秦
秦(王朝)
時代・文化
公開日 2016-03-28 最終更新日 2019-07-15
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秦 (紀元前778〜紀元前206) 周代の諸侯国で、戦国の七雄の一つ。 秦朝 (紀元前221~紀元前206) 秦王政のときに天下を統一。
秦は、北西辺境の地(甘粛省)からおこり、渭水に沿って次第に東へ移動しながら勢力を拡大した。春秋時代中期に穆公が発展に努め、五覇の一つに数えられたこともあるが、中原諸侯からは夷狄視され続けた。戦国時代(中国)の孝公のとき都を咸陽に移し、商鞅を用いて強力となり、張儀を用いた恵文王、白起らを用いた昭襄王にかけて戦国七雄のうちで最強となる。秦王の政のとき、紀元前221年に中国を統一した。秦二世皇帝は在位3年で趙高に殺され、子嬰が立ったが漢の劉邦に降伏し、前206年に滅亡した。
秦 [前230年―前221]
中国,周代の諸侯国で,戦国の七雄の一つ。のち統一国家を建設 (前 221~206) 。甘粛省方面から起り,帝せんぎょくの子孫栢翳 (はくえい) が舜からえい姓を賜わったというが,西周末期までは伝説におおわれた部分が多い。周の平王の東遷を助けた襄公がその功績で諸侯に列せられたという。春秋時代中期に穆公 (ぼくこう) が発展に努め,五覇の一つに数えられたこともあるが,中原諸侯からは夷狄視され続けた。強力になるのは戦国時代中期に商鞅 (しょうおう) を用いた孝公のときからで,次の張儀を用いた恵王,白起らを用いた昭襄王にかけて韓,魏など6国に圧迫を加え,始皇帝のときに天下を統一した (前 221) 。秦二世皇帝は在位3年で趙高に殺され,子嬰 (しえい) が立ったが漢の劉邦 (→高祖) に降伏し,前 206年に滅亡した。
中国の国名。
春秋戦国時代の国の一。戦国七雄の一。初め秦(甘粛)の地にいたが、前771年、周の諸侯に列せられて以後、渭水(いすい)に沿って東進。勢力を拡大して、前249年に周を滅ぼし、前221年政(始皇帝)の時には六国を滅ぼし天下を統一。都は咸陽。前207年、3代15年で漢の劉邦(りゅうほう)(高祖)に滅ぼされた。
(1)最初に中国を統一した国。初め周の諸侯国として甘粛の東部にあり,渭水(いすい)に沿い東進。前4世紀から急速に発展,咸陽に都し,戦国七雄の一つとなり,次第に東方の6国を圧し,前256年には周の王室を滅ぼした。次いで始皇帝は前230年―前221年に6国を滅ぼして天下を統一,初めて皇帝の号を用いた。しかしその死後,帝国はたちまち瓦解,前207年,3世にして滅亡した。
中国・春秋戦国時代[しゅんじゅうせんごくじだい]の国の1つです。紀元前221年に他の国をほろぼして、中国全土を支配しました。しかし、紀元前206年には前漢[ぜんかん]の劉邦[りゅうほう]によって、ほろぼされてしまいます。
中国、周代の侯国の一つで、のち中国最初の統一王朝(?~前207)。
神話伝説から歴史事実とみられる移行期は非子の記載のあるころとみられる。周の孝王は大丘にいた非子に牧畜をさせ、秦の地を与え、(えい)氏を名のらせた。襄公(じょうこう)は周の内乱に際して平王を助けたので初めて諸侯に任じ、岐山(きざん)(陝西(せんせい)省岐山県北東)以西の地を与え秦公とした(前771)。このとき犠牲を用いて上帝を祀(まつ)ったが、これは西戎(せいじゅう)の習俗に由来する。文公のとき、渭水(いすい)と水(けんすい)の合流点あたりに都を移し「三族の罪」を決めた。人が罪を犯したとき父母、妻子、兄弟まで連座する法律である。君主権の伸長を示すとともに戎(じゅうてき)の慣習を法制化した面もある。寧公2年(前714)には都を平陽(陝西省鳳翔(ほうしょう)県南西)に移した。そののち武公10年(前688)に(けい)、冀(き)の戎を討伐し、ここに初めて県を置き、杜(と)、鄭(てい)を県としている。徳公のとき雍(よう)(陝西省鳳翔県)に都したが、繆公(穆公)(ぼくこう)のときに飛躍的にその勢力を強めた。繆公は百里奚(ひゃくりけい)や由余を登用し、秦の進むべき道を指し示した。百里奚はもと虞(ぐ)の大夫であり、繆公の招請によって臣下となった。由余は晋(しん)の人であるが、当時、戎王の下にいたのを策略をもって臣従させた。このように客臣を用いて君主の指導力を強める方針は秦の伝統となった。由余は礼楽法度(れいがくほうど)を退けて上下一体の戎の社会をモデルにするよう繆公に勧めている。君主権を抑制する宗族(そうぞく)や貴族の勢力を削減する道である。このなかで強大となった秦は河西の地を占め西戎の地を伐(う)ったので、その領土は方千里に達したという。繆公は死んだとき多くの殉死者を得たが、それは生前、臣下と約束していたからである。つまり、君主が部下を私臣として自由に扱うということで、秦の君子たちの非難を受けているが、これも君主権伸長の一標識である。
秦はその後、国内で争いを起こし東方発展の力はなかった。しかし、紀元前403年、晋が韓(かん)、魏(ぎ)、趙(ちょう)に分裂したので、献公は櫟陽(やくよう)(陝西省臨潼(りんとう)県東)に都を東遷して、東方経略を図った。その子、孝公は、諸侯でありながら戎狄(じゅうてき)と蔑視(べっし)されて東方の会盟に加わることができなかったので憤りを感じ、自国を強化して東方諸侯に力を示そうと考えた。そこで広く人材を求め、富国強兵を実現しようとした。魏から衛の公族出身の公孫鞅(おう)(後の商鞅)が来朝して、帝王の道、王道、覇道という順序で孝公に自説を述べている。前二者は回りくどいという点で孝公は用いなかったが、覇道は孝公を感銘させた。商鞅は覇道を実行することがやがて帝王の道(尭(ぎょう)の統治)に至る道程と考えていた。孝公に抜擢(ばってき)された商鞅は信賞必罰を核として、農業、戦闘の成果を計って授爵し、有爵者だけが評価される身分制社会をつくりだした。そして隣=伍家(ごか)という共同体(小宗族的)単位を基礎として国家に協力するという体制を什伍(じゅうご)制として施行した。これは君主が「伍」を把握するもので、中間的勢力を抑制して家父長的権力の伸長を計るものであった。その「伍」を単位として「聚(じゅ)」がつくられ、その上に「郷」「県」が行政単位として成立する。後の郡県制につながる県制は商鞅によって初めて設定された。阡陌(せんぱく)制を開いたのも彼であるが、これは小型家族の創設政策である「分異法」によって析出され、野を開拓した子弟の土地を整理するために設けられた東西の土地区画線と考えられるが、諸説あってなお定説はない。商鞅変法は第一次、第二次と施行されるが、この第二次変法は都を咸陽(かんよう)に移してのち行われている。咸陽はそれ以後、秦の滅亡するまで首都であった。
孝公は変法で強力となった国力で東征を展開し、河西の地を魏から奪回した。魏はこの敗戦の結果、都を安邑(あんゆう)(山西省候馬(こうま))から大梁(たいりょう)(河南省開封)に移さざるをえなかった(前340)。この秦の東征は東方諸国に大きな脅威を与えた。蘇秦(そしん)、張儀(ちょうぎ)らの有名な合従連衡(がっしょうれんこう)などの妥協策や対抗策はすべて秦を中心に考えられた外交政策である。孝公の死後、秦では恵文王が継ぎ、もともと仲のよくなかった商鞅を誅殺(ちゅうさつ)するが、政策の基本である君主権の伸長という方針はこれを踏襲した。そして、ただちに中原(ちゅうげん)に覇を唱えるのでなく、なおいっそう国力の基礎を強固にするため、巴蜀(はしょく)(四川(しせん)省)を制圧し、楚(そ)に属していた漢中を領有した(前312)。さらに昭王の時代には揚子江(ようすこう)を南渡し、将軍白起(はくき)は楚の首都郢(えい)(湖北省江陵県)を陥落させた。東方では魏の河東地方を併合し、范雎(はんしょ)を用いて遠交近攻策を駆使しつつ、長平において趙国に致命的な打撃を与えた(前260)。昭王はやがて西周を滅ぼし、東周君も秦の荘襄王(そうじょうおう)子楚(しそ)によって滅ぼされ、周王朝はここに形式上も終焉(しゅうえん)した(前249)。
荘襄王子楚の子が秦王政である。彼は年少で王位についたので、太后や丞相(じょうしょう)呂不韋(りょふい)らが政治権力を握っていた。しかし、太后の愛人、(ろうあい)を誅(ちゅう)し(前238)、を太后に推薦したことによって呂不韋も政権の座から追放して、ついに秦王政が親政することになった。それ以後、彼は丞相に李斯(りし)を用い、法家主義的政策を採用して、宗室、貴族の勢力を抑制しつつ、専制的皇帝権力を樹立した。その間、王翦(おうせん)らの将軍を派遣して各国を征服し続けた。韓王国の滅びたのは前230年であるが、以後、10年間に他の5国も次々と秦国の力の前に屈服した。そして中国全土を統一の権力が制覇することとなった(前221)。これが秦帝国である。彼は秦帝国の永遠なることを希望して始皇帝と称し、万世に至らんと願った。彼は丞相、太尉(たいい)、御史大夫(ぎょしたいふ)を配置して、行政、軍事両面における皇帝の補佐役とした。地方統治形態は封建制でなく、商鞅以来の郡県制をとり、全国を36郡に分け、郡には守、尉、監を、県には令、長などを置き、軍事は県尉にゆだねられた。全国を集権化する必要上、度量衡、貨幣、文章書体などを一定にする措置がとられた。そして、反乱を防ぐため武器を集めて溶融し「金人」としたという。北は匈奴(きょうど)防衛のため長城を設け、南は華南、東は朝鮮までもその勢力範囲を伸長した。イデオロギー統制にも力を入れた。焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)は著名な事件であるが、農芸、医薬、卜占(ぼくせん)などを除くすべての書籍を焼いたようにいわれている。しかし、官庁に保管していた儒家の経典など諸子百家の文献は残されていた。それらを私的にもち流布させることによって秦朝の諸政策を非難する動きを抑制するのが焚書のおもなねらいであった。坑儒も始皇帝を誹謗(ひぼう)した方士たちと、それに関連した儒者が処罰されたのであって、儒家の抹殺という徹底したものでなかったことは注意を払っておく必要があろう。
この壮大な帝国はアジア世界において最初の大規模な領域をもち、秦の名は遠く西方世界にまで伝播(でんぱ)された。支那(しな)(チャイナ)の名称の起源は秦(チン)にあるという説があったのもそこに由来するであろう。しかし、秦の法家的威圧は、なお強い勢力をもつ貴族や小宗族を基礎とする農民各層の反発を招かざるをえなかった。しかも、皇帝権力の威を示すための陵や宮殿の造築に要した労働力は莫大(ばくだい)なもので、負担は庶民に重くのしかかった。二世皇帝胡亥(こがい)も趙高(ちょうこう)を用いて同様の政策をとった。趙高は身分制を撤廃して君権強化を計っているが、現実との背反は激しくなるばかりであった。このころ、陳勝(ちんしょう)・呉広(ごこう)らの農民反乱が起こり、それに触発されて貴族、豪傑らも反秦の旗を翻した。胡亥の後継の公子嬰(しえい)が項羽(こうう)の部将であった漢の劉邦(りゅうほう)に降(くだ)り、伝国の玉璽(ぎょくじ)を捧呈(ほうてい)して秦帝国は滅んだ(前207)。天下統一後、3代15年の治世であった。
中国,周代の(えい)姓の諸侯。戦国七雄の一つ。前221年に秦王政(始皇帝)が全国を統一し,中国最初の統一帝国となる。統一後,秦はそれまでの社会体制を大改革し,郡県制を制定,官僚組織を整備するなど中央集権的国家体制をしき,これらの制度はのちの中国各王朝に引きつがれることになる。また秦は法律による統治を理想として,法家思想に基づく信賞必罰主義をとった。急激な変革,厳しい法による人民支配の強化から,2代目皇帝胡亥即位の翌年(前209)早くも農民反乱(陳勝・呉広の乱)を招いた。
①中国最初の統一王朝。周代の諸侯国の一、戦国七雄の一として渭水いすい盆地に進出。紀元前四世紀以降急速に発展し、周室を討ち、始皇帝の時、六国を滅ぼして天下を統一(前221年)したが、三代15年で滅んだ(前207年)。
[四] 周代の侯国で、中国最初の統一王朝。はじめ甘粛省東部にあり、周の諸侯となり、渭水に沿って東進。春秋の五覇、戦国の七雄として勢力を伸長し、前二五六年周室を滅ぼし、秦王政(始皇帝)のとき韓・趙・魏・楚・燕・斉を滅ぼして天下を統一した(前二二一)。中央集権的法治国家体制をとり、郡県制を立て、北は匈奴を討って万里の長城を修築し、南は閩越・南越を併せた。その死後帝国は瓦解、三代一五年で劉邦(漢の高祖)に滅ぼされた(前二〇七)。
中国最初の統一王朝 前221〜前206
前8世紀に周の諸侯となり,孝公のとき商鞅 (しようおう) を用いて発展,戦国の七雄の1つとなり,咸陽 (かんよう) に都した(前4世紀)。子の恵文公はみずから王を称し(前335),他の6国を圧倒した。政 (せい) (始皇帝)のとき6国を滅ぼして天下を統一。封建制をやめて郡県制を施行し,中央集権的官僚国家体制をつくった。また,焚書・坑儒 (ふんしよこうじゆ) による思想統制を行い,北方民族の侵入に備えて万里の長城を築き,南北に外征したが,死後,陳勝・呉広の乱などの反乱があいつぎ,前206年に劉邦 (りゆうほう) (漢の高祖)に滅ぼされた。
秦,前秦[351‐394]
(2)中国,五胡十六国の一つ。前秦。351年【てい】族の苻健(ふけん)が長安に都して建国。357年第3代苻堅が立つや,国力は大いに伸張,376年には華北を統一した。しかし383年【ひ】水(ひすい)の戦に敗れて国家は瓦解,西方に走ってわずかに国を保っていた王座も,394年西秦に滅ぼされた。
中国,五胡十六国の一つ。前秦ともいう。351‐394年。氐(てい)族苻氏(もと蒲氏)の建てた政権。略陽郡臨渭県(甘粛省秦安県)の長苻洪が永嘉の乱を契機にこの地方の氐族や漢族に推されて盟主となったことから,政権の基礎が生まれた。初め後趙の傘下にあったが,苻洪の子苻健が自立して長安に即位した。第3代苻堅のとき西域を含む華北全域を平定し,五胡時代には珍しい政治の安定と文化の隆盛を築いたが,東晋併呑に失敗して国家は瓦解し,本拠長安は後秦に奪われた。
前秦ともいう。351‐394年。…
[五] 中国の王朝名。五胡十六国の一つ(三五一‐三九四)。氐族の苻健が長安に都して建国。苻堅のとき華北を統一したが、淝水の戦いに敗れて滅びた。前秦。
後秦(秦,大秦) [386年,417年]
(3)中国,五胡十六国の一つ。後秦。前秦が瓦解した後,386年羌(きょう)族の姚萇(ようちょう)が長安に都して自立,国を大秦と称した。子の姚興も東西に勢力を伸ばし,403年には華北の西半を領したが,北魏(魏)と戦って敗れて国力衰え,子の泓のとき東晋(晋)の北伐にあって417年滅亡した。なお姚興のとき,後秦の仏教は大いに栄えた。
[六] 中国の王朝名。五胡十六国の一つ(三八六‐四一七)。羌族の姚萇(ようちょう)が長安に都して建国。一時華北の大半を領有。東晉の劉裕の北伐により滅んだ。後秦。
秦,後秦ともいう。386‐417年 [#v0149782]
中国,五胡十六国の一つ。後秦ともいう。386‐417年。羌(きよう)族姚(よう)氏の建てた政権。南安郡赤亭(甘粛省隴西県)を本拠とする羌族の長姚弋仲(ようよくちゆう)は永嘉の乱を機に勢力を拡大し,前趙,後趙,東晋に臣属した。のちその勢力は前秦に入ったが,姚弋仲の子姚萇(ようちよう)は前秦の瓦解を機に自立し,苻堅をとらえて長安に即位した。その子の姚興は洛陽を占領し,後涼を併せ,北涼,南涼,西涼を臣属させるなど国威を張ったが,その子姚泓のとき東晋の劉裕に滅ぼされた。
秦,西秦[385‐431]
(4)中国,五胡十六国の一つ。西秦。385年鮮卑族の乞伏(きっぷく)氏が甘粛に建国。394年前秦を滅ぼし,西方に威を振るったが,431年,夏に滅ぼされた。
中国,五胡十六国の一つ。西秦ともいう。385‐431年。隴西郡(甘粛省隴西県)の鮮卑族の部族長乞伏国仁は,前秦の滅亡を機に苑川(甘粛省蘭州東方)地方により,その弟乾帰がこれを継承して河南王を称した。一時後秦に帰属したが再び自立し,その子熾磐は南涼を下して秦王を称した。熾磐の時代が西秦の最盛期である。その死後,慕末がこれを継いだが部民の信頼を得ず南安(甘粛省隴西県)に遷都した。やがて夏のために滅ぼされた。
[七] 中国の王朝名。五胡十六国の一つ(385‐431)。鮮卑の乞伏国仁が金城(甘粛)に都して建国。夏に滅ぼされた。西秦。
(「はだしん」とも。「秦」は「はた」と訓読するところから) 中国の古代の国名「秦」を「晉(すすむしん)」と区別していう語。
秦。西秦ともいう。[385‐431年]
【秦】より
…中国,五胡十六国の一つ。西秦ともいう。385‐431年。…
秦[前9c.~前206]
⇒西周,東周,春秋,戦国,魯,斉,晋,秦,楚,宋,衛,陳,蔡,曹,鄭,燕,呉,越,趙,魏,韓
秦嬴(非子)-秦侯-公伯-秦仲-荘公-襄公-文公-憲公-出公-武公-徳公-宣公-成公-穆公(任好)-康公(罃)-共公(和)-桓公(栄)-景公-哀公-恵公-出子-献公(連)-孝公(渠梁)-恵文王(駟)-武王(蕩)-昭王(稷)-孝文王(柱)-荘襄王(異人)
秦嬴(?~?)
姓は趙、名は非子。大駱の子。犬丘に住み、馬や家畜を飼って生業としていた。周の孝王のとき、召されて汧水と渭水の間にうつった。のちに秦に封ぜられ、嬴氏の祭祀を継いだ。
秦侯(?~?)
秦嬴の子。秦嬴が亡くなると、跡を継いだ。
公伯(?~?)
秦侯の子。秦侯が亡くなると、跡を継いだ。
秦仲(?~?)
公伯の子。公伯が亡くなると、跡を継いだ。周の厲王のとき、本家にあたる犬丘の大駱の一族が西戎の攻撃を受けて滅んだ。宣王のとき、命を受けて西戎を討ったが、殺された。
秦の荘公(?~前778)
秦仲の長男。秦仲が西戎に殺されると、弟四人とともに周の宣王に召され、兵七千人を率いて西戎を討った。西戎を破って、功により秦仲の旧封と犬丘の地を与えられ、西垂の大夫となった。
秦の襄公(?~前766)
在位前778~前766。秦の荘公の次男。兄の世父が戎への報復を誓って家を出たため、譲られて後嗣となった。荘公が亡くなると、跡を継いだ。二年(前776)、戎に犬丘を囲まれた。七年(前771)、諸侯が幽王に叛いたが、襄公は周を助けて奮戦した。また平王が雒邑に東遷するのを助けた。平王は襄公を諸侯とし、岐山以西の地を賜った。これを秦の建国とする。十二年(前766)、戎を討ち、岐山のふもとで没した。
秦の文公(?~前716)
在位前766~前716。秦の襄公の子。襄公が亡くなると、秦の国君の位についた。はじめ西垂の宮にいた。三年(前763)、東方に巡狩し、吉凶を占って汧水と渭水の間に邑を営んだ。十六年(前750)、兵を率いて戎を討ち、周の遺民を保護して、岐東の地を周に献じた。
秦の憲公(前724~前704)
寧公とも書く。在位前716~前704。竫公の子。秦の文公の孫にあたる。文公が亡くなると、秦の国君の位についた。二年(前714)、平陽にうつり、兵を率いて蕩社を討った。西戎の亳王と戦い、亳王が戎に逃れると、翌年に蕩社を滅ぼした。十二年(前704)、蕩氏を討ち、これを取った。
秦の出公(前708~前698)
出子。在位前704~前698。秦の憲公の末子。憲公が亡くなると、大臣の弗忌と三父が太子(のちの武公)を廃してかれを位につけた。六年、三父らに殺された。
秦の武公(?~前678)
在位前698~前678。秦の憲公の長男。太子となったが、廃されて末弟の出子が立った。出子が亡くなると、秦の国君の位についた。彭戯氏を討って、華山のふもとに行き、平陽の封宮に居を定めた。出公を殺した三父らをのちに誅殺した。邽・冀・杜・鄭などの県を立てた。二十年(前678)に亡くなったとき、はじめて殉死がおこなわれ、六十六人が殉じたという。
秦の徳公(前710~前676)
在位前678~前676。秦の憲公の次男。武公が亡くなると、秦の国君の位についた。武公の子の白を平陽に封じた。雍城の大鄭宮に居を定め、犠牲三牢を供えて鄜畤を祀った。在位二年で没した。
秦の宣公(?~前664)
在位前676~前664。秦の徳公の長男。徳公が亡くなると、秦の国君の位についた。四年(前672)、密畤を作って青帝を祀った。晋と河陽に戦って勝利した。
秦の成公(?~前660)
在位前664~前660。秦の徳公の次男。兄の宣公が亡くなると、秦の国君の位についた。即位後、梁伯・芮伯が来朝した。在位四年で没した。
秦の穆公(?~前621)
繆公とも書く。姓は嬴、名は任好。在位前660~前621。秦の徳公の末子。次兄の成公が亡くなると、跡を継いで秦の国君となった。百里奚・蹇叔・由余らの賢臣に国政を任せた。元年(前659)、軍を率いて茅津の戎を討った。九年(前651)、晋の献公(詭諸)が没し、夷吾が八城の割譲の約をもって、秦に帰国の援助を求めた。穆公は、百里奚に命じて夷吾を晋に送らせた。夷吾は晋の国君(恵公)となったが、八城の割譲の約を守らなかった。十三年(前647)に晋に干魃があったとき、穆公は晋に粟を送ったが、翌年に秦に飢饉が起こると、恵公は粟を送らなかった。さらに十五年(前645)、恵公は秦を攻めた。穆公は危地に陥ったが、穆公の恩を受けていた岐下の異民族三百人が穆公を救い、かえって恵公を捕らえることができた。穆公の妻が、恵公の姉であったため、その請願もあって晋の太子圉を人質とすることで、恵公は釈放された。だが、圉は逃亡したためこれを恨み、重耳を迎えて晋に送らせ、国君(文公)に立てさせた。その後、穆公は西戎の諸族を討ち、西戎の覇となった。
秦の康公(?~前609)
姓は嬴、名は罃。在位前621~前609。秦の穆公の子。兄弟四十人から選ばれて太子となった。穆公が亡くなると、秦の国君の位についた。元年(前620)、晋の襄公が亡くなったため、秦にいた襄公の弟の雍を立てるべく、護送させた。しかし晋では襄公の子の霊公が立ったため、晋が令狐で秦軍を討ち、秦軍は敗れた。翌年、晋軍を武城に破って、令狐の敗戦にむくいた。六年(前615)、河曲で戦って、晋軍を大いに破った。
秦の共公(?~前604)
姓は嬴、名は和。在位前609~前604。秦の康公の子。康公が亡くなると、秦の国君の位についた。晋とあい争い、たがいに勝敗があった。在位五年で没した。
秦の桓公(?~前577)
姓は嬴、名は栄。在位前604~前577。秦の共公の子。共公が亡くなると、秦の国君の位についた。十年(前594)、軍を発して晋を攻めたが、晋の魏顆に輔氏で敗れた。二十四年(前580)、晋の厲公と令孤で会することになったが、お互い渡河せず、対岸で使者を交わして盟を結んだ。しかし帰国すると、盟にそむき、戎翟とともに晋を討った。二十六年(前578)、晋が諸侯を率いて来攻し、麻隧で敗れた。
秦の景公(?~前537)
一説によると、名は后伯車。在位前577~前537。秦の桓公の子。桓公が亡くなると、秦の国君の位についた。十五年(前562)、鄭を救援するために出兵して、晋軍と櫟で戦い、これを破った。十八年(前559)、晋が櫟の敗戦に報復するため、諸侯を率いて来襲し、秦軍は敗走し、晋軍は棫林までいたって撤退した。二十七年(前550)、晋の平公と講和し、盟を誓ったが、まもなくそむいた。
秦の哀公(?~前501)
秦の柏公ともいう。在位前537~前501。秦の景公の子。景公が亡くなると、秦の国君の位についた。三十一年(前506)、呉の闔閭が楚を討ち、楚の昭王が郢から逐われた。楚の大夫の申包胥が秦の救援を求めて、秦の宮廷で七日にわたって哭したため、哀公は兵を発して呉軍を破り、楚の昭王は郢に帰ることができた。
秦の恵公(?~前491)
在位前501~前491。秦の夷公の子。哀公の孫にあたる。哀公が亡くなると、秦の国君の位についた。在位十年で没した。
秦の悼公(?~前477)
在位前491~前477。秦の恵公の子。恵公が亡くなると、秦の国君の位についた。在位十四年で没した。
秦の厲共公(?~前443)
秦の刺龔公ともいう。在位前477~前443。秦の悼公の子。悼公が亡くなると、秦の国君の位についた。十六年(前461)、黄河に沿って溝を掘り、大茘を討って、滅ぼした。三十三年(前444)、義渠を討って、その王を捕らえた。
秦の躁公(?~前429)
在位前443~前429。秦の厲共公の子。厲共公が亡くなると、秦の国君の位についた。二年(前441)、南鄭で乱が起こった。十三年(前430)、義渠の軍が来攻し、渭北にまでいたった。
秦の懐公(?~前425)
在位前429~前425。秦の厲共公の子。躁公の弟にあたる。晋にあった。躁公が亡くなると、迎えられて秦の国君の位についた。四年(前425)、庶長晁と大臣の兵に囲まれて自殺した。
秦の霊公(?~前415)
秦の粛霊公ともいう。在位前425~前415。昭子の子。秦の懐公の孫にあたる。懐公が殺されると、父の昭子も夭死し、かれが秦の国君の位についた。涇陽に都を置いた。三年(前422)、呉山の南に上下畤を作り、上畤は黄帝を祭り、下畤は炎帝を祭った。六年(前419)、魏が少梁に城を築くと、秦軍がこれを討った。十年(前415)、籍姑に城を築き、魏の西進をはばんだ。
秦の簡公(?~前400)
姓は嬴、名は悼子。在位前415~前400。秦の懐公の子。霊公の叔父にあたる。霊公が亡くなると、秦の国君の位についた。六年(前409)、はじめて役人に帯剣させた。洛水に溝を掘り、重泉に長城を築いた。
秦の恵公(?~前387)
在位前400~前387。秦の簡公の子。簡公が亡くなると、秦の国君の位についた。十三年(前387)、蜀を討って、南鄭を取った。
秦の出公(前388~前385)
出子。在位前387~前385。秦の恵公の子。恵公が亡くなると、秦の国君の位についた。かれの母と宦官たちが秦の国政を掌握し、国人たちの不満が高まった。二年(前385)、大庶長菌が公子連(献公)を河西に迎えて擁立すると、出子とその母は殺された。
秦の献公(?~前362)
名は連。またの名を師隰。在位前385~前362。秦の霊公の子。はじめ魏に出奔した。出子二年(前385)、庶長菌が出子を廃位すると、連は菌に迎えられて帰国し、秦の国君に擁立された。殉死の制を廃し、櫟陽に城を築き、蒲・藍田に県を設けた。七年(前378)、はじめて市をおこなわせた。十年(前375)、戸籍を立てて、五家を一組(伍)とした。二十一年(前364)、魏と石門で戦って勝利し、周王が黼黻を賜って祝った。短命の君主が続いた混乱期を脱し、秦が戦国七雄の一国として強盛をしめすようになったのは、かれの治世からである。
秦の孝公(前381~前338)
姓は嬴、名は渠梁。在位前362~前338。秦の献公の子。献公が亡くなると、秦の国君の位についた。六年(前356)、商鞅を左庶長とし、変法を断行した。内政においては農耕や紡績を奨励し、軍には信賞必罰を明らかにしたので、富国強兵に成功した。十二年(前350)、櫟陽から咸陽に遷都した。四十一県を置き、辺境に新たな農地を開いた。十四年(前348)、賦を設け、戸ごと丁ごとに軍賦を徴収した。十九年(前343)、周により伯と認められた。翌年、諸侯の慶賀を受けた。秦の強勢はかれの治世よりはじまった。
商鞅(?~前338)
姓は公孫、名は鞅。衛鞅、商君、商子とも呼ばれた。衛の人。若いころ、刑名の学問を好み、魏の宰相の公叔座に仕えて、その中庶子をつとめた。公叔の病が重くなると、公叔は魏の恵王に公孫鞅を宰相にするよう推薦した。恵王は鞅を用いようとしなかった。公叔の死後、秦の孝公のもとに赴き、三度にわたって面会した。初めは帝道を説き、次に王道を説いたが、孝公は興味を示さなかった。最後に覇道について話すと孝公は興味を示した。孝公は鞅を登用し、左庶長に任じて、改革・変法に当たらせた。五戸を一保として互いに監視・連座させ、刑罰の軽重を決め、信賞必罰を明らかにし、爵位・階級をさだめた。秦の太子が法を犯したとき、その傅の公子虔の鼻を削ぎ、師の公孫賈に黥して、法の厳格な適用を示した。のちに大良造に任ぜられて、軍を率いて魏の安邑を包囲し降した。咸陽に冀闕・宮殿を造営して、雍より遷都させた。県制を定め、度量衡を統一した。魏が斉に馬陵で敗れた翌年(前340)、再び魏を討ち、黄河の西の土地を割譲させた。鞅は列侯とされ、於・商の地に封じられて、秦の宰相となった。秦の孝公が没し、太子(恵王)が立つと、公子虔らが商鞅の謀反を訴えた。鞅は逃亡し、宿に泊まろうとしたが、商君の定めた法で、手形のないものは泊められないと拒否された。国を出て魏に行くと捕らえられて秦に護送された。途中に逃げて領地で兵を起こしたが、敗れて再び捕らえられ、車裂の刑を受けて死んだ。一族もみな連座して処刑された。
秦の恵文王(前356~前311)
姓は嬴、名は駟。在位前338~前311。秦の孝公の子。孝公が亡くなると、秦の国君の位についた。即位後、商鞅を捕らえて車裂に処したが、その新法は改めることがなかった。二年(前336)、はじめて銭を通行させた。八年(前330)、大良造公孫衍に魏を討たせ、彫陰で魏軍を破り、魏将の竜賈を捕らえ、河西の地を確保した。十一年(前327)、焦・曲沃の地を魏に返還した。十三年(前325)、はじめて王と称した。翌年、更元した。更元九年(前316)、司馬錯の策を用い、張儀・司馬錯を遣わして蜀を討たせ、蜀軍を葭萌で破った。十三年(前312)、魏章に楚軍を丹陽で破らせ、楚の将七十余人を捕らえ、楚の漢中の地を奪った。また斉を攻めて、濮水にまでいたった。
張儀(?~前309)
魏の人。蘇秦とともに鬼谷子に学んだ。楚の璧が紛失したとき、疑われて笞打たれたことがあったが、「舌が残っていれば充分」とうそぶいたという。同門の蘇秦を頼って趙へ行くと、辱められたので、その報復を誓って秦に入った。秦の恵王に任用されて、客卿となった。秦は蜀を平定し、また魏を伐って上郡・少梁を得て、人質を差し出させた。張儀は秦の宰相にのぼり、齧桑で斉・楚の宰相と会談した。秦の宰相を免ぜられて、秦のために魏に赴いた。魏でも宰相に取り立てられた。魏が秦や斉に敗れると、魏に秦と和睦させ、連衡を図った。秦に帰って宰相に復帰した。斉と楚の同盟を破壊するために、楚に赴き、商・於の地六百里を楚に献上するかわりに、斉との盟約を切るようにうながした。楚は斉との盟を絶ったが、張儀は六里を献上すると言い出した。だまされたことを知った楚は、秦を攻めたが、秦と斉に挟撃されて大敗した。秦・楚が和睦すると、楚は張儀の身を要求した。張儀は楚に赴いたが、楚の家臣・靳尚を通じて、楚王の夫人・鄭袖に取り入って工作し、殺されずにすんだ。楚から韓に行き、秦と韓を同盟させた。張儀は領地を与えられ、武信君と称した。さらに斉・趙・燕をまわり、秦との同盟に成功した。ここに秦と六国との同盟が成立し、連衡が成った。秦の恵王が死に、武王が立つと、群臣がさかんに張儀のことを讒言したので、身辺に不安を覚えた張儀は魏に行った。魏の宰相として一年いたが、そこで没した。
秦の武王(前328~前307)
姓は嬴、名は蕩。在位前311~前307。秦の恵文王の子。恵文王が亡くなると、秦の国君の位についた。即位後、張儀・魏章を追放した。二年(前309)、はじめて丞相を置き、樗里疾を右丞相に、甘茂を左丞相にした。翌年、甘茂に軍を率いさせて韓の宜陽を奪った。黄河を渡り、武遂に城を築かせた。武王は勇武を好み、力士の任鄙・烏獲・孟説を大官に取り立てた。
甘茂(?~?)
下蔡の人。下蔡の史挙のもとで百家の術を学んだ。張儀や樗里子の推薦で秦の恵文王(駟)に仕えた。魏章を補佐して楚の漢中の地を攻め取った。武王(蕩)が立つと、蜀の陳荘の乱を平定した。武王二年(前309)、秦にはじめて丞相が置かれると、左丞相に任ぜられた。翌年、軍を率いて韓の宜陽を奪った。昭襄王(稷)が立つと、向寿・公孫奭との間が険悪になり、身の危険を感じて斉に亡命した。斉の湣王に上卿の礼で待遇された。魏で没した。
秦の昭王(?~前251)
昭襄王。姓は嬴、名は稷。在位前307~前251。秦の恵文王の子。武王の異母弟にあたる。武王が亡くなると、秦の国君の位についた。母の宣太后が摂政し、太后の弟の魏冉が相となった。司馬錯・白起らの将を用いて三晋を討ち、斉・楚を攻め、魏の河東・南陽を取り、楚の巫郡・黔中を奪い、北は太原・上党を定め、南は蜀を平らげた。四十一年(前266)、魏冉に代えて范雎を相とした。四十七年(260)、趙軍を長平に攻め、趙の降兵四十万を坑殺した。以後六国は衰退し、秦はひとり強盛をほこり、秦の統一の基礎を築いた。
魏冉(?~?)
秦の人。秦の宣太后の異父弟にあたる。恵王・武王に仕えて信任された。武王が薨ずると昭王を擁立し、季君の乱を鎮めた。武王の后を魏に追放し、昭王の兄弟で従わない者を全て滅ぼした。昭王が幼少のため、宣太后とともに後見につき政務を任された。次いで楼緩に代わって宰相に上った。白起を推挙して将軍とし、韓・魏を攻めさせた。のちに穣・陶の地に封ぜられ、穣侯と呼ばれた。昭王の三十二年(前275)、相国の位に上り、兵を率いて魏を攻め大梁を囲んだ。しかし、魏の大夫・須賈の言を受けて包囲を解いた。また魏・趙を撃ったのち、斉を攻めようとしたが、蘇代の言を容れて斉攻撃をいったん取りやめた。三十六年(前271)には斉を伐ち、剛・寿の地を奪った。だが、范雎が昭王に信任を受けるようになると、四十二年(前265)に相国の位を免じられ、封地の陶に隠棲を余儀なくされた。
白起(?~前257)
郿の人。用兵にたけ、秦の昭王に仕えた。昭王の十三年(前294)、左庶長として兵を率い、韓の新城を攻めた。翌年、左更に昇進し、韓・魏を攻めて、伊闕で決戦して勝利した。韓の安邑を奪い、国尉に昇進した。翌年、大良造に昇進、魏の都を落とし、六十一城を奪った。昭王の二十八年(前279)、楚を攻めて鄢と鄧を取った。翌年、楚を攻めて郢を落とし、夷陵を焼き払い、竟陵に達した。封ぜられて、武安君と称した。翌年、楚の巫郡・黔中郡を平定した。昭王の三十四年(前273)、魏を攻めて華陽を落とし、将軍・芒卯を敗走させた。昭王の四十三年(前264)から韓を攻めて、翌々年には韓の国土を分断し、上党を孤立させた。韓の上党の太守・馮亭は、秦に降るよりも隣接した趙に帰属することを選んだ。昭王の四十六年(前261)、趙と争った。翌年、秦の宰相・応侯(范雎)の策が功して、趙の将軍は廉頗から趙括に代えられた。白起は長平で趙軍に大勝し、四十万の捕虜を得たが、叛乱を恐れて、その捕虜をうまく騙して生き埋めにした。ただ年少の者二百四十人のみを趙に帰国させたという。この後、白起の功業の巨大さを恐れた宰相・応侯と不和となった。秦軍は趙都・邯鄲の包囲戦に入ったが、白起は病気のため出陣せず、病気が平癒した後も出馬しようとはしなかった。楚の春申君らの軍が趙を救援して秦軍は危地に立ったが、白起は重病と称して動かないので、一兵士に落とされ、陰密に流されることとなった。咸陽の都を立ち退いたところを秦王から自決の命令が下った。長平で趙の降兵四十万を生き埋めにした報いがきたと言い残して自殺した。
秦の孝文王(前302~前250)
姓は嬴、名は柱。在位前251~前250。秦の昭王の子。安国君に封ぜられた。昭王四十二年(前265)、秦の太子に立てられた。昭王が亡くなると、秦の国君の位についた。罪人を赦し、功臣と親戚を厚遇し、苑囿の禁を緩めた。在位一年で没した。
秦の荘襄王(?~前247)
子楚。姓は嬴、名は異人。在位前250~前247。秦の孝文王の子。母は夏姫。妾腹の子であったため、秦の公子の中でも軽く扱われていた。趙に人質に出されたが、生活は苦しかった。その人質時代に、邯鄲で呂不韋に見出された。呂不韋はこの不遇な公子に大金を投資した。おかげで子楚は、諸侯や大夫たちと交際することができ、また安国君の正妻の華陽夫人に取り入ることができた。華陽夫人の養子となり、安国君の後継と認められた。呂不韋の愛妾(趙姫)に惚れ込んで、貰い受けて夫人とした。この夫人が政(のちの始皇帝)を生んだ。趙と秦が争い、秦軍が邯鄲を包囲すると、殺されそうになったが、役人に賄賂を贈って逃れ、秦に帰国した。秦の昭王がその五十六年(前251)に没すると、安国君が即位して(孝文王)、華陽夫人が后となり、子楚が太子となった。孝文王は即位後わずか一年で没し、子楚は秦王として即位した。呂不韋を丞相として文信侯に封じた。蒙驁・王齕らを将として、東周を滅ぼさせ、韓・魏・趙を討たせ、三川・太原郡を置いた。即位後三年して荘襄王は没した。
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