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韓国の歴史教科書を読む

韓国の歴史教科書を読む

 反日は国人のアイデンティティの中核で、反日しない国人などもはや国人とは言えない。歴史教育は、このような反日イデオロギーの再生産を担う重要な装置である。学界では1990年代以降「植民地近代化論」が台頭し、日本統治時代の肯定的な変化を評価する方向に変わって来た。しかしその果は歴史教科書にほとんど反映されておらず、依然として「日帝の悪辣で非人道的な収奪」をヒステリックに糾弾している。
 植民地近代化論者らは2008年に近現代史の代案教科書を出版し、現行の左派民族主義に異議を唱えた。この教科書が直ちに採択されることはないだろうが、朝鮮日報や東亜日報のような保守言論が支持しており、一定の影響力はあると見られる。高校では2010年度から国定教科書による「国史」が廃止され、検定教科書による「国史」に移行することになっている。「国近現代史」は2012年度までで廃止され、「国文化史」「東アジア史」が設される。要するに歴史教育の現場は混乱状態にあり、筆者が2009年9月にソウルで高校国史教科書を探しても見つからなかった。中学国史教科書はあったので、国定教科書による国史教育が当分の間続くのかも知れない。
 もしかしたらすぐ時代遅れになってしまうかも知れないが、ここでは2009年度の教科書で国の反日教育を概観する。あわせて代案教科書の記述を読むことで、国人の歴史認識の幅を検討する。国語史料の翻訳には、無名氏のご協力を得た。記して感謝したい。

無名氏のブログ(国語)
http://blog.naver.com/pkt87

国定中学校国史教科書

중학교 국사, 국사편찬위원회, 국정도서편찬위원회, 교육과학기술부, 2002년 초판, 2009년 8쇠.
三橋宏夫訳『国の中学校歴史教科書-中学校国定国史』石書店,2008年.

 中学校国史教科書に対する批判としては、既に藤岡寛次「国・中国『歴史教科書』を徹底批判する-歪曲された対日関係史-」小学館文庫(2001)がある。これは1996年版への批判だが、それが2002年版(2009年第8刷)でどの程度残っているのか検討する。なお、藤岡は国政府が2001年5月に出した日本の教科書に対する修正要求をも同時に批判しているが、ここでは教科書の内容だけに集中する。
 執筆陣は次の通り。「国定教科書の執筆者は匿名」というデマを信じている日本人がいるらしいので、いちおう書き写しておく。

최성락(木浦大学校)
양기석(忠北大学校)
박종기(国民大学校)
이존회(ソウル市史編纂委員会)
전형택(全南大学校)
김흥수(前春川教育大学校)
심지연(慶南大学校)

不偏性の虚構

 藤岡が呆れた歴史記述の不偏性に関する一文は、2002年版の序文にも残っている。

역사는 오늘의 삶을 비추어 주는 거울이며, 내일을 내다볼 수 있는 창이기도 하다. 따라서, 역사 서술은 과거가 어둡다고 하여 숨기거나 없는 것을 있다고 과장해서는 안 된다. 역사 서술은 치우침이 없고 엄격하여야 한다. (p. 2)
歴史は今日の生を照らす鏡であり、日を見通せる窓ともいう。したがって、歴史の叙述は過去が暗いからと隠したり、ないものをあると誇張してはならない。歴史の叙述は偏ることなく厳格でなければならない。(p. 4)

 これが「ないことをあると誇張」していることでなくて何であろうか。歴史叙述に絶対的な不偏性などあり得ず、必ず著者の立場が反映されているに決まっている。ましてや国定教科書に政府の政治的立場が反映されないはずがない。こうした歴史解釈の対性を中学生に教えるのは早いかもしれないが、だからといってこんな嘘八百の綺麗ごとを教え込むのは、百害あって一利なしである。
 この教科書で「過去が暗いからと隠していること」としては、古代日本の半島に対する影響、寇への協力、倭寇への朝鮮人の関与、歴代中国王朝への事大・服属、文禄・慶長役における対日協力者、李氏朝鮮の知的荒廃と小中華思想、からの独立における日本の役割、3.1運動への国際情勢の影響等があげられよう。「ないことをあると誇張していること」としては、古朝鮮の歴史化、文禄・慶長役における朝鮮の勝利、勢道政治悪役論、日帝収奪史観、独立運動の果等があげられる。

古朝鮮の歴史

 朝鮮に関する信頼できる文献記録で最も古いものは、『史記』に登場する満朝鮮である。満は中国の武将で、紀前200年ごろ徒党千余名を率いて朝鮮に亡命し、準王をだまし討ちにして政権を奪い取った。準王の古朝鮮については何も記録がないので、満以前の朝鮮は先史時代と見るべきである。
 しかし国政府の立場では、中国の植民地である満朝鮮から朝鮮史を始めることは許されない。そこで神話に過ぎない檀君朝鮮や箕子朝鮮を歴史だと言い張ることになる。特に「朝鮮人による朝鮮」である檀君朝鮮は重要で、朝鮮史が中国史と同程度に古いことを誇るためにも絶対に必要である。したがって檀君神話が13世紀の『三国遺事』までしか遡れず、その内容がいかに荒無稽であっても、民族主義的イデオロギーによって檀君朝鮮の歴史化が要請される。

단군의 고조선 건국은 우리 나라의 역사가 매우 오래 되었음을 말해 준다. 또, 단군의 건국 사실과 홍익인간의 건국 이념은 우리 민족이 어려움을 당할 때마다 자긍심을 일깨워 주는 원동력이 되었다. (p. 18)
檀君の古朝鮮建国はわが国の歴史がとても古いことを物語る。また、檀君の建国の事実と「弘益人間」の建国理念は、以後、わが民族が困難にあうたびに自負心を呼び覚ます原動力となった。(p. 20)

一方的施恵論

 古代日本は朝鮮半島から大きな文化的影響を受けたが、逆に日本が半島南部に与えた影響も少なくない。硬玉製勾玉や円筒型土器、榮山江流域の前方後円墳はその例である。ところが国政府としては、「文物の流れは朝鮮半島から日本への一方通行だった」ことが任那日本府説を否定する重要な論拠なので、日本からの影響を認めるわけには行かない。そこで半島から日本への影響を強調する一方で、日本からの影響は一切無視する一方的施恵論を主張することになる。
 しかし藤岡が批判した1996年版に比べれば、一方的施恵論は大きく後退した。旧版では「文化を伝えてあげた」「技術を教えてあげた」といった恩着せがましい「してあげた」のオンパレードだったが、2002年版では文化的影響に関する記述は大幅に削除された。残った記述も「してあげた」式表現は避け、恩着せがましさはなくなっている。

또, 가야의 일부 세력이 일본에 진출하여 일본의 고대 문화 발전에 이바지하였다. (p. 42)
また、伽耶の一部勢力が日本に進出し、日本の古代文化展に奉仕した。(p. 44)

신라의 불교는 일본에 큰 영향을 끼쳤다. (p. 72)
羅の仏教は日本に大きな影響をおよぼした。(p. 74)

事大主義

 藤岡によると、1996年版の李氏朝鮮の建国に関する記述は次のようになっていた。

王朝は、国号を朝鮮と定めた。『朝鮮』は、すなわち古朝鮮の伝統を受けつぐという意味で、檀君に民族の独自性を求めるという意味が含まれている。だから朝鮮という国号には、悠久の伝統文化と民族意識が反映されており、民族史に対する主体的自覚が含まれていた。

 これは国に依頼して「朝鮮」「和寧」から国号を選んでもらった史実に真っ向から反する歴史歪曲である。2002年版では記述はあっさりしたが、「過去が暗いからと隠す」姿勢は変わっていない。

새 왕조를 세운 세력은 고조선을 계승한다는 뜻에서 나라 이름을 '조선'이라 하고, 도읍을 한양으로 정하였다. (p. 127)
王朝を建てた勢力は古朝鮮を継承するという意味で国名を「朝鮮」とし、都を城に定めた。(p. 129)

文禄・慶長の役

 藤岡が指摘している通り、日本に対しては一貫して「侵略」という言葉が使われる反面、日本以外に対して使われるのは稀である。秀吉の朝鮮出兵も「侵略」と表現される一方、13世紀のモンゴルの侵略は一貫して「侵入」という言葉が使われている。要するに日本人はモンゴル人より悪辣だと言いたいらしい。
 文禄の役で日本軍の快進撃は西北部では平壌で止まり、以後到着した軍によって城付近まで押し戻された。教科書はこうした戦況の逆転を、朝鮮水軍と義兵の功績としており、軍は気の毒にも付録扱いされている。

수군이 승리를 거두고 의병의 활동이 활발하게 전개될 무렵, 명의 원군까지 도착하여 조선은 왜군에 반격을 가하게 되었다. (p. 148)
水軍が勝利を収め、義兵の活動が活に展開されている頃、の援軍まで到着して朝鮮は軍に反撃を加えるようになった。(p. 150)

 また藤岡の指摘通り、教科書は朝鮮民族が一致団結して日本軍の侵略に抵抗したような印象を与えている。実際には日本軍を解放軍として大歓迎した下層民が大勢おり、臨海君・順和君の二王子を縛って日本軍に突き出した役人もいた。中学校の教科書にこうした対日協力者の事跡を書く必要はないだろうが、だったら序文にあんな偉そうなことを書くべきではない。

 戦争の結果について、教科書は次のように朝鮮の勝利、日本の敗北としている。

7 년간의 전쟁은 조선의 승리로 끝났고, 일본의 침략 의도는 좌절되었다. 일본은 조선의 항복을 받지도 못했고, 영토를 얻지도 못했다. 그렇지만 이 전쟁으로 가장 큰 피해를 본 것은 조선이었다. (p. 149)
7年間の戦争は朝鮮の勝利に終わり、日本の侵略の意図は挫折した。日本は朝鮮を降伏させられず、領土も得られなかった。それにもかかわらず、この戦争で最大の被害を受けたのは朝鮮だった。(p. 151)

그러나 조선으로부터 여러 가지 문화재와 선진 문물이 일본에 전해져, 일본은 문화 발전을 이를 수 있었다. (p. 150)
しかし、朝鮮からいろいろな文化財や先進文物が日本に伝わり、日本の文化展に寄与した。(pp. 151-152)

 これを読んだ学生は、勝利したはずの朝鮮が最も大きな被害を被り、敗北したはずの日本が最も利益を得たことに疑問を感じないのだろうか。李氏朝鮮時代の小中華思想は、軍事的・経済的劣勢に目をつぶり、文化的・道徳的優感に耽る精神的勝利法だった。この教科書の記述も、現実から目を背け根拠のない優感に耽る精神的勝利法を教えているようである。

朝鮮通信使

 1996年版では、江戸時代の朝鮮通信使に関しても「私たちの先進文化と技術を伝えてあげた」という恩着せがましい記述になっていた。2002年版ではそうした恩着せがましさは後退し、何やら流ブームを連想させる記述になっている。

통신사는 일본의 요청을 받고 일본에 건너가 극진한 대우를 받았으며, 일본의 문화 발전에 공헌하였다. 그들이 다녀간 후에는 일본내에 조선의 문화와 풍속이 펴질 정도였다. (p. 150)
通信使は日本の要請を受けて日本に渡り、手厚い待遇を受け、日本の文化展に貢献した。彼らが訪れた後には、日本国内に朝鮮の文化と風俗が広まるほどであった。(p. 152)

勢道政治悪役論

 李氏朝鮮末期には王妃の親族が実権を握り国政を専断する勢道政治が猛威を振るった。教科書はこの勢道政治こそが李朝衰退の原因であるかのように記述している。

이렇게 세도 정치가 계속되면서 각종 부정 부태로 인해 나라는 어지러워졌고, 모든 고통은 백성들에게 돌아갈 수 밖에 없었다. (p. 176)
このような勢道政治が続き、各種の不正腐敗によって国は乱れ、あらゆる苦痛は民衆に帰ってくるしかなかった。(p. 178)

 しかし王権が弱体化することが腐敗と混乱を呼ぶなら、日本は平安時代から江戸時代までずっと衰退し続けたのでなければならない。李朝の衰退には、朱子学原理主義が大きく影響したように思われる。これによって生産活動を蔑視する両班文化が蔓延し、朝鮮名物の党争を激化させ、軍事的弱体化と経済的停滞性をもたらしたと考えられるのである。しかし朱子学を攻撃したのでは、日本に対する文化的優感を危うくすることになる。そこで勢道政治がスケープゴートに選ばれたのだろう。

이에 백성들은 나라의 정치가 바로잡히고, 서양의 침략으로부터 나라가 안전하기를 원하였다. (p. 189)
民衆は国の政治が正され、西洋の侵略から国が守られることを願った。(p. 191)

開港への道

 1996年版では、朝鮮は日本の開港要求を受け入れれば西洋列強があとに続くことを恐れて拒絶したことになっていた。藤岡は国書に「皇」の字が入っていたため拒否したと書けば、朝鮮が中国の属国だったことが知られてしまうため隠したのだと批判した。2002年版は国書に言及している分、前進したと評価すべきだろう。確かに反日感情を煽るような文章だが、一部の学生は「いったいどんなことが書いてあったんだろう」と疑問を抱き、朝鮮の事大主義について知ることになるかも知れない。

한편, 메이지 유신을 통해 새로운 국가 체제를 갖춘 일본도 통상 수교를 요구해 왔으나 그 외교 문서에 일본 국왕이 조선 국왕을 낮추어 보는 표현과 종래의 외교 관행에 어긋나 내용이 있어 조선 정부는 이를. (p. 194)
一方、治維を通してしい国家体制を整えた日本も通商修好を要求してきたが、その外交文書に日本国王(天皇)が朝鮮国王を見下す表現と従来の外交慣行に反する内容があったので、朝鮮政府はこれを拒否した。(p. 196)

 ただし「天皇」と呼ぶのが国政府の公式的な立場のはずなのに、国定教科書が「国王」で一貫しているのは奇妙なことである。このため日本語版では、いちいちカッコつきで「天皇」を補っている。

일본에 거주하고 있던 박열은 일본 왕실의 결혼식이 거행되던 날에 일본 국왕 부자를 제거하기 위한 준비를 하다가 발각되어 일제가 패망하기까지 22년 동안이나 감옥에서 고통을 겪었다.(pp. 276-277)
日本に居住していた朴烈は、日本王室[皇室]の結婚式が行われた日に、日本国王[天皇]親子をとり除く準備をしていて覚し、日帝が敗北するまで22年間も監獄で苦痛を味わった。(p. 279)

김구가 이끈 한인 애국단의 단원인 이봉창은 1932년에 일본 도쿄에서 한국 침략의 원흉인 일본 국왕을 처단하기 위해 국왕의 마차에 폭탄을 던졌으나 성공하지 못하였다.(p. 277)
九が率いた人愛国団の団員李奉昌は、1932年に日本の東京で国侵略の兇である日本国王[天皇]を処断するため国王の馬車に爆弾を投げたが功しなかった。(p. 277)

 1996年版では江華島条約で「朝鮮国ハ自主ノ邦」とした点にまったく触れていなかったが、2002年版では言及されている。いかにもあっさりした記述で、学生はその意義をまったく理解できないだろうが、前進には違いない。

강화도 조약에서는 조선이 자주 국가임을 밝혔지만, 조선에 불리한 규정이 포함되어 있었다. (p. 198)
江華島条約では朝鮮が自主国家であることをらかにしたが、朝鮮に不利な規定が含まれていた。(p. 200)

日本の「侵略」との「干渉」

 この教科書では、日本のやることなすこと全て「侵略」「強奪」とヒステリックに糾弾しながら、は単なる「干渉」と表現される。藤岡によるとこの露骨な差別化は、現代国人に根強い属国根性の現れで、日本は単なる白昼強盗だがはいざという時は頼りになる父親とみなしているためと解釈した。その正否はともかく、表現の差別化は2002年版でも変わっていない。

그러나 조선에 세력을 침투시킬 기회를 엿보던 청이 군대를 보내 흥선 대원군을 납치해 감으로써 민씨 세력이 다시 정권을 잡았다. (p. 200)
しかし朝鮮に勢力を浸透させる機会をうかがっていたが軍隊を送って興宣大院君を拉致し、閔氏勢力が再び政権を握った。(p. 202)

갑신정변 이후에도 조선에 대한 청의 내정 간섭은 여전히 심하였다. (p. 202)
甲申政変以後も朝鮮に対するの内政干渉は変わらず激しかった。(p. 204)

이처럼 일본군의 침략 행위가 노골화되자, 농민군은 일본군 타도를 내세우며 다시 일어났다. (p. 209)
このように日本軍の侵略行為が露骨になると、農民軍は日本軍打倒を掲げて再び立ち上がった。(p. 211)

갑오개혁은 제대로 시행되지 못하였다. 이는 정치적, 사회적 불안과 일본의 침략적인 간섭에 대한 국민들의 반감이 컸기 때문이다.(p. 212)
甲午改革はきちんと行われなかった。これは政治的、社会的不安と日本の侵略的干渉に対する国民の反感が大きかったためである。(p. 214)

 朝鮮が宗主権をふりかざすから最終的に独立できたのは、日戦争の結果締結された下関条約による。しかし教科書は下関条約に一言も触れず、あたかも高宗の宣言によって独立が実現したかのように書いている。この点では1996年版より後退し、民族主義に依拠した歴史歪曲がいっそう甚だしくなった。

청ㆍ일 전쟁이 일본의 승리로 굳어지면서 그동안 개혁에 소극적이던 흥선 대원군이 물러나고, 각각 일본과 미국에 망명 중이던 박영효, 서광범 등이 귀국하여 개혁을 추진하였다. 정부는 국왕의 이름으로 우리 나라가 독립국임을 내세우고, 홍범 14조를 발표하여 개혁의 내용과 정신을 밝혔다. (p. 211)
日戦争が日本の勝利に終わり、それまで改革に消極的だった興宣大院君が退き、それぞれ日本とアメリカに亡命中だった朴泳孝、徐光範などが帰国して改革をおし進めた。政府は国王の名でわが国が独立国であることを掲げ、洪範14条を表して改革の内容と精神をらかにした。(p. 213)

日本の「侵略」とロシアの「干渉」

 と同じく、ロシアも何をしようが「侵略」には該当しないことになっている。

항일 의병 운동이 전개되면서 나라 안이 소란해진 틈을 타 그들의 세력을 확대하고자 하였다.(p. 224)
抗日義兵運動が展開され、国内の騒乱に乗じて、ロシアは彼らの勢力を拡大しようとした。(p. 226)

청ㆍ일 전쟁 후 러시아는 만주 철도 부설권을 획득하는 등 세력을 확대시키고, 우리 나라에도 세력을 침투시키려 하였다.(p. 233)
日戦争後、ロシアは満州鉄道敷設権を獲得するなど勢力を拡大させ、わが国にも勢力を浸透させようとした。(p. 235)

 一方日本は何をやってもその背後には邪悪な意図があり、侵略であるとされる。この露骨な用語上の差別は、1996年版から変わっていない。

단발령은 겉으로는 조선의 근대적 개혁을 내세운 것이었으나, 여기에는 한국의 전통을 끊음으로써 한국인의 민족 정신을 약화시키기 위한 일본의 정략이 숨어 있었다.(p. 223)
断髪令は表面的には朝鮮の近代的改革を掲げたものだったが、これには国の伝統を断ち切って国人の民族精神を弱めようとする日本の政略が隠されていた。(p. 225)

개항 이후 계속된 일본의 경제적, 정치적 침략과 명성 황후 시해로 분노한 국민들의 반일 감정이 단발령을 계기로 폭발하여 항일 의병이 일어나게 되었다.(p. 223)
開港以後続いていた日本の経済的、政治的侵略と皇后殺害に怒った国民の反日感情が、断髪令をきっかけに爆して抗日義兵が起きるようになった。(p. 225)

대한 제국은 러- 일 전쟁에서 승리한 일본에 외교권과 군사권을 차례로 강탈당하였다. 우리 민족은 이러한 일본의 침략에 대항하여 강력한 민족 운동을 전개하였다.(p. 232)
帝国は露日戦争で勝利した日本に外交権と軍事権を次第に強奪されていった。わが民族はこのような日本の侵略に対抗して、強力な民族運動を展開した。(p. 234)

テロ礼賛

 この教科書が中学生に伝えようとしている最も重要な価値観は「反日」である。反日こそが至高の価値であり、反日のためならどんな行為も正当化される。その中には、単に「親日的な言をした」というだけの理由で外国人を殺すことも含まれる。

미국에 살고 있던 전명운과 장인환은, 일본의 추천으로 우리 나라에 외교 고문으로 와 있던 미국인 스티분스가 미국으로 돌아가 일본의 한국 침략을 지지하는 발언을 하자, 그를 샌프란시스코에서 사살하였다. (p. 236)
アメリカに住んでいた田雲と張仁煥は、日本の推薦でわが国に外交顧問として来ていたアメリカ人スティーブンスがアメリカに戻って日本の国侵略を支持する言をすると、彼をサンフランシスコで射殺した。(p. 238)

의병장으로 국내외에서 항일전을 전개하고 있던 안중근은, 우리 나라 침략에 앞장섰던 이토 히로부미가 러시아 대표와 회담하기 위하여 하얼빈에 도착했을 때, 그를 사살하여 민족의 독립 의지를 분명히 보여 주었다(1909). (p. 236)
義兵将として国内外で抗日戦を展開していた安重根は、初代統監としてわが国侵略の先頭に立っていた伊籐博文がロシアの代表と会談するためにハルビンに到着したたとき、彼を射殺して民族の独立の意志をらかに示した(1909年)。(p. 238)

이재명은 일본의 앞잡이인 이완용을 칼로 찔러 부상을 입혔다. 나철과 오기호 등은 5적 암살단을 조직하여 을사조약에 찬성한 을사5적 등 매국노를 처단하여 하였으나 서공하지 못했다 (p. 236)
李在は日本の手先だった李完用を刀で切りつけ負傷させた。羅喆と基鎬などは五賊暗殺団を組織し乙巳条約に賛した乙巳五賊など売国奴を処断しようとしたが、功しなかった。(p. 238)

 反日こそが至上の価値なのだから、日本が押し付けた法律など守る必要はない。むしろ積極的に法律を否定してこそ、国人としての正しい行動といえる。

유관순은 재판정에서 "나는 당당한 대한의 국민이다. 대한 사람인 내가 너희들의 재판을 받을 필요도 없고 너희가 나를 처벌할 권리도 없다." 라고 외치면서 항거하였다. (p. 267)
柳寛順は裁判所で「私は堂々たる大の国民である。大の人である私がお前たちの裁判を受ける必要もなく、お前たちが私を処罰する権利もない。」と叫び、抵抗した。(p. 269)

김익산은 조선 총독부에 폭탄을 던졌고, 김상욱은 독립 지사들에게 잔인한 고문을 일삼던 종로 경찰서에 폭탄을 던져 큰 피해를 주었다. 그리고 나석주는 동양 척식 주식 회사에 들어가 그 간부를 사살하고 일제 경찰과 시가전을 벌이기도 하였다. (p. 276)
は朝鮮総督府に爆弾を投げ、沃は独立志士に残忍な拷問を行った鐘路警察署に爆弾を投げて大きな被害を与えた。そして、羅錫疇は東洋織績株式会社に入っていきその幹部を射殺し、日帝警察と市街戦をくり広げた。(p. 278)

 反日のためなら外国でのテロもためらう必要はない。国の立場こそが絶対的に正しいのだから、必ずや現地で共感を得られるはずである。

한편, 같은 한인 애국단원인 윤봉길은 상하이의 흥커우 공원 (현재는 루 쉰 공원) 에서 열린 일본군의 상하이 점령 축하 기념식장에 폭탄을 던져 일본군을 응징하였다. 윤봉길 의사의 의거는 당시 일본의 침략을 경계하고 있던 중국인들에게 커다란 감동을 주었으며, 중국 정부와 중국인들이 한국인의 항일 독립 투쟁에 적극적으로 협력하는 중요한 계기가 되기도 하였다. (p. 277)
一方、同じ人愛国団員の尹奉吉は上海の虹口公園(現在は迅公園)で開かれた日本軍の上海占領祝賀記念式場に爆弾を投げつけて日本軍をこらしめた。尹奉吉義士の義挙は当時日本の侵略を警戒していた中国人に大きな感動を与え、中国政府と中国人が国人の抗日独立闘争に積極的に協力する重要なきっかけともなった。(p. 279)

収奪史観

 日本による近代化は、1905年の第二次日韓協約を契機に本格化した。この教科書は近代化の恩恵を受けた朝鮮人がひとりもいなかったかのように強弁し、決して日本の行為を肯定的に評価したり、ましてや感謝してはならないことを教えている。

일본은 우리 나라의 근대회를 위한 사업이라는 명분으로 도로와 수도 시설을 갖추고, 은행, 학교, 병원 등을 설립하였다. 이러한 시설은 우리 나라에 와 있는 일본인을 위한 것임에도 불구하고, 이에 필요한 시설비는 우리 정부가 일본 정부로부터 차관을 얻어 부담하도록 강요하였다.(pp. 248-249)
日本はわが国の近代化のための事業という名目で道路と水道施設を整え、銀行、学校、病院などを設立した。こうした施設はわが国に来ている日本人のためのものであるにもかかわらず、これに必要な施設費は私たちの政府が日本政府から借款を得て負担するよう強要した。(pp. 250-251)

 1910年の日韓併合条約をもって国は日本に併合されるが、教科書はこれを「日帝の奴隷状態」と表現している。列強の植民地となることが奴隷状態なら、当時アジア・アフリカの大部分が奴隷状態だったことになるが、この教科書は国人だけが不当で不条理な扱いを受けたような印象を与えている。

이로써 오랫동안 독자적인 문화를 창조하면서 발전해 온 우리 민족은 나라를 빼앗기고 일제의 노예 상태로 떨어지게 되었다. (p. 255)
こうして長い間独自の文化を創造しながら展して来たわが民族は国を奪われ、日帝の奴隷状態に陥るようになった。(p. 257)

 日本の植民統治は、初期には義兵等の抵抗に対処するため苛酷な武断統治だったが、1919年の3.1独立運動を契機に文化政治に転換し、1930年代後半に皇民化政策が実施されるまでは比較的緩やかだった。しかしこの教科書は、あらゆる日本の行為を悪辣で狡猾なものと解釈するよう教えている。

그러나 이러한 일제의 새로운 식민지 정책은 친일파를 길러 우리 민족을 이간, 분열시키려는 교활한 정책으로서, 한민족의 단결을 억제하고 독립 운동을 막으려는 방침에는 변함이 없었다. (p. 257)
しかし、このような日帝のしい植民地政策は親日派を養ってわが民族を仲たがいさせ、分裂させようとする狡猾な政策であり、民族の団結を抑え独立運動をくい止めようとする方針には変わりがなかった。(p. 259)

 李榮薰らの実証的研究は土地収奪の虚構性を鮮に暴いて見せたが、その果はほとんど取り入れられていない。なお、「民衆の土地」は「門中の土地」の誤訳と思われる。門中は朝鮮の父系親族の組織で、ここでは「一族や村の共有地」と訳すのがよいと思われる。

식민 지배하에서 한민족은 일제의 경제적인 수탈에 큰 고통을 받았다. 이 가운데에서 가장 큰 피해는 토지를 약탈당한 것이었다.(p. 258)
植民支配下で民族は日帝の経済的な収奪にひどい苦痛を被った。この中でもっとも大きな被害は土地を侵奪されたことだった。(p. 260)

일제는 우리의 국권을 빼앗은 직후 토지 약탈을 적극적으로 추진하였다. 총독부는 토지 소유 관계를 근대적으로 정리한다는 명분을 내세워 이른바 토지 조사 사업을 추진하였다.(p. 258)
日帝はわが国の国権を奪った直後、土地の略奪を積極的におし進めた。総督府は土地所有関係を近代的に整理するという名分を掲げて、いわゆる土地調査事業をおし進めた。(p. 260)

또, 신고주의를 원칙으로 하였기 때문에 토지 신고를 제대로 하지 않은 많은 사람들이 피해를 입게 되었다. 즉, 신고 절차가 복잡하고 까다로웠으며, 일제가 실시하는 것이었으므로 반일 감정이 앞서 이에 따르지 않은 경우도 있었다. (pp. 258-259)
また、申告主義を原則としたため、土地申告をきちんと行わなかった多くの人々が被害を被ることとなった。すなわち、申告手続きが複雑でややこしく、日帝が実施するものだったため反日感情が先に立ち、これに従わない場合もあった。(p. 261)

더구나 문중 토지나 마을 사람들의 공유지, 그리고 왕실이나 공공기관에 속하였던 많은 토지는 주인 없는 토지로 분류되어 총독부의 소유지로 되는 경우가 많았다.(p. 259)
さらに民衆の土地や村の人々の共有地、そして王室や公共機関に属していた多くの土地は持ち主のいない土地に分類され、総督府の所有地となる場合が多かった。(p. 261)

총독부는 이렇게 약탈한 토지를 동양 척식 주식 회사 등 일본인이 경영하는 토지 회사나 한국으로 건너오는 일본인에게 싼 값으로 넘겨주어, 일본인들이 많은 토지를 소유할 수 있는 여건을 마련해 주었다.(p. 259)
総督府はこのように略奪した土地を東洋拓殖株式会社など日本人が経営する土地会社や国に渡ってきた日本人に安く譲り渡し、日本人が多くの土地を所有できる条件を整えた。(p. 261)

 1930年代には朝鮮北部に多くの重化学工業プラントが導入され、植民地にはあり得ないほどの工業化が進んだ。教科書はそれが大陸進出のための軍需産業だったことを強調し、決して肯定的に評価してはならないことを教えている。

이와 같이, 일제는 한국의 산업에 대한 침탈을 적극적으로 추진하면서, 한국을 대륙 침략의 발판으로 삼기 위해 철도와 도로, 항만과 통신 등의 시설을 갖추었다.(p. 262)
こうして、日帝は国の産業に対する侵奪を積極的におし進め、国を大陸侵略の足がかりとするため鉄道と道路、港湾と通信などの施設を整えた。(p. 264)

 皇民化政策は日中戦争が激化した1930年後半から実施されたが、この教科書では年次を記載していない。皇国臣民の誓詞の制定は1937年、小学校での朝鮮語廃止は1938年、創氏改名は1939年、国語聞の廃刊は1940年、勤労報国隊の制定は1941年、女子挺身隊の制定は1943年である。しかもこの記述は3.1独立運動の直前に置かれているので、よほど注意深い学生でないと皇民化政策が1910年代からずっと行われたかのように錯覚するだろう。

그리고 일제는 우리의 민족 정신을 뿌리뽑기 위해 이른바 일ㆍ선 동조론을 주장하였고, 내선 일체와 황국 신민화 등의 구호를 내걸었다. 또, 우리말 사용을 금하고 일본어만 쓰도록 하였으며, 우리 역사의 교육도 금하였다. 한글로 간행되던 신문도 폐간시키고, 우리말과 역사에 대한 연구도 금지시켰다. (p. 261)
そして日帝は私たちの民族精神を根絶やしにするため、いわゆる日鮮同祖論を主張し、内鮮一体と皇国臣民化のスローガンを掲げた。また、国語の使用を禁じ、日本語だけを使わせ、私たちの歴史を教えることも禁じた。ハングルで刊行されていた聞も廃刊させ、国語と歴史に対する研究も禁止させた。(p. 263)

나아가, 일제는 우리의 이름까지도 일본식 성과 이름으로 바꾸어 사용하도록 강요하였고, 각지에 일본 신사를 세워 참배하도록 하였으며, 어린 학생들까지도 황국 신민 서사를 외도록 강요하였다. (p. 261)
さらに、日帝は私たちの名前までも日本式氏と名前に変えるよう強要し、各地に日本の神社を建てて参拝させ、子どもたちにも皇国臣民の誓詞を覚えるよう強要した。(p. 263)

일제는 여성들도 근로 보국대, 여자 근로 정신대 등의 이름으로 끌고 가 노동력을 착취하였다. 더욱이 많은 수의 여성을 강제로 동원하여 일본군이 주둔하고 있는 아시아 각 지역으로 보내 군대 위안부로 만들어 비인간적인 생활을 하게 하였다. (p. 262)
日帝は女性たちも勤労報国隊、女子勤労従軍挺身隊などの名で連行し、労働力を搾取した。さらに多くの数の女性を強制的に動員して、日本軍が駐屯しているアジアの各地域に送って軍隊慰安婦として非人間的な生活をさせた。(p. 264)

 慰安婦については、1996年版では「女性までも挺身隊という名目で引き立てられ、日本軍の慰安婦として犠牲になったりした」と、挺身隊が全員慰安婦だったかのような書き方になっていた。これが改められたことは、前進と評価すべきだろう。

星出版社版・国近現代史

고등학교 한국근ㆍ현대사, (주)금성출판사, 2003년 초판, 2009년 6쇠.

 「国近現代史」は大中・盧武鉉政権が親北左派史観を高校生に教え込むために導入した科目で、教科書は検定制である。大教科書版の日本語訳が石書店から出ているが、ここでは最も左派的で、盧武鉉政権中には採択率が最も高かった星出版社版を検討する。右派の教科書フォーラムや大商工会議所が攻撃したのも、この教科書である。論争は主に大民国建国や朴正煕政権の評価をめぐってのものだが、それらは日本人の知ったことではないので、ここでは反日教育に集中する。
 「外国人の目に映った国人」の項は、欧米から見た朝鮮 - 別バージョンの検討に訳文を示した。
 執筆陣は次の通り。ハンギョレ(2008年10月8日付)によると、筆頭著者の宗は次期教科書の執筆を辞退したとのことである。

김한종(ソウル大学校師範大学歴史教育科)
홍순권(ソウル大学校人文大学英文学科)
김태웅(ソウル大学校師範大学歴史教育科)
이인석(ソウル大学校師範大学歴史教育科)
남궁원(ソウル大学校師範大学歴史教育科)
남정란(国教員大学校歴史教育科)

日本統治の特殊性

 この教科書は第1部で近現代史の概説を与えているが、その中に「日帝のわが国支配の特殊性」という項目がある。そこでは「日帝は世界でその類例を見出し難い程度に徹底した方法でわが民族を抑圧し収奪した。日帝の植民統治方法が他の国の植民支配と異なる点を見てみよう。」という前置きに続いて、朴植『国痛史』(1915)からの抜粋が掲載されている。長いが全文引用する。

대체로 세상의 강포(強暴)한 자는 날로 약국을 침탄하고, 약한 종족을 도태하는 것을 일삼으나, 그 참독(惨毒)을 받은 자가 즐비하나, 우리 한국과 같은 나라는 없는 것 같다. 고금의 망국으로서 비교하여 예를 들자면, 스웨덴이 노르웨이와, 오스트리아가 헝가리와 모두 합병했다고 이르지만, 그 민족의 대우는 등급을 두지 않는데 한국인도 이렇다고 할 수 있겠는가. 터키가 비록 이집트를 합병했었으나 아직도 그 왕을 그대로 있게 하여 조상의 제사받드는 것을 쉬지 않게 했지만, 우리 한국의 황제는 오랑캐로부터 작위를 받은 처지가 되었다. 영국이 캐나다 등지에서 그 헌법을 갖도록 허락하고 보장해 주며, 의회를 세워 이를 유지하도록 하고, 다른 나라와 체결한 조약을 모두 일일이 보존하도록 하는데, 한국인은 이런 것들을 획득할 수 있었는가? (p. 23)
およそ世界の強暴な国は日に日に弱国を侵呑し, 弱い種族を淘汰することを事としており、その惨毒を受けた者が列をなすが、わが国のような国はないようだ。古今の亡国として比較して、例えば、スウェーデンがノルウェーと、オーストリアがハンガリーといずれも合併したとは言うが、その民族の待遇は等級を置かないのに、国人もこのようだと言えるか。トルコがたとえエジプトを合併したがいまだその王をそのままにして祖先の祀りが途絶えないようにしたが、国の皇帝は蛮夷から爵位を受ける体たらくになった。英国がカナダ等の地でその憲法を持つことを承認し保障してやり、議会を建てこれを維持させ、他の国と締結した条約を全ていちいち保存するようにしているが、国人はこうした権利を獲得することができたのか?

지들의 한국에 대한 사정(施政)은 대만(타이완)에서 행하는 것과 마찬가지로 차이나는 것이 없게 했는데, 대만은 나라도 아닌데, 같게 취급하고 있으나 이것은 망국으로서 더욱 낮은 자로 취급하는 것이다. 또한, 대저 사람은 옷을 걸치고 곡식으로 배를 채우는 것이나, 흙을 먹고 샘물을 마시는 벌래와는 같지 아니한 즉, 생활을 돕게 하는 것은 오직 산업일 뿐이다. 저 영국이 인도와 이집트에서, 프랑스가 베트남에서, 미국이 필리핀에서 비록 강한 힘으로써 그 국권을 차지했으나, 백성의 재산은 진실로 그 자신이 보존하도록 맡겼다. 일본은 가난한 나라이다. 궁한 백성이 많아 재정이 날로 쪼들리고 부채는 날로 늘어만 간다. 그러므로 가혹한 세금과 난폭한 착취를 한국인에게 가하는 데 있어서 그 조목이 번거롭다. 그리고 빈 손으로 한국에 건너오는 가난한 일본 국민들이 벌떼같이 몰려오는데, 우리 국민의 재산을 빼앗지 않고는 생활을 해나갈 수 없다. 그들 정부는 식민하는 데만 급하여 또한 그들에게 줄 물자가 없으니, 비록 한국인에게 관대한 정치를 베풀어 생명의 줄을 보존케 하려 한다해도 형새가 불가능하다. 이로써 보건대, 옛과 이제의 망국의 참상이 한국보다 더 심한 곳을 어디에서 찾아볼 수 있겠는가. 하늘과 땅은, 아득하고 애잔한 숨결은 깜박깜박하여 고통스러움을 호소하든 것을 스스로 그칠 수 없다.(p. 23)
彼らの国に対する施政は台湾で行うものと同じで差異が生じないようにしたが、台湾は国でもないのに同じ扱いをしているが、これは亡国としてもっと低い者として扱うものだ。また、およそ人は服を着て穀食で腹を満たすものだが、土を食らい泥水を飲む虫と同じではない。すなわち、生活を助けるのはただ産業があるだけだ。あの英国がインドとエジプトで、フランスがベトナムで、米国がフィリピンでたとえ力づくでその国権を奪ったが、民衆の財産は真に自分自身が保存できるようにした。日本は貧しい国だ。窮乏した民衆が多く、財政はますます悪化し負債はますます増えて行く。だから苛酷な税と横暴な搾取を国人に加えるためその条目が煩雑なほど多い。そして空手で国に渡って来る貧しい日本国民が雲霞のように群がって来るが、わが国民の財産を奪わなくては生活して行けない。彼らの政府は植民することだけに急で、また彼らに与える物資がないため、たとえ国人に寛大な政治を施して生命の列を保存しようとしても事情が許さない。このように見れば、昔と今の亡国の惨状が国より酷い所をどこに見出すことができるか。天と地は遥かで、弱弱しい息づかいがぜいぜいと苦痛を訴えることを自ら止めることができない。

 まず感じ取れるのは、強烈な小中華意識とそれに比例した自己憐憫の激しさである。特に「国は蛮族から爵位を受ける体たらくになった」「国でもなかった台湾と同じ扱いを受けている」という文言は、傲慢きわまりない。英国とカナダに言及しながら、虐げられたアメリカ原住民のことが少しでも頭をかすめたとは思えない。『国痛史』が出版された1915年にはまだ武断統治中だったから、弾圧は比較的苛酷だったかもしれないが、各国の植民統治の初期段階と比較しようとする実証主義的態度はかけらも見られない。たとえ資料の限界があったとしても、朴植は南米の人口を10分の1に減らし、奴隷貿易で巨万の利を稼ぎ、アヘンを蔓延させたヨーロッパ列強の植民支配よりも日本の方が悪逆非道だと本気で信じていたのだろうか。
 そもそも朴植は、歴史家というよりは政治的アジテータに近い。おそらくこの教科書の著者たちは、日本の植民統治が史上最悪だったと言いたくて仕方ないのだろうが、客観的史料でそれを証できなかったのだろう。現代の民族主義的史学者が、植民地近代化論からの批判に正面から向き合わず、古色蒼然たる政治的アジビラの引用で済ませているのは、不誠実としか言いようがない。

江華島条約

 この教科書は日朝間で締結された江華島条約(1876)が最も悪質な不平等条約だったと暗示している。本文では米朝修好通商条約にかこつけて、次の記述がある。

조ㆍ미 수호 통상 조약도 강화도 조약과 같이 불평등한 조약으로, 영사 재판에 의하 치외 법권은 물론 최혜국 대우까지 규정되어 있었다. 다만 강화도 조약과 달리 비율은 낮지만 수출입 상품에 대한 관세 조항이 들어 있었다.(p. 52)
米朝修好通商条約も江華島条約と同じく不平等な条約で、領事裁判による治外法権はもちろん最恵国待遇まで規定されていた。しかし江華島条約と異なり、比率は低いが輸出入商品に対する関税条項が入っていた。

 また51ページには「江華島条約、なぜ不平等条約なのか?」という項目があり、「江華島条約を日本と中国が西欧列強と結んだ通商条約と比較してみよう」とある。そして資料として江華島条約と日米修好通商条約(1858)、南京条約(1842)の抜粋が掲載され、課題3として「資料1~3を参考に江華島条約が他の条約に比べ特に不利な内容があるか探してみよう」とある。資料1にわざわざ日本貨幣の流通を定めた日朝修好条規付録第7条を付加したことから、この点を指していることはらかである。にもかかわらずはっきりと「江華島条約が最も悪質だった」とは書かなかったのは、即座に反論される恐れがあるからだろう。代案教科書によると、朝商民水陸貿易章程(1882)はさらに不平等で、朝鮮がの属邦であることを記した上、商人の内陸進出を許容し、国人はもちろん国人と関係した朝鮮人の裁判にも治外法権が適用された。こうした点を隠し、即座に反論されないよう暗示によって高校生をだますやり方は、姑息なことこの上ない。

用語の差別化

 はロシアは何をやろうが単なる「内政干渉」にとどまるのに、日本は常に侵略と表現される用語上の差別は、この教科書にも見られる。

그러나 이러한 개력은 일본의 침략을 수반하고 있어 척사 유생과 많은 백성들의 반발을 불러일으켰다.(p. 56)
しかしこうした改革は日本の侵略を随伴しており、斥邪儒生と多くの民衆の反を呼び起こした。

갑신정변 이후 청은 여세를 몰아 더욱 노골적으로 내정 간섭을 하였다. 일본도 침략의 발판을 잃지 않기 위해 청과 담판하여 조선에서 청ㆍ일 양국 군대가 모두 철수할 것과 앞으로 조선에 군대를 파병할 경우에는 서러 통고할 것을 내용으로 하는 텐진 조약을 맺었다(1885). (p. 69)
甲申政変以後は余勢を駆ってさらに露骨に内政干渉をした。日本も侵略の足場を失わないためにと談判し、朝鮮から・日両国の軍隊がすべて撤収することと、前もって朝鮮に軍隊を派兵する場合には互いに通告することを内容とする天津条約を結んだ(1885)。

그러나 아관 파천이후 조선 정부는 러시아의 간섭을 받지 않을 수 없었다. (p. 84)
しかし俄館播遷以後朝鮮政府はロシアの干渉を受けざるを得なかった。

テロ礼賛

 この教科書は日戦争終結(1895)から日韓併合(1910)までの抗日ゲリラ活動に6ページを割いて詳述している。その上で次の「よく頑張った史観」を提示しているが、根拠不である。代案教科書によると、日露戦争後日本では併合を主張する軍部と、併合に反対の統監府が対立しており、これが時間を費やした理由とされる。

일제가 을사조약 강제 체결 후 대한 제국을 완전히 병합하기까지 5년이나 걸린 데는 의병 항쟁도 큰 요인으로 작용하였다. (p. 94)
日帝が乙巳条約の強制締結後大帝国を完全に併合するまで5年もかかったのは義兵抗争も大きな要因として作用した。

 この単では、資料として海山『陣中日記』からの抜粋がある。奴を連する勇ましい檄文で、面白いので全文引用する。

왜놈에게 붙은 놈들은 들어라
그 놈들이 필경 악독하여 면장과 동장을 잡아가서 왜놈들에게 붙어 가난한 부락에다 수천 금의 돈을 배정해 거두어 갔으니 …… 하늘의 도란 원래 올바른 것이나 어찌 끝내 그 무리들만 영구히 잘 지내게 하고 의병과 민간에게는 종시 원수를 갚을 날이 없게 하겠느냐. … … 아! 우리 정부에는 대신의 직책을 가진 자들이 왜놈에게 붙어서 나라를 좀먹고 있으니 더러운 자들이라 기대할 것조차 없거니와, 소위 세무를 영수하는 면장의 무리들은 우리와 같은 민간인으로서 …… 아! 네놈들은 어찌 금수가 되려 하느냐. 무릇 왜놈을 받드는 일이라면 조금도 기탄없이 달갑게 노예가 되고 왜놈의 명령이라면 엄하게 지키기를 우리 임금의 명령보다 더하며, 민생의 재물을 빼앗기를 성화보다 빨리하여 제 임금을 배반하고 왜놈에게 충성하며 제 아비를 버리고 왜놈에게 공경하며 충성과 효도의 명예를 얻으려는 것이 네놈들이 아니고 누구란 말이냐 (p. 93)
奴に従う奴らは聞け
畢竟あいつら[親日派官僚]が悪辣で、面長と洞長を捕えて行き、奴どもに追従し、貧しい部落に数千のカネをばらまいて納めさせたが……天の道は来正しいはずなのに、なぜ結局あいつらだけが永久に安楽に暮し、義兵と民間にはいつも怨讐を晴らす日を失わせるのか。 ……ああ!わが政府には大臣の職責を担う者どもが奴に従い、国を食いものにしている。汚い奴らだから期待することさえないが、いわゆる税務を遂行する面長などはわれわれと同じ民間人なのに……ああ!貴様らはなぜ禽獣になろうとするのか。よそ者の奴を敬うこと少しの忌憚もなく喜んで奴隷となり、奴の命令なら厳格に従うことわが主君の命令より厳格にして、民生の財物を奪うこと流星のごとく迅速で、わが主君を裏切り奴に忠誠を尽くし、実の親を捨て奴に恭敬し、忠誠と孝道の名誉を得ようとするのが貴様らでなくて誰だというのか。

 また、上海における尹奉吉のテロ(1932)については、日本人を殺すことに功したのがいかにも痛快そうである。

윤봉길이 던진 폭탄은 사리카와 대장 등 단상에 있던 많은 일본군 장성과 고관들을 죽이거나 부상을 입혔다. 이 의거로 전승 축하 식장은 순식간에 아비규환이 되었다. (p. 188)
尹奉吉が投げた爆弾は、白川大将ら壇上にいた多くの日本軍将官と高官を殺したり負傷を負わせた。この義挙で戦勝祝賀式場はあっという間に阿鼻叫喚になった。

収奪史観

 収奪史観の大原則は、いかなる日本の政策も肯定的に評価してはならないということである。したがって3.1運動以後の文化政治への転換も、次のように記述される。

그러나 이것은 조선인의 불만을 달래려는 일제의 기만적인 술책이었다. (p. 152)
しかしこれは朝鮮人の不満をなだめようとする日帝の欺瞞的な術策だった。

 つまり総督府がどんな政策を採ろうが、その悪辣な意図だけが非難され、結果が公平に評価されることはない。

일제는 식민지 생산력을 높여 더욱 효과적으로 수탈을 할 목적으로 산업 박람회를 열었다. (p. 204)
日帝は植民地生産力を高め、さらに効果的に収奪をする目的で、産業博覧会を開いた。

 土地調査事業も、「日帝の悪辣な収奪」を強調する方向で記述される。総督府の宣伝が虚偽だったというなら、税制が以前より不公正になり、所有権が以前より保護されず、生産力が低下したことを示すべきだろう。代案教科書は具体的な数字をあげ、無申告地として国有地に編入された土地は0.05%だったとしたが、この教科書にはそうした定量的記述が全くない。

조선 총독부는 병합 직후 임시 토지 조사국을 설치한데 이어 1912년에는 '토지 조사령'을 공포하여 본격적으로 토지 조사 사업에 나섰다. 일제는 이 사업이 지세를 공정히 하고, 토지 소유권을 보호하며, 토지의 생산력을 높이는 것이라고 선전하였다 그러나 실제로는 토지 소유권을 새로이 법적으로 확정하여 지세를 안정적으로 확보하는 데 그 목적이 있었다. 또, 토지의 매매와 저당을 자유롭게 함으로써 일본인이 쉽게 토지에 투자할 수 있게 하였다. (p. 156)
朝鮮総督府は併合直後、臨時土地調査局を設置したのに続き、1912年には「土地調査令」を公布して本格的に土地調査事業に乗り出した。日帝はこの事業が地税を公正にし、土地所有権を保護し、土地の生産力を高めるものだと宣伝した。しかし実際には土地所有権をしく法的に確定し、地税を安定的に確保することにその目的があった。また、土地の売買と抵当を自由にすることで日本人がたやすく土地に投資できるようにした。

1918년에 토지 조사 사업이 끝났을 때 사실상 농민의 소유였던 많은 농토와 공공 기관에 속해 있던 토지, 마을 또는 집안의 고유지로 명의상의 주인을 내세우기 어려운 동중ㆍ문중 토지의 상당 부분이 조선 총독부의 소유가 되었다. 이 과정에서 많은 분쟁이 일어났지만, 그 해결은 일제에 유리한 방향으로 진행되었다. 조선 총독부는 이렇게 빼앗을 토지를 동양 척식 주식 회사를 비롯한 식민 회사나 일본인에게 헐값으로 팔아 넘겼다. (p. 156)
1918年に土地調査事業が終わったとき、事実上農民の所有だった多くの農地と公共機関に属していた土地、村または宗族の固有地で名義上の持主を申し立て難い洞中・門中の土地の当部分が朝鮮総督府の所有になった。この過程で多くの紛争が起きたが、その解決は日帝に有利な方向で進行された。朝鮮総督府はこのように奪った土地を、東洋拓殖株式会社をはじめとする植民会社や日本人に安値で売り渡した。

 米の輸出についても、日本が強権を動して米を収奪して行ったかのような書き方になっている。

일제는 모자란 쌀을 조선에서 확보할 목적으로 산미 증식 계획을 세웠다. 토지와 수리 시설, 종자 등의 개량을 통해 식량 생산을 대폭 늘려 일본으로 더 많은 쌀을 가져가고, 우리 나라 농민의 생활도 안정시킨다는 것이 목표였다. 쌀 생산량은 어느 정도 늘어났으나. 원래의 계획대로 추진되지는 못하였다. 반면에, 일본으로 쌀의 반출량은 계속 늘어나 1934년에는 거의 목표량에 가깝게 되었다. 이로 인해 조선 내에서는 식량이 부족하여 만주에서 들여오는 잡곡 등으로 식량을 충당해 갔다. (p. 158)
日帝は足りない米を朝鮮で確保する目的で、産米増殖計画をたてた。土地と水利施設、種子等の改良を通じて食糧生産を大幅に増やし、日本にさらに多くの米を持って行き、わが国の農民の生活も安定させるというのが目標だった。米の生産量はある程度増えたが、本来の計画どおり推進されなかった。反面、日本へ米の搬出量は継続して増え、1934年にはほとんど目標量に近くなった。これによって朝鮮内では食糧が不足し、満州から持ち込んだ雑穀等で食糧を充当して行った。

 植民地としてはあり得ないほどの工業化については、それが奇形的に膨張した軍需工業で、産業間の格差を拡大したことを強調する。一方、それが当時の朝鮮人の生活をどの程度潤し、独立後の南北朝鮮の工業化にどの程度寄与したかはまったく言及されない。

이리하여 일본의 독점 자본은 조선 총독부의 지원을 받으면서 군수 산업에 집중적으로 진출하여 이들 산업이 기형적으로 팽창하였다. 이 시기의 군수 산업은 주로 북부 지방에 집중 배치되었다. 1938년 무렵에는 공업 생상액이 농업 생산액보다 많아질 정도로 공업화가 이루어졌다. 그러나 소비재 생산은 크게 줄어들었다. 일제에 의한 식민지 공업화의 결과, 공업 발전의 지역적 편차는 물론이고, 농업과 공업, 경공업과 중공업 사이의 산업 간 불균형이 깊어졌다. (p. 160)
かくして日本の独占資本は、朝鮮総督府の支援を受けて軍需産業に集中的に進出し、これらの産業が奇形的に膨張した。この時期の軍需産業は、主に北部地方に集中配置された。1938年頃には、工業生上額が農業生産額より多くなる程度に工業化が進んだ。しかし消費財の生産は大きく減った。日帝による植民地工業化の結果、工業展の地域的偏差はもちろん、農業と工業、軽工業と重工業間の産業間不均衡が大きくなった。

 さすがに近代化が起きたこと自体は否定できないが、それらは収奪史観の原則に従ってことごとく否定的に評価される。「日帝強占期、わが社会の変わったもの」という項目では、あらゆる近代化を否定する狂信的カルトのような言い方をしている。

이러한 변화는 모두 긍정적으로 받아들여진 것도 아니었으며, 우리 나라 여러 지역에서 동시에 진행되지도 않았다. 이러한 변화의 이면에는 식민지 백성의 슬픔과 억압, 그리고 분노가 스며 있었다. (p. 224)
このような変化は皆肯定的に受け入れられたのでもなく、わが国の様々な地域で同時に進行したのでもなかった。このような変化の裏には植民地民の悲しみと抑圧、そして憤怒が染み込んでいた。

 この項では「変わり行くソウル」「交通の変化」「女性の生活の変化」「大衆文化の形」が記述されるが、前三者はいずれも否定的な評価で締めくくられる。最後の大衆文化だけは「大衆文化は日本時代に形された」という結論だが、日本時代をるく描いた映画やドラマのヒットの影響かも知れない。

1920년대 말에 전기가 보급되자 서울의 밤거리도 달라졌다. 내온사인이 등장하여 거리를 밝히고 사람들을 유혹하였다. 네온으로 치장한 도시의 상점 진열장은 새로운 유행을 전파하였다. 그러나 이런 풍경 뒤에는 일제하 서민들의 고통스런 생활이 숨겨져 있었다. (p. 224)
1920年代末に電気が普及すると、ソウルの夜の街も変わった。ネオンサインが登場し、通りをるくして人々を誘惑した。ネオンで治粧した都市の商店列場はしい流行を伝えた。しかしこうした風景の背後には、日帝下の庶民たちの苦しい生活が隠されていた。

일제 시기, 택시 등의 자동차가 등장하면서 도심에서는 점차 인력거가 밀려나고, 소를 이용한 수레가 사라져 갔다. 인력거에 매달려 살던 서민들은 자동차의 등장으로 생존권의 위협을 받고, 열차는 꿈과 희망과 동경보다는 식민지 백성의 상처로 남아서 우리들에게 서러움을 심어주었다. (p. 224)
日帝時期、タクシー等の自動車が登場して都心からは次第に人力車が駆逐され、牛を利用した車が消えて行った。人力車に頼って暮した庶民たちは、自動車の登場で生存権の脅威にさらされ、列車は夢と希望と憧憬よりは植民地民衆の傷跡として残り、われわれに悲しみを植え付けた。

여성들의 사회적 활동도 활발해져 갔다. 이러한 생활은 언론과 매스컴을 통해서 더욱 확산되어 갔다. 그러나 모든 여성들에게 적용되었던 것은 아니었다. (p. 225)
女性たちの社会的活動も活になって行った。このような生活は、言論とマスコミを通じてさらに拡散して行った。しかしすべての女性たちに適用されたのではなかった。

感情的表現

 この教科書には、教科書らしからぬエキセントリックで感情的な表現が見られる。慰安婦問題を「最も反倫理的」としたのも、最も感情に訴えやすいからだろう。また女子挺身隊のうち、本来の目的である労働力として徴用されたのはごく一部で、大部分は慰安婦だったと読めるような書き方をしている。

일제가 침략 전쟁을 수행하면서 행한 가장 반인륜적인 범죄 행위는 여성들을 전쟁에 강제 동원한 일이었다. 처음에는 임의로 조선 여성들을 동원하던 일제는 전쟁 막바지에 이르려 "여자 정신 근로령"을 만들고 이를 법제화하였다 (1944). 정신대라는 이름으로 동원된 여성들 가운데 일부는 일본과 조선의 군수 공장에 보내져 강제 노역을 당하였고, 또 다른 여성들은 정장터로 보내져 일본군 "위안부"로 이용되었다. (p. 163)
日帝が侵略戦争を遂行しながら行った最も反倫理的な犯罪行為は、女性たちを戦争に強制動員したことだった。初めには任意に朝鮮女性たちを動員した日帝は、戦争末に至り「女子挺身勤労令」を作ってこれを法制化した(1944)。挺身隊という名で動員された女性たちのうち、一部は日本と朝鮮の軍需工場に送られ強制労役を強いられ、また他の女性たちは戦場に送られ日本軍「慰安婦」として利用された。

 3.1運動の描写では、特に大仰な表現が目立つ。

시위가 있는 곳에는 일본군의 무자비한 살육이 뒤따랐다. 전국 각지의 감옥은 만세 시위로 잡혀 온 사람들로 가득 찼으며 화성 제암리를 비롯한 전국 곳곳에서 일본군의 학살 만행이 자행되었다. (p. 173)
示威がある所には日本軍の無慈悲な殺戮が後に続いた。全国各地の監獄は万歳示威で捕らえられて来た人々で一杯になり、華城堤安里をはじめ全国各地で日本軍の虐殺蛮行が恣行された。

3.1운동, 그 가운데에서도 유관순이 앞장 섰던 아우내 장터 만세 운동은 장렬하였다. 아직도 아우내 삼거리에는 그 날의 울부짖던 함성이 메아리치는 듯 싶다. (p. 180)
3.1 運動、その中でも柳寛順が先頭に立ったアウネ市場の万歳運動は壮烈だった。いまだにアウネの三叉路には、あの日の泣き叫ぶ喊声がこだまするようだ。

 在日朝鮮人や朝鮮語学会事件に対する記述も、いかにも左翼らしいエキセントリックな表現になっている。

그러나 주권을 상실하고 일제의 경제적 수탈이 강화되자 생활 터전을 상실한 많은 농민들이 일본으로 건너가 산업 노동자로 취업하였다. 이들은 열악한 노동 환경에서 일본인 자본가에게 착취당하였으며, 민족 차별로 온갖 수모를 당하였다. (p. 163)
しかし主権を喪失し日帝の経済的収奪が強化されると、生活基盤を喪失した多くの農民たちが日本に渡って産業労働者として就業した。これらは劣悪な労働環境で日本人資本家に搾取され、民族差別であらゆる侮蔑を受けた。

마침내 일제는 내란죄라는 터무니없는 죄를 꾸며 이들을 검사국으로 넘겼다. 재판에 넘겨진 사람들은 언제 열릴지도 모르는 재판을 기다리며 형무소의 고통스러운 생활을 계속해야 했다. 가혹한 고문으로 이운재와 한징은 옥중에서 사망하였다. (p. 230)
ついに日帝は内乱罪という途方もない罪をでっち上げ、これらを監査局に渡した。裁判にかけられた人々は、いつ開かれるとも知れない裁判を待ちながら、刑務所での苦しい生活を続けざるを得なかった。苛酷な拷問で、李允宰と澄は獄中で死亡した。

親日派糾弾

 親日派糾弾は盧武鉉政権の目玉商品だった。そのせいもあってか、この教科書は親日派が現在も存続し、それを憎み続けなければならないことを教えている。

이에 앞서 1940년에는 이미 친일 언론으로 변질된 동아일보, 조선일보마저 강제 폐간하는 등 한글을 사용하는 모든 신문과 잡지를 없애버렸다. (p. 154)
これに先立ち、1940年にはすでに親日言論に変質していた東亜日報・朝鮮日報まで強制廃刊する等、ハングルを使用するすべての聞と雑誌をなくした。

이들 가운데는 일제의 위협을 견디지 못하여 마지못해 이름만 내건 사람도 있었지만, 자발적으로 앞장서 참여한 사람도 많았다. 그러나 그 어느 경우이든 이 같은 친일파의 준동은 우리 민족사의 오욕이자 민족 정신에 씻기 어려운 해악을 끼쳤다. (p. 164)
これらのうちには日帝の脅迫に耐えかねやむをえず名前だけ掲げた人もいたが、自的に率先して参与した人も多かった。しかしどの場合であれこのような親日派の蠢動はわが民族史の汚辱であり、民族精神に容易に拭えない害悪を及ぼした。

친일 활동에는 이광수 등 문인은 물론 교육, 예술, 종교계의 저명 인사와 많은 지식인들이 가담하였다. (p. 229)
親日活動には李光洙等の文人はもちろん、教育・芸術・宗教界の著名人と多くの知識人たちが加わった。

그러나 일제 말기에 이르러 많은 종교 단체와 종교 지도자들이 친일 활동에 적극적으로 나서고, 전시 동원 체제에 참여하였다. 이들은 일제 식민지 정책을 홍보하는 일은 물론이고, 일본군을 위문하거나 위문금 모금 행사를 벌이기도 하였다. (p. 237)
しかし日帝末期に至ると多くの宗教団体と宗教指導者たちが親日活動に積極的に出て、戦時動員体制に参与した。これらは日帝植民地政策を弘報するのはもちろん、日本軍を慰問したり慰問の募行事を開いたりした。

1930년대 후반 일제의 전신 지배 체제가 본격화되자 많은 예술인들이 친일적인 예술 활동에 참여하였는 데, 이는 광복 이후 우리 예술계가 극복해야 할 과제가 되었다. (p. 240)
1930年代後半に日帝の精神支配体制が本格化すると、多くの芸術人たちが親日的な芸術活動に参与したが、これは光復以後わが芸術界が克服すべき課題となった。

植民史観の否定

 植民史観とは日本人による朝鮮史研究のうち国人が気に食わないもののことで、この教科書では「日鮮同祖論」「停滞性論」「党派性論」「他律性論」があげられている。ところが植民史観を正面から否定する根拠は示されず、それが日本人や親日派にどのように利用され、朝鮮社会にどのような悪影響を与えたかに集中している。これでは植民史観を否定する実証的根拠がないのではないかという疑念を学生に与えるだろう。実際その通りで、古代半島に対するの影響がなかったとか、19世紀朝鮮の経済的水準が日本より高かったとか、徳川幕府の党派争いが李氏朝鮮より酷かったとか、中国・モンゴル・満州等の影響がなかったとか実証することは不可能である。いわゆる植民史観の否定とは、民族主義的イデオロギーによって否定するよう要請されているにすぎない。

일선 동조론은 한민족의 독자성을 부정하고 일본의 조선 병합과 식민지 지배를 당연한 일로 받아들이게 하는 데 목적이 있었다. 또한 1930년대 일본이 펼친 내선 일체(內鮮一体)의 근거로 이용되었다. (p. 242)
日鮮同祖論は民族の独自性を否定し、日本の朝鮮併合と植民地支配を当然のことと受け入れさせることに目的があった。また1930年代に日本が掲げた内鮮一体の根拠に利用された。

이러한 주장은 우리 나라의 근대화를 위해서는 일본의 역할이 필요하다는 침략 미화론으로 이어졌다. (p. 242)
このような主張[停滞性論]は、わが国の近代化のためには日本の役割が必要だという侵略美化論につながった。

아직까지도 우리 사회의 일각에서는 조선 왕조가 당쟁으로 망했다든가 우리 민족은 파쟁 의식이 심하다는 주장을 당연하게 받아들이는 경우를 많이 볼 수 있다. (p. 243)
いまだにわが社会の一角では、朝鮮王朝が党争で亡びたとか、わが民族は派争意識が甚だしいという主張を当然のものと受け入れる場合が多く見られる。

타율성론은 한민족의 성향이 적극적이고 자율적이 아니라 수동적이고 타율적이라고 몰아세우는 것이었다. 이를 통해 우리 민족이 제국주의 시대에 일본의 지배를 받는 것은 당연하다는 논리를 내세우려는 데 목적이 있었다. (p. 243)
他律性論は、民族の性向が積極的・自律的ではなく受動的・他律的だと非難するものだった。これを通じて、わが民族が帝国主義時代に日本の支配を受けるのは当然という論理をたてようとすることに目的があった。

代案教科書・国近現代史

교과서포럼 지음, 대안 교과서 한국 근ㆍ현대사, 기파랑, 2008.

 代案教科書は星出版社版をはじめとする近現代史教科書の親北左派史観に危機感を抱いた右翼(ニューライト)が2008年3月に出版したもので、検定を通過した正式の教科書ではない。この教科書の柱のひとつは脱民族主義で、このため日本時代の暗両面とも評価する植民地近代化論に立っている。これは国社会の基準からいえば、直ちに親日売国奴という非難を買うことになる。実際出版直後の社説では、ハンギョレや京郷聞等の左派媒体に加え、中道派の中央日報も親日的として非難した。ただし保守派の朝鮮日報や東亜日報は、植民地近代化論は置いて北朝鮮礼賛が正されたことの方を評価し、支持を表した。
 なお、2013年2月に大統領に就任した朴槿惠は、本書の出版記念会で「この本の出版こそ最も重要な意味があり、後日それ自体でもう一つの歴史と記録されると思う」「われわれが一層誇らしくしい大民国の歴史を作っていくのに、この本が大きな土台になるだろう」と支持を表した(聯合ニュース 2008年5月26日付)。したがって彼女が言う「正しい歴史認識」には、ニューライト的な親日史観が含まれると考えざるを得ない。
 責任編集者の李榮薰は植民地近代化論の代表走者として活躍中で、『大民国の物語』は文藝春秋から翻訳が出ている。これは朴枝香・一榮・哲・李榮薰編『解放前後史の再認識』の解説書だが、その『再認識』に寄稿した著者のうち一榮・暎浩・全仁・朱益鍾は代案教科書の執筆にも参加している。代案教科書の執筆陣は次の通り。

이영훈(ソウル大学校経済学部教授)
김재호(全南大学校経済学部教授)
김용직(誠信女子大学校政治外交学科教授)
주익종(落星垈経済研究所研究委員)
김일영(均館大学校政治外交学科教授)
김영호(誠信女子大学校政治外交学科教授)
김광동(ナラ政策研究院院長)
김세중(延世大学校国際関係学科教授)
김종석(弘益大学校経営学科教授)
전상인(ソウル大学校環境大学院教授)
박호종(ソウル大学校倫理教育科教授)
김영환(『時代精神』編集委員)

閔妃批判

 この教科書は閔妃を、死後追尊された「皇后」ではなく「閔王后」と表記している。さらに次の尹致昊からの引用は、皇后ファンを激昂させるだろう。

1894년 8월 7일 윤치호는 영문 일기에서 민왕후에 대해 다음과 같이 적었다. "그녀의 집권기에 걸쳐 그녀의 신조는 '무슨 일이 일어나도 좋다. 우리 세 사람만 안전하다면야' 였다. 세 사람은 왕과 왕후와 왕자였다. 이 지독한 이기주의는 그에 마땅한 파멸을 몰고 왔다." (p. 34)
1894年8月7日、尹致昊は英文日記で閔王后に対して次のように書いた。「彼女の執権期にわたって彼女の信条は‘どんなことが起こっても良い。われわれ三人だけ安全なら’だった。三人とは王と王后と王子である。この至毒な利己主義は、彼女にふさわしい破滅をもたらした。」

甲申政変への評価

 甲申政変(1884)は玉均ら急進開化派が日本の支援を受けクーデターを起こし、軍の介入で失敗した事件で、国では日本の侵略を促進したと非難する見方が多い。このような視点に対しては、次のように批判している。

반면에 갑신정변을 저평가하면서 그 주역들에게 식민지화의 책임까지 묻는 것은 1880년대 당시 한국을 반식민지 처지로 내몬 것이 일본이 아니라 청이었다는 사실을 외면하는 문제점을 안고 있다. (p. 40)
一方で甲申政変を低く評価し、その主役たちに植民地化の責任まで問うのは、1880年代当時国を半植民地に追い込んだのが日本ではなくだったという事実を無視する問題点を抱えている。

下関条約の意義

 この教科書は、朝鮮がから独立できたのは日戦争での日本の勝利によることを記している。実態はの支配から日本の支配に移っただけであることを注記してはいるが、言及すらない他の教科書とは大きな違いである。

청의 패배로 1895년 4월에 체결된 시모노세키(下關)강화조약은 한국이 '완전 무결한 독립자주국' 임을 확인하고, '독립자주'를 손상시키는 청에 대한 조공과 사대 관계를 폐지하도록 규정하였다. 이로써 한국에 대한 청의 종주권은 완전히 폐기되었다. 이 점에서 청일전쟁은 개항 이후에도 청이 유지하고자 했던 동아시아의 전통적 국제질서인 조공체제를 최종적으로 해체하였다. 그렇지만, 한국의 '독립자주'는 청에 대해서만 의미를 가졌다. 청일전쟁 이후 한국은 청을 대신한 일본의 지배하에 들어갔다. (p. 47)
の敗北で1895年4月に締結された下関講和条約は、国が「完全無欠な独立自主国」であることを確認し、「独立自主」を損うに対する朝貢と事大関係を廃止するよう規定した。こうして国に対するの宗主権は完全に廃棄された。この点で、日戦争は開港以後にもが維持しようとした東アジアの伝統的国際秩序である朝貢体制を最終的に解体した。しかし国の「独立自主」は、に対してのみ意味を持った。日戦争以後国は、に代わった日本の支配下に入って行った。

伊藤博文暗殺の影響

 この教科書は、伊藤博文がもともと朝鮮併合に反対だったこと、最終的に賛に転じたとはいえその暗殺が併合推進派を勢いづかせたことを記し、暗殺が併合の時期を早めたことを示唆している。ちなみに「強占」ではなく「併合」で一貫しているところも、この教科書が親日的という非難を買う一因である。

1906년 대한제국 초대 통감으로 부임하였다. 한국을 일본의 보호국으로 두자는 입장을 취했지만, 1909년 4월 통감 사퇴 직전 한국병합 방침에 찬성하였다 (p. 66)
1906年大帝国初代統監として赴任した。国を日本の保護国として置こうという立場を取ったが、1909年4月の統監辞退直前に韓国併合方針に賛した。

이후 통감을 사퇴한 이토는 1909년 10월 하얼빈(哈爾濱)에서 동양 평화의 대의를 저버린 죄를 묻는 안중근(安重根)에서 피살되었다. 이후 병합론은 더욱 강화되어 1910년 6월에 도쿄에서 일본 정부와 통감부의 인물로 병합준비위원회가 발족하였다. (pp. 76-77)
以後統監を辞退した伊籐は、1909年10月ハルビン(哈爾濱)で東洋平和の大義を損ねた罪を問う安重根に被殺された。以後併合論はさらに強化され、1910年6月に東京で日本政府と統監府の人物からる併合準備委員会が足した。

植民地時代の評価

 植民地近代化論は植民地期の暗両面とも評価しようというものだが、従来の教科書と異なるのは肯定的評価の方であり、そちらが強調される傾向が見られる。

일제의 한국 지배는 한국인의 정치적 권리를 부정한 폭력적 억압 체제였다. 국내외의 한국인들은 불굴의 투쟁으로 독립의 권리를 끝내 쟁취하였다. 그 시기는 억압과 투쟁의 역사 만은아니었다. 근대 문명을 학습하고 실천함으로써 근대국민국가를 세울 수 있는 '사회적 능력'이 두텁게 축적되는 시기이기도 하였다 (p. 78)
日帝の国支配は、国人の政治的権利を否定した暴力的抑圧体制だった。国内外の国人たちは不屈の闘争で独立の権利をついに勝ち取った。その時期は抑圧と闘争の歴史だけではなかった。近代文を学習し実践することで、近代国民国家を建設し得る「社会的能力」が厚く蓄積された時期でもあった。

土地調査事業

 李榮薰らの実証的研究は、従来国で信じられて来た「日帝の悪辣な土地収奪」の神話を鮮やかに粉砕してみせた。教育当局は、国史教科書から「土地調査事業によって不法に奪取された土地は全国土の約40%にもなった」という記述をしぶしぶ削除した。しかし現行教科書が収奪史観に拘泥しているのは、上に見たとおりである。これに対し代案教科書は、具体的な数値をあげて収奪史観への挑戦を続けている。

토지조사사업에 의해 소유권이 사정된 토지는 전국적으로 총 1,910만 7,520필지에 달했다. 그 가운데 소유지의 신고대로 소유권이 사정된 것이 1,900만 1,054필지로 99.5%의 절대다수를 차지했다. 그 반면에 무신고지로 국유지로 편입된 것은 주로 분묘지나 잡종지였는데, 도합 8.94필지 (0.05%) 에 불과하였다. 총독부가 신고가 무엇인지도 모르는 한국 농민에게 신고를 강요하고, 전체 토지의 40%에 달하는 무신고지가 발생하자 국유지로 몰수했다는 기존의 주장은 원래부터 근거가 없는 것이었다. (p. 85)
土地調査事業によって所有権が事情された土地は、全国で総計1,910万7,520筆地に達した。そのうち所有地の申告どおり所有権が査定されたものが1,900万1,054筆地で、99.5%の絶対多数を占めた。その一方で無申告地として国有地に編入されたものは、主に墳墓地や雑種地だったが、合計8,944筆地(0.05%)に過ぎなかった。総督府が申告が何かも知らない国農民に申告を強要し、全体の40%に達する無申告地が生すると国有地として没収したという既存の主張は、来から根拠がないものだった。

米の輸出

 米の輸出についても具体的な数値をあげ、「日帝が増産分以上の米を奪って行った」とする従来の教科書と真っ向から対立している。また、一人当たり米消費量の減少を収奪の根拠とする見方を否定している。

증산된 쌀의 상당 부분은 일본으로 수출되었다. 1910년대 후반에 비해 1930년대 연평균 쌀 생산량은 700만 석가량 증가했는데, 그 가운데 500만 석이 일본으로 수출되었다. (p. 87)
増産された米の当部分は、日本に輸出された。1910年代後半に比べ1930年代の年平均米生産量は700万石仮量増加したが、そのうち570万石が日本に輸出された。

식민지 시기에 한국인의 생활수준이 일제의 수탈로 극도로 열악해졌다고 보는 것이 종래의 통설이었다. 예컨대 생산된 쌀의 절반을 일본에 빼앗고 한국인은 초근목피 (草根木皮) 의 비참한 생활을 강요당했다는 것이다. 이 같은 수탈론에는 실증적인 근거가 확실하지 않다는 문제점이 있다. 쌀은 일본에 수탈된 것이 아니라 경제 논리에 따라 일본으로 수출되었으며, 그에 따라 일본인을 포함한 한반도 전체의 소득은 증가하였다 쌀을 대신해서 만주에서 조와 콩이 대용식품으로 수입되었다. 쌀의 1인당 소비가 감소한 것은 사실이지만, 잡곡 등 대용식품과 기타 가공식품을 종합적으로 고려할 때, 1인당 열량 섭취가 줄어들었다고는 단언할 수 없다. 생활비 가운데 식료품비의 비중을 나타내는 엥겔계수도 하락하여 사람들의 생활수준이 개선되었음을 시사하고 있다. 1890~1920년대에 태어난 한국인들의 키가 1~2cm 커진 것도 생활수준의 개선을 의미한다. (p. 98)
植民地時期に国人の生活水準が日帝の収奪で極度に劣悪になったと見るのが、従来の通説だった。例えば生産された米の折半を日本に奪われ、国人は草根木皮の惨めな生活を強要されたといったものである。このような収奪論には、実証的な根拠が確実でないという問題点がある。米は日本に収奪されたのではなく、経済論理によって日本に輸出され、それによって日本人を包む半島全体の所得は増加した。米の代りに満州から粟と豆が代用食品として輸入された。米の1人当り消費が減少したのは事実だが、雑穀等の代用食品とその他の加工食品を総合的に考慮するとき、1人当り熱量摂取が減ったとは断言できない。生活費のうち食料品費の比重を表すエンゲル係数も下落し、人々の生活水準が改善したことを示唆している。1890~1920年代に生まれた国人たちの背が1~2cm大きくなったことも、生活水準の改善を意味する。

人口の増加

 日本時代の人口増加は生活水準の向上を連想させるためか、他の教科書ではほとんど取り上げられることはない。この教科書では、総督府の保健政策の効果を正当に評価している。

불과 30년 사이에 인구가 50% 넘게 증가한 것은 공중보건과 의료 개선으로 사망률이 낮아졌기 때문이다. 특히 유아사망률이 크기 낮아졌다. 전통시대에는 홍역ㆍ 콜레라ㆍ 천연두 등의 전염병이 유행했고, 이것이 기근과 더불어 인구의 증가를 억제하였다. 총독부는 보건위생 업무를 경찰 소관으로 하여 식수와 음식 등 오염원을 관리하고 예방접종에 힘을 써, 전염병의 발생과 전파를 막았다. (p. 95)
わずか30年の間に人口が50%を超えて増加したのは、公衆保健と医療の改善で死亡率が低下したためである。特に乳児死亡率が大きく低下した。伝統時代には紅疫病・コレラ・天然痘等の伝染病が流行し、これが飢饉とまって人口の増加を抑制した。総督府は保健生業務を警察の所管とし、食水と飲食等の汚染源を管理して防接種に力を入れ、伝染病の生と伝播を防いだ。

植民地工業化

 欧米の植民地ではあり得ない高度の工業化に対しても、軍需工業だとか不均衡展だとかいちいち因縁をつけることなく、淡々と記述している。

식민지 한국은 서양 제국주의가 지배한 다른 식민지와 달리 농업 식민지로 고착되지 않고 1920년대 이후 공업이 상당한 수준으로 발전하는 특징을 보였다. 그것은 한국과 일본이 지리적으로 매우 가까워 두 시장이 밀접히 통합된 가운데 일본의 과잉자본이 한국으로 건너와 공업에 투자되었기 때문이다. (p. 97)
植民地国は、西洋帝国主義が支配した他の植民地とは異なり農業植民地に固着せず、1920年代以後工業が当な水準に展する特徴を見せた。それは国と日本が地理的にきわめて近く、両市場が密接に統合される中で、日本の過剰資本が国に渡って来て工業に投資されたためである。

日本方式の評価

 この他にも日本時代の変化を肯定的に評価している箇所がいくつかあり、反日国人の憤怒を買っている。

조선왕조의 임야정책은 공유(公有)의 명분을 내세워 사유림을 인정하지 않았는데, 임야의 사적 관리주체가 없어 산림이 황폐해지는 부작용이 있었다. 이와 달리 총독부의 임야정책은 임야의 사적 관리주체를 창출하여 삼림녹화를 추진하는 방향으로 시행되었다. (p. 86)
朝鮮王朝の林野政策は、公有の名分を掲げ私有林を認めなかったため、林野の私的管理主体がなく山林が荒廃する副作用があった。これと異なり総督府の林野政策は、林野の私的管理主体を創出し森林緑化を推進する方向で施行された。

한국인 지주는 소작농의 관리를 마름에게 맡겨 두고 농사에 적극 관여하지 않는 자들이 많았다. 그에 비해 일본인 지주는 쌀의 생산과 유통 과정을 세밀하게 관리하고 통제하였다. (p. 101)
国人地主は小作農の管理を管理人に任せっ放しで、農業に積極関与しない者が多かった。それに比べ日本人地主は、米の生産と流通過程を細密に管理・統制した。

이처럼 한국인에게 가해진 새로운 규율은 일제의 식민지 지배를 위한 것들이지만, 근대사회의 규율로서 한국인의 일상생활과 정신문화에 점차 내면화되어 갔다. (p. 104)
このように国人に加えられたしい規律は、日帝の植民地支配のためのものだったが、近代社会の規律として国人の日常生活と精神文化に徐々に内面化されて行った。

従軍慰安婦

 他の教科書はなるべく従軍慰安婦と女子挺身隊を混同させたいようだが、この教科書はそれらを峻別することを要求している。

해방 후 한국에서는 이 정신대를 일본군의 위안부로 혼동해 왔는데, 이 둘은 정확하게 구분할 필요가 있다. (p. 92)
解放後国ではこの挺身隊を日本軍の慰安婦と混同して来たが、このふたつは正確に区分する必要がある。

 また本文では慰安婦を奴隷労働と規定して日本を非難しているが、資料として「女衒からを受け取った」という証言を含む日本軍捕虜尋問資料49号(1944)を掲載している。これは慰安婦の強制連行を否定する意図があるらしい。

1942년 5월 상순 일본인 대리업자가 '위봉사'를 시킬 한국인 여성을 모집할 목적으로 한국에 도착했다. 이 대리업자가 여인들에게 제시한 것은 큰 돈벌이, 가족의 빚 갚기, 쉬운 일, 신천지 싱가포르에서의 새로운 삶 등이었다. 이러한 꾐에 빠져 많은 여성이 해외 취업에 지원하고, 몇 백 엔의 전대금을 받았다. 이들은 대부분 무지했고 교육을 받지 못한 여성이었다 (p. 92)
1942年5月上旬、日本人代理業者が「慰安奉仕」をさせる国人女性を募集する目的で国に到着した。この代理業者が女性たちに提示したのは高額の給与、家族の借返済、簡単な仕事、天地シンガポールでのしい生活等だった。このような誘いに乗って多くの女性が海外就業に志願し、何百円かの前貸を受けた。これらは大部分無知で教育を受けられなかった女性だった。

 原文は次の箇所にある。翻訳はおおむね正確である。

http://www.exordio.com/1939-1945/codex/Documentos/report-49-USA-orig.html

UNITED STATES OFFICE OF WAR INFORMATION
Psychological Warfare Team, Report No. 49.
Place interrogated: Ledo Stockade
Date Interrogated: Aug. 20 - Sept. 10, 1944

Early in May of 1942 Japanese agents arrived in Korea for the purpose of enlisting Korean girls for "comfort service" in newly conquered Japanese territories in Southeast Asia. ... The inducement used by these agents was plenty of money, an opportunity to pay off the family debts, easy work, and the prospect of a new life in a new land, Singapore. On the basis of these false representations many girls enlisted for overseas duty and were rewarded with an advance of a few hundred yen. The majority of the girls were ignorant and uneducated, ...


http://www7.plala.or.jp/juraian/ktextbook.htm