衛
-1100 | 衛[前11世紀末~前209]⇒西周,東周,春秋,戦国,魯,斉,晋,秦,楚,宋,衛,陳,蔡,曹,鄭,燕,呉,越,趙,魏,韓康叔(封)-康伯-孝伯-嗣伯-倢伯-靖伯-貞伯-頃侯-釐侯-共伯(余)-武公(和)-荘公(揚)-桓公(完)-州吁-宣公(晋)-恵公(朔)-黔牟-懿公(赤)-戴公(申)-文公(燬)-成公(鄭)-衛君瑕-穆公(遬)-定公(臧)-献公(衎)-殤公(秋)-襄公(悪)-霊公(元)-出公(輒)-荘公(蒯聵)-衛君班師-衛君起-悼公()-敬公()-昭公()-懐公()-慎公()-声公()-成侯()-平侯()-嗣君()-元君()-君角()(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-1100 | 衛の康伯(?~?) 康叔封の子。康叔封が亡くなると、跡を継いだ。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-1100 | 衛の孝伯(?~?) 衛の康伯の子。康伯が亡くなると、跡を継いだ。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-1100 | 衛の嗣伯(?~?) 衛の孝伯の子。孝伯が亡くなると、跡を継いだ。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-1100 | 衛の倢伯(?~?) 衛の嗣伯の子。嗣伯が亡くなると、跡を継いだ。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-1100 | 衛の靖伯(?~?) 衛の倢伯の子。倢伯が亡くなると、跡を継いだ。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-1100 | 衛の貞伯(?~前867?) 衛の靖伯の子。靖伯が亡くなると、跡を継いだ。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-1046 | 康叔封(?~?) 姓は姫、名は封。周の文王(姫昌)の九男。武王(姫発)の弟。はじめ康に封じられた。成王の時代、武庚の叛乱が鎮圧されると、殷の旧都・朝歌の近辺が与えられた。衛国の祖。成王が親政すると、司寇に任ぜられた。 康叔封(?~?) 名は封。周の文王(姫昌)の子。武王(姫発)の同母弟にあたる。成王(姫誦)のとき、武庚禄父が乱を起こし、周公旦がこれを討滅すると、武庚の治めていた殷の遺民を預かり、康叔は衛の君に封ぜられ、朝歌を本拠とした。周公旦に「康誥」「酒誥」「梓材」の三篇を贈られ、衛で善政を布いたといわれる。成王が親政すると、周の司寇に任ぜられた。(-シナ大陸-西周、衛)-中国史人物事典- | ||||
-1045 | (~1006年)魯、燕、衛、晋、曹、蔡、呉、陳、宋、斉、楚の諸侯、成立(-シナ大陸-魯、燕、衛、晋、曹、蔡、呉、陳、宋、斉、楚)-- | ||||
-867 | 衛の頃侯(?~前855) 在位前867?~前855。衛の貞伯の子。貞伯が亡くなると、跡を継いだ。周の夷王(姫燮)のとき、伯から侯に上った。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-855 | 衛の釐侯(?~前813) 在位前855~前813。衛の頃侯の子。頃侯が亡くなると、跡を継いだ。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-813 | 衛の共伯余(?~前813) 在位前813。衛の釐侯の子。釐侯が亡くなると、跡を継いだ。弟の和(のちの武公)の襲撃を受け、釐侯の墓道で自殺した。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-813 | 衛の武公(?~前758) 名は和。在位前813~前758。衛の釐侯の子。釐侯の寵愛を受けた。金品を費やして壮士を養い、兄の共伯余を襲撃して自殺させ、自ら衛の国君として即位した。康叔を範として善政を布いたといわれる。四十二年(前771)、犬戎が周の幽王(姫涅)を殺すと、周を援助して犬戎を平定した。周の平王(姫宣臼)のとき、功績により侯から公に上った。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-758 | 衛の荘公(?~前735) 名は揚。在位前758~前735。衛の武公の子。武公が亡くなると、跡を継いだ。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-735 | 衛の桓公(?~前719) 名は完。在位前735~前719。衛の荘公の子。母は戴嬀。荘公が亡くなると、跡を継いだ。桓公二年(前733)、弟の州吁の官位を奪った。十六年(前719)、州吁の襲撃を受けて殺された。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-719 | 衛の州吁、桓公を弑す衛人、州吁を濮に殺す(春秋戦国時代-シナ大陸-衛)-- | ||||
-719 | 衛の州吁(?~前719) 在位前719。衛の荘公の子。軍事を好み、荘公のときに将軍に上った。桓公二年(前733)、官位を奪われ、国外に出た。十三年(前722)、鄭の荘公の弟の段と結んだ。十六年(前719)、桓公を殺して、自ら衛の国君として即位した。段のために鄭を攻めようとして、宋・陳・蔡と結んで鄭を攻めた。石碏らによって濮水のほとりで殺された。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-719 | 衛の宣公(?~前700) 名は晋。在位前719~前700。衛の荘公の子。石碏らが州吁を殺すと、衛の国君として擁立された。夫人の夷姜の産んだ太子伋と斉公女の産んだ公子朔が争った。宣公十八年(前701)、宣公は太子伋をうとんじ、斉への使者として立たせて、国境で盗賊に襲撃させて殺させた。このため公子朔を太子に立てた。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-700 | 衛の恵公(?~前669) 名は朔。在位前700~前696、前688~前669。衛の宣公の子。母は斉公女。宣公十八年(前701)、太子伋が殺されると、太子として立てられた。翌年、宣公が亡くなると、跡を継いだ。恵公四年(前696)、左公子と右公子が乱を起こし、黔牟を迎えて衛君としたため、斉に亡命した。黔牟八年(前688)、斉の襄公の力を借りて、諸侯とともに衛を攻撃し、左公子と右公子を殺して、衛の国君として返り咲いた。二十五年(前675)、燕と結んで黔牟の亡命先の周を攻め、周の恵王を逐って王弟の穨を王位につけた。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-696 | 衛の黔牟(?~?) 在位前696~前688。衛の宣公の子。母は夷姜。恵公四年(前696)、左公子と右公子が恵公を逐って、かれを擁立した。黔牟八年(前688)、斉の襄公が諸侯を率いて衛を攻撃すると、周に亡命した。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-679 | 斉の桓公、斉・宋・陳・衛・鄭の諸侯と甄で会盟し、覇者を称す(春_x000B_秋_x000B_戦_x000B_国_x000B_時_x000B_代-シナ大陸-斉・宋・陳・衛・鄭)-- | ||||
-669 | 衛の懿公(?~前660) 名は赤。在位前669~前660。衛の恵公の子。恵公が亡くなると、跡を継いだ。鶴を飼うことに耽溺して、政治をかえりみず、民心を失った。懿公九年(前660)、翟が衛を攻撃してきたが、兵が従わず、「鶴に命じて翟を撃たせなさい」と言われた。このため翟の侵入を許して殺された。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-660 | 衛の戴公(?~前660) 名は申。在位前660。衛の昭伯頑の子。衛の宣公の孫にあたる。懿公が翟に殺されると、衛の国君として擁立された。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-660 | 衛の文公(?~前635) 名は燬。在位前660~前635。衛の昭伯頑の子。衛の戴公の弟にあたる。翟が衛を攻撃すると、斉に亡命した。戴公が亡くなると、斉の桓公の助力を受けて衛に帰国し、衛君として立った。賦税を軽くし、裁判の公正をはかって、衛の民の人望をえた。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-635 | 衛の成公(?~前600) 名は鄭。在位前635~前632、前630~前600。衛の文公の子。文公が亡くなると、跡を継いだ。成公三年(前632)、晋が衛に道を借りて宋を救援したいと申し出たが、許可しなかった。大夫の元咺の襲撃を受けて、成公はからくも逃れた。また晋の文公が衛を攻めて、衛の領地を宋に割きあたえた。成公は陳に亡命した。元咺と争訟したが敗れて逮捕され、周の洛邑に送られた。五年(前630)、晋の文公に毒殺されかけた。周の襄王のとりなしを受けて、晋の文公と和解し、帰国して元咺と衛君瑕を殺し、復位した。十二年(前623)、晋に入朝して襄公と会見した。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-632 | 衛君瑕(?~前630) 在位前632~前630。成公三年(前632)、衛の成公が大夫の元咺に国を逐われると、衛君として擁立された。衛君瑕二年(前630)、成公が帰国するに先立って、周歂・冶廑らのために殺された。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-600 | 衛の穆公(?~前589) 名は遬。在位前600~前589。衛の成公の子。成公が亡くなると、跡を継いだ。穆公十一年(前589)、孫良夫に魯を救援させ、斉に奪われた旧領を奪回した。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-589 | 衛の定公(?~前577) 名は臧。在位前589~前577。衛の穆公の子。穆公十一年(前589)、穆公が亡くなると、跡を継いだ。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-589 | 晋、魯・衛・曹を率いて、斉を鞍に破る(春秋五大戦の四)(春_x000B_秋_x000B_戦_x000B_国_x000B_時_x000B_代-シナ大陸-晋、魯・衛・曹、斉)-- | ||||
-577 | 衛の献公(?~前544) 名は衎。在位前577~前559、前547~前544。衛の定公の子。定公が亡くなると、跡を継いだ。礼を失した言動が多く、国人たちの怒りを買った。献公十八年(前559)、孫文子(孫林父)が乱を起こし、献公は斉に逃れた。殤公十二年(前547)、晋に逃れた孫文子の工作により帰国し、晋軍が殤公を捕らえると、献公は復位した。献公後元年(前546)、甯喜を誅殺した。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-559 | 衛の殤公(?~前547) 名は秋。在位前559~前547。衛の定公の子。衛の献公の弟にあたる。献公十八年(前559)、孫林父が献公を追放すると、衛君として擁立された。孫文子を宿に封じた。殤公十二年(前547)、孫林父と甯喜が争うと、殤公は甯喜に命じて孫林父を襲撃させた。孫林父は晋に逃れ、斉にいた献公が帰国できるよう工作し、晋軍が衛に出兵すると、殤公と甯喜は捕らえられ、献公が復位した。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-544 | 衛の襄公(?~前535) 名は悪。在位前544~前535。衛の献公の子。献公後三年(前544)、献公が亡くなると、跡を継いだ。襄公六年(前538)、楚の霊公が主催した会盟に参加しなかった。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-535 | 衛の霊公(?~前493) 名は元。在位前535~前493。衛の襄公の庶子。襄公九年(前535)、襄公が亡くなると、跡を継いだ。霊公五年(前530)、晋の昭公のもとに入朝した。三十八年(前497)、孔子を迎え、魯と同じ俸禄を与えた。翌年、太子蒯聵が霊公の夫人の南子を殺害しようとしたことが発覚し、蒯聵が宋に亡命した。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-520 | このころ子貢(端木賜)生まれる(春_x000B_秋_x000B_戦_x000B_国_x000B_時_x000B_代-シナ大陸-衛)-- | ||||
-520 | 端木賜(前521~?) 字は子貢。衛の人。孔子の弟子。口先が達者で、商品や財産の運用が巧みだった。斉の田常が魯を攻めようとしたとき、斉・呉・越・晋に赴いて遊説し、斉と呉を争わせて魯を救い、晋と呉を争わせて晋を強大化させ、越(句践)に呉を滅ぼさせて覇者たらしめた。魯や衛の宰相となり、財産は千金に及び、最後は斉で死んだ。(春_x000B_秋_x000B_戦_x000B_国_x000B_時_x000B_代-シナ大陸-衛)-- | ||||
-493 | 衛の出公(?~?) 名は輒。在位前493~前480、前477~前470。衛の荘公の子。霊公の孫にあたる。霊公四十二年(前493)、霊公が薨去すると、ときに荘公が国外にあったので、かれが即位した。出公十二年(前480)、荘公が帰国すると、位を逐われて魯に逃れた。荘公三年(前478)、荘公が衛の内乱で死ぬと、翌年に斉を経て帰国し、国君に返り咲いた。為政は暴虐で、工匠らを酷使した。後元七年(前470)、褚師比らが乱を起こし、国君の座を追われて越に亡命した。のちに越で没した。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-480 | 衛の荘公(?~前478) 名は蒯聵。在位前480~前478。衛の霊公の子。衛の太子に立てられた。霊公三十九年(前496)、霊公の夫人の南子を殺害しようとしたことが発覚し、宋に亡命した。のちに晋の趙鞅を頼った。四十二年(前493)、出公が立つと、帰国しようとしたが、衛の国人にはばまれ、宿に入った。出公十三年(前480)、孔悝の乱により衛の国君に擁立された。荘公二年(前478)、石圃が乱を起こしたため、戎州の己氏のもとに逃れたが、己氏に殺された。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-480 | 衛の蒯聵、出公を追放し、即位(荘公)孔子の弟子子路、敗死す(春_x000B_秋_x000B_戦_x000B_国_x000B_時_x000B_代-シナ大陸-衛、魯)-- | ||||
-478 | 衛君班師(?~前478) 在位前478。衛の公子。衛の荘公二年(前478)、荘公が出奔すると、衛の国君として立てられた。まもなく斉軍に捕らえられ、退位した。潞に軟禁された。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-478 | 衛君起(?~?) 在位前478~前477。衛の荘公二年(前478)、斉軍が衛君班師を捕らえると、衛の国君として擁立された。まもなく石専に逐われて、斉に亡命した。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-470 | 衛の悼公(?~前451?) 名は黔。在位前470~前451?。衛の出公の叔父にあたる。出公の子を攻めて、みずから即位した。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-451 | 衛の敬公(?~前432) 名は弗。在位前451?~前432。衛の悼公の子。悼公が亡くなると、跡を継いだ。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-432 | 衛の昭公(?~前426) 名は糾。在位前432~前426。衛の敬公の子。衛の敬公十九年(前432)、敬公が亡くなると、跡を継いだ。かれの代には、衛は趙の属国となっていた。昭公六年(前426)、公子亹のために殺害された。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-426 | 衛の懐公(?~前415) 名は亹。在位前426~前415。衛の昭公六年(前426)、昭公を殺して、みずから即位した。懐公十一年(前415)、公子穨のために殺害された。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-415 | 衛の慎公(?~前373) 名は穨。在位前415~前373。公子適の子。衛の敬公の孫にあたる。衛の懐公十一年(前415)、懐公を殺して、みずから即位した。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-373 | 衛の声公(?~前362) 名は訓。在位前373~前362。衛の慎公の子。衛の慎公四十二年(前373)、慎公が亡くなると、跡を継いだ。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-362 | 衛の成侯(?~前333) 名は遬。在位前362~前333。衛の声公の子。衛の声公十一年(前362)、声公が亡くなると、跡を継いだ。成侯十六年(前346)、公の称をやめ、侯と称するようになった。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-333 | 衛の平侯(?~前325) 在位前333~前325。衛の成侯の子。衛の成侯二十九年(前333)、成侯が亡くなると、跡を継いだ。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-325 | 衛の嗣君(?~前283) 在位前325~前283。衛の平侯の子。衛の平侯八年(前325)、平侯が亡くなると、跡を継いだ。嗣君五年(前320)、侯の称をやめ、君と称するようになった。このころ衛は濮陽を領有するのみであった。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-283 | 衛の懐君(?~前252) 在位前283~前252。衛の嗣君の子。衛の嗣君四十二年(前283)、嗣君が亡くなると、跡を継いだ。懐君三十一年(前252)、魏に入朝し、魏に捕らえられて殺された。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-252 | 衛の元君(?~前230) 在位前252~前230。衛の嗣君の子。懐君の弟にあたる。衛の懐君三十一年(前252)、懐君が魏のために殺されると、元君は魏の公女をめとっていたため、衛の君として擁立された。元君十四年(前238)、秦が東郡を立てると、衛は濮陽から野王県にうつされた。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-230 | 衛の君角(?~前209) 在位前230~前209。衛の元君の子。衛の元君二十二年(前230)、元君が亡くなると、跡を継いだ。君角二十一年(前209)、秦の二世皇帝のために平民に落とされ、衛国はここに滅んだ。(-シナ大陸-衛)-中国史人物事典- | ||||
-770 | 春秋戦国時代 | ||||
春秋戦国時代[前770~前221]前770年、周の東遷から、前221年、秦の統一までの約5世紀半の間をさす。前403年、韓・魏・趙が晋を3分した時を境に、前半を春秋時代(「春秋」の名に由来)、後半を戦国時代(「戦国策」の名に由来)に分ける。 周室の衰微により、群雄割拠の状態となり、対立抗争が激しく繰り返され、春秋末期にはその中で比較的勢力の強かった秦・晋・斉・楚・魯・衛・燕・曹・宋・陳・蔡・鄭・呉・越の14国が残った。 さらに各国内での権臣の内紛も多く、晋を韓・魏・趙の3氏が分割し、周王から諸侯と認められ、戦国時代に入った。 新興の韓・魏・趙と斉を奪った田氏と秦・楚・燕の7国(戦国の七雄)が、それぞれ勢力を競ったが、西方の秦の力が増大するに及び、他の6国は内紛などで衰微し、秦の東進によって統一された。 氏族共同体は解体され、成文法(刑法)が公布、官僚制成立、封建制から郡県制への移行が行われた。鉄製農具の開発により生産力が飛躍的に増大、金属貨幣の流通が始まった。諸子百家(*1)が活躍、中国思想の源流を形作った。 | |||||
-475 | 戦国(战国)時代[前475~前221] |
衛(読み)えい(英語表記)Wei
えい ヱイえい〔ヱイ〕漢字項目衛 Wèi衛〔衞〕
中国,先秦時代の諸侯国の一つ。周初,成王が殷人の反乱予防のため朝歌 (河南省) に叔父康叔を封じ建国させたという。西周時代には栄えたが,春秋時代になると西隣の晋や鄭などの圧迫や相続争いなどによって弱体化し,しばしば戎狄の攻撃を受け,戦国時代には趙,魏などに服属してわずかに存続した。前 209年,秦二世皇帝に滅ぼされた。
中国、春秋時代の列国の一。周の武王の弟康叔(こうしゅく)を祖とする。現在の河北省南西部から河南省北部にわたる地域を領し、殷(いん)の旧都朝歌に都したが列国の圧迫でしばしば遷都。前209年、秦(しん)に滅ぼされた。
[音]エイ(ヱイ)(漢) エ(ヱ)(呉) [訓]まもる まもり
[学習漢字]5年
1 周りにいて中のものを守る。また、守る人。「衛生・衛兵/警衛・護衛・自衛・守衛・親衛・前衛・防衛・門衛」
2 周りをまわる。取り巻く。「衛星」
[名のり]ひろ・もり・よし
[難読]衛士(えじ)・近衛(このえ)
中国,周代の侯国。初め河南にあり,のち河北に移る。殷(いん)の遺民を統治するため,武王の弟の康叔が殷の旧都朝歌(河南省淇県)に封ぜられて創始,戦国時代には近隣の魏,秦に圧迫され,国勢振るわず,前209年秦のため滅ぼされた。
→関連項目春秋戦国時代
中国,古代の侯国。前11世紀末,殷の武庚・三監の乱を平定した周公が,弟の康叔を殷の旧都朝歌(河南省淇県)に封建した国。西周時代の大侯国であったが,春秋になると衰え,前660年翟(てき)(狄とも書く)に滅ぼさる。前658年斉の桓公の援助で楚丘(河南省滑県)に再興されたが,前629年再び翟に敗れ,帝丘(河南省濮陽県)にうつる。前254年魏に滅ぼされたが,秦によって再興され,秦の属国として存続し,始皇帝統一後,前209年に滅亡した。
中国、周代の諸侯国の一。武王の弟康叔こうしゆくを祖とし、朝歌(現、河南省内)に都した。紀元前209年秦に滅ぼされた。
中国、周(しゅう)代諸侯国の一つ。周は殷(いん)を滅ぼしてその勢力圏を拡大させた。周の初め、殷の故地の制圧、東方、北方への備えとしていくつかの国が封建されている。その一つが衛。初代は周公旦の弟康叔(こうしゅく)。周の平王が東遷(前770)したとき、衛の武公は兵を率いて周室を助けた。前660年、衛は北方の異族とされる狄(てき)の侵入を受け、国君懿公(いこう)は殺され、一時、国を失った。斉(せい)の援助で楚丘(そきゅう)(河南省)に国を再建できたが、もはやそれまでの基盤を失い、前600年には帝丘(河南省)に移った。孔子はその晩年に殷の故地を流浪し、この衛にも訪れている。戦国時代になっても命脈を保ち、前241年に即位した衛君角(名は角)の21年(前221)、秦(しん)の始皇帝に滅ぼされた。秦の二世のとき(前209)に滅ぼされたとする記録は、『史記』編纂の際の誤配による。[平勢隆郎]
[参照項目] | 周
中国、周代の諸侯国の一つ。周公の弟康叔を祖とし、都を殷の旧都朝歌(河南省湯陰県)に置く。一一代武公のときが最盛期。春秋戦国時代には強国の間にあってふるわず、しばしば遷都。前二〇九年、四二代で秦に滅ぼされた。
周代の諸侯国の1つ
現在の河南省北部にあたり,周の武王の弟康叔 (こうしゆく) が殷 (いん) の故地を支配するため封じられたのが始まり。朝歌 (ちようか) (河南省淇県)を都とし,周の東遷(前770)のころ最も栄えたが,春秋時代は諸大侯の間で勢力が伸びず,前660年に狄 (てき) の侵入で都を楚丘に移してから衰えた。戦国時代には趙 (ちよう) ・魏に服属してわずかに河北の濮陽 (ぼくよう) の地のみとなり,前254年秦の東郡に編入された。
【衛所制】より
…中国,明代の兵制。明の兵制は元制にならい,民と軍を峻別して軍戸を設け,その籍を兵部に所属させ,衛所制に編成した。1衛は5守禦千戸所よりなり,千戸所の長が千戸である。…
[衛(前~前)]
⇒西周,東周,春秋,戦国,魯,斉,晋,秦,楚,宋,衛,陳,蔡,曹,鄭,燕,呉,越,趙,魏,韓
康叔(封)-康伯-孝伯-嗣伯-倢伯-靖伯-貞伯-頃侯-釐侯-共伯(余)-武公(和)-荘公(揚)-桓公(完)-州吁-宣公(晋)-恵公(朔)-黔牟-懿公(赤)-戴公(申)-文公(燬)-成公(鄭)-衛君瑕-穆公(遬)-定公(臧)-献公(衎)-殤公(秋)-襄公(悪)-霊公(元)-出公(輒)-荘公(蒯聵)-衛君班師-衛君起-悼公()-敬公()-昭公()-懐公()-慎公()-声公()-成侯()-平侯()-嗣君()-元君()-君角()
康叔封(?~?)
名は封。周の文王(姫昌)の子。武王(姫発)の同母弟にあたる。成王(姫誦)のとき、武庚禄父が乱を起こし、周公旦がこれを討滅すると、武庚の治めていた殷の遺民を預かり、康叔は衛の君に封ぜられ、朝歌を本拠とした。周公旦に「康誥」「酒誥」「梓材」の三篇を贈られ、衛で善政を布いたといわれる。成王が親政すると、周の司寇に任ぜられた。
衛の康伯(?~?)
康叔封の子。康叔封が亡くなると、跡を継いだ。
衛の孝伯(?~?)
衛の康伯の子。康伯が亡くなると、跡を継いだ。
衛の嗣伯(?~?)
衛の孝伯の子。孝伯が亡くなると、跡を継いだ。
衛の倢伯(?~?)
衛の嗣伯の子。嗣伯が亡くなると、跡を継いだ。
衛の靖伯(?~?)
衛の倢伯の子。倢伯が亡くなると、跡を継いだ。
衛の貞伯(?~前867?)
衛の靖伯の子。靖伯が亡くなると、跡を継いだ。
衛の頃侯(?~前855)
在位前867?~前855。衛の貞伯の子。貞伯が亡くなると、跡を継いだ。周の夷王(姫燮)のとき、伯から侯に上った。
衛の釐侯(?~前813)
在位前855~前813。衛の頃侯の子。頃侯が亡くなると、跡を継いだ。
衛の共伯余(?~前813)
在位前813。衛の釐侯の子。釐侯が亡くなると、跡を継いだ。弟の和(のちの武公)の襲撃を受け、釐侯の墓道で自殺した。
衛の武公(?~前758)
名は和。在位前813~前758。衛の釐侯の子。釐侯の寵愛を受けた。金品を費やして壮士を養い、兄の共伯余を襲撃して自殺させ、自ら衛の国君として即位した。康叔を範として善政を布いたといわれる。四十二年(前771)、犬戎が周の幽王(姫涅)を殺すと、周を援助して犬戎を平定した。周の平王(姫宣臼)のとき、功績により侯から公に上った。
衛の荘公(?~前735)
名は揚。在位前758~前735。衛の武公の子。武公が亡くなると、跡を継いだ。
衛の桓公(?~前719)
名は完。在位前735~前719。衛の荘公の子。母は戴嬀。荘公が亡くなると、跡を継いだ。桓公二年(前733)、弟の州吁の官位を奪った。十六年(前719)、州吁の襲撃を受けて殺された。
衛の州吁(?~前719)
在位前719。衛の荘公の子。軍事を好み、荘公のときに将軍に上った。桓公二年(前733)、官位を奪われ、国外に出た。十三年(前722)、鄭の荘公の弟の段と結んだ。十六年(前719)、桓公を殺して、自ら衛の国君として即位した。段のために鄭を攻めようとして、宋・陳・蔡と結んで鄭を攻めた。石碏らによって濮水のほとりで殺された。
衛の宣公(?~前700)
名は晋。在位前719~前700。衛の荘公の子。石碏らが州吁を殺すと、衛の国君として擁立された。夫人の夷姜の産んだ太子伋と斉公女の産んだ公子朔が争った。宣公十八年(前701)、宣公は太子伋をうとんじ、斉への使者として立たせて、国境で盗賊に襲撃させて殺させた。このため公子朔を太子に立てた。
衛の恵公(?~前669)
名は朔。在位前700~前696、前688~前669。衛の宣公の子。母は斉公女。宣公十八年(前701)、太子伋が殺されると、太子として立てられた。翌年、宣公が亡くなると、跡を継いだ。恵公四年(前696)、左公子と右公子が乱を起こし、黔牟を迎えて衛君としたため、斉に亡命した。黔牟八年(前688)、斉の襄公の力を借りて、諸侯とともに衛を攻撃し、左公子と右公子を殺して、衛の国君として返り咲いた。二十五年(前675)、燕と結んで黔牟の亡命先の周を攻め、周の恵王を逐って王弟の穨を王位につけた。
衛の黔牟(?~?)
在位前696~前688。衛の宣公の子。母は夷姜。恵公四年(前696)、左公子と右公子が恵公を逐って、かれを擁立した。黔牟八年(前688)、斉の襄公が諸侯を率いて衛を攻撃すると、周に亡命した。
衛の懿公(?~前660)
名は赤。在位前669~前660。衛の恵公の子。恵公が亡くなると、跡を継いだ。鶴を飼うことに耽溺して、政治をかえりみず、民心を失った。懿公九年(前660)、翟が衛を攻撃してきたが、兵が従わず、「鶴に命じて翟を撃たせなさい」と言われた。このため翟の侵入を許して殺された。
衛の戴公(?~前660)
名は申。在位前660。衛の昭伯頑の子。衛の宣公の孫にあたる。懿公が翟に殺されると、衛の国君として擁立された。
衛の文公(?~前635)
名は燬。在位前660~前635。衛の昭伯頑の子。衛の戴公の弟にあたる。翟が衛を攻撃すると、斉に亡命した。戴公が亡くなると、斉の桓公の助力を受けて衛に帰国し、衛君として立った。賦税を軽くし、裁判の公正をはかって、衛の民の人望をえた。
衛の成公(?~前600)
名は鄭。在位前635~前632、前630~前600。衛の文公の子。文公が亡くなると、跡を継いだ。成公三年(前632)、晋が衛に道を借りて宋を救援したいと申し出たが、許可しなかった。大夫の元咺の襲撃を受けて、成公はからくも逃れた。また晋の文公が衛を攻めて、衛の領地を宋に割きあたえた。成公は陳に亡命した。元咺と争訟したが敗れて逮捕され、周の洛邑に送られた。五年(前630)、晋の文公に毒殺されかけた。周の襄王のとりなしを受けて、晋の文公と和解し、帰国して元咺と衛君瑕を殺し、復位した。十二年(前623)、晋に入朝して襄公と会見した。
衛君瑕(?~前630)
在位前632~前630。成公三年(前632)、衛の成公が大夫の元咺に国を逐われると、衛君として擁立された。衛君瑕二年(前630)、成公が帰国するに先立って、周歂・冶廑らのために殺された。
衛の穆公(?~前589)
名は遬。在位前600~前589。衛の成公の子。成公が亡くなると、跡を継いだ。穆公十一年(前589)、孫良夫に魯を救援させ、斉に奪われた旧領を奪回した。
衛の定公(?~前577)
名は臧。在位前589~前577。衛の穆公の子。穆公十一年(前589)、穆公が亡くなると、跡を継いだ。
衛の献公(?~前544)
名は衎。在位前577~前559、前547~前544。衛の定公の子。定公が亡くなると、跡を継いだ。礼を失した言動が多く、国人たちの怒りを買った。献公十八年(前559)、孫文子(孫林父)が乱を起こし、献公は斉に逃れた。殤公十二年(前547)、晋に逃れた孫文子の工作により帰国し、晋軍が殤公を捕らえると、献公は復位した。献公後元年(前546)、甯喜を誅殺した。
衛の殤公(?~前547)
名は秋。在位前559~前547。衛の定公の子。衛の献公の弟にあたる。献公十八年(前559)、孫林父が献公を追放すると、衛君として擁立された。孫文子を宿に封じた。殤公十二年(前547)、孫林父と甯喜が争うと、殤公は甯喜に命じて孫林父を襲撃させた。孫林父は晋に逃れ、斉にいた献公が帰国できるよう工作し、晋軍が衛に出兵すると、殤公と甯喜は捕らえられ、献公が復位した。
衛の襄公(?~前535)
名は悪。在位前544~前535。衛の献公の子。献公後三年(前544)、献公が亡くなると、跡を継いだ。襄公六年(前538)、楚の霊公が主催した会盟に参加しなかった。
衛の霊公(?~前493)
名は元。在位前535~前493。衛の襄公の庶子。襄公九年(前535)、襄公が亡くなると、跡を継いだ。霊公五年(前530)、晋の昭公のもとに入朝した。三十八年(前497)、孔子を迎え、魯と同じ俸禄を与えた。翌年、太子蒯聵が霊公の夫人の南子を殺害しようとしたことが発覚し、蒯聵が宋に亡命した。
衛の出公(?~?)
名は輒。在位前493~前480、前477~前470。衛の荘公の子。霊公の孫にあたる。霊公四十二年(前493)、霊公が薨去すると、ときに荘公が国外にあったので、かれが即位した。出公十二年(前480)、荘公が帰国すると、位を逐われて魯に逃れた。荘公三年(前478)、荘公が衛の内乱で死ぬと、翌年に斉を経て帰国し、国君に返り咲いた。為政は暴虐で、工匠らを酷使した。後元七年(前470)、褚師比らが乱を起こし、国君の座を追われて越に亡命した。のちに越で没した。
衛の荘公(?~前478)
名は蒯聵。在位前480~前478。衛の霊公の子。衛の太子に立てられた。霊公三十九年(前496)、霊公の夫人の南子を殺害しようとしたことが発覚し、宋に亡命した。のちに晋の趙鞅を頼った。四十二年(前493)、出公が立つと、帰国しようとしたが、衛の国人にはばまれ、宿に入った。出公十三年(前480)、孔悝の乱により衛の国君に擁立された。荘公二年(前478)、石圃が乱を起こしたため、戎州の己氏のもとに逃れたが、己氏に殺された。
衛君班師(?~前478)
在位前478。衛の公子。衛の荘公二年(前478)、荘公が出奔すると、衛の国君として立てられた。まもなく斉軍に捕らえられ、退位した。潞に軟禁された。
衛君起(?~?)
在位前478~前477。衛の荘公二年(前478)、斉軍が衛君班師を捕らえると、衛の国君として擁立された。まもなく石専に逐われて、斉に亡命した。
衛の悼公(?~前451?)
名は黔。在位前470~前451?。衛の出公の叔父にあたる。出公の子を攻めて、みずから即位した。
衛の敬公(?~前432)
名は弗。在位前451?~前432。衛の悼公の子。悼公が亡くなると、跡を継いだ。
衛の昭公(?~前426)
名は糾。在位前432~前426。衛の敬公の子。衛の敬公十九年(前432)、敬公が亡くなると、跡を継いだ。かれの代には、衛は趙の属国となっていた。昭公六年(前426)、公子亹のために殺害された。
衛の懐公(?~前415)
名は亹。在位前426~前415。衛の昭公六年(前426)、昭公を殺して、みずから即位した。懐公十一年(前415)、公子穨のために殺害された。
衛の慎公(?~前373)
名は穨。在位前415~前373。公子適の子。衛の敬公の孫にあたる。衛の懐公十一年(前415)、懐公を殺して、みずから即位した。
衛の声公(?~前362)
名は訓。在位前373~前362。衛の慎公の子。衛の慎公四十二年(前373)、慎公が亡くなると、跡を継いだ。
衛の成侯(?~前333)
名は遬。在位前362~前333。衛の声公の子。衛の声公十一年(前362)、声公が亡くなると、跡を継いだ。成侯十六年(前346)、公の称をやめ、侯と称するようになった。
衛の平侯(?~前325)
在位前333~前325。衛の成侯の子。衛の成侯二十九年(前333)、成侯が亡くなると、跡を継いだ。
衛の嗣君(?~前283)
在位前325~前283。衛の平侯の子。衛の平侯八年(前325)、平侯が亡くなると、跡を継いだ。嗣君五年(前320)、侯の称をやめ、君と称するようになった。このころ衛は濮陽を領有するのみであった。
衛の懐君(?~前252)
在位前283~前252。衛の嗣君の子。衛の嗣君四十二年(前283)、嗣君が亡くなると、跡を継いだ。懐君三十一年(前252)、魏に入朝し、魏に捕らえられて殺された。
衛の元君(?~前230)
在位前252~前230。衛の嗣君の子。懐君の弟にあたる。衛の懐君三十一年(前252)、懐君が魏のために殺されると、元君は魏の公女をめとっていたため、衛の君として擁立された。元君十四年(前238)、秦が東郡を立てると、衛は濮陽から野王県にうつされた。
衛の君角(?~前209)
在位前230~前209。衛の元君の子。衛の元君二十二年(前230)、元君が亡くなると、跡を継いだ。君角二十一年(前209)、秦の二世皇帝のために平民に落とされ、衛国はここに滅んだ。
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