三国遺事

三国遺事(さんごくいじ)

三国遺事』は高麗国(918年~1391年)の高僧・一然(1206~1289)の撰になる。

 一世紀前に出された『三国史記』(金富軾編纂)が儒教的な歴史観を第一に採用しているために仏教の普及と興隆には筆が及ばず、またやはり儒教の「怪刀乱神を語らず」という教えから、神話や民間伝承などの多くが無視されている事への一つの試みとして編纂された意味合いが強い。

 倭人関係では、何と言っても朝鮮半島南部に所在した倭人国「狗邪韓国」を指す「賀洛(カラ)国記」の全文が採取されているのが大きい。
 これあるがために、『三国遺事』は倭人研究において千金の価値を持つ。

 『三国遺事』は5巻に纏められているが、倭人に関係するのは最初の2巻で、あとの巻はすべて仏教関連の記事である。
 ここでは、遺事のすべてにわたって述べるのが筋ではなく、あくまで倭・倭人・倭国に言及するかもしくは関連性を考慮して取り上げて、私見を加えて解説している。しかも大部な箇所は要旨を摘記してあるので、全文に興味のある人は、直接、原本に当たることをお勧めする(使用したのは明石書店『三国遺事』金思燁訳・1997年版)。

      <巻第一> 

    紀異 第一

  ・古朝鮮(神話) 

 桓因(帝釈天)の庶子である桓雄は太白山の頂上に降り、太白山にいた熊と通じて子の「壇君王倹」を生んだ。
 周の武王(BC1020頃)の時代に、先の王朝・殷の宗族である「箕子」を朝鮮侯に封じたが、その時「壇君」は都(阿斯達=アシタ)に戻り、隠れて山の神となった。

(注)
箕子朝鮮・・・殷の紂王の暴虐をいさめようとしたのが箕子であったが、ついに見放して朝鮮半島に逃れたという記事が「魏志ワイ(さんずいに歳)伝」にある。ワイの地は現在の北朝鮮に重なるが、そこで800年、40数代を過ごしたが、秦末の動乱期の準王の時に、燕からやって来た衛満に国を乗っ取られてしまう。
 主従や一族は南下して馬韓(のちの百済)に救いを求めて土地を安堵され、やがて辰韓として発展する。
・阿斯達・・・アシタ。注記によればアシタとは朝鮮語で「小山」のことであるが、倭語だとアシは「鴨」のこと。タは「ナ」と同義で「場所」であるから、倭語の意味は「鴨の(住む)所」で、航海民の蝟集するところだったのかもしれない。

  ・衛満朝鮮
  
 燕王の盧綰(ロエン)は、漢にそむいて匈奴側に付いたが、その時、衛満は部下の千人を引き連れて東方に逃れた。そこはワイの地で、すでに箕子王統が統治していたが、次第に箕子王統は押され、ついに南へ船で亡命した(BC200年頃)。
 ところが漢の武帝のとき、衛満の孫の右渠が討たれて衛氏朝鮮は滅び、真番・臨屯・楽浪・玄兔の4郡が置かれ、漢の勢力化に入る(BC108年)。

(注)
・箕子王・準の亡命・・・箕子の40数代の後裔が準王である(魏志ワイ伝)。秦末期の混乱の時に亡命して西からやって来た衛満のために国を奪われた準王は南に逃れた。その際、注目すべきは「その(準王の)左右の宮人を率いて走って海に入り、韓地に居り、自ら韓王と称号した」(魏志韓伝)とある中の「走って海に入り」という所で、慌てふためいて海辺に逃れ、そこからは海人の繰り出す船に身を翻し、からくも逃れ得たというような書き振りである。
 ワイ(さんずいに歳)はその音価から「倭人の近縁」と考えているが、亡命に船を使ったところを見ると倭の水人(航海民)が居てもおかしくはない。『後漢書・巻90・烏丸鮮卑伝』の中の「檀石槐(ダンセッカイ)伝」によると2世紀の頃、鴨緑江あたりに「漁の上手な倭人」が住んでいた旨の記事があるので、あながち否定はできない。

  ・馬韓

 『魏志』にいうには、衛満が朝鮮を撃つと、王・準は左右の宮人をつれて海を越え、南の方、韓の地に至って国を開き、馬韓と名付けた。

(注)
・国を開き、馬韓と・・・これは誤りで、馬韓はすでに存在し、その東界(東の端)に入っただけで、やがて建てた国は辰韓6国である。馬韓はのちの百済辰韓はのちの新羅、そして間には弁韓があった(魏志韓伝)。

  ・楽浪国

 『新唐書』注には、平壌城は昔の楽浪郡であるといっている。
 新羅の人もまた、(みずからを)楽浪と呼んでいた。

(注)
・平壌城・・・今の平壌と同じ北朝鮮の城市。ここが昔の楽浪郡だというのは正解である。魏志の「ワイ国」がここでもあった。
楽浪郡・・・衛氏が滅びたあと(前108年)に漢王朝・武帝が置いた四郡の一つ。今の北朝鮮東部一帯を指す。箕氏も衛氏も大陸方面からここに入部して国を開いた。ワイ(さんずいに歳)人の住むところであったが、衛氏の祖・衛満が侵攻したとき、王族クラスは四散し、南部に行ったのが箕氏である。また、北部に逃れたのが後の高句麗扶余につながるようだ(魏志ワイ伝・扶余伝の記述)。

  ・五伽耶

 阿羅伽耶(今の咸安)・古寧伽耶(今の咸寧)・大伽耶(今の高霊)・星山伽耶(今の碧珍)・小伽耶(今の固城)が、伽耶を構成する五つの国家群で、940年ごろ、名を改め、「金海」「古寧」「非火」「阿羅」「星山」となった。

(注)
・五伽耶・・・すべて洛東江の流域に展開する国家群である。注記に「『賀洛記』の賛によると、天から紫色の紐が垂れてきて、六個の卵を降ろした。一つは首露王となり、他の五個は五伽耶の王となったと言う・・・云々」とあり、この五伽耶には首露王の「賀洛国」すなわち「金官伽耶=今の金海市=狗邪韓国」は入っていないはずで、この五伽耶本文にある「金海」は、文脈から見ると五伽耶の一つのように取られるが、正しくない。

  ・高句麗

 高句麗はすなわち卒本扶余である。『三国史記』には始祖の東明王の姓は高氏、諱(いみな)は朱蒙である。これより先、北扶余の王、解夫婁(ケブル)が東扶余の地に退いていたが、解夫婁が亡くなると、金蛙(キンア・キマ・コマ)が位についた。
 金蛙には7人の子がおり、中でも朱蒙は飛びぬけて優れていたが、数々の試練ののちに玄兔郡の卒本州に行ってそこの王となった。これが高句麗の始まりである。

(注)
・解夫婁・・・カイブルと書いてケブル。「カイ→ケ」の転訛は九州とくに鹿児島方言では顕著である。この一例をもって鹿児島方言と朝鮮半島語とを結びつけるのは非学問的だが、本文のあとに登場する「金蛙」が注記によると「キンア→コマ」と転訛するそうだが、「コマ→クマ」の転訛を想定すれば「クマ」はやはり九州には非常に多い地名であり、半島の歴史と九州島の歴史とが格別に深い交流を持っていた、と考えることは許されよう。
 魏志扶余伝によれば扶余の王家の倉庫には「ワイ(さんずいに歳)王之印」という大陸王朝(おそらく漢王朝)由来の国王印があったという。魏志高句麗伝には「扶余高句麗も同族」と書かれており、したがって「扶余高句麗もワイから分かれた同族」と言い換えてもよく、魏志の時代以降には消えてしまうワイ族は衛氏による侵入を受けた後、箕氏準王の一行とともに馬韓へ南下亡命した高級官人もあったが、ほとんどは東部沿海州方面や北部の南満州方面へ逃れたのだろう。その分派が建国したのが「北扶余」「東扶余」「高句麗」ではなかろうか。
 この四散してしまうワイ族は、どうしても「ワ(倭)族」に重なって来る。上の衛満朝鮮の項で触れたように、鮮卑王ダンセッカイが遼河の東方にいた倭人を連行して、川で漁をさせた――という先例があるので、なおさらである。

  ・卞韓 百済(南扶余

 新羅の始祖・赫居世即位19年(BC39年)に卞韓(弁韓=カラハン)人が国を挙げて降服した。『新旧唐書』にはカラハンの子孫たちが楽浪の地にいたといっているし、『後漢書』にはカラハンは南にあり、馬韓は西、辰韓は東にあったといっている。(崔)致遠は、カラハンは百済であるといっている。
 『三国史記』「百済本紀」を見ると、(始祖の)温祚が起こったのは漢の武帝の4年(BC17年)であるから、新羅高句麗の建国より40年ほど後のことになる。

(注)
・卞韓・・・カラハンは朝鮮語読み。ベンカン(弁韓)のこと。本文の「新旧唐書説」「後漢書説」「崔致遠説」のうちでは「後漢書説」が魏志韓伝を読む限りでは正しい。
 そもそも項立てでカラハンつまり弁韓百済を一緒に扱っているのは解せない。魏志韓伝によれば弁韓はむしろ辰韓(のちの新羅)と共立していたと見ることはできても、百済との共立は考えられない。もっと時代を下らせ、継体天皇の時代(6~7年)に任那弁韓)の一部を百済に割譲したことを捉えて、そのように考えたものか、不明とする他ない。
 三国史記では新羅百済の建国を漢代に求めているが、いわゆる「三国時代高句麗百済新羅)」として朝鮮半島がこの三国鼎立になったのは、四世紀初めであるから、300年以上時代をさかのぼらせている。この手法はわが日本書紀の手法と同じである。ただし高句麗に限っては後漢の光武帝8(AD32)年に「高句麗王」として朝貢関係に入っており、すでにその頃には「高句麗」は存在していた。

  ・辰韓

 『後漢書』に、「辰韓の耆老(キロウ=年とって高徳の者)がいうには、秦の人が逃げて韓国に来ると、馬韓が東の方の地を割いて与えた」とある。互いに呼び合うのに「徒」というなど、秦語に似ていたので、あるいは秦韓ともいい、十二の小国があり、おのおの万余戸もあって、国と称していた。

(注)
・秦の人・・・後漢書が参照した「魏志韓伝」のこの部分では、「その耆老の世に伝うるに、自ら<古の亡人にして、秦の役を避け、来たりて韓国に適(ゆ)く>と言う。馬韓はその東界の地を割き、これに与う」であり、秦王朝の人物が逃げてきたのではなく、秦末の混乱が東にまで波及した結果、燕人の衛満が到来して楽浪の地を奪ったため、そこに箕子の王統を継いでいた箕氏・準が馬韓に逃れ、東界の地を割譲してもらったことを指している。
 同じ魏志韓伝には「辰韓は、古の辰国なり」とあり、「古の辰国」とは箕子が殷王朝末期に東方の朝鮮半島北部(楽浪地方)に逃れて建てた国のことで、今述べた衛満侵攻の結果、国は滅びた。楽浪の東部に残った「ワイ(さんずいに歳)」はその「残余の人」(魏志韓伝辰韓条)に当たろう。

  ・新羅始祖 赫居世王

 (辰韓の)六部(六つの村)の祖先たちは、みな天から降りたようである。
 六部の祖先たちは、「われわれの上に君主と呼ばれるものがいない。そこで高みに上って南方を眺めると、不思議な気配があり、行って見ると紫色の卵があった。中から現れたのが「赫居世(カクコセ)」で,
その時に日と月がことさら清明であったので「赫居世」すなわち「明るく世間を治める」という意味の名を付けられた。
 国号は徐羅伐(ソラボル)または徐伐(ソボル)といい、あるいは「斯羅(シラ)」または「斯盧(シロ)」とも言った。赫居世の統治は60年、その翌年、昇天した。 

(注)
・紫の卵・・・新羅の始祖伝説には必ず「卵」が登場する。これは一般的には「卵生神話」と呼ばれるもので、アジア北方に多い説話である。
・徐羅伐・・・ソラボル。ソラは「曽羅」で「羅」は「奴(ナ)」と同じく「場所、地域、国」の意味である。徐は「曽」と同じで、九州島の熊曽、中でも鹿児島域の曽(曽於)との親縁が考えられる。交流が存在したとすれば、当然そこには水運つまり航海民なしには有り得ず、同じく鹿児島の語源「舵子(かじこ=鴨)島」の存在がクローズアップされてくる。

   ・第四 脱解王

 第2代・南解王のとき、賀洛国の海岸に船が漂着し、中には櫃(ひつ)が乗っていた。その中から出てきたのが少年・脱解(トヘ)で、7日間のもてなしを受けたあと、こう言った。
 「私はもと竜城国の者で・・・父は含達婆、母は積女国の王女。子種が無いため、国を挙げて祈ったところ母は大きな卵を産みました。不吉であると言われ、船に乗せられてここに着きましたが、その卵から生まれたのが私です」
 脱解は瓠公の家を、知略でもって我が物とし、そこに住んだ。
 脱解は第2代南解王の長女を妻とし、第3代弩礼王のあとを継ぎ、4代目脱解王として即位した。時に後漢・光武帝の中元2年(57)のことであった。

(注)
・賀洛国・・・カラ国、金官伽耶国、魏志倭人伝では「狗邪韓国」のこと。倭人の国である。
・竜城国・・・本文の注記によると、正明国・晥夏国ともいい、倭の東北一千里にある国。この「倭の東北一千里」の解釈が難しい。というのはこの「倭」を九州北部と考える説と畿内大和と捉える説とに分かれるからである。しかも『三国史記』新羅本紀の脱解王(脱解尼師今)の条では竜城国を「多婆那国」としてあるので、余計に混乱させられる。
 私見では、「タバナ国」のほうが倭語を正確に捉えていると見て、こちらを採用する。すると「タバナ国」は「玉名国」と見当がつく。玉名は熊本県北部の菊池川河口にあり、航海民の拠点でもあった。そうなると「倭」は玉名の西南一千里にあることになるが、私見ではこの「一千里」は海運の一千里、つまり「船の一日行程」と考えるので、この「倭」は熊本南部から鹿児島北岸あたりを指す。
 脱解が即位した光武帝中元2(57)年といえば、「倭の奴国」が金印を授与された年として知られるが、この当時、半島南部では「倭といえば熊本南部から鹿児島北部にあった国だ」という認識があったのかもしれない。
・瓠公・・・ホコウ。『三国史記』新羅本紀の始祖王・赫居世居西干の重臣であった倭人。海を越えてやってきたとき「瓢(ひさご)」を身に着けていたので、こう呼ばれた。海を越えたのだから船を利用したのに違いなく、彼は間違いなく航海民であったろう。魏志韓伝に「(鉄の採取に)韓・ワイ・倭が従事している」という下りがあり、また辰韓人・弁韓人は体を「文身(入れ墨)」しているという記述があるが、瓠公という存在はそういった記事を裏付けている。

   ・延烏郎 細烏女

 第8代・阿達羅王の4年(157)のある日、東海のほとりに住んでいた延烏郎・細烏女夫婦のうち、夫の延烏郎が海に藻を採っていたが、岩が動き出して日本へ運ばれてしまった。妻の細烏女が探しに出て、やはり岩に乗ると、同じように日本に運ばれた。
 夫婦は日本で王と王妃になったが、新羅では太陽と月の光が消えたので、新羅王は使者を日本に遣わして二人の帰国を求めた。だが、二人は「天命だ」として帰らず、その代わりに王妃の織った絹布を差し「国に帰ってこれで天を祭れ」と言い、使者に渡した。帰ってからその通りにすると、再び太陽と月の光が戻った。
 祭天した所を「迎日県」また「都祈野」と名付けた。
 
(注)
・延烏郎・細烏女・・・「烏」は人名によく使われる、と注記にある。「郎」は男を表すから名前全体として何かを表徴しているわけではない。
 日本書紀の「垂仁紀」二年条の分注には「オオカラ国から来たツヌカアラシト」の説話が載せられているが、アラシトが白玉の精である童女をを追って東海を渡って日本にやって来たというが、これを思わせる話である。
 また、同紀三年条ではまさに新羅から渡来した王子アメノヒホコの説話が載っている。
 いずれにしてもかなり早い時期に、すでに半島南部とは交流があったということを表徴するものであることは間違いない。

       <巻第二>

      紀異 第二

   ・南扶余 前百済 北扶余

 百済の世系は高句麗と同じく扶余から出ているため、氏を「解」と言った。その後、聖王の時、泗ビ(さんずいに比)へ都を遷した。今の扶余郡である。
 『古典記』によると、高句麗の東明王の三男・温祚は前漢の鴻嘉3年(前18年)に、卒本扶余から慰礼城に来て都を定め、王になったが、14年(前5年)に都を漢山に移してから、389年を過ごした。
 始祖の温祚は体が大きく、天性が孝友で騎射をよくした。

(注)
・聖王・・・百済代26代で、武寧王の子である。在位は523年から554年までの32年間。新羅との戦いで戦死した。
・温祚・・・オンゾ。本文では高句麗の始祖王・朱蒙(東明王)の三男とあるが、『三国史記』百済本紀には次男としてある。長男は沸流(ピル・フル)といい、朱蒙が北扶余に居た時に生んだ「瑠璃王」が太子に任命されると、二人とも父である朱蒙が北扶余に居たときに生まれた「瑠璃王」に位を譲るべく画策する。

   ・賀洛国記

 (賀洛国は魏志倭人伝では「狗邪韓国」、のちに魏志韓伝の「弁韓諸国」を併せて「伽耶国」「加羅国」と呼ばれた倭人国である。始祖神話は天からやって来たという点では記紀の「天孫降臨神話」と同じ趣旨だが、降臨の姿が「真床追衾(まどこおふすま)」である代わりに「黄金の卵」であるところに朝鮮半島神話の特徴を伝えている。)

 後漢の光武帝の建武18(西暦42)年に、亀旨(クジ・キジ)の峰で、呼ぶ声がした。村人が行ってみると、天から紫色の紐が降り、その先の赤い布の中に黄金の卵が六個入っていた。
 六個の卵はかえって六人の男の子になった。初めて現れたので「首露(シュロ・スロ)」と名付け、即位して王となった。
 国を大賀洛または伽耶国と称したが、これは六伽耶の一つであり、残りの五人もおのおの五伽耶の王となった。
 (倭国の)完夏国では含達王の夫人が身ごもり、月満ちて卵を産んだ。その卵は化して人になったので「脱解」と名付けた。この脱解は(倭国から)海を渡り、賀洛国に王位を奪いに来たが、首露王は法術を使ってこれを退けると、脱解は鶏林新羅)の方へ逃げていった。
 首露王の王妃は「阿踰陀(アユダ)国」の王女で黄玉(コウギョク)といった。
 後漢の霊帝の中平6(189)年、后は死んだ。齢157歳であった。
 十年後の献帝の建安4(199)年、首露王は亡くなった。齢158歳であった。宮殿の東北の平地に殯(もがり)宮を作り、これを「首陵廟」と言った。その子の居登王から10代目の仇衝王までを首陵廟に祀り、以後絶えることがなかった。
 最後の王である10代目の仇衝王は新羅代24代・真興王に破れ、ついに国は滅びる(562年)。
 国が滅んで以来、この地の名は一定していなかったが、31代・神文王の即位と同時に太守を置き、「金官京」とした。
 
(注)
・亀旨・・・クジ・キジ。賀洛にある小山の名で「亀旨峰(クジポン)」という。日本神話の天孫二ニギの降りたのは日向の高千穂のクシフル峰」であったから、「クシ」は共通であり、ここでも九州島と半島南部は文化を共有していることが分かる。
・大賀洛・・・オオカラ。伽耶国と同じ。これから考えると、賀洛国が発展して大賀洛国になり、それが伽耶国のことだと言っているわけで、倭人国「賀洛国=狗邪韓国」と伽耶国は同族の国、つまり倭人国同士だと分かる。伽耶国は別名「任那」であるから、任那は倭人国であり、「任那日本府など実在しなかった」と言うことはできないはずである。
・脱解・・・九州島の完夏国(多婆那国)生まれの脱解は半島へ行き、首露王の王位を狙って失敗したあとそのまま新羅へ行った。『三国史記』新羅本紀の「脱解尼師今」によれば、確かに脱解は倭人である。しかも海を渡る航海民的な倭人であることは明らかだろう。
・阿踰陀(アユダ)国・・・本文の注記に「印度の国」とあるが不明。「アユタヤ国」ならタイにあったが、時代が合わない。もしかしたら「阿陀(アタ・アダ)」のことか?アタは「阿多」と書き、弥生時代から薩摩半島における航海民蝟集の地であった。
・金官京・・・金海市域にあった統一新羅の直轄地。金海伽耶と言うこともある。いずれにしても562年に滅びるまで倭人が支配していた地域である。

           (『三国遺事』倭人関連記事・終り)