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第5回  群雄割拠・三国志時代

中国史(第5回 三国志)
○今回の流れ
 まず最初に。
 三国志について詳しく書いて欲しい、というメールや依頼も多く来ていたので、この際思い切って大幅増補します。しかしそうしますと「この時代について詳しすぎる」という人も多いでしょう。ですから、まずは超簡単にこのページの概要を書きます。

 1.黄巾の乱が起こって後漢は大きく乱れ、群雄割拠。
 2.様々な争いの結果後漢は滅亡。操+丕親子の、劉備の)、孫権の立。
 3.に滅ぼされる
 4.は家臣に乗っ取られ、立。
 5.は、によって滅ぼされる。

 以上です。
 この流れを踏まえた上で、読みたい方は以下をどうぞ~。

○皇帝が遊んでいるようじゃあ・・・
 第12代皇帝の霊帝(位168~189年)は、宦官と外戚、それから流派と呼ばれる知識人達が争っている中、政治を放棄します。宦官に「良きに計らえ」と政治を任せ、自分は官職をで売り飛ばし、遊びに夢中になります。その遊びというのが面白いというか酷い。

 なんと後宮に、わざわざ市場を作って霊帝は商人の役になります。つまり、お店屋さんごっこをしていたわけです。
 上がこれですから、官僚も好き放題。農民から搾り取れるだけ搾り取る人間も現れます。そこから得た収入で、官職を買ったり・・・。さらに飢饉も起こり、人々の暮らしは非常に悪くなっていました。心のよりどころが欲しい・・・。

 よしきた!と立ち上がったのが、民間宗教・太平道の首領・張角(?~184年)です。彼は「大賢良師」と縁起の良い名前を名乗り、弟子達に各地で布教させ、信者を拡大。そして184年に、黄巾の乱を起こします。彼らは
「蒼天既に没し、黄天まさに立つべし」 (は滅んだ。これからは我々黄巾族が立つのだ!)
 をスローガンに中国全土で暴れ回り、張角は黄巾の乱のさなかに病死しますが、反乱の余波はその後10年も続き、瀕死の状態の後漢にとどめを刺しました。なぜ「とどめ」かと言いますと、これに乗じ、豪族達が完全に群雄割拠したからです。また、この反乱に乗じて各地から後に有力者となる人物が次々と出てきます。

 はじめ優勢だったのは、董卓(とうたく ?~192年)という男で、たに即位させた、幼い皇帝(献帝 けんてい)を擁してやりたい放題でした。これに対し、袁紹(えんしょう ?~202年)、袁術(えんじゅつ 袁紹の従兄弟)、劉岱、鮑信、操(155~220年)、孫堅(そんけん 156~192年)などは反董卓連合を形。これに対し董卓は、洛陽から住民数百万を、西の長安に強制移動させるという、ソ連のスターリンのような荒技にでます。そして、「おいこら、かかってこれるもんなら、かかってこいや」と構えます。

 実は董卓軍は強いんです。
 そのため、連合軍の武将達は、自分の軍がやられるのをためらい、なかなか攻撃できません。それでも、その中で操や孫堅が働き、このうち孫堅が意外と強く、董卓を困らせます。董卓は洛陽を焼き払うと長安に退き、防戦の構えを見せました。しかし董卓は、呂布(?~198年)という部下に殺されます。の時代に書かれた「三国志演義」という小説では、女性を巡るトラブルとなっていますが、理由は定かではありません。

操と一族
 その呂布は猛将として恐れられていましたが操によって倒されます。そして、名門出身の袁紹と操が激しく火花を散らすようになります。勢力差では袁紹の方が上でしたが、部下を使う能力が違いました。決定的だったのは、官渡の戦い(200~201年)です。

 袁紹の参謀、沮授(そじゅ)は言います。
「持久戦が良いでしょう。我々は敵より兵糧、物量では上ですが、兵の勇敢さでは敵に劣っています。」
 さらに、田豊(でんぽう)も言います。
操の用兵法は変幻自在です。あせることはありません。なにもこの一戦で決着を付ける必要はないのです」

 しかし、操を馬鹿にしていた袁紹は、軍をどんどん前に進めます。しかも、なおも田豊が「お待ちください!」とうるさいので、何と牢屋にぶち込んでしまいました。また、許攸(きょゆう)はこう言います。
「ならば、操は放っておいても良いでしょう。奴らを引きつけておいて、その好きに帝をお迎えするのです」
 ですが袁紹は
「ワシは操を捕まえるぞ。そっちが先決だ!」
 と、意地を張って聞き入れません。

 それでも、次第に操軍は追いつめられていき、袁紹の強行策は功するかに見えました。操は「撤退したいがどうか」と、部下の荀(じゅんいく)に尋ねます。これに対し彼は、
「敵は全兵力で我々を攻めているのです。まさに天下分け目。これを叩かずしてどうするのです」
 と檄を飛ばし、操は撤退を思いとどまります。そんなとき、先ほどの許攸が操に寝返ってきます。あまりの嬉しさに、操は裸足で飛び出していったとか。そして許攸は言います。
「実は、補給部隊がいるんですよ。しかも、大して敵に備えをしていません。これを攻撃して物資を焼けばいいのです。袁紹もそろそろ物資が無くなってきているので、これを無くしてしまえば大勝利!」
「おお、情報有り難い!」

 こうして、袁紹側は敗北し、袁紹は失意のうちに病死。操は天下にその名を轟かすことになります。ちなみに、袁紹はなんと、この戦いに反対した田豊を処刑するという暴挙にでています。「今頃奴はオレのことを笑っているだろう」というのが理由ですが、論外です!! きちんと部下の言うことには耳を傾けましょう。

 さて、そのうちに孫権(孫堅の息子)や劉備という勢力も台頭してきます。そして操と合わせて3つの勢力は、後に「」「」「」という3つの国となり興亡していくんですね。また、この経緯を書いたのが『三國志』で、この三国が滅亡したあとの晉の寿の著作です(寿は、々はの臣)。最初は私的な書物でしたが、彼の死後、正史として認められました。

 またその中でについて書かれた『書』の中に、通称『人伝』があります。ここに、、すなわち邪馬台国について書かれています。女王卑弥呼の使者がにやってきたからでした。

 古代日本の風俗は、中国の歴史書から解るのです。ちなみに、邪馬台国や、卑弥呼という字はヤマタイ、ヒミコに当て字をしたのですが、中国側から異民族に対する差別的な字が使われています。日本史では、カタカナで表記すべきではないでしょうか。

 さて、三国志のあらすじは、吉川英治の三国志や、横山光輝の漫画などでおなじみだと思います。しかし、一般に操が悪人で、劉備が正義のように書かれ、孫権がおまけのように扱われている漫画や小説が大半なので、詳しく知らない人向けの意味を込め、ちょっと解説してみましょう。

 こういった設定のになったのが、明の時代に羅貫中が著したとされる小説「三国志演義」です(作者は正確には不明)。この小説は、あくまでもエンターテイメント的小説のため、歴史の流れを曲げてはいないものの、あくまで読者におもしろおかしく、善悪をハッキリつけたり、色々な名場面が追加されるなどして書かれているのです。そのため確かに面白いですが、史実と違う部分もでてきます。

 ゆえに、操が悪人決めつけるのは間違いで、彼はずいぶん手荒なことをやっていますが、善政を心がけています。そして、とかく才能のある人物は、他人の才能を妬みがちですが、操は、例えば自分で孫子の兵法に注釈がつけられるほど才能があったのにも関わらず、人材を積極的に登用します。

 そして、礼儀正しいが仕事が出来ない人や、口ばっかりの人を遠ざけます。孔子の第20代目の子孫の孔融という男は、仕事をしないくせに理想論ばかりで操をへこませたため、殺されています。逆に、袁紹の部下の淋という男は、官渡の戦いの中で、
操の祖父は宦官で、君主にへつらい強欲だった。そして操の父は、その宦官の養子となり、賄賂で出世した。操も同じである。以下略・・・」       
 という、檄文を書き、これでもかこれでもかと操を罵倒しました。
 そして袁紹が負け、淋は捕らえられましたが、処刑されませんでした。何故でしょうか。

 それは、この文章が、檄文というジャンルでは名文で、操が正当にその能力を評価し、許したからです。ただし、「私を罵倒するのはいいが、父や祖父を罵倒するのは酷い」と一言だけ言いました。 また、操は当代きっての詩人でもあり、彼に比類できる当時の詩人は、息子の植(そうしょく 192~232年)だけだという話もあります。それだけ、彼は才人だったわけです。 彼の評判が悪いのは、の献帝を擁していたのにも関わらず、彼を利用するだけで、幽閉同然の生活をおくらせていたことでしょう。

 220年、彼の次男・丕(そうひ 文帝 187~位220~226年)は父の跡を継ぐと、献帝から皇帝の座を譲り受けるという形(これを、禅譲=ぜんじょう といいます)で、を建国しました。こうして、はついに滅亡しました。なお、その後の献帝は、大諸侯級の待遇を受け、ようやく不安定な地位から解放されたようです。それどころか、殺されなかっただけでもが寛大だったと言うべきでしょう。

 ちなみに操は、熱烈に優秀な人材を渇望していました。そのためでは、羣(ちんぐん ?~235年)の進言により九品中正法が実施されます。これは、地方に中正官をおき、人材を9等級(品)に分けて推薦させるものです。この制度は(ずい)という国家が登場するまで、後の各国でも採用されます。
の劉備と家臣団
 一方の劉備(先主 161~位221~223年)。この人物は、景帝の子孫を称しています。ゆえにの皇室に連なるということが最大のウリでしたが、実際の所はよくわかりません。彼は、むしろを売っていた貧乏人でした。しかし、景帝は子沢山でさらにその何代もあとの子孫ですから、落ちぶれた家もでていてもおかしくはありません。

 しかし劉備は、を建国した劉邦とうり二つのような人物で非常に魅力的であったようです。それが、ほとんど無一文であったのにも関わらず関羽(かんう ?~219年)・張飛(ちょうひ ?~221年)・雲(ちょううん ?~229年)といった勇猛な部下を得ることが出来ました。

 「の王室を助ける!」
 劉備達のそのメッセージと、そしてそれを達できず、志半ばで終わってしまったことは、後世の人々の涙を誘い、必要以上によく書かれました。しかし、それを差し引いても劉備達は人情味あふれる集団だったようです。そして彼らは、なかなか定住することが出来ず、各地を転々としていましたが、諸葛亮(孔明)(181~234年)に出会います。彼の家を劉備は何度も訪問し、三顧の礼を尽くして家臣に迎える・・・一説には逆に諸葛亮から「雇ってくれ」と売り込まれた、と言う話もありますが、ともあれ運命的な出会い。

 このあと、さらに当時、諸葛亮と並んで、その筋の人には天才だと、その名が高かった統(ほうとう 178~213年)を家臣に迎えることに功。一説には、劉備は彼を諸葛亮よりも信頼し、さらに軍事担当は彼、内政は諸葛亮にしようと考えていたようです。そして、根無し草だった彼らも、まず荊州を確保すると、中国西部のの地に攻め込み、ここを治めていた劉璋(りゅうしょう ?~219年)を降伏させ、これを占領します。

 ところが激戦の中で、統が戦死してしまいます。
 このため、諸葛亮が軍政も担当する羽目になり、彼には激務がのしかかることになります。

を建国したものの、友情を優先
 さて、後漢が滅亡すると、劉備は都を都に定め、(221~263年)を建国しました。なお、実際には国号は「」を名乗っています。とはあくまで歴史家が便宜上分ける名前です。また、とも呼ばれます。こうして皇帝になった劉備ですが、どんなことよりも先にやることがありました。

 それは、の地域を支配する孫権によって、兄弟のように信頼し合っていた部下の関羽が殺され、しかも荊州を失っていたため、彼の弔い合戦をすることでした。普通、部下が殺されたぐらいで一々弔い合戦なんてやりませんが、この2人+張飛の友情は半端ではなく、もう怒り心頭だったんですね。囲は当然反対しますが、それを押し切って合戦の準備じゃ!!

 しかし、出陣準備中に、やはり兄弟同然に信頼していた張飛が部下に殺される事態が生。
 その知らせを伝える使者が来たとき、劉備は、
「ああ、張飛が死んでしまったか」
 と内容を聞く前に言ったといいます。こうして信頼する部下を2人も失った劉備の怒りは激しく、孫権軍に対して猛攻撃をかけ、孫権をビックリさせます。しかし、りが見えていなかったこともあり、孫権軍の陸遜(りくそん 183~245年)率いる軍勢に大敗北。劉備は逃げ帰ると、すっかり落ち込んでしまい、失意のうちに亡くなります。

 その直前、彼は暗愚な息子劉禅(後主 207~位223~271年)を諸葛亮に託すのが申し訳ないと、
「息子がどうしようもなく馬鹿だったら、君が代わりに皇帝になってもよい」
 と言います。
 この頃、これほどまでに諸葛亮は劉備に信頼されていました。この言葉を、劉備は諸葛亮の性格を知っているから、そんな言葉が言えたのだという意見もありますが、しかしなかなか言える言葉でもないでしょう。ただし暗愚とはいえ、劉禅にしてみれば居心地がよくありません。オヤジは自分より部下を後継者にしたがっているのか、ということ。

 それもあり、諸葛亮は劉禅に有名な「出師の表」という名文を書き、のおかれた環境と、自らに二心がないことを示します。そして、亡き劉備の夢を叶えるべく連年のようにに侵攻します。

 しかし、人材の不足などから勝つことは出来ず、最後にはの名軍師司馬懿が登場。諸葛亮は司馬懿の持久戦作戦に負け、陣中で病死するのでした。謹厳実直な上、内政も軍政も両方とも担当して疲れ果てたものと思われます。間違いなく過労死ですね。また、彼はほとんど財産を残しませんでした。ここも、後世の人から尊敬される理由といえます。

 ところで名軍師と呼ばれる彼ですが、果たして名軍師と呼べるほど、才能があったのかどうか、疑われています。しかし、それでも人材豊富なと互角に渡り合ったのですから、やはりそれなりの能力はあったのではないでしょうか。 むしろ、仕事を他人に分配させられなかったところに、の人材不足、諸葛亮の使命感と、一方で欠点があるのでは、と私は思います。

 そしては、諸葛亮の死後、その腹心達によってしばらくは持ちますが、彼らが死ぬとにあっさりと滅ぼされてしまいます。
 劉禅が宦官と遊んでばかりいたのが原因でした。

○孫権のの滅亡
 もう一つ、孫権(182~252年 大皇帝 位229~252年)。兵法で有名な孫武(孫子)の子孫を称する彼は、長江下流域を本拠に勢力を固めました。彼のモットーは、これは!と思った部下を見つけたら、とことん信頼し、仕事をさせることにありました。

 そんな中、操がに攻撃を仕掛けようとしていました。
 操の強さは皆の知るところ。降伏しよう、という意見が大勢を占めていました。しかし、当時、荊州にいた劉備からの働きかけと、孫権の兄・孫策の無二の親友だった名将軍・瑜(しゅうゆ 170~210年)が「我々は向こうでも出世できるが、貴方はそうは行くまい。徹底抗戦すべし!」と述べます。孫権は「よっしゃ!そしたらお前に全部任せるぞ!」というわけで、有名な赤壁の戦いで、喩率いるの軍勢がの軍勢を大いに撃ち破り、覇権を確立します。

 さらに、彼は部下の教育も行います。呂蒙(りょもう 178~219年)という人物は勇猛でしたが、いささか猪突猛進型の人間でした。しかし、孫権は「奴は鍛えれば頭脳派としても使える人間になる」と考え、直々に「これと、これと、これを読め!」と色々な兵法書を提示。呂蒙も「私のためにそこまで言ってくれるとは!」と感激し、猛勉強。以後、豊富な知略と有能さを兼ね備えた名将となり、関羽を倒し、荊州を確保することに功します。ただ、これからと言うときに、喩も呂蒙も亡くなってしまうのですが・・・。

 それから孫権は、北ヴェトナムぐらいまで占領し、地図を見て頂ければ解りますが、領土はかなり広範囲に及びます。

 そして、229年に正式に建国し「」を国号とします。
 またの諸葛亮らが連年のようにを攻めたのに対し、孫権は慎重策をとります。
 これにより、はさらに展し、その後の江南展の基礎作りに大きく貢献しました。

 ところで、劉備と諸葛亮の信頼関係は美談として有名ですが、実は、諸葛亮の兄・諸葛謹と孫権の信頼関係も、なかなかのものでした。前述した通り、劉備は関羽を殺された恨みから孫権軍に攻め込んできます。そこで、諸葛謹は劉備に対し「気持ちは解るが、を討つ方が先なのではないか」と手紙を送ります。もちろん、劉備にとってはよりも関羽の仇の方が優先でしたから問答無用。

 ところが、この諸葛謹の行動に「奴は劉備に内通しております」と孫権に訴える者がいました。しかし孫権は「私も諸葛謹も互いに背かないと誓い合ったのだ」と言い、まったく取り上げませんでした。弟があまりにも有名すぎたため、諸葛謹も色々と疑いをかけられ苦労したようですが、主君からは絶対的な信頼。そりゃもう、頑張っちゃうしかないですなあ。しかし、孫権は晩年に耄碌(もうろく)し、後継者選びの時に、孫権の方針に反対した多くの名家臣を死に追いやってしまい、陸遜も巻き込まれて死んでしまいました。

 ところでは、文帝の子、叡(明帝 205~位226~239年)の死後、司馬懿によって骨抜きにされ、そして彼の次男の司馬昭がの全権を掌握。操の時の同じように、司馬昭は皇帝の座には就かず、息子の司馬炎(236~290年)が皇帝に就きました(武帝 位265~290年)。の建国です。

 ・・・人名が多く出てきてご免なさい。しかし、項羽と劉邦、三国志は武将達のドラマとして有名ですが、これ以後の歴史では皇帝達ばかりが登場します。業績を皇帝一人に結びつける書き方がされたからでしょうか。

第6回  南北朝時代
第4回  後漢~復活した漢だが~