魯
魯(読み)ろ(英語表記)Lu
漢字項目魯 Lǔ
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翻訳|Lu
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
中国,周代の諸侯国の一つ (前 1055~249) で,山東省の曲阜 (きょくふ) に都した。周の武王の弟の周公旦が封じられたのに始るが,任地の曲阜におもむいて魯侯となったのは,その子の伯禽 (はくきん) で,その地の統治には多くの労苦があったという。以後 34代 800年あまり続いたが,初期の状況については伝説的要素がほとんどであり,不明な点が多い。春秋時代の 14代隠公から 25代哀公までのことは孔子が編集したという『春秋』やその注釈書の『左伝』に詳しい。国内では春秋時代初期の桓公の子の三桓氏が代々交互に権力を握り,君主の廃立さえ行い,前6世紀後半の昭公は三桓氏に敗れて国外に逃亡し,帰国できないまま亡くなったという例もある。対外的には斉,晋,楚の3強国の勢力にまったく左右されていた。戦国時代にはますます弱小国になり,最後の頃公 (けいこう) が頃公 25 (前 249) 年に楚の考烈王に滅ぼされた。周王の権力が低下した春秋時代に周の文化や制度を保持し続けた国として知られる。
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デジタル大辞泉の解説
中国、春秋時代の列国の一。周の武王の弟、周公旦が曲阜(きょくふ)(山東省)に封ぜられたのに始まる。春秋時代、大国の間にあって国勢は振るわなかったが、周の文化を最もよく伝えた。前249年、楚に滅ぼされた。孔子の生国。
[人名用漢字] [音]ロ(漢)
1 間が抜けている。「魯鈍」
2 古代中国の列国の一。「魯論」
[難読]普魯西(プロシア)・魯西亜(ロシア)
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百科事典マイペディアの解説
中国,周代の諸侯国。山東の曲阜(きょくふ)を都とし,周公を始祖とする。周の伝統ある文物や制度を伝え,その年代記として《春秋》が編纂(へんさん)された。孔子も,ここに生まれた。しかし国勢は振るわず,前249年楚のために滅ぼされた。
→関連項目春秋戦国時代|武王
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世界大百科事典 第2版の解説
中国,古代の侯国。?‐前249年。周武王の弟で,周王朝創設の大功臣周公旦を始祖とする。山東省曲阜(きよくふ)に都をおく。春秋時代には12の有力諸侯の一つにかぞえられていたが,斉,晋,楚などの圧迫を受け,国内的には第15代桓公から出た孟孫,叔孫,季孫の3氏が政治を壟断(ろうだん),軍制,租税徴収なども掌握し,公室は衰え,戦国時代には小国に転落,前249年楚に滅ぼされた。春秋末の孔子はこの国の人であるが,彼が編したといわれる《春秋》によって,各諸侯国中,歴代君侯の在位年数が伝えられる唯一の国で,古代史構成上重要な国である。
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
中国、周代の諸侯国の一つ。姫姓。周の武王の弟で、周王朝創建の大功臣である周公旦(しゅうこうたん)が曲阜(きょくふ)(山東省曲阜県)周辺の地に封ぜられたのに始まる。ただし、周公旦は都にとどまって周王を補佐し、長子の伯禽(はくきん)が封地に赴いた。その地はもと東夷(とうい)の地であり、最初は統治に苦心したといわれる。春秋時代には、斉(せい)、晋(しん)、楚(そ)などの強国の圧迫を受けて国は振るわず、とくに、その後期になると、その君主であった桓(かん)公の子孫の孟孫(もうそん)氏、叔孫(しゅくそん)氏、季孫(きそん)氏のいわゆる三桓氏が国の実権を握って公室を三分し、ついには季孫氏の臣下の陽虎(ようこ)に実権を奪われるありさまであった。その後、孔子が君権の回復を図ったが失敗し、戦国時代には国はますます衰え、紀元前249年、楚に滅ぼされた。春秋時代、周の王室が衰えて以後、魯は周の文化をもっともよく伝える国であった。そのような国に生まれた孔子は、周公の理想政治を回復しようとして果たせなかったが、その政治思想は諸国に散らばった弟子によって伝えられ、後世中国の歴史に絶大な影響を与えた。
[江村治樹]
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精選版 日本国語大辞典の解説
[一] 中国、周代の侯国。前一一世紀ごろ成立。始祖は周の武王の弟周公旦。都城は曲阜。建国以来、内紛が多く、国勢はふるわなかったが、周の伝統文化を伝えた。前二四九年、楚に滅ぼされた。孔子の生国で、儒家の中心地。
[二] 「ロシア」のあて字「魯西亜」の略。
※匏菴十種(1869)〈栗本鋤雲〉鉛筆紀聞「英に商多く魯に工多く仏に農多し」
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旺文社世界史事典 三訂版の解説
?〜前249
周代に山東省にあった国
前12世紀に周の武王の弟である周公旦 (しゆうこうたん) が建国し,曲阜 (きよくふ) を都とした。大国の間にはさまれて国勢は奮わなかったが,周の礼教文化を最もよく伝えた国として誇りをもち,孔子はこの国に生まれた。34代続いたが,前249年楚 (そ) の孝烈 (こうれつ) 王に滅ぼされた。その歴史は『春秋』に見られる。
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世界大百科事典内の魯の言及
【山東[省]】より
…人口8738万(1996)。泰山,魯山,蒙山などから成る山地(魯中・魯南山地),山東半島と周囲の平地を省域とする。北は黄河下流の沖積平野を広く含んで河北と接し,西も黄河に沿って銅瓦廂の屈曲点までを含んで河南と接するが,南は魯南山地の山麓部で江蘇省,安徽省と接する。…
[魯(前11C~前256)]
⇒西周,東周,春秋,戦国,魯,斉,晋,秦,楚,宋,衛,陳,蔡,曹,鄭,燕,呉,越,趙,魏,韓
魯公(伯禽)-考公(酋)-煬公(煕)-幽公(宰)-魏公(ヒ)-厲公(擢)-献公(具)-真公(濞)-武公(敖)-懿公(戯)-伯御-孝公(称)-恵公(弗湟)-隠公(息姑)-桓公(允)-荘公(同)-閔公(開)-僖公(申)-文公(興)-宣公(俀)-成公(黒肱)-襄公(午)-昭公(稠)-定公(宋)-哀公(将)-悼公(寧)-元公(嘉)-穆公(顕)-共公(奮)-康公(屯)-景公(匽)-平公(叔)-文公(賈)-頃公(讎)
魯公(?~前1006?)
姓は姫、名は伯禽。在位?~前1006?。周公旦の子。魯に封ぜられておもむいた。魯の風俗を変え、礼法を改め、服喪三年を定めたという。淮夷・徐戎を討ち、魯を安定させた。
魯の考公(?~前1001?)
姓は姫、名は酋。在位前1005?~前1001?。魯公伯禽の子。
魯の煬公(?~前994?)
姓は姫、名は煕。在位前1000?~前994?。魯公伯禽の子。考公の弟にあたる。魯の宮城に茅闕門を築いた。
魯の幽公(?~前979?)
姓は姫、名は宰。在位前993?~前979?。魯の煬公の子。弟のヒに殺された。
魯の魏公(?~前928?)
姓は姫、名はヒ。在位前978?~前928?。魯の煬公の子。幽公の弟にあたる。幽公を殺して自ら位についた。
魯の厲公(?~前890?)
姓は姫、名は擢。在位前927?~前890?。魯の魏公の子。
魯の献公(?~前857?)
姓は姫、名は具。在位前889?~前857?。魯の魏公の子。厲公の弟にあたる。
魯の真公(?~前826)
姓は姫、名は濞。鼻、嚊、摯とも書く。在位前856?~前826。魯の献公の子。諸侯とともに周の宣王に朝した。
魯の武公(?~前816)
姓は姫、名は敖。在位前825~前816。魯の献公の子。真公の弟にあたる。九年(817)、長男の括、末子の戯とともに周の宣王の謁見を受けた。宣王は戯を気に入り、戯を魯国の太子に立てさせようとした。大臣樊仲山父が年長を廃して年少を立てることはよろしくないと諫めたが、宣王は聞き容れず、戯を魯の太子に立てさせた。武公が帰国後に亡くなると、戯が位を継いだ。
魯の懿公(?~前807)
姓は姫、名は戯。在位前815~前807。魯の武公の子。周の宣王の謁見を受けて気に入られ、魯の太子に立てられた。帰国後、武公が亡くなると、位についた。のちに甥の伯御に殺された。
魯の伯御(?~前796)
在位前806~前796。魯の姫括の子。武公の孫にあたる。懿公九年(前807)、懿公を殺して自立した。伯御十一年(前796)、周の宣王が軍を率いて魯を討ち、殺された。
魯の孝公(?~前769)
姓は姫、名は称。在位前796~前769。魯の武公の子。懿公の弟にあたる。懿公九年(前807)、伯御が懿公を殺して自立した。のちに周の宣王が軍を率いて魯を討ち、伯御を殺すと、宣王により、魯の国君に立てられた。
魯の恵公(?~前723)
姓は姫、名は弗湟。在位前768~前723。魯の孝公の子。晩年、宋軍を黄で破った。夫人の孟子が亡くなると、後妻の声子が息姑(のちの隠公)を産み、仲子が軌(のちの桓公)を産んだ。
魯の隠公(?~前712)
姓は姫、名は息姑。在位前722~前712。魯の恵公の子。母は声子。恵公が亡くなると、太子軌(のちの桓公)が若年であったため、摂政にあたった。即位後、宋・斉・鄭などの国と会して盟を結んだ。斉や鄭とともに宋を討ち、許を討ち、すべて勝利した。十一年(前712)冬、弟の桓公のために大夫羽父に殺された。『春秋』の記事は、隠公元年(前722)より始まる。
魯の桓公(?~前694)
姓は姫、名は軌。一説に名は允。在位前711~前694。魯の恵公の子。母は仲子。隠公の弟にあたる。隠公を殺して自立した。鄭と修好し、許の田と鄭の祊の田を交換した。二年(前710)、戎と旧交を固め、唐で盟した。翌年、斉侯と嬴で会し、互いに通婚し、先君以来の好を交わした。六年(前706)、斉が杞を攻めようとしたので、杞侯が魯に救援を求め、杞侯と成で会した。十一年(前701)から十二年にかけて鄭と宋の間の不和を解こうとし、宋公としばしば会した。宋が和平を拒んだので、鄭伯と結んで軍を率いて宋を討った。十三年(前699)、斉・宋・衛・燕の軍を破った。十八年(前694)、斉の襄公と濼で会した。夫人の文姜とともに行ったが、文姜が襄公と姦通したので、これを責めたところ、斉の襄公は彭生に桓公を殺させた。
魯の荘公(前706~前662)
姓は姫、名は同。在位前693~前662。魯の桓公の子。九年(前685)、兵を率いて斉の公子糾を送って斉に入らせた。このとき公子小白(のちの斉の桓公)が先に斉に入って即位し、斉と魯は乾時で戦って、魯軍は敗れた。魯は斉に迫られて、公子糾を殺した。翌年、斉の桓公が兵を率いて魯を侵したが、長勺で戦って、斉軍を撃退した。十一年(前683)、宋が魯を侵したが、宋軍を撃退した。十三年(前681)、斉と柯で会盟し、魯と斉は好を結んだ。十六年(前678)、斉・宋・陳・衛・鄭・許・滑・滕の国君と宋国の幽の地で会盟し、斉の桓公の覇業を承認した。二十六年(前668)、斉・宋とともに徐を攻めた。翌年、斉・宋・陳・鄭の国君と幽で同盟した。
魯の閔公(前669~前660)
湣公とも。姓は姫、名は開。在位前661~前660。魯の荘公の子。荘公が亡くなると、子般が即位した。荘公の弟の慶父が子般を殺すと、開が立てられて国君となった。わずか二年で慶父に謀殺された。
魯の僖公(?~前627)
姓は姫、名は申。在位前659~前627。魯の荘公の子。閔公の弟にあたる。荘公の弟の慶父が、前後して子般・閔公の両君を殺害した。申は魯の季友に迎えられて、邾から魯に帰国し、国君として即位した。慶父は莒国に逃亡していたが、魯に引き渡されることとなり、自殺した。季友を相とした。四年(前656)、斉の桓公と会して蔡・楚を討ち、のちに召陵の盟に参加した。五年(前655)、斉・宋・陳・衛・許・曹とともに周王室を尊重することを誓い、首止で太子鄭と会見して、周室の後継の地位を固めさせた。六年(前654)、首止の盟に加わらなかった鄭の文公を責め、斉らとともに鄭を討った。二十年(前640)、魯城の稷門をさらに大きいものに建てかえさせ、南門と改名した。二十一年(前639)、国内は干魃となり、雨を祈らせた巫子を焼き殺そうとしたが、臧文仲に諫められてやめた。二十二年(前638)、邾を破り、須句を取った。まもなく邾が兵を出して魯を攻めたが、邾を小国とあなどっていたため、特段の備えをせず、邾の軍に大敗した。
魯の文公(?~前609)
姓は姫、名は興。在位前626~前609。魯の僖公の子。公子遂(襄仲)を卿に任じて執政させた。晋について斉と敵対し、三たび晋君に朝見した。哀姜が産んだ公子悪・公子視と、敬嬴が産んだ公子俀が反目して争った。
魯の宣公(?~前591)
姓は姫、名は俀。倭とも書く。在位前608~前591。魯の文公の庶子。公子遂が公子悪・公子視を殺して、かれを擁立した。ときに魯の公室は弱く、三桓が強盛をほこった。在位初期は公子遂が執政にあたり、のちに季孫行父が政権を握った。元年(前608)、済西の田を斉に贈った。その後は長らく斉につき従った。十年(前599)、斉が済西の田を返還してきた。十五年(前594)、田税の改革をおこない、公田も私田も一律に徴税するように定めた。晩年、公孫帰父を晋に使いさせ、晋の力を借りて三桓を除こうと謀ったが、成らぬまま没した。
魯の成公(?~前573)
姓は姫、名は黒肱。在位前590~前573。魯の宣公の子。季孫行父を卿に任じて執政させ、晋について斉と敵対した。元年(前590)、丘甲の制度を作り、軍賦を改革した。翌年、晋軍に従って鞍で斉軍を大いに破り、汶陽の田の返還を斉に迫った。八年(前583)、晋が汶陽の田を斉に返すよう通告した。十三年(前578)、京師で周王に朝見したが、賞賜を加えられなかった。十八年(前573)、晋の厲公が亡くなったため、晋に向かう途中に薨じた。
魯の襄公(前575~前542)
姓は姫、名は午。在位前572~前542。魯の成公の子。即位したとき、わずか三歳で、季孫行父・仲孫蔑・叔孫豹・季孫夙が相次いで執政をつとめた。十一年(前562)、季武子が三軍を作り、三桓がおのおの一軍をつかさどったため、ますます公室は弱体化した。二十八年(前545)、楚におもむいた。翌年、魯の方城まで帰ったとき、季武子が卞邑を占拠したことを知り、楚の兵を借りて季氏を討とうとしたが、大夫栄成伯に卞邑を季氏に与えるよう勧められて、やむなくそれを容れた。楚にあったときに、楚の宮廷の規模にあこがれ、帰国後に楚をまねた宮殿を建てた。
魯の昭公(前560~前510)
姓は姫、名は裯。稠、袑とも書く。在位前541~前510。魯の襄公の庶子。ときに魯の公室は弱体化し、政権は季氏の手にあった。五年(前537)、季孫夙が公室を四分し、さらに公室を弱らせた。二十五年(前517)、起兵して季氏を討ったが、季氏ら三桓に敗れて斉に逃れた。翌年春、斉が魯を攻めると、昭公は斉軍に従って鄆にいたった。夏、斉の景公が昭公を魯に帰そうとしたが、季氏が斉の寵臣梁丘拠に賄賂を贈ったため、帰還は成らなかった。二十七年(前515)、晋・宋・衛・曹・滕などの国が扈に会して昭公を魯に帰そうと謀ったが、晋の范献子が季氏の賄賂を受けて反対した。翌年、昭公は晋の援助を求め、乾侯にあったが、晋の六卿はことごとく季氏の賄賂を受け取っており、魯に帰ることができなかった。三十一年(前511)、晋は季平子を召し、昭公を魯に帰国させようとしたが、六卿が阻んだため実現しなかった。流亡八年、乾侯で没した。
魯の定公(?~前495)
姓は姫、名は宋。在位前509~前495。魯の襄公の子。昭公の弟にあたる。季孫意如と季孫斯を前後して卿に任じた。その間、季氏の家臣陽虎が魯の国政を専断した。六年(前504)、兵を率いて鄭を討った。十年(前500)、孔丘(孔子)を司寇とし、孔丘とともに斉の景公と夾谷に会した。斉は汶陽の田を魯に返還すること、魯は斉軍が国境を出たとき戦車三百乗をもって従軍することをそれぞれ約した。同年のうちに斉は鄆・讙・亀陰の田を返還してきた。十二年(前488)、仲由を季氏の宰とした。季氏の費邑・叔氏の郋邑・孟氏の成邑を毀ち、三桓の勢力を削ごうとはかった。孟氏が反抗し、定公は兵を発して攻めたが勝てなかった。
魯の哀公(?~前468)
姓は姫、名は将。蒋とも書く。在位前494~前468。魯の定公の子。季孫斯と季孫肥を前後して卿に任じ、政務にあたらせた。十一年(前484)、呉に従って兵を率いて斉を攻め、艾陵で斉軍を破った。翌年、田土に対する課税をおこなった。十四年(前481)、西のかた大野沢で狩して麟を獲たという。『春秋』の記事はこの年で終わっている。二十四年(前471)に越にいたり、翌年に帰国した。二十七年(前468)、越の力を借りて三桓を討とうと謀ったが、かえって三桓の起兵により出奔の憂き目にあい、衛に逃れ、のちに邾・越にうつった。迎えられて帰国したが、まもなく没した。
魯の悼公(?~前430)
姓は姫、名は寧。在位前466~前430。魯の哀公の子。ときに三桓が権勢をほこり、魯公は小侯のようであったという。
魯の元公(?~前410)
姓は姫、名は嘉。在位前430~前410。魯の悼公の子。
魯の穆公(?~前377)
姓は姫、名は顕。在位前409~前377。魯の元公の子。
魯の共公(?~前355)
姓は姫、名は奮。在位前376~前355。魯の穆公の子。
魯の康公(?~前346)
姓は姫、名は屯。在位前354~前346。魯の共公の子。
魯の景公(?~前317)
姓は姫、名は匽。在位前345~前317。魯の康公の子。
魯の平公(?~前297)
姓は姫、名は叔。一名に旅ともいう。在位前316~前297。魯の景公の子。ときに秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓の七国はみなすでに王を称していた。
魯の文公(?~前274)
湣公とも。姓は姫、名は賈。在位前296~前274。魯の平公の子。
魯の頃公(?~?)
姓は姫、名は讎。在位前273~前256。魯の文公の子。十三年(前261)、楚に攻められ、徐州を失陥した。十七年(前256)、楚の考烈王により魯は滅ぼされ、かれは卞邑にうつされた。のちに柯で没した。
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