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黄河文明

黄河文明石器時代)
裴李崗文化(前7000?~前5000?)
  代表遺跡は河南省県裴李崗。円形・方形の竪穴式住居に暮らし、粟作などの畑作農業に生活基盤を置いていた。艶出しした紅褐色の陶器や磨製石器などを特色とする。
老官台文化(前6000?~前5000?)
  代表遺跡は陝西省華県老官台。暗紅色の夾砂陶を特色とする。円形の竪穴式住居に暮らし、粟作などの畑作農業に生活基盤を置いていた。
北辛文化(前6000?~前5000?)
  代表遺跡は山東省滕県北辛。黄褐色の陶器を特色とする。紅鉢を死者の顔に被せるという特異な埋葬儀礼がみられる。後李文化を継承して展した。
磁山文化人(前6000?~前5000?)
  代表遺跡は河北省武安県磁山。円形・楕円形の竪穴式住居に暮らし、粟作などの畑作農業に生活基盤を置いていた。紅褐色の夾砂陶を特色とする。磁山遺跡では多くの粟貯蔵穴が見されている。
仰韶文化(前4800?~前2500?)
  1921年、アンダーソンらによって河南省澠池県仰韶村で見された彩陶(赤地に彩色した土器)を特色とする文化をもつ人々。老官台文化を継承して展した。前期(前4800年ころ)は紅陶が主流で、代表遺跡は陝西省西安市半坡、仰韶半坡類型文化と称される。母系制で、農村の階層化がみられる。前4000年ころにろくろの使用が見られる仰韶廟底溝類型文化が現れた。後期(前3500年以降)には、半坡後期類型・西王村類型・大司空類型・王塞類型の四種の文化に大別される。このころには貧富の差がみられ、社会の分業・階層化が進んだ。
後岡文化人(前5000?~前4000?)
  代表遺跡は河南省安陽市後岡。北辛文化を継承して展した。
大汶口文化(前4300?~前2400?)
  1959年、山東省寧陽県堡頭村で見された。のちに山東省泰安県大汶口でも見されて、代表遺跡となる。前期は紅陶が主流だったが、後期には黒陶・灰陶が主流となった。後期の卵殻黒陶の高柄杯は、精巧で美しく、山東龍山文化に受け継がれた。
龍山文化(前2500?~前2000?)
  1930年から翌年にかけて、中国中央研究院歴史語言研究所により山東省章丘県龍山鎮で見された黒陶(黒色土器)や灰陶を特色とする文化をもつ人々。後期には銅器の鋳造もおこなっていた。中原龍山文化(陝西龍山文化西龍山文化・河南龍山文化)と山東龍山文化とに分かれる。中原龍山文化は仰韶後期文化を継承し、灰陶が主流で、縄文文様が多い。骨を灼いて罅割れを見る占卜もこのころにはじまった。山東龍山文化大汶口文化を継承して、黒陶が主流で、ろくろの使用が盛んだった。
二里頭文化(前2000?~前1600?)
  1959年、徐旭生らによって河南省偃師市二里頭で見された。遺跡は約二キロ四方で、中心部には二つの宮殿跡が確認された。この遺跡の人々は、西龍山文化・河南龍山文化を継承し、青銅鋳造の技術を持っていたとみられる。王朝を形した人々と擬せられている。

長江文明石器時代)
彭頭山文化(前7000?~前6000?)
  1980年代に湖南省澧県彭頭山で見された。稲の散播農法に生活基盤を置いていた。
河姆渡文化(前6000?~前5000?)
  1973年、浙江省余姚県河姆渡で見された。多量の稲籾の堆積があったことから、稲作を行っていたことで知られる。木造の高床式住居に暮らしていた。野生・家畜動物の骨や木器・骨角器が多く出土しており、半農半猟の生活をしていたとみられる。
馬家浜文化(前5000?~前3500?)
  代表遺跡は浙江省嘉興県馬家浜。河姆渡文化を継承して展した。紅陶や玉器が多く作られた。
大渓文化(前4400?~前3300?)
  1958年、四川省巫山県大渓で見された。彭頭山文化を継承して展した。紅陶を特色とする。稲作の灌漑農法が確立し、大規模に展開した。
良渚文化(前3300?~前2200?)
  1936年、施昕更によって浙江省余杭市良渚鎮で見された。馬家浜文化や崧沢文化を継承して展した。高水準の玉器を特色とする。絹織や麻織、竹編物、ろくろによる黒陶・灰陶製造がおこなわれていた。このころには貧富の差が生まれ、社会の分業・階層化が進んでいたとみられる。前二十二世紀ごろ急激に衰退した。伝説蚩尤部族と擬する説もある。
屈家嶺文化(前3000?~前2600?)
  1954年、湖北省京山県屈家嶺で見された。大渓文化を継承して展した。黒陶を特色とする。
石家河文化(前2800?~前1500?)
  1990年、湖北省天門県石家河で見された。屈家嶺文化を継承して展した。このころ環濠農村から展して、版築による城壁をもった都市が立した。灰陶器を主流とした。銅器もみられる。河南龍山文化と関係が深かった。前二十一世紀以降、衰退の一途をたどった。伝説の三苗部族と擬する説もある。
城文化人(前1400?~前1000?)
  江西省樟樹市城鎮で見された。1989年には、江西省淦大洋洲で堤防護岸工事中に代後期の大規模な墓が見つかった。その副葬品は二千点近かった。山背文化を継承し、良渚文化石家河文化の影響を受けて立した。独特の青銅器を特色とする。
三星堆文化人(前2800?~前850?)
  仮面王国とも称される文化を築いた。1986年、四川省広三星堆見された。約二キロ四方の版築に囲まれた城壁都市を築いていた。器・青銅器・玉器・象牙・子安貝など遺物が多く、まさに三星堆文明人と呼ぶにふさわしい。「立人像」「神樹」「縦目仮面」など遺物の造形も特異なものが多い。ほかに四川省津県龍馬古城が代表遺跡としてある。史書によると古代の四川地方では蚕叢・柏灌・魚鳧・杜宇・鼈霊(開明)の王朝が交代していたという。
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黄河文明

古代文明の一つ。黄河流域の文明。現在は中国文明に包含させる。
前6000年頃から、黄河の流域の黄土地帯で雑穀を中心とした農業生産が始まったことが仰韶文化見などから明らかになった。この中国の石器時代の文化は彩文土器(彩陶)を持ち、磨製石器を使用する前期石器文化である。次いで前3000年代になると、黄河下流に黒陶を標識とする竜山文化が後期石器文化として出現し、やがて青銅器文明の王朝が黄河中流に現れる。

最近は中国文明に含めている
黄河流域に生した石器文化とそれを継承した都市文明は、総称して黄河文明と言われ、四大文明の一つとされてきたが、最近ではほぼ同じ時期に長江流域でも石器文化が認められるので、黄河・長江文明(河江文明)、または「中国文明」ととらえることが一般的になっている。

https://www.y-history.net/appendix/wh0203-006_0.html

黄河文明
こうがぶんめい
黄河流域の肥えた黄土地帯で生した,東アジアで最古の原始農耕文明。四大文明の一つとされる。黄河文明は,彩陶 (彩文土器) を使っていた仰韶 (ヤンシャオ) 文化 (前 4800年ころ~前 2300年ころ) と,黒陶を使っていた竜山 (ロンシャン) 文化 (前 2300年ころ~前 1500年) に大別することができる。彩陶文化の時期には,アワ・キビなどの穀物栽培やブタ・イヌなどの飼育が行なわれ,氏族共同体的な集落が形されていた。黒陶文化の時期には,農業技術が達し,ウシやウマの飼育も行なわれて,城壁で囲まれた村落 (邑〈ゆう〉) も形されていた。なお,この2つの文化と重なって,鬲 (れき) ・鼎 (てい) などの3本足の土器を中心とする灰陶が多数見されている。また長江 (揚子江) 下流からは,彩陶・黒陶とともに稲作を伴った河姆渡 (かぼと) 遺跡 (前 5050年ころ) が見され,黄河文明と並んで水稲耕作文明が栄えていたことが分かった。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典