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(戦国七雄)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

中国,代の諸侯国の一つ,また戦国の七雄の一つ。の武王の弟の一族と伝えられる召公せき (しょうこうせき) が薊 (けい。北京) に封じられたのに始るといわれるが,前6世紀後半までは不明な点が多い。戦国時代初期に文侯が合従策 (→合従連衡 ) を立てた蘇 (そしん) を用いたというが疑わしく,易王 10 (前 323) 年,七雄中最も遅く王号を称した。易王を継いだ王噌 (かい) が政治を怠りに大敗したが,次の昭王が郭隗 (かくかい) の進言で人材を天下に求めたので楽毅 (がくき) が仕え,諸侯の連合軍を率いてを破った。のちと友好関係を結んだ時期が多かったが,勢力は弱く,戦国時代末,太子丹の依頼での始皇帝を暗殺しようとした荊軻 (けいか) が失敗し,王喜 33 (前 222) 年に滅ぼされた。中国北部に位置していたため北方民族の侵入を受けやすく,その防止のため長城を築く一方,彼らと貿易を行なって巨利を得た。下都 (河北省易県) 遺跡からの出土品は当時の手工業の展を示すものが多い。
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デジタル大辞泉の解説
中国、春秋戦国時代の国。戦国七雄の一。の武王の弟、召公奭(しょうこうせき)を祖とし、薊(けい)(北京付近)に都して、現在の河北・寧省と朝鮮半島北部を領有。前222年、(しん)に滅ぼされた。
中国、五胡十六国の時代の国。鮮卑(せんぴ)の慕容(ぼよう)部の建てた前燕後燕南燕・西と、人馮跋(ふうばつ)の建てた北燕の総称。
[人名用字] [音]エン()() [訓]つばめ

(1)中国,代の侯国。前11世紀武王のとき,召公【せき】(の重臣)がいまの河北の地に封ぜられ,薊(けい)(現,北京)に都した。しだいに北東へ展し,戦国時代には七雄の一つとなる。前222年,に滅ぼされた。→春秋戦国時代(2)中国で4―5世紀,五胡十六国のうち鮮卑の慕容(ぼよう)氏が建てた国。前燕(352年―370年),後燕(384年―407年),西(384年―394年),南燕(398年―410年)の4国があった。(3)中国,五胡十六国の一つ。407年―436年。北燕と呼ばれ,後燕を奪って建国した。
→関連項目安岳3号墳|下都遺跡|楽毅|興隆遺跡|戦国の七雄|武王
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世界大百科事典 第2版の解説
中国,人馮跋(ふうばつ)の立てた王朝。北燕ともいい,五胡十六国の一つ。後燕が北に敗れて瓦解すると,その勢力の一部は西に逃れて竜城(寧省朝陽県)によった。人武将馮跋は407年,帝慕容熙を殺して高雲を立て,やがて409年みずから即位して天王を称し,契丹などの諸部族を支配した。馮跋のあとを襲った弟,馮文通のとき北に征服され,馮文通は高句麗に亡命したが殺された。馮氏は北族の風俗に染まっていたといわれ,北孝文帝時代に摂政として活躍した文明太后は馮文通の孫に当たる。
鮮卑族慕容部が中国内地に建てた諸王朝。五胡十六国の一部をなす。慕容部は東北地方シラ・ムレン上流に起こり,西晋の滅亡を機に鮮卑系他部族や高句麗,扶余を制圧して東・西方面を支配した。4世紀半ば慕容儁(ぼようしゆん)(319‐360,在位348‐360)は後趙の内乱に乗じて河北地方に進入,薊城(北京付近)を首都として帝国を建てた(前燕。352‐370,のち鄴に遷都)。やがて一族に内訌が起こり,前秦の苻堅に征服された。
中国古代,春秋戦国の侯国。武王の弟召公奭(しようこうせき)が薊(けい)(現,北京市)に封建された国といわれるが,実際に就国したのはその弟あるいは子と考えられる。近年北京西郊で西周初期の(匽と書く)関係の青銅器が多数見されたが,その歴史はほとんど不明。戦国時代に強国の一つとして再登場し,中原文化を採用し,前284年には諸国とともにを攻め,一時の大半を手に入れたが,のちの反撃をこうむるとともに,の圧迫も受け,前226年に都の薊を奪われ,前222年に滅ぼされた。
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大辞林 第三版の解説

①中国、戦国時代の七雄の一。の武王の弟、召公奭しようこうせきに始まる。現在の河北省北部を領有。薊けい(北京)に都した。昭王のとき、全盛を誇ったが、紀前222年しんに滅ぼされた。
②中国、五胡十六国時代の国。前燕(307~370)・後燕(384~407)・西(384~394)・南燕(398~410)・北燕(409~436)の五国がある。

精選版 日本国語大辞典の解説
[一] 中国、春秋戦国時代の国。戦国七雄の一つ。の武王が弟の召公奭(しょうこうせき)を薊(けい)に封じたのに始まり、河北省北部から東北地方南部一帯の中国北辺を領し約八〇〇年続いた。紀前四世紀末に即位した昭王のとき、賢者、名将を登用して繁栄したが、紀前二二二年に滅ぼされた。
[二] 中国、五胡十六国時代の国。鮮卑の慕容部の建てた前燕(三三七‐三七〇)、後燕(三八四‐四〇七)、南燕(三九八‐四一〇)と、人で後燕の将軍であった馮跋(ふうばつ)が建てた北燕(四〇九‐四三八)の四か国がある。なお、慕容部の西(三八四‐三九四)は十六国に数えない。

代の諸侯国,戦国の七雄の1つ
五胡十六国時代の国名
現在の河北省の北東部から東北地方南部の地を領有。都は薊 (けい) (現在の北京)。始祖はの武王の弟召公奭 (しようこうせき) 。初め山東から移ったが勢力が弱く,前323年に王と称して七雄となる。長城構築・朝鮮進出などもあったが,国力がしだいに衰え,王政を壮士荊軻 (けいか) に討たせる太子丹の策も功せず,前222年に滅ぼされた。朝鮮南部や日本で見される明刀銭 (めいとうせん) はの貨幣である。
鮮卑 (せんぴ) 慕容氏のたてた前燕(337〜370)・後燕(384〜409)・南燕(398〜410),人馮跋 (ふうばつ) の北燕(409〜436)がある。
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世界大百科事典内のの言及
春秋戦国時代】より
…前半の大半の期間のことが国の年代記《春秋》に,後半のことが《戦国策》とよぶ書物に書かれているからである。前453年で二分するのは,春秋の大国の家臣であったの3代が主家を三分独立し,は事実上滅亡し,以後戦国の七雄といわれるの対立抗争の時代となるからである。
歴史
 《史記》によれば,春秋初めには140余の小国が分立していたが,勢力のあったのは,(山東省曲阜),(山東省臨淄(りんし)),(山東省定陶),(河南省淇県,のち滑県),(河南省),(河南省商丘),(河南省淮陽(わいよう)),(河南省上,のち,さらに安徽省鳳台),(山西省曲沃),(陝西省鳳翔,のち咸陽),(湖北省江陵,のち河南省淮陽,安徽省寿県),(北京市)の十二諸侯であり,洛陽には王室があった。…

【明刀銭】より
…中国古代の刀形貨幣(刀貨)の一種で,戦国時代国で通用した銅貨。春秋時代に山東半島を支配した国で刀子(とうす)の形を青銅で鋳造した刀銭がおこり,北京を中心とする国に伝わったものとされている。…

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