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高句麗 二人の王

8.高句麗 二人の王
広開土大王
前37年に朱蒙(ジュモン)が高句麗を建国して以来ずっと高句麗は広い領土を保っていたが、百済の近肖古(クンチョゴ)王が強力な軍事力で攻撃して来ると防戦に終始する。371年には百済の攻撃で黄海道地方を奪われ、この時の戦闘で高句麗の故国原(ゴグックウォン)王は戦死する。
それから4年後に生まれた談徳(タンドック=公開土王)は幼い時から祖父の死に対し復讐を誓っていたという。彼は生まれついての勇猛さと智恵深さで庶民たちの大きな期待を受けて育ち、391年に王位に就く。広開土(クァンケド)王と呼ばれるのは彼の死後に長寿(チャンス)王が碑石に「国岡上公開土境平安好太王」と刻んだ為だ。これは、国の領土を広げ庶民を平安にしたと言う意味である。

広開土王は常日頃から臣下たちと国事を論じる度に「我々は檀君の子孫だ。だから我々は檀君の時代・古朝鮮の昔の領土を取り戻し、我が民族の優秀性を世の中に知らせなければならない」と言った。
広開土王は、まず祖父の復讐をするとともに今後再び高句麗を攻撃して来ることのない様にとの思いで百済を攻撃した。広開土王が百済を攻撃するもう一つの理由は、(古朝鮮の領土回復の為)中国を攻める前に半島での高句麗の地位を確立しておく目的があった。

当時の中国はが滅亡し五胡(匈奴、、、羌、鮮卑)の五民族が建てた16の国々が次々に代わる代わる生まれ、政治は安定せず世上は不安を極めていた。
 これを好機と考えた広開土王は百済の10余城を奪った後、軍馬を中国に向け契丹の一部族を平定し数百の村を占領した。
その間に百済は高句麗に奪われた江以北の地を取り戻そうと、改めて高句麗への攻撃を始めた。百済が引き続き攻撃して来ると知ると、広開土王は396年、大々的な攻撃を敢行して江以南の58個城と700余個の村を占領し、当時の百済の首都である城に攻め込んだ。

百済の阿(アシン)王は、慌てて直接広開土王の前に出て膝を屈し「我が百済は今後永遠に高句麗の奴客になります」として、男女1千人と細布千反を送った。男女1千人の中には王の弟や大臣10人が含まれていた。
広開土王は百済がこれ以上高句麗に攻撃して来ないことを確認した上で、奪った江以南の領土を戻してやり江以北のみを高句麗の領土とした。これにより臨津江(イムジンガング)以北は完全に高句麗が掌握した事となった。広開土王の野望はここで留まらず、すかさず中国の北を攻めその地に46万の高句麗人を移住させた。

こうした高句麗の動きを警戒したのが中国の後燕であった。後燕は、高句麗が引き続き勢力を伸ばすことに不安を覚え、広開土王が羅を攻撃する隙に高句麗を攻撃してきた。すると広開土王は、すかさず河をえて後燕に攻め入り宿軍城を陥落させた。これにより高句麗の領土は、南は江、東は沿海州、北は黒竜江、西は内モンゴルと中国東国地方を横に見るところまでに広がり、朝鮮民族史上最も広い領土を支配することとなった。高句麗最大の征服君主である広開土王は、古朝鮮の領土を取り戻したが39歳の若さで急逝してしまう。

《5世紀の高句麗の領土》

長寿王
広開土王の後を継いだ長男の巨連(コヨン)は、高句麗の第20代・長寿(チャンス)王となり、この時再び高句麗は長期を迎える。
長寿王は472年に首都を国内城から平壌城に移し、強力な南化政策を始める。彼は道林(ドリム)と言う僧を百済に送り揺さぶりをかける。道林は百済の蓋鹵(ケロ)王に会うと「私は高句麗から来ました道林と申します。長寿王とは碁を共にする間柄でしたが、いつも勝ち続けましたところ私を殺そうするので逃げてきました。」と述べる。
話を聞いた蓋鹵王は道林を自分のそばに置き、毎日の様に共に碁を打つ様になった。そして次第に二人は親しくなり、碁を打ちながら様々な話をするようになる。そんなある日道林が「百済は国のり立ちに比べ宮殿や城、堤防などが粗末です。」と言うと、それを真に受けた蓋鹵王は無理な工事を命じるが、それにより国力が弱体してしまうのだった。
道林が高句麗に戻りこの事を長寿王に告げると、長寿王は軍を率いて百済の首都である城(現在のソウル)を陥落し蓋鹵王を殺した。そしてそればかりか羅も攻撃し高句麗の領土を最大限に広げた。
 
国の内外を整備した長寿王は先王である広開土王の業績を称えようと碑石を建てた。
この碑は1882年になって見されるが、これを見した日本人が一部の文字を削り取り内容を歪曲してしまった。この歪曲された部分は4世紀末から5世紀にかけての軍との戦闘で何度か破れたとする部分である。

以辛卯年来渡海破百残○○○羅以為臣民

これを削り取ることで日本人は「日本が辛卯年(391年)に海をえて来て百済と羅を破り臣民とした」と解釈したが、19世紀末から20世紀前半にかけての日本の侵略を正当化する為の文化遺産への破壊行為であった。

広開土王碑
広開土王の業績を称える為に長寿王が414年に建てた碑石で、当時の高句麗の国勢を物語るように巨大な規模を誇っている。満州(現在の地中国吉林省)輯安県通溝にあり、高さ6.39mの自然石に1700余字の碑文が刻まれている。4面に文字を刻むのは高句麗の独特の様式で、勇壮な文字からは当時の高句麗の文化水準の高さを示している。