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武寧王は百済王ではなかった

武寧王は百済王ではなかった

1971年、国の公州で偶然見された

「武寧王陵」は、墓誌石が出土し

「安東大将軍百済斯麻王年六十二歳癸卯(きぼう)五月戌朔七日(523年)に死に

乙巳(525年)にこの大墓に葬った」とあり、

一番最後に「志加左○」(「原」または「君」)と書かれている。

注意を要するのはこの墓誌のどこにも、

また後に合葬された「百済国大妃」の墓誌(裏面)にも、

武寧王の文字はなく、ただ斯麻王の名だけだという事実である。

この人が筑紫で生まれた事情はもうよくご記憶のはずである。

島で生まれたから<シマ>という名をつけたとあった。

島を<シマ>というのは日本語であることは説明する必要はないと思うが、

彼は終世それを名乗っていたのである。

わずかに、別名とされる隆が<タケチ>と読めるが、

この別名がどこから引用されたかが不明の現在、基誌だけを証拠とするほかない。

梁書」をみると[百済伝]には

普通(ふとう)二年(521年)百済王、余隆が初めて遣使してきて、

高句麗に敗れたことを上表し、使持節・都督・百済諸軍事・寧東大将軍に除した、とある。

さらに普通五年(524年)彼が死んで、

その子明を使持節・都督・百済諸軍事・綏東将軍・百済王に除正した、

という記事があり死の翌年に明が遣使した事実がわかる。

この古墳は高松塚より大きく、

また中国の南朝様式のアーチ型塼墓(せんぼ)で、

副葬品中にも中国製の初期青磁四耳壷、六耳壷があり、銙帯、腰佩も中国文化そのままであった。

※出典:加治木義博・言語復原史学会
「KKロングセラーズ≪真説≫日本誕生誰が巨大古墳を造ったのか:236」