遼
遼
10~12世紀、モンゴル高原に興った北方民族が建てた契丹が、中国北部を支配した称した中国風の国号。二重統治体制によって華北を支配した。東北に起こった女真と南の宋に挟撃され、1125年に滅亡した。
遼・北宋・西夏
遼・北宋・西夏
916年、耶律阿保機(太祖)がモンゴル高原で活動していた北方系の遊牧民部族を統合して、中国の東北辺からモンゴル高原東部にかけて契丹を建国した。唐末の混乱を逃れてきた漢人を受け入れ強大となり、926年に東の渤海を滅ぼし、さらに南下して漢民族の領域を脅かし、936年には燕雲十六州を獲得、さらに五代~宋の王朝と抗争した。
なお国号は本来契丹であり、遼と称したのは947年以降であり、その後も契丹という国号に戻っているが、便宜上国号としては「遼」を使う。なお、遼(契丹国)の都としては現在の内蒙古の上京臨潢府(じょうけいりんこうふ)を中心とする5京(副都)があり、燕雲十六州獲得後はその中に位置する燕京も副都の一つ南京析津府となった。
燕雲十六州の獲得
太祖の次の太宗の時、中国の五代の一つ後晋を支援した見返りに、936年に燕雲十六州を獲得、華北に進出し、946年には後晋を攻撃して滅ぼし、開封に入城して一時中国全土を支配、翌947年に国号を遼とした。しかし、漢民族の抵抗を受けて中国全土の支配を放棄し、モンゴル高原東部と華北のみを支配することに戻る。その後は五代の後に中国南部を統一した宋(北宋)と対峙する存在となった。宋はしばしば燕雲十六州の奪回をめざしたがいずれも失敗した。
勢力の拡大
その後、遼ではしばらく内紛が続き、南下も動きもおさまっていたが、10世紀末に勢いを盛り返し、聖宗の時には黄河上流にタングート(西夏)が台頭するとそれを服属させて大夏王(宋は西夏といった)に封じ、後には友好関係を結んで宋に備えた。また東方では女真が有力となったが、遼は軍隊を派遣して制圧し、さらに朝鮮半島の高麗を服属させた。
宋との講和 澶淵の盟
周辺諸民族に対する優位な状況を実現した上で、1004年、遼の聖宗は南下して宋(北宋)の都開封に迫まり、黄河北岸の澶州で真宗の率いる宋軍と対峙した。宋は西北からのタングートの侵攻も受けて危機に陥り、講和に乗りだして同年に澶淵の盟が締結された。これは、国境はそのままとし、形式的には宋の真宗を兄、遼の聖宗を弟として友好関係を結びながら、宋が毎年銀10万両と絹20万匹を遼に贈ることを約束するという、遼にとって有利な講和条件であった。宋はこの莫大な代償によって講和を実現し、以後両者の間には120年にわたって平和がもたらされた。
この澶淵の盟で遼と宋の講和が成立してからの11世紀、遼は宋および西夏との交易で繁栄し、遼の全盛期となった。1922年に聖宗とその後の3代の陵墓が発見され(慶陵という)、遼の高度な文化の存在が明らかになった。
遼の二重統治体制
遼は北方民族に対しては従来からの部族制によって支配したが、華北で支配下にある漢民族に対しては中国的な州県制で統治するという二重統治体制をとった。このような、遊牧民族の統治制度を維持し、漢文化に同化せずに中国を支配した王朝を征服王朝といい、遼はその最初の例である。遼は独自の契丹文字を制定するなど、文化面でも独自性の維持に務めた。
遼の滅亡と一族の移動
宋との講和が実現し、毎年莫大な賠償金を受け取ることの続いた遼の支配層は、次第に贅沢に慣れ、頽廃が進むこととなった。その間、中国東北部で遼の支配下にあった女真は、質素な狩猟・採集生活を続けながら強固な軍事組織を作り上げ、次第に遼の圧迫に反抗するようになった。女真を率いる完顔阿骨打は1114年についに挙兵して、遼に叛旗を翻し、翌1115年に即位して金を建国、宋も遼を倒す好機と考え、金と宋の連合軍が遼を挟撃することとなった。実際には宋軍は同時に長江流域で方臘の乱という農民反乱が起こっていたために動けず、1122年に完顔阿骨打の率いる金軍が遼の都の一つ上京臨潢府と燕京を陥落させた。完顔阿骨打は翌年に死去したが第二代皇帝太宗によって、1125年に遼は完全に滅ぼされた。
遼滅亡に際して、遼の王族の一人、耶律大石の率いる一部が西方に逃れ、トルキスタンで西遼(カラ=キタイ)を建国した。
遼[916~1125]
太祖(耶律阿保機)-太宗(耶律徳光)-世宗(耶律阮)-穆宗(耶律璟)-景宗(耶律賢)-聖宗(耶律隆緒)-興宗(耶律宗真)-道宗(耶律洪基)-天祚帝(耶律延禧)
耶律阿保機(872~926)
遼の太祖⇒。
耶律倍(899~937)
小字は図欲。太祖(耶律阿保機)の長男。神册元年(916)、十八歳で皇太子になり、父の出征には常に従った。渤海を滅ぼして東丹と改め、王に封ぜられてその統治にあたった。太祖が没すると、皇太后述律氏が弟の徳光(のちの太宗)に継承させたがっていることを知り、譲位を申し出た。かれは疑われて東平に流され、監視を受けた。後唐の明宗(李嗣源)に招かれて出国し、名を李賛華と改め、滑州に鎮した。博学で、書室を巫閭山頂上に築いて、望海堂と名づけ、万巻の書を蔵した。また絵画にも秀でた。李従珂(後唐末宗)が簒奪したことを遼太宗に知らせて出兵を請うたため、殺された。子の耶律阮は帝位につき、遼の世宗となった。
耶律徳光(902~947)
遼の太宗⇒。
趙延寿(?~948)
もとの姓は劉。恒山の人。後梁の将軍である趙徳鈞の養子となった。後唐に仕えて、駙馬都尉、枢密使となった。のち契丹に降り、幽州節度使に任用された。会同十年(947)、太宗(耶律徳光)が南征したとき、先鋒をつとめ、晋将の杜重威を降し、太宗の渡河を援護した。遼の大丞相・中京留守に上った。太宗の死後、遺詔を奉じたと称して、軍事と国事の大権を握ろうとしたが、永康王により拘禁された。
韓延徽(882~959)
字は蔵明。幽州安次の人。はじめ唐の節度使劉守光に仕えたが、契丹に使者としておもむき、とどまって太祖(耶律阿保機)の軍事に参与した。捕虜とした漢人に城郭を築かせて住まわせるよう太祖に献策した。都邑宮殿の造営や国制の制定に参画して謀を献じた。郷愁やまずひとたび唐に逃げ帰り、まもなくまた契丹に帰順したので、太祖は匣列の名をかれに賜った。匣列とは、契丹語で「再び来たる」の意である。守政事令となった。天贊四年(925)、渤海征討に従軍し、功により左僕射に任ぜられた。太宗(耶律徳光)のとき、魯国公に封ぜられ、政事令となった。後晋への使者をつとめて、南京三司使となった。世宗(耶律阮)のとき、南府丞相にうつった。穆宗(耶律璟)の応暦年間に致仕した。死後に尚書令を追贈された。
韓匡嗣(?~982)
薊州玉田の人。韓知古の子。医術をよくして太祖(耶律阿保機)と述律皇后に近侍した。皇后はかれを息子のように可愛がった。穆宗(耶律璟)のとき、耶律賢(のちの景宗)と親しみ、景宗が即位すると、上京留守をつとめた。のち南京留守にうつり、燕王に封ぜられた。乾亨元年(979)、宋が北漢を滅ぼすと、韓匡嗣は利を失い、宋軍が南京を囲んだ。遼は兵を発して宋軍を討ち、囲みを解いた。韓匡嗣は耶律休哥のいさめも聞かず、宋人の偽降を受け入れ、満城で大敗を喫し、旗鼓を捨てて逃走した。帝の怒りを買い、処刑されるところを、皇后のとりなしで杖罰で許された。晋昌軍節度使となり、三年(981)には西南面招討使をつとめた。五人の子があり、ともに遼に仕えた。
耶律休哥(?~998)
字は遜寧。乾亨元年(979)、宋の親征軍に囲まれた燕京を五院軍を率いて救援し、耶律斜軫の率いる六院軍と力を合わせて、宋軍を高梁河において大いに破った。身に三つの傷を負いながら、軽車に乗って宋の太宗(趙匡義)を追い、涿州にいたった。翌年、北院大王に抜擢され、宋軍を瓦橋関で破った。統和元年(983)、南京留守となり、南方の軍務を統括した。四年(986)、宋の北伐軍の主力たる曹彬・米信らを岐沟関で破って、功により宋国王に封ぜられた。同年末、宋の劉廷譲の軍を君子館で破った。七年(989)、宋の尹継倫に敗れて、ひじに傷を負った。戦場では勇戦したが、朝廷では宋との和平論を唱えた。軍兵が国境を犯すのを常にいましめ、宋の牛馬で国境を越えたものはことごとく送り返したという。
耶律斜軫(?~999)
字は韓穏。耶律曷魯の孫にあたる。景宗(耶律賢)のとき、南院大王に上った。保寧十一年(979)、耶律休哥とともに宋軍を挟撃し、高梁河に破った。聖宗(耶律隆緒)のとき、承天太后の称制のもと、北院枢密使となった。統和四年(986)、諸路兵馬都統となり、承天太后に従って宋軍と戦った。蔚州を攻め破り、宋の潘美の軍を破り、朔州に進んで、宋の将の楊継業を捕らえた。功により守太保を加えられた。十七年(999)、南征の途中、軍中で没した。
韓徳讓(941~1011)
薊州玉田の人。韓匡嗣の子。乾亨元年(979)、権知南京留守に任ぜられた。宋軍を討ち、高梁河で破った。南院枢密使に上った。承天皇太后の摂政のもと、総領宿衛事となった。統和三年(985)、政事令を兼ね、司徒の位を加えた。承天皇太后を助けて朝政を主導し、遼朝の安定と発展につとめた。六年(988)、宋軍を満城で破った。翌年、楚王に封ぜられた。十二年(994)、北府宰相に任ぜられ、枢密使を領し、修国史を兼ね、太保に上った。十七年(999),北院枢密使を兼ねた。のちに大丞相となり、斉王に改封され、総理北南両院枢密院事となった。二十二年(1004)、澶淵の盟の締結に参与し、晋王に改封され、位は親王の上とされた。同年に耶律姓を賜り、二十八年(1010)には隆運の名を賜っている。
耶律隆慶(973~1016)
字は燕隠。景宗(耶律賢)の次男。乾亨二年(980)、恒王に封ぜられた。統和十六年(998)、梁国王に進み、南京留守となった。翌年、兵を率いて宋を攻め、宋軍を瀛州で破った。十九年(1001)、再び宋を攻め、宋軍を行唐で破った。開泰元年(1012)、秦晋国王となり、鉄券を賜った。守太師を加えられ、政事令を兼ねた。のち大元帥に任ぜられた。五年(1016)、北安州で病没した。翌年、皇太弟に追冊された。
蕭韓家奴(975~1046)
字は体堅。契丹涅剌部の出身。蕭安搏の孫にあたる。若いころから学問を好み、契丹文と漢文をこなし、経史に通暁した。「為時大儒」の称をえた。統和二十八年(1010)、右通進となり、南京栗園をつかさどった。重熙四年(1035)、天成軍節度使・愍宮使などに任ぜられた。「四時逸楽賦」を撰して、聖宗に賞讃を受けた。詔勅に応じて統治の要点を上疏して、「民は国のもとい、兵は国の守り」との考えをもとに、遼の辺境防衛や治安政策を重視するよう述べた。のちに翰林都林牙・修国史に上った。遼の先朝の実録や礼書の編纂に参与した。また『通暦』、『貞観政要』、『五代史』などの漢籍を契丹文に翻訳した。
蕭恵(983~1056)
字は伯仁。契丹右大部の出身。伯父の蕭排押による高麗遠征に従い、軍律の厳正さで知られた。開泰年間に同中書門下平章事に上った。のち西北路招討使となり、魏国公に封ぜられた。興宗が即位すると鄭王に封ぜられ、のち趙王に、さらに斉王に改封された。南枢密使となり、韓王に改封され、重煕十二年(1043)には北府宰相・同知元帥府事を兼ねた。軍を率いてたびたび西夏を攻めたが、ことごとく敗れた。致仕して、魏王に封ぜられた。
耶律儼(?~1114)
本姓は李、字は若思。析律の人。父の李仲禧は北院宣徽使に上り、耶律姓を賜った。儼は幼くして学問を好み、詩才によって知られた。咸雍年間に進士に及第した。著作佐郎を皮切りに、将作少監・少府少監・大理少卿・大理卿・景州刺史・御史中丞・同知宣徽院事・提点大理寺・山西路都転運使などを歴任した。寿隆初年、枢密直学士に任ぜられ、道宗(耶律洪基)に『尚書』を講義した。寿昌五年(1099)、宋への使者をつとめて、まもなく参知政事となった。知枢密院事に進み、越国公に封ぜられた。道宗が崩ずると、天祚帝(耶律延禧)を擁立した。乾統元年(1101)に趙国に封ぜられ、三年(1103)に秦国に移封された。六年(1106)、漆水郡王に封ぜられた。『皇朝実録』。
耶律淳(1063~1122)
契丹名は涅里。道宗(耶律洪基)のとき、彰聖軍節度使をつとめた。天祚帝(耶律延禧)が即位すると、鄭王に封ぜられ、のち越王となった。乾統六年(1106)、南府宰相となった。十年(1110)、父の和魯斡の職を継ぎ、南京留守となった。天慶五年(1115)、天祚帝が金軍に敗れて長春に逃れた。このとき御営副都統の耶律章奴が天祚帝の廃立を策謀して、淳に使者を送りかれを帝に擁立しようとした。淳は使者を斬って天祚帝の謁見を受け、秦晋国王に封ぜられ、都元帥となった。燕雲の民数千を集めて抗金をはかったが、失敗して南京に帰った。保大二年(1122)、天祚帝が入夾山で敗れると、淳は擁立されて帝を称し、号を天賜皇帝といった。これを北遼と称す。三月に病死した。廟号は宣宗。
李処温(?~1122)
析律の人。耶律儼の甥。儼の死後、蕭奉先の推薦を受けて相に上った。保大初年に金軍が中京を陥したため、天祚帝(耶律延禧)が西逃すると、蕭乾とはかって秦晋国王耶律淳を帝に擁立した。かれは太尉となった。耶律淳がまもなく病没すると、淳の妃の蕭氏を太后として立てた。蕭后を宋に献じて帰順しようとしたが、謀が漏れて処刑された。
耶律延禧(1075~1128)
⇒遼の天祚帝。
↓次の時代=金
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⇒歴代皇帝(秦,漢,三国,晋,北朝,南朝,隋,唐,五代,宋,元,明,清)
[遼(916~1125)]
耶律阿保機(872~926)
漢名は億。遼の初代太祖。在位916~926。契丹の迭剌部の出身。長じては長身九尺の偉丈夫となった。はじめ痕徳菫可汗に仕えて軍功を立てた。とくに南方を経略して奚部族を従え、さらに華北に侵入して多くの漢人を契丹内地に遷した。韓延徽らの漢人を登用して漢文化を摂取。ついに契丹諸部族を統一し、汗位についた。諸部の大人たちに迫られて一度は汗位を譲ったが、間もなく諸部の大人らを誘殺して、契丹諸部を統合した。916年、皇帝を称し、国号を契丹とし、神冊と建元した。西方に遠征して、突厥・吐渾・タングート・沙陀など諸部族を征討し、外蒙古から東トルキスタンまでを征服した。次いで東方に兵を出して、926年に渤海国を滅ぼした。凱旋の途中、扶余府でにわかに没した。
耶律徳光(902~947)
契丹名は堯骨。字は徳謹。遼の二代太宗。在位926~947。太祖(耶律阿保機)の次男。天賛元年(922)、天下兵馬大元帥となり、太祖の出征に従った。天顕元年(926)、太祖が崩ずると、母の述律氏の称制の後、長兄の耶律倍に譲られて帝位についた。中国文化の摂取につとめ、唐に倣って百官の制を整え、衣冠・服飾を改めた。また中原の経略に力をそそぎ、十一年(936)には石敬塘の後晋建国を助け、燕雲十六州の割譲を受けた。後晋が遼に従わなくなると、会同十年(947)、南征して後晋を滅ぼし、華北一帯を占領した。しかし、漢人の叛乱が続発し、また熱暑に悩まされたため、軍を本国に帰す途中、病にたおれて欒城で没した。
耶律阮(918~951)
契丹名は兀欲。遼の三代世宗。在位947~951。耶律倍の子。会同九年(946)、太宗(耶律徳光)に従って後晋を攻めた。翌年、永康王に封ぜられた。太宗が崩ずると、鎮陽で群臣に擁立されて即位した。ときに祖母の述律太后が上京で太祖(耶律阿保機)の三男の李胡を立てていたので、帝は兵を率いて北に帰り、潢河にいたると、太后と李胡は降った。天禄四年(950)、兵を率いて後漢を攻めた。翌年、後周を攻めた。軍が帰化州祥古山にいたると、察割によって殺された。
耶律璟(931~969)
契丹名は述律。遼の四代穆宗。在位951~969。太宗(耶律徳光)の長男。会同二年(939)、寿安王に封ぜられた。天禄五年(951)、世宗(耶律阮)の南征に従った。世宗が察割に害されると、兵を率いて察割を誅殺し、帝位についた。在位中、王室の内部でたびたび謀反事件が起こった。対外的には北漢を援助して後周と対抗した。応暦十九年(969)二月、近侍の小哥ら六人に殺された。
耶律賢(948~982)
字は賢寧。契丹名は明扆。遼の五代景宗。在位969~982。世宗(耶律阮)の次男。応暦十九年(969)、穆宗が弑されると、群臣の勧進を受けて帝位につき、天賛皇帝を号した。保寧と改元した。保寧二年(970)、南院枢密使で漢人の高勛が、蕭海只・海里らを使って北院枢密使の蕭思温を刺殺させた。八年(976)に高勛を罷免し、のち殺させた。漢人の韓匡嗣・韓徳譲親子を任用して、前後して南院枢密使をつとめさせた。翌年、一貫して支援してきた北漢が宋に滅ぼされた。耶律沙が宋軍と高梁河で戦い、後退したところ、耶律休哥・耶律斜軫が宋軍に横撃を加えて大いに破った。乾亨二年(980)、兵を率いて親征し、宋軍を瓦橋関の東で破った。四年(982)、雲州で病のため崩じた。
耶律隆緒(971~1031)
契丹名は文殊奴。遼の六代聖宗。在位982~1031。景宗(耶律賢)の子。乾亨四年(982)九月、景宗が崩ずると、十二歳で帝位についた。統和と改元し、承天太后が摂政した。統和元年(983)、国号を大契丹と改めた。二十二年(1004)、承天太后に従って宋を攻め、宋との間に澶淵の盟を結んで帰還した。二十七年(1009)、承天太后が病没すると、親政をはじめた。法律を修訂し、奴隷を赦免し、二十四部を設置し、燕薊の漢人良工を招いて中京城を建てさせた。西方の韃靼を破り、甘州や西州の回鶻を来貢させた。東は高麗に侵入し、和平を結んだ。在位は四十九年におよび、遼の全盛期であった。
耶律宗真(1016~1055)
字は夷不菫。契丹名は只骨。遼の七代興宗。在位1031~1055。聖宗(耶律隆緒)の長男。母は蕭氏(耨斤)。斉天皇后(菩薩哥)に養育された。三歳で梁王に封ぜられ、太平元年(1021)に皇太子に立てられた。十一年(1031)六月、聖宗が崩ずると、十六歳にして即位した。景福と改元した。生母の耨斤が皇太后となり、摂政した。重煕元年(1032)、皇太后が斉天皇后を誣告して上京にうつし自殺させた。三年(1034)、皇太后を慶州七括宮に幽閉し、親政をはじめた。十一年(1042)、西夏と交戦中の北宋に圧力をかけ、歳幣に絹十万疋・銀十万両を上乗せさせた。また十三年(1044)、西夏を討って称藩させた。二十四年(1055)八月、秋山の行帳で病のため崩じた。
耶律洪基(1032~1101)
字は涅鄰。契丹名は査剌。遼の八代道宗。在位1055~1101。興宗(耶律宗真)の長男。興宗のとき、総北南院枢密使事・尚書令をつとめ、天下兵馬大元帥に進んだ。重煕二十四年(1055)、興宗が崩ずると、帝位についた。清寧と改元した。興宗の弟の耶律重元を皇太叔とし、天下兵馬大元帥の号を加えた。清寧九年(1063)、重元が帝位を奪おうと謀ったので、耶律仁先・耶律乙辛らを派遣して乱を平定させ、重元を自殺させた。咸雍二年(1066)、国号を大遼に改めた。この後、耶律乙辛が専権を握り、宣懿皇后を誣告して陥れたり、皇太子耶律浚を謀殺したりした。大康七年(1081)、乙辛の党を誅殺した。在位は四十五年に及び、漢文化を愛好し、儒学を学んだ。詩賦を多く作って『清寧集』を編したが、今は散佚している。
耶律延禧(1075~1128)
名は阿果。字は延寧。遼の九代天祚帝。在位1101~1125。耶律濬の子。道宗(耶律洪基)の孫にあたる。乾統元年(1101)、道宗の死後に即位した。天慶四年(1114)、女真の完顏阿骨打が遼にそむいて起兵し、翌年に金国を建てて皇帝を称したため、軍を率いて金を攻めたが、かえって大敗した。六年(1116)、渤海人の高永昌が東京に拠って遼にそむき、金に救援を求めた。金軍は勢いに乗って東京を取り、遼東の五十四州の地を席巻した。保大二年(1122)にいたって、遼の上京・中京・西京・南京は相次いで失陥した。天祚帝は西京より入夾山に逃げ、さらに天徳軍に逃げて、雲内州にいたった。残軍を率いて東進し、再起を図ろうとしたが、また金軍に敗れた。五年(1125)、応州の東で捕らえられ、遼は滅んだ。金に降ったのち、海濱王に封ぜられた。のち病死した。