加耶

韓国略史72
「韓国5千年の歴史」とよく言われます。ここでは韓国の檀君以来の歴史を年代に沿って72編に構成して連載いたします。韓国語学習の上で歴史を知ることが、ある時には助けなり、またある時には知識の幅を広げるきっかけになる場合が多くあります。このイージー文庫で紹介します『韓国略史72』は韓国語学習者の皆さんに韓国語学習と併せて、韓国5千年の歴史を学んで頂く目的で掲載致します。ぜひ皆さんもイージー文庫の連載『韓国史略72』をお楽しみください。

5.伽の建国

亀旨歌を歌え

紀元42年、韓半島の漢江以南地域では百済新羅が成長し、また多くの小国も発達していった。特に百済新羅の間にある洛東江の中・下流地域は広大な平野の中に幾つかの部族が一体となって集まっていた。これらの部族には国も王もなく9人の部族長がそれぞれの集団を指導していた。9人の部族長たちは9干と呼ばれ、自分たちの部族が大きくなり、隣国である百済新羅の勢力が強力になると、自分たちを統率してくれる指導者の出現を望むようになった。
 
そうしたある日、9干達が集まり指導者を探す方法について議論していると、何処からか聞き慣れない声が聞こえてきた。

「そこに誰かいないか?」
声が繰り返し聞こえると、9干達は声の方角である亀旨峰(グジボング)という山の頂上まで登って行った。

「そこに誰かいないか?」
また、声がした。
 
「はい、ここに私達がいます」
「ここは何処だ?」
「ここは亀旨と申す所です」
そう答えると天からまた声が聞こえて来た。
「天は私に、ここに国を建て王になれと命じられた。
お前達にもし王が必要ならば、亀旨峰の頂を掘りながら“亀よ、亀よ頭を出せ。出さなければ焼いて食うぞ“と歌って踊れ!そうすればお前たちは王を授かるだろう」
人々が天から聞こえた通りにしてみると、果たして紫色の綱が天から降りて来た。人々が綱の先を見るとそこには、赤い布に包まれた金色の箱が結ばれていた。人々は箱に恭しく礼をしてから箱を開けると、中には6個の卵が光を放っていた。
彼らはその箱を持ち帰り、9干の最年長者である阿刀干(アドガン)は心を尽くして卵の面倒をみた。すると12日目に卵の中から男の子が生まれ、その10日後には大人になった。
人々は一番初めに生まれた子を首露(スロ)と名付け、姓は金とした。その後、金首露は本伽(金官伽)の王となり、他の5人の子たちも各々伽の王となった。
 
紀元48年のある日、金首露王は臣下である留天干に海に出て見るように命じた。留天干が命じられたとおり海辺に出ると、西南の方角から赤い帆と旗を掛けた船が一隻近づいて来た。留天干がこの事を王に伝えると、王は9干達に迎えに行って中の者を宮へ連れて来るように命じた。船には果たして麗しい女人が乗っていたが、9干達が宮に連れて行こうとすると女人は「私はあなた達を知らないのに、どうして軽々しくついて行けましょうか?」とそれを拒んだので王は自ら女人を迎えに行く。すると女人はようやく船から降り、着ていた絹の上着を脱いで山神霊に一礼をし、それから王に従って宮殿に向かった。
この女人は阿踰陀(アユタ)国(インドの国の一つ)の王女で名前を許黄玉(ホファングオク)と言い、このしばらく後に金首露王と結婚した。許黄玉は金首露王との間に9人の息子を生むが、その内の一人には、許の姓を名乗らせるようにしたと言う。
以上が伽の建国説話であり〈三国遺事〉の駕洛国記に記された内容である。

華やかに咲き消えて行く

伽は加羅(伽羅、迦羅)・加洛(駕洛)・六伽などと呼ばれ、さらに六伽とは金官伽(クムグアン、現在の金海)、阿羅伽(アラ、現在の咸安)、古寧伽(コニョング、現在の咸昌)、大伽(現在の高霊)、星山伽(ソングサン、現在の星州)、小伽(現在の高城)を指す。
中国の漢の影響を受けた伽は、百済新羅の間で独特の文化に花を咲かせ日本と交易をしながら、韓半島の物産を日本に伝えた。また、金海地方は良質の鉄の産地で、多くの鉄が中国や日本へ輸出された。先に述べた建国説話から、当時の伽がインドとも往来があった事をうかがい知ることが出来る。
6つの伽の関係を見ると、先ず先に生まれた金官伽が最も強力な勢力を持って他の5つの伽の盟主国となった様だ。しかし、532年に金官伽が新羅に滅亡させられると伽の主導権は大伽が持つようになる。百済新羅に挟まれた伽は双方からの攻撃を受けたが、512年に百済の武寧王に娑陀、牟婁など4県を取られると、周辺国からひどい圧迫を受けるようになった。そして伽は532年の金官伽の滅亡以降は次第に衰退し、新羅に一つ、二つと併合されついに562年、完全に新羅に吸収されてしまう。

その後、新羅で名を建てた代表的な伽の遺民としては金信(キムユシン)と于勒(ウロク)が有名である。金信は金首露王の12代孫で伽が新羅に帰属した後に新羅で生まれ、後に新羅が三国を統一する際に金春秋(キムチュンジュ)とともに基盤作りをした功臣である。一方作曲家であり演奏家であった于勒は伽琴(カヤグム)を作り、彼の作った伽琴曲は新羅の宮廷曲となった。
 
伽は500余年の間存続したが中央集権国家としては発達しなかった為、独自の歴史書や記録が全く残されていない。三国遺事の駕洛国記編と魏志東夷伝の“狗耶韓国”部分に伽に関する内容が残るのみである。