五胡十六国

五胡十六国の時代

 

 

さて、三国時代は晋の統一によって幕を閉じました。

 

しかし、中国大陸の乱世は、これで終わりでは無かったのです。実は、これからが本番だったのです。

 

晋帝国は、三国統一後わずか30年で滅亡します。なんだよ、蜀 漢より寿命が短いんじゃん!

 

その原因は、魏の滅亡理由と正反対でした。

 

晋は、魏の早期の滅亡の原因を、「皇帝(曹丕)が皇族を不遇に落として弱めたため、他の豪族(司馬一族)の台頭を抑え切れなかったのだ」と考えました。これは、確かにそうですね。そこで晋は、皇族(司馬一族)を「王」にして、各地に大きな領土を与えて駐屯させる政策を採ったのです。これなら、他の豪族がのさばっても、一族みんなで袋叩きに出来ると踏んだのです。

 

ところが、強大化した皇族同士が、皇帝の跡目を狙って戦争しあう事態になったのです。これが「八王の乱」です。狙いが逆になったわけですね。現代の遺産相続などを見れば分かるとおり、身内の争いほど性質の悪いものはない。ああ、それにしても政治って、本当に難しいんだなあ・・。

 

問題なのは、この身内の争いに、異民族たちが関与した点でした。司馬一族たちは、彼らの武力を当てにして傭兵として使ったところ、あっというまに「庇を貸して母屋を乗っ取られる」事態になったのです!中国大陸北部は、こうした異民族たちが勝手に国家を乱立する形勢になりました。五種類の異民族が十六の国を建てたので、これを「五胡十六国」というのです。

 

生き残った漢民族と司馬一族は、長江を南に越えて、かつて孫権が都を築いた南京で新政府を立ち上げます。これが東晋ですね。

 

これ以降の中国は、北VS南の対峙の状況が長く続きます。南北それぞれで王朝がコロコロと交代し、南北それぞれの新王朝がガチンコ対決して決着がつかない状況が400年以上も続くのです。いわゆる「南北朝時代」ですね。かつて呉の魯粛が予見したように、江南地方は非常に重要な政治ファクターに成長したのです。

 

ところで、どうして晋末に、異民族が中国北部を占領するほどに強くなったのでしょうか?それは、実は三国時代の君主たちに責任があったのです。

 

後漢~三国は、中国史の中でも有数の人口大激減期でした。なにしろ5000万だった人口が800万にまで減ったのです。そこで、曹操や劉備や孫権は、異民族を懐柔してその人口を領内に移し高度な教育を与えるなどして衰えた人口の補填を行いました。最もこの政策に熱心だったのは曹操で、彼は片端から北方異民族を中国領に誘致したのです。バイタリティ溢れる彼らしい政策ですけどね。でも、そのために、もともと狩猟牧畜文明だった異民族が強大な知恵とパワーを身につけて、農耕文明である中国に帝国を築くまでに育ったのです。この時点で、中国北部の「純粋な漢民族」は滅亡したと言っても過言ではありません。

 

でも、意外と冥土の曹操は、この状況を「面白いな」と言って笑っていたかもしれませんね。彼のバンカラな個性にとっては、中国人も異民族も「同じ人間同士」だったかもしれません。

 

さて、中国の乱世は、7世紀に入って、唐の李淵親子が豪腕で統一してようやく終息します。世界帝国「唐」が誕生したのです。

 

そのころ日本は、ようやく聖徳太子とか蘇我馬子とか、歴史上の人物が活躍する時代になっていました。


五胡十六国(読み)ごこじゅうろっこく(英語表記)Wu-hu shi-liu-guo; Wu-hu shih-liu-kuo
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
五胡十六国
ごこじゅうろっこく
Wu-hu shi-liu-guo; Wu-hu shih-liu-kuo
中国,華北を中心とし,漢 (のちの前趙 ) と 氐族の成 (前蜀,のちの漢) が独立した 304年から 439年北魏の統一により南北朝時代に入るまでの時代。また,その期間に興亡した諸国の総称。五胡とは,匈奴,羯 (けつ) ,鮮卑,氐 (てい) ,羌 (きょう) 。十六国は,五胡と漢人の建てた 19国のうちのおもな 16国をいう。この時代の文化はさしてみるべきものはなかったが,五胡の君主のなかにはみずから仏教を信奉したり,大衆教化を仏教に求めた者もあって,仏教は飛躍的発展をとげた。

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デジタル大辞泉の解説
ごこ‐じゅうろっこく〔‐ジフロクコク〕【五胡十六国
中国で、4世紀初頭から5世紀初めにかけて、五胡と漢民族が華北に建てた16の国。また、その時代。

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百科事典マイペディアの解説
五胡十六国【ごこじゅうろっこく】
中国,華北の地に,304年前趙(趙)の建国より439年北魏(魏)が統一するまでの間に,五胡が建てた13国(成,前趙,前燕,後趙,前秦,後燕,後秦,西秦,後涼,北涼,南燕,夏,南涼)と漢族の建てた3国(前涼,西涼,北燕)の総称。漢族の大部分は江南に移動し,東晋〜宋の王朝を建てたが,華北でも胡は漢族の豪族と提携したため,漢文化が失われることはなかった。後趙の石勒(せきろく),石虎,前秦の苻堅(ふけん),後涼の呂光,後秦の姚興(ようこう)らは仏教を尊崇し,西域より招いた僧の仏図澄(ぶっとちょう),鳩摩羅什(くまらじゅう)らにより,中国社会に仏教が根づいた。→魏晋南北朝時代/六朝(りくちょう)文化
→関連項目永嘉の乱|燕|夏|漢|羯|蜀|秦|中華人民共和国|涼

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世界大百科事典 第2版の解説
ごこじゅうろっこく【五胡十六国 Wǔ hú shí liù guó】
4世紀初頭より約1世紀半,中国華北に分立興亡した国家群,あるいはその時代をいう。主権者の多くは五胡すなわち匈奴(きようど)・羯(けつ)(匈奴の一種)・鮮卑(せんぴ)(東胡系)・氐(てい)(チベット系)・羌(きよう)(チベット系)の非漢族で,これまでの漢族による中国統治の流れを大きく変えた時代である。また牧畜・狩猟民族と農耕社会との接触が深まり,それが政権の形成にまで発展した,文化史上特色ある時代である。

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大辞林 第三版の解説
ごこじゅうろっこく【五胡十六国
中国、四世紀初頭の晋末から439年の北魏による華北統一まで、華北に興亡した五胡および漢人の建てた王朝の総称。また、その時代。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
五胡十六国
ごこじゅうろっこく
4世紀から5世紀初めの中国北部に興亡した国家群、ならびにその時代名。五胡とは匈奴(きょうど)、羯(けつ)(匈奴の別種)、(てい)(チベット種)、羌(きょう)(チベット種)、鮮卑(せんぴ)(トルコ種説が強い)をさすが、十六国中には漢人の国も含まれる。[窪添慶文]
五胡時代の大勢目次を見る
匈奴の劉淵(りゅうえん)が漢王を称し、巴蛮(はばん)(の一種)の李雄(りゆう)が成都王を称し、304年、五胡十六国時代が始まる。漢は311年に洛陽(らくよう)を陥落させて懐帝を捕らえ(永嘉(えいか)の乱)、316年には長安を落として愍帝(びんてい)を捕らえ、西晋(せいしん)を滅ぼした。その後は、南方に東晋があり、華北には五胡諸国の争覇という状況が続くが、五胡の争覇の過程では東西に二大勢力が対立する傾向がみられる。すなわち、前趙(ぜんちょう)(漢の改称)に対しては、もと劉淵の武将であった石勒(せきろく)の建てた後趙が襄国(じょうこく)に都を置いて対抗し、勝ち残った後趙が内部崩壊したあとは、(ぎょう)に拠(よ)る慕容(ぼよう)氏の前燕(ぜんえん)と、長安に拠る前秦(ぜんしん)が対峙(たいじ)し、五胡第一の名君と評される苻堅(ふけん)統治下で前秦が前燕を倒し、ついで代、前涼(ぜんりょう)2国をも滅ぼして376年に華北統一に成功、西域(せいいき)にも勢力を広げる。しかし中国統一を賭(か)けた東晋遠征に383年水(ひすい)で敗れると、前秦支配下の各種族は一斉に独立に向かい、400年の時点で9国が分立するという極度の分裂状態を現出した。そのうち中心となったのは前燕の系譜を引く後燕と長安に拠る後秦であったが、旧代国の後身である北魏(ほくぎ)が前者を中原(ちゅうげん)から駆逐して強大化し、439年には華北統一に成功、五胡十六国時代に幕を下ろす。以後は、東晋にかわって420年江南に成立していた宋(そう)と北魏が対峙する南北朝時代に入る。[窪添慶文]
五胡時代の背景目次を見る
十六国以外にも、短命の西燕、魏や北魏の前身である代の諸国があり、さらには丁零(ていれい)の(てき)氏などの小政権がみられ、この時代は政治的分裂を第一の特色とする。しかし五胡の活動のみがそれを引き起こしたのではない。黄巾(こうきん)の乱から三国分立と、2世紀末よりすでに分裂の様相は深く、それは豪族勢力の伸張という中国社会内部の変化と深い関係をもっていた。その背景のなかで直接に五胡の蜂起(ほうき)を触発したのが八王の乱による晋の中央政府の弱体化であり、しかも八王らは異民族の武力を導入して互いに争ったのである。
 また五胡諸族は、多く漢以降の中国の対外発展の結果として中国の支配下に取り込まれた存在である。1世紀に後漢(ごかん)に下って長城南辺に置かれた南匈奴は、3世紀には山西省全域に分布し、西方のや羌も後漢の討伐を受け甘粛(かんしゅく)や陝西(せんせい)に移されていた。しかも南匈奴にみられるように漢人に圧迫され隷属的地位に落とされていた。蜂起はそのような状況における自立性回復の試みであった。
 このように中国社会の内部的、対外的発展の招いた矛盾が五胡時代を生んだといえよう。[窪添慶文]
胡族による支配目次を見る
この時代における特色の第二は、胡族による漢族支配の成立にある。支配種族を中心とする非漢族(胡族)が、遊牧時代の部族制を維持しつつ組織され、国軍の主要構成員として胡族による支配の中核を形成する。国軍を分掌するのは多く宗室の一員である諸王である。一方、漢族に対しては多くの場合、秦・漢以来の郡県制を適用し、官僚を媒介とする統治を行った。漢族と胡族と形態を異にする二重支配体制が実施されたわけであり、その全体を統治したのが皇帝もしくは天王であった(王や公の称号にとどまった国もある)。なお胡族を統治する称号として前・後趙などでは大単于(ぜんう)があったが、前燕では帝号をとるとともに廃されるなどその存否は一定せず、かつそれへの就任者が皇太子など次期皇帝候補者であることにみられるように、皇帝号の下位に置かれていた。ところで、以上の体制は、国軍を分掌する諸王の内部抗争によって動揺しやすく、五胡の諸国はおおむね短命に終わらざるをえなかった。その弱点のいちおうの解決は、部族解散を断行した北魏をまたねばならなかった。
 五胡の諸国は漢人統治の必要上、漢人豪族を地方官や将軍に任じてその秩序維持能力を利用する一方、積極的に知識人を登用した。後趙の石勒(せきろく)の設けた君子営は著名であって名臣張賓(ちょうひん)を出し、前秦の制覇には漢人名宰相王猛の寄与が大きい。なお、五胡諸国においては、征服地域の人民や兵士を国都の周辺に移(徙(うつ))して自らの支配を固める徙民(しみん)政策が多くとられていることにも留意する必要がある。
 五胡の諸君主は一般に仏教に深い関心を示した。後趙が仏図澄(ぶっとちょう)に対したような高僧のもつ神異的能力の利用、あるいは人心の収攬(しゅうらん)を図ったのであるが、その結果仏教の盛行を招いた。敦煌(とんこう)の石窟(せっくつ)の開かれたのは前秦統治時期においてであった。君主の尊崇を受けた僧としては、ほかに前秦の道安、後秦の鳩摩羅什(くまらじゅう)が名高く、とくに後者の訳経事業は貴重である。
 五胡時代は政治的分裂を特色とするが、胡族という新要素を含み、隋(ずい)・唐へつながる第一歩を記した時代として評価すべきであろう。[窪添慶文]
[参照項目] | 魏晋南北朝

五胡十六国時代の華北

五胡十六国王朝交替表

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精選版 日本国語大辞典の解説
ごこ‐じゅうろっこく ‥ジフロクコク【五胡十六国
中国、晉末から南北朝時代が始まるまで、華北に興亡した五胡と漢人の建てた王朝およびその時代の総称。十六国は、匈奴(きょうど)の建てた漢(前趙)・北涼・夏、羯(けつ)の後趙、鮮卑(せんぴ)の西秦・前燕・後燕・南燕・南涼、氐(てい)の前秦・後涼・成(漢)、羌(きょう)の後秦、漢人の北燕・前涼・西涼をいう。八王の乱以後、晉の統制力がゆるんだのに乗じ、五胡が蜂起。三〇四年、匈奴の族長劉淵が漢を建ててから、四三九年、鮮卑の拓跋氏の建てた北魏が華北を統一するまで各地で割拠した。

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五胡十六国

4~5世紀、中国の華北に興亡した北方民族(五胡)の建てた国々。304年、劉淵の漢から439年、北魏による統一までの135年間の華北をいう。
 304年に匈奴の劉淵が漢(前趙)を建国してから、439年に北魏の太武帝が華北を統一するまでの、華北に興亡した五胡や漢民族の国々を総称して五胡十六国という。

五胡と十六国の興亡
 五胡とは、匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の五つをいう。16国(下表参照)のなかには胡人ではなく漢人(漢族)の立てた国もある。
 華北での五胡十六国の興亡は、4世紀から5世紀初めまでの1世紀以上にわたっているが、大きく分ければ、376年に前秦の苻堅が一時的ながらほぼ華北を統一した時期までを前期とし、中国統一を目指した苻堅が、383年の淝水の戦いで東晋に敗れたことで、再び華北の各民族が分立してからを後期とすることができる。後期になるともっとも北辺にいて16国にも加えられていなかった鮮卑の拓跋氏の代国が急速に力をつけて、389年に魏王を称し、439年に華北を統一し、五胡十六国時代終わる。

五胡十六国時代の中国
 北方民族(胡人)が華北に国を建てたといっても、この時期に移住して征服活動をしたのではなく、ほとんどはそれ以前の漢代(前漢後漢)・三国(華北の魏)・西秦を通じで移住し、漢人社会に溶け込みながら、騎馬兵力として漢人政権の傭兵化していた人々である。彼らが西秦の混乱を背景に政治的に自立したが、まだ統一的な権力になり得ず、互いに抗争した、というのが五胡十六国の分立の意味である。
 また五胡の立てた国家といっても、各国の国家官僚として漢人が採用されており、征服王朝として漢民族を排除、支配したわけではない。
 五胡の北方民族が華北の漢人社会と融合していった結果、彼らの生活習慣(騎馬の風習、椅子の生活、米に代わって小麦が主食になるなど)の変化が起こり、それが現在の中国人の生活の基本につながっている。また、インドから中央ジアを経て入ってきた仏教が西域を経て五胡十六国のもとで保護(仏図澄・鳩摩羅什がその代表的な例)されたことも中国文化史を考える上で重要なことである。

参考 ゲルマン民族の移動との類似性
 中国で北方遊牧民の南下が活発となった4世紀~5世紀は、遠くヨーロッパではゲルマン民族の大移動が始まった時期と同じである。ユーラシア大陸の東西で同時に民族移動の波が起こったことは興味深い。また、ゲルマン民族がローマ帝国の傭兵としてその領内に移住していったのと同じように、五胡の北方民族も、東晋の八王の乱などで軍事力として用いられることによって中国内に移住していったことも同じような動きである。

五胡十六国
十六国を登場順に表にすると次のようになる。
  国号 始祖 種名 年代 地域
1 漢(前趙) 劉淵 匈奴 304~329 陝西
2 成漢 李雄 氐 304~347 四川
3 後趙 石勒 羯 319~350 山西・陝西
4 前燕 慕容皝 鮮卑 337~370 河北・山東
5 前涼 張重華 漢族 345~376 甘粛
6 前秦 苻洪 氐 351~394 陝西・山西
7 後燕 慕容垂 鮮卑 384~409 山東・河北
8 後秦 姚萇 羌 384~417 山西
9 西秦 乞伏乾帰 鮮卑 385~431 陝西
10 後涼 呂光 氐 386~403 甘粛
11 南涼 禿髪烏孤 鮮卑 397~414 甘粛
12 北涼 沮渠蒙遜 匈奴 397~439 甘粛
13 南燕 慕容徳 鮮卑 398~410 山東
14 西涼 李暠 漢族 400~420 甘粛
15 夏 赫連勃勃 匈奴 407~431 陝西・山西
16 北燕 馮跋 漢族 409~436 河北
※北魏の前身である「代国」は内モンゴルから起こって華北に進出したが、十六国に加えられていない。他に16国に加えられていない小国(西燕など)もある。なお、表の始祖は必ずしも初代皇帝ではない。地域はおよその勢力圏を示す。
※受験生諸君へ。もちろん十六国を暗記するなどまったく必要ない。4世紀~5世紀初め、華北で最初の匈奴の劉淵が漢を立てたことが始まり、五胡の16国が次々と興亡したことを抑えておけば良い。その間の重要な動きとしては、氐の前秦が苻堅の時、一時ほぼ華北を統一したが、383年の淝水の戦いで東晋に敗れ、それをきっかけに再び華北が分裂(五胡十六国時代の後半)となったことであろう。


五胡十六国時代

時代・文化

公開日 2017-02-01 最終更新日 2018-02-25

内陸アジア世界の変遷 / 東アジア世界の形成と発展 / 浸透王朝 / 北方民族の活動と中国の分裂 / 五胡十六国時代(4世紀)地図
中華人民共和国

西晋

南北朝時代(中国)
五胡十六国時代 (304年〜439年) 中国の時代区分のひとつ。304年の漢(前趙)の興起から、439年の北魏による華北統一までを指す。五胡十六国は、当時、中国華北に分立興亡した民族・国家の総称である。十六国とは北魏末期の史官・崔鴻が私撰した『十六国春秋』に基づくものであり、実際の国の数は16を超える。 後漢末期から北方遊牧民族の北方辺境への移住が進んでいたが、西晋の八王の乱において諸侯がその軍事力を利用したため力をつけ、永嘉の乱でそれを爆発させた。
五胡十六国時代
東アジア世界の形成と発展
五胡十六国時代
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北方民族の活動と中国の分裂
五胡十六国と南北朝
華北では、まず南匈奴が強盛を示したが、つづいて匈奴の別種といわれる羯が政権をたてた。 また、2世紀の中頃より中国の北辺を脅かしていた鮮卑も長城を越えて侵入し、政権を打ち立てた。 チベット系の氐や羌も、それぞれ勢力を拡大して政権をたてた。 このうち、氐のたてた前秦は、長安に都をおき強勢となり、長江以北を支配下に入れ、一時的に華北を統一した。さらに中国統一を目指して南下したが、東晋との淝水の戦いで敗れ(383)、これを契機に前秦は崩壊し、南北分立の形勢が決まった。これら匈奴・鮮卑・羯・氐・羌のなどの諸民族を総称して五胡という。このような分裂状態の五胡十六国時代を経て、5世紀前半に鮮卑の拓跋氏がたてた北魏の太武帝によって華北が統一された(439)。 その後、孝文帝のとき、均田制や三長制をおこない、華北の荒廃した農村の復興をはかるとともに、税収の基礎を固めた。
五胡十六国時代(4世紀)地図
五胡十六国時代(4世紀)地図 ©世界の歴史まっぷ

五胡十六国の興亡
五胡十六国の興亡 ©世界の歴史まっぷ
三長制:北魏の孝文帝のときにおこなわれることになった村落制度で、5家を隣、5隣を里、5里を党とし、それぞれに長(隣長・里長・党長)をおいた。それぞれの長は役を免除され、戸口調査・徴税・均田制の実施などを担当した。
また、都を平城(現山西省大同市)から洛陽に移し(494)、本格的に中国支配にのりだすとともに、鮮卑人の姓を漢人風に改めさせ、鮮卑の服装や言語を禁止するなど、徹底した漢化政策を推し進めた。
鮮卑族拓跋氏の故郷 1980年、中国の黒竜江省のチチハル市から嫩江を北にさかのぼり、さらにその支流の甘河を250kmほどさかのぼったところ(当時の行政区画は、内モンゴル自治区ホロンバイル盟オロチョン旗)から、鮮卑族拓跋氏の発祥地に関する重要な遺跡の発見が報告された。その場所は、大興安嶺山脈北部の針葉樹林の中にそびえる崖にうがたれた自然の洞窟(嗄仙洞)で、その石の壁に漢字で書かれた文章が刻まれているのが発見された。 そこには、北魏の太武帝の太平真君4年(443年)に、ここに使者を派遣して天地と祖先をまつったことが記されており、その内容は、北魏の歴史を記録した『魏書』という書物に書かれている記事と一致した。 これまで、鮮卑族拓跋氏の発祥地についてはさまざまな説が唱えられてきたが、文献に記録されたものとまったく同じ内容を示す資料の発見によって、その場所が確認されたのである。
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内陸アジア世界の変遷
内陸アジア
内陸アジア世界の変遷 ©世界の歴史まっぷ
五胡
匈奴, 鮮卑, 羯, 羌, 氐
十六国
国名 始祖 存続年 民族
前涼 張軌 301年 - 376年 漢族
前趙 劉淵 304年 - 329年 匈奴
成漢 李特 304年 - 347年 巴賨
後趙 石勒 319年 - 351年 羯
前燕 慕容皝 337年 - 370年 鮮卑
前秦 苻健 351年 - 394年 氐
後燕 慕容垂 384年 - 409年 鮮卑
後秦 姚萇 384年 - 417年 羌
西秦 乞伏国仁 385年 - 431年 鮮卑
後涼 呂光 389年 - 403年 氐
南涼 禿髪烏孤 397年 - 414年 鮮卑
北涼 沮渠蒙遜 397年 - 439年 盧水胡
南燕 慕容徳 400年 - 410年 鮮卑
西涼 李暠 400年 - 421年 漢族
夏 赫連勃勃 407年 - 431年 匈奴
北燕 馮跋 409年 - 436年 漢族