「稲」は日本から朝鮮に伝わった

■□■□■ 「稲」は日本から朝鮮に伝わった(解法者)■□■□■

 稲と稲の栽培が朝鮮半島を経て日本列島に伝播したという説が通説のようになっていますが、最近では逆ではないか――という学説が出されるようになったそうで、その議論をhimikoさんが紹介なさり、その問題を解法者さんがまとめて「歴史と国家」に掲載なさいました。
 たいへん興味深い内容なので、お許しを得てここに保存させていただきます。
(オロモルフ)

◆◆◆ 「稲」は日本から朝鮮に伝わった(1)◆◆◆

 稲には、「ジャポニカ(日本型)」と「インディカ(インド型)」の2種類があることはほぼ定説となっている。そのほかに「ジャワニカ」(ジャワを含むインドネシアやフィリピンにあって、米粒が大きく、長い芒〔のぎ〕を持ち、背が高く、穂の数が少ない品種)を加えることもあるが、これはジャポニカ(日本型)のなかの「熱帯ジャポニカ」の一種であるとされるので、最近はこれを分類に入れないことが多くなっている(『稲作の日本史』池橋 宏 角川書店(角川選書 337)2002年6月30日 46頁)。この2つに「稲」が分類されるのは、両者を交雑すると雑種不稔(雑種第1代の植物で穂の半分くらいしか実らないことなど)が起きるからである(『稲作の起源』池橋 宏講談社(講談社選書メチェ 350)2005年12月10日 163頁)。したがって、両者は遠縁であることになる。また、この2つの区別であるが、前者は「短粒」、後者は「長粒」であるとされてきた(加藤茂苞)。我々もそれを信じてきた。しかし、現在ではこの区別は、① フェ-ル(石灰酸)反応-色が変色しない=「ジャポニカ」、変色する=「インディカ」、② 「ふ毛(籾の先端に生えている毛-1本だけ生えている芒〔のぎ〕とは異なる)」の長さ-長く(1ミリ程度)密集して生えている=「ジャポニカ」、短く密集してない=「インディカ」、③ 塩素酸カリ-反応する(弱い)=「ジャポニカ」、反応しない(強い)=「インディカ」(『DNAが語る稲作文明』佐藤洋一郎 日本放送出版協会(NHKブックス 773)1996年7月30日 89頁)。
 なお、この2つに分類されたかといえば、稲の起源についての研究は日本が先行したことによる。中国ではこの2つの呼び方を認めていないが、今になって研究の遅れを言い出しても始まらない。
 ところで、中国の『本草綱目』(李 珍時)1578年(明代)の穀部22巻に「稲」を「稻(と)」、「粳(かう)」、「?(せん)」の3つがある。「稻」は「糯(もち)」、「粳」は「うるち-ジャポニカ」、「?」は「インディカ」とされている。この時代には、「稲」の種類が認識されていたのである。

◆◆◆ 「稲」は日本から朝鮮に伝わった(2)◆◆◆

 「稲の起源」がどこにあるかであるが、これには2つの意味がある。1つは場所の問題で、2つは系統的な問題である。
 最初に「場所の問題」を考えてみるが、おもしろいことに、「ジャポニカ(日本型)」と「インディカ(インド型)」の2つがあるにしても「稲の起源」がインドにも日本にもないということである。
 これには① バングラデッシュからミャンマ-の国境地帯である(「照葉樹林地帯説」中尾佐助〔『栽培植物と農耕の起源』岩波書店 1966年〕)、② 中国の雲南である(「原農耕圏説」渡部忠世〔『アジア稲作の系譜』法政大学出版局 1983年4月〕)、③ ヒマラヤ南麓である(「原農耕圏説」張 慈徳〔『作物の歴史と遺伝資源保存-稲の場合』1995年、④ 長江中下流である(「長江説」池橋 宏〔『稲作の起源』講談社(講談社選書メチェ 350)2005年12月10日〕、4つがある。このうち、①(②も③も「照葉樹林地帯」にあるから①に含まれよう)と④が有力である。

◆◆◆ 「稲」は日本から朝鮮に伝わった(3)◆◆◆

 この論拠は、陸稲が先か水稲が先かにつながる。「稲」が野生種から発展したことは争いがない。そして、野生種は低地の湿地にあったこともまた争いがない。①から③は山岳地帯にある(ここでは合わせて「山岳地帯説」という)。ここでは「水田」よりも「焼畑」で「米」が栽培されている。それでは、どうして湿地にあった「稲」が「山岳地帯」で栽培されたかということを「山岳地帯説」は説明しなければならない。これについては「湿地で栽培化された稲が山岳地帯で「焼畑」での陸稲栽培として展開され、それがやがて「棚田」になった」という(中尾佐助 前掲書)。しかし、この説明は素人でも疑問が残る。湿地で栽培化されれば何もわざわざ山岳地帯に持っていかなくともそこで水稲栽培すればよい。別に「棚田」でなくとも低地には水を貯めている場所がある。それと「焼畑」からなぜ「棚田-水田」が派生したかの説明がない。この両者は全く関係がなく、別個に発達したものである。何よりも「長江流域」での紀元前5000年くらいの稲作遺構が相次いで発掘されているが(『中国の稲作起源』陳 文華・渡辺 武 六興出版1989年1月)、①~③の山岳地帯ではこれより早い遺構が発見されてないことにある。インドでの一番古い稲の存在は東部のビハ-ル州で紀元前2000年のもの、タイではノンノクタ-遺跡の紀元前3500年ころのもの、である(『雑穀のきた道』坂本寧男 日本放送出版協会〔NHKブックス546〕1989年3月20日 19頁)。「稲」は「長江流域」に起源を持つということが<定説化>しつつある。

◆◆◆ 「稲」は日本から朝鮮に伝わった(4)◆◆◆

 2つ目の問題、系統的な問題つまり「ジャポニカ(日本型)」と「インディカ(インド型)」はどうし生まれたかである。これについては、① 一元説 ② 二元説がある。前者は、さらに〈1〉「インディカ(インド型)」が先に生まれ、「ジャポニカ(日本型)」はそこから派生したというもの(インディカ先行説-「張 慈徳」前掲書)と〈2〉「ジャポニカ(日本型)」が先に生まれ、「インディカ(インド型)」はそこから派生したというもの(ジャポニカ先行説-「池橋 宏」前掲書 160頁)とに分かれる。後者は、両者は別々に生まれたとする。一元説のジャポニカ先行説は、まず「長江流域」で生まれた「ジャポニカ」が「雲南・タイ北部」で栽培され、さらにバングラデッシュからミャンマ-の国境地帯である「照葉樹林地帯」で栽培される過程で「インディカ」が派生したという。一元説のインディカ先行説は、「長江流域」で生まれた「インディカ」がそこでの栽培の過程で「ジャポニカ」が派生したという。ただ、先の説明のとおり「稲の場所的起源」については諸説あるので、必ずしも「長江流域」に起源を持つものとはしないが、それぞれの発生場所で一元的に生まれたと考える。二元説は「ジャポニカ」は「長江流域」で生まれ、これとは別に「インディカ」が「雲南・タイ北部」の焼畑で栽培の過程で生まれたとする(「佐藤洋一郎」 前掲書)。

◆◆◆ 「稲」は日本から朝鮮に伝わった(5)◆◆◆

 「ジャポニカ」と「インディカ」の区別については先に説明したが、その特徴はほかにもあって、そのなかで重要なものは、前者が多年生であるのに対して、後者は1年生であるということである。現在の稲は野生稲から発達したものであることも前に説明したが、野生稲はほとんどが多年生である。栽培の過程でそのまま多年生の特質が受け継がれ、「ジャポニカ」が生まれ、それが伝播していくなかでバングラデッシュからミャンマ-の国境地帯の雑穀栽培に適したように(その地方では今でも「稲」は雑穀と同じように直播して栽培されている)変異していって「インディカ」が生まれたと考えられている(「池橋 宏」の前掲書 160頁)〔もとより私は農学に詳しくないのでこの辺は受け売りである〕)。
 多年生の特質としては、成熟後に株もとに栄養が蓄積され再生力が高い。したがって株分け・移植栽培に適している。これに対し、1年生は成熟後に株がほとんど枯れ、再生力がない。多年生の方が優れている。それではどうして「インディカ」が生まれたのかというと、それが「早生」で二期作が可能で「収穫量が多い」からである。こうして「インディカ」が「ジャポニカ」を凌駕していったのである。現在「インディカ」はタイなどの東南アジアにも広がり、本家の中国でも多数を占めている。このように「ジャポニカ」から「インディカ」が派生したと考えられようが、二元説はどうであろうか。それは先に説明したとおり「稲」が「長江流域」以外で発生したとは考えられないから無理がある。
 日本では「ジャポニカ」が総てであるが、それはどうしてであろうか。これは「インディカ」は粘り気がなく<日本人の味覚>に合わなかったからである。日本にも「インディカ」は収穫量が多いため入ってきており「唐法師(とぼし)」あるいは「大唐(たいとう)」呼ばれていた。戦国時代にはあまりの不味さに領主が年貢米として「インディカ」の受取りを拒絶した。「日本のものの口の広さよ、大唐をこがし(焼いて)にして飲ぬらん」(『犬筑波集-連歌集〔連歌のことを「筑波の道」と言った〕』)と揶揄されたのである。
 近年、不作で「インディカ」の「タイ米」が輸入されたが、不評で根付くことはなかった。記憶があることと思う。

◆◆◆ 「稲」は日本から朝鮮に伝わった(6)◆◆◆

 1989年、青森県八戸市の「風張遺跡」の住居跡からから7粒の米が発見され、これが約2800年前の縄文時代の後期から晩期にかけてのものであることが確認され、伝播の定説より500年も遡ることが明らかとなった。ただ、水田、灌漑施設、農具などは発見されてない。これを遠くからの「贈り物」する考えもあるが(『稲の日本史』佐藤洋一郎 角川書店(角川選書 337)2002年6月30日 17頁)、これは「運搬」という労力を知らない者の言い草で全くの誤りである。この時代には道路も整備されてなく、運搬手段も未発達であった。南方から「米」をこの地に運搬できるはずもない。大変な労力まで使って運搬する可能性は低い。また「籾痕土器」にしても同じである。また水田痕跡が見当たらないことを問題視する考えもあるが、陸稲栽培だったかもしれない。ところが、この地方から稲のプラントオパ-ル(稲の葉のある種の細胞に溜まったガラス成分〔珪酸体〕が地中から掘り出されたもの)が発見され、水田の畦なようなものが発見された。間違いなく「稲作」が行われていたのである(『稲作の起源を探る』藤原宏志 岩波書店(岩波新書〔新赤版 554〕1998年4月20日 54頁、『稲のきた道』佐藤洋一郎 裳書房 1992年6月25日 90頁)。さらに、1999年、今度は岡山県の「朝寝鼻遺跡」から稲のプラントオパ-ルが発見され、6400年前に「米」が存在したことが判明した。
 それでは、「稲」はどこから来たのであろうか。「縄文文化から弥生式文化への移行は、狩猟・漁労にたよる不安定な生活から、農耕というより安定性のある生活への発達を示している」、「南から渡ってきた縄文人が狩猟・漁労に頼っていたのを朝鮮半島から弥生人(朝鮮人)が「米作」などの農耕文化を持って渡ってきた」、「少なくとも九州などの西日本は水稲技術を持った人々が渡来した」(『日本の歴史 Ⅰ』井上光貞 中央公論社 1965年2月4日 153頁 など)と説かれていた。それが本州の北端に「米」が発見されたのである。

◆◆◆ 「稲」は日本から朝鮮に伝わった(7)◆◆◆

 このように、これまでは朝鮮半島から朝鮮人(弥生人)が農耕技術を持って渡来して、日本に「稲作」を広めたと言われてきた。それが縄文人がすでに農耕技術を持っていたことが確実となった。ただ、これが「朝鮮半島」経由であることは否定はされてなかった。
 しかし、最近では「朝鮮半島渡来説」を唱える研究者は非常に少なくなっており、中国大陸から渡来したというのが<定説>となっている。
 ところで、末尾のHPで「himiko」さんという方から情報が寄せられた。以下にそれを説明する。これは「松尾孝嶺」の『栽培稲に関する種生態的研究』によるが、原典に当たることができてないので、長くなるが、そのまま掲載したい。
 『農学、植物学、生態学の分野では米の伝来ルートについては支那南部から直接伝来したという説が定説だったが、考古学、歴史学の分野では朝鮮半島経由という考え方が有力だった。しかし、7,8年前からまず考古学の分野から変化が起き、次第に支那南部から直接伝来した説が有力になって、現在ではほぼすべての学界で定説になっている。また支那の稲作研究界ではむしろ水稲種は日本から朝鮮半島に伝播したという説が有力になっている。

  http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/12585608.html

◆◆◆ 「稲」は日本から朝鮮に伝わった(8)◆◆◆

 この流れが加速したのは主に2つの理由がある。① 遺伝子工学の分野からの研究の成果、② 支那政府機関が20年以上かけて満州で行った品種の調査だ。この2つが決定打になり朝鮮半島経由で米が伝来した可能性がなくなった。
 順を追って説明すると、米には品種特性を決定づける遺伝子が7種類ある。このうち古代から現代に至るまで日本で発見された米の遺伝子は2つしかない。日本に存在する遺伝子をNO.1とNO.2とする。
 NO.1とNO.2の遺伝子はそれぞれ温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカという品種の特有遺伝子だ。
 次に稲作の発祥地である支那はもちろんNO.1からNO.7まですべて揃っている。
 朝鮮半島の米はNO.2からNO.7までの6種類が揃っているが、NO.1だけは存在しない。これは気温が低いと存在できない遺伝子のため支那北部より北では存在できないためだ。

◆◆◆ 「稲」は日本から朝鮮に伝わった(9)◆◆◆

 往来が盛んになればなるほど、多くの種類の遺伝子を持つ米が入る確率が高まるが、日本には2種類しかないのが確認されていて、これが稲作開始の初期から広く分布していることから、米の伝来はごく限られた回数で特定の地域から伝来したと考えられる。

 近年、炭素14年代測定法という最新の年代測定法の成果で朝鮮半島の稲作より日本の方がかなり古いことが分かってきている。日本の稲作開始は陸稲栽培で6700年程度前まで、水稲栽培で3200年程度前まで遡ることが判明している。

 これに対し朝鮮半島では水稲栽培は1500年程度前までしか遡れない点、九州北部と栽培法が酷似していることや遺伝子学的に日本の古代米に満州から入った米の遺伝子が交雑した米が多いことなどから、水稲は日本から朝鮮半島へ、陸稲は満州経由で朝鮮半島へ伝わったことが判明した。支那政府の研究機関でも調査が進み間違いないという結論が出ている。

◆◆◆ 「稲」は日本から朝鮮に伝わった(10)◆◆◆

 また、支那南部の日本の米の起源と推定される地域は熱帯ジャポニカも温帯ジャポニカも同時に存在しているので、両者を1品種ずつ持ってきたと考えられる。
 往来回数が多くなると別遺伝子品種が紛れ込む可能性が高くなるので、古代人が遺伝子選別技術を持っていない限りはこの地域だけから流入したと考えるしかない。

 また、朝鮮半島の米はNO.2の遺伝子が70%を占めるので、米が朝鮮半島に導入された初期段階でNO.2の遺伝子が多く伝わっていなければならない。日本から2種類の遺伝子を持った米が朝鮮半島に渡ったものの、NO.1の温帯ジャポニカ種は朝鮮半島に根付かずNO.2の遺伝子のみが広まり、そこに満州から米が入ってきて、NO.2の遺伝子を持つ米と交雑したと考えると朝鮮半島の米に遺伝子的な説明が付く。
 支那にはすべての遺伝子が満遍なくあるので、特定の種類の遺伝子だけを多くして朝鮮半島に伝えるのは無理だ。

◆◆◆ 「稲」は日本から朝鮮に伝わった(11)◆◆◆

 韓国の学界には古代朝鮮人が遺伝子を見分ける何らかの術を持っていて、仕分けをした上で日本に米を伝えたとする説を唱える学者もいるが、願望というか発表の際に興奮気味に意地でも朝鮮半島から日本に米が伝わったことにしたいようにしか見えない。どうやって遺伝子を見分けたかを説明していないので相当に無理がある説だ。

 韓国の学者は学術的見地よりも感情が先に出ているので非常に相手をしにくい。実際にBSEの研究会をイギリスで開催した際は韓国からは招待者なしという事態もあった。

 米の伝来は支那南部から日本へ来たものであることを説明したが伊勢神宮にはこれを裏付けるような伝承がある。

「米は斉の御田から天照大神が持ってきた」(斉は現在の中国山東省)というもので、現在の学界では日本の米は支那の山東省付近という説がもっとも有力だ(これは誤り、山東省付近には稲作の遺構が発見されてない。こういう説は少ない)。
 また、同地域にも一部部族が日本へ渡ったとする伝承がありこれを裏付けている。

◆◆◆ 「稲」は日本から朝鮮に伝わった(12)◆◆◆

 さらに台湾の学者が鵜飼に着目した研究をしているのだが、これも日本への米の伝来が支那からであることを裏付けている。
 鵜飼の風習は支那の楚の国(現在の湖南省と湖北省とその周辺)とその稲作文化圏である四川省、雲南省、広東省など中国南方の地方によく見られる。日本でも普通に見られる。
 ところがこの鵜飼は朝鮮半島では古来まったく見られない。台湾や琉球文化圏でも鵜飼の習慣はない。このことは最初に米を日本へ持ってきたのが、支那南部の楚に起源を持つ人たちで経由なしで直接日本に伝来させたことを裏付けている。その人達が伝えた鵜飼が日本に広まったということだ。

 なお、日本の品種改良技術は奈良~鎌倉時代に飛躍的に伸びたが、飛鳥時代にも籾の選別技術等が確立しており、5世紀頃には単位収量がアジアでトップクラスになっている。

 日本が朝鮮を併合した時に朝鮮に日本の耕作技術が移出され、単位収量が併合前に比べて2.2倍という爆発的増加をみたが、これは灌漑設備の他、植物防疫、施肥法の伝授によるものだ。単位収量の増加は挑戦における生活の安定をもたらし、食料計画の研究資料によると摂取カロリーが一日あたり併合前に比べて一人あたり400カロリー、摂取タンパク質量が一人あたり7グラムも増えた。栄養状態の大きな改善などにより併合後の朝鮮の人口は2倍以上に増加した。

 支那も朝鮮と同程度の収量であったことなどをみると日本の稲作技術は20世紀初頭のアジアでは飛び抜けてトップであったことが伺える。

◆◆◆ 「稲」は日本から朝鮮に伝わった(13)◆◆◆

 ここで、「稲」の「朝鮮半島渡来説」の論拠を見てみる(「池橋 宏」前掲書 207頁)① 九州北部の水田遺構(唐津市の「菜畑遺跡」、福岡県前原市の「曲がり田遺跡」)は朝鮮半島南部からもたらされたものである(「佐原 真」)、② 西朝鮮以南に特有な抉入石斧(縁の一部に窪みをつけたもの)、有柄式の磨製石剣がきた北九州に伝来している(「岡崎 敬」〔『稲作の考古学』第一書房 2002年4月〕、③ 朝鮮に特有な磨製石剣、石鏃(矢じり)、支石墓が北九州に伝来している(「春成秀璽」)、彼らはその時期を「弥生時代早期(紀元前5世紀~4世紀前後)」としている。④ 日本に伝わっているのは朝鮮と同じ「短籾」であって、長江から伝来するとすれば「長籾」が日本にも存在するはずなのに、それが存在しない(「寺沢 薫」―『日本の歴史(第2巻)』講談社 2000年12月〕 34頁)。総て「考古学者」で「農学者」、「民俗学者」がいないのが<特徴>となっている。
 朝鮮人研究者はすべて朝鮮が日本に「稲」を伝えてやったという。そして朝鮮には中国の遼東半島・山東半島から朝鮮中西部に「稲」が伝わり、次第に南下して、日本に至ったとする。山東半島伝来説が多い。中国(「長江中下流」)から朝鮮半島南部に伝来したという者はいないようだ。それはそう考えると朝鮮半島南部に伝来したのに、ここと近い日本の九州には伝来しなかったか、という疑問に答えられないからであると考える。とにかく、
先に朝鮮に伝来して、それから日本に伝えてやったとしなければ<民族的矜持>が保てないというところだろう。

◆◆◆ 「稲」は日本から朝鮮に伝わった(14)◆◆◆

 これを検討するが、① 日本に朝鮮人が渡来するには理由がある。彼らはその時期を、紀元前2世紀後半からの東胡の西北朝鮮への侵攻、中国の「燕」人の内紛による「衛満朝鮮」の建国(紀元前194年)〔「春成秀璽」、「寺沢 薫」前掲書〕、これは彼らの「稲」の伝来が「弥生時代早期(紀元前5世紀~4世紀前後)」という主張と矛盾する。② 朝鮮北部は寒冷地で「稲作」に適していない。中国から朝鮮には陸づたいに「稲」が伝来したと考えるのが自然であるし、仮に海を経由して伝来したとしても遼東半島、山東半島を経由して朝鮮半島にやってきた(「厳 文明」-中国人)とするが〔これは甕津半島、長山串(北朝鮮)が近く、その付近に稲作の遺構がある〕、遼東半島、山東半島には「稲作」の痕跡が見られない(寺沢は「山東省の龍山文化の遺跡から、水田耕作の痕跡が見つかる日はそう遠くはあるまい」と述べているが(前掲書 40頁)、そんなことを言うならば、何とでも言える。「沖縄に水田耕作の痕跡が見つかる日はそう遠くはあるまい」も可能である。そういうことは発掘されてから言うべきであって、こういうのを<引かれ者の小唄>という-寺沢の前掲書が刊行されてからはや7年が経つが、今だに山東省の龍山文化の遺跡から、水田耕作の痕跡が見つかっていない)。③ 「長籾」については中国で出現したのは「宋」以降の11世紀からである。また、「短籾」が日本にあるとしても、それは朝鮮から伝わったことにはならない。逆に日本から朝鮮に伝わったものかも知れない(これを考えなかったところに発想の逼塞がある)。④ 土器についても朝鮮からではなく中国からの外来土器である可能性があり、その面についての研究が不足している。⑤ 日本での「稲作」は6400年前にまで遡れるが、朝鮮では1500年前までしか遡れない。⑥ 日本にはあるが、朝鮮にはない「米」の遺伝子が存在する(「松尾孝嶺」の前掲書)。⑦ 豊穣などを祈る「稲作儀礼」が朝鮮とは異なる。⑧ ヒガンバナは毒性があり、殺虫剤・害獣(モグラ、鼠)の駆除剤・農薬として使われたそうで、これは中国と日本にはあるが、台湾にも朝鮮にもない。中国から伝来したものとされる(詳しいことは末尾のHPを参照)。「稲」と一緒に持ち込まれた。
 これによって、現在では日本に伝来した最初の「稲」について「朝鮮半島渡来説」は<崩壊>したと考えてよいだろう。

 http://blog.satonaoaki.main.jp/?eid=176263

◆◆◆ 「稲」は日本から朝鮮に伝わった(15)◆◆◆

 それでは、どこから「稲」が日本に伝来したのであろうか。中国の「長江」からであることは先に説明したとおりであるが、長江の流域にあった「越」の都の会稽の近くから紀元前4700年頃の「稲作」の遺構が発見されている。「越」人が稲を栽培していたのは間違いがない。戦乱を逃れた「越」人が日本に「稲作」を伝えてくれたのというのが有力となっている(「池橋 宏」前掲書 126頁、『照葉樹林文化』岡崎 敬 1969年)。
 ただ、これも推測に過ぎないが、「長江流域」の人々が伝えてくれたものであることは疑いがなかろう。
 その日本への伝来ル-トであるが、当時の造船・航海技術からいって、長江付近から直接に日本に「稲作」がやってきたと考えるのは無理があるとされてきた。しかし、それは大きな船を想定しているからであって、南太平洋の民がそれで大航海を行ったように丸木舟なら可能だと指摘されている。最近では先の「鵜飼」の習慣から直接に日本にやって来たということが有力となっている。台湾-沖縄-九州―本土と伝わって来たという「海上渡来説」もあるが、「沖縄」には「農耕の耕作跡」が残ってないことが欠陥となっている。

◆◆◆ 「稲」は日本から朝鮮に伝わった(16)◆◆◆

 朝鮮半島から朝鮮人がやって来たことは否定できないから、彼らが「籾」などを持って来たかも知れない。しかし、このことと「朝鮮半島から<初めて>稲作が伝わった」ということとは別である。すでに彼らが来たときには、日本では「稲」がたわわに稔っていたのであろう。日本は『豊葦原の水穂の国』(『古事記』)だったのである。朝鮮人も日本がそんなに豊かだと<腰を抜かした>のではなかろうか? 「籾」などを持ってこなくともよかったかもしれない。
 「稲」の「朝鮮半島渡来説」はすでに<瓦解>していると考える。<常識ということは疑ってかかるものだ>ということが良くわかった。「漢字」だって朝鮮から伝来したものではなく、中国から来たものかもしれない。なにしろ<確証>などないのであるから。
 「日本に文化を教えてやった」などと嘯く朝鮮人には<気の毒な結果>であったが、考えてみれば、当時から日本の方が朝鮮より豊かであった可能性が高い。気候は温暖だし雨も多かったのだろう。「瑞穂の国」だったのである。
 「帰化人」が日本の文化に寄与したのは否定しないが、日本も朝鮮に<教えてやった>ものも多かったのではあるまいか。文化の伝播は一方的なものではなく、相互交流の結果であったと思う。

◆◆◆「稲」は日本から朝鮮に伝わった(17)◆◆◆

 なお、「ジャポニカ」には「温帯ジャポニカ」と「熱帯ジャポニカ」の2種があるとされている(「稲」には先のとおり「ジャポニカ」と「インディカ」の2つがあるが、「温帯ジャポニカ」と「熱帯ジャポニカ」そして「インディカ」の3種類に分類する考えもある-『稲のきた道』裳華房 佐藤洋一郎 1992年6月30日 59頁)。前者は日本と中国大陸にある。後者は中国南西部からタイ、インドネシア、フリィピンなどの島嶼に広がっている。北回帰線の北南で区切られるといってよい(『稲の日本史』佐藤洋一郎 角川書店〔角川選書 337〕2002年6月30日 64頁、佐藤洋一郎『稲のきた道』 79頁)。前者は、① 草丈が低い ② 穂・葉が短い ③ 株あたりの穂数が多い ④ 成長のスピ-ドが遅い ⑤ 籾の形が丸い ⑥ 中茎の長さが短い ⑦ 胚乳のアルカリ度が大きい という特徴があり、後者はその反対である(『DNAが語る稲作文明』佐藤洋一郎 日本放送出版協会(NHKブックス 773)1996年7月30日 144頁)。前者は限られた水田にしか適応しないのに対し、後者はたいがいの場所(焼畑など)にも摘要する。日本にも「熱帯ジャポニカ」があったが、やがて駆逐された。それは、日本人が手がかかるが集約的耕作に適している「水田」の構築に成功したからである。「焼畑」などの粗放な耕作は「水田」の収穫量が半分である。その点でも今でも「焼畑」が残っている「朝鮮(北朝鮮)」とは大きく違っていた。日本には「焼畑」の遺構がとても少ない。古代ではともかく、すぐに廃れてしまい普及しなかったのである。
 このように「熱帯ジャポニカ」は「焼畑耕作」のような粗放な環境に適応する。一方、「温帯ジャポニカ」は「水田耕作」に適用する。日本にはまず「熱帯ジャポニカ」が伝わり、その後に「温帯ジャポニカ」が伝わり、並存していた。このことは、縄文時代の稲作と弥生時代のそれとが断絶してなかったことを意味する(「佐藤洋一郎」〔『ここまでわかってきた 日本人の起源』産経新聞 生命ビッグバン取材班 産経新聞出版 2009年5月30日119頁〕)。つまり、日本では縄文時代に稲作が行われており、これが引き続き弥生時代にも承継されていたことを意味している。弥生時代に朝鮮半島から新たな稲作技術を持った人々がやって来て日本に稲作を教えたということが否定されたのである。また、前述の理由から、中世以降の水田からは「熱帯ジャポニカ」が急激に少なくなっていった(「DNA分析からみた弥生時代の稲作」佐藤洋一郎〔『弥生時代はどう変わるか』広瀬和雄 学生社 2007年3月30日 60頁〕)。彼は、稲の伝来ル-トして、① 草朝鮮半島を経由して北九州にいたるル-ト ② 穂大陸の長江流域から九州の西部に達したル-ト ③ 南島を経由して南九州に達したル-ト、の3つを考えているが(前掲書 64頁)。しかし、①のル-トが有り得ないことは(8)・(9)で説明した。

 参考資料については、以上に明記してあるが、原典に当たれなかったものもある。主として下記の書籍を参照した。なお、私は農学、考古学に精通しているわけでもないので、従来の書物のまとめと考えていただきたい。
1.『稲の日本史』佐藤洋一郎 角川書店(角川選書 337)2002年6月30日。
2.『DNAが語る稲作文明』佐藤洋一郎 日本放送出版協会(NHKブックス 773)
 1996年7月30日
3.『稲作の起源』池橋 宏 講談社(講談社選書メチェ 350)2005年12月10日
4.『中国古代遺跡が語る稲作の起源』岡 彦一 八坂書房 1997年8月25日
 ※ 中国の研究者の論文を収集したものである
5.『稲作の起源を探る』藤原宏志 岩波書店(岩波新書〔新赤版 554〕1998年4月
 20日
6.『稲作文化』上山春平・渡部忠世 中央公論社(中公新書 752)1985年1月25日
7.『ここまでわかってきた 日本人の起源』産経新聞 生命ビッグバン取材班 産経新聞
 出版 2009年5月30日
8.『弥生時代はどう変わるか』広瀬和雄 学生社 2007年3月30日

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