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(読み)りょう(英語表記)Liang
中国の国名 Liáng字項目
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

中国,五胡十六国のうち中国の北西部にあってと称した五つの国(地方政権)。(1) 前涼(301~376) 州刺史(→刺史)であった人張軌が,西晋末に姑臧(こぞう。甘粛省武威県)を中心にして事実上独立国をつくったのに始まる。しかし張氏は形式的には長くの年号を用いた。第4代張駿のときが最盛期で,第5代張重華はみずから王と称した。第9代張天錫が太1(376)年,前秦に降伏して滅亡。(2) 後涼(386~403) 前秦の苻堅が淝水で大敗した(→淝水の戦い)のを聞き,そのもとにあった氐(てい)族の呂光が姑臧に入り,太安1(386)年州牧酒泉公と称して自立,竜飛1(396)年には天王と称し,国を大と号した。その後は国情が不安定で神鼎1(401)年後秦にくだり,同 3年滅んだ。(3) 南涼(397~414) 後涼の呂光に従っていた鮮卑の禿髪烏孤(とくはつうこ)が,太初1(397)年大単于西平王と称して自立。のちこの国の王は武威王,河西王,王としだいに改称。嘉平7(414)年西秦にくだった。(4) 北涼(397~439) 匈奴の沮渠蒙遜が後涼にそむき,人段業を推戴して神璽1(397)年王と称させた。永安1(401)年段業を廃し,みずから州牧張掖公と称した。玄始1(412)年には河西王と称して,西涼を滅ぼし(421),西域との道を開いた。永和7(439)年北にくだった。(5) 西涼(400~421) 人李暠が庚子1(400)年,公・二州牧として自立。永建2(421)年,北涼に滅ぼされた。
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デジタル大辞泉の解説
中国の国名。五胡十六国のうち、前涼後涼南涼北涼西涼の5国の総称。五

百科事典マイペディアの解説

中国,五胡十六国の国名。(1)前涼。313年―376年。州刺史の張軌が自立。前秦)に滅ぼされた。(2)後涼。386年―403年。【てい】の呂光は前秦の苻堅(ふけん)から西域の遠征を命ぜられ,その帰途,苻堅の死をきいて州に自立。河西一帯を平定したが,南涼北涼の独立により勢力衰え,ついに後秦に服属。(3)南涼。397年―414年。鮮卑の禿髪(とくはつ)氏が後涼より自立。青海に拠ったが,北涼の圧迫激しく,西秦に降伏。(4)北涼。397年―439年。匈奴(きょうど)の沮渠(しょきょ)氏が後涼より自立。初め人の段業を立てたが,401年これを殺し,自ら王となる。南涼を圧し,西涼を滅ぼして,甘粛の地に威を振るったが,北)に滅ぼされた。(5)西涼。400年―421年。敦煌(とんこう)太守の李【こう】(りこう)が北涼から自立。東方への進出を図ったが,北涼のために滅ぼされた。
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世界大百科事典 第2版の解説
中国,五胡十六国の一つ。313‐376年。通称は前涼。甘粛地方は前漢の武帝がいわゆる河西四郡を置いて以来,中国と西域とを結ぶ交通路に,敦煌,酒泉,張掖(ちようえき),武威(姑臧(こぞう))などのオアシス都市が達した。それらは辺に波及してゆく中国文化の西方における基地でもあった。しかしの滅亡後,中国を再統一した(西晋)が瓦解すると,この地方にも自立の動きが始まった。301年(永寧1)人豪族張軌が州刺史の地位を利用して姑臧(甘粛省武威県)に拠って以来,その一族が代々朝から州牧を授けられ,ときに王を自称した。
中国,五胡十六国の一つ。386‐403年。通称は後涼。略陽(甘粛省安県)の氐(てい)族の首領呂光(りよこう)によって創建された。呂光は(前秦)の苻堅(ふけん)の命により西域諸国を下したが,遠征中に前秦が内乱に陥ったので姑臧(こぞう)(甘粛省武威県)にとどまって自立を図り,386年(太安1)州牧を自称,396年(竜飛1)天王の位についた。しかしその死後一族の間に内紛が絶えず,外からは北涼南涼に攻められ,403年(神鼎3)第4代呂隆が(後秦)の姚興(ようこう)に助けを求めて下った。
中国,五胡十六国の一つ。397‐439年。通称は北涼。張掖(ちようえき)(甘粛省張掖県)付近にあった匈奴部落の首領沮渠蒙遜(しよきよもうそん)は,近親が後涼の呂光(337‐399)に殺されたので挙兵して397年(神璽1)呂光の臣下段業(?‐401)を州牧に戴いた。401年(永安1)段業を殺してみずから州牧を称し,一方で(後秦)に臣属すると同時に南涼から姑臧(こぞう)を奪い,ここに遷都して河西王を称した。
中国,五胡十六国の一つ。397‐414年。通称は南涼。河西の鮮卑(せんぴ)禿髪氏(とくはつし)ははじめ後涼に臣属したが,397年(太初1)禿髪烏孤(とくはつうこ)がその内紛に乗じて西平王を称し,楽都(らくと)(青海省楽都県)を根拠地として建国した。その後利鹿孤(りろくこ)・傉檀(じよくたん)と諸弟が継承した。傉檀は(後秦)に臣属しつつも姑臧(こぞう)(甘粛省武威県)に拠って勢威を張り,ときには独立して王を称したが,後秦北涼西秦とのはげしい交戦で疲弊し,北涼に姑臧を奪われ,414年(嘉平7)西秦の乞伏熾磐(こつふくしはん)に楽都を陥れられて下った。
中国,五胡十六国の一つ。400‐421年。通称は西涼。隴西(甘粛省)の人豪族李暠(りこう)は北涼の段業(?‐401)に仕えたが,人びとに敦煌太守に推され,段業もこれを承認した。400年(庚子1)自立して公を称し,東に遣使した。やがて本拠を酒泉に移し,河西を族の手に奪回しようとしたが,東方を南涼北涼に扼(やく)され,志を果たさなかった。あとを継いだ第2子李歆(りきん)は,北涼南涼攻撃に乗じて張掖(ちようえき)を襲ったが,421年(永建2)かえって北涼に滅ぼされた。
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大辞林 第三版の解説

中国、五胡十六国の国号。前涼後涼南涼北涼西涼の五か国。
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精選版 日本国語大辞典の解説

[2] 中国の五胡十六国の王朝。前涼後涼南涼北涼西涼の五国。五ともいう。

旺文社世界史事典 三訂版の解説

五胡十六国の国の名
前涼(301〜376,人の国),後涼(384〜403,氐 (てい) の国),南涼(397〜414,鮮卑 (せんぴ) の国),北涼(397〜439,匈奴 (きようど) の国),西涼(400〜421,人の国)の五をいう。
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