三国の仏教

7.三国の仏教
近肖古王
高句麗から分かれて漢江を中心に根拠地を構えた百済(ペクチェ)は肥沃な土壌と、恵まれた地理的条件のもと日々成長して行った。
近肖古(クンチョゴ)王は肖古王とも言われ比流(ピユ)王の2番目の息子である。彼は369年頃、全羅道南海岸を本拠としていた馬韓(マハン)を攻撃し勝利を得る。更に、洛東江流域の支配権も伽(カヤ)から奪うことに成功する。371年、近肖古王は高句麗を攻撃し、王の息子である近仇首(クングス)が自ら兵を率いて高句麗の首都を攻め高句麗の王である故国原(コグックウォン)王を戦死させた。これにより百済の勢力は黄海道(ファンへド)地域にまで伸びることになり、百済の歴史上最も広い領土を持つこととなる。

313年楽浪郡の滅亡で西海の海上権は高句麗に移っていたが、この戦いで百済が勝利したことにより海上権は百済が掌握する事となる。
京畿(キョングギ)道・忠清(チュングチョング)道・全羅(チョルラ)道などと江原(カングウォング)道の一部、そして黄海(ファングへ)道の一部までを占め古代国家の礎を築いた近肖古王は、漢山(現在のソウル)首都を遷し中国の東晋に朝貢した。中国の南朝文化を取り入れた百済は、こんどは日本へ阿直岐(アジッキ)と王仁(ワングイン)を派遣し論語、千字文などの儒教経典と漢文を伝えた。彼らは日本の王や太子などの王族に直接講義をし、日本ではこの時から文字の使用が始まったとされる。この他にも近肖古王は最高の工芸品と言われた七支刀を日本の王へ下賜した。

領土の拡張以外にも国外の国々と積極的に外交活動を繰り広げた近肖古王は王権の権威を高め、さらに自身の業績を高めるため、博士・高興に百済の国史である書記を書かせた。
近肖古王は部族連盟の百済を古代国家の形態に作り変え、王権を強化し王位の継承を父子相続に変えた。375年に近肖古王が退くと彼の息子である近仇首が王位に上った。すると百済との戦闘に続いて敗れていた高句麗はここぞとばかりに再び百済を攻撃し水谷城を陥落させた。これを契機に百済高句麗は、攻守を繰り返す戦闘に入ることになる。そして391年、高句麗史上最高の征服君主である広開土(クァンケド)大王の即位で百済の勢力は急速に弱体する。檀君王儉(ワンゴム)が建てた古朝鮮の領土を取り戻すことを夢とした広開土大王は海外遠征に先立ち、392年百済を攻撃し10余個の城を征服した。

こうした中、仏教が韓半島に伝来する。高句麗には372年に、百済には384年に伝えられた。
百済は日本へ仏教を含め様々な文化・技術を伝え、日本では飛鳥文化が仏教を中心に形成されることとなる。

韓半島の仏教
紀元前500年ごろにインドで生まれた仏教はインド中部を中心に発展し、海外へも広く広まることとなった。韓半島にも中国を通して伝えられる。
最初に韓半島に仏教が伝えられたのは高句麗の小獣林(ソスリム)王の2年である372年であった。仏教は中国の前秦から僧・順道が仏像と仏経を持って来たのが始まりで、その2年後には東晋から僧・阿道が高句麗に入った。彼らは375年に王の承認を受け省門寺と伊仏蘭寺を建て本格的な布教が始められる。

小獣林王は仏教だけではなく儒教も受け入れ太学を建て、貴族の子弟たちに儒学を学ばせた。部族国家の部族長たちの役割の中で最も重要なことは民を代表して祭礼をとり行うことであった。古朝鮮の檀君や新羅の次次王は王を表す言葉であるが祭礼長と言う意味も持っていた。
国が発展して社会が複雑化していくと王が成すべき仕事は肥大化し、王は祭礼を上げることよりも、国力強化と民を治める統治力が求められる様になった。そこで、専門的に祭礼を担当する者が必要となり、王はどういう立場の者に任せるかを考えるようになる。

こうした状況を解決すべく小獣林王は果敢に仏教と儒教を受け入れる。儒教により新しい社会規範を、仏教によりそれまで人々が心の拠り所とした先祖神や自然神より一次元上の宗教を高句麗に取り入れたものだった。
高句麗の仏教は大いに発展し金剛砂・平壌九寺・磐龍寺などが建てられ、仏教の研究が発達し幾つかの宗派が誕生した。また、高句麗の曇徴・法定・雲聡・恵便法師などの僧侶達が日本に渡り仏教と文化を伝えた。
高句麗に仏教が伝わって12年後の384年、東晋から来たインドの僧・摩羅難陀により百済にも仏教が伝わり、修徳寺・漢山仏寺・王興寺・弥勒寺などの有名な寺院が建造された。

異次頓の殉教
後に三国を統一した新羅は三国の中では一番あとに仏教を受け入れる。遅れた理由は根深く信じられてきた加持祈祷の文化と貴族たちの反対の為であった。その新羅が仏教を受け入れる決定的な動機となるのは異次頓(イチャドン)の殉教である。
異次頓、姓は朴氏で一名を居次頓ともいい、葛文(カルムン)王と呼ばれた(新羅王室で直系による王位継承ができず、それ以前の王の兄弟などの系統から王位を継承した場合の王の生父・舅・外祖・女王の場合の配偶者などへの称号で朝鮮時代の大院君に似たもの)習実(スプシル)の息子である。

阿道が仏教をつたえるため新羅に入って来ると、多くの臣下たちはすぐに仏教に対し強い反発の色を示した。しかし異次頓だけは一人で賛成する。臣下たちはそんな異次頓を罰することを王に勧め、法興(ポブン)王は異次頓の首を刎ねさせることに決めた。
「私は仏法の為に死ぬのだから、本当に仏法に神がいるのなら、私が死んだあとに異変が起るだろう」との言葉を異次頓は死ぬ直前に残した。いざ異次頓の首が落とされると、なんとその血は乳白色に変わり噴き出した。これを見た多くの人は驚き、貴族・大臣は勿論のこと、朝廷のすべての人が仏教を認め新羅の国教となった。
法興王は栢栗寺を建て、石憧を作るがこれは異次頓を称える為のものであった。
異次頓の殉教については幾つかの伝説があるが、彼が死ぬ時首が飛んで落ちたところが慶州の北側の金剛山で、817年恵隆と言う僧がそこに墓を造り、碑を建てたと言う。また、異次頓の死は寺を建てる為であったとの説が次のように残されている。
法興王の時代、新羅百済高句麗の影響で仏教が伝来し多くの人が仏教を信じるようになった。これを見て法興王は寺を建て公式的に仏教を受け入れようとした。しかし、多くの大臣・貴族が反対したことで王は悩みを抱えることとなる。この時、若さと覇気を持つ異次頓が出て来て寺の建築担当となる。若い異次頓が担当する事を知り貴族たちの反発はさらに強まり、法興王は異次頓を犠牲にすることで決着をつけたのだった。
難しい事情を乗り越え新羅に入った仏教であったが、新羅が三国を統一した後、百済高句麗の遺民達と融和を図る際に大きな役割を果たすこととなる。