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長江文明

長江文明
ちょうこうぶんめい
中国の長江 (揚子江) 流域で達したと思われる文明。 1996年,中国文明の起源は黄河文明というこれまでの定説をくつがえし,長江文明の存在を裏づける見が次いだ。上流域の四川省都を中心に 1984年から掘調査が続けられていたが,市の北方にある三星堆遺跡から青銅製の等身大人物立像をはじめ,青銅や黄製の眼球の飛出た独特の仮面,大量の玉・象牙製品が出土した。いずれも紀前 2000~前 900年頃の古代文明のものと推定される。また下流域の浙江省良渚遺跡からも大量の玉製品が見されたが,この遺跡も 4000~5000年前のものと考えられている。そして 96年 10月には都市南西の竜馬鎮から,長辺 60m,短辺 40m,3層からなるピラミッド型の祭壇と城壁をもつ都市遺跡が見され竜馬古城遺跡と命名された。 4500年前のものと推定されるが,城壁に沿って濠がめぐらされ,インディカ米とジャポニカ米の稲籾が見されていることから稲作文化があったものとみられている。こうした見により,アワ,キビ,ムギなどの栽培を基盤とする黄河文明よりさらに古くから,長江流域に稲作文明が存在していたという説を裏づけるものとなった。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
長江文明石器時代)
彭頭山文化人(前7000?~前6000?)
  1980年代に湖南省澧県彭頭山で見された。稲の散播農法に生活基盤を置いていた。
河姆渡文化人(前6000?~前5000?)
  1973年、浙江省余姚県河姆渡で見された。多量の稲籾の堆積があったことから、稲作を行っていたことで知られる。木造の高床式住居に暮らしていた。野生・家畜動物の骨や木器・骨角器が多く出土しており、半農半猟の生活をしていたとみられる。
馬家浜文化人(前5000?~前3500?)
  代表遺跡は浙江省嘉興県馬家浜。河姆渡文化を継承して展した。紅陶や玉器が多く作られた。
大渓文化人(前4400?~前3300?)
  1958年、四川省巫山県大渓で見された。彭頭山文化を継承して展した。紅陶を特色とする。稲作の灌漑農法が確立し、大規模に展開した。
良渚文化人(前3300?~前2200?)
  1936年、施昕更によって浙江省余杭市良渚鎮で見された。馬家浜文化や崧沢文化を継承して展した。高水準の玉器を特色とする。絹織や麻織、竹編物、ろくろによる黒陶・灰陶製造がおこなわれていた。このころには貧富の差が生まれ、社会の分業・階層化が進んでいたとみられる。前二十二世紀ごろ急激に衰退した。伝説蚩尤部族と擬する説もある。
屈家嶺文化人(前3000?~前2600?)
  1954年、湖北省京山県屈家嶺で見された。大渓文化を継承して展した。黒陶を特色とする。
石家河文化人(前2800?~前1500?)
  1990年、湖北省天門県石家河で見された。屈家嶺文化を継承して展した。このころ環濠農村から展して、版築による城壁をもった都市が立した。灰陶器を主流とした。銅器もみられる。河南龍山文化と関係が深かった。前二十一世紀以降、衰退の一途をたどった。伝説の三苗部族と擬する説もある。
城文化人(前1400?~前1000?)
  江西省樟樹市城鎮で見された。1989年には、江西省淦大洋洲で堤防護岸工事中に代後期の大規模な墓が見つかった。その副葬品は二千点近かった。山背文化を継承し、良渚文化石家河文化の影響を受けて立した。独特の青銅器を特色とする。
三星堆文化人(前2800?~前850?)
  仮面王国とも称される文化を築いた。1986年、四川省広三星堆見された。約二キロ四方の版築に囲まれた城壁都市を築いていた。器・青銅器・玉器・象牙・子安貝など遺物が多く、まさに三星堆文明人と呼ぶにふさわしい。「立人像」「神樹」「縦目仮面」など遺物の造形も特異なものが多い。ほかに四川省津県龍馬古城が代表遺跡としてある。史書によると古代の四川地方では蚕叢・柏灌・魚鳧・杜宇・鼈霊(開明)の王朝が交代していたという。
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