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河文明(BC6200年ごろから存在)
満州南部、中国東北の河流域で起こった中国の古代文明の一つ。BC6200年ごろから存在したと考えられている。大規模な竪穴式住居が出土しており、特に寧省凌源市から建平県で見された紅山文化の遺跡の一つ牛河遺跡は広範囲にわたって墳墓や祭壇などの神殿が見され、先史時代の「国」があったのではないかと考えられている。紅山文化の遺跡からは風水の原型と見られるものも出土している。 興隆窪文化の遺跡からは中国最古の龍を刻んだヒスイなどの玉製品が見されている。また最古の寧式銅剣(琵琶形銅剣)や櫛目文土器などが出土している。このように黄河文明長江文明と異質でありながら、古代の中華文明に大きな影響を与えたと考えられ、現代でも大きく注目され盛んに研究されている。
櫛目文土器時代または櫛文土器時代とは朝鮮の考古学的な時代区分で、BC8000年から1500年の頃に及ぶ。前期から中期にかけての土器に櫛の歯のようなもので模様がつけられたこと(櫛目文土器)から命名されている。土器が作られ始めた時代で、朝鮮における石器時代ともされるが、倭国の縄文時代と同様、農業はまだ小規模で、狩猟や採集が中心であった。櫛目文土器文化のあとには、北方に起源を持つと思われ大規模な農耕を伴う無文土器文化が広まる。
BC8000年からBC6000年頃 中国朝鮮 初期の土器としては南部から隆起文土器が見されている。
BC6000年からBC3500年頃 中国朝鮮 漁労や狩猟が行われ、竪穴式住居で半定住的生活が行われた。後半期には大規模な貝塚が見られる。またBC4000年頃に櫛目文土器が出現する。
BC3500年からBC2000年頃 中国朝鮮 雑穀などの栽培が始まったと見られるが、中心は漁労や狩猟にあったと考えられる。
BC2000年からBC1500年頃 中国朝鮮 内陸部の居住が増えて貝塚が少なくなり、農業への依存が進んだと考えられる。
文化の起源櫛目文土器はウラル系民族、とりわけフィン・ウゴル系民族と関連しており、最古のものが河地域の興隆窪文化(BC6200年-BC5400年)の遺跡/で見されていることから、河文明の担い手であるウラル系民族が朝鮮に櫛目文土器はもたらしたことが考えられる。よって朝鮮民族の基層はウラル系民族の可能性がある。
興隆窪文化中華人民共和国内モンゴル自治区から寧省にかけてBC6200年頃-BC5400年頃に存在した石器時代。紅山文化に先行する河流域の文明(河文明)のひとつとされる。
紅山文化中華人民共和国河北省北部から内モンゴル自治区東南部、寧省西部にBC4700年頃-BC2900年頃に存在した石器時代の文化。万里の長城より北方、山山脈の北から河支流の西河上流付近にかけて広がり、農業を主とした文化で、竜などをかたどったヒスイなどの玉から、現在の中国につながる文化や宗教の存在の可能性が考えられている。
黄河・長江文明と縄文時代
BC6000年頃 倭国朝鮮 対馬海流が黒潮から分流。→温暖・湿潤・四季の生。対馬海流は、倭国海側の地方に冬の積雪や豪雪に由来する豊富な水資源と、の高温・多照をもたらし、結果的に稲作(米づくり)に適した穀倉地帯と風土をそれぞれ作り出しているといえよう。
BC5000年頃 中国 河姆渡文化 …BC5000年?-BC4000年?長江下流域では最古の稲作。狩猟や漁労も合わせて行われ、ブタの家畜化なども行われた。
BC4800年頃 中国 仰韶文化…BC4800?~BC2500?。前期黄河文明における最大の文化。陝西省から河南省にかけて存在。このころは母系社会で、農村の階層化も始まった。文化後期になると、社会の階層化、分業化が進んだ。
BC4000年頃 倭国朝鮮中国 温暖化で海水面が最も上昇する。(縄文海進)海面が今より2-3メートル高かったと言われ、縄文時代前期の約6,000年前にピークを迎えたとされている。気候は現在より温暖・湿潤で年平均で1-2℃気温が高かった。
BC4000年頃 倭国 日本列島の一部でで陸稲栽培が行われた。熱帯ジャポニカ。三内丸山遺跡は、今から約5500年前~4000年前の縄文時代の集落跡で、長期間にわたって定住生活が営まれていた。気温は現在より高かったため、クリの栽培が可能となり、定住生活に必要な食料を支えた。
BC2000年頃からBC1000年頃 倭国 たな森林構との共生の模索。この頃にはひえ、あわ等の穀物栽培。大型貝塚。内陸地域にも貝塚が出来ていた。製塩専業集団、塩媒介集団、塩消費集団。交易目的の漁労民生。伸展葬。朝鮮半島南端、九州北部で水田稲作はじまる。漁労も同時に行われた。
無文土器時代(BC1500年ごろからBC300年)
この時代の典型的な土器が、表面に模様を持たない様式であることから命名された。農耕が始まるとともに、社会に階級が生じた時代であり、箕子朝鮮、氏朝鮮と重なる。朝鮮半島北中部と南部の間では住居や墓制に違いが見られる。時代的には倭国の弥生時代と重なり、南部はこれから影響を受けた可能性もある。特に北部九州と朝鮮半島南部には共通の文化要素が見られる。葬制としては巨大な支石墓が特徴的であるが、南部では急激に様式が切り替わる、石槨墓や甕棺墓が見出されている。
BC2000年からBC1500年頃 朝鮮 北方の河流域から北朝鮮にかけての家店下層文化では、支石墓、無文土器や大規模な住居が出現している。この河文明が、無文土器文化の源流の可能性がある。
BC1500年からBC850年頃 朝鮮 農耕のほか、漁労、狩猟、採集が行われた。農耕にはまだ石器が用いられた。大型の長方形の竪穴住居からなる集落が営まれた。住居には竃が複数ある場合もあり、多世帯が同居していたと思われる。後半には集落が大規模化し、集落ごとに有力者が生まれたと見られる。BC900年頃を過ぎると小型の住居が普通になり、竃ではなく、中央に囲炉裏のような炉が掘られた。支石墓、副葬品の朱塗り土器、石剣など無文土器時代を通して続く宗教・葬制上の特徴はこの時代に生まれた。
BC850年からBC550年頃 朝鮮 農業の規模が大きくなり、社会の階級と争いが生じたと考えられる。南部では水田が作られたとする仮説もあるが、陸稲と水稲が雑交している点や水田と確定出来るだけの要素が未だに見されていない為、定説とはなっていない。 数百軒からなる大規模な集落が出現した。また青銅器が出現し、工芸品の生産や支配者による分配も行われるようになった。中期無文土器文化は、中部の遺跡名から松菊里文化(ソングンニ)とも呼ばれ、中部で主に展した。南部へ行くほど異なった要素が増える。中期後半(BC700-550年頃)には青銅器が副葬品として現れた。青銅器は中国東北部に由来すると思われるが、この時期には朝鮮半島中部でも製作が始まっていた。中期無文土器時代後半の墓には特に大規模なものがある。南岸部は北中部と様式を異にし、多数の支石墓が造られた。一部からは青銅器、翡翠、石剣、朱塗り土器などの副葬品が見出されている。無文土器文化は農耕文化の始まりであるが、無文土器文化時代を通じて陸稲作はあったものの主要な作物ではなかった。現在までに渤海北部沿岸では当時の水田遺構が見出されていないことから、水田稲作がこの時代に伝わっていたとしても大陸沿いでなく黄海をえてもたらされた可能性が大きい(倭国の水田稲作とは伝播経路が異なる)。北部では大麦・小麦・雑穀などが栽培された。
BC550年からBC300年頃 朝鮮 環濠集落や高地性集落が増え、争いが激しくなったことを示している。特に丘陵地や河川沿いに人口が集中している。集落数は前の時代より減っており、少数の集落への集住が進んだと考えられる。弥生文化の開始が無文土器文化に影響を与えた可能性もある。特に北部九州では無文土器、支石墓や甕棺墓など、朝鮮半島南部の文化と直接結び付けられる要素が多数見つかっている。これは無文土器時代前期に当たると考えられる。
BC300年頃 朝鮮 普通、無文土器時代の終末は鉄器の出現に置かれるが、土器様式の連続性を重視してBC後までを含める説もある。しかし、BC300年頃から青銅器が広範囲に普及する。鉄器もこの時期を境に、朝鮮半島南部へも普及していく。このような技術・社会の変化を重視するならば、無文土器時代をこの時期までとするのが適切である。
同時代の倭国は?
BC900年頃 倭国朝鮮 朝鮮半島南部で縄文土器が見。人々の交流が進む。水田耕作はじまる。漁労の網。東北の太平洋側に銛漁開花。
BC600年からBC300年 倭国 九州北部と南朝鮮文化圏の立北九州で縄文水田。菜畑遺跡(BC600年頃)で熱帯ジャポニカ米を栽培。水田の遺構が確認され縄文時代晩期後半の12層からそれより上層にも弥生時代中期までの水田遺構が検出。BC930年頃(放射性炭素14の較正年代)、山の寺式土器。板付遺跡(縄文時代晩期から弥生時代後期の遺跡)。最初期の環濠集落/。板付Ⅰ式土器の機種は甕、壺、鉢、高坏からなる。夜臼式(柏崎式)土器。特徴は西倭国に広まった遠賀川式土器に共通。
朝鮮半島の歴史時代
BC12世紀頃-BC194年 朝鮮中国 箕子朝鮮中国のに出自を持つ箕子が建国したとされる朝鮮の伝説的な古代国家。統一国家では無く、地方政権ないし都市国家として存在したいわゆる古朝鮮の一つ。首都は王険城(現在の平壌)。『三国志』「志」東夷伝辰条、『略』逸文などに具体的な記述がある。
BC312年-BC279年 朝鮮中国 は朝鮮候国と戦って西部の真番・朝鮮を奪い取り、上谷・漁陽・右北平・西・東の5郡を置き北東へ長城を築いたが、その際に近隣の貊もの支配下に組み込まれた。
BC214年 朝鮮中国 が天下を統一すると、その勢力は東にまで及び、これを恐れた朝鮮王否はに服属した。
BC195年 朝鮮中国 前漢の劉邦配下である王盧綰の部将であった満が箕子朝鮮に亡命。
BC194年 朝鮮中国 氏朝鮮満は準王の信任を得て辺境の守備を担当するも、翌年に逃亡民勢力を率いて王倹城を攻落し王権を簒奪して、氏朝鮮を興した。ここに40余世続く箕子朝鮮は滅びたとされる。
BC2世紀頃 朝鮮 辰国『史記』や『漢書』の朝鮮伝によれば、氏朝鮮の時代(BC2世紀)に現在の朝鮮半島の南部にあったという国である。記録は少なく、その詳細はほとんどわからない。民族系統は不明であり、群小の国々の総称なのか一国の名なのかもわからない。いずれにしろ辰国は辰または三の前身であるとされている。
BC2世紀以降 朝鮮 三両基の説によれば、「三の領域や国境は、、後世のように明確ではなく、おおざっぱであった。国境には、どちらの国からも干渉されない、緩衝地帯のようなものがあったらしい。そこに亡国の流民が三々五々集まって、一種の多文化圏を構していた。異国文化やしい文化がそこに集まり、そこから三へ伝わったのであろう。"辰は馬の東にある。そこの老人が語るところによれば、その昔、中国の国の苦役に服することを嫌って逃亡した流民たちがに渡ってきた。馬では東の国境地帯の土地を割いてかれらに与え、住まわせた。(『三国志』の「書」東夷傳辰条)"そのような緩衝地帯にも、自然に流民を束ねる実力者が生まれる。王や君長の経歴をもったものが、そこで実力を争い、支配者となることは当然考えられる。満に王位を奪われた準王がそういう地位をえたと考えても、べつにおかしくはない。」と記している。上田篤の説によれば、「の始皇帝が天下を握ったBC221年ごろには、以外のすべての国々は消滅した。すると、大陸内には、もはや亡命する国さえない。そこで、何万、何十万というかつての権力者とそれにつながる人たちの多くは、海外、あるいは民族の支配圏以外の国々への亡命の道を選んだのではないか。東アジアでも、『勝などの蜂起、天下の叛の民が数万口で、朝鮮に逃避した。(志東夷伝)』と記されている。勝の農民一揆は、BC209年のことである。さらに、『辰は馬の東において、その耆老の伝世では、古くの亡人がを避ける時、馬がその東界の地を割いたと自言していた。(志東夷伝)』朝鮮では、国を割いてまでの亡民の建国を許している」と記している。馬は、BC2世紀末から4世紀中葉に、朝鮮半島南部に存在した部族集団である三の一つ。帯方郡の南、黄海に接し、東方は辰(後の羅)、南方はに接していた。後の百済と重なる場所にあった地域である。辰は、BC2世紀-356年に朝鮮半島南部にあった三の一つ。帯方郡の南、倭国海に接し、後の羅と重なる場所にあった地域である。その境は、南にある弁と接しており、入り組んでいた。もともと6国であったが、後に分かれて12国になった。そのうちの斯蘆が後の羅になった。弁は、BC2世紀末から4世紀にかけて朝鮮半島南部に存在した三の一つ。弁辰とも言う。
BC128年 朝鮮中国 前漢年(前128年)当時、?や沃沮は皆氏朝鮮に属していたが、?君の南閭らは右渠に背き、28万人を率いて東郡に服属した。武帝はこの地を蒼海郡としたが、数年で廃止した
BC128年 朝鮮中国 の武帝が朝鮮北部から満州南部にかけて設置した郡である。氏朝鮮に服属していた?の君長である南閭が、氏朝鮮の右渠に叛いて、28万人を率いてに投降してきた事がきっかけで、蒼海郡が設置された。
BC126年 朝鮮中国 公孫弘の建議により蒼海郡は廃止された。蒼海郡の正確な場所は分かっていないが、江原道北部、寧省の南部、吉林省南部などの説がある。蒼海郡の設置はの朝鮮進出を促進し、BC108年に氏朝鮮を滅ぼし四郡を設置したことにつながる。蒼海郡は四郡の1つである玄菟郡と深い関連がある。
BC108年 朝鮮中国 前漢の武帝は、朝鮮半島の中・西北部にあった氏朝鮮を滅ぼした。BC108年に設置した楽浪郡・真番郡・臨屯郡、BC107年に設置した玄菟郡
BC82年 朝鮮中国 真番郡、臨屯郡を廃する。、臨屯郡北部の6県と玄菟郡の1県が楽浪郡に編入された。これを嶺東七県(倭国海側)といい嶺東7県を管轄する軍事組織として東部都尉が置かれた。玄菟郡はその後段階的に縮小移転している。この結果、楽浪郡は25県を抱え、この拡大した楽浪郡を創業期の楽浪郡に対して歴史学では「大楽浪郡」ともいう。『漢書』地理志によるとその戸数は6万2,812戸、口数は40万6,748人あった。
BC75年 朝鮮中国 玄菟郡を西に移し、半島には楽浪郡だけとなる。
BC75年 朝鮮 貊族(夷貊)の攻撃を受けて玄菟郡治が北西の高句麗県へ移り、沃沮・?貊は尽く楽浪の管轄へ移った。また、管轄範囲が広く遠いことから、?貊・沃沮の住む単単大嶺の東側の部分に楽浪東部都尉を置き、不耐城を治所として嶺東七県(東?県,不耐県,蚕台県,華麗県,耶頭昧県,前莫県,沃沮県)に分けて治めさせ、官吏は?(東?)の民が務めた。
BC57年 朝鮮 朴赫居世,羅建国。『三国史記』の新羅本紀は「辰の斯蘆国」の時代から含めて一貫した羅の歴史としている。史実性があるのは4世紀の第17代奈勿王以後であり、それ以前の個々の記事は伝説的なものであって史実性は低いとされる。6世紀中頃に半島中南部の加羅諸国を滅ぼして配下に組み入れた。
BC45年 朝鮮 平壌郊外の貞柏洞364号墳で見された「楽浪郡初四年県別戸口簿」によると、25県の初4年(BC45年)の戸数は4万3251戸、人口は28万0361人であった。
BC37年 朝鮮 朱蒙,卒本地方(現在の中国の桓仁)に高句麗建国。中朝国境をはさむ山岳地帯で農耕を主とし、その他に狩猟・牧畜を生業としていた民族とみられる。『書』と『三国史記』によれば、高句麗は紀前37年に夫余の王族である朱蒙(チュモン)により建てられたという。
BC19年 朝鮮 朱蒙亡くなる.嫡子の琉璃後継
BC18年 朝鮮 朱蒙の子,温柞,百済建国。建国(『三国史記』による)百済は4世紀中頃に国際舞台に登場する(『晋書』「慕容載記」)。それ以前の歴史は同時代資料では明らかでない。国際舞台への登場は、360年代の伽耶南部・との通交と372年の東への遣使である。中国の史料で百済という国号が明らかになるのは4世紀の近肖古王からである。日本の『古事記』では、応神天皇の治世に照古王の名が記されている。通説では『三国志』に見える馬諸国のなかの伯済国が前身だと考えられているが詳細は不明である。
朝鮮に関しては前述した通りに氏朝鮮を滅ぼして、BC108年に朝鮮半島北部に四郡を置いた。楽浪郡(現在の平壌付近→313年に高句麗に滅ぼされる。)玄菟郡(現在の咸鏡南道咸興→東半島→撫順→315年に高句麗に滅ぼされる。)真番郡(楽浪郡の南。正確な位置は不明。→BC82年に廃止)臨屯郡(咸鏡南道の南部から江原道にかけて→BC82年に廃止)四郡は高句麗の興起するにつれて保持することが難しくなり、玄菟郡が高句麗に滅ぼされたのを最後に400年間に及ぶ中国による朝鮮半島北部の直轄支配は終わる。朝鮮半島南部にはこの時代は100国近くの部族国家があり、三(馬、辰、弁)といわれる部族国家連合が存在していた。日本列島にも数百の部族国家があり、前代に引き続いて中国との交流により様々な技術文化が倭国にもたらされた。
夫余現在の中国東北部(満州)にかつて存在した民族およびその国家。扶余(扶餘)とも表記される。 夫余が建国する以前のこの地には?(わい)族が住んでいたと思われ、松花江上流の弱水(奄利大水、現拉林河)を渡河南進して夫余を建国する以前の慶華古城(「?城」、囲約800m、前漢初期には存在、黒龍江省賓県)も見されている。 年(紀前128年)秋、匈奴西郡に侵入してその太守を殺害し、漁陽郡,雁門郡にも侵入して都尉を破り、3千人余りも殺害した。これに対し、は将軍の青を雁門郡から、将軍の李息を代郡から派遣し、千人分の捕虜と首級を得た。この一件に際して東夷?(穢わい)国君主の南閭(なんりょ)等28万人がに降ったため、そこに蒼海郡を設置した。朔3年(紀前126年)春、蒼海郡を廃止した。。
9年 中国 王莽がを建てると異民族に対する蔑視政策を執ったため、辺諸国は離反し、夫余も離反した。
25年- 56年 中国 東夷諸国が後漢に来朝し、中国に方物を献上するようになった。建武25年(49年)10月、夫余王が遣使を送って朝貢したので、光武帝はこれを厚くもてなした。
53年- 56年 朝鮮 高句麗,太祖王即位
111年 中国 夫余王は歩騎7~8千人を率いて玄菟郡を寇鈔し吏民を殺傷したが、間もなく再び帰附した。
120年 中国 夫余王は嫡子の尉仇台を遣わして印闕貢献してきたので、安帝は尉仇台に印綬綵を賜った。翌121年、高句麗が1万の兵を率いての玄菟城を囲むと、夫余王は嫡子の尉仇台に2万の兵を率いさせて援軍に遣り、高句麗軍を壊滅させた。
122年 中国 高句麗が馬,?貊と共に東へ侵攻したので、兵を派遣して打ち破り救った。
136年 中国 夫余王は京師(洛陽)に来朝した。
150年 朝鮮 馬・弁・辰の勢力強くなる
161年 中国 夫余の遣使が朝賀貢献。永康年(167年)、夫余王の夫台は2万余人を率いて玄菟郡を侵略したが、玄菟太守の公孫域によって撃破され、千余名が斬首された。
174年 中国 夫余は再び冊封国として貢ぎ物を献じた。
189年- 220年 中国 夫余はもともと玄菟郡に属していたが、献帝(在位:189年-220年)の時代に夫余王の尉仇台が東郡に属したいと申し出たため、東郡に属した。この時期は玄菟郡にしろ東郡にしろ公孫氏の支配下になっており、東夷諸国は公孫氏に附属した。時に高句麗と鮮卑が強盛だったので、公孫度はその二虜の間に在る夫余と同盟を組み、公孫氏の宗女(公孫度の娘とも妹ともいう)をもって尉仇台の妃とした。
194年- 220年 朝鮮 高句麗,春窮期に穀物を貸し与え,秋の収穫後返済する,賑貸法実施
粛慎 粛慎(しゅくしん、みしはせ、あしはせ、?音:Sushen)とは、満州(中国東北地方)に住んでいたとされるツングース系狩猟民族。また、後にこの民族が住んでいた地域の名称ともなった。この粛慎という呼び名は代・春秋戦国時代の華北を中心とする東アジア都市文化圏の人々(後に民族として統合されていく前身となった人々)が粛慎人の自称を音訳した呼び名である。息慎(そくしん、X?shen),稷慎(しょくしん、Jishen)とも表記される。中国の代の文献の中にしばしば見られるほか、日本の『日本書紀』の中にも粛慎の記述が見られる。ただ、中国文献中の粛慎と日本文献中の粛慎の存在した時期にかなりの開きがあり関係性は不明。後代の?婁,勿吉,靺鞨,女真(満州族)と同系の民族と考えられている。
?婁後漢から五胡十六国時代(1世紀から4世紀)にかけて、外満州付近に存在したとされる民族。 古の粛慎(しゅくしん、みしはせ)の末裔とされ、代・代でもそのまま粛慎と呼ばれ続けた。?婁の呼称は、彼等自身の自称ではなく、鏃(yoro)、箭や後の牛禄(niru)、坑(yeru)などの音訳と考えられている。 代以降は夫余に従属していたが、夫余が重税を課したため、の黄初年間(220年-226年)に反乱を起こした。夫余は何度か?婁を討伐したが、独立しへの朝貢を行った。前秦の苻堅(在位:357年-385年)が華北を統一すると、粛慎(?婁)は?矢を献じた。その後は勿吉→靺鞨と名称を変えていく。
BC2世紀末から4世紀中葉に、朝鮮半島南部に存在した部族集団である三の一つ。帯方郡の南、黄海に接し、東方は辰(後の羅)、南方はに接していた。後の百済と重なる場所にあった地域である。馬人は定住民であり、穀物を植え、養蚕を行っていた。それぞれの部族には酋長がおり、大きな部族の酋長を臣智(しんち)と言い、それに次ぐものを邑借(ゆうしゃく)と呼び、集落に城郭は無く、五十余国が存在した。その内の伯済国が百済になったとする説もある。『後漢書』辰伝、『三国志』書辰伝によると、の始皇帝の労役から逃亡してきたの遺民がおり、馬人はその東の地を割いて、彼らに与え住まわせ辰人と名づけたという。また、『三国志』書弁辰伝によると、馬人と辰人は言語が異なっていたという。建国『三国遺事』によると、「志云。滿?朝鮮。朝鮮王準率宮人左右。海而南至地。開國號馬。」『書』によると、「侯准既僭號稱王,爲亡人滿所攻奪,將其左右宮人走入海,居地,自號王。」『後漢書』には「初、朝鮮王準為滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬、破之、自立為王。(初め、朝鮮王準が満に滅ぼされ、数千人の残党を連れて海に入り、馬を攻めて、これを撃ち破り、王として自立した。)」と記されており、満が箕子朝鮮を滅ぼした際に箕子朝鮮の最後の王、準王は数千人を率いて逃亡し、馬を攻め落として王となって馬を支配した。
高句麗BC37年-668年)または高麗は、現在の中国東北部の南部から朝鮮半島北中部の、ツングース系民族による国家。最盛期は満洲南部から朝鮮半島の大部分を領土とした。三国時代羅や百済と共に朝鮮半島を割拠し、等の中国王朝や倭国と権力を争った。『三国史記』や『三国遺事』によれば朱蒙(東明聖王)がBC37年に高句麗を建てた。考古学や史は高句麗はBC2世紀の古朝鮮の滅亡時期の辺に既に存在したとする。疲弊と内紛の後に668年に羅との連合軍に滅ぼされるまで、高句麗は東アジアにおいて強い影響力を持つ帝国であり軍事国あった。高句麗は別名を貊(はく)と言う。『後漢書』によれば、3世紀における「高句麗・夫余」の2国と沃沮・東?の2部族は、すべて前漢代の「?貊」の後裔である。そのため、倭国では「高麗」と書いても「貊(狛)」と書いてもこまと読む。現在では高麗との区別による理由から「こうくり」と読む慣習が一般化しているが、本来、百済・羅の「くだら」・「しらぎ」に対応する倭国語での古名は「こま」である。
?貊(わいはく、かいはく)中国の黒龍江省西部・吉林省西部・寧省から北朝鮮にかけて、北西~南東に伸びる帯状の地域に存在したとされる古代の種族。同種の近縁である?と貊の二種族を連称したもの。代以降の記録に?・貊の名が見えるが、代に入り?貊と記されるケースが増える。BC2世紀の中国東北部にいた「?」「貊」は、?貊・沃沮・高句麗・夫余の四種族の前身であり、現在の国江原道にいた「東?(?貊)」は前漢代の中国東北部にいた?の後裔とされる。?貊系とみられる集団は、他に沃沮・部類(符類、附類)・高夷・東?などと、貊と同音または近似音の貉・北發・白民などがある。史書には、夫余の出自が?とみられる記述があり、また貊を高句麗の別名または別種と記す。部類と夫余の上古音が同じ(P?wa??a)とする説もある、の孔晁は高句麗を高夷の子孫としている。『後漢書』では、?・沃沮・高句麗は々朝鮮(氏朝鮮)の地に居たと記す。
沃沮(よくそ)BC2世紀から3世紀にかけて朝鮮半島北部の倭国海に沿った地方(現在の咸鏡道付近)に住んでいたと思われる民族。『三国志』や『後漢書』では東沃沮(とうよくそ)と表記される。『三国志』では、北東は狭く西南に広い、高句麗の蓋馬大山(長白山脈)の東から海岸までに及び、北に?婁・夫餘と、南に?貊と接し、その言語は高句麗と大体同じで時に少し異なると記される。北に夫余・高句麗、西と南に?貊、東に倭国海と接していた。「沃沮」という独自の国家があったのではなく、前漢の玄菟郡の夫租県(現在の咸鏡南道の咸興市付近)にいた?貊系種族を指すものと考えられており、同じく?から分かれた夫余・東穢や高句麗とは同系とされている。
(しんかん、BC2世紀-356年)朝鮮半島南部にあった三の一つ。帯方郡の南、倭国海に接し、後の羅と重なる場所にあった地域である。その境は、南にある弁と接しており、入り組んでいた。もともと6国であったが、後に分かれて12国になった。そのうちの斯蘆が後の羅になった。辰人は穀物と稲を育て、養蚕を生業としていた。『三国志』書弁辰伝によると、馬人とは言語が異なっていたが、弁人とは互いに雑居し、風俗や言語は似通っていたという。『後漢書』弁辰伝によれば辰とは城郭や衣服などは同じだが、言語と風俗は異なっていたという。『三国史記』と『三国遺事』によると、中国の王室の娘娑蘇が海を渡って辰に渡来して、羅の初代王赫居世居西干と王后閼英を生んだとする。辰と古代中国人との関係『後漢書』巻85辰伝、『三国志』書巻30辰伝、『晋書』巻97辰伝、『北史』巻94羅伝によると、の始皇帝の労役から逃亡してきた人がおり、馬はその東の地を割いて、与え住まわせ辰人と名づけたという。そのため、その地の言葉には語(陝西方言。長安に都があった頃の標準語で、この亡民が代?前漢代に渡来したことを物語る)が混じり、とも書いた。人は王にはならず、辰は常に馬人を主(あるじ)として用いており、これは代々承(親から子へ受け継がれる)のものであった。そのため自立せず、辰人は明らかに流入し移って来た人であるため馬が全てを制していたと『晋書』は記している。
後漢書』巻85辰伝耆老自言之亡人,避苦役,適國,馬割東界地與之。其名國為邦,弓?弧,賊為寇,行酒為行觴,呼為徒,有似語,故或名之為。〈辰、古老はの逃亡者で、苦役を避けて国に往き、馬は東界の地を彼らに割譲したのだと自称する。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)と称し、互いを徒と呼び、語に似している故に、これをとも呼んでいる。〉『三国志』書巻30辰伝辰在馬之東,其耆老傳世,自言古之亡人避役來適國,馬割其東界地與之。〈辰は馬の東、そこの古老の伝承では、の苦役を避けて国にやって来た昔の逃亡者で、馬が東界の地を彼らに割譲したのだと自称している〉。『晋書』巻97辰伝辰在馬之東,自言之亡人避役入割東界以居之,立城柵,言語有類人,由是或謂之爲。 〈辰は馬の東に在り、苦役を避けてにやって来たの逃亡者で、が東界の地を割譲したので、ここに居住したのだと自称している。城柵を立て、言語は人に類似しているため、あるいはこれをとも言う。〉
(べんかん)BC2世紀末から4世紀にかけて朝鮮半島南部に存在した三の一つ。弁辰とも言う。領域馬の東、辰の南、倭国海に接し、後の任那・加羅と重なる場所にあった地域である。その境は、辰と接しており、入り組んでいた。のち、官国(駕洛国)がこの地域の盟主となり、それぞれの国家の連合をつくった。社会・風俗『三国志』書弁辰伝によると、辰と弁辰(弁)は、風俗や言語が似通っていたという。土地は肥沃で、五穀や稲の栽培に適していた。蚕を飼い、?布を作った。大鳥の羽根を用いて死者を送るがそれは、死者を天空に飛揚させるという意味であった。鉄の産地であり、、?、などが採掘していた。市場での売買では鉄が交換されており、それは中国での銭使用のようであった。また人とも習俗が似ており、男女とも入れ墨をしていたとある。武器は馬と同じであった。礼儀がよく、道ですれ違うと、すすんで手に道を譲った。
BC1世紀中頃 朝鮮 の玄菟郡・高句麗県に付属していた支配地域は出費が嵩むため放棄され始め、替わって?貊系に属する?族の夫余や貊族の高句麗などを冊封する間接支配へ切り替えられた。高句麗を形した?貊系民族とは、中朝国境をはさむ山岳地帯で農耕を主とし、その他に狩猟・牧畜を生業としていた民族とみられる。
漢書』地理志
漢書』(前漢書ともいう)の地理志に、「然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。樂浪海中有人分爲百餘國以歳時來獻見云」然して東夷の天性柔順、三方の外に異なる。故に孔子、道の行われざるを悼み、設(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。以(ゆゑ)有るかな。楽浪海中に人あり、分ちて百余国と為し、歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。楽浪郡は、前漢(BC202年-8年)の武帝がBC108年に氏朝鮮の故地に設置した四郡の一つである。その役所は、今日の北朝鮮の平壌付近にあった。四郡とは、真番郡・玄菟郡・楽浪郡・臨屯郡をいう。中国の史書で人の国のことをはじめて書いたのがこの『漢書』地理志である。楽浪の海をえた所に百余国に分かれた人の国があった。中国人の目には、「国」として映っていた。弥生中期の後半(BC1世紀頃)に当たっている。班固が後漢の初め頃に編纂した。
BC37年 朝鮮高句麗 『書』と『三国史記』によれば、高句麗はBC37年に夫余の王族である朱蒙(チュモン)により建てられたという。
3年 朝鮮高句麗 第2代の瑠璃明王が隣国に在った夫余の兵を避けるため鴨緑江岸の丸都城(丸都山城、尉那巌城。現在の中国吉林省集安市近郊。かつての玄菟郡配下の高句麗県)の山城へ遷都したと伝えられる。[
32年 朝鮮高句麗 卒本は現在の寧省本渓市桓仁満族自治県(吉林省との省境近くの鴨緑江の少し北)で、都城の卒本城は五女山山城に比定されている。後漢書高句麗伝によると32年に高句麗は後漢の光武帝に朝貢した際に、光武帝より高句麗王に冊封された。
32年 朝鮮高句麗 光武帝は高句驪侯を高句麗王に昇格させ、?貊は夫余国と高句麗国の二つの王国をもつことになった。?貊(江原道)と沃沮(咸鏡道)は各地に首長が並立し統一国家は作らなかった。夷狄(?貊・沃沮・高句麗)の間で争いが続き、不耐以外の侯国は滅びたが、不耐の?侯だけは(の官吏としての)功や主簿などの官員を置き、今(代)も続いている。この不耐侯国の官吏はすべて?人(東?人)が務めた。沃沮の村落の渠帥は、皆が古の県国制に則り三老を自称していた。
後漢書人の条
57年 中国倭国 奴国が印を授与される。
107年 中国倭国 倭国王の帥升が安帝に拝謁を願う。
146-189年 中国倭国 桓帝と霊帝の間(146年-189年)-倭国大乱。
2世紀から3世紀 朝鮮駕洛国 2世紀から3世紀、政治的には辰と弁に大きく分けられていた。弁地域の中で一番優勢な勢力は海市付近の駕洛国(官伽耶)であった。官伽耶は、自身を盟主として前期伽耶連盟を形し、対外的に辺地域と交易を行い、斯盧(羅)を中心とする辰と勢力を争った。4世紀初に至り高句麗は楽浪郡・帯方郡を消滅させて羅にまで勢力を及ぼすようになった。
3世紀初 朝鮮高句麗 その後、山を下りて平地の国内城に王宮を構えたが、山城の丸都城と平城の国内城とは一体のものであり、こうした山城と平城(居城)との組み合わせは、朝鮮半島の城でよく見られる。国内城は最近の考古学的研究により、3世紀初めの築造と見られている。高句麗は次第に四方に勢力を伸ばし特に東南方面へ拡張したが、第8代の伯固(大王)の時代には東へも数度寇掠を働いている。しかし、それにより東で割拠していた公孫氏の不興を買い侵攻を招くことになる。
189年 朝鮮帯方郡 後漢の末、中平6年(189年)に中国東北部の東太守となった公孫度は、勢力を拡大して自立を強め、後漢の放棄した朝鮮半島へ進出、現在の平壌付近から城北方にかけての一帯にあった楽浪郡を支配下に置いた
197年 朝鮮高句麗 第9代の故国川王が死んだ後、王位継承をめぐって岐と延優(後の10代山上王)との間に争いが起こり、卒本に拠った岐は公孫度を頼って延優と対立したが、丸都城に拠った延優が王となって岐の勢力を併呑した。
204年 朝鮮帯方郡 公孫康は、建安9年(204年)楽浪郡18城の南半、屯有県(現・黄海北道黄州か)以南を割くとともに南方の土着勢力・?族を討ち、併せて帯方郡として「是より後、遂に帯方に属す」という朝鮮半島南半の統治体制を築く。
206年 中国 後漢,公孫康が帯方郡設置
219年 朝鮮高句麗 高句麗の政情不安に付け込んだ東太守の公孫康が高句麗へ侵攻し、高句麗は敗退して村々が焼かれたほか、伯固の長子岐、涓奴部ほか各将が下戸3万余人を引き連れ公孫氏へ降った。高句麗は以前からに朝貢を行って臣属しており、司馬懿による公孫氏の平定にも兵数千人を遣わしていたが、公孫氏を平定して国境を接する。
228年 朝鮮帯方郡 公孫康の子の公孫淵は叔父・恭の位を奪い取り、叡(明帝)からの承認も取りつけて揚烈将軍・東太守に任ぜられる。公孫淵は、祖父以上に自立志向が強く、朝の仇敵であるの孫権との同盟を画策し。
237年 朝鮮帯方郡 最終的には、から受けた大司馬・楽浪公の地位を不足とし、景初年(237年)反旗を翻して独立を宣言。東の襄平城で王を自称するにいたる。帯方郡も楽浪郡もそのままに属した。
238年 朝鮮帯方郡 の太尉・司馬懿の率いる四万の兵によって襄平城を囲まれ、長期の兵糧攻めにあって公孫淵とその子・修は滅びる。
238年 朝鮮帯方郡 襄平城の攻城戦の最中であろうか、は劉昕と鮮于嗣をそれぞれ帯方太守、楽浪太守に任じ、両者を密かに海路で、山東半島から黄海をえて朝鮮半島に派遣。帯方郡と楽浪郡の2郡を掌握させた。帯方郡はこれによりの直轄地となる。太守・劉昕は、辺の東?・族の首長に邑君あるいは邑長の印綬を賜与し、との冊封関係を改めて結び直した。
242年 朝鮮高句麗 西安平で寇掠を働きの将軍?丘倹による侵攻を招いた。
244年 朝鮮高句麗 西安平で寇掠を働きの将軍?丘倹による侵攻を招いた。1回目の侵攻が行われ、東川王(位宮)は2万の兵を率いて迎え撃ったが連戦連敗し、丸都城を落とされ千人が斬首された。?は将兵の墳墓破壊を禁じ捕虜と首都を返還したが高句麗は服属せず、翌245年に再び軍の侵攻を招いた。軍は南北の2方向から侵攻して高句麗を大いに打ち破り全土の村々を落とすと、東川王は南沃租へ逃げたが更に追撃を受け北方にある粛慎との境いまで逃れた。この戦いにより3千人が捕えられて斬首され、従属させていた東?も高句麗を離れに服属した。東川王が軍が引き上げた後に築城された都を平壌城というが、丸都城の別名または集安市付近の域名であり、後の平壌城とは別のものである。
245年 朝鮮高句麗 楽浪太守の劉茂と帯方太守の弓遵は、領内の東?が後漢末から高句麗に従属していたため軍を起こして討ち、不耐侯らは配下の邑落を挙げて降伏した。
247年 朝鮮高句麗 の宮廷へ朝貢に詣でたため、詔を下し改めて不耐?王の位が授けられた。?王は一般の住民と雑居していて、季節ごとに郡の役所へ朝謁する。楽浪と帯方の二郡に軍征や特別の徴税があるときには、?人(東?)にも税や夫役が割り当てられ普通の住民のように待遇される。
260年 朝鮮 百済(古爾王),十六官等と公服制定
266年 倭国中国 の女王、壹與、に遣使。
312年 朝鮮高句麗 その後も東半島への進出を目指し、西晋八王の乱五胡の進入などの混乱に乗じて312年に楽浪郡を占拠し、この地にいた人を登用することで技術的、制度的な展も遂げた。しかし、西に前燕を建国した鮮卑慕容部の慕容?に都を落され、臣従した。
313年 朝鮮高句麗 高句麗,楽浪郡滅亡させる
314年 朝鮮高句麗 高句麗,帯方郡を亡ぼす(中国の郡県支配終わる)
346年 朝鮮百済 百済,近肖古王即位
355年 朝鮮高句麗 前燕から〈征東将軍・営州刺史・楽浪公・高句麗王〉に冊封されている。前燕前秦に滅ぼされると引き続いて前秦に臣従し、372年には僧侶・仏典・仏像などが伝わった。この間、371年には百済の攻撃に王が戦死する危機に直面する。
356年 朝鮮羅,奈勿王即位
371年 朝鮮 近肖古王,高句麗の平壌城を攻撃.故国原王戦死
372年 朝鮮 高句麗,仏教伝来,太学設置.学を教える百済,東に使節を送る
384年 朝鮮百済 百済,仏教伝来(東の僧・摩羅難陀).中央集権化の手段として公認
391年 朝鮮高句麗 高句麗,広開土王即位
391年 朝鮮高句麗 19代好太王は後燕と戦って東に勢力を伸ばし、南に百済を討って一時は首都城(現ソウル特別市)のすぐ傍まで迫り、百済王を臣従させた。
396年 朝鮮高句麗 高句麗,百済に侵入
4世紀末 朝鮮倭国 が朝鮮半島へ進出を始め、391年にが百済□□羅を破り臣民とした。393年に羅の都を包囲したのをはじめ、たびたび羅に攻め込む様子が記録されている。
三国時代(朝鮮半島)4世紀ころから7世紀ころまでを指す
220年の後漢の滅亡が、三国の展を許した。三国は皆同じ文化を共有していた。1世紀から儒教が朝鮮半島の上流階級に広がった。後に儒教は仏教に入れ替わった。三国のうちで最大であった高句麗は、鴨緑江沿いの国内城とその山城である丸都城の二つの並存された都をもっていた。建国の始めには高句麗はとの国境沿いにあり、ゆっくりと満州の広大な土地を征服していき、最後には313年に楽浪郡・玄菟郡を滅ぼし領域に入れた。中国文化の影響は、372年に仏教が国教とされるまで残った。4世紀には百済が栄え、半島の南半分を支配した。斯盧国は503年羅と国号を改めた。4世紀の始めに、羅は国境を接していた伽耶を吸収したことが知られている。羅の都は徐羅伐(今日の慶州)であった。仏教は528年羅の国教となった。 羅はと結んで(羅の同盟)、660年に百済を668年に高句麗を滅ぼした。これによって三国時代は終わり、統一された羅の時代がはじまった。滅ぼされた百済の王族は倭国にのがれ、百済王(くだらのこにきし)の姓を賜った。百済王氏からは陸奥国で見した百済王敬福などが出た。この時代を記述した歴史書に高麗時代の『三国史記』および『三国遺事』がある。
4世紀中頃 朝鮮倭国百済 百済は4世紀中頃に国際舞台に登場する(『晋書』「慕容載記」)。それ以前の歴史は同時代資料では明らかでない。国際舞台への登場は、360年代の伽耶南部・との通交と372年の東への遣使である。
369年 朝鮮倭国百済 倭国へ七支刀を献上
371年 朝鮮倭国百済 近肖古王は371年に楽浪郡の故地である平壌を攻めて高句麗の故国原王を戦死させたこともある。 しかし、その後は高句麗の好太王や長寿王のために押され気味となり、高句麗に対抗するために倭国と結ぶようになった。この間の事情は好太王碑文に記されている
倭国と高句麗の戦争(詳細は「広開土王碑」および「三征伐」を参照)
391年 朝鮮倭国 が百済と羅を破り臣民とする。
393年 朝鮮倭国 羅の王都を包囲する
397年 朝鮮倭国 百済が倭国に阿シン王の王子腆支を人質に送り国交を結んだ。
399年 朝鮮倭国 いったん高句麗に従属した百済が、高句麗を裏切りと通じる。
400年 朝鮮倭国 羅の王都を占領していた。高句麗の広開土王が羅の要請に応じて軍を派遣し、軍を任那・加羅に退かせ、高句麗軍はこれを追撃した。
402年 朝鮮倭国 羅も倭国に奈忽王の子未斯欣を人質に送り国交を結ぶ。
404年 朝鮮倭国 高句麗領帯方界にまでが攻め込んでいる。
405年 朝鮮倭国 百済,阿直岐・博士王仁など日本に渡り学伝える
日本書紀神功皇后49年3月条神功皇后が羅へ親征し服属させた三征伐の記事に、将軍荒田別(あらたわけ)及び鹿我別(かがわけ)を派遣し、比自ホ(火+保)(ひじほ)、南加羅(ありしひのから)、喙国(とくのくに)、安羅(あら)、多羅(たら)、卓淳(たくじゅん)、加羅(から)の七カ国を平定した。さら西方に軍を進めて、比利(ひり)、辟中(へちゅう)、布弥支(ほむき)、半古(はんこ)の四つの邑を降伏させた記事がある。
399年 朝鮮倭国 百済はいったん高句麗に従属したが、397年、阿シン王の王子腆支を人質としてに送って国交を結び、399年にに服属した。
400年 朝鮮倭国 の攻撃を受けた羅は高句麗に救援を求めると、好太王は羅救援軍の派遣を決定、400年に高句麗軍が羅へ軍を進めると羅の都にいた軍は任那・加羅へ退き、高句麗軍はこれを追撃した。これにより羅は朝貢国となった。
402年 朝鮮倭国 羅もまたに奈忽王の子未斯欣を人質に送って属国となった。
404年 朝鮮倭国 高句麗領帯方界まで攻め込んだ軍を高句麗軍が撃退した。
405年 朝鮮倭国 の人質となっていた百済王子の腆支が、の護により帰国し百済王に即位した。
414年 朝鮮高句麗 広開土王(好太王)碑建立
427年 朝鮮高句麗 高句麗長寿王,国内城から平壌へ遷都
433年 朝鮮 羅・百済同盟
5世紀 朝鮮倭国 長寿王の時代には朝鮮半島の大部分から河以東まで勢力圏を拡大し、当初高句麗系の高雲を天王に戴く北燕と親善関係を結んだ。この時代には領域を南方にも拡げ、平壌城に遷都した。
475年 朝鮮倭国 遷都直後は大城山城を拠点としたが、後に平壌城に居城を構えた。長寿王は西へ進出して河以東を勢力下に収め、475年には百済の首都を陥落させて百済王を殺害、百済は南に遷都した。この時期は満洲南部、東半島、朝鮮半島の大部分を支配するに至った。
475年 朝鮮百済 王都城を失った475年当時、羅に滞在していて難を逃れた文王は都を熊津(現・忠南道公州市)に遷したが、百済は城失陥の衝撃からなかなか回復できなかった。
5世紀末 朝鮮倭国 5世紀末になると百済と羅が強くなり、百済と羅の連合により南部の領土を奪われている。危機感を覚えた高句麗は百済に接近し、中国には南北朝の両方に朝貢を行って友好を保ち、羅との対立を深めていく。高句麗が最も危惧していたのは北朝の勢力であり、その牽制のために南朝や突厥などとも手を結ぶ戦略を採った。
500年頃 朝鮮倭国百済 東城王の時代になって中国・南朝や倭国との外交関係を強化するとともに、国内では王権の伸張を図り南方へ領土を拡大して、武寧王の時代にかけて一応の回復を見せた。
500年以降 朝鮮羅 智証麻立干・法興王らが国制の整備によって国力を高め、6世紀中頃には真興王による急激な領域拡大が可能となり高句麗南部へ領土を拡大させた。
502年 朝鮮羅,牛による耕田を始めて実施
503年 朝鮮羅,国号と王号を定める
512年 百済倭国 伽耶(任那)4県を百済に譲渡
520年 朝鮮羅,律令領布,百官の公服制定
527年 朝鮮羅,仏教を公認
527年 倭国 筑紫国国造、磐井の乱。
532年 朝鮮羅,海の官伽耶を併合
534年 倭国 武蔵国造の乱。
536年 朝鮮羅,年号を使用
538年 朝鮮百済 百済の聖王は538年都を熊津から泗?(現・忠南道扶余郡)に遷した。この南遷は百済の領土が南方(全羅道方面)に拡大したためでもあると考えられる。聖王によって泗?に都が遷されると同時に、国号も南扶余と改められたが、この国号が国際的に定着することはなかった。この頃、かつての百済の都だった江流域も羅の支配下に入り、高句麗からの脅威はなくなったものの、これまで同盟関係にあった羅との対立関係が生じた。百済の聖明王,に仏像・経論を送る
540年 倭国朝鮮 伽耶(任那)問題で大伴村失脚
545年 朝鮮羅,「国史」編纂
552年 朝鮮百済 百済聖王30年,達率恕利斯致契が日本に仏教伝える
554年 倭国百済 聖王は倭国との同盟を強固にすべく諸博士や仏像・経典などを送り、倭国への先進文物の伝来に貢献したが、554年には羅との戦いで戦死する。ここにおいて朝鮮半島の歴史は高句麗と百済の対立から百済と羅の対立へ大きく旋回した。百済は次第に高句麗との同盟に傾き、共同して羅を攻撃するようになった。
562年 倭国百済 羅は百済・倭国の連合軍を退け、562年には加羅地方の大加羅を滅ぼして占領し、文字通りの三国時代となった。羅人(帰化人)の来航。
564年 羅中国 羅は中国に対しては564年に北に朝貢して翌年に冊封を受ける。
568年 羅中国 南朝のにも朝貢した。このように中国大陸の南北王朝との関係を深めたことは、半島北部の高句麗に大きな脅威を与えた。に対しても建国後まもなく使者を派遣して冊封を受けた。
587年 倭国 丁未の変により蘇我馬子が物部守屋を滅ぼす。
593年 倭国 四天王寺造立。
595年 朝鮮高句麗 高句麗の僧慧慈日本へ,聖徳太子の仏教の師となる
611年 朝鮮倭国 中国で北朝系のを滅ぼして全土を平定すると、高句麗はに対抗するため突厥と結ぶ。このためから4次にわたる侵攻を受けたが、乙支文徳の活躍もあってこれらすべて撃退した。
612年 中国高句麗 薩水大捷.高句麗の乙支文徳将軍,薩水で軍を撃破
613年 百済倭国 百済人味摩之,伎楽舞を倭国に伝える
618年 中国 煬帝の内政上の失政と外征の失敗のために各地に反乱がおき、大混乱に陥ったとき、煬帝のいとこであった李淵は617年に挙兵、煬帝の留守中の都、大興城(長安)を陥落させると、煬帝を太上皇帝に祭り上げて、その孫恭帝侑を傀儡の皇帝に立て、の中央を掌握した。翌618年に江南にいた煬帝が殺害され、李淵は恭帝から禅譲を受けて即位(高祖)、を建国した。首都は長安に置かれた。
624年 高句麗 高句麗へ,より道教伝来
626年 中国 建国の時点では、依然として中国の各地に末に挙兵した群雄が多く残っていたが、それを高祖の次子李世民が討ち滅ぼしていった。勲功を立てた李世民は、626年にクーデターを起こすと高祖の長男で皇太子の李建を殺害し実権を握った(玄武門の変)。高祖はその後退位して、李世民が第2代の皇帝(太宗)となる。
642年 高句麗 高句麗,淵蓋蘇文が宝蔵王を擁し権力掌握
642年 高句麗百済 麗済同盟。高句麗と百済が羅を攻撃するために結んだ軍事同盟で、百済が滅亡した660年まで続いた。
643年 羅は孤立することとなった。善徳女王がに救援を求めたが、このときにからの救援は得られず、逆に女王を退けての皇族を羅王に据えることを求めてきた。羅国内では親派と反派の対立を生じ、上大等の?曇が女王の廃位を求めて反乱を起こした。しかし、春秋(後の武烈王)と?信により乱は治められた。
644年から668年 朝鮮倭国 が滅びてが興ると、今度はが高句麗遠征を行った。これに備えて淵蓋蘇文はクーデターを起こして宝蔵王を擁立し、軍事政権によっての進出に対抗した。高句麗は緒戦で善戦し、の太宗が親征した第1次侵攻を撃退、百済と結んで羅を攻めた。羅の宗主国であるはこれを受けて羅を全面支援した。による高句麗への侵攻は、644年から668年まで計3次にわたって行われた。軍は羅軍と連合して大軍で高句麗を腹背から攻めた。これを迎え撃つ高句麗軍は当初は善戦したものの、後には内紛と離反で弱体化、王都平壌が攻略され、ここに高句麗は滅亡するに至った。
647年 朝鮮倭国 羅,世界最古の天文台,瞻星台建造羅王子春秋(後の武烈王)来日
650年 春秋は中国の律令制度を取り入れる改革を始め、650年にはそれまで羅独自で用いていた年号(太和)を廃止し、の年号を用いるなどして、との連携を強めていった。
654年 羅 3月に先代の真徳女王が死去し、群臣に推戴されて王位に就いた。在位中に百済を滅ぼし、三国統一の基盤を為したことから羅の太宗の廟号を贈られ、太宗武烈王とも称せられる。国では古代の君主の廟号を受けた最初の君主でもある。
655年 羅 高句麗・靺鞨・百済の連合軍(麗済同盟)が攻め入って北部辺境の33城が奪われたため、に使者を送って救援を求めた。これに応えては営州都督程名振、右中太将蘇定方らを遣わして高句麗を攻撃している。
659年 羅 百済が国境を侵して攻め込んできたため、に出兵を求める使者を派遣した。
660年 朝鮮倭国百済 の蘇定方将軍の軍が山東半島から海を渡って百済に上陸し、百済王都を占領した。義慈王は熊津に逃れたが間もなく降伏して百済人は羅および渤海や靺鞨へ逃げ、百済は滅亡した。 は百済の領域に都督府を設置して直接支配を図るが、軍の主力が帰国すると鬼室福信や黒歯常之、僧道?(どうちん)などの百済遺臣の反乱を抑え切れなかった。また百済滅亡を知った倭国でも、百済復興を全面的に支援することを決定し、倭国に人質として滞在していた百済王子・扶余豊璋を急遽帰国させるとともに阿倍比羅夫らからなる救援軍を派遣し、明天皇は筑紫国朝倉橘広庭宮に遷った。
661年 羅 武烈王はと連合して高句麗を滅ぼそうとした(の高句麗出兵)が、軍を北上させている途上で病に倒れ、661年6月に陣中で病死した。
663年 朝鮮倭国百済 国した豊璋は百済王に推戴されたが、実権を握る鬼室福信と対立し、遂にこれを殺害するという内紛が起きた。やがて本国から劉仁軌の率いるの増援軍が到着し、663年倭国の水軍と白村江(白馬江)で決戦に及んだ(白村江の戦い)。これに大敗した倭国は、各地を転戦する軍を集結させ、亡命を希望する百済貴族を伴って帰国させた。豊璋は密かに高句麗に逃れた。しかし、高句麗もまた668年にの軍門に降ることになる。
高句麗滅亡後北部の高句麗遺民はによって営州(現在の寧省朝陽市)へ強制移住させられた。剣牟岑など高句麗の末裔による数度にわたる再興は全て失敗したが、一部の遺民は、粟末靺鞨の建国した渤海国に参加している。旧領に残った者は、後に勃興した女真のに取り込まれていき、歴史から姿を消した。一部の遺民は宝蔵王の庶子(あるいは淵蓋蘇文の甥ともいう)の安勝を担いで羅に入り、羅から高句麗王(後に報徳王)として冊封され、羅内で684年まで命脈を保った。また、遺民の一部にはへ逃れた者もいる。例えば『続日本紀』によれば、武蔵国高麗郡(現在の埼玉県日高市・飯能市)は高句麗の遺民たちを移して設置したとされており。高麗神社・高麗川・日高市高麗本郷などの名にその名残を留めている。
による半島支配計画は高句麗の都があった平壌に安東都護府を設置して朝鮮半島支配を目指し、百済の故地に熊津都督府をはじめとする5つの都督府を設置して熊津都督に全体の統轄を命じた。664年の劉仁軌の上表を受けて義慈王の太子だった扶余隆を熊津都督に任じた。翌年の665年8月には就利山において扶余隆と羅の文武王が劉仁起の立会のに熊津都督府支配地域(旧百済)と羅の国境画定の会盟を行わせた。後に扶余隆は百済の歴代国王がから与えられていた「帯方郡王」に任じられ、子孫に称号が継承されている。これは百済の亡国の太子がによって羅王と同格と扱われたことを示すとともに、高句麗最後の王・宝蔵王の東都督任命と対比することができる。そのため、扶余隆の熊津都督任命が単に百済遺民の慰撫を目的としているだけではなく、百済や高句麗(安東都護府・東郡王)を滅亡前の冊封国ではなく羈縻州として組み込み、さらに残された羅(鶏林州都督府・楽浪郡王)を羈縻体制に組み入れ「朝鮮半島全域の中華帝国への編入」を視野に入れて居り、後年実行に移されて居る。
羅との対立の支配に反した羅は反乱を起こすと共に百済・高句麗の遺民を蜂起させ、日本とも友好関係を結んだ。西方で国力をつけた吐蕃の侵入で都長安までもが危険に曝される状態となったは、物理的に遥かなる遠方に位置する上に、経営が赤字だった朝鮮半島を放棄せざるを得なくなり、これで百済の故地は羅の支配下に入った。羅は百済故地に残留した百済の支配層を羅の貴族階層へ取りこんでいくことで羅支配の実効性を確保していった。ただし、前述のように扶余隆の子孫への帯方郡王任命は継続されており、は表向きは百済への支配権を主張する体裁を採っていた。
三国時代および人関連の朝鮮文献
『三国史記』の新羅本紀は「辰の斯蘆国」の時代から含めて一貫した羅の歴史としているが、史実性があるのは4世紀の第17代奈勿王以後であり、それ以前の個々の記事は伝説的なものであって史実性は低いとされる。中国史料に確認できる羅の初出記事は、『資治通鑑』巻104・太2(377年)年条に高句麗とともに前秦に朝貢した記事が伝えられ、百済と同様4世紀に長をとげ、国際舞台に登場する。6世紀中頃に半島中南部の加羅諸国を滅ぼして配下に組み入れた。が660年に百済を、668年に高句麗を滅ぼした時には、羅は軍指揮下で参軍した(羈縻支配)。その後、が吐蕃と戦争を始めると、反乱を起こして旧百済領全土と旧高句麗の南半分を統治するの役所を襲撃して官員を殺戮し(羅戦争)朝鮮半島の中南部を統一した。百済は4世紀中頃に国際舞台に登場する(『晋書』「慕容載記」)。それ以前の歴史は同時代資料では明らかでない。国際舞台への登場は、360年代の伽耶南部・との通交と372年の東への遣使である。 『三国史記』や『三国遺事』によれば朱蒙(東明聖王)がBC37年に高句麗を建てた。考古学や史は高句麗はBC2世紀の古朝鮮の滅亡時期の辺に既に存在したとする。疲弊と内紛の後に668年に羅との連合軍に滅ぼされるまで、高句麗は東アジアにおいて強い影響力を持つ帝国であり軍国であった。
前37年 高句麗 夫余の王族である朱蒙(チュモン)により建てられたという。『書』と『三国史記
32年 高句麗 高句麗は後漢の光武帝に朝貢した際に、光武帝より高句麗王に冊封された。
59年 の五月に倭国と友好関係を結んで修交し、使者を派遣し合った。(新羅本紀)
73年 人が木出島を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。(新羅本紀)
73年 人が木出島を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。(新羅本紀)
121年 四月に人が東の辺境を攻めた。(新羅本紀)
123年 羅 春三月に倭国と講和した。(新羅本紀)
158年 人が交際のために訪れた。(新羅本紀)
173年 の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年五月。女王卑彌乎。遣使来聘」)(新羅本紀)
193年 人が大飢饉となり千余人にも及ぶ避難民到来。(新羅本紀)
197年 高句麗 第9代の故国川王が死んだ後、王位継承をめぐって岐と延優(後の10代山上王)との間に争いが起こり、卒本に拠った岐は公孫度を頼って延優と対立したが、丸都城に拠った延優が王となって岐の勢力を併呑した。
219年 高句麗 高句麗の政情不安に付け込んだ東太守の公孫康が高句麗へ侵攻し、高句麗は敗退して村々が焼かれたほか、伯固の長子岐、涓奴部ほか各将が下戸3万余人を引き連れ公孫氏へ降った。
232年 四月に人が城を包囲。(新羅本紀)
233年 羅 五月兵が東辺を攻めた。(新羅本紀)
242年 高句麗 西安平で寇掠を働きの将軍?丘倹による侵攻を招いた。
244年 高句麗 1回目の侵攻が行われ、東川王(位宮)は2万の兵を率いて迎え撃ったが連戦連敗し、丸都城を落とされ千人が斬首された。?は将兵の墳墓破壊を禁じ捕虜と首都を返還したが高句麗は服属しなかった。
245年 高句麗 再び軍の侵攻を招いた。軍は南北の2方向から侵攻して高句麗を大いに打ち破り全土の村々を落とすと、東川王は南沃租へ逃げたが更に追撃を受け北方にある粛慎との境いまで逃れた。この戦いにより3千人が捕えられて斬首され、従属させていた東?も高句麗を離れに服属した。
249年 四月に人が舒弗邯、于老を殺した。(新羅本紀)
287年 四月に人が一礼部を襲う。(新羅本紀)
289年 五月に、兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。(新羅本紀)
292年 六月に兵が沙道城を攻め落とす。(新羅本紀)
294年 四月に人が舒弗邯、于老を殺した。(新羅本紀)
295年 羅 春王が臣下に向かって「人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国()を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。(新羅本紀)
300年 羅 春正月に、倭国と使者を派遣し合った。(新羅本紀)
312年 羅 春三月に、倭国の国王が使臣をつかわして、息子のために求婚したので、王は阿?の急利の娘を倭国に送った。(新羅本紀)
312年 高句麗 その後も東半島への進出を目指し、西晋八王の乱五胡の進入などの混乱に乗じて312年に楽浪郡を占拠し、この地にいた人を登用することで技術的、制度的な展も遂げた。しかし、西に前燕を建国した鮮卑慕容部の慕容?に都を落され、臣従した。
344年 倭国が使者をつかわして、婚姻を請うたが、すでに以前に女子を嫁がせたことがあるので断った。(新羅本紀)
345年 羅 二月に王が、書を送って国交を断ってきた。(新羅本紀)
346年 兵が風島に来て、進んで城を包囲して攻めて来た。(新羅本紀)
355年 高句麗 前燕から〈征東将軍・営州刺史・楽浪公・高句麗王〉に冊封されている。前燕前秦に滅ぼされると引き続いて前秦に臣従し、372年には僧侶・仏典・仏像などが伝わった。この間、371年には百済の攻撃に王が戦死する危機に直面する。
364年 人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、人は大いに敗れて逃走した(新羅本紀)
372年 高句麗 前秦の苻堅が高句麗に仏像や経文を送り、高句麗は官史養のために太学創立、朝鮮半島を支配下に置いていた国家では最も早く仏教を受容した。
375年 高句麗 肖門寺・伊弗蘭寺を創建して順道・阿道らの僧を配したことが朝鮮半島での仏教の始まりと考えられている。既に東の僧・支遁(366年没)が高句麗僧に書を送ったことが伝えられており、小獣林王の主導した仏教受容は国家的な取り組みであったことと見られる。
391年 高句麗 そもそも羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、が辛卯年(391年)に■を渡り百残・■■・羅を破り、臣民となしてしまった。(好太王碑文)
393年 人が来て城を包囲し、5日も解かなかった。(新羅本紀)
397年 百済 五月王は倭国と友好関係を結び、太子の腆支を人質としてに送った。(百済本紀)
399年 高句麗 百済は先年の誓いを破ってと和通した。そこで王は百済を討つため平譲にでむいた。ちょうどそのとき羅からの使いが「多くの人が羅に侵入し、王をの臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。(好太王碑文)
400年 高句麗 5万の大軍を派遣して羅を救援した。羅王都にいっぱいいた軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、羅の王都を占領した。(好太王碑文)
402年 百済 五月使者を倭国につかわして、大きな珠を求めた。(百済本紀)
402年 羅 三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質としてに送った。(新羅本紀)
403年 百済 春二月倭国の使者が来たので、王は彼を迎えて慰労し、特に厚く遇した。(百済本紀)
404年 高句麗 が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。(好太王碑文)
405年 兵が明活城を攻める(新羅本紀)
407年 羅 春三月人が東辺を侵し、六月にまた南辺を攻める。(新羅本紀)
408年 羅 春二月、王は、人が対馬島に軍営を設置し、兵器・武具・資財・食糧を貯え、我が国を襲撃することを企てているとの情報を手に入れた。兵が出動する前に、精兵を選んで兵站をしようと考えたが、舒弗邯の未斯品曰く「兵は凶器であり戦は危険な事です。ましてや大海を渡って他国を討伐し、万が一に勝つことができなければ、後で悔やんでも仕方ありません」王はこの意見に従った。(新羅本紀)
4c末-5c 高句麗 高句麗は(日本)と敵対関係にあったので、当時の高句麗人が自的に移住してきたのか戦争捕虜であったのかは不明である。この時期の高句麗がと敵対したことを示すものとして、の順帝に対して、478年に王武が上表した「而句驪無道圖欲見呑掠抄邊隷虔劉不已毎致稽滯以失良風雖曰進路或通或不臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大舉奄喪父兄使垂之功不獲一簣居在諒闇不動兵甲是以偃息未捷至」との文言点からも裏付けられる。
405年 百済 の人質となっていた百済王子の腆支が、の護により帰国し百済王に即位した。
418年 百済 使者を倭国につかわし、白綿を十反を送った。(百済本紀)
418年 羅 高句麗と倭国への人質(未斯欣)が逃げ帰った。(新羅本紀)
428年 百済 倭国からの使者が来たが、随行者が五十名であった。(百済本紀)
5世紀初 高句麗 広開土王の時代には平壌に9ヶ寺の建立が進められた。高句麗の仏教は老荘思想を介して神仙信仰と習合していたと見られている。神仙信仰はその後、6世紀頃からは道教として支配者層に広まっていったことが、古墳壁画に仙人・天女の描かれることからも窺える。
5世紀 高句麗 長寿王の時代には朝鮮半島の大部分から河以東まで勢力圏を拡大し、当初高句麗系の高雲を天王に戴く北燕と親善関係を結んだ。この時代には領域を南方にも拡げ、平壌城に遷都した
431年 兵が、東の辺境に攻めて来て、明活城を包囲したが、功なくして退いた。(新羅本紀)
440年 人が、南の辺境に侵入。六月にまた東の辺境を攻める。(新羅本紀)
444年 四月に、兵が城を十日包囲して、食料が尽きて帰った。(新羅本紀)
459年 四月に、人が兵船百余隻を以って東辺を襲い、月城を囲んで進撃したが、追撃してこれを破る。(新羅本紀)
462年 五月に、人が活開城を襲い破り、一千名を捕らえて連れ去った。(新羅本紀)
463年 人が歃良城(山)を攻めるも勝てずして去った。(新羅本紀)
475年 高句麗 百済の首都を陥落させて百済王を殺害、百済は南に遷都した。この時期は満洲南部、東半島、朝鮮半島の大部分を支配するに至った。
476年 人が東辺を攻める。(新羅本紀)
477年 人が兵をあげて五道に侵入したが、ついに何の功もなく帰った。(新羅本紀)
482年 羅 五月に人が辺境を攻める。(新羅本紀)
486年 四月に人が辺境を攻める(新羅本紀)
5世紀末 高句麗 百済と羅の連合により南部の領土を奪われている。危機感を覚えた高句麗は百済に接近し、中国には南北朝の両方に朝貢を行って友好を保ち、羅との対立を深めていく。高句麗が最も危惧していたのは北朝の勢力であり、その牽制のために南朝や突厥などとも手を結ぶ戦略を採った
5世紀末 高句麗 本格的に開始された高句麗遠征は113万人の兵士が徴兵される大規模なものであった。1回目の遠征は大敗し、さらに兵糧不足もあって撤退する。
500年 羅 春三月人が長峯鎮を攻め陥した。(新羅本紀)
589年 高句麗 中国で北朝系のを滅ぼして全土を平定すると、高句麗はに対抗するため突厥と結ぶ。このためから4次にわたる侵攻を受けたが、乙支文徳の活躍もあってこれらすべて撃退した。
608年 百済 が文林郎裴倭国へ使者として送ったが、わが国の南路を経由した(百済本紀)
618年 高句麗 が滅びてが興ると、今度はが高句麗遠征を行った。これに備えて淵蓋蘇文はクーデターを起こして宝蔵王を擁立し、軍事政権によっての進出に対抗した。高句麗は緒戦で善戦し、の太宗が親征した第1次侵攻を撃退、百済と結んで羅を攻めた。
624年 高句麗 に願い出て、『道徳経』などを下賜されるとともに道士の派遣を要請し、高句麗の国内で道教の講義を開いてもいる。また仏教寺院を道観に転じることもあった。
653年 百済 秋八月、王は倭国と修交した。(百済本紀)
660年 高句麗 羅の宗主国であるはこれを受けて羅を全面支援した結果、百済が滅亡。
662年 百済 七月扶余豊は、高句麗と倭国に使者を派遣して援兵を乞う。羅連合軍は百済遺民軍の救援にきた軍の軍船400艘を白江に焼く。(百済本紀)
663年 倭国の水軍が来て、百済を助ける。(新羅本紀)
663年 高句麗 白村江の戦いで百済の残存勢力も一掃されたため、高句麗は孤立した。さらに高宗の時代になってが戦略を持久戦に転換した結果、高句麗の国力消耗。
668年 高句麗 淵蓋蘇文の死後子の間で内紛が生じると、これを機に羅連合軍は第3次侵攻を起こして王都平壌を攻め、宝蔵王は投降。ここに高句麗は滅亡した。滅亡後は北部の高句麗遺民はによって営州(現在の寧省朝陽市)へ強制移住させられた。剣牟岑[8]など高句麗の末裔による数度にわたる再興は全て失敗したが、一部の遺民は、粟末靺鞨の建国した渤海国に参加している。旧領に残った者は、後に勃興した女真のに取り込まれていき、歴史から姿を消した。遺民の一部にはへ逃れた者もいる。例えば『続日本紀』によれば、武蔵国高麗郡(現在の埼玉県日高市・飯能市)は高句麗の遺民たちを移して設置したとされており。高麗神社・高麗川・日高市高麗本郷などの名にその名残を留めている。
670年 羅 十二月倭国が国号を日本と改めた。自ら言うところでは、日の出る所に近いから、これをもって名としたとの事である。(新羅本紀)
698年 羅 三月に日本国から使臣が来たので、王は崇礼殿で引見した。(新羅本紀)
703年 羅 日本国から使臣が来たが、みんなで二百四名であった。(新羅本紀)
722年 羅 日本の賊の路を遮断した。(新羅本紀)
731年 羅 日本国の兵船三百隻が海をえて、東辺を襲う。(新羅本紀)
742年 羅 日本の国使が来たが、これを受け付けなかった。(新羅本紀)
753年 羅 秋八月に日本国使が来た。高慢無礼と判断し、王は接見しなかった。(新羅本紀)
継体天皇時代から中国統一王朝時代へ三国時代倭国
509年2月 日本継体 百済に遣使した。
512年4月 日本継体 穗積臣押山を百済に派遣し、筑紫の国の馬40匹を賜った。12月、百済が遣使貢調し、任那国の上??・下??・娑陀・牟婁の四県を請うた。??国守穗積臣押山は四県の下賜を進言し、大伴大連村もこれを了承し、物部大連麁鹿火を宣勅使とし、百済に任那四県を賜った。
513年6月 日本継体 済が姐彌文貴将軍・洲利即爾将軍を派遣し、穗積臣押山に副えて五経博士段楊爾を貢上し、伴跛国に奪われた百済の己?の地の奪還を要請した。11月、己?・帯沙を百済国に賜った。この月、伴跛国が?支を派遣し、珍宝を献上し己?の地を乞うたが、承知しなかった。
514年3月 日本継体 伴跛が城を小呑・帯沙に築き満奚に連ね、のろし台、兵糧庫を置き、日本に備えた。羅を攻め村邑を略奪した。
515年2月 日本継体 百済の使者文貴将軍に物部連を副えて送った。この月、沙都島に着くと伴跛人が残虐をほしいままにしているというので、物部連は水軍五百を率いて帯沙江に向った。
516年5月 日本継体 百済が前部木刕不麻甲背を派遣し、物部連らを己?に迎え労をねぎらい、国に導いて入った。9月、百済が物部連に副えて州利即次将軍を派遣し、己?の地を賜ったことに感謝の意を表した。14日、百済が高麗使安定らに副えて灼莫古将軍と日本斯那奴阿比多を派遣し、来朝して好を結んだ。
527年6月 日本継体 近江毛野臣は兵6万を率いて、羅に破られた南加羅と[口?]己呑を復興し任那に合わせようとした。このとき筑紫国造磐井が火豐二国を拠りどころとし、高麗・百済・羅・任那の年貢職船を誘致し、また毛野臣軍を遮った。8月、物部麁鹿火大連を磐井征討の将に任じた。
528年11月 日本継体 物部大連麁鹿火は筑紫御井郡で磐井と交戦し、磐井を斬り、境界を定めた。12月、筑紫君葛子は殺されるのを恐れて、糟屋屯倉を献上して死罪を免れるよう乞うた。
529年3月 日本継体 百済王が下??国守穗積押山臣に、加羅の多沙津を百済朝貢の経由港に請うた。物部伊勢連父根・吉士老を派遣して、多沙津を百済に賜った。加羅王は、この港は官家を置いて以来、朝貢するときの渡航の港であるのになぜ隣国に賜うのか、と日本を怨み羅と結んだ。加羅王は羅王女を娶るがその後羅と仲違いし、羅は拔刀伽・古跛・布那牟羅の三城、北境の五城を取った。この月、近江毛野臣を安羅に派遣し、羅に対し南加羅・[口?]己呑を建てるようにいった。百済は将軍君尹貴・麻那甲背・麻鹵らを、羅は夫智奈麻禮・奚奈麻禮らを安羅に派遣した。4月、任那王の己能末多干岐が来朝し、羅がしばしば国境をえて来侵するので救助して欲しいと請うた。この月、任那にいる毛野臣に、任那と羅を和解させるよう命じた。毛野臣は熊川にいて羅(王佐利遲)と百済の国王を呼んだ。しかし二国とも王自ら来なかったので毛野臣は怒った。羅は上臣伊叱夫禮智干岐を派遣し三千の兵を率いて、勅を聴こうとしたが、毛野臣はこの兵力をみて任那の己叱己利城に入った。羅の上臣は三月待ったが毛野臣が勅を宣しないので、四村(※官・背伐・安多・委陀、一本では、多々羅・須那羅・和多・費智)を略奪し本国へひきあげた。多々羅など四村が掠奪されたのは毛野臣の過である、と噂された。
530年9月 日本継体 任那使が、毛野臣は久斯牟羅に舍宅をつくり2年、悪政を行なっていると訴えた。天皇はこれを聞き呼び戻したが、毛野臣は承知せず勝手な行動をしていたので、任那の阿利斯等は久禮斯己母を羅に、奴須久利を百済に派遣して兵を請うた。毛野臣は百済兵を背評で迎え撃った。二国(百済と羅)は一月滞留し城を築いて還った。引き上げるとき、騰利枳牟羅・布那牟羅・牟雌枳牟羅・阿夫羅・久知波多枳の五城を落とした。10月、調吉士が任那から来て、毛野臣が加羅に争乱を起こしたことなどを上申した。そこで目頬子を派遣して毛野臣を呼び戻した。この年、毛野臣は対馬に着いたが病気になり死んだ。送葬に川をたどって近江に入った。目頬子がはじめて任那に着いたとき、郷家らが歌を贈った。「国にいかに言ことそ目頬子来るむかさくる壱岐の渡りを目頬子来る」『百済本記』によれば、25年〔531〕3月、軍は安羅に至り乞?城をつくった。この月、高麗がその王・安を殺した。また、日本の天皇及び太子・皇子がともに亡くなったという。
534年5月 日本安閑 百済が下部脩徳嫡徳孫・上部都徳己州己婁らを派遣し、いつもの調を貢上した。
537年10月 日本宣化 羅が任那に侵入して荒らしたので、大伴村大連に命じて、磐と狭手彦を派遣し任那を助けた。磐は筑紫に留まり三に備え、狭手彦は任那を鎮め、加えて百済を救った。
538年 日本宣化 百済の聖王(聖明王)が、釈迦仏像や経論などを朝廷に贈り、仏教が公伝される。
540年8月 日本欽明 麗・百済・羅・任那が遣使貢献した。
541年4月 日本欽明 安羅・加羅・卒麻・散半奚・多羅・斯二岐・子他・任那日本府の官が百済に行き、詔書を聴いた。百済聖明王は任那旱岐らに、天皇の願いは任那復興であること、また、今羅にだまされたのは自分の過ちであり、それを悔いて下部中佐平麻鹵・城方甲背昧奴らを加羅に派遣し、任那日本府と会い任那を建てることを誓いあったこと、[口?]己呑や南加羅が取られたのは羅が強かったからではなく、皆で力を合わせれば必ず任那は復興できることを説いた。7月、百済は安羅日本府と羅が通じていると聞き、前部奈率鼻利莫古・奈率宣文・中部奈率木刕?淳・紀臣奈率彌麻沙らを安羅に派遣し、安羅日本府の河内直が羅と通じていたことを責めた。そして任那(安羅を代表とする諸国)に、百済と任那の昔からの関係、羅への警戒などについて語り、百済にしたがい天皇の勅を聴き、任那を立てるようにいった。聖明王はさらに任那日本府に、(日本府の)卿らが羅の言葉を真に受けて任那を滅ぼし、天皇を辱めるのを恐れるといった。百済が紀臣奈率彌麻沙・中部奈率己連を派遣し、下・任那の情勢を報告した。
543年9月 日本欽明 百済聖明王が前部奈率眞牟貴文・護徳己州己婁と物部施徳麻奇牟らを派遣して、扶南の財物と奴二口を献上した。11月、津守連を百済に派遣し、任那の下にある百済の郡令城主を日本府に附けるように、また、任那を早く建てるようにいった。12月、聖明王はこの詔勅についていかにしたらよいか群臣に聴いた。上佐平沙宅己婁・中佐平木刕麻那・下佐平木尹貴・徳率鼻利莫古・徳率東城道天・徳率木刕?淳・徳率国雖多・奈率比善那らは協議して、任那の執事、国々の旱岐らを呼んで協議するのが善策であり、河内直・移那斯・麻都らが安羅に住んでいたのでは任那を建てるのは難しい、と答えた。この月、百済は任那と日本府の執事を呼んだが、ともに旦が過ぎてから行くと答えた。
544年1月 日本欽明 正月、百済はまた任那と日本府の執事を呼んだが、ともに祭が終わってから行くと答えた。百済はさらに遣使し、任那と日本府の執事を呼んだが、ともに身分の低いものが来たので、任那を建てる協議ができなかった。2月、百済は施徳馬武・施徳高分屋・施徳斯那奴次酒らを任那に派遣し、日本府と任那の旱岐らに、日本府・任那の執事を三回召集したが来なかったので、任那の政を図り天皇に申し上げることができなかった、日本府の卿と任那の旱岐らは百済へ来て天皇の宣勅を聴くように、といった。また別に、河内直・移那斯・麻都と河内直の先祖である那干陀甲背・加獵直岐甲背の悪行を責めた。これに対して日本府は、日本の臣と任那の執事は羅に行って勅を聴くようにといわれており、百済に行かなかったのは任那の意向ではない、といった。3月、百済は奈率阿?得文・許勢奈率奇麻・物部奈率奇非らを派遣し、阿賢移那斯・佐麻都が安羅にいると任那を建てるのは難しいこと、的臣らが天朝を欺いたこと、佐麻都は羅の奈麻礼の冠をつけていること、[口?]国と卓淳国が滅んだのは内応や二心が原因であることなどを上申した。10月、百済使者奈率得文・奈率奇麻らが帰った。11月、百済が日本府の臣、任那の執事を呼んで、百済に来て勅を聞くようにいった。日本(府)の吉備臣、安羅の下旱岐大不孫・久取柔利、加羅の上首位古殿奚、卒麻の君、斯二岐の君、散半奚の君の子、多羅の二首位訖乾智、子他の旱岐、久嗟の旱岐が百済に行った。 百済王聖明は詔書を示して、どのようにしたら任那を建てることができるか、と訊いた。吉備臣、任那の旱岐らは、任那を建てるのは大王にかかっている、大王に従いたい、といった。聖明王は、①羅と安羅の境に大川があるので、その地に拠って六城を修復し、天皇に三千の兵士を請う。②南は北敵の防羅を攻めるのに必要であり、郡令城主は引続き置く。③吉備臣、河内直、移那斯、麻都が任那にいたのでは任那を建てることはできないので、本邑に還るよう天皇にお願いする、という三つの策を示した。
545年3月 日本欽明 膳臣巴提便を百済に派遣した。5月、百済が奈率其[??]・奈率用奇多・施徳次酒らを派遣して上表した。9月、百済が中部護徳菩薩らを任那に派遣した。この月、天皇の善徳と官家の国の福を願い、百済が丈六の仏像を造った。この年、高麗に大乱があり、多数のものが殺された。。(※注の『百済本記』には、「高麗の細群と麁群が戦い、細群が敗れた。狛国王香岡上王が亡くなった」とある。『三国史記』「高句麗本紀」によれば、このときの高句麗王は安原王である。)
546年6月 日本欽明 百済が中部奈率掠葉礼らを派遣し、調を献上した。この年、高麗に大乱があり、二千余人が戦死した。
547年4月 日本欽明 百済が前部徳率真慕宣文・奈率奇麻らを派遣し、救軍を乞うた。
548年1月 日本欽明 百済使者前部徳率真慕宣文らの帰国に際し、救軍は必ず送るからすみやかに王に報告するようにといった。4月、百済が中部杆率掠葉礼を派遣し、馬津城の役で、安羅と日本府が高麗と通じ百済を伐とうとしたことがわかったので、しばらくの間救兵を停止してもらいたいといってきた。6月、百済に遣使して、任那とともに対策を練り防ぐように、といった。10月、370人を百済に派遣し、得爾辛に城を築くのを助けた。
549年6月 日本欽明 将徳久貴・固徳馬次文らが帰国するとき、移那斯と麻都が高麗に遣使したことの虚実を調査し、救兵は停止する、といった。
550年2月 日本欽明 百済に遣使し、北敵は強暴だと聞く、矢30具を与える、といった。4月、百済にいた日本王人が帰国しようとしたとき、百済王聖明は、任那のことは勅を固く守る、移那斯と麻都のことは勅に従うだけだといい、高麗奴六口、別に王人に奴一口を贈った。
551年3月 日本欽明 麦の種一千斛を百済王に賜った。この年、百済聖明王は二国の兵(羅・任那)を率い高麗を征伐し城を獲った。平壤を討ち旧領を回復した。
552年5月 日本欽明 百済・加羅・安羅が中部徳率木刕今敦・河内部阿斯比多らを派遣し、高麗と羅が百済と任那を滅ぼそうと計画しているので、兵を出し不意を攻めるよう求めた。10月、百済聖明王が西部姫氏達率怒?斯致契らを派遣して、釈迦仏銅像一?・幡蓋若干・経論若干巻を献上した。この年百済が城と平壤を棄て、羅が城に入った。今の羅の牛頭方・尼彌方である。
553年1月 日本欽明 百済は上部徳率科野次酒・杆率礼塞敦らを派遣し、軍兵を乞うた。6月、内臣を百済に遣使し、良馬二匹・同船二隻・弓50張・箭50具を与えた。また医博士・易博士・暦博士を交替させ、卜書・暦本・種々の薬物を送付するようにいった。8月、百済が上部奈率科野羅・下部固徳?休帯山らを派遣し、援軍の派遣(羅と狛国が安羅を奪取し道を遮断しようとしている)、亡くなった的臣の代わりの派遣、そして弓馬を乞うた。10月、百済王子余昌が高麗と合戦した。
554年1月 日本欽明 百済が中部木刕施徳文次・前部施徳曰佐分屋らを筑紫に派遣して、内臣・佐伯連らに、この年の役は前よりも危ういので正月に間に合わせてほしい、といった。内臣は、すぐに援助軍一千、馬百匹、船四十隻を派遣する、といった。2月、百済が下部杆率将軍三貴・上部奈率物部烏らを派遣して救兵を乞うた。百済は、奈率東城子言に代えて徳率東城子莫古を送り、五経博士・僧を交替し、別に易博士・暦博士・医博士・採薬師・楽人を送った。5月、内臣が水軍を率いて百済に到着した。12月、百済が下部杆率?斯干奴を派遣し、有至臣の軍に加え(狛と羅が協力しているので有至臣軍だけでは足りない)竹斯島の兵士の派遣を要請し、百済は任那を助けにいく、事は急である、といった。余昌は羅を討つことを謀った。老臣が止めるのも聞かず、羅に入り久陀牟羅の塞を築いた。父明王は憂慮し自ら出かけていった。羅は明王みずから来たと聞き、国中の兵をして道を断ち撃破した。明王は羅の奴・苦都の手で殺された。余昌は敵に囲まれたが、弓の名手・筑紫国造の働きによって逃げることができた。
555年2月 日本欽明 百済王子余昌が王子恵を派遣し、聖明王が賊のために殺されたことを報告した。
556年1月 日本欽明 百済世子恵が帰国するとき、大量の兵器・良馬を与え、阿倍臣・佐伯連・播磨直を派遣して、筑紫国の水軍を率い、護して国に送った。別に筑紫火君を派遣して、勇士一千を率いて、彌弖まで護送した。港の路の要害の地を守らせた。
560年9月 日本欽明 羅が彌至己知奈麻を派遣して調賦を献上した。
561年 日本欽明 羅が久礼叱及伐干を派遣して調賦を献上したが、もてなす儀礼が減っていたので、及伐干は怒り恨んで帰った。この年また、羅が奴?大舎を派遣して、前と同じ調賦を献上した。序列が百済の下だったので大舎は怒って還った。羅は城を阿羅の波斯山に築き、日本に備えた。
562年1月 日本欽明 羅が任那の官家を攻め滅ぼした。(※注の一本には、21年に任那は滅んだとある。また総体を任那といい、個々の国は加羅国・安羅国・斯二岐国・多羅国・卒麻国・古嵯国・子他国・散半下国・乞?国・稔礼国、合わせて十国だとある。)7月、羅が遣使して調賦を献上した。使者は羅が任那を滅ぼしたのを知っていたので帰国を請わなかった。この月、大将軍紀男麻呂宿禰は兵を率いて??を出て、副将河辺臣瓊岳は任那に行った。紀男麻呂は羅を破り百済に入った。河辺臣瓊岳は戦事に通暁せず、羅に撃破された。8月、大将軍大伴連狭手彦を派遣し、兵数万をもって高麗を伐った。狹手彦は百済の計をもって高麗を打ち破った。11月、羅が遣使して調賦を貢上した。使者は羅が任那を滅ぼしたのを知っていたので帰国を請わなかった。
570年4月 日本欽明 高麗の使者が風浪に苦しみ、の海岸に漂着した。天皇は、山背国楽郡に館を建てめ、厚くたすけ養うようにといった。
571年3月 日本欽明 坂田耳子郎君を羅に派遣して、任那の滅んだ理由を訊いた。4月、天皇は皇太子に、羅を撃って任那を建てるようにといった。8月、羅が弔使未叱子失消らを派遣した。
573年5月 日本敏達 高麗の使者がの海岸に泊まった。高麗が頻繁に道に迷うのを疑い、吉備海部直難波に高麗使を送り還らせた。
574年5月 日本敏達 高麗の使者がの海岸に泊まった。11月、羅が遣使進調した。
575年2月 日本敏達 百済が遣使進調した。羅がまだ任那を建てないので、天皇は皇子と大臣に任那のことを怠らないようにといった。4月、吉士子を羅に、吉士木蓮子を任那に、吉士訳語彦を百済に派遣した。6月、羅が遣使進調した。あわせて多々羅・須奈羅・和陀・鬼の四つの邑の調を進上した。
577年5月 日本敏達 大別王と小黒吉士を派遣して、百済国に宰とした。11月、百済国王は大別王らに経論若干巻・律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工六人を献上した。
579年10月 日本敏達 羅が枳叱政奈末を派遣して進調した。あわせて仏像を送った。
580年6月 日本敏達 羅が安刀奈末・失消奈末を派遣して進調したが、納めずに帰国させた。
581年- 618年 中国 中国に王朝が立した。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した。の大陸統一により、脅威を感じた高句麗がの敵・突厥と結んでに対抗しようとする様子を見せたため、は100万に及ぶ大軍を起こし、これを3度にわたって攻撃した。612年から本格的に開始された高句麗遠征は113万人の兵士が徴兵される大規模なものであった。
582年10月 日本敏達 羅が安刀奈末・失消奈末を派遣して進調したが、納めずに帰国させた。
583年7月 日本敏達 天皇は任那復興を謀るため、百済に紀国造押勝と吉備海部直羽嶋を派遣して日羅を呼んだ。百済国王は日羅を惜しんで承知しなかった。この年、再び吉備海部直羽島を百済に派遣し日羅を呼んだ。百済国王は天朝を畏れて敢えて勅に背かなかった。日羅らは吉備児島の屯倉に着いた。朝庭は大夫らを難波館に派遣して日羅を訪ねさせ、また館を阿斗の桑市に造って住まわせた。阿倍目臣・物部贄子連・大伴糠手子連を派遣し、国政について日羅に訊いた。日羅は、百済が筑紫を請おうといっているので、壱岐・対馬に伏兵を置き、やってくるのを待って殺すべきである、だまされてはいけない、といった。日羅は難波の館に移った。百済の大使と副使は臣下に日羅を殺させた。日羅は蘇生して、これはわが使の奴がしたことで羅ではない、といった。
584年2月 日本敏達 難波吉士木蓮子を羅に派遣した。ついに任那に行った。
587年2月 日本用明 天皇の仏教帰依について物部守屋と蘇我馬子が対立。後の聖徳太子は蘇我氏側につき、物部氏を滅ぼした。物部氏を滅ぼして以降、約半世紀の間、蘇我氏が大臣として権力を握った。
588年1月 日本崇峻 百済国が使者とともに恵総・令斤・恵らを送り、仏舎利を献上した。飛鳥の衣縫造の祖樹葉之家を壊して、蘇我馬子がはじめて法興寺(※興寺)をつくった。
591年8月 日本崇峻 天皇が群臣に、任那を建てたいと思うがどうか、といった。みな、天皇の思いと同じであるといった。11月、紀男麻呂宿禰・許勢猿臣・大伴囓連・葛城烏奈良臣を大将軍とし、二万余の軍をもって出向いて筑紫に軍を構え、吉士羅に、吉士木蓮子を任那に送り、任那のことを問い正した。
592年 日本崇峻 蘇我馬子は東駒を遣い、崇峻天皇を暗殺すると、日本初の女帝となる推古天皇を立てた。
中国統一王朝の朝鮮半島の影響 百済・高句麗滅亡へ
593年 日本推古 厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ、摂政となった。
597年4月 日本推古 百済王が王子阿佐を使わして朝貢した。11月、吉士磐羅に派遣した。
599年9月 日本推古 百済が駱駝一匹・驢一匹・羊二頭・白雉一羽を貢上した。
600年2月 日本推古 羅と任那が攻めあった。天皇は任那を救おうと思った。この年、境部臣を大将軍とし、穗積臣を副将軍とし、任那のために羅を撃ち、五つの城を攻め落とした。羅王は多々羅・素奈羅・弗知鬼・委陀・南迦羅・阿羅々の六城を割いて降服した。羅と任那は遣使貢調し、以後不戦と毎年の朝貢を誓った。しかし将軍らが引き上げると羅はまた任那に侵攻した。
601年3月 日本推古 大伴連囓を高麗に、坂本臣糠手子を百済に派遣して、急いで任那を救うようにいった。11月、羅を攻めることをはかった。
602年2月 日本推古 来米皇子を征羅将軍とした。軍兵二万五千人を授けた。10月、百済の僧観勒が来て、暦本・天文地理書・遁甲方術書を貢上した。
603年4月 日本推古 2月に筑紫で来目皇子が亡くなったので、来米皇子の兄の当麻皇子を征羅将軍とした。12月、冠位十二階を制定。
604年4月 日本推古 聖徳太子が604年に十七条憲法を作り、仏教の興隆に力を注ぐなど、天皇中心の理想の国家体制作りの礎を築いた
605年4月 日本推古 高麗国大興王が、日本国天皇が仏像を造ると聞き、黄三百両を貢上した。
607年 日本推古 小野妹子らをに遣使として遣わして、の皇帝に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。云々。」(「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」)の上表文(国書)を送る。留学生・留学僧をに留学させて、の文化を大いに取り入れて、国家の政治・文化の向上に努めた。
610年3月 日本推古 高麗王が僧曇徴・法定を貢上した。7月、羅の使者沙部奈末竹世士と任那の使者部大舎首智買が筑紫に着いた。9月、使を遣って羅と任那の使者を呼んだ。10月、羅と任那の使者が京にやってきた。額田部連比羅夫を羅客を迎える荘馬の長とし、膳臣大伴を任那客を迎える荘馬の長とし、阿斗の河辺の館に招いた。
611年8月 日本推古 羅は沙部奈末北叱智を派遣し、任那は習部大舎親智智派派遣し、ともに朝貢した。
615年9月 日本推古 百済使が大使の犬上君に従って来朝した。
616年7月 日本推古 羅が奈末竹世士を派遣して仏像を貢上した。
618年8月 日本推古 高麗が遣使して方物を貢上した。高麗が煬帝の三十万の兵を打ち破ったときに得たものだという。
618年-907年 中国 煬帝の内政上の失政と外征の失敗のために各地に反乱がおき、大混乱に陥ったとき、煬帝のいとこであった李淵は617年に挙兵、煬帝の留守中の都、大興城(長安)を陥落させると、煬帝を太上皇帝に祭り上げて、その孫恭帝侑を傀儡の皇帝に立て、の中央を掌握した。翌618年に江南にいた煬帝が殺害され、李淵は恭帝から禅譲を受けて即位(高祖)、を建国した。首都は長安に置かれた。
620年 日本推古 聖徳太子は蘇我馬子と「天皇記・国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記」を記した。
621年 日本推古 摂政であった厩戸皇子が没す。羅が奈末伊彌買を派遣して朝貢した。
623年 日本推古 7月、羅が大使奈末智洗爾を派遣し、任那が達率奈末智を派遣し、そろって来朝した。仏像一組・塔・舎利を貢上した。この年、羅が任那を伐ち、任那は羅についた。吉士磐羅に、吉士倉下を任那に派遣し、任那の事情を訊いた。しかし使いが帰国しないうちに羅に軍を出し伐ってしまった。11月、磐・倉下らが羅から帰った。大臣は羅が調を貢上しようとしているときに攻めてしまったことを悔いた。
626年 日本推古 蘇我馬子が没す。
626年 中国 建国の時点では、依然として中国の各地に末に挙兵した群雄が多く残っていたが、それを高祖の次子李世民が討ち滅ぼしていった。勲功を立てた李世民は、626年にクーデターを起こすと高祖の長男で皇太子の李建を殺害し実権を握った(玄武門の変)。高祖はその後退位して、李世民が第2代の皇帝(太宗)となる。
630年 日本舒明 3月、高麗の大使宴子拔・小使若徳と百済の大使恩率素子・小使徳率武徳がともに朝貢した。8月、大仁犬上君三田鍬・大仁薬師恵日を大に遣わした。9月、高麗・百済の客に朝廷で饗応された。そして帰国した。この年田部連らは掖玖(屋久島)より帰国した。10月、天皇は飛鳥岡のほとり、岡本宮にお移りになった.
631年 日本舒明 三月、百済王義慈が王子豊章を人質として送った。※『三国史記』「百済本紀」では、義慈の百済王即位は641年。
632年 日本舒明 8月、が高表仁を遣わし、三田耜を送った。ともに対馬に泊まった。このとき学問僧霊雲・僧旻及び勝鳥養や羅の送使が従ってきた。
632年 日本舒明 10月、国の使人高表仁らは難波の港に泊まった。伊岐史乙等・難波吉士八牛を遣わし、客らを館に案内した。その日神酒を給わった。※『旧唐書』には、倭国伝の貞観5年(631)に、が高表仁を遣わしたが、表仁は綏遠の才がなく、王子と礼を争い、朝命を宣べずに還った。
635年 日本舒明 6月、百済が達率柔等を派遣し朝貢した。
638年 日本舒明 百済・羅・任那がそろって朝貢した。
640年 日本舒明 10月、の学問僧安・学生高向人玄理が羅を伝って帰ってきた。百済・羅の朝貢使がこれに従ってきた。
642年 日本皇極 1月、百済への使者大仁阿曇連比羅夫が筑紫国から駅馬で来て、百済国が天皇の崩御を聞き弔使を派遣してきたこと、今、百済国は大いに乱れていることを報告した。
643年 日本皇極 聖徳太子の子・山背大兄王一族(上宮王家)を滅ぼしたことなど、蘇我氏が政治を恣にした。2月、百済弔使のところに、阿曇山背連比羅夫・草壁吉士磐漢書直県を遣り、百済の消息を訊くと、正月に国主の母が亡くなり、弟王子、子の翹岐、母妹女子四人、内佐平岐味、高名な人四十人余が島に追放されたことなどを話した。高麗の使者は難波の港に泊まり、去年六月に弟王子が亡くなり、(641年)9月に大臣の伊梨柯須彌が大王を殺した、といった。高麗・百済の客を難波郡にもてなした。大臣に、津守連大海を高麗に、国勝吉士水鷄を百済に、草壁吉士眞跡を羅に、坂本吉士長兄を任那に使わすようにいった。3月、羅が賀登極使と弔喪使を派遣した。5月、百済国の調使の船と吉士の船が難波の港に泊まった。百済の使者が進調した。10月、羅の弔使の船と賀登極使の船が壱岐島に泊まった。筑紫の大宰が早馬で来て、百済国主の子翹岐と弟王子が調使とともに来た、といった。6月、筑紫の大宰が早馬で来て、高麗が遣使して来朝した、といった。百済の進調船が難波の港に泊まった。
644年 中国 の高句麗出兵は644年から668年まで計3次にわたって行われた。軍は羅軍と連合して大軍で高句麗を腹背から攻めた。ここに高句麗は滅亡するに至った。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた。
645年 日本皇極 乙巳の変で、中大兄皇子・中臣鎌子(藤原鎌足)らが宮中(飛鳥板蓋宮)で蘇我入鹿を暗殺し、蘇我蝦夷を自殺に追いやり、半世紀も続いた蘇我氏の体制を滅ぼした。
646年 日本孝徳 1月、改の詔を出した。この改の詔を以て大化の改の始まりとする。2月、高麗・百済・任那・羅が遣使して調賦を貢献した。9月、小德高向博士黑麻呂を羅に遣わして、人質を出させた。
647年 日本孝徳 正月、高麗・羅がともに遣使して調賦を貢献した。この年、羅が上臣大阿?春秋らを派遣し、博士小徳高向黑麻呂・小山中中臣連押熊を送り、孔雀一隻・鸚鵡一隻を献上した。春秋を人質とした。
648年 日本孝徳 2月、三(高麗・百済・羅)に学問僧を派遣した。この年、羅が遣使して貢調した。
649年 日本孝徳 5月、小花下三輪君色夫・大山上掃部連角麻呂らを羅に派遣した。この年、羅王が沙[口?]部沙?多遂を派遣し人質とした。従者は三十七人いた。
650年 日本白雉 2月、穴門国(後の長門国)より献上された白雉により、改する。2月、朝庭の儀式に左大臣・右大臣が百官、百済君豊璋・弟塞城・忠勝、高麗の侍医毛治、羅の侍学士らをひきいて中庭に入った。四月、羅が遣使して貢調した。【或本はいう。この天皇の世、高麗・百済・羅の三国が毎年遣使貢献してきた。】
651年 日本白雉 6月、百済と羅が遣使貢調し、物を献じた。この年、羅の貢調使知萬沙?らが服を着て筑紫に泊まった。朝廷はそれを叱責し追い返した。羅征討進言白雉2年(651年)に左大臣巨勢徳陀子が、倭国の実力者になっていた中大兄皇子(後の天智天皇)に羅征討を進言したが、採用されなかった。
652年 日本白雉 4月、羅と百済が遣使して貢調し、物を献じた。
653年 日本白雉 6月、羅と百済が遣使して貢調し、物を献じた。遣使の派遣。
654年 日本白雉 2月、大遣使は二船に分乗し、留まること数ヶ月、羅の道を取り、?州に泊まり、遂に京に着き、天子に拝謁した。このとき東宮監門郭丈挙が、日本国の地理及び国初の神名を聞いたので、問いにみな答えた。10月、天皇が亡くなった。高麗・百済・羅が遣使して弔った。遣使の派遣遣使の派遣
655年 日本明 1月、皇極天皇重祚し、明天皇となる。是歳、高麗・百済・羅がともに遣使して調を進った。羅は別に彌武を質とした。
656年 日本明 8月、8日、高麗が達沙らを遣わして調を進った。是歳、高麗・百済・羅がともに遣使して調を進った。
658年 日本国守阿倍比羅夫は658年(明天皇4年)4月、659年3月に蝦夷を、660年3月には粛慎の討伐を行った。
659年 日本明 7月、3日、小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥を国に遣使した。伊吉連博德書はいう。小錦下坂合部石布連・大山下津守吉祥連らの二船がへの路を使わされた。(中略)29日に東京に到着した。天子は東京にいた。30日、天子は見て問うた。日本国天皇は平安かどうか。(中略)11月1日、冬至の会があった。諸蕃の中で客が最も勝れていた。後に出火騒ぎがあり、智興の従者西漢大麻呂の讒言により我客のせいにされたが、伊吉連博德が説明し罪は免れた。勅旨があり、国家は来年必ず海東を征伐するから、おまえたち客は東には帰れない、といった。西京の別の処に幽置された。】
660年 日本明 是歳、【高麗の沙門道顕の日本世記はいう。7月云々。春秋智は大将軍蘇定方の手を借り、百済を挟撃して亡ぼした。あるいはいう、百済は自ら亡びた。】伊吉連博德書はいう。庚申年の8月に百済を平らげた後、9月12日に客を本国にたせた。19日に西京よりち、10月16日に東京に帰り着き、はじめて阿利麻ら5人と会うことができた。11月1日、将軍蘇定方らにとらえられた百済王以下、太子隆ら、諸王子13人、大佐平沙宅千福・国辨以下37人、あわせて50人ほどの人たちを朝堂に進め奉った。(中略)24日、東京よりった。】9月、5日、百済が達率沙彌覚従らを遣わし来朝して、奏して、「今年7月、羅が人を引き入れて百済を転覆させた。君臣みな俘となり、生きているものはいない。(中略)ただ福信だけが神武の権を起こして既に亡んだ国を興した。」といった。10月、百済の佐平鬼室福信が佐平貴智らを遣わし、来朝しての俘一百余人を献じた。今の美濃国の不破、片県の二郡の人たちである。また軍の救いを乞い、あわせて、天朝に遣わしている王子豊璋を百済国に迎え国主としたい、といった。【王子豊璋と妻子、その叔父忠勝らを送った。或本はいう。天皇は豊璋を立てて王とし、塞上を立てて輔となし、礼を以って遣した。】12月、24日、天皇は難波宮に幸した。天皇は福信の乞うところにしたがい、筑紫に行き救軍を派遣しようと思い、まずここに来て諸軍器を準備した。是歳、百済のために、まさに羅を伐とうと思い、駿河国に船を造らせた。