三国時代 (朝鮮半島)

古代新羅とローマ文化①〜三国時代 (朝鮮半島)
2014-10-04 08:41:17
テーマ:【ブログ】
日本の源流を知るには、中国や朝鮮半島を知らないと、特に新羅の歴史を知らないと分からない。
八幡神を調べてみて特にそう思いました。
私は、日本の歴史=ヤマト国の歴史しか学んでいないので、神社仏閣めぐりをしていると「そうではなかった」と思い知らされます。

古代新羅を調べてくと面白い事に「ローマ文化」と繋がっていた。それは、中国の影響を受けない時代があったのです。
歴史とは、計算で答えが明確にはじき出されるものではない。
あーでもない こーでもないと推測でしか答えが見えない部分もある。
そんな曖昧さが嫌いなのですが、わくわくするのも事実です。

さて、ざっと三国時代から調べていこう。

朝鮮の歴史における三国時代(さんごくじだい)とは朝鮮半島および満州に高句麗百済新羅の三国が鼎立した時代をいう。日本の歴史学ではおよそ4世紀ころから7世紀ころまでを指す。韓国では紀元前1世紀から紀元後7世紀をいう。

220年の後漢の滅亡が、三国の発展を許した。三国は皆同じ文化を共有していた。1世紀から儒教が朝鮮半島の上流階級に広がった。後に儒教は仏教に入れ替わった。

高句麗(こうくり、紀元前37年 - 668年)
いまの中国東北部南部から朝鮮北中部にあったツングース系民族の国家
最盛期は満洲南部から朝鮮半島の大部分を領土とした。隋、唐を始めとする中国からの侵攻を度々撃退したが、最終的には唐・新羅の遠征軍により滅ぼされた。668年

百済(くだら / ひゃくさい 346年- 660年)
古代の朝鮮半島南西部にあったツングース系扶余=徐族による国家だったとする説
ツングース系夫余族の支配層(王族・臣・一部土民)と韓族の被支配層(土民中心)からなっていたとする説の2説がある。
新羅を支援した唐によって滅ぼされ、故地は最終的に新羅に組み入れられた。

新羅(しらぎ/しんら、紀元356年- 935年)
古代の朝鮮半島南東部にあった国家。「新羅」という国号は、503年に正式の国号となった。
7世紀中ごろに朝鮮半島をほぼ統一し、高麗、朝鮮と続くその後の半島国家の祖形となった。内乱や飢饉で国力を弱体化させ、後高句麗から起こった高麗に帰順して新羅は滅亡した。

『三国史記』の新羅本紀は「辰韓の斯蘆国」の時代から含めて一貫した新羅の歴史としているが、史実性があるのは4世紀の第17代奈勿王以後であり、それ以前の個々の記事は伝説的なものであって史実性は低いとされる。

6世紀中頃に半島中南部の加羅諸国を滅ぼして配下に組み入れた。唐が660年に百済を、668年に高句麗を滅ぼした時には、新羅は唐軍指揮下で参軍した

民族
紀元前後の朝鮮半島は元来、粛慎、挹婁、靺鞨沃沮、倭、濊、濊貊等、各諸民族の混在地域である。 その後、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人によって移民国家である辰韓が建国される。また『魏志東夷伝』によると、東アジアからも『陳勝などの蜂起、天下の叛秦、燕・斉・趙の民が数万口で、朝鮮に逃避した。(魏志東夷伝)』とあり、朝鮮半島は移民・渡来人の受け皿的役割を果たしていた。また隣国、百済高句麗等の扶余系民族(現在の満族と同系統)も国内に抱えていた。
百済任那・加羅・新羅地域においては、倭人特有の前方後円墳等の居住跡が発見にされていることから一定数の倭人が同地に居住していたとされる。また倭人である昔氏の一族から新羅王と成った者もあり、日本による支配を受けていた時代もあることから、新羅の重臣には倭人が多数登用されている。
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