金
[金(1115~1234)]
太祖(完顔阿骨打)-太宗(完顔呉乞買)-熙宗(完顔合剌)-海陵王(完顔迪古乃)-世宗(完顔烏禄)-章宗(完顔麻達葛)-衛紹王(完顔永済)-宣宗(完顔吾睹補)-哀宗(完顔寧甲速)
完顔阿骨打(1068~1123)
金の太祖⇒。
完顔宗望(?~1127)
本名は斡魯補、または斡離不。金の太祖(完顔阿骨打)の次男。金の建国以前、阿骨打の征戦に従い、常に側近にあった。天輔六年(1122)、兵を率いて遼の天祚帝(耶律延禧)を追い、軍功を挙げた。太祖に従って燕都を平定し、副都統となった。翌年、天祚帝の軍を大いに破った。天会三年(1125)、平州より進発して宋を攻め、三河県にいたり、郭薬師の軍を白河で破った。翌年正月、汴京(開封)を囲み、宋に迫って姪と称さしめた。八月、右副元帥となり、再び宋を攻めた。十二月、左副元帥完顔宗翰とともに北宋を滅ぼした。軍を北還させ、まもなく病没した。金の建国の功臣のひとり。
完顔斜也(?~1130)
漢名は杲。完顔劾里鉢の子。金の太祖(完顔阿骨打)の同母弟。収国元年(1115)、昃勃極烈となった。天輔元年(1117)、女直皮室四部を降し、泰州を落とした。降伏した諸部を女真の地にうつした。五年(1121)、忽魯勃極烈・都統内外諸軍となった。六年(1122)、遼の中京や高州・恩州を陥落させ、奚王を降した。遼の西京はすでに降っていたが再び叛いたので、出兵して再奪取した。太祖に従って燕京を下した。太宗(完顔呉乞買)のとき、諳班勃極烈となり、完顔宗幹とともに国政をおさめた。天会三年(1125)、都元帥を兼ねた。死後、遼王に追封された。諡は智烈。金の建国の功臣のひとり。
完顔婁室(1077~1130)
字は斡里衍。女真の出身。勇猛で兵略に通じた。若くして従軍し、父の跡を継いで七水部長となった。遼の天慶四年(1114)、金の太祖(完顔阿骨打)に従って、遼にそむいた。金の収国元年(1115)、功により猛安に抜擢された。太祖に従って達魯古城を攻め、戦功を挙げた。天輔六年(1122)、完顔杲に従って遼の中京を攻め落とした。また遼の西京を落とした。西夏軍三万が遼を救援するために派兵してくると、衆議を抑えて速戦に決し、渡河直後を狙い撃ちして、西夏軍を撃破した。翌年、耶律大石が奉聖州に来攻すると、諸将と連係して迎撃し、大石を生け捕りにした。天会三年(1125)、遼の天祚帝(耶律延禧)を追撃して、応州でこれを捕らえた。翌年、完顔宗翰に従って宋を攻め、河東の数郡を下した。六年(1128)、軍を陜西に向かわせ、同州・華州を落とし、京兆を破り、鳳翔に勝利した。しかし熟羊寨で宋軍に敗れて退却した。翌年、宋の延安府・晋寧軍などを攻め落とした。八年(1130)、陜州を落とした。完顔宗輔に従って富平の戦いに参加し、張浚の率いる宋軍を潰滅させた。同年十二月に病没した。
完顔忠(?~1136)
本名は迪古乃。字は阿思魁。女真耶懶路完顔部の出身。石土門の弟にあたる。金の太祖(完顔阿骨打)の挙兵に従った。太祖の命により達魯古城を守った。斡魯らとともに高永昌を破り、東京(遼陽)に下った。遼の耶律捏里の兵を蒺藜山で破り、遼の顕・乾・成・川・懿・豪・恵の数州を奪った。諸将とともに西征して遼帝を襲い、奉聖州を降した。耶懶路都孛堇となった。天会二年(1124)、于速頻水にうつった。熙宗(完顔合剌)が即位すると、太子太師を加えられた。十四年(1136)、保大軍節度使・同中書門下平章事を加えられた。死後に金源郡王に追封された。金の建国の功臣のひとり。
完顔宗翰(1079~1136)
本名は粘没喝。またの名は粘罕。金の太祖(完顔阿骨打)の甥にあたる。太祖の征遼の戦に従って、功績を立てた。天会三年(1125)、左副元帥となり、兵を率いて宋を攻めた。翌年、太原を陥した。五年(1127)、宋の徽宗・欽宗や后妃・宗室・大臣たちを虜囚とし、財物を掠めて北帰した。のちに再び軍を発して、河南・山東を攻めて占領した。太保・尚書令・領三省事に上り、晋王に封ぜられた。没後に秦王に改封された。
完顔希尹(?~1140)
本名は谷神。天輔三年(1119)、金の太祖(完顔阿骨打)の勅命を受けて女真文字を作った。太祖の征遼の戦に従った。元帥右監軍となり、対宋戦に参加した。宗翰に従って南宋の高宗を追撃した。熙宗が即位すると、尚書左丞相・侍中に上った。のち陳王に封ぜられた。皇統三年(1140)、陥れられて死を賜った。
完顔銀朮可(1072~1140)
またの名を銀朮哥、銀朮割。遼に対する使者として立ち、遼の事情を金の太祖(完顔阿骨打)に伝え、遼を討つべきことを勧めた。太祖に従って達魯古城で遼の耶律訛里朶の軍と大戦し、戦功を挙げた。また黄龍府を攻めて、白馬濼で遼兵を破った。収国二年(1116)、寧江州に駐屯した。天輔年間、渾河で戦い、中京を落とした。天会四年(1126)、完顔宗翰に従って宋を攻撃し、太原を囲み、宋の援軍を撃破した。完顔宗望と合流し、汴京(開封)を落とした。六年(1128)、鄭州を奪い、宋の将軍の李操らを殺した。十年(1132)、燕京留守となった。十三年(1135)、致仕し、保大軍節度使を加えられ、中書令に転じ、蜀王に封ぜられた。
完顔宗幹(?~1141)
本名は斡本。金の太祖(完顔阿骨打)の子。太祖に従って遼を討ち、しばしば戦功を挙げた。太宗(完顔呉乞買)のとき、国論勃極烈として輔政にあたり、官制・儀礼を改訂した。国論左勃極烈となった。熙宗(完顔合剌)のとき、太傅・領三省事となった。完顔希尹らとともに完顔宗磐・完顔宗雋らを誅した。太師に上り、梁宋国王に封ぜられ、国史を監修した。皇統元年(1141)、熙宗に従って燕京にいたる途中、野狐嶺で病没した。子の海陵王(完顔迪古乃)が即位すると、睿明皇帝と追諡され、徳宗の廟号が贈られた。世宗(完顔烏禄)が即位すると、廟号が削られ、明粛皇帝と改められた。さらに帝号を削られ、皇伯・太師・遼王の位を追贈され、忠烈と諡された。
完顔昂(?~1142)
本名は吾都補。完顔盈歌の子。金の太祖(完顔阿骨打)の従弟にあたる。しばしば太祖の征討に従軍した。天会六年(1128)、権元帥左都監となった。十五年(1137)、西京留守をつとめた。天眷三年(1140)、平章政事に上った。皇統元年(1141)、漆水郡王に封ぜられた。翌年、鄆王に進んだ。
宇文虚中(1079~1146)
字は叔通、号は龍渓。成都華陽の人。北宋の大観三年(1109)、進士に及第した。資政殿大学士に上った。南宋が建てられると、黄門侍郎に任ぜられた。建炎二年(1128)、金に使者として立ち、軟禁された。釈放されたのち、金に仕えて礼部尚書・翰林学士承旨となり、河内郡開国公に封ぜられ、国師と尊称された。皇統六年(1146)、上京会寧府に抑留されていた宋の捕虜の一部が虚中を奉じて帥とし、軍を奪って南に逃亡しようとした。事前に漏れて逮捕され、処刑された。懐郷の感情をうたった詩人としても知られた。
完顔宗弼(?~1148)
本名は斡啜。またの名は兀朮。金の太祖(完顔阿骨打)の四男。金軍を率いて、征遼、征宋の戦いに活躍した。北宋を滅ぼして二帝を虜囚とし、江南で宋の康王趙構(高宗)が擁立されて南宋が成立すると、高宗を追撃して長江を越えた。韓世忠らの軍に敗れて、包囲を突破して逃げた。天会十五年(1137)、右副元帥に上り、瀋王に封ぜられ、軍政の専権を握った。天眷元年(1138)、宋に敗れて河南を失った。都元帥を経て、太保・領行台尚書省に上り、尚書左丞相・侍中にいたった。三年(1140)、再び南下して、河南を奪うが、岳飛の軍に敗れて危機に陥った。皇統二年(1142)、秦檜と交渉して岳飛を殺させ、淮河・秦嶺以北を金領とする金朝優位の和議を、南宋との間に結ばせた。
完顔常勝(?~1149)
漢名は元。完顔宗峻の子。金の太祖(完顔阿骨打)の孫にあたる。熙宗(完顔合剌)のとき、北京留守をつとめた。胙王に封ぜられた。皇統七年(1147)、熙宗に酒を賜り、飲むことができず、逃げ出した。九年(1149)、河南の軍士孫進が叛くと、皇弟按察大王を自称した。このとき熙宗は皇弟とは常勝のことであると疑い、海陵王亮がその疑惑を誇張させ、ついにかれは殺された。
完顔秉徳(?~1150)
本名は乙卒。完顔宗翰の孫にあたる。はじめ金の西南路招討使となり、のちに汴京留守・兵部尚書となった。皇統六年(1146)、参知政事となった。八年(1148)、平章政事に進んだ。翌年、尚書左丞相・中書令となり、唐括弁らとともに熙宗(完顔合剌)を寝殿で刺殺した。海陵王(完顔迪古乃)が即位すると、左丞相・侍中・左副元帥となり、蕭王に封ぜられた。天徳二年(1150)、行台尚書省事として出向させられ、完顔宗本らとともに謀反の罪で誣告された。四月、燕京行台で殺された。
完顔烏帯(?~1152)
漢名は言。完顔阿魯補の子。金の熙宗(完顔合剌)のとき、大理卿となった。左丞相完顔秉徳や唐括弁らとともに廃立のことを相談し、海陵王完顔迪古乃に告げた。熙宗が殺され、海陵王が立つと、平章政事となった。天徳二年(1150)、秉徳と完顔宗本を謀反の罪で誣告し、海陵王に秉徳と宗本を殺させた。右丞相に任ぜられ、秉徳の財産を我がものとし、司空・左丞相・侍中に進んだ。まもなく解任されて、崇義軍節度使として出された。妻の唐括氏は海陵王と私通していた。四年(1152)、海陵王の命を受けた唐括氏により殺された。
完顔孛迭(?~1154)
漢名は亨。完顔宗弼の子。金の熙宗(完顔合剌)のとき、芮王に封ぜられ、銀青光禄大夫を加えられた。海陵王(完顔迪古乃)のとき、帝の猜忌に遭い、真定尹として出された。中京留守・東京留守を歴任し、広寧尹にうつった。海陵王の命で李老僧が同知広寧尹事として監視にあたった。まもなく李老僧による謀反の誣告を受けて獄死した。世宗(完顔烏禄)のとき、官爵を復され、韓王に追封されて、名誉回復された。
完顔烏野(1099~1157)
漢名は勗。字は勉道。はじめ金の太祖(完顔阿骨打)に従って征戦に従事し、太宗(完顔呉乞買)のときは謀政に参与した。天会六年(1128)、金建国以前の遺事を探訪して、『祖宗実録』を編纂した。熙宗(完顔合剌)のとき、宗磐の乱の平定に従い、鎮東軍節度使・同中書門下平章事・平章政事・監修国史・尚書左丞相などを歴任した。太保・太師に上り、魯国王・漢国王・秦漢国王に歴封された。海陵王(完顔迪古乃)のとき、周宋国王に進んだ。『太祖実録』、『女直郡王姓氏譜』を撰したほか、詩文に「射虎賦」などがある。
蔡松年(1107~1159)
字は伯堅、号は蕭閑老人。真定の人。蔡靖の子。北宋の宣和末年、父に従って燕山を守った。金に降ったのち、金の太宗(完顔呉乞買)・熙宗(完顔合剌)・海陵王(完顔迪古乃)の三君に仕えた。正隆三年(1158)、右丞相に任ぜられ、儀同三司を加えられ、衛国公に封ぜられた。文詞は清麗で、楽府を最も得意とし、呉激と並び称された。『明秀集』。
完顔迪古乃(1126~1161)
海陵王,廃帝亮⇒。
完顔元宜(?~1164?)
もとの姓は耶律。名は阿列。またの名は移特輦。契丹の出身。完顔(耶律)慎思の子。父に従って金の太祖(完顔阿骨打)に降り、完顔姓を賜った。熙宗(完顔合剌)のとき、護衛をつとめた。海陵王(完顔迪古乃)が即位すると、兵部尚書となった。正隆六年(1161)、海陵王に従って南宋を攻め、神武軍都総管として和州で宋軍を破り、浙西道兵馬都統制に進んで、金牌を帯びた。十月、揚州瓜洲渡で海陵王を殺し、兵を収めて北への帰途についた。翌年、世宗(完顔烏禄)に謁見して、御史大夫に任ぜられ、平章政事に進んだ。命を受けて泰州路に向かい、契丹の移剌窩斡の乱の鎮圧にあたった。大定四年(1164)、致仕した。家で病没した。
王重陽(1113~1170)
もとの名は中孚、改めて名は嘉。字は智明、重陽は号。咸陽の人。はじめ科挙受験のために勉学に励んだが、礼部の役人の怒りを買って資格を失った。しかたなく受験した武挙に及第したが、寒村の酒税監に任ぜられた。不遇を嘆いて辞職し、家業も捨てて酒乱の生活を送った。のち、仏教に帰依したという。正隆四年(1159)、二人の隠者(漢鍾離・呂純陽)に会って一念発起し、妻子を捨てて道士となった。儒・仏・道の三教を融合した全真教の祖となり、山東北部において馬丹陽以下の七真人を弟子として、教団の基礎を固めた。
徒単合喜(?~1171)
上京の人。金の皇統二年(1142)、隴州防御使となり、前後して高陵・秦州・鳳翔・饒風関で宋軍と戦った。平涼・臨洮・延安の三府尹や元帥左都監・陜西統軍使兼河中府尹・西蜀道兵馬都統といった職を歴任した。世宗(完顔烏禄)が即位すると、陜西路統軍使となり、元帥右都監に転じ、華州で宋を破り、臨洮を取り、秦・河・隴など十六州府を奪った。大定七年(1167)、枢密副使となり、次いで東京留守をつとめた。九年(1169)、平章政事に上った。
紇石烈志寧(?~1172)
本名は撤曷輦。上京の人。完顔宗弼の娘婿にあたる。金の海陵王(完顔迪古乃)のとき、右宣徽使・汾陽軍節度使・兵部尚書に任ぜられた。左宣徽使・都点検に進み、枢密副使・開封府尹に転じた。契丹の撤八が乱を起こすと、北面都統となり、白彦敬らとともに鎮圧にあたった。世宗(完顔烏禄)の即位に反対し、使者九人を殺したが、世宗の軍の攻撃を受けると降伏し、臨海節度使に任ぜられ、右翼軍の都統となった。命を受けて、契丹の移剌窩斡の乱の鎮圧にあたった。左副元帥に上り、睢陽に駐屯した。都元帥僕散忠義に従って南宋を攻め、李世輔の軍を宿州で破った。平章政事に上った。まもなく枢密使・右丞相に進み、金源郡王に封ぜられた。
蔡珪(?~1174)
字は正甫。真定の人。蔡松年の子。金の天徳三年(1151)、進士に及第した。翰林修撰・同知制誥として召された。のちに戸部員外郎・太常丞に転じた。大定年間ごろには、文壇で確固たる地位を占め、金朝の文学の基礎を築いた。『晋陽志』、『補正水経』。
馬丹陽(1123~1183)
名は鈺。字は宜甫、または玄宝、号は丹陽子。丹陽真人ともいう。山東寧海の人。大定八年(1168)、王重陽に従って道士となり、全真教に帰依した。京兆・山東の間を往来して伝道にはげんだ。「道は無心をもって体となし、忘言をもって用となし、柔弱をもって本となし、清浄をもって基となす」ことを主張した。『洞玄金玉集』、『漸悟集』。
完顔允恭(1146~1185)
本名は胡土瓦。のちに允迪、允恭の名を賜った。金の世宗(完顔烏禄)の次男。大定元年(1161)、楚王に封ぜられた。翌年、皇太子に立てられた。漢官を信じて用いた。二十四年(1184)、世宗が上京に巡行して都を空けたとき、留守を預かって一年近く国政をみた。朝臣の繁雑な礼を簡略化した。翌年、病死し、宣孝太子と諡されて、大房山に葬られた。二十九年(1189)、子の完顔麻達葛(章宗)が即位すると、顕宗の廟号が贈られた。
徒単克寧(?~1191)
もとの名は習顕。東莱の人。女真徒単部の出身。完顔希尹の甥にあたる。騎射をよくし、契丹・女真の文字に通じた。金の熙宗のとき、護衛となり、忠順軍節度使に転じた。海陵王のとき、宿州防御使・胡里改路節度使・曷懶路兵馬都総管を歴任した。世宗の初年、移剌窩斡の乱の鎮圧にあたった。大定三年(1163)、益都尹・山東路兵馬都総管・行軍都統となった。翌年、宋を攻め、楚州を奪った。大名尹に転じた。十一年(1171)、紇石烈志寧に従って北征した。翌年、枢密副使・知大興府事となった。太子太保・平章政事に転じた。十九年(1179)、右丞相となった。二十一年(1181)、左丞相。翌年、克寧の名を賜った。二十五年(1185)、太子完顔允恭が病没すると、皇太孫を立てるよう上表した。二十八年(1188)、世宗の遺命を受けて、章宗の即位を助け、太尉・尚書令をつとめた。まもなく太傅に進んだ。明昌元年(1190)、太師・尚書令となり、淄王に封ぜられた。翌年正月、病死した。
完顔襄(1140~1202)
本名は唵。完顔阿魯帯の子。衛王襄と同名のため、内族襄とも称した。騎射をよくした。金の世宗(完顔烏禄)のとき、移剌窩斡の乱を鎮圧したほか、宋軍の侵攻を撃退した。大定二十三年(1183)、平章政事に任ぜられ、蕭国公に封ぜられた。右丞相に進み、徒単志寧や張汝霖とともに、政権を担当した。章宗が即位すると、再び右丞相をつとめ、完顔安国と二路に分かれてタタールを攻めた。承安元年(1196)、勝利をえてタタール部長を殺した。帰還後、左丞相となり、常山郡王に封ぜられた。翌年、北京に駐留し、臨潢府を進発して諸部を討ち、界壕を築いた。左丞相のまま、司空に上った。
王庭筠(1156~1202)
字は子端、号は黄華山主。辰州熊岳の人。大定十六年(1175)、進士に及第した。恩州軍事判官となった。明昌元年(1190)、試館職に召されたが、御史台の干渉で辞めさせられ、彰徳の黄華山にこもった。再び招聘されて応奉翰林文字となり、ついで翰林院修撰に上った。承安元年(1196)、趙秉文の事件に連座して官を解かれたが、四年(1199)応奉翰林文字として復帰、泰和元年(1201)再び翰林院修撰となった。文才にすぐれ、詩書画をたしなんだ。
完顔宗浩(?~1207)
本名は老。字は師孟。完顔昂の子。金の世宗のとき、参知政事に上った。承安三年(1198)、金虎符を帯び、泰州に鎮して、コンギラト・ハダキンの諸部を破り、移米河や呼歇水の以北まで進軍した。功により枢密使に任ぜられ、栄国公に封ぜられた。五年(1200)、尚書右丞相に進み、完顔襄らとともに辺地の壕を修築するよう建言した。泰和七年(1207)、都元帥を兼ね、汴京(開封)で行省事をつとめた。襄陽におもむいて軍を観閲し、南宋に和議を迫らせた。九月、軍中で没した。
完顔撤速(1152~1209)
漢名は匡。女真文をよくして、金の世宗(完顔烏禄)のときに太子侍読となった。大定二十五年(1185)、礼部策論進士となった。章宗(完顔麻達葛)が立つと、近侍局をつかさどった。承安初年、行枢密院として撫州に出向し、出戻って守尚書左丞・修国史となり『世宗実録』の編纂にあたった。枢密副使となり、謀克世襲の権を授かった。泰和六年(1206)、右副元帥となり、僕散揆を補佐して宋の韓侘冑の軍を討ち、光化・隨州を攻め落とし、襄漢路を遮断し、徳安を囲み、安陸・雲夢・漢川などの諸城を席巻した。襄陽を長らく囲んだが、落とせなかった。七年(1207)、平章政事・左副元帥となり、定国公に封ぜられた。諸軍を総覧し、汴京の行政を代行した。宋との間に和議が成立すると、帰朝した。李元妃とともに章宗の遺詔を受け、衛紹王(完顔永済)を擁立した。まもなく李元妃を誣告して殺した。尚書令となり、申王に封ぜられた。
党懐英(1134~1211)
字は世傑、号は竹渓。馮翊の人。父に従って泰安に移った。若いころから辛棄疾とともに辛党と並び称された。大定十年(1170)、進士に及第した。世宗(完顔烏禄)のとき、国史院編修官・応奉翰林文字・翰林待詔・同修国史に累進し、郝俣同とともに『遼史』の刊修官となった。遼代の民間の碑銘・墓志・諸家文集・旧事記録を蒐集した。明昌三年(1192)、翰林学士承旨に上り、のち致仕した。書・篆刻をよくした。『小州集』。
紇石烈執中(?~1213)
胡沙虎。またの名を九斤。東平府の人。はじめ金の太子護衛をつとめ、右副点検・防御使・節度使などを歴任した。泰和六年(1206)、僕散揆に従って南宋を攻めた。大安元年(1209)、知大興府事となった。翌年、蒲鮮万奴・完顔承裕らとともに野狐嶺でモンゴル軍を迎撃したが、大敗した。崇慶二年(1213)、軍事を議論するために召されて、中都の北に駐屯した。八月、完顔醜奴らとともに乱を起こして衛紹王(完顔永済)を廃し、宦官に衛紹王を殺させて、宣宗(完顔吾睹補)を立てた。宣宗が即位すると、太師・尚書令・都元帥となり、沢王に封ぜられた。部将の朮虎高琪に殺された。
抹然尽忠(?~1215)
本名は彖多。上京路猛安の人。金の大定年間、進士に及第した。中都西京按察使に累進した。大安年間、西京留守となり、尚書右丞・行省西京に任ぜられた。貞祐初年、尚書左丞に進んだ。宣宗(完顔吾睹補)が汴梁(開封)に遷都すると、右丞相完顔承暉とともに中都の留守をつとめ、左副元帥となった。中都が陥落しそうになると、南京に逃れ、平章政事となった。尚書省により謀反の誣告を受け、殺された。
完顔達吉不(?~1217)
漢名は弼。金の章宗(完顔麻達葛)のとき、護衛として丞相完顔襄に従い、辺境防衛にあたった。宿直将軍・深州刺史となった。泰和六年(1206)、完顔匡に従って襄陽を攻めた。八年(1208)、南京副留守・寿州防御使に任ぜられた。大安二年(1210)、中央に入って武衛軍副都指揮使となった。翌年、兵を率いて宣徳に駐屯した。会河堡で蒙古軍を破り、右副都点検となった。至寧元年(1213)、遼東に出向した。罪をえて雲内州防御使に左遷された。宣宗(完顔吾睹補)が即位すると、元帥左都監となり、真定に駐屯した。貞祐二年(1214)、陝西路統軍使となった。三年(1215)、知東平府事・山東路宣撫副使となり、劉二祖の残党の孫邦佐・張汝楫らを招撫した。四年(1216)、東平を堅く守り、蒙古のムカリをはばんだ。翌年、蒙古軍が退くと、まもなく病没した。
完顔阿里不孫(?~1217)
字は彦成。歇懶路泰申必剌猛安の人。金の明昌年間、進士に及第した。貞祐初年、国子祭酒に累進した。興定元年(1217)、参知政事・権右副元帥となり、婆速路の行政と軍事を管轄した。知広寧府事の温迪罕青狗と不和で、後難をおそれた蒲察移剌都が青狗を別任にあてるよう奏上した。宣宗は青狗を召したが、青狗が聞き入れなかったので、阿里不孫が命をうけて青狗を殺した。まもなく青狗の義兄弟の伯徳胡土によって殺された。
耶律留哥(1165~1220)
契丹族の出身。金の北辺千戸となった。崇慶元年(1212)、隆安・韓州で起兵して金にそむき、蒙古に帰順した。蒙古軍の援助により金兵を破り、遼東の地に拠った。元太祖八年(1213)、王を称し、国号を遼として、都を咸平府に置き、金の東京を攻め破った。十年(1215)、部下の耶厮不らが帝を称するよう勧めたが従わず、子の薛闍に金帛をもたせてチンギス・ハーンのもとに送った。耶厮不らが蒙古に叛いて自立すると、留哥は蒙古兵を率いてこれを討ち、遼東を恢復した。臨潢府にうつり、まもなく死んだ。妻の姚里氏が衆を引き継ぎ、のちに子の薛闍が跡を継いだ。
徒単公弼(?~1221)
本名は習烈。河北東路算主海猛安の人。徒単府君奴の子。金の熙宗(完顔合剌)の外孫にあたる。はじめ奉御に任ぜられた。大定二十七年(1187)、世宗の娘の息国公主をめとり、駙馬都尉を加えられた。泰和二年(1202)、武安軍節度使に任ぜられ、宋に使いして元旦を祝った。大安初年、知大興府事をつとめた。参知政事となり、尚書右丞・左丞を歴任した。至寧元年(1213)、平章政事となり、定国公に封ぜられた。宣宗(完顔吾睹補)が即位すると、右丞相に上った。貞祐二年(1214)、知河中府として出た。定国軍節度使事・太子太師・同判大睦親府事を歴任した。
邱処機(1148~1227)
字は通密、号は長春真人。棲霞の人。十九歳のとき道士となり、王嘉(重陽)に師事した。全真教の七真人のひとり。1219年、チンギス・ハーンの西征のとき、かれの幕下で不殺の道を説いた。1223年、西域より帰還し、このときの経緯は弟子の李志常によって『長春真人西遊記』に記された。のち燕京(北京)の長春宮に住んだ。『摂生消息論』、『磻渓集』
完顔合達(?~1232)
漢名は瞻。字は景山。金の貞祐初年、護衛となり、岐国公主をモンゴルに送った。興定年間以降、河西・陜西の重鎮守令を歴任し、対南宋や対西夏との戦いに参加した。前後して京兆・平涼・閺郷に駐屯し、行尚書省事をつとめた。平章政事に上り、芮国公に封ぜられた。正大八年(1231)冬、モンゴル右翼の軍が漢水を渡って北上し、開封を突こうとした。完顔合達は金の主力軍を率いて鄧州に入り、南面の敵に備えた。翌年正月、モンゴルのトゥルイの軍と鈞州三峯山で会戦し、敗れて殺された。
完顔陳和尚(1192~1232)
字は良佐。豊州の人。貞祐年間にモンゴル軍に身柄を掠奪された。のち逃亡して、金の宣宗(完顔吾睹補)に投じた。一時、獄に落とされたが、哀宗によって許された。ウイグル・ナイマン・羌族・漢人などの降兵を再編して忠孝軍を組織した。正大五年(1228)、忠孝軍四百騎を率いて、大昌原でモンゴル軍八千を破った。この功により、定遠大将軍・平涼府判官に上った。七年(1230)には蒙古軍による衛州の包囲を救い、翌年には陝西で蒙古軍を破り、倒回谷に追撃して大勝をおさめた。このため禦侮中郎将に上った。九年(1232)、三峯山の戦いに敗れて鈞州に走り、さらに敗れて殺された。
完顔慶山奴(?~1232)
字は献甫。金の宣宗(完顔吾睹補)擁立の功により、西京副留守に任ぜられた。貞祐三年(1215)、宣差便宜都提控となり、兵を募って中都への援軍におもむいた。興定元年(1217)、モンゴルと西夏の軍を寧州で討ち、元帥左都監・保大軍節度使に上った。正大八年(1231)、京兆(西安)の留守をつとめたが、まもなく京兆を捨てて帰朝した。徐州で行省事をつかさどった。翌年、兵を率いて汴京(開封)に入り、揚駅店で肖乃台の軍に敗れて捕らえられ、殺された。
徒単益都(?~1232)
金に仕えて延安総管に累進した。開興元年(1232)正月、完顔慶山奴に代わって徐州で行省事をつとめた。六月、掃兵総領王祐らが乱を起こすと、宿州に逃れた。宿州鎮防千戸の高臘哥が節度使紇石烈阿虎を殺して楊妙真に降り、徒単益都に軍府をおさめさせようとした。かれは従わず、官民を率いて帰徳に向かい、モンゴル軍に捕らえられて殺された。
趙秉文(1159~1232)
字は周臣、号は閑閑老人。磁州滏陽の人。金の大定二十五年(1185)、進士に及第した。興定初年には礼部尚書に上った。哀宗(完顔寧甲速)が即位すると、翰林学士となった。『易叢説』、『中庸説』。
完顔奴申(?~1233)
完顔訥申ともいう。字は正甫。女真策論進士に及第した。正大五年(1228)、翰林侍講学士に任ぜられ、御史大夫としてモンゴルに使いし、竜駒河でオゴタイに面会した。七年(1230)、吏部尚書となり、再びモンゴルに使いした。天興元年(1232)、命を受けて鄭州海灘寺のモンゴル駐屯地におもむき、和議を求めた。参知政事に上り、枢密副使を兼任し、完顔習捏阿不とともに汴京に留守した。翌年正月、荊王守純を監国に推してモンゴルに降ろうとした。翌日、崔立の乱が起こって殺された。
完顔守純(?~1233)
本名は盤都。金の宣宗(完顔吾睹補)の次男。貞祐元年(1213)、濮王に封ぜられた。翌年、殿前都点検・侍衛親軍都指揮使に任ぜられ、権都元帥となった。三年(1215)、枢密使に任ぜられた。翌年、平章政事に上った。興定三年(1219)、英王に改封された。正大元年(1224)、荊王に改封され、平章政事を辞め、判睦親府となった。天興元年(1232)冬、蒲察官奴らによって帝に擁立されそうになったが、事成らなかった。翌年、梁王従恪らとともに崔立に京城南の青城に送られ、モンゴル軍に殺された。
完顔従恪(?~1233)
金の衛紹王(完顔永済)の子。大安元年(1209)、胙王に封ぜられ、左丞相に任ぜられた。翌年、皇太子に立てられた。衛紹王が殺害されたのち、二十年にわたって禁錮を受けた。天興二年(1233)、崔立が乱を起こすと、太后の命により梁王に封ぜられ、監国に上った。四月、崔立によって荊王守純らとともに蒙古軍の前に送られ、殺された。
粘葛奴申(?~1233)
金の天興元年(1232)、同知開封府事から陳州防御使にうつった。ときに蒙古軍は河南に侵入していたので、間道を抜けて任地におもむき、流亡した数十万人の人々を収容した。翌年、陳州を金興軍と改め、節度使に任ぜられた。また参知政事・行尚書省事に任ぜられた。たびたび軍糧の支給を減らしたため、麾下の部将に殺された。
完顔合周(?~?)
またの名を永錫。金の宗室。貞祐三年(1215)、元帥左監軍・知真定府事となり、兵を率いて中都救援におもむいたが、敗れて逃げ帰った。翌年、御史大夫・権尚書右丞となり、モンゴル軍を阻むため、兵を率いて陜西におもむいたが、京兆(西安)にいたって恐れて戦わなかった。のちにモンゴル軍に潼関を破られ、汴京(開封)郊外まで迫られた。興定元年(1217)、免職された。三年(1219)、復帰した。正大四年(1227)、モンゴルとの講和を図った。天興元年(1232)、汴京がモンゴル軍に囲まれると、まだ京城には百余万石の穀物が隠されていると上奏し、李蹊とともに大商店を捜索した。哀宗(完顔寧甲速)が蔡州に逃れると、同判大睦親府事に任ぜられ、都点検を兼ね、宮廷を管轄した。
崔立(?~1234)
将陵の人。はじめ遊民であった。金の都統・提控を歴任し、遙領太原府事となった。天興元年(1232)、モンゴル軍が汴京(開封)を囲むと、平安都尉として出向した。哀宗が汴京を捨てて帰徳に逃れると、参知政事完顔奴申や枢密副使完顔斜捻阿卜らとともに汴京の留守をつとめ、西面元帥となった。翌年正月、完顔奴申・完顔斜捻阿卜を殺し、梁王完顔従恪を立てて監国とし、自分は太師・兵馬都元帥・尚書令・鄭王を称した。モンゴルのスブタイに降伏を請い、宣宗皇后李氏・哀宗皇后徒単氏・梁王完顔従恪・荊王完顔守純らをモンゴルの軍営に送った。翌年、部将の李伯淵らに殺された。
石抹世勣(?~1234)
字は景略。咸平路酌赤烈猛安の人。契丹の出身。石抹元毅の子。金の承安二年(1197)、父が戦死すると、召されて侍儀司擎執となった。貞祐三年(1215)、太常丞に累進した。正大年間、礼部尚書・翰林侍講学士に任ぜられた。天興二年、哀宗(完顔寧甲速)に従って蔡州に逃れた。蔡州が陥落すると、子の石抹嵩とともに殺された。
王若虚(1174~1243)
字は従之、号は慵夫。藁城の人。金の承安二年(1197)、進士に及第した。はじめ県令を歴任し、善政をもって賞された。のち国史院編修官・著作佐郎をつとめ、章宗(完顔麻達葛)・宣宗(完顔吾睹補)の実録の編纂に加わった。平涼府判官に遷った。『五経辨惑』、『史記辨惑』、『慵夫集』。
元好問(1190~1257)
字は裕之、号は遺山。太原秀容の人。元徳明の子。幼少のころ、父に従って各地を転々とした。興定五年(1224)、進士に及第した。金に仕えて、内郷・南陽などの県令を歴任し、左司員外郎に上った。金朝滅亡後は仕官しなかった。詩を自作し、詩の評論を行った。また野史編纂を志して、金代の史料を収集し、のちの『金史』編纂の基礎を固めた。『中州集』、『杜詩学』。
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金(読み)きん(英語表記)Jin; Chin
goldかなかねこん漢字項目金 Jīn金 gold
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
女真が満州,内モンゴル,華北に建てた王朝(1115~1234)。生女真のワンヤンアクダ(完顔阿骨打)が女真を統一,収奪の激しい遼と戦い,収国1(1115)年独立して帝位につき,太祖と名のって,金と号した。猛安・謀克制による軍事的・行政的制度を華北に移入し,遼に続く征服王朝としての体制を整えた。初め金は,女真文字を作成し,出身地上京会寧府を都として国粋主義に努めたが,第4代海陵王は,中国的専制国家建設を企て,行政改革や燕京遷都を断行。しかし第6代章宗以降,漢化と貧窮化が進行し,漢人による反乱が続くなかで天興3(1234)年,新興モンゴル帝国の侵入により滅亡。
元素記号 Au ,原子番号 79,原子量 196.96655。周期表 11族,銅族元素の1つ。天然には自然金として産出する。地殻の平均含有量 0.004ppm,海水中の存在量 0.01 μg/l 。資源は主として石英脈中に産する自然金で,母岩の風化沈積により砂金として採取される。単体は美しい黄金色の軟らかい金属で,融点 1063℃,比重 19.3。金属のなかで最も展延性に富み,厚さ 0.1μmの箔を作ることができ,1gを約 3000mの線に伸ばすことができる。化学的には安定であるが,王水に溶け,塩化金酸となる。古くから貨幣,工芸,装飾品の材料として珍重されているほか,陶器類の着色,メッキ,金箔,歯科材料などに用途がある。
金は財 (貨) であるとともに貨幣であり,貨幣は,交換手段,計算単位あるいはニューメレール,価値保蔵手段としての機能をもつ。計算単位あるいはニューメレールの機能を果すためには,貨幣は一方で価値尺度ないし価値標準,他方では繰延べ払いの標準でなければならない。これら諸機能は各種金属,金属以外の財によって果されたが,最終的には金がになうことになった。金が前記のような諸機能を果す理由は,貨幣用財として他の金属には求められない均質性,耐久性,不変質性,鋳造・融解の容易さ,産出量の安定性,運搬の容易さなどの特質をもつためである。
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デジタル大辞泉の解説
1 金属の総称。特に、金・銀・鉄・銅など。
2 貨幣。金銭。おかね。「金に困る」「金がかかる」「裏で金が動く」「金がたまる」
[下接語]唐金・切り金・銭金(がね)遊び金・粗金・有り金・生き金・板金・打ち金・腕金・裏金・大金・帯金・下ろし金・隠し金・掛け金・烏(からす)金・切り金(がね)・腐れ金・口金・小金・黄(こ)金・座金・差し金・地金・下金・死に金・締め金・筋金・捨て金・包み金・壺(つぼ)金・胴金・綴(と)じ金・留め金・偽(にせ)金・延べ金・端(はし)金・端(はした)金・針金・火打ち金・日金・引き金・肘(ひじ)金・日済(ひな)し金・臍繰(へそく)り金・真金・見せ金・耳金・無駄金・目腐れ金・持ち金・焼き金・渡し金
[名]
1 銅族元素の一。単体は黄金色で光沢がある。金属中最も展延性に富み、厚さ0.1マイクロメートルの箔(はく)にすることが可能。化学的に安定で、酸化されにくく錆(さ)びず、また、王水には溶けるが、普通の酸やアルカリにはおかされない。自然金の形で主に石英鉱脈中から産出し、母岩が風化したあと川に沈積した砂金としても得られる。貴金属として貨幣・装飾品や歯科医療材料などに使用。比重19.3。記号Au 原子番号79。原子量197.0。こがね。黄金(おうごん)。
2 値打ちのあるもののたとえ。「金の卵」「沈黙は金」
3
㋐金貨。また、金銭。「金一封」「手切れ金」
㋑金額を記すときに、上に付けて用いる語。「金五万円」
4 きんいろ。こがねいろ。「金ラメのスカーフ」
5 将棋の駒で、金将。
6 金メダル。「日本選手が金・銀・銅を独占する」
7 睾丸(こうがん)のこと。きんたま。
8 金曜日。
9 五行の第四位。方位では西、季節では秋、五星では金星、十干では庚(かのえ)・辛(かのと)に配する。
[接尾]数を示す語に付いて、金の純度を表すのに用いる。24金が純金。カラット。「18金のペン先」
女真(じょしん)族完顔部の首長阿骨打(アクダ)が1115年に建てた国。遼(りょう)を滅ぼし、宋を南方に追って、中国東北地区・蒙古(もうこ)・華北を征服。都は会寧、後に燕京、汴京(べんけい)。1234年、モンゴルに滅ぼされた。
[音]キン(漢) コン(呉) [訓]かね かな こがね
[学習漢字]1年
〈キン〉
1 金属の総称。「金石・金文/合金・鋳金・彫金・板金・冶金(やきん)」
2 金属元素の一。きん。こがね。「金貨・金塊・金銀・金鉱・金箔(きんぱく)・金粉/砂金・純金・鍍金(ときん)・白金」
3 お金。貨幣。「金員・金額・金子(きんす)・金銭・金融・金利・金満家/換金・給金・献金・現金・残金・資金・借金・賞金・税金・千金・送金・大金・代金・貯金・罰金・募金・料金・義捐金(ぎえんきん)」
4 こがね色。「金波・金髪」
5 美しい、りっぱな、かたいものなどを形容する語。「金言・金科玉条・金枝玉葉・金城鉄壁」
〈コン〉の1・2および4・5に同じ。「金剛・金色(こんじき)・金泥・金銅・金堂/黄金(おうごん)」
〈かね(がね)〉「金目/板金・裏金・帯金・小金・地金・筋金・針金」
〈かな〉「金網・金具・金棒・金輪」
[名のり]か
[難読]金雀児(エニシダ)・金糸雀(カナリア)・金海鼠(きんこ)・金団(きんとん)・鍍金(めっき)・滅金(めっき)
⇒きん(金)9
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百科事典マイペディアの解説
満州(中国東北)〜華北に女真族が建てた王朝。1115年―1234年存続。始祖は阿骨打(アクダ)。遼を滅ぼし,宋を南方に追い,1127年以後の中国は金・宋の対立となる。のち都を燕京(北京)に移し,征服王朝として中国人の上に君臨した。国粋化を図って独特の文字なども制定したが,次第に中国化が進み,固有の風俗を失って衰退に向かう。9代120年にしてモンゴル帝国に滅ぼされた。
→関連項目愛新覚羅|オゴタイ・ハーン|関漢卿|契丹|後金|高麗|女真語|辛棄疾|靖康の変|チャガタイ・ハーン|中華人民共和国|チンギス・ハーン|ツングース語系諸族|刀伊の入寇|トゥルイ|満州|耶律楚材
元素記号はAu。原子番号79,原子量196.966569。融点1064.18℃,沸点2857℃。貴金属元素の一つ。金の使用はきわめて古く,古代エジプトでは前3000年ころすでに水簸(すいひ)法で採取。日本では《続日本紀》に749年陸奥国より初めて貢金の記事があるが,古墳時代の出土品に金象嵌細工がみられることから,より古く原始時代から利用されていたと考えられている。色は,塊状で黄金色,コロイドまたは粉末で紫,融解すると緑。金属中最も展延性が大きく厚さ0.1μmの箔(はく)にできる。化学的に安定だが,シアン化カリウム水溶液,王水,水銀には可溶。貨幣,装飾用,歯科用,電子部品などに使用。合金の純度は18金といった言い方をするが,これは純金を24金とした割合を表示したもので,正式の単位名はカラット。大部分自然金(山金(やまきん))の状態で産出,砂金としても産する。砂金では簡単な比重選鉱,山金ではアマルガム法,シアン化法などにより,その他銀,銅製錬の際の電解槽沈殿物より採取。世界の年生産量は約1901t(1992)。→金鉱
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占い用語集の解説
五行の一つ。金を象徴とし、陽の金「庚金」と陰の金「辛金」がある。金だけではなく、鉱物や金属、石など生の状態のものや、生成された加工品なども指す。季節では秋、方角では西をあらわす。
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世界大百科事典 第2版の解説
女真(じよしん)Jürchin(女直(じよちよく)Jürchi)族の完顔(かんがん)部長の阿骨打(アクダ)が中国東北地方に建てた王朝。1115‐1234年。いわゆる征服王朝の一つ。遼(契丹(きつたん)Kitai)を滅ぼし,宋を圧迫して中国北半を領有,西夏,宋,高麗を臣事させたが,のち急速に強力となったモンゴルのために滅ぼされた。国を保つこと120年。
ll>[女真族の発展とその末路]
女真族は,中国東北地方に住むツングースTungus族の一派である。
周期表元素記号=Au 原子番号=79原子量=196.9665地殻中の存在度=0.004ppm安定核種存在比 197Au=100%融点=1064℃ 沸点=2966℃固体の比重=19.3(20℃)液体の比重=17(1063℃)電子配置=[Xe]4f145d106s1 おもな酸化数=I,III周期表第IB族に属する金属元素。純粋な金属として人類が最初に知った金属の一つであると考えられている。 金の原子記号Auはラテン語のaurumによるものであり,これはヘブライ語の〈光〉を意味するorまたは〈赤色〉を意味するausからきたものとされ,フランス語でもorである。
(1)中国の楽器分類法八音(はちおん)の一つ。金属を材料として作られた楽器をさす。唐代の楽器のうち鐘,桟鐘(さんしよう),鎛(はく),錞于(じゆんう),鐃(によう),鐲(たく),鐸(たく),方響,銅鈸(どうばつ),銅鼓がこれに属する。(2)朝鮮の雅楽器。銅鑼の一種。中国の鑼(ら)の伝来したもの。大金と小金とがあり,ひもでつり下げて槌(つち)で打ち鳴らす。大金は直径約46cm,厚さ約6cm。小金はかつて軍楽にも用いられたが,現在は農楽で重要なリズム楽器として用いられる。
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大辞林 第三版の解説
①金属。金・銀・銅・鉄など。 「 -の箸」
②金銭。おかね。 「 -をためる」 「 -を貸す」 〔近世、上方では主に銀貨が用いられたことから「銀」の字も用いられた〕
[句項目] 金が唸る ・ 金が敵 ・ 金が金を溜める ・ 金がものを言う ・ 金で面を張る ・ 金と塵は積もるほどきたない ・ 金に飽かす ・ 金に糸目をつけぬ ・ 金になる ・ 金に目がくらむ ・ 金の切れ目が縁の切れ目 ・ 金の轡を食ます ・ 金の生る木 ・ 金の番人 ・ 金の世の中 ・ 金の草鞋で尋ねる ・ 金は天下の回りもの ・ 金は湧き物 ・ 金を落とす ・ 金を食う ・ 金を包む ・ 金を寝かす
①〔gold; ラテン Aurum〕 11 族(銅族)に属する遷移元素の一。元素記号 Au 原子番号79。原子量197.0。比重19.3。自然金(単体の金)として主に石英鉱脈中に産する。光沢ある黄色の金属。金属中最も延性・展性が大きく、厚さ0.1マイクロメートル の箔はくとすることができる。化学的にきわめて安定で、空気中で酸化せず、酸におかされないが、王水には溶ける。古来、随一の貴金属とされ、貨幣・装飾品として用いられる。こがね。
②
㋐金銭。貨幣。「 -一封」
㋑江戸時代に用いられた大判・小判など金貨の総称。普通一両をさす。
③金額を書くときに上に冠する語。 「 -一万円也」
④金の純度を示す単位。二四金を純金とする。
⑤金の色。金色きんいろ。こがね色。 「 -ボタン」
⑥将棋の駒の一。「金将」の略。
⑦五行ごぎようの第四。季節では秋、方位では西、色では白、十干では庚かのえ・辛かのと、五星では金星に当てる。
⑧七曜の一。「金曜」の略。
⑨睾丸こうがん。きんたま。
中国、女真族完顔ワンヤン部の酋長阿骨打アクダが建てた国(1115~1234)。遼りよう・北宋を滅ぼし中国東北部・内モンゴル・華北を領有した。都は初め会寧府、のち燕京、汴京べんけい。モンゴルと南宋の攻撃により滅亡。
五行ごぎようの第四。
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精選版 日本国語大辞典の解説
〘語素〙 (「かね(金)」の変化したもの)
① 金属、鉄の意味を示す。「かなあみ」「かなづち」「かなぼう」など。〔色葉字類抄(1177‐81)〕
② 金銭の意味を示す。「かなぐら」「かなぐり」など。
③ 金属、鉄などのように堅固なさまの意味を示す。「かなこぶし」「かなずね」など。
④ 全くの、の意味を示す。「かなげこ」「かなつんぼ」など。
[1] 〘名〙
① 古来、五金(金・銀・銅・鉄・錫)の長として尊重されてきた、美しい黄色の光沢がある金属元素の一つ。文武天皇大宝元年(七〇一)に対馬国から朝貢されたのが歴史に見える古例である。塊状では美しい黄色の金属光沢、粉末状では紫、コロイド状では赤、溶融状態では緑、箔状では緑から青に見える。主として、石英鉱脈中の自然金、または川の砂中の砂金など単体として産出する。工業的には、比重選鉱法、青化法などで精錬して得られる。化学的にきわめて安定で、王水にとけて塩化金酸に、また水銀と化合してアマルガムとなるが空気、水、酸素、硫黄などとは反応せず、普通の酸やアルカリにおかされないうえ、重く軟かで延性、展性に富むので種々の細工に適し、貴金属の中でも特に珍重され、貨幣、装飾品として用いられている。化学記号 Au 原子番号七九。原子量一九六・九六七。比重一九・三。おうごん。こがね。きがね。くがね。〔十巻本和名抄(934頃)〕〔書経‐舜典〕
② 石に対して、金、銀、銅、鉄、錫などの鉱物の総称。金属。かね。〔易経‐繋辞上〕
③ (金を貨幣の材料として用いたところから) 金貨、また貨幣。
(イ) 大判、小判、一歩金(いちぶきん)などの金貨の総称。
※多聞院日記‐永祿一〇年(1567)五月六日「脇指買レ之。代二貫三百卅文、金二両〈一朱たらす〉、十一貫つつ通也」
(ロ) 貨幣。金銭。かね。現在は、「金━(円)」などの形で、金額の上につけて用いることが多い。
※浮世草子・鬼一法眼虎の巻(1733)二「其の金(キン)を以て娘を連れて帰りたく候へば、金子(きんす)を我に渡され候へと」
※酒中日記(1902)〈国木田独歩〉五月六日「金(キン)五円至急に調達せよ」 〔戦国策‐秦策・恵文君〕
④ 「きんしょう(金将)」の略。〔日葡辞書(1603‐04)〕
⑤ 「きんし(金糸)①」の略。
※浮世草子・好色五人女(1686)三「三つ重ねたる小袖、皆くろはぶたへに裙取の紅うら、金のかくし紋」
⑥ 「きんぱく(金箔)①」の略。
※松屋会記‐久政茶会記・天正一四年(1586)九月二八日「袋はかうしの金らん、金はげて難レ見、古き也」
⑦ 「きんいろ(金色)」の略。
※歌舞伎・名歌徳三舛玉垣(1801)三立「上下衣装にて高股立、大きなる金の幣束(へいそく)をかつぎ出て来り」 〔詩経‐小雅・車攻〕
⑧ 睾丸(こうがん)。きんたま。〔日葡辞書(1603‐04)〕
※雑俳・柳多留‐一三(1778)「馬鹿な事娘にきんをけられ損」
⑨ 五行の第四。時節では秋、方位では西、五音(ごいん)では商、十干では庚辛、天体の五星では金星にあたる。
※菅家文草(900頃)一・重陽侍宴、賦景美秋稼「吹レ金風冷簸、滴レ玉露清瑩」 〔漢書‐五行志上〕
⑩ 「きんよう(金曜)①」の略。
⑪ 「きんよう(金曜)②」の略。
[2]
[一] 女真族が満洲、華北に建てた王朝。完顔部の阿骨打が女真族を統一し、一一一五年遼から独立して建国。のち、遼を滅ぼし、宋を南に追って華北に中国的な中央集権の専制政治を行なった。首都は初め会寧府、のち燕京、汴京。一〇代一二〇年でモンゴル帝国に滅ぼされる。
[二] ⇒こうきん(後金)
[3] 〘接尾〙 金の純度を示す単位。二十四金が純金。「十八金の時計」
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
化学辞典 第2版の解説
Au.原子番号79の元素.周期表11族遷移元素.原子量196.96655(2).質量数197(100%)の安定同位体と,169~205に及ぶ放射性同位体が知られている.元素記号はラテン名aurum(黄色を意味する)の最初の二文字.宇田川榕菴は天保8年(1837年)に出版した「舎密開宗」で,これを音訳して浩律母(アウリュム)としている.
金は人類にもっとも古くから利用された金属で,B.C.5000年のエジプトの遺跡からも金の器具が発見されている.世界最大の塊金の発見は,1869年にオーストラリアのビクトリアのもので2520オンス(約71 kg)で,これにより2280オンスの純金が得られた.わが国においては,続日本紀に,聖武天皇の天平21年(749年)に陸奥の国より産出したことが記されている.歴史的には,佐渡,鴻之舞,串木野金山などがよく知られているが,2007年現在,日本で稼働中の金鉱山は1981年に金脈が見つかった菱刈鉱山(鹿児島県)のみ.同鉱山の鉱石の金含有率は非常に高く1 t 中に平均40 g(40 ppm)もあり,世界の平均値の約10倍で年間7~8 t の金を産出している.2005年には,加えて銅,亜鉛,鉛鉱石精錬の副産物として得られる新産金が約150 t,廃パソコン,携帯電話,めっき廃液などのリサイクルによる再生金が30 t あった.金は大部分自然金として存在し,母岩の石英の風化とともに砂金として産出する.自然金は不純物として銀を含んでいる.また,銅鉱,鉛鉱,黄鉄鉱のなかにも含まれている.地殻中の存在度0.003 ppm.世界の推定全埋蔵量90000 t の40% が南アフリカ,ついでオーストラリア7%,中国,ペルーが各5% 弱.鉱石を水銀でアマルガム化して抽出する混コウ(汞)法,シアン化ナトリウムで処理してシアノ錯イオンとして抽出し(青化法),亜鉛粉末を加えて金を析出させる方法(Merrill Crowe法)に加えて,1970年代から青化法のシアノ錯イオンを活性炭に吸着・分離する方法(carbon-in-pulp法)や,さらに溶媒抽出法が有力となっている.精製は電解法による.黄金色の美しい光沢をもつ金属.結晶は面心立方格子.密度19.32 g cm-3(20 ℃).融点1064.43 ℃,沸点2810 ℃.定圧モル熱容量25.38 J K-1 mol-1(25 ℃).線膨張率0.1424×10-4 K-1(0~100 ℃).熱伝導率315 W m-1 K-1(27 ℃).融解熱12.7 kJ mol-1(1063 ℃).蒸発熱310.5 kJ mol-1(2660 ℃).電気抵抗率2.35×10-6 Ω cm(20 ℃).標準電極電位(Au3+/Au)1.52 V.第一イオン化エネルギー889.9 kJ mol-1(9.225 eV).熱の良導体で銀の73%,また電気の良導体でもあり,銀,銅に次ぎ,電気抵抗率は銀の1.48倍である.金属中でもっとも展延性に富む.硬さ2.5~3.化学的には非常に安定である.単独の酸には不溶.王水に溶けてHAuCl4をつくる.高温では酸素,硫黄とは反応しないが,臭素,塩素とは直接化合する.通常の酸化数1~3.純金を24カラットとして50% の金を含む場合は12カラットと表す.国内では,2005年度の最大用途は,電子部品材料で50% 弱,パソコン,携帯電話用ICパッケージ,プリント基板,リードフレーム,ボンディングワイヤ,コネクター,自動車用電装品など.ついで25% 弱が資産用金地金,宝飾品用10%,歯科・医療用の合金5% などであった.[CAS 7440-57-5][別用語参照]金化合物
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旺文社世界史事典 三訂版の解説
1115〜1234
中国を支配した北方民族の王朝
女真族の完顔阿骨打 (ワンヤンアグダ) (太祖)が会寧を都に建国,2代太宗は1125年遼 (りよう) を,27年北宋を滅ぼした。3代熙宗 (きそう) は南宋に臣礼をとらせ,4代海陵王は燕京(現在の北京)に都した。6代世宗は国制を整え,全盛期を迎えた。8代宣宗のとき,開封に遷都しやがて滅亡。金は猛安 (もうあん) ・謀克 (ぼうこく) 制や女真文字の創始など,民族の独自性を固守しようとしたが,中国文化に同化され,13世紀モンゴルによって滅ぼされた。
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旺文社日本史事典 三訂版の解説
第Ⅰ族(銅族)に属する黄金色の金属
砂金洗取による採金は原始的な技術で,日本では原始時代から室町時代まで続いた。記録の上では,701年陸奥国での冶金,749年同国からの黄金貢納が『続日本紀』にみえる。産地は陸前・陸中の本吉・気仙・磐井などの諸郡が中心で,10世紀奥州藤原氏が平泉で強勢をふるった時代には産金額も著しく増加した。16世紀になると戦国大名の金銀山開発によって,金の採掘が激増した。金銀は銅銭に比べて高い価値をもつ流通貨幣として通用し,戦国大名は軍用金・恩賞として用いたが,江戸幕府は金山を直轄とし,金座をおいて,大判・小判・一分金などを鋳造・発行した。日宋貿易の発展以来,中世,日本の中国への重要な輸出品となり,幕末の通商条約締結後の金の流出は著名である。日本では1897(明治30)年金本位制が確立した。1931年の金輸出再禁止以来,金本位制は復活していない。しかし,国際通貨としての重要性は変わらない。
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世界大百科事典内の金の言及
【阿骨打】より
…中国,金朝の初代皇帝,太祖。在位1115‐23年。…
【女真文字】より
…女真語はツングース・満州諸言語(ツングース諸語)の一つで,これらの言語のうちでも系統的に満州語に最も近い。女真語を使った女真族は,中国の東北地域に1115年から1234年まで存続した金を建国した民族である。女真は古く〈女(じよちよく)〉(以下,便宜上〈直〉とする)とも書かれた。…
【大金国志】より
…中国,金朝の歴史を記述した書。全40巻。…
【外貨準備】より
…一国の通貨当局が国際収支の赤字を決済し,または外国為替市場へ介入するために容易に利用できる流動的な資産をいう。IMF(国際通貨基金)の統計では国際流動性international liquidity,また日本の統計では外貨準備高と呼ばれ,概念的には同じものであるが,通貨当局の金保有分の評価のしかたにより計数が異なることがある。外貨準備に含められる金融手段は,通貨当局が使用の必要を感じた際に直接的かつ効果的に管理できる現存の資産に限られ,通貨当局の保有する金および外国為替と,SDR(IMFの特別引出権)保有額ならびにIMFにおける準備ポジションを計上するのが普通である。…
【カラット】より
…語源のうえでは,マメ科の植物デイコの種子のアラビア名quirrat,またはイナゴマメの実のギリシア名kerationに由来するといわれる。 カラットは,金の純度(金相ともいう)の表現にも用いられ,純金を24として表した純度の値に記号Kを添えて示す。したがって純金は24Kであり,純度が750/1000,すなわち18/24の金は18Kであって,これを18金と呼ぶこともある。…
【黄】より
…身色がどのようにして決定されるかは必ずしも明瞭でないが,太陽との関係がとくに重要な意味をもっている。 一般に太陽は金色の輝きをもつものとされ太陽に関係のある神々(エジプトのホルス,インドのビシュヌ,ギリシアのアポロン,ペルシアのミトラ,さらにキリスト)の像は多くは金色の身色をもち,金色の衣をまとい,光輪をつけ光を放つ。この金色は神的なものの栄光ないしその力を象徴するが,金色は場合によっては黄色がこれに代わる。…
【貴金属】より
…金属を分類するときの用語の一つで,卑金属に対する語。通常は,金Au,銀Ag,および白金族元素のルテニウムRu,ロジウムRh,パラジウムPd,オスミウムOs,イリジウムIr,白金Ptをいう。…
【銀】より
…周期表元素記号=Ag 原子番号=47原子量=107.8682±3地殻中の存在度=0.07ppm(67位)安定核種存在比 107Ag=51.35%,109Ag=48.65%融点=961.9℃ 沸点=2212℃固体の比重=10.49(20℃)液体の比重=9.4(961℃)水に対する溶解度=2.8×10-5g/l(25℃)電子配置=[Kr]4d105s1 おもな酸化数=I,II周期表第IB族に属する金属元素。金,銅に次いで発見されたとされている。…
【大仏開眼】より
…山間僻地の紫香楽での造像工事は,すでに翌年から火災が頻発し,地震が続発するなど不祥事件が起こり,ついに平城還都が断行された。そして大仏造立の事業は,平城京東郊の金鐘寺の寺地で再開されることになった。当寺はすでに大和国金光明寺に認定されていたが,《華厳経》の研究を行っていた寺であり,また寺地に巨像の鋳造に適した山がもとめられたからである。…
【太陽】より
…そこで太陽に比べてもっと近い惑星や小惑星までの距離を測ったり,その他いろいろなことが試みられてきた。しかし最近のレーダー測距の進歩によって,金星までの距離が,三角測量ではとうてい得られなかった高い精度で測定できるようになり,1天文単位=1億4959万7870kmと国際的に取り決められた。 地球は太陽のまわりを1年の周期で公転しているが,太陽からどのくらい離れたところを公転するかはほぼ太陽の質量だけで決まり,地球の質量にはほとんどよらない。…
【鉛】より
…周期表元素記号=Pb 原子番号=82原子量=207.2地殻中の存在度=12.5ppm(35位)安定核種存在比 204Pb=1.40%,206Pb=25.1%,207Pb=21.7%,208Pb=52.3%融点=327.5℃ 沸点=1744℃比重=11.3437(16℃)水に対する溶解度=3.1×10-4g/l(24℃)電子配置=[Xe]4f145d106s26p2おもな酸化数=II,IV周期表第IVA族に属する金属元素。太古から知られていた元素(古代七金属)の一つで,古代エジプトの遺跡から鉛のメダルなどが発見されており,鉛はおそらく有史以前から,金,銀とともに,金属の形で取り出されていたと思われる。…
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[金(1115~1234)]
完顔阿骨打(1068~1123)
漢名は旻。金の初代太祖。在位1115~1123。完顔劾里鉢(世祖)の次男。母は拏懶氏。生女真の按出虎水完顔部の首長の家に生まれた。父・叔父・兄に従って、完顔部の勢力拡大に尽力した。天慶三年(1113)、兄の烏雅束の跡を継いで首長となり、都勃極烈の地位についた。翌年、遼に叛旗を翻して寧江州を占領した。さらに翌年、女真人による民族国家建設を宣言して、皇帝に即位した。国号は金。収国と建元した。同年、遼の天祚帝の大軍を護歩荅岡で撃破した。宋と結んで遼を挟撃することが議され、天輔五年(1121)には遼の中京、西京を陥し、翌年には燕京を陥落させた。さらに遼の天祚帝を追討しようとしたが、発病したため会寧府に帰還する途中、部堵濼で没した。統治者としては、上には勃極烈制を設けて中央統治組織を固め、下には猛安・謀克制を布いて女真人の行政・軍事組織を整えた。
完顔呉乞買(1075~1135)
漢名は晟。金の二代太宗。在位1123~1135。完顔劾里鉢(世祖)の四男。母は拏懶氏。収国元年(1115)、太祖(完顔阿骨打)の建国を助け、諳班勃極烈となる。天輔七年(1123)八月、太祖が崩ずると、九月に即位した。天会三年(1125)、遼を滅ぼし、遼の天祚帝を捕らえた。同年十月、南下して宋を攻めた。四年(1126)、汴京に入り、北宋を滅ぼした。五年(1127)、宋の徽宗・欽宗二帝を北に連れ去った。まもなく大挙して南宋に攻め入り、連年兵を用いた。勃極烈制度を改革し、中央軍政機構とした。燕雲の漢人地域には漢官の制を採用した。汴京地域には劉予に斉を建国させて藩国とした。科挙を実施して漢人の官僚を採用したほか、軍事制度も遼や宋の旧制をまねて、元帥府を設け、諸軍に都監を置いた。女真人は漢地にうつらせ、漢人や契丹人を東北に移住させた。
完顔合剌(1119~1149)
漢名は亶。金の三代熙宗。在位1135~1149。完顔宗峻の長男。天会十年(1132)、諳班勃極烈に立てられた。十三年(1135)、太宗(完顔呉乞買)が崩ずると、帝位についた。勃極烈制を廃し、中国的官制を採用して、皇帝権を強化した。劉予の斉国を廃して、河南・陝西を直接統治下においた。会寧府を築いて、上京とした。朝中の貴族間で紛争し、完顔宗磐・完顔希尹らが相次いで害され、政権は完顔宗弼の手に落ちた。皇統二年(1142)、南宋との間に銀二十五万両・絹二十五万疋を歳貢として納めさせる講和を結んだ。宗弼の死後、完顔宗敏・完顔宗本・完顔勗・完顔亮らがまた権を争った。帝は飲酒にふけり、近臣を殺して人望を失った。九年(1149)、帝は完顔亮らに寝所で殺害された。
完顔迪古乃(1126~1161)
漢名は亮。字は元功。金の四代海陵王。廃帝亮。在位1149~1161。完顔宗幹の次男。母は大氏。熱烈な中国文化愛好者であった。熙宗(完顔合剌)のもとで平章政事に上った。熙宗が酒乱によって人望を失うと、皇統九年(1149)末に熙宗を殺害して帝位に就いた。即位後、完顔秉徳・唐括弁・宗懿および太宗の子孫七十余人を殺した。漢人・契丹人・渤海人を多く登用して、中国化政策を進めた。天徳二年(1150)、行台尚書省を廃した。貞元元年(1153)、上京会寧府から燕京に遷都し、中都と称した。五京の制を定めた。正隆元年(1156)、正隆官制を公布し、大量の交鈔を印刷し貨幣を鋳させ、女真人を南方に遷して耕作に従事させた。六年(1161)、群臣の反対を押し切って南宋討伐の軍を起こし、三十二総管の兵を率いて長江岸まで親征したが、戦果が上がらなかった。西北では契丹が叛乱を起こし、東北においては東京留守の完顔烏禄(のちの世宗)が自立した。迪古乃は、叛乱した完顔元宜のため、揚州の陣中において殺された。世宗は、迪古乃を海陵郡王に封じ、のち庶人の地位に落とした。
完顔烏禄(1123~1189)
漢名は雍。金の五代世宗。在位1161~1189。完顔宗輔の子。はじめ葛王に封ぜられ、海陵王(完顔迪古乃)のときに東京留守に任ぜられた。正隆六年(1161)十月、遼陽において帝を称した。まもなく中都を占拠してここに拠った。南征軍が海陵王を殺すと北帰させた。即位後、契丹人の叛乱を鎮めるなど、国内秩序の回復をはかった。大定五年(1165)、南宋と講和した。官費を倹約し、官員を減らし、租税を軽減して、民生をはかった。政治に精励して小堯舜と称された。
完顔麻達葛(1168~1208)
漢名は璟。金の六代章宗。在位1189~1208。金蓮川麻達葛山で生まれたため、名づけられた。完顔允恭の子。大定二十五年(1185)、父が薨ずると、原王に封ぜられた。翌年、尚書右丞相となり、皇太孫に立てられた。二十九年(1189)、世宗が崩ずると、帝位についた。礼楽を定め、官制を改め、世宗朝の各種制度を改廃した。帝は漢文化を愛好し、書籍や名人書画を蒐集した。科挙を実施し、孔子廟を建て、『遼史』を編纂させた。完顔襄らに韃靼諸部を攻めさせ、国境に濠をめぐらせた。僕散揆らが南宋を破り、金宋間の盟約を復活させた。後世に「尚志の君」と称されるが、治世は奢侈の風が強く、財政も悪化し、金朝の衰運がすでにあらわれていた。
完顔永済(?~1213)
金の七代衛紹王。在位1208~1213。世宗(完顔烏禄)の七男。世宗のとき、衛王に封ぜられた。章宗に子がなく、後嗣に立てられた。太和八年(1208)、章宗が崩ずると、帝位についた。太安三年(1211)より連年にわたって蒙古軍の侵入を受け、金軍はしばしば敗れた。至寧元年(1213)八月、胡沙虎が兵を率いて宮中に入り、帝を捕らえ、宦官の李思中に殺させた。在位五年。貞祐四年(1216)に、衛王に追復された。
完顔吾睹補(1163~1223)
漢名は珣。金の八代宣宗。在位1213~1223。完顔允恭の長男。豊・翼・邢・升王などに封ぜられ、彰徳軍を掌握した。至寧元年(1213)、胡沙虎が衛紹王を殺すと、彰徳府に迎えがよこされて帝に擁立された。即位後、蒙古に使者を送って講和を求めると、蒙古軍は北帰した。貞祐二年(1214)五月に汴に遷都すると、蒙古の怒りを買い、翌年には中都を失陥した。この後、河北・山西の重鎮は連続して蒙古に落とされ、対宋・対西夏の戦争も失敗つづきで、国勢は日々衰えた。
完顔寧甲速(1198~1234)
漢名は守緒。金の九代哀宗。在位1223~1234。宣宗(完顔吾睹補)の三男。貞祐四年(1216)、太子に立てられた。元光二年(1223)、宣宗が崩ずると、軍を率いて兄の完顔守純を捕らえ、帝位についた。武仙らの地方武装集団を招撫し、対宋戦争を停止するなどして、蒙古に対する防御に全力を傾注した。正大九年(1232)、三峰山の戦いに大敗して、汴京が囲まれた。汴京を捨てて蔡州に入ったが、蒙古と宋の両軍に囲まれた。天興三年(1234)正月戊申夜、完顔承麟に譲位した。翌日、自ら縊死した。
完顔承麟(?~1234)
金の十代末帝。在位1234。哀宗のとき、東面元帥となった。天興三年(1234)正月、哀宗から帝位を譲られた。宋軍が蔡州城に入ると、乱兵によって殺され、金は滅んだ。