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黄帝

黄帝(読み)こうてい(英語表記)Huang-di

   こうてい クヮウ‥こうてい〔クワウ〕黄帝 Huáng dì

中国の伝説上の帝王。三皇五帝の一人。姓は公孫,名は軒轅 (けんえん) 。中国古代の諸王朝や諸侯などの諸姓はすべて黄帝より出たものとされており,最高の帝王として尊ばれた。そのためさまざまな伝説がつけ加わり,多くの黄帝説話が形されている。

中国古代の伝説上の帝王。名は軒轅(けんえん)。神農氏のとき、暴虐な蚩尤(しゆう)と戦って勝ち、推されて帝となった。衣服・貨幣・暦・医薬・音律などを定めたという。五帝の一人。

中国古代伝説上の帝王。五帝三皇五帝)の一人。姓は公孫,名は軒轅(けんえん)。蚩尤(しゆう)を討伐,族最初の統一国家を建設したと伝える。衣服,舟車,家屋などを創始した一種の文化英雄とされる。本来は〈皇帝(天帝)〉に由来,戦国末の五行説により黄帝伝説が形されたという。道家の始祖とされ,初,黄老の術が流行。
→関連項目民族|黄帝内経|黄老|道家

中国,古代伝説中の帝王。姓は公孫,名は軒轅であるといわれる。諸侯を攻める炎帝を阪泉(河北涿鹿(たくろく)県北西)にやぶり,反乱を起こした蚩尤(しゆう)を涿鹿で殺し,帝位につく。四方を平定し,天地自然の運行を調和させ,養蚕・衣服・舟運・牛馬車・文字・喪制・音律・医学など,すなわち人類文化を創造したと言われる。戦国時代の老荘学派の始祖ともされる。伝説中の帝王であることは言うまでもないが,戦国時代国の青銅器銘文では,黄帝を高祖と呼んでいるから,東方地域の人びとの間には,黄帝を始祖とする伝承があったことはらかである。

中国古代の伝説上の帝王で、五帝の第一。炎帝神農氏)の末に蚩尤(しゆう)の乱を平らげて天子となり、衣服、舟車、家屋、弓矢などの生活用具を初めてつくるとともに、文字、音律、暦などを制定し、また薬草を試用して人民に医術を教えるなど、人類に文化的生活を享受させた最初の帝王とされる。この黄帝伝説は『書経』『詩経』などの古文献にはみえず、戦国末の五行説の流行に伴って、先行の各種の神話伝説を基に徐々に形された比較的しいものである。また、道家末流によって老子に先だつ開祖とされ、その所説に付会した書がつくられて、初には「黄老の学」が流行した。後漢(ごかん)以降は神仙術や道教と結んで神格化された。

[麥谷邦夫]

『森三樹三郎著『中国古代神話』(1969・水弘文堂書房)』▽『森安太郎著『黄帝伝説』(1970・朋友書店)』
[参照項目] | 三皇五帝

中国古代の伝説上の帝王。三皇五帝のひとり。姓は公孫。軒轅氏とも、有熊氏ともいう。蚩尤(しゆう)の乱を平定し、推されて天子となる。舟車、家屋、衣服、弓矢、文字をはじめて作り、音律を定め、医術を教えたという。黄神(こうしん)。

中国古代伝説上の帝王
前漢の司馬遷の撰になる『史記 (しき) 』は黄帝五帝の第一とし,彼から中国史を記述しはじめている。中国人は,黄帝族の祖先と考えた。

【車】より

…以後の重要な改良として,産業革命期にボールベアリングの,19世紀に空気入りタイヤのがある。【平田 寛】
[中国]
 中国の車は,伝説によると王朝の車正(車担当官)であった奚仲(けいちゆう)がつくったとか,黄帝がつくったとかといわれている。実際は時代から存在していたことが,安陽小屯(河南省安陽市郊外)から掘された時代の車馬坑(馬車遺跡)かららかである。…
【指南車】より

…3世紀前半の三国時代に馬鈞が造り,以降皇帝の行列に加えられた。《古今注》によると,はるかに古く黄帝蚩尤(しゆう)を討伐したとき,蚩尤は霧をまき起こして黄帝の軍隊を苦しめたが,黄帝は指南車を造って軍隊に方角を知らせたという。正確な指導を意味する〈指南〉の語の由来である。…

※「黄帝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

姓は公孫、名は軒轅。有熊氏。帝鴻氏ともいう。小典の子。母は附宝。神農とは異父兄弟とも八世の孫ともいう。寿丘に生まれ、姫水に長した。有熊国君となる。ときに神農氏が衰え、諸侯が互いに攻め合ったので、軒轅は入朝しない諸侯を討伐した。そこで諸侯はみな軒轅を頼りにするようになった。炎帝の軍隊と阪泉の野で決戦して勝利した。また、蚩尤が反乱を起こして苦戦したが、西王母の使者九天玄女のさずけた霊符により、蚩尤を涿鹿の野に撃ち破り勝利をおさめた。神農に代わって天子となった。東は丸山・泰山から、西は空桐の雞頭山にのぼり、北は葷粥を逐い、南は熊山・湘山にいたった。風后・力牧(力墨)・常先・大鴻らを登用して天下を治めた。『史記』によると五帝の筆頭。三皇のひとりに挙げられることもある。二十五人の男子を得て、中華民族の祖とされた。また暦・衣服・家・舟・弓矢などをしたとされる。