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第一章(Historical)

九州王朝説の意義(Historical)

第一章

まず、九州王朝説そのものの立をここで振り返ってみたい。もちろん、詳細な論証は、古田武彦自身の著作が最適なのであって、ここでそれを再論するつもりもない(拙稿「九州王朝とは」も参照)。今は、九州王朝説の誕生したその論理的展開を追えれば十分だ。

古田がその出点としたのは、言うまでもなく『人伝』だ。彼はあくまで『人伝』に内在し続け、卑弥呼の居城を九州博多湾岸に特定した。古田は第一著(古田武彦『「邪馬台国」はなかった』朝日聞社、一九七一年[朝日文庫、一九九二年])の末尾で次のように言っている。

   わたしたちの守りとおしてきたのは、ほかでもない。『三国志』倭人伝を原文が指さすとおりに読む。―この一点だったのである。
   後代の手で原文を変更してしまったり、後代の頭で”水増し解釈”や”割引き解釈”をする。そんな従来のやり口をキッパリ捨て去ったとき、おのずから従来の「常識」とは異なった新しい地域がつぎつぎと姿をあらわしてきたのであった。
   到着点は出発点である。わたしたちは今、いたった地点からただちに出発せねばならぬだろう。〈『「邪馬台国」はなかった』第六章、四〉
   この、わたしたちの行きとおす道は、「邪馬壹国」の山頂から、すでに歴々と、眼前はるかに見はるかされているのである。
   もはや鳥瞰図は完成し、論証はふたたび自動的に展開されている。先にも述べたように、一つの新しさは第二・第三の新しさを呼びさましつづけている、といっていい。〈同〉

そして第二著(古田武彦『失われた九州王朝』朝日聞社、一九七三年[朝日文庫、一九九三年])の冒頭でも、同じように述べる。

   ”陳寿を信じとおす”わたしは前の本の序文でそう言った。陳寿は『三国志』の著者である。わたしの用法では、”信じる”とは”妄信する”の反対語だ。『三国志』に真正面から立ち向い、その一字一句、綿密に調べ抜く。そして、科学的に実証することなしに安易な「原文改定」を行わない。―これが、”陳寿を信じる”わたしの立場だった。
   だから、この研究方法はそのまま『三国志』以外の中国史書に対するわたしの立場である。『後漢書』『宋書』『隋書』『旧唐書』、それらの語る倭国像に対し、わたしは耳を傾けつくそうとしたのである。
   そのとき、わたしには一つの掟があった。それは、これまでの古代史の常識、つまり、『古事記』『日本書紀』によって養われた通念の中へ、いわば”ひっぱりこんで”こじつけない、という単純な一点だった。〈『失われた九州王朝』はじめに〉

こうして、『人伝』を出した古田武彦は、次に『後漢書』『宋書』『隋書』『旧唐書』といった中国側の史書へ向かう。

『失われた九州王朝』の冒頭に「連鎖の論理」と銘打った序章がある。ここでは、先に挙げた中国側同時代文献が、こぞって、二~七世紀の「倭国」は同一王朝である、と主張していることが確認される。『旧唐書』の日本伝においてはじめて二つめの王朝が登場するのだ、という。

   なぜなら、すでに『「邪馬台国」はなかった』において”卑弥呼の国は九州博多湾岸に存在した王朝”であるという結論に達した。いかなる先入観念にも依存せず、『三国志』魏志倭人伝そのものに対するもっとも正確な史料批判による限り、どうしてもそのような帰結に到達するほかない。―これが今、わたしの研究の原点である。
   この原点に「前一~二世紀より七世紀までの倭国は同一王朝である」という「中国側の目」による命題、これを結合すれば、一体どうなるだろう。”その同一王朝は博多湾岸を基点とする九州王朝でなければならぬ”という驚くべき帰結に至るほかない。〈同書、序章〉

実のところ、古田の九州王朝説は、ここで八~九割近く完しているのだと言っていい。『失われた九州王朝』は、否、その後の古田の著作は、この「仮説」の検証作業なのだ、と言えるだろう。

   一つの仮説を立て、それが多くの現象(歴史学では史料事実や遺物の事実)をいかに過不足なく説明できるか―その検証こそ学問だからである。〈同書、第五章、四〉

まさにそれを古田は実践してきた。誤解してはいけない。九州王朝説は、『「邪馬台国」はなかった』と『失われた九州王朝』の序章で、ほぼ完しているのだ。もちろん、古田自身も、彼に追随する研究者達も、そこで終わるつもりはないであろうし、終わってもいけない。しかし、例えば著名な「盗用説」さえ、九州王朝説にとっては、さして重要なものではない。それを批判したところで、九州王朝説は、根本的には揺らぐことはない。このような事実を把握しておくことは、なんとしても必要なのである。

さて、古田武彦の記紀に対する態度を見ておこう。の五王と記紀の説話を比較しようとしているときの、次のような古田の言葉を聴いておこう。

   津田史学からの批判以来、つぎのような見地がわが国の古代史学界に一般化している。それは”記紀の説話は編者の「造作」の上に成り立っている。だから、これを直ちに史実としてとりあつかうことはできない”と。すなわち、他に確実なささえ、つまり中国史書や金石史料の裏付けなしには、記紀の説話を「史実」としてあつかうことはできぬ、というのだ。
   (中略)
   今、わたしが問題にしようとしているのは、この旧辞部分と『宋書』の関係だ。津田の批判をうけた井上らの立場からいえば、「あわない」ことはなんら問題となりえない。本来帝紀部分と旧辞部分は別々の「淵源」あるいは「造作」に立つものだから、片方は信用でき、片方は信用できぬ―それで一向さしつかえはない、ということとなろう。〈同書、第二章、一〉

古田の記紀への眼差しは、『失われた九州王朝』の時点では、戦後歴史学(特に津田左右吉―井上光貞路線)のそれと実は大差ない。基本的には記紀を造作の書と見ている。寿や沈約(『宋書』の著者)に対する信頼とはかけ離れている。范曄(『後漢書』の著者)や姚思廉(『梁書』の著者)に対する態度とも微妙に違う。古田も、津田や井上も、記紀をそのままでは信用しないという立場に立っている。違うのは、その後だ。

   これ(雄略記の呉人渡来記事―河西注)が六代を通じて、中国の国名のあらわれる唯一の記事だ。これはどうしたことだろう。『宋書』倭国伝にあらわれた頻繁な貢献とあまりにもちがいすぎるではないか。いわんや倭王武の上表文など片鱗も姿を見せない。だから、結局”何しろ、記紀の説話は信用できないのだから”という答えで切り抜けるほかない。
   (中略)
   そして何よりもこの六代は、対外的に平穏そのものだ。外国との戦火のにおいなど全くない。これと、高句麗に対する軍事的劣勢の中で悲痛な声を発している倭王武の面影とは、全く面目を異にしている。
   (中略)
   結局ここでも”なにせ記紀の説話は……”という「万能の史料不信論」にたち返り、それを盾とするしかない。〈同〉

古田が最後に述べている「万能の史料不信論」とはどういうことだろうか。記紀に対する造作説の立場からすれば、記紀と中国側文献があわないことは、なんら不審ではなかったはずだ。問題は、その後である。戦後史学がそのように言うことによって、彼らの何が守られるのだろうか。古田は、戦後史学が「記紀不信論」によって、なんとしても守ろうとしているものを、嗅ぎつけているのである。それは、古田が「記紀の説話と『宋書』の記述が一致しない」ことによって得た結論を見れば、直ちに判明する。つまり、「の五王は天皇家或いは大和朝廷とは無関係である」という結論だ。結果的に言えば、戦後史学は、「記紀不信論」によって、この結論を逃れた。それは、彼らの意図はどうあれ、「天皇家」「大和朝廷」を守ることに他ならない。

古田は既に、『失われた九州王朝』において、記紀が国外史料と根本的なところで「一致」しないことを確認している。一致しない限り、記紀と結び付けて国外史料を理解することは、戦後史学の一般的方法論に反する。国外史料の裏付けを得るまで、記紀を使うことは出来ない、という認識は、古田と戦後史学の共有する方法論であるはずだ。古田と他の古代史家を分けたのは、「一致」をめぐる議論だったと言えるだろう。

   (倭の五王の比定をめぐる不審を挙げて―河西注)これでも、倭の五王と天皇名とが”だいたい一致する”などといえるのだろうか。『「邪馬台国」はなかった』で検証してきたように、『三国志』倭人伝の本文について、従来の学者は「邪馬壹国→邪馬臺国」「会稽東治→東冶」「景初二年→三年」といった「原文改定」を信じた。そして原文面に誤謬多しと称し、その上に立って「陸行一月」を「陸行一日」に、「南」を「東」に、といった風に、安易な「改定」を行なってきた。あの手口がここでも行なわれている。本質的には同じく、具体的にはさらに無遠慮に。〈『失われた九州王朝』第二章、一〉

要するにこういうことだ。一致しているかどうかを判定する為には、原文そのもので比較しなければならない。原文をいじった後で、「一致」を称したところで、それは全く意味がない。それなら、合って当然なのだ。なぜなら、合うように変えたのだから(それでもなお、「合わない」部分を残している!)。その際、何かの基準があるのだろうか。戦後史学は記紀を造作と判定した。したがって、記紀は基準となりえない。他方、中国側文献には、容赦なく「改定」の手を加えている。つまり、記紀も中国側文献も、戦後史学にとって基準ではない(考古学も基準にはなりえない。なぜなら、その知見の多くは、他ならぬ文献史料―記紀や中国側文献―を基準にしているからである。後述。)。

戦後史学は、いったい、史料的には何を基準としているのだろうか。それが問われなければならない。史料的根拠・科学的根拠のない基準、それは、一言で言うなら、「信仰」だ。「記紀に対する不信」は、その実、「天皇家或いは大和朝廷に対する信仰」なのだ。記紀を信用せず、かといって、中国側文献をも信用しない。このことを古田は「天皇家一主義」と非難するのだ。或いは、このようにも言えよう。「天皇」なる用語は、記紀にしかない。中国側文献(『漢書』~『旧唐書倭国伝)にはあらわれない。したがって、記紀を棄てた瞬間に、天皇も棄てなければならない。記紀を棄てたにもかかわらず、まだ、「天皇」について或いは大和朝廷について語ること、まさにそのことが「天皇家一史観」なのだ。

古田の記紀に対する目は両義的だ。第一義は偽りの書、第二義は天皇家内伝承を保持する書である。古田の立場は、既に「九州王朝説」の上に立っている。それは、既に『失われた九州王朝』において、仮説として、確固たる基盤を築いた。古田はそう考えている。そのことは、第三著(『盗まれた神話』朝日聞社、一九七五年[朝日文庫、一九九三年])の構を見れば明らかだ。「第一章、謎にみちた二書」で記紀の持つ矛盾点・疑問点を提示し、「第二章、いわゆる戦後史学への批判」でそれまでの説に疑問を投げかけ、「第三章、『記・紀』に見る九州王朝」で、九州王朝説からの解釈を図るのである。だから、古田の記紀解釈を、つまり、その主要な議論である「盗用説」を、九州王朝説の基盤に据えることは、論理的に誤りなのである。記紀の「盗用説」から九州王朝説が導かれるのではない。九州王朝説から「盗用説」が導かれるのだ。

しかし、『盗まれた神話』における古田の記紀に対する言説は、『失われた九州王朝』とは少し異なっている。

   津田史学の基本命題によれば、”『記・紀』の記事は、原則として信用できない”のだ。だから、中国側の史料の示す事実といくら一致しなくても、一向さしつかえがない。―こういう、一種”割り切れた”立場にはじめて立つことができたのである。そのうえで、”一致している”ところだけ、採用すればよい。こう考えたのである。これが先の井上の明晰な文面をささえている研究思想だ。しかし、この明晰さは、そのあまりの割り切り方のために、かえって人を不安にさせるのではあるまいか。そういった、一種”人工的な透明さ”を帯びている、とわたしは感ずる。〈『盗まれた神話』第二章〉
   ”『記・紀』の神話・説話群の語るところは、多く史実ではない”―この戦後史学の命題を、その極点までおしつめたのは、川副武胤である。
   彼によると、”『古事記』は一人の天才的作者の創作”である。むろん、近畿天皇家が東に西に日本列島統合を行なったこと自体は歴史事実だ。しかし、その史実と『古事記』の内容とは全く別個のものだ、というのである。
   (中略)
   つまり、簡単にいえば、”『古事記』は全くのお話(文学作品)だ。歴史事実とは関係がない”というのだ。戦前の人々が聞けば、仰天のあまり卒倒しそうな、この結論。ここに川副が到達したのは、方法的には津田の発想を全面的に徹底して展開したためであった。
   (中略)
   このような事実を前にするとき、一見奇想天外な川副理論の「卓越性」が浮かび上がってくる。川副は、『記・紀』の説話の中になんらかの史実の反映を見出そうとする戦後史学各派の説(のちに詳しく述べる)をエウヘミズム(神話を歴史と見なす立場)を残存させるものとして、はげしく攻撃するのである。たしかに川副においては、”『記・紀』の説話は文学的作品としての創作であり、要するに「お話」だから、史実と合わないのはあたりまえだ”―このように安んじていうことができるのである。
   『記・紀』説話と史実との完璧な切り離し、それが彼においてはじめて必要にして十分に成立した。すなわち川副理論は、戦後史学の到着点を示す最終の里程標となったのであった。
   だが、果たしてこれでいいのだろうか。〈同〉

これを、古田の記紀へ対する態度の変更と見るべきではない。古田の言うような「戦後史学の割り切り」の結果、その極点としての川副理論には、明らかに、「天皇家一史観」と古田が非難するような、「信仰」がある。「記紀は創作だが、天皇家或いは大和朝廷が古代の日本を支配していたことは事実である」と、言い切るのであるから。だから、この「割り切り」はやはり戦後史学の「信仰」を示している。この「割り切り」のおかげで、戦後史学は、一つの制限を免れることが出来た。記紀という制限である。その結果、戦後史学は安んじて、自由に自説を展開できるようになったと言っていい。なぜなら、記紀に一致しないことも、外国史料に一致しないことも、何ら根本的な問題ではなくなったからだ。現在の自由奔放な古代史の「創作活動」の状況を見れば、そのことは明らかであろう。それ故にこそ、古田をして「人を不安にさせる」だとか「これでいいのか」と言わしめるのである。

これに対し、古田のとった立場は、記紀の説話そのものが、史実を反映したものである可能性を残すものであった。

   『記・紀』の神話や説話は史実だろうか?いいかえれば史実をその中核にもっているものなのだろうか?
   この問いに答えるために、わたしはここに「未証説話」(いまだ史実として証明されない説話)という概念を新たに提起したいと思う。
   (中略)
   だが、それ以前やそれ以外の伝承も、それと同じく史実であるか?そう問いただすならば、誰人もふたたび沈黙するほかはないであろう。なぜなら、それを判定すべき基準尺が欠如しているのであるから。―このような説話をわたしは今、「未証説話」と呼ぶのである。〈『盗まれた神話』結び〉

古田は、記紀の説話を、それ自身としては、「史実である」とも「史実でない」とも決めていない。ただ、中国側文献や考古学史料の裏付けを得たときのみ、これを判定しうる、と言っている。これは、戦後史学の立場とは、似而非だと言わねばならない。なぜなら、津田左右吉以来、記紀神話は造作だと判定されているからだ。以来、神話や初期の天皇家について、史実を前提に語ることは、タブーとなった(アマチュア古代史家の間では、逆に記紀神話を史実として捉える向きがあるが、それは無条件に史実と認める立場が多く、これもまた似而非である。また、最近では森浩一などが戦後史学の風潮に抗議している。森浩一『日本神話の考古学』など)。古田においては、そのようなタブーは存在していない。この際、古田においては、「九州王朝」が何よりの基準尺となったことは言うまでもない。

古田の記紀説話解釈のポイントは、今までの記紀解釈の持つ、記紀説話に対する「神聖さ」を極力排除する点にある。記紀説話の中に、血生臭さ、殺戮、非道を見出すことにある。これが古田が九州王朝説を唱えるが故ではないことは、明らかであろう。津田の記紀解釈が、皇国史観のそれを一歩も出ることが無かった、したがって、戦後史学の記紀解釈が、その実皇国史観のそれと全く同じだった(だから、タブー視されたのである)こととは大きく異なると言っていい。この立場からも、古田の「近畿天皇家一史観」批判は読まれなければならない。古田は津田の記紀解釈を次のように判定している。

   また津田は、日向の古墳群をもって、「日向=皇室発祥地」説の立証にしようとする論者のあることをのべたうえ、つぎのようにいっている。
   「もし日向に古墳を遺したものが皇室と特殊の関係があることを、論証しようとするならば、其の古墳またはそこからの発掘品が皇室特有のものであって、他の豪族のものとしては決して許されない特徴がそこにあることを、明らかにしなければなるまい。ところが、さういふ立証はせられてゐないやうである」(津田『日本古典の研究、上』第二篇、第六章)
   右の津田の言葉の中には、”神武はすでに日向において他の豪族とは別格の、特異なる存在であった”ということを『記・紀』に書かれた命題」として疑わず、それに挑戦している、そのさまがありありとうかがわれる。
   たしかに、神武はこの地(日向)の一豪族の娘と結婚しているのであるから、それに類した存在であったかもしれぬ。日向の中の、多くの豪族たちの中の一つだ。しかしそれ以上でも、以下でもない。だから日向古墳群の中に神武の(親縁たちの)先祖なり、子孫なりの古墳がふくまれていたとしても、なにもそれが「他の豪族のものとしては決して許されない特徴」など、あるはずがないのである。津田もまた、「万世一系」の毒に骨髄を犯されている。―わたしは、深く歎息せざるをえなかった。〈『盗まれた神話』第九章〉

古田にとって、記紀は、天皇家の非道をも、赤裸々に告白すると言う意味で、真実を語る書なのである。古田は、神武東征を架空視する戦後史学に対し、皮肉を込めてこのように言う。

   それは、崇神や応神だけを史的実在とした。したがってそれ以前は、”いつか、だれかが、なにかの目的で、架空に作りあげたもの”と考えざるをえなかった。”いつ””だれ”に対して明確な答えの出ないのはやむをえないとしよう。七、八世紀か、そのいくらか前の近畿天皇家の史官だったとしておこう。
   しかし、一番の問題は”なんの目的で”に答えることだ。”なにを素材にして”とか、”なにを反映して”とか、それは多く議論された。すでに見てきたとおりだ。しかし、問いの核心は”なんのために?”だ。
   これに対して戦後史学の回答は、本質的に”家系を飾るため”という類のほかを出なかった。いや、論理的に”それ以外に出ることができない”のである。なぜなら、すでに侵入と殺戮の史実なし、と判定した以上、そのような侵入と殺戮のお話を作ったのはなぜか、と問うても、要するにそれは―誤解を恐れずにいえば―お話の作り手の”趣味”の問題であって、すでに”必然”の問題ではなくなっているのだ。
   わたしがたじろがず、見つめるのはこの一点である。天皇家自身は、”われわれは侵入と殺戮をあえて犯し、その上に立って支配しはじめた。しかし、それは天つ神の「神勅」という古き予言の実行であるから、なんら恥ずべき罪ではない。逆に、誇るべき功業なのだ”―このように断乎として主張しつづけてきた。わたしの目には『記・紀』全篇を一言で要約すれば、そのようにしか見えない。そしてここには権力者が自分の手に入れた支配の大地にスックと両足をふみしめ、一歩も退くまいとする気迫―その緊張をわたしは感ずる。これこそ「史実」の、重い、あまりにも重い手ごたえだ。
   しかるに、戦後史学はいいつづけてきた。”いや、そのようなことは、みな実際はなかったもの、とわたしたちは判定した。だから、なにも天皇家は、そんな「ひどい」ことをしたことはなかったのだ。ただ、あなたは、大和もしくは難波に「自生」し、機をえて「おのずからなる発展」をとげてきただけなのだ(あるいは、他から渡来してきて、ここに住みついた人々もあろう)。……そしてある日、大きくなった権力者の家系を飾り立てるため、「面白いお話」を造作しはじめただけなのです!”と。〈『盗まれた神話』第十一章〉

古田は、戦後史学のとってきた解釈が、実のところ、当人たちの意図に関わらず、結果的には「皇国史観」の延長、否、むしろ、その徹底に過ぎないと皮肉っているのである。ここでは、戦後史学は、記紀の中に記された非道の説話を葬り、規に、より平穏な説話を用意しなおした史官と見なされている。それが、「割り切り」の結果なのだ、と言いたいのである。

このような見方と、「記紀の盗用説」は全く別の態度のように見える。「盗用説」、それもまた一種の造作説なのだ。事実上のフリーハンドである。古田や同調する研究者(古賀達也など)が、国内史料の「盗用」を次々に「見」していることも、無理からぬところだ。なぜなら、記紀やその他史料における矛盾は全て「盗用」に帰することが出来うるのだから。九州王朝説の記紀に関する解釈は、実は、造作説と同じだけ或いはそれ以上のヴァリエーションを考えることが出来る。記紀を全くの偽物、架空の物語として、全て棄て去ることも可能だ。或いは、説話の骨格だけは生かし、全ての地名・人名を九州中心に解釈しなおすことも出来る(古田の最近の著作『古代史の十字路』『壬申大乱』などは、そのような立場に立った解釈が多い。)。

このような「盗用説」へ古田を向かわせたものは、「百済系三書」に対する古田の分析である。既に『失われた九州王朝』で、古田は「百済系三書」が本来九州王朝を示す史書を、『日本書紀』が取り込んだもの、と見なしていた。より、明白な例を挙げれば、『書紀』の『志』引用の手口を挙げることが出来よう。卑弥呼―古田にとって、彼女は九州王朝説の原点である―の記事を、さも神功皇后と同一人物であるかのように、神功皇后の事跡であるかのように、記載する。それと同じ手口が、神話・説話に対しても行われている、と古田は考えるのだ。その際、『志』の信憑性は問題ではない。『志』そのものはやはり同時代史料として、史実を伝える価値ある史料である。これと同じ論理を、記紀の説話に対しても向けた。説話そのものの信憑性と、それを編集・記載する編者への不信―これを別個のものとして扱うことによって、「盗用説」は立しているのだ。

そういうわけで、記紀に対する古田の態度は、やはり両義的なのである。