ツングース族

ツングース族概要

 南米のチリや南太平洋の島々で縄文土器が出土し、北欧のハンガリー人の尻にモンゴロイド特有の蒙古斑が出るように、古代社会は我々の想像を遙かに超えた広範囲な国際交流がなされていたと思われる。従って、一国の古代史であっても、その国の史料だけで古代社会の様々な事象を解明できるほど単純ではない。

「国境なき医師団」という国際的民間援助団体があるが、現代人の潜在意識には国籍や国境という概念が刷り込まれている。だが、古代人の社会に国境はない。旺盛な好奇心を発揮して、躊躇なく未知なる領域へと移動していったことだろう。

 文頭にこれを書くのは、古代史の解説書などを読んでいると、現代人の固定概念を無意識に古代に投影させて論を展開していると感じられるものが多々あるが、古代史に取り込む場合、古代社会はボーダレスだとの再認識を不可欠だと言いたいからである。

 確かに古代人にも帰属意識があり、一定の集団社会を象徴するトーテムを皆で信奉することによって同族の結束を醸成しているし、集団社会は特定地域内に固着することも事実である。だが、未成熟な社会体制下にいた古代人は基本的にボヘミアンだとの認識がないと、古代人の活動領域を現代の国境を前提として考察する危険性がある。では、本題に入ろう。

 古代の中国大陸・朝鮮半島・日本列島を舞台に様々な古族によって歴史が創造されたが、三国の古代史に密接に関連する古族として「ツングース語系諸族」は最重要の存在である。

『ツングース語』

 ツングース語はアルタイ諸言語に分類され、アルタイ語系種族は、モンゴル語系、チュルク語系、ツングース語系に大別される。チュルクとはトルコのこと。言い換えれば、古代蒙古語系、古代トルコ語系、ツングース語系と言ったほうが分かり易いかもしれない。

 古代中国にトルコ語? そう疑問に感じる人もいるだろうが、隋唐帝国の源流は北魏、その北魏皇帝の太武帝の字は「ブリ」、古代トルコ語の「狼」。同様に北魏武将の賀伐(がばつ)も「雄猪」のことである。異民族として中国の史籍に登場する「丁零、鉄勒、突厥」などは、すべてチュルク(トルコ)の音訳とされる。

 日本語が、その文法構造や音節・音韻の多くの特徴の点で、アルタイ諸言語に類似していることは多くの言語学者が認めている。また、日本語は、扶余語または高句麗語の系統に属し、韓国語と扶余語も同祖関係にあるとする説もある。いずれにせよ、古代の倭族・韓族の言語に大きな影響を与えたのがツングース語であることに異論はない。

『太古のツングース族

 東南アジアの海を北上する潮流と、東から太平洋を横断してきた北赤道海流がフィリッピンの北の海上で合流し、中国大陸浙江省と沖縄諸島の間を北上する黒潮となり、九州の南西海上で次の三方向に分岐する。

 ①黄海を横断して朝鮮半島南岸に向かう海流。

 ②九州北岸から日本海沿岸を抜ける対馬暖流。

 ③九州・四国・近畿の西日本の南岸に沿って、房総半島の東海上に向かう黒潮。

 太古、これらの海流に乗って東南アジアから北上してきた原アジア人(南アジア人=古モンゴロイド)が、中国大陸の南方から陸行してきた原アジア人と交流しながら、朝鮮半島全域に分布し、さらに日本列島にも進出したものと思われる。

 また、氷河期が終わる頃には、狩猟を主とするアルタイ・ツングース語系諸族の部族が南下をはじめ、やがて彼らが中国大陸を経て朝鮮半島や日本列島にもやってきた。それが新アジア人(北アジア人=新モンゴロイド)と呼ばれる人々である。

 元来、ツングース語系諸族は中国東北地方からロシアのシベリア・沿海地方・サハリン州を主な居住領域として狩猟生活をしていたが、農耕民族の居住領域に接していた地域の諸族は、次第に半農半猟の生活に移行していき、また、中国大陸の西側にいた遊牧民族の影響で騎馬の風習も採り入れていったとみられる。

『中国史に登場するツングース族

 ツングース族とは、ツングース語系言語を使う民族を指すロシア語だが、その語源は古代漢語の東胡(とうこ)と説がある。上古音韻は知らない(知らんこと書くな! そんなこと言わずに読んでよ)が、現代語ではdonghu(東胡)、tonggusi(通古斯=ツングース)。中国語を聴き慣れない人には、東胡はトンクー、通古斯はトングーに聞こえるはず。

 ただし、ロシアでは狭義のツングースを「エベンキ」と呼ぶことから、広義のツングース族はツングース語系諸族、またはツングース系諸民族と呼んで区別している。

 ロシア連邦ハバロフスク地方のアムール川流域、沿海州、サハリン州などに、エベンキ族、ナーナイ族、ウリチ族、ニブフ族、エベン族、ウデゲ族、ネギダール族、オロチ族などの諸族が現在も定住しているが、オロチ族以外は、すべてツングース語系諸族である。

 三国の古代史に登場するツングース語系諸族には、「粛慎・穢・獩貊・東胡・扶余沃沮高句麗百済・悒婁・勿吉・靺鞨・女真族」などがいる。

 ちなみにオロチ族を、出雲の八岐大蛇(やまたのおろち)の大蛇(オロチ)のことだとする説もあるが確証はないが、古代から海を越えて日本列島に渡ってきたことは間違いない。

『日本書紀』斎明天皇

 4年11月、この歳、越国(こしのくに)の守(かみ)、阿倍引田臣(あへのひきたのおみ)比羅夫(ひらぶ)、粛慎(みしはせ)を討ち、生きた羆(ヒグマ)二つ、羆皮を七十枚、献(たてまつ)る。

 5年3月、阿倍引田臣比羅夫、粛慎と戦って帰還。虜(とりこ)四十九人、献じる。

 6年3月、阿倍臣を遣して、船師(ふないくさ)二百艘を率いて、粛慎を討伐させた。

 6年5月、阿倍引田臣、夷(えみし)五十余を献じる。また、石上池(いそのかみのいけ)の辺りに、須弥山(しゅみさん)を作る。高さ廟塔のごとし。ここで粛慎四十七人に食事を馳走したまう。

 これは七世紀中頃の事件だが、粛慎(みしはせ)とはツングース語系諸族の古族である。

 文中にも夷と粛慎を明確に区別していることから蝦夷(えみし)を指している訳ではない。だが、この時代に粛慎はいない。その後裔である挹婁(ゆうろう)も勿吉(もっきつ)も歴史から消えており、靺鞨(まつかつ)の時代である。筆者は、靺鞨のなかで日本海沿岸を領域とした虞楼(ぐろう)部か、サハリンの窟説(くつせつ)部の一族が渡海してきたと考える。

三国志魏書』挹婁伝

 其國便乘船寇盜,鄰國患之。

 その国、気の向くままに船に乗って強盗を働く。隣国は、これを患(わずらい)とする。

三国志魏書』東沃沮

 挹婁喜乘船寇鈔,北沃沮畏之,夏月恆在山巖深穴中為守備,冬月冰凍,船道不通,乃下居村落

 挹婁は嬉々として船に乗って金品強奪をする。(隣接する)北沃沮はこれを畏れ、夏季には厳しい山中の深い洞窟で守りを備え、冬季に水面が氷結し、通航ができなくなると山から降りてきて村落で居住する。

 いわば挹婁は東アジアで最古の海賊。その後裔の靺鞨なら日本海を渡るのは簡単なこと。

 高句麗が唐と新羅の連合軍に滅ぼされる直前にあり、高句麗に服属していた靺鞨の部族には風雲急を告げる時期にあったことから、靺鞨七部と呼ばれる靺鞨内の有力部族でもない虞楼部や窟説部が新天地を求めて、北海道に渡って定住したのだろう。この真偽はともかく、北海道がツングース族の活動範囲内にあったことは事実である。

『オホーツク文化概説』市立函館博物館

 およそ6世紀から13世紀頃にかけて、樺太・北海道オホーツク海沿岸・千島列島を中心に、陸獣・海獣狩猟、漁撈、採集活動を生業とする民族集団が居住していました。彼等の形成した北方の文化形態こそ、謎を秘めた「オホーツク文化」です。一般にオホーツク文化は、鉄器や青銅器を有する沿海州靺鞨文化(4~10世紀)、女真文化(10~12世紀)の系統をひいて誕生し、やがて本州の土師器文化(7~11世紀)の影響を受けて発生した擦文文化(8~13世紀)と融合し、吸収されていったと考えられています。

 上記からも日本書紀に登場する「粛慎」が靺鞨であることは間違いないだろう。だが、なぜ粛慎と呼ばれたのかについては疑問が残る。粛慎は最古のツングース族であり、最初に北海道や日本海沿岸に現れたのが粛慎だったので、代々ツングース族は粛慎と呼ばれたのかもしれない。あくまで筆者の推測である。

 次に、日中韓、三国の古代史に関わるツングース族の年代記の概略をみてみよう。

「旧石器時代末期」

 黒竜江右岸の呼瑦県で約一万年前の地層から大量の出土品が出たが、その類型や加工技術が華北地区の旧石器と相似しており、すでに中華諸族との交流があったと推定される。

「新石器時代」

 龍山文化(紀元前30世紀-前20世紀)の特徴的な半月形石刀が、吉林、永吉、宁安、珲春、通化、桓仁などで出土。黑灰陶も出土するが黑灰陶も龍山文化の主要な特徴とされる。

「夏時代」(紀元前21世紀-同16世紀)

 まだ中原も原始社会の後期にあり、ツングース族の族名は登場しない。

「商(殷)時代」(紀元前16世紀-11世紀)

 ロシア沿海地方から松花江流域に粛慎(しゅくしん)が登場する

「西周時代」(紀元前1050年-同771年) 該当なし。

「春秋時代」(紀元前771年-同403年)

 河北省の北方に東胡(とうこ)が登場する

「戦国時代」(紀元前403年-同221年)

 北方に匈奴(きょうど)、東北に穢(わい)、高夷(こうい)、發(はつ)が現れる。

「秦時代」(紀元前221年-同206年)

 穢、發が消えて扶余(ふよ)、高夷が消えて高句麗(こうくり)が現れる。

 朝鮮半島の北に沃沮(よくそ)、その南に朝鮮が登場する。

前漢時代」(紀元前202年-西暦8年)

 東胡が消えて鮮卑(せんぴ)、鳥桓(うがん)が登場。

 朝鮮が消えて朝鮮四郡と獩貉(わいかく)、半島南部に三韓が登場する。

「新時代」(西暦8年-25年) 該当なし。

後漢時代」(25年-220年)

 粛慎が消えて挹婁(ゆうろう)が登場する。

 鳥桓が消えて鮮卑になる。獩貉が獩貊(わいはく)に改名する。

三国時代」(220年-265年)

「西晋時代」(265年-316年)

 黒竜江中流域に寇漫汗(こうまんがん)が登場する。

「東晋十六国時代」(316年-420年)

 三韓新羅百済、加羅に代わる。河北省の北に契丹(きったん)が登場する。

 沃沮、獩貊が消えて高句麗になる。

「南北朝時代」(420年-589年)

  扶余が消えて高句麗になる。挹婁が消えて勿吉(もっきつ)が登場する。

「隋唐時代」(589年-907年)

 百済高句麗が消え新羅が残る。後に、新羅朝鮮半島を統一する。

 勿吉が消えて靺鞨(まつかつ)が登場。高句麗靺鞨(黒水部以外)と連合して渤海

 (ぼっかい)を建て、旧領の大半を回復。

「五代十国時代」(907年-979年)

 渤海国は契丹族の遼国に滅ぼされ、渤海人は女真(じょしん)族と改称して臣従した。

「北宋時代」(960年-1127年)

 女真族が力を蓄え、完顔阿骨打(かんがんあくだ)が金を建国した。

「金・南宋時代」(1115年-1271年)

 モンゴルは南宋と同盟を結んで金を攻め、金の末帝は自決し、金は滅亡した。

「元時代」(1271年-1368年)

「明時代」(1368年-1644年)

 女真族は分解されたが、建州の女真族にヌルハチが登場、再び女真族を統一した。

「清時代」(1644年-1912年)

  女真族が明を滅ぼして清を創建。文殊菩薩を信奉するので満州(もんじゅ)族と改称。

  1912年の辛亥革命で清朝は滅亡するが、1945年まで満州国として生き延びた。

「現在」

 満族(満州族)は、中国では漢族に次いで人口の多い民族として繁栄している。