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補章 残された課題―継体紀の「日本天皇」問題(Historical)

倭国と日本(Historical)

補章 残された課題-継体紀の「日本天皇」問題

さて、最後に避けられぬ「試石」がある。継体紀の「日本天皇」問題だ。

   二十五年春二月、天皇、病甚し。丁未(七日)、天皇、磐余玉穂宮に崩ず。時に年八十二。
   冬十二月丙申朔庚子(五日)、藍野陵に葬る。
   或本に云はく「天皇、二十八年歳次甲寅、崩ず」と。而るを此に二十五年歳次辛亥に崩ずと云へるは、百済本記を取りて文を為れるなり。其の文に云はく「太歳辛亥三月、軍進みて安羅に至り、乞[宅-宀]城を営る。是月、高麗、其の王安を弑す。又聞く、日本天皇及び太子・皇子、倶に崩薨ず」と。此に由りて言へば、辛亥歳は二十五年に当る。後に勘校へむ者、知らむ。

これを整理すると、以下のような状況だ。

1、国内伝承では継体の没年は二十八年甲寅の歳(五三四年)だった。
2、百済本記には辛亥の歳(五三一年)に「日本天皇、太子皇子が崩薨」とあった。
3、書紀編者は迷ったが、百済本記の記載に従い、二十五年(五三一年)を継体の没年と定めた。
4、書紀編者はなおも疑問を残し、注としてこれを付した。
5、またその際に次代の安閑の即位年は、「国内伝承」のとおり甲寅歳(五三四年)としたため、三年の空位期間が生じたが、これもそのままにしておいた。

さて、ここの日本は、やはり天皇家であろう。ところが、この百済本記の記載は、国内伝承と真っ向から対立する。単なる没年のずれだけではない。天皇・太子・皇子がともに死亡、これは大事件である。「日本」史上、稀に見る大事件だ。ところが国内にはそんな伝承のあった形跡はない。それどころか、「太子」安閑は即位、「皇子」たちには宣化・欽明といった天皇達がいていずれも当然即位している。健在だ。この両者(国内伝承と百済本記)の食い違いは、どういうことなのだろうか。この継体没年に関する書紀の「混乱」に加え、いわゆる「仏教公伝」の年次の矛盾(書紀では欽明十三年壬申、上宮法王帝説他では、欽明の戊午年とする。書紀では欽明紀に「戊午年」はない)から、様々な説が出されている。

1.平子鐸嶺説

   上記の書紀の記載や、継体二十三年に没したとされる巨勢男人が安閑紀においても「大臣」であったとすることから、継体二十三年はすでに、安閑の治世に入っていたとし、安閑・宣化両朝を継体紀末尾に組み入れ、「百済本記」の「日本天皇」は実は宣化崩年である、とする。(継体没年=五二七、安閑元年=五二八、宣化元年=五二八、欽明元年=五三二とする)

2.喜田貞吉説

   上宮聖徳法王帝説に、欽明の治世を四十一年とするところから、これを認めて、欽明の即位年を五三二年とし、継体没後、欽明が即位したものの、その即位を認めない勢力がいて、安閑・宣化両朝が起こったとする。「二朝並立」である。

3.林屋辰三郎説

   「二朝並立説」を更に推し進め、継体時代の「内乱・反乱」の情勢から、「二朝並立」に至ったのだとする説。

主なところは、この辺りだろう。いずれにせよ、この「継体紀末」の書紀の混乱を収拾しようとして、たてられた説である。しかし、古田武彦の指摘するとおり(『失われた九州王朝』)、いずれも、「日本天皇太子皇子倶に崩薨ず」の文面を説明できない。結局は、このような情勢だったから、「誤伝」もあったのだ、というに過ぎない。一方、その古田武彦は、「百済本記」の「日本」を九州王朝を指すと見なした上で、「日本天皇」は筑紫君磐井その人であるとする。

すでに述べているとおり、「百済本記」の「日本」は近畿天皇家を指すべきだと見られるから、古田のこの説には従えない。逆に、ここの「日本」が実は九州王朝を指しているのだとしよう。ならば、必然的に以下のように考えざるを得ない。「書紀編者は、「百済本記」の「日本」が九州王朝を指していることを知らなかった」これである。「百済本記」の「日本」が九州王朝を指すのであれば、当然ながら、この「日本天皇」が継体ではなく、九州の王者を指すこと、古田の論じたとおりだ。ところが、書紀編者は「日本天皇」が近畿天皇家を指すことを疑っていない。疑っていないからこそ、惑い、「後に勘校へむ者、知らむ」という異例の形式を取らざるを得なかったのだ。もしも、それでもなお、「日本」が九州王朝を指すのであれば、書紀編纂の過程を知る貴重な史料だ。「故意の盗作」ではなく、「過失」である。

だが、事実はそうではない。欽明紀の本文に見えるとおり、書紀は敢えて、欽明天皇と九州王朝の王者を同一視しようとしている。だが、実際は、欽明その人こそ、「任那日本府」を統括し、「天皇」や百済側と対立した「王」だったのである。従って、私は、ここで書紀編者が「戸惑う」事実こそ、「百済本記」の「日本」が天皇家を指している証拠。そのように見える。

私は以下のように考えている。

(1)古田の指摘するとおり、「天皇・太子・皇子倶に崩薨」という事態は尋常なものではない。従って、これがそうたやすく「誤伝」され得るものではない。
(2)継体の没年は「国内伝承」のとおり、甲寅年が正しい。これを、辛亥年に切り替えた為に矛盾が頻出したこと、書紀編者の語るとおりだ。
(3)継体の在位年数の二十八年は、疑問である。なぜなら、この時代はちょうど「二倍年暦」と「通常暦」の境界にあたる。継体の没年齢(書紀では八十二歳、古事記では四十三歳)を考えれば、書紀の記載は「二倍年暦」によっていると見なされる。従って、即位年は、書紀の記載よりも時代が下る可能性がある。
(4)継体の即位は「不法の簒奪」であった可能性が高い(武烈悪逆記事問題。古田武彦『日本列島の大王たち』参照)。少なくとも、異常な即位だった。従って、武烈の一族は、継体によって全滅させられた可能性がある。
(5)推古朝の「十二年のずれ」問題(古田武彦『法隆寺の中の九州王朝』参照)が、継体紀まで遡る可能性がある。欽明・宣化・安閑・継体・武烈の書く天皇の即位・没年が十二年下る可能性があるのだ。
(6)3と5から、五三一年は実際には武烈の治世ではなかろうか。「日本天皇」とはすなわち、「武烈」である可能性があるのだ。

もっとも、これは、推測の域を出ないものだ。ともあれ、やはり、この「日本天皇」を継体と見なすことは出来ない。その一方で、九州王朝の王者と見なすことも、書紀編述の姿勢からいっても、認められないのである。要するに、結論は保留、としておきたい。