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-1100[前11世紀末~前209]⇒西周,東周,春秋,戦国,,,,,,,,,,,,,,,,,康叔(封)-康伯-孝伯-嗣伯-倢伯-靖伯-貞伯-頃侯-釐侯-共伯(余)-武公(和)-荘公(揚)-桓公(完)-州吁-宣公()-恵公(朔)-黔牟-懿公(赤)-戴公(申)-文公(燬)-公()-君瑕-穆公(遬)-定公(臧)-献公(衎)-殤公(秋)-襄公(悪)-霊公()-出公(輒)-荘公(蒯聵)-君班師-君起-悼公()-敬公()-昭公()-懐公()-慎公()-声公()-侯()-平侯()-嗣君()-君()-君角()(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-1100の康伯(?~?)  康叔封の子。康叔封が亡くなると、跡を継いだ。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-1100の孝伯(?~?)  の康伯の子。康伯が亡くなると、跡を継いだ。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-1100の嗣伯(?~?)  の孝伯の子。孝伯が亡くなると、跡を継いだ。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-1100の倢伯(?~?)  の嗣伯の子。嗣伯が亡くなると、跡を継いだ。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-1100の靖伯(?~?)  の倢伯の子。倢伯が亡くなると、跡を継いだ。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-1100の貞伯(?~前867?)  の靖伯の子。靖伯が亡くなると、跡を継いだ。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-1046康叔封(?~?)
 姓は姫、名は封。の文王(姫昌)の九男。武王(姫)の弟。はじめ康に封じられた。王の時代、武庚の叛乱が鎮圧されると、の旧都・朝歌の近辺が与えられた。国の祖。王が親政すると、司寇に任ぜられた。 康叔封(?~?)  名は封。の文王(姫昌)の子。武王(姫)の同母弟にあたる。王(姫誦)のとき、武庚禄父が乱を起こし、公旦がこれを討滅すると、武庚の治めていたの遺民を預かり、康叔はの君に封ぜられ、朝歌を本拠とした。公旦に「康誥」「酒誥」「梓材」の三篇を贈られ、で善政を布いたといわれる。王が親政すると、の司寇に任ぜられた。(-シナ大陸-西周)-中国史人物事典-
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-1045(~1006年)の諸侯、(-シナ大陸-)--編集
-867の頃侯(?~前855)  在位前867?~前855。の貞伯の子。貞伯が亡くなると、跡を継いだ。の夷王(姫燮)のとき、伯から侯に上った。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-855の釐侯(?~前813)  在位前855~前813。の頃侯の子。頃侯が亡くなると、跡を継いだ。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-813の共伯余(?~前813)  在位前813。の釐侯の子。釐侯が亡くなると、跡を継いだ。弟の和(のちの武公)の襲撃を受け、釐侯の墓道で自殺した。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-813の武公(?~前758)  名は和。在位前813~前758。の釐侯の子。釐侯の寵愛を受けた。品を費やして壮士を養い、兄の共伯余を襲撃して自殺させ、自らの国君として即位した。康叔を範として善政を布いたといわれる。四十二年(前771)、犬戎がの幽王(姫涅)を殺すと、を援助して犬戎を平定した。の平王(姫宣臼)のとき、功績により侯から公に上った。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-758の荘公(?~前735)  名は揚。在位前758~前735。の武公の子。武公が亡くなると、跡を継いだ。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-735の桓公(?~前719)  名は完。在位前735~前719。の荘公の子。母は戴嬀。荘公が亡くなると、跡を継いだ。桓公二年(前733)、弟の州吁の官位を奪った。十六年(前719)、州吁の襲撃を受けて殺された。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-719の州吁、桓公を弑す人、州吁を濮に殺す(春秋戦国時代-シナ大陸-)--編集
-719の州吁(?~前719)  在位前719。の荘公の子。軍事を好み、荘公のときに将軍に上った。桓公二年(前733)、官位を奪われ、国外に出た。十三年(前722)、の荘公の弟の段と結んだ。十六年(前719)、桓公を殺して、自らの国君として即位した。段のためにを攻めようとして、と結んでを攻めた。石碏らによって濮水のほとりで殺された。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-719の宣公(?~前700)  名は。在位前719~前700。の荘公の子。石碏らが州吁を殺すと、の国君として擁立された。夫人の夷姜の産んだ太子伋と公女の産んだ公子朔が争った。宣公十八年(前701)、宣公は太子伋をうとんじ、への使者として立たせて、国境で盗賊に襲撃させて殺させた。このため公子朔を太子に立てた。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-700の恵公(?~前669)  名は朔。在位前700~前696、前688~前669。の宣公の子。母は公女。宣公十八年(前701)、太子伋が殺されると、太子として立てられた。翌年、宣公が亡くなると、跡を継いだ。恵公四年(前696)、左公子と右公子が乱を起こし、黔牟を迎えて君としたため、に亡命した。黔牟八年(前688)、の襄公の力を借りて、諸侯とともにを攻撃し、左公子と右公子を殺して、の国君として返り咲いた。二十五年(前675)、と結んで黔牟の亡命先のを攻め、の恵王を逐って王弟の穨を王位につけた。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-696の黔牟(?~?)  在位前696~前688。の宣公の子。母は夷姜。恵公四年(前696)、左公子と右公子が恵公を逐って、かれを擁立した。黔牟八年(前688)、の襄公が諸侯を率いてを攻撃すると、に亡命した。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-679の桓公、の諸侯と甄で会盟し、覇者を称す(春_x000B_秋_x000B_戦_x000B_国_x000B_時_x000B_代-シナ大陸-)--編集
-669の懿公(?~前660)  名は赤。在位前669~前660。の恵公の子。恵公が亡くなると、跡を継いだ。鶴を飼うことに耽溺して、政治をかえりみず、民心を失った。懿公九年(前660)、翟がを攻撃してきたが、兵が従わず、「鶴に命じて翟を撃たせなさい」と言われた。このため翟の侵入を許して殺された。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-660の戴公(?~前660)  名は申。在位前660。の昭伯頑の子。の宣公の孫にあたる。懿公が翟に殺されると、の国君として擁立された。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-660の文公(?~前635)  名は燬。在位前660~前635。の昭伯頑の子。の戴公の弟にあたる。翟がを攻撃すると、に亡命した。戴公が亡くなると、の桓公の助力を受けてに帰国し、君として立った。賦税を軽くし、裁判の公正をはかって、の民の人望をえた。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-635公(?~前600)  名は。在位前635~前632、前630~前600。の文公の子。文公が亡くなると、跡を継いだ。公三年(前632)、に道を借りてを救援したいと申し出たが、許可しなかった。大夫の咺の襲撃を受けて、公はからくも逃れた。またの文公がを攻めて、の領地をに割きあたえた。公はに亡命した。咺と争訟したが敗れて逮捕され、の洛邑に送られた。五年(前630)、の文公に毒殺されかけた。の襄王のとりなしを受けて、の文公と和解し、帰国して咺と君瑕を殺し、復位した。十二年(前623)、に入朝して襄公と会見した。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-632君瑕(?~前630)  在位前632~前630。公三年(前632)、公が大夫の咺に国を逐われると、君として擁立された。君瑕二年(前630)、公が帰国するに先立って、歂・冶廑らのために殺された。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-600の穆公(?~前589)  名は遬。在位前600~前589。公の子。公が亡くなると、跡を継いだ。穆公十一年(前589)、孫良夫にを救援させ、に奪われた旧領を奪回した。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-589の定公(?~前577)  名は臧。在位前589~前577。の穆公の子。穆公十一年(前589)、穆公が亡くなると、跡を継いだ。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-589を率いて、を鞍に破る(春秋五大戦の四)(春_x000B_秋_x000B_戦_x000B_国_x000B_時_x000B_代-シナ大陸-)--編集
-577の献公(?~前544)  名は衎。在位前577~前559、前547~前544。の定公の子。定公が亡くなると、跡を継いだ。礼を失した言動が多く、国人たちの怒りを買った。献公十八年(前559)、孫文子(孫林父)が乱を起こし、献公はに逃れた。殤公十二年(前547)、に逃れた孫文子の工作により帰国し、軍が殤公を捕らえると、献公は復位した。献公後年(前546)、甯喜を誅殺した。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-559の殤公(?~前547)  名は秋。在位前559~前547。の定公の子。の献公の弟にあたる。献公十八年(前559)、孫林父が献公を追放すると、君として擁立された。孫文子を宿に封じた。殤公十二年(前547)、孫林父と甯喜が争うと、殤公は甯喜に命じて孫林父を襲撃させた。孫林父はに逃れ、にいた献公が帰国できるよう工作し、軍がに出兵すると、殤公と甯喜は捕らえられ、献公が復位した。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-544の襄公(?~前535)  名は悪。在位前544~前535。の献公の子。献公後三年(前544)、献公が亡くなると、跡を継いだ。襄公六年(前538)、の霊公が主催した会盟に参加しなかった。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-535の霊公(?~前493)  名は。在位前535~前493。の襄公の庶子。襄公九年(前535)、襄公が亡くなると、跡を継いだ。霊公五年(前530)、の昭公のもとに入朝した。三十八年(前497)、孔子を迎え、と同じ俸禄を与えた。翌年、太子蒯聵が霊公の夫人の南子を殺害しようとしたことが覚し、蒯聵がに亡命した。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-520このころ子貢(端木賜)生まれる(春_x000B_秋_x000B_戦_x000B_国_x000B_時_x000B_代-シナ大陸-)--編集
-520端木賜(前521~?)
 字は子貢。の人。孔子の弟子。口先が達者で、商品や財産の運用が巧みだった。の田常がを攻めようとしたとき、に赴いて遊説し、を争わせてを救い、を争わせてを強大化させ、(句践)にを滅ぼさせて覇者たらしめた。の宰となり、財産は千に及び、最後はで死んだ。(春_x000B_秋_x000B_戦_x000B_国_x000B_時_x000B_代-シナ大陸-)--
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-493の出公(?~?)  名は輒。在位前493~前480、前477~前470。の荘公の子。霊公の孫にあたる。霊公四十二年(前493)、霊公が薨去すると、ときに荘公が国外にあったので、かれが即位した。出公十二年(前480)、荘公が帰国すると、位を逐われてに逃れた。荘公三年(前478)、荘公がの内乱で死ぬと、翌年にを経て帰国し、国君に返り咲いた。為政は暴虐で、工匠らを酷使した。後七年(前470)、褚師比らが乱を起こし、国君の座を追われてに亡命した。のちにで没した。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-480の荘公(?~前478)  名は蒯聵。在位前480~前478。の霊公の子。の太子に立てられた。霊公三十九年(前496)、霊公の夫人の南子を殺害しようとしたことが覚し、に亡命した。のちに鞅を頼った。四十二年(前493)、出公が立つと、帰国しようとしたが、の国人にはばまれ、宿に入った。出公十三年(前480)、孔悝の乱によりの国君に擁立された。荘公二年(前478)、石圃が乱を起こしたため、戎州の己氏のもとに逃れたが、己氏に殺された。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-480の蒯聵、出公を追放し、即位(荘公)孔子の弟子子路、敗死す(春_x000B_秋_x000B_戦_x000B_国_x000B_時_x000B_代-シナ大陸-)--編集
-478君班師(?~前478)  在位前478。の公子。の荘公二年(前478)、荘公が出奔すると、の国君として立てられた。まもなく軍に捕らえられ、退位した。潞に軟禁された。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-478君起(?~?)  在位前478~前477。の荘公二年(前478)、軍が君班師を捕らえると、の国君として擁立された。まもなく石専に逐われて、に亡命した。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-470の悼公(?~前451?)  名は黔。在位前470~前451?。の出公の叔父にあたる。出公の子を攻めて、みずから即位した。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-451の敬公(?~前432)  名は弗。在位前451?~前432。の悼公の子。悼公が亡くなると、跡を継いだ。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-432の昭公(?~前426)  名は糾。在位前432~前426。の敬公の子。の敬公十九年(前432)、敬公が亡くなると、跡を継いだ。かれの代には、の属国となっていた。昭公六年(前426)、公子亹のために殺害された。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-426の懐公(?~前415)  名は亹。在位前426~前415。の昭公六年(前426)、昭公を殺して、みずから即位した。懐公十一年(前415)、公子穨のために殺害された。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-415の慎公(?~前373)  名は穨。在位前415~前373。公子適の子。の敬公の孫にあたる。の懐公十一年(前415)、懐公を殺して、みずから即位した。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-373の声公(?~前362)  名は訓。在位前373~前362。の慎公の子。の慎公四十二年(前373)、慎公が亡くなると、跡を継いだ。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-362侯(?~前333)  名は遬。在位前362~前333。の声公の子。の声公十一年(前362)、声公が亡くなると、跡を継いだ。侯十六年(前346)、公の称をやめ、侯と称するようになった。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-333の平侯(?~前325)  在位前333~前325。侯の子。侯二十九年(前333)、侯が亡くなると、跡を継いだ。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-325の嗣君(?~前283)  在位前325~前283。の平侯の子。の平侯八年(前325)、平侯が亡くなると、跡を継いだ。嗣君五年(前320)、侯の称をやめ、君と称するようになった。このころは濮陽を領有するのみであった。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-283の懐君(?~前252)  在位前283~前252。の嗣君の子。の嗣君四十二年(前283)、嗣君が亡くなると、跡を継いだ。懐君三十一年(前252)、に入朝し、に捕らえられて殺された。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-252君(?~前230)  在位前252~前230。の嗣君の子。懐君の弟にあたる。の懐君三十一年(前252)、懐君がのために殺されると、君はの公女をめとっていたため、の君として擁立された。君十四年(前238)、が東郡を立てると、は濮陽から野王県にうつされた。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-230の君角(?~前209)  在位前230~前209。君の子。君二十二年(前230)、君が亡くなると、跡を継いだ。君角二十一年(前209)、の二世皇帝のために平民に落とされ、国はここに滅んだ。(-シナ大陸-)-中国史人物事典-編集
-770春秋戦国時代編集
春秋戦国時代[前770~前221]前770年、の東遷から、前221年、の統一までの約5世紀半の間をさす。前403年、を3分した時を境に、前半を春秋時代(「春秋」の名に由来)、後半を戦国時代(「戦国策」の名に由来)に分ける。 室の衰微により、群雄割拠の状態となり、対立抗争が激しく繰り返され、春秋末期にはその中で比較的勢力の強かったの14国が残った。 さらに各国内での権臣の内紛も多く、の3氏が分割し、王から諸侯と認められ、戦国時代に入った。 興のを奪った田氏との7国(戦国の七雄)が、それぞれ勢力を競ったが、西方のの力が増大するに及び、他の6国は内紛などで衰微し、の東進によって統一された。 氏族共同体は解体され、文法(刑法)が公布、官僚制立、封建制から郡県制への移行が行われた。鉄製農具の開により生産力が飛躍的に増大、属貨幣の流通が始まった。諸子百家(*1)が活躍、中国思想の源流を形作った。編集
-475戦国(战国)時代[前475~前221]編集

(読み)えい(英語表記)Wei
えい ヱイえい〔ヱイ〕字項目 Wèi〔衞〕

中国,先時代の諸侯国の一つ。初,王が人の反乱防のため朝歌 (河南省) に叔父康叔を封じ建国させたという。西周時代には栄えたが,春秋時代になると西隣のなどの圧迫や続争いなどによって弱体化し,しばしば戎狄の攻撃を受け,戦国時代にはなどに服属してわずかに存続した。前 209年,二世皇帝に滅ぼされた。

中国、春秋時代の列国の一。の武王の弟康叔(こうしゅく)を祖とする。現在の河北省南西部から河南省北部にわたる地域を領し、(いん)の旧都朝歌に都したが列国の圧迫でしばしば遷都。前209年、(しん)に滅ぼされた。
[音]エイ(ヱイ)() エ(ヱ)() [訓]まもる まもり
[学習字]5年
りにいて中のものを守る。また、守る人。「生・兵/警・護・自・守・親・前・防・門
りをまわる。取り巻く。「星」
[名のり]ひろ・もり・よし
[難読]士(えじ)・近(このえ)

中国,代の侯国。初め河南にあり,のち河北に移る。(いん)の遺民を統治するため,武王の弟の康叔がの旧都朝歌(河南省淇県)に封ぜられて創始,戦国時代には近隣のに圧迫され,国勢振るわず,前209年のため滅ぼされた。
→関連項目春秋戦国時代

中国,古代の侯国。前11世紀末,の武庚・三監の乱を平定した公が,弟の康叔をの旧都朝歌(河南省淇県)に封建した国。西周時代の大侯国であったが,春秋になると衰え,前660年翟(てき)(狄とも書く)に滅ぼさる。前658年の桓公の援助で丘(河南省滑県)に再興されたが,前629年再び翟に敗れ,帝丘(河南省濮陽県)にうつる。前254年に滅ぼされたが,によって再興され,の属国として存続し,始皇帝統一後,前209年に滅亡した。

中国、代の諸侯国の一。武王の弟康叔こうしゆくを祖とし、朝歌(現、河南省内)に都した。紀前209年に滅ぼされた。

中国、(しゅう)代諸侯国の一つ。(いん)を滅ぼしてその勢力圏を拡大させた。の初め、の故地の制圧、東方、北方への備えとしていくつかの国が封建されている。その一つが。初代は公旦の弟康叔(こうしゅく)。の平王が東遷(前770)したとき、の武公は兵を率いて室を助けた。前660年、は北方の異族とされる狄(てき)の侵入を受け、国君懿公(いこう)は殺され、一時、国を失った。(せい)の援助で丘(そきゅう)(河南省)に国を再建できたが、もはやそれまでの基盤を失い、前600年には帝丘(河南省)に移った。孔子はその晩年にの故地を流浪し、このにも訪れている。戦国時代になっても命脈を保ち、前241年に即位した君角(名は角)の21年(前221)、(しん)の始皇帝に滅ぼされた。の二世のとき(前209)に滅ぼされたとする記録は、『史記』編纂の際の誤配による。[平勢隆郎]
[参照項目] |

中国、代の諸侯国の一つ。公の弟康叔を祖とし、都をの旧都朝歌(河南省湯陰県)に置く。一一代武公のときが最盛期。春秋戦国時代には強国の間にあってふるわず、しばしば遷都。前二〇九年、四二代でに滅ぼされた。

代の諸侯国の1つ
現在の河南省北部にあたり,の武王の弟康叔 (こうしゆく) が (いん) の故地を支配するため封じられたのが始まり。朝歌 (ちようか) (河南省淇県)を都とし,の東遷(前770)のころ最も栄えたが,春秋時代は諸大侯の間で勢力が伸びず,前660年に狄 (てき) の侵入で都を丘に移してから衰えた。戦国時代には (ちよう) ・に服属してわずかに河北の濮陽 (ぼくよう) の地のみとなり,前254年の東郡に編入された。

所制】より

…中国,明代の兵制。明の兵制は制にならい,民と軍を峻別して軍戸を設け,その籍を兵部に所属させ,所制に編した。1は5守禦千戸所よりなり,千戸所の長が千戸である。…

(前~前)]
西周,東周,春秋,戦国,,,,,,,,,,,,,,,,,
康叔(封)-康伯-孝伯-嗣伯-倢伯-靖伯-貞伯-頃侯-釐侯-共伯(余)-武公(和)-荘公(揚)-桓公(完)-州吁-宣公()-恵公(朔)-黔牟-懿公(赤)-戴公(申)-文公(燬)-公()-君瑕-穆公(遬)-定公(臧)-献公(衎)-殤公(秋)-襄公(悪)-霊公()-出公(輒)-荘公(蒯聵)-君班師-君起-悼公()-敬公()-昭公()-懐公()-慎公()-声公()-侯()-平侯()-嗣君()-君()-君角()
康叔封(?~?)
  名は封。の文王(姫昌)の子。武王(姫)の同母弟にあたる。王(姫誦)のとき、武庚禄父が乱を起こし、公旦がこれを討滅すると、武庚の治めていたの遺民を預かり、康叔はの君に封ぜられ、朝歌を本拠とした。公旦に「康誥」「酒誥」「梓材」の三篇を贈られ、で善政を布いたといわれる。王が親政すると、の司寇に任ぜられた。
の康伯(?~?)
  康叔封の子。康叔封が亡くなると、跡を継いだ。
の孝伯(?~?)
  の康伯の子。康伯が亡くなると、跡を継いだ。
の嗣伯(?~?)
  の孝伯の子。孝伯が亡くなると、跡を継いだ。
の倢伯(?~?)
  の嗣伯の子。嗣伯が亡くなると、跡を継いだ。
の靖伯(?~?)
  の倢伯の子。倢伯が亡くなると、跡を継いだ。
の貞伯(?~前867?)
  の靖伯の子。靖伯が亡くなると、跡を継いだ。
の頃侯(?~前855)
  在位前867?~前855。の貞伯の子。貞伯が亡くなると、跡を継いだ。の夷王(姫燮)のとき、伯から侯に上った。
の釐侯(?~前813)
  在位前855~前813。の頃侯の子。頃侯が亡くなると、跡を継いだ。
の共伯余(?~前813)
  在位前813。の釐侯の子。釐侯が亡くなると、跡を継いだ。弟の和(のちの武公)の襲撃を受け、釐侯の墓道で自殺した。
の武公(?~前758)
  名は和。在位前813~前758。の釐侯の子。釐侯の寵愛を受けた。品を費やして壮士を養い、兄の共伯余を襲撃して自殺させ、自らの国君として即位した。康叔を範として善政を布いたといわれる。四十二年(前771)、犬戎がの幽王(姫涅)を殺すと、を援助して犬戎を平定した。の平王(姫宣臼)のとき、功績により侯から公に上った。
の荘公(?~前735)
  名は揚。在位前758~前735。の武公の子。武公が亡くなると、跡を継いだ。
の桓公(?~前719)
  名は完。在位前735~前719。の荘公の子。母は戴嬀。荘公が亡くなると、跡を継いだ。桓公二年(前733)、弟の州吁の官位を奪った。十六年(前719)、州吁の襲撃を受けて殺された。
の州吁(?~前719)
  在位前719。の荘公の子。軍事を好み、荘公のときに将軍に上った。桓公二年(前733)、官位を奪われ、国外に出た。十三年(前722)、の荘公の弟の段と結んだ。十六年(前719)、桓公を殺して、自らの国君として即位した。段のためにを攻めようとして、と結んでを攻めた。石碏らによって濮水のほとりで殺された。
の宣公(?~前700)
  名は。在位前719~前700。の荘公の子。石碏らが州吁を殺すと、の国君として擁立された。夫人の夷姜の産んだ太子伋と公女の産んだ公子朔が争った。宣公十八年(前701)、宣公は太子伋をうとんじ、への使者として立たせて、国境で盗賊に襲撃させて殺させた。このため公子朔を太子に立てた。
の恵公(?~前669)
  名は朔。在位前700~前696、前688~前669。の宣公の子。母は公女。宣公十八年(前701)、太子伋が殺されると、太子として立てられた。翌年、宣公が亡くなると、跡を継いだ。恵公四年(前696)、左公子と右公子が乱を起こし、黔牟を迎えて君としたため、に亡命した。黔牟八年(前688)、の襄公の力を借りて、諸侯とともにを攻撃し、左公子と右公子を殺して、の国君として返り咲いた。二十五年(前675)、と結んで黔牟の亡命先のを攻め、の恵王を逐って王弟の穨を王位につけた。
の黔牟(?~?)
  在位前696~前688。の宣公の子。母は夷姜。恵公四年(前696)、左公子と右公子が恵公を逐って、かれを擁立した。黔牟八年(前688)、の襄公が諸侯を率いてを攻撃すると、に亡命した。
の懿公(?~前660)
  名は赤。在位前669~前660。の恵公の子。恵公が亡くなると、跡を継いだ。鶴を飼うことに耽溺して、政治をかえりみず、民心を失った。懿公九年(前660)、翟がを攻撃してきたが、兵が従わず、「鶴に命じて翟を撃たせなさい」と言われた。このため翟の侵入を許して殺された。
の戴公(?~前660)
  名は申。在位前660。の昭伯頑の子。の宣公の孫にあたる。懿公が翟に殺されると、の国君として擁立された。
の文公(?~前635)
  名は燬。在位前660~前635。の昭伯頑の子。の戴公の弟にあたる。翟がを攻撃すると、に亡命した。戴公が亡くなると、の桓公の助力を受けてに帰国し、君として立った。賦税を軽くし、裁判の公正をはかって、の民の人望をえた。
公(?~前600)
  名は。在位前635~前632、前630~前600。の文公の子。文公が亡くなると、跡を継いだ。公三年(前632)、に道を借りてを救援したいと申し出たが、許可しなかった。大夫の咺の襲撃を受けて、公はからくも逃れた。またの文公がを攻めて、の領地をに割きあたえた。公はに亡命した。咺と争訟したが敗れて逮捕され、の洛邑に送られた。五年(前630)、の文公に毒殺されかけた。の襄王のとりなしを受けて、の文公と和解し、帰国して咺と君瑕を殺し、復位した。十二年(前623)、に入朝して襄公と会見した。
君瑕(?~前630)
  在位前632~前630。公三年(前632)、公が大夫の咺に国を逐われると、君として擁立された。君瑕二年(前630)、公が帰国するに先立って、歂・冶廑らのために殺された。
の穆公(?~前589)
  名は遬。在位前600~前589。公の子。公が亡くなると、跡を継いだ。穆公十一年(前589)、孫良夫にを救援させ、に奪われた旧領を奪回した。
の定公(?~前577)
  名は臧。在位前589~前577。の穆公の子。穆公十一年(前589)、穆公が亡くなると、跡を継いだ。
の献公(?~前544)
  名は衎。在位前577~前559、前547~前544。の定公の子。定公が亡くなると、跡を継いだ。礼を失した言動が多く、国人たちの怒りを買った。献公十八年(前559)、孫文子(孫林父)が乱を起こし、献公はに逃れた。殤公十二年(前547)、に逃れた孫文子の工作により帰国し、軍が殤公を捕らえると、献公は復位した。献公後年(前546)、甯喜を誅殺した。
の殤公(?~前547)
  名は秋。在位前559~前547。の定公の子。の献公の弟にあたる。献公十八年(前559)、孫林父が献公を追放すると、君として擁立された。孫文子を宿に封じた。殤公十二年(前547)、孫林父と甯喜が争うと、殤公は甯喜に命じて孫林父を襲撃させた。孫林父はに逃れ、にいた献公が帰国できるよう工作し、軍がに出兵すると、殤公と甯喜は捕らえられ、献公が復位した。
の襄公(?~前535)
  名は悪。在位前544~前535。の献公の子。献公後三年(前544)、献公が亡くなると、跡を継いだ。襄公六年(前538)、の霊公が主催した会盟に参加しなかった。
の霊公(?~前493)
  名は。在位前535~前493。の襄公の庶子。襄公九年(前535)、襄公が亡くなると、跡を継いだ。霊公五年(前530)、の昭公のもとに入朝した。三十八年(前497)、孔子を迎え、と同じ俸禄を与えた。翌年、太子蒯聵が霊公の夫人の南子を殺害しようとしたことが覚し、蒯聵がに亡命した。
の出公(?~?)
  名は輒。在位前493~前480、前477~前470。の荘公の子。霊公の孫にあたる。霊公四十二年(前493)、霊公が薨去すると、ときに荘公が国外にあったので、かれが即位した。出公十二年(前480)、荘公が帰国すると、位を逐われてに逃れた。荘公三年(前478)、荘公がの内乱で死ぬと、翌年にを経て帰国し、国君に返り咲いた。為政は暴虐で、工匠らを酷使した。後七年(前470)、褚師比らが乱を起こし、国君の座を追われてに亡命した。のちにで没した。
の荘公(?~前478)
  名は蒯聵。在位前480~前478。の霊公の子。の太子に立てられた。霊公三十九年(前496)、霊公の夫人の南子を殺害しようとしたことが覚し、に亡命した。のちに鞅を頼った。四十二年(前493)、出公が立つと、帰国しようとしたが、の国人にはばまれ、宿に入った。出公十三年(前480)、孔悝の乱によりの国君に擁立された。荘公二年(前478)、石圃が乱を起こしたため、戎州の己氏のもとに逃れたが、己氏に殺された。
君班師(?~前478)
  在位前478。の公子。の荘公二年(前478)、荘公が出奔すると、の国君として立てられた。まもなく軍に捕らえられ、退位した。潞に軟禁された。
君起(?~?)
  在位前478~前477。の荘公二年(前478)、軍が君班師を捕らえると、の国君として擁立された。まもなく石専に逐われて、に亡命した。
の悼公(?~前451?)
  名は黔。在位前470~前451?。の出公の叔父にあたる。出公の子を攻めて、みずから即位した。
の敬公(?~前432)
  名は弗。在位前451?~前432。の悼公の子。悼公が亡くなると、跡を継いだ。
の昭公(?~前426)
  名は糾。在位前432~前426。の敬公の子。の敬公十九年(前432)、敬公が亡くなると、跡を継いだ。かれの代には、の属国となっていた。昭公六年(前426)、公子亹のために殺害された。
の懐公(?~前415)
  名は亹。在位前426~前415。の昭公六年(前426)、昭公を殺して、みずから即位した。懐公十一年(前415)、公子穨のために殺害された。
の慎公(?~前373)
  名は穨。在位前415~前373。公子適の子。の敬公の孫にあたる。の懐公十一年(前415)、懐公を殺して、みずから即位した。
の声公(?~前362)
  名は訓。在位前373~前362。の慎公の子。の慎公四十二年(前373)、慎公が亡くなると、跡を継いだ。
侯(?~前333)
  名は遬。在位前362~前333。の声公の子。の声公十一年(前362)、声公が亡くなると、跡を継いだ。侯十六年(前346)、公の称をやめ、侯と称するようになった。
の平侯(?~前325)
  在位前333~前325。侯の子。侯二十九年(前333)、侯が亡くなると、跡を継いだ。
の嗣君(?~前283)
  在位前325~前283。の平侯の子。の平侯八年(前325)、平侯が亡くなると、跡を継いだ。嗣君五年(前320)、侯の称をやめ、君と称するようになった。このころは濮陽を領有するのみであった。
の懐君(?~前252)
  在位前283~前252。の嗣君の子。の嗣君四十二年(前283)、嗣君が亡くなると、跡を継いだ。懐君三十一年(前252)、に入朝し、に捕らえられて殺された。
君(?~前230)
  在位前252~前230。の嗣君の子。懐君の弟にあたる。の懐君三十一年(前252)、懐君がのために殺されると、君はの公女をめとっていたため、の君として擁立された。君十四年(前238)、が東郡を立てると、は濮陽から野王県にうつされた。
の君角(?~前209)
  在位前230~前209。君の子。君二十二年(前230)、君が亡くなると、跡を継いだ。君角二十一年(前209)、の二世皇帝のために平民に落とされ、国はここに滅んだ。

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