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袁世凱

袁世凱 えんせいがいYuan Shi-kai; Yüan Shih-k`ai
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
袁世凱
えんせいがい
Yuan Shi-kai; Yüan Shih-k`ai
[生]咸豊9(1859).河南,項城
[没]1916.6.6. 北京
中国の軍人,政治家。北洋軍閥の巨頭。大郷紳の家に生れた。朝鮮に派遣され,甲申の変 (1884) 以後は朝鮮の内治,外交を支配した。日戦争後,帰国して軍創建に従事,光緒 24 (98) 年の戊戌の政変に際し光緒帝を裏切り,同 25年山東巡撫となり義和団 (→義和団事変 ) を鎮圧。同 27年,直隷総督兼北洋大臣に就任,清朝最大の実力者の一人となったが廷貴族にねたまれ,同 33年軍機大臣に転じられ,宣統1 (1909) 年引退させられた。同3年,辛亥革命が起ると内閣総理大臣に起用され,1912年宣統帝を退位させ,中華民国臨時大総統となる。次いで国民党を弾圧,13年正式大総統就任。国会解散で独裁を強化,16年みずから皇帝と称したが,反乱拡大のため帝制実施を断念。まもなく急死した。

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デジタル大辞泉の解説
えん‐せいがい〔ヱン‐〕【袁世凱
[1859~1916]中国の政治家。河南省項城の人。天津で洋式の建陸軍を編。辛亥(しんがい)革命後、中華民国初代大総統に就任。在任1913~1915。帝制を実施しようとしたが、反袁運動のため失敗。ユアン=シーカイ。

ユアン‐シーカイ【袁世凱
⇒えんせいがい(袁世凱

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百科事典マイペディアの解説
袁世凱【えんせいがい】
中華民国の初代大統領。河南省項城県の人。壬午(じんご)軍乱,甲申(こうしん)政変に活躍。戊戌(ぼじゅつ)変法では光緒帝側から西太后側に内応。1899年義和団を追い,李鴻章(りこうしょう)の死後,直隷総督,北洋大臣となり,辛亥(しんがい)革命に際しては清朝の実権を握った上で革命派と妥協し,帝の退位を実現。
→関連項目有賀長雄|義和団|厳復|黄興|玉章|醇親王載【ほう】|章士【しょう】|徐世昌|教仁|【こん】|段祺瑞|中華民国|張勲|二十一ヵ条要求|馮国璋|北洋軍閥|モリソン|劉師培|啓超|黎

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
袁世凱 えん-せいがい
1859-1916 中国の軍人,政治家。
咸豊9年8月20日生まれ。甲申(こうしん)事変(1884)の際,国軍をひきいて朝鮮に武力介入し,日本と対立。のち北洋軍閥を統率。辛亥(しんがい)革命では宣統帝(愛覚羅溥儀(あいしんかくら-ふぎ))の退位とひきかえに,孫文にかわり中華民国臨時大総統となる。1913年初代大総統につくと独裁をつよめ,帝政実現をはかるが,対華21ヵ条要求受諾による反日気運と反袁運動のなかで,1916年6月6日病死。58歳。河南省出身。

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世界大百科事典 第2版の解説
えんせいがい【袁世凱 Yuán Shì kǎi】
1859‐1916
中国の軍人政治家。河南省項城県の人。字は慰庭(亭),号は容庵。大地主の家に育ち,科挙になんどか失敗して軍伍に身を投じた。祖父の代に淮軍(わいぐん)の将(袁甲三)を出した縁もあり,朝鮮で甲申事変を鎮圧して李鴻章にみとめられた。日戦争に敗北した清朝は近代兵制の採用にふみきるが,その軍の監督に任ぜられた袁世凱は,義兄弟の徐世昌をはじめ息のかかった若手将校を各部門の責任者に抜擢配置し,強力な私的人脈を形する。

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大辞林 第三版の解説
えんせいがい【袁世凱
(1859~1916) 中国の軍人・政治家。字あざなは慰庭いてい、号は容菴ようあん。李鴻章りこうしようを継いで北洋軍閥の首領となり、辛亥しんがい革命では革命派と結び、清朝の宣統帝を廃位して臨時大総統に就任。独裁政治を行い、帝政実現を図ったが失敗。ユアン=シーカイ。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
袁世凱
えんせいがい
(1859―1916)
中華民国の初代大総統。河南省項城県の生まれ。日(にっしん)戦争前は、朝鮮で政治、軍事に手腕を揮し、李鴻章(りこうしょう)の信任を得て、総理交渉通商事宜(じぎ)としてソウルに駐在し、朝鮮の内治、外交に干渉して属国化した。日戦争の敗北後、軍制、軍隊の近代的改革を断行し「建陸軍」を組織した。これが後の北洋軍閥および袁の政界進出の礎石となった。このとき、袁の養した部将が民国後の北洋軍閥の首脳となる。李鴻章の没(1901)後、直隷(ちょくれい)総督兼北洋大臣となり、自己の勢力を強化拡大していった。日露戦争後、袁の伸張に対する満州人官僚の巻き返しによって、一時下野を余儀なくさせられるが、辛亥(しんがい)革命の勃(ぼっぱつ)によってふたたび軍事の全権をゆだねられ、1911年11月に内閣総理大臣となり、清朝政府の実権を掌握した。1912年2月、南方政府の譲歩を引き出し、帝退位と引き換えに臨時大総統の地位につき、中華民国立する。その後、袁は、帝国主義列強の支持を背景に革命の果を骨抜きにしていった。大総統の権限を制約しようとする議会の動きを、国民党首脳教仁(そうきょうじん)の暗殺によって抑制し、さらにそれを契機に起こった「第二革命」を武力鎮圧した。1913年10月には正式に大総統となって、国民党の解散を命じるとともに約法を公布して独裁を強化し、1915年には帝制運動を開始した。袁の政府には、自国の利権の扶植を図る多くの外国人「顧問」がおり、帝制運動の画策に大きな役割を果たした。しかし、日本の二十一か条要求に対する中国のナショナリズムの高揚、1915年末の雲南蜂起(ほうき)を契機に各地で起こった反袁運動の拡大により、列強も帝制取消しを勧告、ついに1916年3月、袁は帝制取消しを宣言した。その直後、討袁の続くなかで没した。[南里知樹]
[参照項目] | 辛亥革命 | 中国国民党 | 北洋軍閥 | 李鴻章

袁世凱

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世界大百科事典内の袁世凱の言及
【義和団】より

…義和団は太平天国のような統一的指導機関を持たない各義和団の集合体であった。 99年秋,山東省の平原で義和団は弾圧にきた軍を破り,以後勢力は急激に増大するが,99年末山東巡撫となった袁世凱の徹底した弾圧を受け,1900年春には河北省の義和団の立ちあがりと山東義和団の移動で運動の中心は河北に移った。6月,義和団は北京に入城して全北京を掌握,公使館区域を包囲,また租界を抱える天津をも占領した。…
【甲申政変】より

玉均,洪英植,朴泳孝らは,士官学生や壮士を指揮して国王高宗と王妃の閔妃(びんひ)を守旧派から隔離させ,日本軍の出動を求めて護した。5日には開化派を軸とする政府をつくり,6日にはしい政綱を表したが,袁世凱が1500名の軍を率いて武力介入すると日本軍は引き揚げ,孤立無援の開化派は,玉均,朴泳孝,徐光範ら9名が日本,アメリカに亡命したほか,殺害または処刑された。甲申政変は,開化思想がまだ大衆を把握するまえの,開明的な少数エリートによる突出したクーデタに終わり,日本軍の出動を求めて国王を護したため,むしろ大衆の反日感情を爆させた。…
【辛亥革命】より

…革命の勢いはそれくらい猛烈だったのである。清朝袁世凱を再起用して第2代内閣総理大臣に任じ,もてる力のほとんどを武戦線に投入して口,陽を奪回したが,それとひきかえるように12月初め,南京が革命軍に攻略された。軍は局部的優勢をたもちえても全国に広がる革命の勢いをおしつぶすことはできなかった。…
【籌安会】より

…中国の近代,袁世凱の帝政運動に奉仕する目的で,国体研究を名目に,1915年8月から10月にかけて組織された団体。起者の楊度(1874‐1931),孫毓筠(そんいくいん),厳復,李燮和(りしようわ),胡瑛,劉師培を六君子と呼ぶこともある。…
中華民国】より

…しかし彼らの力はそこまでであった。孫文は臨時大総統位を袁世凱(えんせいがい)に譲らざるをえず,軍閥の親玉である袁世凱は首都を北京に移して,独裁支配への道を歩みはじめる。中国に多くの権益をもつ列強は,革命家孫文を支持することはなく,軍閥袁世凱を後押しし,国内の有産階級もやはり袁世凱に政権をまかすことをえらんだ。…
【帝政問題】より

中華民国初期,1915年から16年にかけて大総統袁世凱が,民国を廃して帝政を復活させようとし,83日で失敗に帰した事件。袁世凱は,民国5年(1916)を洪憲年と改し,実質的には皇帝としてふるまったが,正式即位には至らなかった。…
【北洋軍閥】より

…中国近代の袁世凱系軍事集団の総称。北洋とは南洋にたいする語で,江蘇,山東,直隷(河北),寧の北方沿海諸省を包括する,末に設けられた歴史地理区画である。…
【戊戌変法】より

…汝ら適宜に速かに密かにはかり,法を設けて救うべし〉という密詔を康有為および楊鋭らにした。一方,光緒帝は直隷按察使袁世凱(えんせいがい)を召見して,その率いる建軍を利用して栄禄を殺させようとはかり,譚嗣同も袁世凱に光緒帝保護のために決起を促そうとしたが,いずれも失敗に終わった。光緒帝は瀛台(えいだい)に幽閉され,西太后の訓政が復活して,戊戌変法は瓦解した。…
【約法】より

中華民国臨時約法(旧約法),中華民国約法(約法),中華民国訓政時期約法の三つがある。〈中華民国臨時約法〉は辛亥革命時期に臨時参議院の約法起草会議で起草され,1912年3月11日臨時大総統袁世凱の名で公布された。7章56条からり,正式憲法制定まで憲法と同等の効力を持つとされ,おもな内容は,(1)主権は国民全体に属す,(2)人民は居住・移転・財産・言論・出版・集会・結社・信教などの自由権と選挙権・被選挙権を有する,(3)一院制としての参議院に,臨時大総統・国務員に対する弾劾権,臨時大総統の権限の一部に対する同意権を与える,(4)臨時大総統は参議院により選挙される,など。…
【吉野作造】より

…二高を経て東京大学法科に進み,在学中よりキリスト教を信じ海老名弾正の影響を受ける。1906年袁世凱家の家庭教師として渡,09年東大助教授,翌年から13年までヨーロッパに学び,14年教授に昇任し政治史を担当。この年から《中央公論》に毎号のように政論を執筆。…

※「袁世凱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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