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前漢(西漢) [-202~8]

(-202~8) -202 前漢末、平帝の時代には、郡・国の数103、県邑(けんゆう)1314、侯国241で、戸口は約1223万戸、5959万人であった。県以下の郷、あるいは郷よりもさらに小さい集落がどれほどあったかは不明である。降雨量が少なく、黄土の堆積(たいせき)が厚い華北の平原では、比較的水に恵まれた所に密集集落が営まれた。春秋戦国時代以降、鉄製農具が現れ、治水灌漑(かんがい)工事も行われて、農地の開拓が進んだが、その多くは戦国諸国の手になるものであったから、農民は国々の強い規制下に置かれていた。が列国を滅ぼすと、農民はその規制から解放されたが、統一国家は郡県制の施行、爵位の賜与などによって、その農民を国家秩序のなかに組み入れ、収奪の対象にしようとした。一方、戦国諸国の富国強兵策は手工業や商業の繁栄をもたらしたが、それに伴って私営の手工業者、商人が出現した。彼らはまた土地の集積を図ったから、それは農民の土地喪失、小作人化、奴婢(ぬひ)化を招いた。はしばしば富者を長安付近に強制移住させて、彼らを直接の管理下に置き、また武帝時代には商人、手工業者に重税を課し、酷吏が過酷に弾圧を行った。けれども大土地所有の趨勢(すうせい)を阻止することはできず、後漢時代にはこの傾向がいっそう拡大し、なかには私兵をもつ者さえ現れた。彼らは一般に一族が集居したから、豪族とよばれている。豪族は「郷曲に武断する」といわれるように、近隣の数集落にもその勢力を及ぼす者があり、それを利用して郡県の長官の推挙を受け、官界にも進出した。
 代の農業は、華北ではアワ、キビ、豆、大麦などが主要作物で、後漢時代には小麦もつくられるようになったが、粉食はまだ一般的ではなく、また江南の水稲耕作は技術水準が低かった。鉄製農具は用途別の多種類化が進み、代田法、区種法などのしい技術も開されて、牛耕も盛んになった。また中央・地方政府あるいは豪族による治水灌漑施設も築造され、土地生産力は飛躍的に向上した。けれども耕牛などの多くは官牛や豪族の所有であり、灌漑の利を得たのも豪族が多かったから、貧富の差はいっそう拡大し、農民の貧窮化が進んだ。彼らの間にはさまざまの迷信や民間信仰が広がって妖賊(ようぞく)とよばれる農民蜂起が頻し、やがて黄巾の乱として爆した。
 手工業も戦国時代の繁栄の後を受けて、さらに展した。は塩、鉄、織物などの主要な生産地に塩官、鉄官、服官を置いて、その生産あるいは販売を独占した。しかし塩の生産は民間業者にまかされていたように、手工業そのものを禁止したわけではなかったから、さまざまな民間の手工業が栄えた。青銅器、漆器、陶器、繊維、染物工業などで、それにつれて商業も展した。商業のおもな対象は、皇帝ならびにその側近、諸侯王、列侯、中央・地方の高官、豪族などであったから、商工業はこれらの人々が居住する城郭都市を中心に繁栄し、なかでも長安、洛陽、邯鄲(かんたん)、臨(りんし)、宛(えん)などは人口数十万という大都会であった。長安などでは商人が店舗を構える市(いち)とよばれる商業区域が設けられており、市のなかには業種別の肆(し)(みせ)が軒を並べていた。各地の特産物などを交易する大商人も多く、西域との貿易に従事する商人も現れた。ブドウ、ザクロ、苜宿(もくしゅく)(クローバーの一種)などが西域からもたらされ、絹織物や鉄が西域を経由して、遠くローマにまで運ばれた。ギリシア語で中国のことをセレスとよぶのは、絹の国という意味である。また北辺に設けられた関市(かんし)を通じて、北方の遊牧民との間でも貿易が行われ、四川(しせん)省を経由する西南夷(い)との貿易、広州を拠点とする南海貿易も行われた。後漢後期の桓(かん)帝のとき(166)には、大王安敦(あんとん)(東ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニウスに比定される)の使者が、海上から中国を訪れている。
 なおの始皇帝は円形方孔の半両銭を鋳て、貨幣を統一したが、では算賦などが銭納をたてまえとしたところから、銭の鋳造、流通が頻繁となった。なかでも武帝のとき(前119)に制定された五銖銭(ごしゅせん)(半両。五銖は重さの表示)は、王莽の時代などに一時中断はあったが、の開通宝に至るまで貨幣の基本形式となった。

  • 202 前漢(西漢)(-202~8) 前漢初期には黄老思想(道家(どうか))が尊ばれ、淮南(わいなん)王劉安は多くの学者を集めて、道家思想を中心に雑家の書『淮南子(えなんじ)』を編纂(へんさん)した。しかし文帝のころから実際政治の面では法家思想が尊重され、錯(ちょうそ)などの有能な政治家が輩出した。一方、先時代の著作と伝えられる古典には、戦国時代から初にかけて整理、増補されたものが多い。なかでも儒学は、の初めにの始皇帝が行った焚書(ふんしょ)によって失われた経典の収集が行われた。そのうち経文を暗唱してきた学者によって当時通行の隷書で書き定められた経典を用いる派を今文(きんぶん)学派といった。これに対して、景帝のときに孔子の旧宅の壁の中から見されたり、景帝の子の河間献王が集めたといわれる先時代の篆書(てんしょ)などで書かれた経典を用いる学派を古文学派といった。前者が名分を重んじたのに対し、後者は訓詁(くんこ)解釈を主とした。
     武帝時代の今文学者董仲舒(とうちゅうじょ)は、陰陽五行思想を取り入れて、皇帝を政治、道徳、思想宗教上の中心に位置づけ、儒学の国教化と五経博士の設置を献策した。これ以後、儒教は皇帝支配、国家秩序の指導理念となり、官僚となるための必須(ひっす)要件となった。一方、古文学は前漢末の劉(りゅうきん)が推重したころから盛んになり、後漢時代には両派の論争が続いた。後漢時代にはまた古典の注釈を行う訓詁の学が展し、許慎(きょしん)は字の字義、字形を説いた最古の字書『説文解字(せつもんかいじ)』を著し、古文学者玄(じょうげん)は今文経をも取り入れて、代経学(けいがく)を集大した。なお仏教が中国に伝えられた時期については諸説があるが、光武帝の子の王英はすでに仏寺を祀(まつ)っていたといわれている。
     代の散文は、詩や曲と並んで文と称せられる。司馬遷(しばせん)の『史記』や班固(はんこ)の『漢書』はその代表で、これはまた紀伝体による構が以後の中国正史の模範となった。韻文には事実を細かに描写する辞賦(じふ)、『詩経』の四言をかえ、五言または七言からなる古詩、宮廷音楽のための楽府(がふ)などがある。科学の分野には先以来の諸説を集大したものが多く、中国の天文学、暦法の基本型を決定した劉の三統暦、数学の『九章算術』、医学の『傷寒論』『黄帝内経(こうていだいけい)』などは、中国はもちろん、朝鮮、日本でも後世まで尊重された。
     美術、工芸の分野では、絵画に彩色を伴う古墓の壁画や漆画があり、石闕(せっけつ)、祠堂(しどう)、石室墓などの石材の壁面に彫り付けられた画像石は、当時の思想、生活様式を知るうえでも貴重である。象眼(ぞうがん)、めっきなど工芸技術にも目覚ましい達がみられ、多様な文様の銅鏡が流行した。馬王堆(まおうたい)墓にもみられる織物は種類も多く、刺しゅう、染色、文様も鮮である。陶器では緑釉(りょくゆう)が盛行した。長安城内の未央(びおう)宮、長楽宮など大規模の宮殿が造営されたが、当時の宮殿建築様式は河北省満城、山東省沂南(きんなん)などの墓などから、また豪族らの家屋は画像石や明器(めいき)の陶楼などからうかがうことができる。さらに文字は篆書についで隷書が重んぜられ、後漢時代には楷(かい)・行・草の書法が立した。当時の石刻碑文が現存する。紙は2世紀初めに倫(さいりん)が明したといわれるが、それ以前にもあったようで一般には絹布や木竹簡に、戦国のころに明された筆と墨を用いて記載された。
  • 202 前漢(西漢)(-202~8) 前漢
    は始皇帝が死に(前210)、二世皇帝が後を継ぐと、勝(ちんしょう)・広(ごこう)の乱をはじめ各地に反乱が起きた。の創始者高祖劉邦(りゅうほう)も紀前209年に手兵2000~3000を率いて沛(はい)(江蘇(こうそ)省沛県)で挙兵した。農民の出身で下級の警吏にすぎなかった劉邦の勢力は初めは弱体であったが、沛の有力者などの支持を得てしだいに強大となり、前202年には(そ)の将の末裔(まつえい)項羽(こうう)を垓下(がいか)の戦い(安徽(あんき)省霊璧県東南)に破って皇帝の位につき、翌年都を長安に定めた。即位後の論功行賞で、高祖は一族功臣に封国を与えて諸侯王とし、列侯を侯国に封じて、以来の郡県制と併用した。これを一般に郡国制とよぶ。しかし高祖はその在世中に、信(かんしん)をはじめ功臣の王を次々と滅ぼした。2代目の恵帝が若死にすると、高祖の糟糠(そうこう)の妻呂太后(りょたいこう)が政務をとり、呂氏一族が実権を握ったが、創業の功臣勃(しゅうぼつ)らの力で呂氏を倒し、5代文帝の時代になって、政権の基礎がほぼ固まった。6代景帝が諸侯王国の領地削減策を強化すると、(ごそ)七国が乱を起こしたが(前154)、乱の鎮定後は王国の統治権を奪い、王国とは名のみにすぎなくなった。また高祖は信を追って大同(山西省)付近に至り、匈奴(きょうど)に囲まれた。以後、匈奴に対して宥和(ゆうわ)策をとったが、7代武帝の時代になって積極策に転じ、数回の匈奴遠征を行ったほか、東の朝鮮、南のベトナムにも進出した。武帝はまた匈奴を挟み撃ちにするため、張騫(ちょうけん)を西方の大月氏(だいげっし)に遣わした。目的は達せられなかったが、その結果、西方との交通路いわゆる絹の道(シルク・ロード)が開かれた。けれども、たび重なる遠征や土木工事のために財政が逼迫(ひっぱく)すると、増税、貨幣の改鋳のほか、塩・鉄・酒の専売、均輸法、平準法などの施策を行った。
     この武帝から9代宣帝に至る間が前漢の最盛期で、それを象徴するのは法律刑罰を過酷に執行した法家的官僚酷吏の出現である。彼らの弾圧の対象はもっぱら豪族に向けられたが、反面この時期には豪族の地方・中央政界への進出も多くなった。一方、中央政界においては、丞(じょうしょう)などの政府機関(外朝)に対して、外戚、宦官(かんがん)など皇帝の側近者(内朝)が実権を握るようになった。10代帝以降はとくにこの傾向が強く、紀9年には外戚出身の王莽が劉氏にかわって帝位につき、国号をと改めた。
     王莽は『礼(しゅらい)』などにみえるの諸制度を理想とし、現実遊離の改革を行うことが多かったから、たちまち混乱を招き、赤眉(せきび)などの農民反乱や諸豪族が蜂起(ほうき)して、わずか15年で滅んだ。
  • 202 前漢(西漢)(-202~8) 前漢
    の行政制度はほぼ制を踏襲した。中央官制は、皇帝を補佐して政務を総覧し百官を統率する丞が中心で、ときに左右2丞を置くこともあり、12代哀帝以後は大司徒(だいしと)と改められた。軍事をつかさどるのが太尉で、常置の官ではなく、武帝の時代にはかわって大司馬(だいしば)を置いた。監察官である御史を統率するのが御史大夫(ぎょしたいふ)で、帝以後大司空(だいしくう)と改められた。また大司馬、大司空は副丞として政務を担当した。以上は三公ともよばれたが、昭帝以後、外戚が大将軍として実権を握り、また後漢時代になると皇帝の側近にすぎなかった尚書(しょうしょ)が丞の職務を行った。三公の下に政務を分担する九寺があり、その長官は九卿(きゅうけい)とよばれた。太常(たいじょう)(礼儀祭祀)、光禄勲(こうろくくん)(宮廷護)、尉(えいい)(宮門守護)、太僕(たいぼく)(帝室の車馬、牧畜の管理)、廷尉(ていい)(裁判、司法)、大鴻臚(だいこうろ)(諸侯、異民族の来朝)、大司農(だいしのう)(国家財政)、宗正(そうせい)(皇族関係)、少府(しょうふ)(帝室財政)の九卿で、執吾(しっきんご)(京師(けいし)の治安)、将作大匠(しょうさくだいしょう)(土木工事)、大長秋(だいちょうしゅう)(皇后職、東宮職)をあわせて十二卿ともいわれた。
     地方行政制度は郡と県が基本で、いくつかの県を郡が統轄した。郡の長官は守と尉で、景帝以後太守、都尉と改められ、民政と軍事を分担した。後漢では郡兵の撤廃に伴って都尉が廃止された。太守の下に副官として丞、行政実務を担当する功(こうそう)のほか、督郵(とくゆう)、掾史(えんし)などの属官があり、当該郡内から太守が任免した。県の長官は令または長で、太守、都尉とともに中央の任免であった。県令の下に丞、尉、斗食(としょく)、佐史(さし)などの属官があり、県の下に郷があって、有秩(ゆうちつ)、嗇夫(しょくふ)、游徼(ゆうきょう)などが戸口調査、徴税、徭役(ようえき)などを担当し、ほかに10里ごとに亭があり、亭長が警察にあたった。人民の居住区は里とよばれ、郡、県、郷は1里または数里からなっていて、郡や県はおおむね囲を城郭で囲ってあった。里には里父老、県・郷には県・郷三老がいて民の教化にあたった。また前106年には全国を13の州に分け、刺史(しし)が州内を巡察して太守以下の監察にあたるようになったが、後漢では州が郡の上の行政単位となった。以上の官吏は丞以下佐史に至るまで、すべて俸禄(銭と穀物で支給)によってランクがつけられており、功労、年次によって昇進した。ただ高官の子弟や、孝廉(こうれん)、賢良方正(けんりょうほうせい)などに推薦された者、高官に召された者などは下級の吏を飛びして任用された。なお前5年のときの佐史以上の官吏は13万0285人に上った。
     行政は律令(りつれい)とよばれる法に基づいて施行されるのがたてまえであったが、現今の法律とは異なって、民の遵守すべき法というよりは、官吏が民を支配するにあたっての規準ともいうべきものであった。そのうち租税は、収穫量の30分の1を収納する田租、15~56歳の男女に一算(120銭)を課する算賦(さんふ)、3~14歳の男女に23銭を課する口銭、そのほか財産税があり、一般の民は財産評価額1万銭につき一算、武帝の時代から商人は2000銭、手工業者は4000銭につき一算となった。力役には徭役と兵役とがあった。徭役は15~56歳の男子に、毎年1か月、居住する郡県の労役にあたらせる更卒(こうそつ)、これは銭による代納が許され、300銭を代納することを更賦(こうふ)といった。兵役は23~56歳の男子で強健な者を正卒とし、兵役期間のうちに1年間は近兵(このえへい)または首都の警備兵として上番し、1年間は出身郡内の警備にあたらせた。辺境の警備にはその近くの正卒や募兵を用いた。武帝時代の大遠征などには募兵のほか、刑徒や異民族が用いられた。前漢時代には長安に常駐した近兵、首都警備兵は5万人に上ったが、
  • 202 前漢(西漢)(-202~8) 中国、につづく統一王朝。前202‐後220年。の滅亡(前206)後、項羽と覇権を争って勝利を収めた農民出身の劉邦(の高祖)によって創建された。前206年、劉邦は項羽より王に封ぜられたが、の名はこれに由来する。ただしは紀8年に外戚の王莽(おうもう)によって帝位を奪われて一時中断したが、25年には一族の劉秀(光武帝)によって復活した。そのため王莽が簒奪する以前の前漢といい、復活後の後漢という。
  • 202 前漢(西漢)(-202~8) 前 206(高祖1)年にが滅亡すると、項羽が西覇王と称したが、現在の陝西省南部に王として封じられた劉邦(→高祖)が、前 202(高祖5)年項羽を破って帝位につき、都を長安に定めて王朝を創始。は初め郡国制をしいたが、前漢の武帝(在位前 141~87)の時代には中央集権制を確立。匈奴を討って西域と通じ、朝鮮、ベトナムに遠征して領土を拡大した。しかし帝の死後外戚など側近が権勢を張り、8(初始1)年には外戚王氏出身の王莽が帝位を奪ってを建てた。したがって以前を前漢と呼ぶ。都の位置により前漢西漢後漢を東とも呼ぶ。
  • 202 前漢(西漢)(-202~8) ①中国の統一王朝。前漢(前202〜後8)と後漢(ごかん)(25〜220)とに分かれる
    滅亡後、劉邦(りゆうほう)は巴・中を支配する王となり、項羽を破って全国を統一すると、高祖と称し、長安に都した。前漢は諸侯を復活し、郡国制を施行したが、機会あるごとに地方の諸侯の権力を削って集権化をはかり、七国の乱を境に集権体制を確立した。最盛期たる第7代武帝の時代には西域・朝鮮にまで支配権を広げ、かつ儒学を官学として中国における皇帝専制政治の理論的正当化をはかった。このころから、宦官(かんがん)と外戚(がいせき)の権力闘争がくりかえされ、外戚の王莽(おうもう)がを建て、は中断した。王莽に対して挙兵した勢力のなかで、の一族劉秀(りゆうしゆう)は他の豪族を統合し、洛陽に都してを再興した(光武帝)。以後を後漢という。後漢は、王莽の復古主義にも農民の蜂起にも対立する立場にある豪族層の支持の上に立した政権である。2世紀にはいると、宮廷では幼少の皇帝をめぐって外戚と宦官が権力を争う風潮が強まり、官僚となっていた各地の豪族もこの争いに加わり、後漢の集権体制は実質的に崩壊し始めた。2世紀末、民間信仰で結ばれた農民を中心に黄巾(こうきん)の乱(184)が始まると、豪族層は覇権の争奪戦を展開し、その間に台頭した国王丕(そうひ)(文帝)は後漢の献帝より帝位を譲り受け、後漢は滅亡した。
  • 202 前漢(西漢)(-202~8) (しん)に次いで中国を統一し支配した王朝(前202~後220)。王莽(おうもう)の(後9~23)による中断を挟んで、それ以前を前漢(前202~後8)、都が前漢は西の長安、西漢
  • 202 前漢(西漢)(-202~8) 前漢(前202~後8)と後漢(25~220)とに分かれる。が滅びたのち、高祖(劉邦(りゆうほう))が建国。前漢後漢の間に王莽(おうもう)が国を奪いと号した。ついで光武帝が王朝を再興。この時代は中国社会の基礎が確立し、中国文明が著しく展した。1世紀ころ日本の奴国王が朝貢し、「委奴国王」の印綬を賜与された。古代日本に与えた影響は大きい。
  • 202 前漢(西漢)(-202~8) 前漢(西漢)。劉(りゅう)氏の建てた王朝、前後400年余にわたって中国に君臨した。前202年項羽を倒した劉邦(高祖)は天下を統一、長安に都して官制・法律のほとんどを制にならい、いわゆる郡国制を行って地方を治めた。高祖没後、妻の呂后(りょこう)一族の専権をみたが、文帝は内治に努めた。前154年の七国の乱を経て、7代武帝は財政強化を図り、儒教を国教として思想的統一を行い、北辺の匈奴(きょうど)を討ち、朝鮮には楽浪郡など4郡を設置、また西域に進出するなど内外に意を用いて中央集権的専制支配を完。15代にして後8年王莽(おうもう)に簒奪(さんだつ)される。
  • 202 前漢(西漢)(-202~8) 紀前202年、高祖劉邦が長安で即位してから一四代、二一〇年間続いた前漢(西漢)。
  • 202 前漢(西漢)(-202~8) ②中国の王朝名。一般に、統一王朝であった前漢(西漢。前202~後8)・

後漢(東) [25~220]

(25~220) 後漢25 (ごかん)
この混乱のなかから頭角を現したのが、6代景帝の子孫で、南陽(河南省南西部)の諸豪族を背景にしていた光武帝劉秀(りゅうしゅう)である。光武帝は25年帝位につき、洛陽に都を定めるとともに、劉氏一族の対立者、隗囂(かいごう)、公孫述(こうそんじゅつ)などの諸勢力を倒し、王莽の改制を旧に復して政権の基礎を固めた。光武帝以後、2代明帝、3代章帝の時代約50年間が後漢の最盛期で、洛陽の太学は学生3万人を数え、地方の私学にも弟子2000~3000人をもつものがあった。対外的にも積極的で、竇憲(とうけん)は北匈奴を討ってこれを破り、西域都護班超(はんちょう)はパミール以東の50余国を服属させ、97年には甘英(かんえい)を西方の大国に遣わした。しかし、和帝以後は幼弱な皇帝が多く、外戚、宦官がふたたび権力を握るようになった。これに対して、礼教を重んじ、気節の士とよばれた中央・地方の官僚は、外戚、ついで宦官を論難したから、宦官は二度にわたって気節の士を弾圧した(党錮(とうこ)の禁)。中央政治がこのような混乱にあるとき、西北の羌(きょう)族が反乱を起こし、さらに184年には黄巾(こうきん)の大農民反乱が、華北、華中に蜂起した。この乱の鎮圧の過程で、各地に強大な私兵をもつ軍事勢力が現れた。宦官は華北の袁紹(えんしょう)によって討滅されたが、董卓(とうたく)、孫策(そんさく)、操(そうそう)らの群雄が割拠して、後漢王朝は完全に分裂した。やがて献帝を擁した操が強大となってほぼ華北を統一し、その子の丕(そうひ)が献帝に迫って帝位を譲らせ、(ぎ)王朝を創建したために後漢は完全に滅び、三国分裂の時代を迎えた。
25 後漢(ごかん)(東)(25~220) 後漢になると光武帝の改革によって常備兵力1万5000と減じ、郡兵も廃された。そのうえ、これらの兵士には、光武帝時代の功労者の子孫が代々選ばれたから、徴兵制は名目にすぎなくなり、操による兵戸制とあまり変わらなくなった。
25 後漢(ごかん)(東)(25~220) 25年以後を後漢(ごかん)(25~220)といい、後漢は東の洛陽(らくよう)に置かれたところから、東ともいう。
25 後漢(ごかん)(東)(25~220) 後漢(ごかん)(東)。劉(りゅう)氏の建てた王朝、後25年劉秀(光武帝)が劉氏の天下を復興、都を洛陽に定め、内政に努めて後漢王朝の基礎を確立。やがて幼帝の即位が続き、外戚・宦官(かんがん)の政争が度重なり、184年黄巾(こうきん)の乱を機に群雄割拠の世となっての権威は全く衰え、220年に滅ぼされ三国時代に入る。
25 後漢(ごかん)(東)(25~220) 前漢(前202~後8)と後漢(25~220)とに分かれる。が滅びたのち、高祖(劉邦(りゆうほう))が建国。前漢後漢の間に王莽(おうもう)が国を奪いと号した。ついで光武帝が王朝を再興。この時代は中国社会の基礎が確立し、中国文明が著しく展した。1世紀ころ日本の奴国王が朝貢し、「委奴国王」の印綬を賜与された。古代日本に与えた影響は大きい。
25 後漢(ごかん)(東)(25~220) は長く続かず、25(更始3)年にはの一族劉秀(→光武帝 )が諸賊を破って帝位につき、都を洛陽に定めを復興した。以後を後漢と呼ぶ。4代の和帝の頃から再び外戚、宦官が権力を握り帝位を左右したため、一般官僚との間に激しい争いを展開した。184(中平1)年農民による黄巾の乱が起こると各地に群雄が割拠、やがて操、劉備、孫権がそれぞれ華北、の3地に分立し、220(延康1)年献帝は操の子丕(そうひ。→文帝)に譲位して、は滅亡した。都の位置により前漢西漢後漢を東とも呼ぶ。
25 後漢(ごかん)(東)(25~220) の王莽の死後、二五年に光武帝によって再興された後漢(東)一四代、一九六年間。洛陽に都する。

()[221~263]

221 (221~263) 三国(三国時代)の一つ、三国時代の劉備の起こした。またはという。

() [304〜318/329]

304 (304〜318)(前趙ちようの前身。304~329) 五胡十六国の1つ、匈奴(きようど)の劉淵(りゆうえん)が建てた国。のち(ちよう)と改称。五胡十六国時代の(前趙ちようの前身。304~329)・【】より
…南匈奴の劉淵が304年(熙1)西晋八王の乱に乗じて建国したもので、平陽(山西省臨汾県)を首都とした。はじめと称したが、劉曜のときと改めた。第2代劉聡は311年(嘉平1)西晋の首都洛陽を占領(永嘉の乱)、ついで長安を攻略して西晋を滅ぼし、五胡十六国時代がここに始まった。…

成漢(前趙(ぜんちょう))

304 五胡十六国成漢(前趙(ぜんちょう))、

成漢(後)[304~347]

成漢(後しよく。304~347)

前趙 (304~329)

(大国)()(成漢)

306 (306~338~347) 五胡十六国の1つ、氐(てい)族の李雄が建てた大国が李寿のときと改称。李氏は306年建国して大と号したが、338年と改めた。よって成漢と呼ばれる。347年滅亡。

前蜀[907~925]

907~925 五代十国王建前蜀

(南)(大)(大) [909/917‐971]

(917~971)南(大)(大)(917~971) 中国、五代十国の一つ。909‐971年。南ともいう。建国者劉隠は広州の兵乱を平定し、広東・広西地方に支配を及ぼし、末の中原での大混乱を逃れて嶺南に避難した朝の名士を優遇して国の基礎を固めた。弟の劉龑(りゆうげん)が後を継ぎ初めて帝号を称し(917)、国を大と号したが、翌年と改めた。武人色の強い五代十国中で一応の文官支配が行われた唯一の国であるが、南海貿易を背景とした奢侈、一族間の粛の繰返しで、5主での南征軍に降服して滅びた。五代十国の一つ。南と呼ぶ。917年末の争乱に乗じて華南に自立。初め大と号したが、姓が劉氏であるため大と改める。一時はベトナムをも支配したが、971年に滅ぼされた。

後漢[947~950]

947 (947~950) (こうかん)五代十国後漢、五代の王朝。947‐950年。突厥(とつくつ)沙陀部の劉知遠が大(河南省開封)に建てた国。後漢ともいう。五代王朝のなかでももっとも短命で、わずか2主4年で滅びた。国内的には軍閥勢力を統制できず、北辺には契丹がしばしば侵入してその軍事圧力に苦しんだ。その支配領域も河南省を中心とする華北の一部にすぎなかった。五代(五代十国)の一つ。後漢(こうかん)と呼ぶ。947年トルコ系の劉知遠が後より自立し太原に都したが、2代4年にして950年後に国を奪われた。

北漢[951~979]

951 (951~979) 951年(乾祐4)に太原で再建され五代最後の後と争う。これを北漢というが、契丹の援助でかろうじて存立し、979年(太平興国4)にに併合されて滅びた。五代十国の一つ。北漢と呼ぶ。951年劉崇(知遠の弟)が後の建国を知って太原に自立。地方政権として存続したが、979年に滅ぼされた。

中国,五代十国の一つ。後漢の隠帝の死 (950) ののち,翌年叔父劉崇が山西の太原で即位,復活させた国。契丹と結び,後と争ったが,広運6 (979) 年第4代英武帝のときに攻められ滅亡。

中国、五代十国の一。後漢(こうかん)滅亡後の951年、一族の劉崇が山西に建国。都は陽。979年にに降りて、五代十国の分裂が終わる。

中国、五代十国の一。後漢こうかん滅亡の翌年、劉知遠の弟劉崇が太原(山西省)に建国(951~979)。契丹きつたんと結んだが、に滅ぼされた。
⇒ ほくかん(北漢

中国、五代の一つで、後漢(こうかん)ともいう。[編集部]
[参照項目] | 五代十国

中国、五代十国の一つ。後漢の滅亡後、九五一年、その一族劉崇が山西に建国。九七九年、に降った。

951〜979
五代十国の一国
947年沙陀 (さだ) 部出身の劉知遠 (りゆうちえん) が建国した後漢 (こうかん) が950年後に滅ぼされると,弟の劉崇が太原で即位し,北漢をおこした。 (りよう) の援助により後と対抗し,後の滅亡後も続いたが,979年の太宗に降伏した。

】より

…951年(乾祐4)に太原で再建され五代最後の後と争う。これを北漢というが,契丹の援助でかろうじて存立し,979年(太平興国4)にに併合されて滅びた。五代十国【愛宕 】。…

【山西[省]】より
… 五代になると,(後)が建国にさいし(契丹)の援助を受けた代償に,今日の大同(雲州)と北京(州)地方を含んだ,いわゆる雲(えんうん)十六州を譲与したので,万里の長城内の本省北部は中国の直接支配から離れたのである。その後,太原には(後漢)の残党がの援助のもとに北漢を立てた。この国はに滅ぼされ,その支配下に帰したが,大同を中心とする北方領土は回復することができず,ではその他の地域を河東路に所属させた。…

】より
…中国,につづく統一王朝。前202‐後220年。の滅亡(前206)後,項羽と覇権を争って勝利を収めた農民出身の劉邦(の高祖)によって創建された。前206年,劉邦は項羽より王に封ぜられたが,の名はこれに由来する。ただしは紀8年に外戚の王莽(おうもう)によって帝位を奪われて一時中断したが,25年には一族の劉秀(光武帝)によって復活した。そのため王莽が簒奪する以前の前漢といい,復活後の後漢という。…