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data_中国歴代王朝

王朝名説明
-3350三皇五帝
さんこうごてい
古代 中国古代、伝説上の帝王。三皇は、伏義(ふくぎ)、神農(しんのう)、女カ(じょか)。五帝は、黄帝(こうてい)、センギョク、帝コク、尭(ぎょう)、舜(しゅん)。(-上古時代)
-2069王朝
(-1600)開祖は(う)(舜(しゅん)の禅(ゆずり)を受けたと伝えられる)。都は安邑(山西省)ほか。17代(けつ)のとき(いん)に滅ぼされる。河南省偃師(えんし)県二里頭遺跡の見により、存在が確認される。
-1050いん今の河南省を中心に黄河下流域に威を振るう。「商」と自称。開祖は湯王。神権国家で、王は上帝(天)に仕える宗教的最高権威者として、卜占(ぼくせん)をもって天意をうかがった。30代紂(ちゅう)王の時、(しゅう)の武王(ぶおう)に滅ぼされた。最後の都(王朝の後半期)が墟(いんきょ)。青銅器文化が栄え、文字(甲骨文)の使用開始。
前1100~前256しゅう姓は姫(き)。西周とも呼ぶ。封建制度をもって統治。開祖は武王(ぶおう)。太公望(たいこうぼう)の力をかりてを滅ぼす。都は鎬京(こうけい)(12代幽王まで。後の長安)。諸侯国間に礼秩序による政治体制を敷く。前771年北西方から侵入した犬戎(けんじゅう)に追われ、前770年、13代平王は(今の洛陽(らくよう)付近)に遷都。これ以後を東周と呼ぶ。王室の統治力が弱まり、春秋戦国時代となる。王室は前256年、37代のとき(しん)に滅ぼされる。
前770~前221春秋戦国時代前770年、の東遷から、前221年、の統一までの約5世紀半の間をさす。前403年、を3分した時を境に、前半を春秋時代(「春秋」の名に由来)、後半を戦国時代(「戦国策」の名に由来)に分ける。 室の衰微により、群雄割拠の状態となり、対立抗争が激しく繰り返され、春秋末期にはその中で比較的勢力の強かったの14国が残った。 さらに各国内での権臣の内紛も多く、の3氏が分割し、王から諸侯と認められ、戦国時代に入った。 興のを奪った田氏との7国(戦国の七雄)が、それぞれ勢力を競ったが、西方のの力が増大するに及び、他の6国は内紛などで衰微し、の東進によって統一された。 氏族共同体は解体され、文法(刑法)が公布、官僚制立、封建制から郡県制への移行が行われた。鉄製農具の開により生産力が飛躍的に増大、属貨幣の流通が始まった。諸子百家(*1)が活躍、中国思想の源流を形作った。
前1100頃~前376しん姫姓。王の弟叔虞の後裔という。都は絳(こう)(山西省侯馬市)。前7世紀後半、文公に至ってを破りを助けて国力大いに振い、領土は河北の南部、河南の北部に及んだ。権臣の力が強まり前453年、(三)の3家に分割。前403年に3家はの王室から諸侯として認められた。前376年、の公室は40世約7百年で三国に滅ぼされた。
前1122~前221せいの武王が呂尚(太公望)を封じた国。今の山東省の地。都は臨シ。姓は姜(きょう)氏。前679年、15代桓公(かんこう)は覇者(*2)となる。386年、29世で田氏に滅ぼされた。都は営丘。前221年に滅ぼされた。
~前223江中流域を領有。の武王の時、帝ギョクの子孫の熊繹(ゆうえき)が封ぜられたと称する。都は郢(えい)。前597年荘王の時、中原に覇を唱える。強大を誇ったが、前223年に滅ぼされた。
前1055~前249公旦の長子伯禽が封ぜられる。都は曲阜(きょくふ)。のち分家の三桓氏が実権を握り、前249年34代頃公の時、に滅ぼされた。孔子の生国。「春秋」を編纂。
前11世紀~前209えいの武王の弟康叔を祖とする。今の河北省西南部から河南省北部にわたる地。初め朝歌(河南省)に都し、後しばしば遷都。前209年君角の時、に滅ぼされた。
前11世紀~前222えん始祖はの武王の弟、召公セキ。今の河北・東北南部・朝鮮北部を領す。都は薊(けい)(現、北京)。前222年43世での始皇帝に滅ぼされた。
~前286そうの宗族微子啓が封ぜられ、商丘(河南省商丘県)に都した。前286年32世で3国に滅ぼされた。
~前478ちんの武王が舜の後裔を求めて(今の河南省淮陽県)に封じたもの。前478年に滅ぼされた。
~前447さい都は河南省上県の南西。武王の同母弟叔度の封ぜられた国。前531年に攻められ、都を安徽に遷した後を下といい、それ以前を上という。のちの恵王に滅ぼされた。
前806~前375ていの宣王の弟友(桓公)を祖とする。今の陝西省渭南県の地。のち、今の河南省県に移る。の哀侯に滅ぼされた。
~前473の文王の伯父太伯の建国と称する。長江河口地方を領有。を破り勢を張ったが、前473年夫差(ふさ)の時、王勾践に滅ぼされた。
前600~前334えつはじめ中国東南の少数民族から出たと考えられる。隣国と抗争、前473年、勾践(こうせん)は王夫差を破り覇者(*2)となる。都は会稽。前334年の威王に滅ぼされた。
前403~前230かんもとの六卿の一。前453年とともにを3分割し自立。前403年に王により諸侯に列せられた。都は平陽・宜陽・と変遷。国勢盛んであったが、前230年11世でに滅ぼされた。
前403~前225の六卿の一。前453年、斯(文侯)が、とともにを3分割し自立。前403年に王により諸侯に列せられた。都は安邑、のち大に遷る。山西の南部から陝西(せんせい)の東部および河南の北部を占めた。後に前225年に滅ぼされた。
前403~前222ちょうもとの六卿の一であったが、前453年、とともにを3分割し独立。前403年、諸侯となった。都は陽(しんよう)、のち邯鄲(かんたん)。武霊王の時、王号を僭称、一時強盛を誇ったが、前222年に滅ぼされた。
前771~前206しん最初に中国を統一した。戦国時代に台頭、前256年にの王室を滅ぼす。さらに、始皇帝は前230年~前221年に六国を滅ぼして天下を統一、初めて皇帝の号を用いる。しかし、その死後、帝国は瓦解、3世にしての高祖に滅ぼされる。始皇帝は中央集権を推進するとともに、外征を行い中国の領土を拡大。万里の長城や阿房宮を建設、焚書坑儒(*3)(ふんしょこうじゅ)を行い、度量衡・貨幣・文字を統一した。
前202~後8ぜんかん前漢西漢とも呼ぶ。前202年項羽を倒した劉邦(高祖)が天下を統一した。都は長安。官制・法律のほとんどを制にならい、郡国制を採った。7代武帝の代に儒教を国教として思想統一を図り、中央集権的専制支配を完。後8年、15代の時、王莽(おうもう)に簒奪される。
後8~後23しん王莽が建国した国。前漢の外戚だった王莽が幼少の皇帝を立てて実権を握った後、自ら帝位についた。古典を重んじた現実性のない政治に、内外ともに反抗をまねき自滅。光武帝により朝が復興。
25~220ごかん後漢とも呼ぶ。25年、劉秀(光武帝)が劉氏の天下を復興した。都は洛陽。幼帝の即位が続き、外戚・宦官の政争が重なると共に、184年黄巾(こうきん)の乱(*4)により王朝は衰退。220年に滅ぼされる。
220~589魏晋南北朝時代後漢の滅亡(220年)からによる統一(589年)までの時代。黄巾の乱以後、(ぎ)(操・丕(そうひ))、(ご)(孫権)、(しょく)(劉備)の三国が分立した(三国時代)。220年に、221年に、229年にがそれぞれ皇帝を称す。は263年を滅ぼしたが、265年にはそのを権臣司馬炎(武帝)が倒して(しん)(西晋とも呼ぶ)を樹立。280年にを滅ぼした。そのは311年永嘉の乱で匈奴の劉曜()に滅ぼされた。317年には司馬エイが即位しを再興(東と呼ばれる)。華北には異民族が次いで侵入(五胡十六国)、439年、鮮卑族の拓跋珪(たくばつけい)の建てた北が華北を統一した。北は内争から東・西に分裂、さらに東は北に、西は北にかわられた。これら5王朝を北朝と呼ぶ。また、420年、東は滅亡、その後、の4王朝が短期間に興亡した。これらを南朝と呼ぶ。
220~265三国時代後漢の末、198年操が献帝を奉じて天下の実権を握って王となり華北を統一。その子丕(ひ)に至って帝位についた(文帝)。都は洛陽。江北の地を領有。265年5世でに禅(ゆず)る。とも呼ぶ。
222~280孫権が江南に建てた国。222年独立、229年国号を定めた。都は建業(現、南京)。4世で西晋に滅ぼされた。
221~263しょく後漢(ごかん)の滅亡後、地方を中心に劉備の建てた国。の一族であったので国号をと称したため、とも呼ぶ。劉備と諸葛孔明の死後、国勢衰え、263年に滅ぼされた。
265~420しんに代って、その権臣司馬炎が建てた王朝。都は洛陽。280年を滅ぼして天下を統一。のち五胡(*5)の乱のため、316年、4世で滅亡(西晋)。翌年皇族司馬睿(帝)が建康(南京)に再興したが、混乱が続き、ついに将軍劉裕(南朝のの初代皇帝)によって滅ぼされた(東)。
304~347五胡十六国せい成漢、後とも呼ぶ。テイ族の李特がを中心に建てた国。その子李雄が都に都した。5世で東の桓温に滅ぼされた。
304~329ぜんちょう前趙西晋の時、匈奴の劉淵(りゅうえん)が今の山西・陝西(せんせい)・甘粛東部・河南北部に拠り、平陽に都して国をと称し、308年皇帝を号す。その子劉聡は316年西晋を滅ぼす。318年5世劉曜の時に都を長安に遷して国をと号した。319年その臣石勒(せきろく)を別にを建国(後趙)、東西に分裂した。329年その後趙に滅ぼされた。
337~370ぜんえん前燕西晋の末、鮮卑族の慕容コウが王を称して創建。3世で、前秦に滅ぼされた。
319~351こうちょう後趙(けつ)の石勒(せきろく)が319年に建てた国。都はギョウ(河北省磁県)。7世でその臣冉閔(ぜんぴん)に滅ぼされた。
351~394ぜんしん前秦351年、テイ族の苻健が建てた国。3代苻堅の時、一時華北を統一、西域に及ぶ。6世で後秦に滅ぼされた。
384~409こうえん後燕鮮卑族の慕容氏が前燕より自立、華北に建てた国。都は中山。四世で将軍馮跋(ひょうばつ)(北燕の始祖)に滅ぼされた。
384~417こうしん後秦羌(きょう)の族長姚萇(ようちょう)が前秦にそむいて建てた国。都は長安。3世で東の劉裕に滅ぼされた。
385~431せいしん西秦鮮卑族の乞伏国仁が建てた国。都は城(蘭州の北)。4世での赫連定に滅ぼされた。
386~403こうりょう後涼前秦の将、テイ族の呂光の建てた国。4世で後秦の姚興(ようこう)に降った。
397~439ほくりょう北涼匈奴の沮渠蒙遜(そきょもうそん)が甘粛北部に建国。3世で北に滅ぼされた。
398~410なんえん南燕鮮卑の慕容徳が滑台(河南省滑県)に建国。2世で東の将の劉裕に滅ぼされた。
407~431大夏(たいか)とも呼ぶ。匈奴の赫連勃勃(かくれんぼつぼつ)が後秦にそむいて建てた国。今の陝西省の北西部、甘粛省の北東部および内モンゴル、オルドスの地。3代25年で、北に滅ぼされた。
397~414なんりょう南涼鮮卑の禿髪烏孤(とくはつうこ)が建てる。西秦に滅ぼされた。
301~376ぜんりょう前涼州刺史となった人の張軌が甘粛省蘭山道以西の地に拠って建てた国。9世で前秦の苻堅(ふけん)に滅ぼされた。
400~421せいりょう西涼西晋の末、人李コウが今の甘粛省北西部に建てた国。都は敦煌(とんこう)。2代で北涼に滅ぼされた。
409~436ほくえん北燕後燕の将、馮跋(ふうばつ)が竜城(寧省朝陽県)を都として建てた国。2世で北に滅ぼされた。
398~534北朝ほくぎ北(こうぎ)とも呼ぶ。鮮卑族の拓跋珪(道武帝)が386年王を称し建てた国。都は平城(今の山西省大同)、494年孝文帝の時、洛陽に遷都。439年華北を統一。534年内乱が起こり東・西に分裂。
534~550とうぎ東が分裂してできた王朝。高歓が孝静帝を擁立して建てる。都はギョウ(字は、業ヘンにオオザト)。北により廃される。
534~556せいぎ西が分裂してできた王朝。長安を首都とし、宇文泰を中心に東に対抗。北により滅亡。
550~577ほくせい北の大丞高洋が孝静帝に迫り帝位を奪って建国。都はギョウ。6世で北の武帝に滅ぼされた。南朝のに対し北と呼ぶ。
557~581ほくしゅう北西の実力者宇文覚が恭帝の禅を受けて建てた国。都は長安。第3代武帝は北を併せたが、5世でに滅ぼされた。
420~479南朝そうの将軍劉裕(武帝)が東から王朝を譲られて建てた国。都は建康(南京)。8世で王蕭道に帝位を譲った。劉とも呼ぶ。
479~502せい末、蕭道(しょうどうせい)(のちの高帝)が順帝の禅譲を受けて建てた国。都は建康。502年、7世で一族の蕭衍(しょうえん)(の武帝)に滅ぼされた。北に対し、南とも呼ぶ。
502~557りょう502年、蕭衍(しょうえん)が南の帝位を奪って創設した国。6代でに滅ぼされた。
557~589ちん557年覇先(武帝)がの敬帝の禅譲を受けて創建。都は建康(南京)。589年5代での文帝に滅ぼされた。
581~619ずい随国公の楊堅(ようけん)(高祖文帝)が北の国を奪って581年に即位し、国号をと称した。都は大興(長安)。589年南朝のを滅ぼして天下を統一。中央集権的帝国を樹立し、律令・科挙(*6)などの制度を定めた。日本とも国交を結ぶ。619年3代にして滅亡。
618~907とうとも呼ぶ。末の乱に李淵(高祖)・李世民(太宗)父子が挙兵して、煬帝の孫恭帝の禅譲を受け、618年に建国。 628年に天下統一、均田制・租庸調・府兵制に基礎を置く律令政治を整えると同時に、その子高宗とともに突厥(とっけつ)(*7)・鉄勒(てつろく)(*8)・西域諸国・朝鮮などを討って版図を広げた。690年~704年、則天武后(そくてんぶこう)が朝を立てたことにより一時中断。907年20世哀帝の時、朱全忠が禅譲の形で国を奪った。
907~979五代十国時代907年の滅亡より、960年立、979年に統一完了するまでの諸王朝・諸国、及びその時代をいう。華北には後、後、後後漢、後の弱小な5王朝が興亡。 他の地方には、南前蜀、後、南、ビン、荊南、北漢の10国が割拠した。
907~923五代こうりょう後節度使朱全忠がを滅ぼして建てた国。都は大(開封)、のち洛陽。2世で後の李存勗(りそんきょく)に滅ぼされた。
923~936こうとう後突厥(とつけつ)出身の李存勗(りそんきょく)が後を滅ぼして建てた国。都は洛陽。4世でその臣石敬トウに滅ぼされた。
936~946こうしん後石敬トウが後を滅ぼして建てた国。都は大(開封)。2世でに滅ぼされた。
947~950こうかん後漢の将劉知遠が建てた国。都は大。二世で後に滅ぼされた。
951~960こうしゅう後郭威が後漢を滅ぼして建てた国。都は大。3世で匡胤に滅ぼされた。
902~937十国淮南(わいなん)国とも呼ぶ。902年楊行密が朝から王に封ぜられ淮南・江東に建てた国。都は揚州。937年4世で南に滅ぼされた。
937~975なんとう南の徐知誥(じょちこう)が建国。都は陵。3代で滅んだ。
907~925ぜんしょく前蜀の節度使王建の地に建てた国。891年自立し、907年帝位につく。2世で後に滅ぼされた。印刷術が達。
934~965こうしょく後の臣孟知祥が四川に建てた国。都は都。2世でに滅ぼされた。
917~971なんかん南917年末の争乱に乗じて華南に自立。初め大と号したが、姓が劉氏であるため、大と改める。一時はベトナムをも支配したが、971年に滅ぼされる。
907~951許州の人、馬(ばいん)が後から王に封ぜられて湖南に建てた国。都は潭州。951年6世で南に滅ぼされた。956年馬氏配下の氏が一旦復興したが、963年に併合。
907~978ごえつの鎮海節度使銭鏐(せんりゅう)が浙江・江蘇に建てた国。都は銭塘(杭州)。978年5世でに降った。
909~945ビン(字は門ガマエに虫)からビン王に封ぜられた王審知が福州を都として建てた国。6世で南に滅ぼされた。
907~963けいなん荊南に仕えた高季興が湖北に建てた国。都は荊州(江陵)。5世でに降った。南平とも呼ぶ。
951~979ほくかん北漢後漢の一族劉崇が山西に建てた国。都は陽(太原)。4世でに降った。
916~1125りょう契丹(きったん)族が中国東北部を中心に建てた国。始祖耶律阿保機(やりつあぼき)が契丹族を統一、さらに党項(タングート)・吐谷渾(とよくこん)を征し、渤海を滅ぼし、太宗の時にから雲16州を奪取、947年国をと号した。9世で滅亡。
960~1279そう世宗の武将匡胤(ちょうきょういん)(太祖)が、960年世宗の没後、部下に擁立されて即位。都はベン京(開封)。1127年9世のとき靖康の変(*9)で江南に逃れる。それまでを北、それ以後を南(都は臨安(杭州))という。1279年帝ヘイがに滅ぼされた。
1271~1368げん国号のは1271年に定められた。モンゴル帝国第5代ハーンのフビライ(世祖)が大都(北京)に遷都して、中国を支配。1279年南を滅ぼし、領域は中国全土からモンゴル本土を含み、朝鮮、チベットをも服属させた。11代で明の朱璋に滅ぼされた。
1368~1644みん明1368年、朱璋(洪武帝)がを倒し建国、皇帝独裁の支配体制を確立した。15世紀初頭最盛期を迎えるも、その後、宦官の台頭、北慮南倭(*10)に苦しみ、農民反乱も続、16世紀以後は衰運に向かう。1644年李自に北京を占領され、17世で滅亡。
1616~1912しん始祖ヌルハチは満州の女真族を統一、1616年即位して後金(こうきん)国と号した。都は瀋陽(しんよう)。その子ホンタイジ(太宗)が1636年と改称。第3代順治帝の1644年、明朝の滅亡に乗じて中国に入り、北京に遷都。 19世紀に入り白蓮教徒の乱、太平天国の乱などの内乱とアヘン戦争、アロー戦争などの外圧が次いで起こり、日戦争に敗北するや義和団事件が起こる。1911年辛亥(しんがい)革命の結果、中華民国立し、1912年12世宣統帝(愛覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ))が退位して清朝は滅亡した。
1912~1949ちゅうかみんこく中華民国辛亥革命の結果清朝が倒れた後、1912年中国最初の共和制政体として立した国。初代大総統袁世凱。1928年中国国民党 が国民政府を樹立、全国を統一したが、第二次大戦後共産党との内戦に敗れ、1949年本土を離れて台湾に移った。1927年を境として、前半の軍閥混戦を 背景とした北京政府時代と、後半の中国国民党による国民政府時代とに分けられる。首都は前者は北京、後者は南京。
1949~ちゅうかじんみんきょうわこく中華人民共和国1949年10月1日、中国国民党との内戦に勝利を得た中国共産党の全国統一によって立。人民共和国立から共産主義に至るまでを過渡期と規定し、その間、農・工・商などの社会主義的改造を推進する経済政策をとっている。首都北京。