三世紀の朝鮮半島(馬韓・辰韓・弁韓)

三世紀の朝鮮半島(馬韓・辰韓・弁韓)・・・・魏志韓伝による

これまでの朝鮮半島の歴史を掻い摘んで説明すると次のようになる。

まず、中国の文献に現れるのは、紀元前1066年以降、殷の滅亡の後、殷の王族の箕子が朝鮮に逃れ、周の武王がこれを朝鮮に報じたということである。
紀元前213年、秦が中国を統一したとき、箕子は秦に服した。
始皇帝の死後、燕、斉、趙の流民が朝鮮に逃げ込み、これらを箕子朝鮮の準が西方に移住させたと言われている。

紀元前202年漢が建国され、盧綰を燕王となしたが、盧綰は漢に叛いて匈奴へ走り、燕人衛満は朝鮮に亡命した。
その後、衛満は準を追って朝鮮を乗っ取った。これが衛氏朝鮮である。  

箕子朝鮮の準は王を私称していたが燕の亡人、衛満に乗っ取られ、自身は側近を率いて韓の地へのがれて韓王を号した。
この韓の地が、今日の韓国である。
遼東から逃れてきた楚、越の亡民を韓の東半分を割譲して住まわせた。
紀元前109年、漢の武帝が朝鮮を攻め、翌年には衛氏を滅ぼしてその故地に楽浪、臨屯、玄菟、真番の四郡を置き漢の直轄地とした。
その後、紀元前81年頃、臨屯と真番の二郡を、楽浪、玄菟両郡に併せた。

2世紀後半、遼東太守、公孫度が台頭して自立し、楽浪郡に進出する。
3世紀初めにはその嫡子、康は楽浪郡の南に帯方郡を置き、韓、濊を支配した。
康の子淵のとき、魏に叛き燕王を称したが、238年には司馬懿に討伐されて滅亡する。

その後、2世紀後半、後漢の地方官であった公孫度は遼東太守に任命されたが、そのまま自立して半独立政権をうち立てた。
朝鮮半島では、楽浪郡に進出し、三世紀初めには度の嫡子、康は楽浪郡の南に帯方郡を置いて南方の韓、倭(これは日本本土ではない。韓半島南部にいた倭人である)東方の濊を支配した。
康の子、淵のとき、魏に叛いて燕王を称した(236年)。
その後、238年司馬懿の討伐を受けて滅亡する。
帯方郡は、公孫氏に続き、魏、晋の支配を受け、313年に滅亡する。
これは、晋の滅亡と同時期である。
しかし、この魏書に書かれている韓は3世紀のことで、この頃の帯方郡は魏の一地方組織であった。

では、まず、この魏書韓伝にある韓の説明を見てみよう。

「韓は帯方の南にあり、東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。
四千里四方。一は馬韓、二は辰韓、三は弁韓という。辰韓は古の辰国である」

馬韓
五十五国の名前が列挙してあるが、煩雑なのでこれを略す。
この内の伯済国が後の百済になったと言われている。

「五十余国よりなり、大国は万余家、小国は数千家、総数十万余戸。
辰王は月支国で統治している」
以下の記述は、上記概略の通りであるのでこれを略す。

「魏の部従事の呉林は、本は楽浪郡が韓国を統治していたので、辰韓八国を分割して楽浪郡に与えたので韓の臣らは帯方郡の崎離営を攻めた」
「時の太守弓遵と楽浪太守劉茂はこれを討伐し、弓遵は戦死したが韓を滅ぼした」
以下は風俗や習性が説明されているが、注目すべきところは、「その北方、郡諸国近くはやや禮に通暁しているが、遠いところは、囚徒や奴婢が相聚っているに等しい」
「他に珍宝はない」以下略

辰韓
辰韓馬韓の東にある。その古老世に伝える。古の亡人、秦の労役を避けて韓国に来て、馬韓がその東の地を割いて与えたのだと自ら言っていた」
「城柵がある。その言語は馬韓と同じではない」
以下略
「お互いを相呼ぶ時は徒という。秦人に似ていて、燕や斉のものではない。楽浪人を阿残と呼ぶ。東方人は我が名を阿という故、阿残とは、我残りたるものの意、つまり、楽浪人は、本は自分たちと同じで楽浪に残った人の意味である。今、この国を秦韓という者もいる」
「始めは六国あり、稍分かれて十二国となる」
弁辰また十二国あり。また、小村落あり、その長を臣智、その次を險側、次に樊濊あり、
次に殺渓、次、邑借あり」

次に各小国の名前が列挙してあるが煩雑なので省略する。但し、このなかの斯盧國が後の新羅であると言われている。
「弁、辰、併せて二十四国、大国は四、五千家、小国は六、七百家、総じて四、五万戸。その十二国は辰王に属す。辰王は常に馬韓人を用いてこれを作り代々受け継いでいる。辰王は自立して王とはなれない」
「土地はよく肥え、五穀や稲に適す。養蚕を行い、絹布を作る」
「牛馬に乗り車を引かせる」
以下略。

「国には鉄が出て韓、濊、倭、皆従ってこれを取る。諸市、中国で銭を用いるがごとく鉄を用いて買っている。又、楽浪、帯方郡にも鉄を供給している」
以下略。
「男女は倭人に近く、又、文身をしている」
「歩いて戦い、兵器は馬韓と同じである」
以下、略。

弁辰
弁辰辰韓は雑居していて、又、城郭がある」
「衣服、居処は辰韓と同じ、言語、法俗も相似たり、祭祀鬼神は異なる」
以下、略。

「その瀆盧国は倭と境界を接す」
「十二の国には王がいる」
以下略。

以上の魏志韓伝の記述から何が読み取れるであろうか。

まず、馬韓は、殷の箕子が周の武王に朝鮮に封じられて以来、漢の武帝が朝鮮半島を征服して四つの郡を置くまで、殷の王族箕子の子孫が細々と政権を保ってきた場所である。
但し、この箕子朝鮮の支配がどの程度まで及んでいたのかはよくわからない。
紀元前二世紀頃、遼東から朝鮮に逃れてきた楚、越の亡民に国の東半分を分け与えて住まわせたことを考えると、恐らく、その支配は現在の韓国とほぼ重なるかなり広い地域であったことはほぼ間違いのないところであろう。
そして、何故、韓王は国の半分も気前よく楚、越の人間に割き与えたのであろうか。
それは、平野部の多くは韓国の西半分に集中していて、東半分は山岳地帯で、当時の箕氏にとってただでくれてやっても惜しくは無い程度のものだったのであろう。
恐らく、この韓半島の東部は人口も少なく、ろくな物産もない山ばかりの地であり、そこには極めて原始的な生活をする原住民しかいなかったと思われる。
そして、箕氏自体が、この地域を完全に支配していたとは到底思えない。ただ、他に支配者がいなかったので自分の領土として楚、越の亡民に与えたのであろう。

漢の武帝により、朝鮮半島は臨屯、玄菟、真番、楽浪の四郡が置かれ、のち、この地は楽浪、玄菟の両郡に統一された。
二世紀後半に楽浪郡太守、公孫氏は半独立国を打ち立て、三世紀前半には楽浪郡南半分を分かちて、帯方郡として韓以南の国を支配させた。
公孫氏の滅亡之の後、この地は魏の支配を受ける。

ここに書かれている記述はこの魏の支配を受けていた時代のことである。

馬韓辰韓弁韓ともに強力な支配者はいない。楽浪、帯方郡のような魏の直轄地でもない。魏にとって直轄地にする価値も無い程の魅力のない地であった。

馬韓は五十余国、弁辰併せて二十四国の極めて小規模な村落共同体のような弱小国があるだけ。特筆すべき独自の文化も原住民から成り上がった君主もいない。なんと寒々とした光景であろう。それが三世紀前半の朝鮮半島の南半分の状況であった。
その弱小国の支配層は全て、中国の使役や戦乱を逃れてきた亡民たちで、原住民は漢民族の支配のもと、ろくな自生えの文化も持たず、自らの国も持つことなく、まるで現在の北朝鮮の人民のような悲惨な生活を送っていたと思われる。

彼らが如何に文化程度の低い原始的生活を送っていたかは、馬韓の文中にはっきり記載されている。
「その北方、郡諸国近くはやや禮に通暁しているが、遠いところは、囚徒や奴婢が相聚っているに等しい」
韓国の内、もっとも開け、豊かであり、永年、箕氏によって治められていた馬韓でさえこれである。他の二国は推して知るべし。中国人からは文明などその影さえ見られない野蛮な地、化外の地と見られていたのである。

また、この韓の地の南に倭人の国があったことが想起出来る記述がある。
冒頭の部位に、「南は倭と接す」とあり、また弁辰の「瀆盧国は倭と境界を接す」「男女は倭人に近く、又、文身をしている」との部分は、朝鮮半島の南部に倭人の国があったことが推測できる。

鳥瞰してみれば、現在の韓国に相当する、馬韓辰韓弁韓は、村落共同体の国とも呼べぬ弱小国家が点在する化外の地であった。
ただ、鉄だけは辰韓の地に産出したので、濊、倭、韓がこれを取りに来ていた。また、楽浪、帯方の二郡にも鉄を供給していたとも。
特産物といえばこの鉄くらいのものである。
このように、少なくとも中国の魏にとっては何の魅力も無い地域であったので直轄地に組み入れることもなかったのである。
そして、自生えの文化も、政権も育つことなく、全て、中国からの亡命してきた漢人に支配されていた。
それだけである。特に記すことも無い程の文化的、政治的の後進地域、未開の土地、それが三世紀当時の朝鮮半島南半分、韓国の実情である。


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