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高句麗・・・魏書高句麗伝の世界

高句麗・・・魏書高句麗伝の世界

高句麗は朝鮮半島の三国の内、他の百済、羅両国に比べて最もその建国が古い。
また、後の百済、羅の地が三世紀頃は馬と辰、弁辰であるが、この馬、辰、弁辰が伝として一纏めに説明されているのに対し、高句麗は単独に高句麗伝として詳しく説明されている。

「広さは二千里四方、戸数三万。大山と深谷多く、平原や湿地は無い。人々は谷に沿って居を構え,澗水をのむ。良い田はなく、いくら耕作しても口腹を満たすには不足である」「その人性は凶悪で略奪を喜んで行う」
「国人は気力があり、戦闘に慣れていて、沃沮や東濊は皆支配下にある」
「王がいる。官は九の等級がある」
「昔から扶餘の別種と言われており、言語や様々なことは扶餘と同じであるが気性や衣服に違いがある」

広さは二千里四方で扶餘と同じであるが、人口は三万戸と少ない。
扶餘が平原地が多かったのに対し、高句麗は山と深谷が多かったため農地が少なく農業生産効率も悪い。いくら耕作しても民の口腹を満すには足りなかった。
そのため、人口も扶餘のように増えなかったことが想像される。
食料が常に不足すれば人間何をやるか。生きる為に人のものを盗る。略奪をおこない最悪の場合は人も殺す。これは国の東西を問わず皆同じである。
北欧のバイキングが他国を侵略して荒らし回り、或いは、征服して建国したのも寒冷地で十分な作物が出来なかったからである。
日本においても、戦国時代の大名や武将は、飢饉で米が足りなくなると他人の領地に侵入して略奪し、人を捕まえ奴婢として売り飛ばした。
戦争における略奪や捕虜の人身売買は万国共通である。
高句麗も、食料不足の為、他領に侵入して略奪をおこなった。故に「その人性は凶悪で略奪を喜んでおこなう」のである。
この書の記述は三世紀初めのころであるが、この頃、高句麗は山の渓谷沿いに家が建つ至って貧しい国であった。
自力で民を養う農業生産力もなかったので他国に侵入し、略奪し領土を広げた。
度重なる軍事行動によりその軍隊は強く、その後200年も経たないうちに朝鮮半島の半分以上もその支配下に置いた。4世紀末、広開土王の頃のことである。
しかし、この3世紀初めには、自分の民も満足に養えないほどの貧しい国であった。

高句麗には扶餘と同じく王がいて、その下に九官があり、これは扶餘より若干の官僚機構の進歩が見られる。
また、言語や様々なことが扶餘と同じであるのは、昔から扶餘の別種と言われていることから当然であり、平地と山岳地帯の気候や生活条件が違えば、気性や衣服に違いがあるのは当たり前のことと言えよう。

(8~23年)の王莽は、句麗侯(この頃は王ではなく侯である。つまりこの頃、高句麗は中国の侯国であった)を殺し、国名を下句麗とした。

の光武帝の8年(32年)高句麗王は初めて使者を遣わして朝貢した。
このとき、初めて対外的に王と称したのである。

殤帝と安帝の間(106~107年)高句麗王の宮は数度にわたり東を寇し、玄菟郡に属した。
東太守、風と玄菟太守の姚光は、宮を討とうとしたが、宮は偽って降伏し、密かに玄菟郡を攻め、侯城を焼き、遂に入って官吏や住民を殺した。
宮は又、東に侵入したので風はこれを討ったが敗死した。

順帝と桓帝の間(147年頃)宮の子、伯固が又、東に侵入して安、居郷を略奪し、西安平を攻め、道上で帯方令を殺し、楽浪太守の妻子を捕った。
霊帝の建寧二年(169年)玄菟太守の耿臨は之を討ち捕虜の首を数百級切った。
伯固は降伏して東郡に属すことを乞うた。嘉平年間(172~177年)に、今度は玄菟郡に属すことを乞うた。

伯固が死に、抜奇、伊夷模の兄弟のうち弟の伊夷模が王となる。
建安中(196~219年)公孫康は高句麗を討ち邑落を焼いた。従っていた胡も叛いたので伊夷模はしい国を作った。今あるのはこれである。
伊夷模は又、玄菟郡を襲い、玄菟郡と東郡は合同してこれを大いに破った。

伊夷模の死後、位宮が王となった。今の高句麗王、宮がこれである。
景初二年(238年)大尉の司馬宣王が公孫淵を討ったとき、宮は数千人を派遣してこれを助けた。
正始三年(242年)宮は西安平を略奪した。

ざっとかいつまんで要点のみを書きだしてみたが、これから一体何が読み取れるだろうか。
三世紀中盤に差し掛かるころまでの外征の多さであろう。
東郡或いは玄菟郡に属していながら、片方に郡に侵入して城を焼き、略奪をおこなう。
或いは捕虜をとる。
この所業はまるで山賊である。
もし、普通の国であるならば、侵略の目的は領土である。隣接する国に侵入し、領土と領民を奪い、そこに行政機関をおいて管理する。
ところが、これまでの高句麗はただ侵略して物や人を略奪するだけで、目的を達すれば引きあげる。
4世紀末頃のように領土の拡大を図るのは、この志高句麗伝の書かれた後のことで、これ以前、三世紀初頭までも高句麗は、表面上はに属しながら度々玄菟郡や東郡に侵入して略奪を繰り返し、その都度公孫氏からの討伐を受けている。

近隣を略奪すれば、当然、から討伐を受けることはわかっている。それでも略奪を止めることが出来なかったのは何故だろう。
その理由はただ一つ、貧しかったからである。
食料が不足し、物資が欠乏していたから領民を飢えさせない為には略奪してそれらのものを得るしか生きる方法がなかったのである。
中国東北部の貧しい国、そして、そのをたどれば中国から逃げてきた人の建てた国である。
後に領土を拡大して中国東北部から朝鮮半島北半分まで己が領土となすに至ったが、それはこの書高句麗伝の書かれた後のことで、この卑弥呼の時代は、朝鮮とは何の関係も無い中国東北部の貧しい一小国にすぎなかった。
これが現在、国国民が最大の誇りとしている高句麗の真の姿である。
朝鮮人の建てた国でもなく、彼らが誇り、自慢できるような国でもなかったのである。

この点、中国が高句麗は中国の国であったというのは全く正しい。
中国と国の高句麗論争は中国に軍配があがる。