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第3章 『日本書紀』と中国史書の一致(Historical)

九州王朝説批判-川村明(Historical)

第3章 『日本書紀』と中国史書の一致
12.遣使の矛盾はなかった

 古田氏は『失われた九州王朝』の中で、対関係の国交記事が、中国史書と『日本書紀』では内容が食い違っていると主張し、これを九州王朝説の根拠の一つにしている。つまり、中国史書に出てくる倭国の遣使は、天皇家ではなく九州王朝の遣使だったというのである。ところが、この“内容が食い違っている”というのは、実は氏の大変な錯覚なのである。本節ではこの問題を詳しく論じよう。
 まず、すべての遣使の年次について、彼我の文献の一致度合いを確認しよう。【資料7】で、中国史書における代の日中国交記事を、(1)『通典』、(2)『旧唐書倭国伝、(3)同日本国伝、(4)同帝紀、(5)『会要』倭国伝、(6)同日本伝、(7)『新唐書』日本伝の別に取り出し、国内文献の代における日中国交記事を(9)としてまとめたが、中国史書の(1)~(7)に出てくる日中国交記事を、古い方から順に、(9)の国内文献の記事と比較してみよう。

 まず一番古いのは(1),(2),(5),(7)に出てくる631年の遣使と同年のからの高表仁の遣使で、それぞれ(9)の630年の第1次遣使と632年の高表仁来日記事に対応している。
 次は(4),(5),(7)に出てくる654年の遣使記事で、(9)の653年の第2次遣使又は654年の第3次遣使に対応している。
 次は(2)に出てくる648年の記事で、これは羅の遣使を通した「奉表」なので、からではなく、羅からへの遣使である。従って当然(9)には対応する記事がないが、『旧唐書羅伝には次のような羅からへの遣使記事が存在し、これに対応していると考えられる。

a  (貞観)二十二(=648)年、眞徳遣其弟國、伊賛干春秋及其子文正來朝。詔授春秋爲特進、文正爲左武將軍。春秋請詣國學觀釋奠及講論、太宗因賜以所制温湯及晉祠碑并撰 晉書。將歸國、令三品已上宴餞之、優禮甚稱。(舊書 列傳一百四十九上 東夷 羅)

 なぜなら、次の『日本書紀』孝徳紀の記事によれば、aに出てくる遣使者の春秋が、その前年(大化3年=647年)に日本を訪れているからである。

b  春正月戊子朔壬寅、射於朝庭。是日、高麗・羅、並遣使、貢獻調賦。…
 是歳、…羅遣上臣大阿飡春秋等、送博士小徳高向黒麻呂・小山中中臣連押熊、來獻孔雀一隻・鸚鵡一隻。仍以春秋爲質。春秋美姿顔、善談咲。(孝徳紀 大化3年条)

 次は(7)に出てくる659年の遣使で、(9)の同年の第4次遣使に対応している。
 次は(5),(7)に出てくる670年の遣使で、(9)の669年の第5次遣使に対応している。
 次は(1),(3),(4),(5),(6),(7)に出てくる則天武后の時代(史料によって701~703年の諸説あり)の遣使で、(9)の702年の第6次遣使に対応している。
 次は(3),(7)に出てくる717年の遣使で、(9)の同年の第7次遣使に対応している。
 次は(3),(7)に出てくる753年の遣使で、(9)の752年の第9次遣使に対応している。
 次は(4),(5)に出てくる777年の遣使で、(9)の同年の第10次遣使に対応している。
 次は(7)に出てくる780年の遣使で、(9)の779年の遣使(いわゆる公的な遣使でないためか、第何回という呼び方はされていない)に対応している。
 次は(3),(4),(7)に出てくる804年の遣使で、(9)の同年の第11次遣使に対応している。
 次は(3)の806年の記事である。その「…」の部分を省略しないで再度引用しよう。

c  年、日本國使判官高階眞人上言「前件學生、藝業稍、願歸本國、便請與 臣同歸。」從之。(舊書 列傳第一百四十九上 日本)

 すなわち「前件学生」である橘逸勢と空海が、高階真人の上言に従って日本に帰国した、という記事であり、これは遣使ではないため(9)には対応する記事がない。しかし、cの事実そのものは『橘逸勢伝』という国内文献に載っている。
 次は(3),(4),(5),(7)に出てくる838年又は839年の遣使で、(9)の838年の第12次遣使に対応している。
 最後は(4)に出てくる848年の遣使記事であるが、(9)には対応する記事はない。

 以上ですべてである。逐一確かめたとおり、『通典』『旧唐書』『会要』『新唐書』の各史書に出てくる「」及び「日本」との間の全ての国交記事のうち、最後の『旧唐書』帝紀の848年の日本国の遣使記事(これは平安時代であるから「九州王朝」とは関係ない)を除けば、すべて国内文献に書かれている天皇家の遣使と、年次が完全に一致している。
 すなわち、中国史書に出て来る奈良時代以前の・日本との国交記事は、すべて国内文献の天皇家の遣使記事に対応し、そこに「九州王朝」なるものが出て来る余地はないのである。
 ところが、この冷淡な事実に対して古田氏は、両者の遣使記事は、年次こそ一致しているが、その内容が異なると主張している。これは本当であろうか。一つずつ確認していこう。

 まずは630年の第1次遣使と、632年の高表仁の来日記事についてである。古田氏は、彼我の史書の記事に次のような矛盾があるという(『失われた九州王朝』第四章/二/と日本)。

A  『旧唐書』によれば、高表仁は王子と礼を争い、朝命を宣べずに還ったという。一方、舒明紀では、舒明天皇は「天子命ずる所の使、天皇の朝に到れりと聞きて迎へしむ」といい、これに対し、高表仁は「風寒まじき日に、船艘を飾整ひ、以て迎へ賜ふこと歓び悦まる」と答え、両者すこぶる仲むつまじく、何の不和のさまもない。

 実は、これは古田氏の大変な誤読なのである。Aでは舒明天皇が「天子命ずる所の使、天皇の朝に到れりと聞きて迎へしむ」と言っているかのように述べている。ところが、舒明紀の当該部分(【資料12】β参照)は次のようになっている。

d  則ち大伴連馬養を遣して、江口に迎へしむ。船三十二艘及び鼓・吹・旗幟、皆具に整飾へり。便ち高表仁等に告げて曰はく、「天子の命のたまへる使、天皇の朝に到れりと聞きて迎へしむ」といふ。

 すなわち「天子命ずる所の使、…」と言したのは舒明天皇自身ではなく、天皇の使者の大伴連馬養なのである。そもそも舒明紀には高表仁と舒明天皇との会見場面など書かれていない。従って、舒明紀と中国史書の間には古田氏の言うような矛盾など存在していないのである。
 ところがこの場合、単に矛盾していないというだけではない。今、さりげなく「舒明紀には高表仁と舒明天皇との会見場面など書かれていない」と述べたが、これは異例なことである。なぜなら正史たる『日本書紀』で、から正式の使者が天皇の朝に到ったとまで書いてあるのに、肝心の会見場面をカットするなどということは、通常は考えられないからである。そのような場合の理由として考えられるのは、「天皇と高表仁の会見において、天皇家にとって不名誉あるいは不都合な事態が生したので、その部分を故意にカットした」ということである。
 ところがAにもあるように、『旧唐書』には、まさに「高表仁が王子(他の中国史書では「王」。次項参照)と礼を争った」と記されている。すなわち日中双方の史書が「高表仁と天皇の会見において、不名誉な事件が起こった」ことを示唆しているのである。つまり両国の史書は、内容が矛盾しているどころか、逆に内容の一致を示唆しているのである。
 また、古田氏は続けて次のように述べている。

B  『旧唐書倭国伝には、高表仁の交渉手は「王子」とあるが、舒明紀には王子など出てこない。

 確かに『旧唐書』には高表仁の交渉手は「王子」と書いてある。しかし、同じ事件を記した他の中国史書では次のようになっている。

e  大貞觀五年、遣州刺史高仁表持節撫之。浮海數月方至。仁表無綏遠之才、與其王爭禮、不宣朝命而還、由是遂絶。(通典 邊防第一 
f  表仁無綏遠之才、與王爭禮、不宣朝命而還。(會要 巻九十九 國)
g  太宗貞觀五年、遣使者入朝。帝矜其遠、詔有司毋拘歳貢、遣州刺史高仁表往諭、與王爭禮不平、不肯宣天子命而還。(新唐書 列傳一百四十五 東夷 日夲)
h  高表仁、太宗時爲州刺史。貞觀十一年十一月、國使至。太宗矜其路遠、遣表仁持節撫之。浮海數月方至。表仁無綏遠之才、與其王爭禮、不宣朝命而還、繇是遂絶。(冊府龜 奉使部 失指)
i  國遣使入貢。上遣州刺史高表仁、持節往撫之。表仁與其王爭禮、不宣命而還。(資治通鑑 紀九 太宗貞觀五年十一月条)

 このように『旧唐書』以外の史書ではすべて「王子」でなく「王」となっている。従ってどちらかが誤りなわけであるが、多数決によっても(『旧唐書』以外はすべて「王」)、最古の文献によっても(最古の文献は『通典』)、正史に従うという方法論によっても(『新唐書』も正史)、どの方法論によっても、『旧唐書』の「王子」の方を正しいとすべき理由はない。
 古田氏はさらに述べる。

C  両者の年次も食い違う。『旧唐書』によれば、高表仁が倭国に使したのは舒明3(631)年なのに対し、『日本書紀』によれば、高表仁が近畿大和に使したのは舒明4年の8月である。

 確かに舒明紀の【資料12】βの冒頭には、“舒明4年8月に大が高表仁を遣わし、三田耜を送り、共に対馬に泊った”とある。古田氏は、この舒明4年8月というのを、高表仁がを出した月だと思っているようであるが、もしそうだとすると、これに続いて難波津に着いたのは10月4日だと書いてあるのに、対馬に着いた日が書いていないことになる。
 実は、天智4(665)年9月のからの使者劉徳高らの遣使年次についても同様な問題があるので、これを先に考えよう。古田氏は述べる(『失われた九州王朝』第四章/二/からの使者)。

D  天智紀によれば、天智4年9月23日に、は劉徳高らをわが国に遣わした(【資料12】ι)。
E  ところがこの記事の注に、9月20日に筑紫に至り、22日に表函を進る、とある。
F  従って、劉徳高がを出した9月23日の方が、表函を進った9月22日より後になっているという矛盾がある。
G  そこで、は劉徳高らを、天皇家に先立って、実は九州王朝に派遣しており、まず9月22日に劉徳高らは九州王朝に表函を進り、続いては、翌23日彼らを今度は天皇家への使者として近畿へ派遣したと考えれば、日付の矛盾はなくなる。

 古田氏は、Dを「9月23日に劉徳高らがを出した」という意味だとすると日付が矛盾するので、これは「9月23日に劉徳高らが九州王朝を出した」という意味だとする。しかし、「九州王朝で用を済ませ、大和に向かった日」のことを「が大和に遣使した日」と呼ぶ、などというのは、どう考えても苦しい解釈である。
 実は、Fで矛盾があるように見えた理由は、Dの9月23日を「出した日」と解釈したところにある。Dは、劉徳高らを送り出した中国側の史書ではなく、彼らを受け入れた日本側の史書の記事なのだから、9月23日は、「出した日」ではなく、「目的地に着いた日」、更にいえば「からの使者を正式に受け入れた日」を意味していると考えるべきである。そうすれば、ιの文中に一切史料上の根拠がない「九州王朝」など持ち出さなくてもよく、劉徳高らは9月20日に筑紫に至り、22日に表函を進り、そして23日に正式にそれを受理したと考えれば、日付の矛盾など初めから存在しないのである。

 さてここで、Cの問題に戻ろう。【資料12】βも国内文献の記事なのであるから、舒明4年8月というのは、高表仁がを出した月ではなく、対馬に着いた月を指すと考えるべきである。すると、高表仁は、中国を貞観5(=舒明3)年に出し(【資料1】β、【資料4】β)、舒明4年の8月に対馬に到着したことになり、彼我の史料に年次の矛盾などないのである。

 次は653年の第2次遣使と654年の第3次遣使についてである。これについて、古田氏は次のように述べている(『失われた九州王朝』第四章/二/代表王者はいつ交替したか)。

H  孝徳紀によれば、日本国の使節団は654年7月にの天子の接見をうけた。一方『旧唐書』本紀の倭国最後の朝貢は654年12月であるから、両者は同一の朝貢ではありえない。

 古田氏は、『旧唐書』本紀にある倭国の654年12月の遣使(【資料7】(4))に対応しうるのは、白雉5(654)年7月条にの天子との接見が書かれている【資料12】ζの遣使だけだと思っているようであるが、これは誤りである。なぜなら、孝徳紀によればこの年とその前年に前後して二回の遣使が派遣されているからである。【資料12】γによると、653年5月に「吉士長丹」らの第2次遣使が出し、εによると、翌654年2月には「河辺臣麻呂」らの第3次遣使がその後を追うように出している。そして、654年の7月条に天子との接見が記されているζの遣使というのは、その使者の名前から明らかなように、「吉士長丹」らの第2次遣使の方なのである。そして「河辺臣麻呂」らの第3次遣使がの天子に接見した月日は、εには「留連数月」とあるだけで、具体的に何月のことだとは書かれていない。従って、『旧唐書』本紀にある654年12月の遣使は、実は第3次遣使の方であったとすれば、何の矛盾もないのである。
 また古田氏は次のように述べる(『失われた九州王朝』第四章/二/不明の学問僧たち)。

I  孝徳紀白雉5年2月条の注(【資料12】εの後半部)に、伊吉博得の言として、遣使の学問僧等の消息が記されているが、そこに登場する13人のうち8人までが、遣使を送ったときの学問僧・学生等の名前に入っていない「不明」の人物である。

 古田氏は「伊吉博得の言」の中に現れる「不明の人物」を「九州王朝」の人物だと考えているようであるが、そう考えるべき必然性はない。なぜなら「伊吉博得の言」には、同時期に「に渡った人物」ではなく、「で死んだり、海難に遭ったり、から帰国した人物」が列挙されているのである。従って、ここに登場する人物が、すべてこの第2次又は第3次遣使のときにに渡った人物であるとは限らない。それ以前、例えば遣使や第1次遣使や、羅・百済経由で中国に渡った留学生などが混じっていたとしても何ら不思議ではないからである。

 次は『旧唐書倭国伝最後の648年の貢献記事についてである。古田氏は言う。

J  『旧唐書倭国伝の貞観22年(648)年の貢献記事に対し、孝徳紀にはその年にあたる大化4年条には全く遣使のことは書かれていない。
K  また、同記事にあるような「羅に附して表を奉ずる」という方法を天皇家が採ったという記事は、『日本書紀』全体を通じて一切ない。

 まずJであるが、既にaとbのところで触れたように、この貢献は「羅に附して表を奉じた」のであるから、に貢献したのは天皇家ではなく羅であり、したがって『日本書紀』に、対応する「天皇家の遣使」のことなど書かれていないのは当然である。既に示したように、大化3年条に、羅の春秋に渡る前年に来日したという関連記事bがある。
 また、Kについては、『日本書紀』には天皇家に不名誉な内容をカットしている例(例えば舒明天皇と高表仁の会見場面)すらあるのだから、他国を通じた遣使などという、正規の遣使とはいえない貢献方法のことなど、ことさら明記しなかったとしても何ら不思議ではない。

 次は659年の第4回遣使についてである。
 明5(659)年7月条(【資料12】θ)に、次のような蝦夷の男女2人を連れてに遣使した記事がある。

j  秋七月の丙子の朔戊寅(=3日)に、小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥を遣して、国に使せしむ。仍りて道奥の蝦夷男女二人を以て、の天子に示せたてまつる。

 同じ年の倭国の遣使を記した中国史書の記事は次のとおりである。

k  大顯慶四(659)年十月、隨國使人入朝。(通典 邊防第一 蝦夷)
l  蝦夷國、隨國使入朝。(冊府龜 外臣部 朝貢三 顯慶四(659)年十月条)
m  未幾、孝徳死、其子天豐財立。死、子天智立。明年、使者與蝦[虫夷]人偕朝。(新唐書 列傳一百四十五 東夷 日夲)

 『新唐書』は、多利思比孤を用明天皇の代に当てたり(実際は推古天皇の代)、咸亨(670)年を持統天皇の代に当てたり(実際は天智天皇の代)しているので、jの年次を天智天皇の代に当てている『新唐書』の年次は当てにならないが、『通典』kや『冊府龜』lの記事により、正しくは659年の出来事であることがわかる。
 『日本書紀』のjと中国史書のk~mは、年次だけでなく、蝦夷人を連れた遣使であったという内容まで一致しており、すべて同一事件を指していることは明らかである。ところが古田氏は次のように述べる(『失われた九州王朝』第四章/二/二つの使節団、第五章/一/蝦夷国)。

L  明5年条の「伊吉連博徳書」によると、「種」である「智興」の傔人である「西漢大麻呂」が、において天皇家の遣使(我が客)を、嘘を言って陥れたという。
M  『日本書紀』等には、天皇家が「種」の智興たちを使者とした使節団を派遣したなどという記事は一切ない。
N  従って、智興らは九州王朝の使者である。つまり天皇家と九州王朝が同時に遣使を送り、で両国の使節団が争いをおこしたのである。
O  「伊吉連博徳書」によれば、その結果、両国の使節団は共に朝によって幽閉された。

 まずMであるが、「伊吉連博徳書」がどのような素性の文献であるかが不明であり、『日本書紀』のような「公的」な立場で書かれたものとは限らないのだから、に渡った大和の人物のうち、「伊吉連博徳書」には記載されたが『日本書紀』には記載されない人物がいたとしても不思議ではない。従ってNの結論は短絡的である。それに古田氏は、使節団が幽閉された理由を、「智興の傔人」と伊吉連博徳ら「客」の、九州王朝と天皇家の大義名分争いのためだと考えているようであるが、「伊吉連博徳書」にはどこにもそんなことは書かれていない。客を幽閉したのは、【資料12】θの注の12月3日条にあるように、「國家來年必有海東之政」、すなわち「わが国(=)が、来年きっと海東(=朝鮮半島)の政(=征討)を行う」ためであって、「智興の傔人」と「客」の争いなど関係ないのである。
 以上で、L~Oは、内容まで一致している彼我の史書の記事を、あえて別事件だと主張できるような根拠にはなっていないことがわかった。

 次は669年の第5次遣使である。古田氏は次のように述べている(『失われた九州王朝』第四章/三/九州年号の最終証明)。

P  『冊府龜』は、北の大中祥符6(1013)年に真宗の勅を奉じて王欽若・楊億らが完した一千巻という大著の百科事典であり、・五代についての記事はとくに史料的価値が高いとされている。
Q  この『冊府龜』において、倭国の最終貢献記事と日本国の最初貢献記事は次のとおり。

	ア	咸亨元(670)年三月、[罽-厂]賓国獻方物。倭國王遣使賀平高麗。
	イ	(長安元(701)年)十月、日本國遣使、其大臣朝臣貢人、貢方物。(外臣部 朝貢三)

R  アの咸亨年は天智9年に当るが、天智紀天智9年条には、天皇が“が高麗を平定したことを賀して”遣使した記事などない。
S  ゆえにアの「倭国」は天皇家ではない。

 古田氏は『冊府龜』を持ち出しているが、次の『會要』の記事の方が立は早い。

n  咸亨年三月、遣使賀平高麗、爾後継來朝貢。(會要 國)

 それはともかくとして、Rを読むと、事情を知らない人は、『日本書紀』には咸亨(670)年の遣使に該当する記事が全く存在しないと思うのではないだろうか。しかし実際は、アの前年の天智8(669)年条に、小錦中河内直鯨等をに遣わした遣使記事が存在するのである(【資料12】κ)。Rの表現は、嘘ではないが、読者に対して不親切であろう。また「中国が高麗を平定したことを祝した」というのは中国側の言い分であって、日本側がそういう趣旨で遣使したという保証はなく、『日本書紀』にその旨書かれていないのは何ら不思議ではない。

 遣使のうち、古田氏が「内容が異なる」と主張しているのはこの第5次までなのだが、氏はさらに、『通典』『旧唐書』『会要』『新唐書』の夷蛮伝や帝紀には出てこない「泰山の召集」について触れているので、これを吟味しよう。
 麟徳(664)年7月、の高宗は、麟徳3(666)年に泰山に封禅の儀をあげる旨を告げ、諸王に麟徳2(665)年10月泰山に集まるよう命じた。そして、次の各記事によれば、麟徳2(665)年8月以降、劉仁軌は、を含む四か国の使と共に泰山に向った。

o  麟徳二(665)年、封泰山。仁軌領羅及百濟・耽羅・四國酋長赴會、高宗甚悦、櫂拜大司憲。(舊書 列傳第三十四 劉仁軌)
p  於是、仁軌領羅・百済・耽羅・人四國使、浮海西還、以赴太山之下。(冊府龜 巻九八一 外臣部 盟誓 高宗麟徳二(665)年八月条)

 さらに、次の記事によれば、麟徳2(665)年10月に洛陽をった諸国の中には「倭国」も加わっている。

q  二年十月丁卯、帝發東都、赴東獄。從駕文武兵士及儀仗・法物繼數百里。列營、置幕、彌亘郊原。突厥于闐・波斯・天竺國・罽賓・烏萇・崑崙・倭国、及羅・百濟・高麗等諸蕃酋長、各率其屬、扈從。穹廬氈帳及牛羊駝馬、填候道路。是時、頻歳豐稔、斗米至五錢、豆麥不列于市議者、以爲古來帝王封禪、未有若斯之盛者也。
 十二月丙午、至齊州,停十日。丙辰、發靈巖頓、至於太嶽之下。庚申、帝御行宮牙帳、以朝群臣。
(冊府龜 巻三六 帝王部 封禪二 麟徳二(665)年条)

 これに対して古田氏は次のように述べる(『失われた九州王朝』第四章/二/泰山の召集)。

T  麟徳2(665)年は天智4年に当るが、『日本書紀』天智紀にはこれに対応する記事がない。
U  天智紀の同年条には、12月14日以後に帰国した劉徳高等の帰途に、守君大石らが随行したかと見られる記事はあるが、12月の劉徳高等の帰に随行したのでは、同年8月にし10月には高宗の泰山に向う行列に参加している「倭国」の使ではありえない。

 Tで古田氏は“天智紀にはこれに関する記事がない”というが、天智4年条には、に人を派遣したという記事がある(【資料12】ι)。ただ、この遣使は“「泰山の召集」に対するものだ”とは書かれていないが、それは各中国史書の倭国伝や日本伝でも同じなのである。それどころか、中国史書の倭国伝や日本国伝には665年に遣使があった事実さえ書かれていない。一方で、古田氏は触れていないが、この事件は『旧唐書』の劉仁軌伝の中には書かれている(oの記事)。それにもかかわらず、倭国伝や日本伝には書かれていないということは、『旧唐書』列伝の著者は、この事件を知ってはいたが、倭国や日本にとって、古田氏が思うほど重大な出来事とは考えていなかったということであろう。
 またUは、天智紀の12月という月が『冊府亀』の記事と矛盾するというのであるが、ιを見ればわかるように、天智紀の本文には月など書いておらず、「是歳」と書かれているだけである。これを12月の出来事だと主張しているのは、その後に付いている注の中なのである。しかもιの太文字部分を見ればわかるように、12月と書いた別史料が存在していたわけではなく、わざわざ「蓋…乎」の構文を使って“この遣使は(12月の)劉徳高等の帰国時に彼らを送った時のことだろうか”と、これが注記者の単なる想像である旨を明記している。従って、これが『冊府亀』に書かれた月と矛盾するというのであれば、この「注記者の想像」が誤りだった、ということになるだけなのである。

 以上のように、中国史書に出てくる・日本間の遣使記事は、すべて国内文献におけると天皇家の間の遣使と年次が完全に一致しており、古田氏の言うような内容の齟齬も全く存在していない。言いかえると、遣使記事を比較する限り、中国史書の「」も「日本」もどちらも天皇家のことに他ならないのである。これは、少なくとも代に「九州王朝」なるものが存在したとする説にとっては、致命的な史料事実である。

 なお、本節の内容は、増村宏氏の「旧書日本伝の理解」(1977『鹿児島経大論集』所収)、及び古代史に関するbunn氏のコミュニケーション・ボード「大論争」の中の「大論争2」に投稿された#157のkouji氏の論文にほぼ全面的に依存している。両氏に感謝したい。
13.と日本の地理描写

 前節では、日中双方の史書における代の国交記事を比較し、そこには「九州王朝」なるものが出てくる余地がないことを確認した。ところが、これとは別に、九州王朝説の根拠の一つとして地理的描写の問題がある。本節ではこの問題を調べてみよう。
 『旧唐書』の倭国伝と日本伝には次の地理描写の記事がある。

a  在羅東南大海中、依山島而居。東西五月行、南北三月行、世與中國通。… 四面小島五十餘國、皆附屬焉。(舊書 東夷 國)
b  又云「其國界、東西南北各數千里、西界・南界咸至大海、東界・北界有大山爲限、山外即毛人之國。」(舊書 東夷 日夲)

 これらによると、「」の方は島であるのに対し、「日本」の方は、西と南は海に面し、東と北は山で限られていて、島であるという記述はない。すなわち倭国と日本国は地理的描写が全く異なるのである。これは一見、と日本が別国である明白な証拠であるかのように見える。
 ところが『会要』や『旧唐書』の地理関係記事を調べると、このような認識は誤りであることがわかるのである。その基礎データとなるのは『会要』倭国伝(【資料5】)のγの記事である。
 永徽五年の遣使記事に続いて、太文字部分に地理的な記述がある。それによると、倭国の東の海に、耶古・波耶・多尼の三国があり、これらはの附庸(=属国)であるという。
 ところでγには一つの謎がある。地理関係の記事というのは、伝の最初か最後に置くのが普通なのに、γの地理関係記事は、永徽五年と咸亨年の二つの遣使記事の間という、一見中途半端な位置に挿入されている。これはなぜであろうか。
 この疑問は『日本書紀』との比較によって解決する。耶古・波耶・多尼は、それぞれ屋久島、隼人、種子島を指すと思われ、『日本書紀』には、それぞれ掖玖・隼人・多禰嶋として登場する。これらの国々の記事を『日本書紀』から年代順にすべて抜き出したのが【資料13】である。
 このうち、1と2は隼人の由来に関する記事、3、4、7~9、12は特定の隼人や掖玖人に関する記事、10と11は田部連が屋久島に行って帰って来たという記事である。また、5と6には隼人が蝦夷とともに「内附」あるいは「帰附」してきたと書かれているが、諸橋大和によれば、「内附」は「来りつく。服従し来る」意、「帰附」は「したがいつく。心をよせて従う」意であるから、この段階ではまだこれらの国は日本の属国になるまでには至っていない。
 これに対して、次の13では、隼人と蝦夷は「内属」してきたという。この「内属」とは、諸橋大和によれば、「外国が降り来って属国となる」意であるから、この段階で始めて属国になったということになる。すなわち、掖玖・隼人・多禰嶋に関する記事の中で、最も早く属国になったことを告げているのが齊明(655)年の13の記事なのである。
 ところでこの655年という年次は、永徽五(654)年と咸亨(670)年の間にあたるが、『会要』の【資料5】γでは、まさにその両年次の遣使記事の間に「耶古・波耶・多尼の三国がの附庸だ」という記事がある。つまり、『会要』倭国伝のγは『日本書紀』の「内属」記事と対応しており、『会要』の著者は、この3国の内属の事実を、3国のうちで最も早くに内属した年次の所にまとめて挿入したのだと考えられるのである。これで【資料5】γの記事の位置に関する疑問が解決しただけでなく、『会要』の倭国というのはまさに天皇家のことに他ならない、ということもわかったのである。

 それでは『旧唐書』のa、bの違いの問題はどうなるのであろうか。このうち、bについては、中央アルプス以西の西日本の地理を表す描写として概ね正しく、ほとんど問題がないので、検討すべきはaの方である。まず、冒頭の「在羅東南大海中、依山島而居」は、『隋書』の「俀國在百濟・羅東南、水陸三千里、於大海之中、依山島而居」という記事から、代に滅んで『旧唐書』執筆時に存在しない「百済」を削り、里数も省略して引用したものと考えられる。また「東西五月行、南北三月行」も『隋書』の「其國境東西五月行、南北三月行、各至於海」の流用であろう。問題は最後の「四面小島五十餘國、皆附屬焉」である。この描写は実は『旧唐書』が初出なのである。それでは中国側は、このような倭国の「四面」が小島で、それらがに付属している、という認識をどのようして得たのであろうか。
 倭国の西や北に小島があるということは、の時代にへの遣使があり、対馬や壱岐という島を伝って来たのであるから、持っていて当然の認識といえよう。問題は南や東に島があるという認識をどうして得たかである。そこで先程の『会要』の【資料5】γ太文字部分を見てみると、倭国の東の海に耶古・波耶・多尼の三国があって、の附庸であると書かれている。屋久島や種子島が「倭国の東の海」にあるという認識は、が九州を指すとしても近畿を指すとしても事実に反するが、この誤った認識のもとでは、まさに倭国の東に島があって、それがに内属していることになる。また、γの太文字部分の最後には「南與接」とあるので、州までの領有する島が南に伸びているという認識を中国側は持っていたことがわかる。つまり倭国の南にも島があって、それがに内属しているという認識を中国は持っていた。これらの情報を総合すれば、『旧唐書倭国伝の「四面小島…皆附屬焉」という記事が書けることになる。
 ところで『会要』【資料5】γの倭国は天皇家だったのであるから、この情報をに書かれたaの記事を持つ『旧唐書』の倭国も、やはり天皇家だったということになる。つまり、『旧唐書』の「」も「日本」も同じ天皇家のことだったのである。これは前節の遣使記事の比較によって得られた結論と全く一致する。

 結局、『旧唐書』の「日本国者、倭国之別種也」という記事は誤りだった、という結論に到達したのであるが、それでは『旧唐書』夷蛮伝の著者がなぜこのような誤った認識を持ったのか、という理由を推測してみよう。aは『会要』の【資料5】γと同じ情報源から作られ、bは日本の使者から直接聞いた内容で、情報源を異にしたため、同一国の地理でありながら全く異なる描写になってしまった。そうとは知らない『旧唐書』の著者は、このaとbの食い違いを根拠に、せっかくの正しい認識である『通典』以来の「・日本同一国説」を誤りとして退け、「・日本別国説」という誤った判断を下してしまったのであろう。
 古田氏はaとbの違いを「・日本別国説」の根拠とした。ところが、同じ判断を『旧唐書』の著者が既に行っていたのである。すなわち古田氏は、『旧唐書』の著者と同じ情報(aとb)をもとに、同じ誤認を繰り返しただけだったのである。

 なお、最後に補足しておこう。孝徳紀によれば、白雉五(654)年二月に、遣使が中国で日本の地理を尋ねられた(【資料12】ε第二段落)。古田氏は、このときの答が『旧唐書』日本伝のbの情報源になったと述べている(『失われた九州王朝』第四章/二/代表王朝はいつ交替したか)。しかし、この654年(=永徽五年)という年次を考えると、これはむしろ『会要』倭国伝【資料5】γの太文字部分後半部の情報源になったのではないかと思われるのである。