚡冒(?~前741)
  熊眴。在位前758~前741。の霄敖(熊坎)の子。霄敖が亡くなると、その跡を継いだ。
の武王(?~前690)
  熊通。在位前741~前690。の霄敖(熊坎)の子。蚡冒(熊眴)の弟にあたる。蚡冒が亡くなると、蚡冒の子を殺して、跡を継いだ。三十五年(前706)、軍を率いて随を攻撃し、爵位を上げるための工作を随に強要したが、随の仲介にもかかわらず王は認めなかった。熊通は怒って、自ら王号を名乗った。随と盟を結び、濮の地を領有した。のちに鄧・鄖・絞を討って破り、また権を滅ぼした。の強盛はかれの代より始まった。五十一年(前690)、王が随侯を召して、に王号を名乗らせたことを問責した。は随がに寝返ったものと決めつけ、随を攻撃した。その陣中で武王は亡くなった。
の文王(?~前677)
  熊貲。在位前690~前677。の武王(熊通)の子。武王が亡くなると、その跡を継いだ。郢を都とした。二年(前688)、申を攻撃した。六年(前684)、を討ち、の哀侯を捕らえたが、まもなく解放した。十二年(前678)、鄧を滅ぼした。
の荘敖(?~前672)
  熊艱。在位前677~前672。の文王(熊貲)の子。文王が亡くなると、その跡を継いだ。五年(前672)、弟の熊惲を殺そうとして、かえって自分が殺された。
王(?~前626)
  熊惲。在位前672~前626。の文王(熊貲)の子。荘敖(熊艱)の弟にあたる。荘敖に殺されそうになって、随に亡命し、随人の助力をえて荘敖を殺し、位を継いだ。国人に恩恵を施し、諸侯と友好を固め、王に貢献した。十六年(前656)、の桓公の軍が侵入した。王はから王へ賦を送ることを桓公に約して、軍の撤退をさせた。許を討ち、黄を攻め、英を滅ぼした。三十三年(前639)、の襄公が諸侯を招集すると、王も盂にいたり、公を捕らえて辱め、に送り返した。三十五年(前637)、の重耳をもてなし、に送り出した。三十九年(前633)、の要請を受けてに出兵し、穀を落として公子雍を住まわせた。また祝融と鬻熊の祭祀を怠ったことを理由に夔を滅ぼした。を攻撃し、と城濮で戦って敗れた。四十六年(前626)、太子の商臣を廃そうとして、かえって商臣の兵に包囲された。熊の掌の肉を食べさせてほしいと懇願したが許されず、自縊を強いられた。
の穆王(?~前614)
  名は商臣。在位前626~前614。王(熊惲)の子。太子に立てられたが、のちに王が弟の職を太子にしようとしたため、潘崇の助言を受け、兵を率いて王を囲み、自殺に追いこんだ。即位し、潘崇を太師に任じて国政を執らせた。三年(前623)、江を滅ぼした。翌年、六と蓼を滅ぼした。八年(前618)、軍を率いてを討ち、次いでを攻撃した。に帰附させた。翌年、を帰附させて、孟諸で諸侯と狩猟した。同年、謀反の罪で大夫の子西・子家を誅した。十年(前616)、軍を率いて麇を討ち、鍚穴にいたった。翌年、舒の諸国がに叛いたので、子孔に兵を率いて鎮圧にあたらせて、舒の君と宗の君を捕らえさせた。次いで巣を囲ませた。
の荘王(?~前591)
  名は侶。在位前614~前591。の穆王(熊商臣)の子。即位して三年の間、無為に過ごし、歓楽をきわめ、諫める者は死罪にすると触れを出した。臣下の伍挙が参内し、荘王に謎かけを出した。「鳥がいて、三年たっても飛ばず鳴かず、これは何の鳥でしょう」。荘王は答えて、「三年間は飛ばなかったが、飛び上がったときには天に届く。三年間は鳴かなかったが、その鳴く声に人は驚く」と答えた。しばらくして、荘王は放蕩をやめ、放蕩を勧めた家臣を粛正し、彼をいさめた家臣を昇進させた。伍挙や蘇従らに国政を分担させた。その後、庸を滅ぼし、を攻め、戎を討って、洛水にいたり、の都に対して兵力を示威した。そのとき、の定王の使者に朝に伝わる「鼎の軽重を問う」た。帰国して若敖氏を討ち、舒を滅ぼし、を攻めた。を救援したの軍と黄河のほとりで決戦し、大勝した。また、の使者を殺したの城を包囲したが、の華が食糧が尽きた窮状を訴えると、軍を退いた。
の共王(?~前560)
  名は審。在位前591~前560。の荘王(熊侶)の子。荘王が亡くなると、その跡を継いだ。十二年(前579)、公子罷・許偃に命じての士燮と国の西門外で会させ、和平を結ばせた。十六年(前575)、を救援するために出兵し、鄢陵で軍と戦った。戦い敗れて、流れ矢が王の目に突き立った。このとき、酒に酔っていた将軍の子反を殺して、兵を引き揚げた。十八年(前573)、とともにを攻め、彭城を落とし、の連絡を断ち切らせた。臨終にあたって鄢陵の敗戦をの恥とし、「霊」もしくは「厲」を諡とするよう遺言したが、守られなかった。
の康王(?~前545)
  名は招。在位前560~前545。の共王(熊審)の子。五年(前555)、令尹の子庚にを攻めさせたが、果のないまま引きあげた。九年(前551)、令尹の子南が観起を重用し、人の評判が悪かったため、子南と観起を処刑した。十三年(前547)、と結んでを討とうしたが、の備えが整っていることを聞いて退いた。次いでを攻めて、これを破った。翌年、の華旋で、をはじめとした諸侯と弭兵の盟を結んだ。十五年(前545)、亡くなった。
の郟敖(?~前541)
  名は員。在位前545~前541。の康王(熊招)の子。叔父の子囲・子比・子皙・弃疾らを信任した。四年(前541)、病にかかって床に伏せたところ、令尹の子囲に首を絞められて殺された。
の霊王(?~前529)
  名は囲。在位前541~前529。の共王(熊審)の子。康王(熊招)の弟にあたる。甥の郟敖(熊員)のもとで令尹をつとめた。郟敖四年(前541)、に使者としておもむき、郟敖の病を聞いて急遽帰国。見舞いにかこつけて郟敖を殺した。即位後、虔と改名した。霊王三年(前538)、申の地で会盟を主催した。諸侯の兵を率いてを攻め、朱方を落として慶封を捕殺した。七年(前534)、章華台が完した。翌年、公子弃疾にを攻めさせ、これを滅ぼした。十年(前531)、の霊侯を召し、酔わせて殺した。弃疾にを平定させた。翌年、徐を攻めた。十二年(前529)、霊王は乾谿の地を好んで離れなかった。子比が帰国して王位につくと、霊王は人心を失って一人さまよい、飢え、申亥に庇護されたが、まもなく衰弱して死んだ。
王(?~前529)
  名は比。在位前529。の共王(熊審)の子。康王(熊招)や霊王(熊囲)の弟にあたる。郟敖に信任された。霊王が即位すると、に亡命した。霊王十二年(前529)、にうつり、鄧で弃疾と会見し、帰国して太子禄を殺して、即位した。子皙を令尹とし、弃疾を司馬とした。王は霊王の帰還をおそれており、霊王が帰還したとする弃疾の流した虚報に惑わされて自殺した。
の平王(?~前516)
  もとの名は弃疾。在位前529~前516。の共王(熊審)の子。康王(熊招)や霊王(熊囲)の弟にあたる。霊王のとき、を討ち、を平定した。霊王十二年(前529)、鄧で子比と会見し、帰国させて王位につけた。王は霊王の帰還をおそれていたので、弃疾が霊王が帰還したとする虚報を流すと、自殺した。の王位につき、熊居と改名した。即位にいたる経緯に負い目を感じていたため、人心を失うことをおそれ、人々に恩恵をほどこし、の国を復興させ、に奪った地を返還した。二年(前527)、費無忌を使者としてに送り、太子建のためにの公女を迎えさせた。美女であったために奪って妃とした。王は費無忌の讒言によって太子建をうとんずるようになった。六年(前523)、太子建はに亡命した。王は費無忌の言に従って、伍奢・伍尚を殺した。伍子胥はに亡命した。十年(前519)、国境の紛争からしての卑の邑を壊滅させ、の怒りを買った。の公子光が来攻し、鍾離と居巣を失い、を落とされた。平王はおそれて郢に城壁を築いて備えた。十三年(前516)、亡くなった。昭王十年(前506)、軍が郢を陥落させると、平王の屍は伍子胥に鞭打たれ、墓は破壊された。
の昭王(?~前489)
  名は珍。在位前516~前489。の平王(熊居)の子。母はの公女で、太子建にとつぐはずだったが、平王に奪われた。太子建がに亡命すると、代わって太子に立てられた。平王が亡くなると、その跡を継いだ。年(前515)、令尹の子常が費無忌を処刑したので、の国人は喝采を浴びせた。四年(前512)、のふたりの公子が亡命してきたので庇護した。翌年、に六と潜の城を奪われた。七年(前509)、子常にを討たせたが、豫章で敗れた。十年(前506)、王闔閭の軍が来寇し、軍は大敗した。都の郢は陥落し、昭王は逃亡した。王は雲夢に逃れ、味方に誤射されて負傷した。鄖城に入り、さらに随に逃れた。翌年、の援軍をえて軍を破った。の王弟夫概が乱を起こしたので、軍は帰国した。昭王はについたを滅ぼして、郢に帰還した。十二年(前504)、軍が再び来攻したので、郢を放棄して鄀に都をうつした。二十年(前496)、頓を滅ぼし、胡を滅ぼした。二十七年(前489)、軍がを攻めたので、救援におもむいて、城父に対峙したが、陣中で病に伏し、弟の子閭に後事を託して没した。
の恵王(?~前432)
  名は章。在位前489~前432。の昭王(熊珍)の子。昭王が臨終にあたって、王位を弟の子申に譲ろうとしたが拒絶され、子結に譲ろうとしたが拒絶され、子閭に譲って辞退すること五度、引き受けさせた。しかし子閭は、子西・子綦らと図って、章を王位につかせた。二年(前487)、建の子の勝をから呼び戻して、巣の大夫に任じ、白公と称させた。六年(前483)、白公勝が旧怨あるを攻めるよう上申し、令尹の子西は許可したが、実行されなかった。八年(前481)、に攻められて、に救援を求めた。子西はを救援し、から賄賂を受けた。白公勝は怒って、勇士を率いて宮廷に乗り込み、子西・子綦らを殺した。恵王は昭王の夫人の宮に逃げ込んで難を逃れた。白公勝は自ら立って王を称した。葉公が来援すると、恵王は白公勝を討ち滅ぼして、復位した。十三年(前476)、王夫差が来攻した。四十二年(前447)、を滅ぼした。四十四年(前445)、杞を滅ぼし、と和睦した。五十七年(前432)、亡くなった。
の簡王(?~前408)
  名は中。在位前432~前408。の恵王(熊章)の子。恵王が亡くなると、その跡を継いだ。年(前431)、莒を討って滅ぼした。十九年(前413)、を攻めて、上洛にいたった。二十四年(前408)、亡くなった。
の声王(?~前402)
  名は当。在位前408~前402。の簡王(熊中)の子。簡王が亡くなると、その跡を継いだ。六年(前402)、盗賊のために殺された。
の悼王(?~前381)
  名は疑。在位前402~前381。の声王(熊当)の子。声王が殺害されると、その跡を継いだ。二年(前400)、の来攻を受け、乗丘まで攻め込まれた。四年(前398)、を攻めた。九年(前393)、を攻撃して負黍を落とした。十一年(前391)、の来攻を受け、大と楡関で敗れた。のちに起を任用して変法に功し、北にを破り、南に揚を服せしめた。二十一年(前381)、亡くなった。
の肅王(?~前370)
  名は臧。在位前381~前370。の悼王(熊疑)の子。悼王が亡くなると、その跡を継いだ。四年(前377)、に攻められ、茲方を落とされた。扞関を造って、に備えた。十年(前371)、の攻撃を受けて、陽を奪われた。翌年、亡くなった。
の宣王(?~前340)
  名は良夫。在位前370~前340。の悼王(熊疑)の子。肅王(熊臧)の弟にあたる。肅王が亡くなると、その跡を継いだ。の強盛に苦しめられた。三十年(前340)、亡くなった。
の威王(?~前329)
  名は商。在位前340~前329。の宣王(熊良夫)の子。宣王が亡くなると、その跡を継いだ。六年(前334)、出兵してを討ち、王無疆を殺し、を滅ぼした。翌年、の田嬰がを欺いたので、は軍をしてを攻め、徐州で軍を大いに破った。田嬰を放逐するように要求したが、張丑の説得を受けて要求を取り下げた。十一年(前329)、亡くなった。
の懐王(?~前296)
  名は。在位前329~前299。の威王(熊商)の子。威王が亡くなると、その跡を継いだ。六年(前323)、柱国の昭陽を遣わしてを襄陵で破り、八邑を得た。さらにを攻めた。軫を遣わして昭陽の軍中で説かせると、は撤兵した。十一年(前318)、六国が合従してを討つこととなり、合従の長となったが、は出兵せず、の兵が函谷関にいたったが、利を失って撤退した。十六年(前313)、張儀がよりに入国し、商於六百里の地を割譲するとの虚言をえさに、と断交してと結ぶよう勧めた。懐王は張儀の言に従った。翌年、が土地を割譲しなかったために、兵をし、と丹陽で戦って大敗し、甲士八万を失い、大将七十余人が捕らえられた。中の地を失った。まもなく国中の兵ことごとくを動員してを攻め、藍田で戦ったが、また大敗した。十八年(前311)、中の半分を割譲することで、と和平を結ぶよう申し出た。懐王は土地の代わりに張儀の身柄を要求した。張儀がにやってくると、身柄を拘束したが、靳尚と寵姫の袖の言を聞き入れて張儀を釈放した。二十五年(前304)、の昭王と黄棘で盟約を結び、太子を人質として送り、上庸の地を返還された。二十八年(前301)、太子横(のちの頃襄王)がの大夫を殺して帰国すると、それを口実にとともにを攻め、将の昧を殺した。翌年、またの侵攻を受け、将軍景缺が斬られた。三十年(前299)、の昭王と武関で会することを約束し、に入国して拘束され、藩臣として待遇された。土地の割譲を求められたが、認めなかった。のちにで亡くなった。
の頃襄王(?~前263)
  名は横。在位前299~前263。の懐王(熊)の子。太子に立てられた。懐王二十六年(前303)、人質としてに送られた。翌年、の大夫と諍いを起こし、大夫を殺して逃げ、帰国した。二十九年(前300)、の攻撃を受けてが大敗すると、との和睦のため、人質として送られた。翌年、懐王がに抑留されると、から帰国して王位についた。頃襄王年(前298)、軍の攻撃を受けて、十五城を奪われた。三年(前296)、懐王がで亡くなった。七年(前292)、と和睦した。十四年(前285)、の昭王と宛において会見して盟を結んだ。翌年、とともにを討ち、淮北を攻め取った。十六年(前283)、の昭王と鄢において、次いで穣において会見した。十八年(前281)、六国の再びの合従を企てて、の来攻を受けた。またを滅ぼそうとして、西周武公の説得を受け、取りやめた。翌年、に敗れて、上庸と水の北の地を奪われた。二十年(前279)、の白起に西陵を奪われた。翌年、郢を落とされ、夷陵が焼き払われた。王は城に逃げ込んで守りを固めた。二十二年(前277)、巫郡・黔中郡を奪われた。翌年、に奪われた十五邑を奪回した。二十七年(前272)、を討つのを助けて三万の兵を送った。と再び和睦した。三十六年(前263)秋、病没した。
の考烈王(?~前238)
  名は。一説に完ともいう。在位前263~前238。の頃襄王(熊横)の子。太子に立てられた。頃襄王二十七年(前272)、人質としてに送られた。三十六年(前263)、黄歇の助力をえてから逃亡して帰国した。頃襄王が亡くなると、その跡を継いだ。黄歇を令尹とし、に領地を与えて春申君と称せしめた。考烈王年(前262)、州の地をに割譲して和睦した。五年(前258)、軍がの邯鄲を包囲したので、景陽にの軍を率いさせてを救援させた。七年(前256)、を滅ぼし、の頃公を卞邑にうつした。二十二年(前241)、諸侯とともにを攻撃したが、利あらず撤退した。都を東の寿春にうつし、郢と称させた。二十五年(前238)、亡くなった。
の幽王(?~前228)
  名は悍。在位前~前228。の考烈王(熊)の子。考烈王が亡くなると、その跡を継いだ。即位後まもなく、李園が春申君を殺した。三年(前235)、の軍に攻撃を受けた。十年(前228)、亡くなった。
の哀王(?~前228)
  名は猶。また郝ともいう。在位前228。の考烈王(熊)の子。幽王(熊悍)の同母弟にあたる。幽王が亡くなると、その跡を継いだ。即位わずか二ヶ月にして、庶兄の負芻の一党に襲殺された。
負芻(?~?)
  在位前228~前223。の考烈王(熊)の子。哀王(熊猶)の庶兄にあたる。かれの党与が哀王を殺し、擁立された。二年(前226)、の攻撃を受けて十余城を失った。四年(前224)、の王翦の軍のために軍は大敗して、将の項が殺された。翌年、の王翦・蒙武に都を落とされ、王負芻は捕らえられた。これをもっては滅んだ。

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五代十国(907~960)]

⇒五代(後,後,後,後漢,後
⇒十国(,南,前蜀,後,南,,荊南,,閩,北漢
(907~951)]
武穆王(馬)-衡陽王(馬希声)-文昭王(馬希範)-廃王(馬希広)-恭孝王(馬希萼)-廃王(馬希崇)
(852~930)
  字は覇図。の武穆王。在位907~930。許州焉陵の人。木工より身を起こし、流賊の宗権の部将孫儒の下に従って江淮を転戦した。孫儒の死後、劉建峯の部将となって、湖南地方の経略を助け、潭州に鎮した。劉建峯の死後、その軍衆により擁されて潭州刺史となり、のち武安軍節度使となった。開平年(907)、後が建国されると、天策上将軍に任ぜられ、王に封ぜられて湖南地方を掌握した。以後、中原王朝に修貢の態度を取り続けた。民心を安定させ、産業を奨励して、富国強兵につとめた。晩年は諸子の党争に悩まされた。
馬希声(899~932)
  字は若訥。の衡陽王。在位930~932。馬の次男。馬を建国すると、判内外諸軍事となった。荊南の高季興による離間策を受けて、高郁が馬氏を滅ぼそうとしていると信じ、父の命といつわって高郁を殺した。馬が亡くなると、喪中にもかかわらず、日に五十の鶏を煮て食していたので、世人にそしられた。後の武安軍節度使・静江軍節度使などを歴任した。暗愚で内政をかえりみず、享楽に溺れた。
馬希範(899~947)
  字は宝規。の文昭王。在位932~947。馬の四男。年(934)、王に封ぜられた。天福四年(939)、天策上将軍を加えた。馬の旧制にならい、中原王朝と修好した。湘黔辺界の諸族の帰順を受け、渓州に銅柱を立てたほか、昆明・寧州の諸族とも通交した。奢侈は兄馬希声をもしのぎ、宴を好み、春園に会をなし、巨万の富を費やして、領内にたな賦役を加えた。
馬希広(?~950)
  字は徳丕。の廃王。在位947~950。馬の十五男。兄の馬希範の跡を継いで王となった。兄の朗州節度使馬希萼が南の支援をえて長沙に来攻すると、城破れて妻子とともに殺された。
馬希萼(?~?)
  の恭孝王。在位950~951。馬の子。天福十二年(947)、弟馬希広が王位を継ぐと、南の支援を得て挙兵し、長沙に攻め入って位を争った。順天将軍と号し、渓洞諸族の参戦を取り付けると、長沙を攻め落として、馬希広を殺して位を奪った。殺戮を好み、酒色にふけり、宮室を大規模に建造して、士民を虐待した。弟の馬希崇と徐威らがかれを衡山に幽閉した。保大九年(951)、南軍がを滅ぼすと、洪州にうつされた。のちに陵で没した。
馬希崇(?~?)
  の廃王。在位951。馬の子。兄王馬希萼のもとで湖南の軍政をつかさどったが、人材任用を情実で左右したので、刑政は乱れた。保大九年(951)、兄を逐って自立し、武安軍留後となった。酒色にふけり、人心をえられなかった。朗州権留後事の劉言がかれに服さず、兵をして長沙を攻めた。南がこの機に乗じて出兵し、長沙に入ったため、ここには滅んだ。馬氏一族とともに陵にうつされ、南の永泰軍節度使に任ぜられ、揚州に鎮した。のちに後が淮南を攻めると、兄弟十七人とともに後に保護され、右羽林統軍となった。
劉言(?~953)
  廬陵の人。吉州刺史彭玕に従ってに帰順し、辰州刺史に任ぜられ、渓洞諸蛮の鎮撫にあたった。のちに王逵・行逢が朗州に拠ると、迎えられてその帥となった。保大九年(951)に南を滅ぼしたが、その翌年に王逵とともに南軍を追い出し、の嶺北旧地を恢復した。後太祖(郭威)により行朗州大都督・武平軍節度使に任ぜられた。まもなく王逵に捕らえられて殺された。
王逵(?~956)
  王進逵ともいう。武陵の人。はじめ静江軍の士卒から身を立てた。の馬希萼のとき、静江指揮使に進んだ。保大九年(951)、王馬希萼が王逵・行逢らに王府の修築を命じたが、賞賜が与えられず、王逵・行逢は兵を率いて朗州に逃げ帰り、馬光恵を武平節度使に推挙した。のちに馬光恵を廃し、劉言を権武平留後とした。翌年、行逢らとともに潭州(長沙)を攻め、南軍を破った。広順三年(953)、朗州の劉言を攻撃して捕らえ、部将の潘叔嗣に劉言を殺させると、武平節度使に上った。顕徳三年(956)、後の世宗(柴栄)により南への侵攻を命じられ、岳州に進んだところ、潘叔嗣に殺された。
行逢(917~962)
  朗州武陵の人。若いころから無頼で、法を犯しての軍卒となり、驍勇によって小校に上った。保大九年(951)、王逵とともに朗州を占拠し、劉言を帥に迎えた。翌年、王逵とともに潭州(長沙)を攻め、南の辺鎬を破った。広順三年(953)、王逵に劉言を殺すよう勧め、王逵が武陵に拠ると、潭州に拠った。翌年、武軍節度使・権知潭州軍府事に任ぜられた。王逵が殺されると、朗州にうつり、武安・武平両鎮を領した。湖南をおさめ、倹約節制につとめたので、数年のうちに倉廩は充実した。後末年、城壁を改修し、練兵を重ねて、武備に傾いた。のちにに帰順し、中書令を加えられた。
保権(952~985)
  朗州武陵の人。行逢の子。行逢が武平節度使となったとき、節度副使となった。建隆三年(962)、行逢が没すると、により武平節度使に任ぜられた。衡州刺史の張文表が乱を起こしたが、楊師璠に命じて鎮圧させた。のちにに湖南を接収されると、開封にうつされて、右千牛上将軍に任ぜられた。乾徳五年(967)、右羽林統軍にうつった。太平興国年(976)、知并州として出向した。

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