古代朝鮮

(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  Ⅱ古暦の巻  五章 古代朝鮮の年代論 (15・16・17・18)
  もどる    つぎへ    目次2へ

15 古代朝鮮(前)
箕子朝鮮

 古代朝鮮の歴史については、金富軾(きんふしき)の書いた『三国史記』がありますが、日本の場合と同じで、古い記事は信用できないとされます。

 しかし、『日本書紀』の年代を修正することができて、ある程度は歴史の復元が可能になりました。そこで、『三国史記』にも再検討が必要になります。『日本書紀』と同じ方法で『三国史記』の年代修正が可能になれば、日本と朝鮮と中国の古代史を比較検討することができます。それによって、今まで誰にも知られなかった歴史が見えてくるでしょう。

 まずは、『史記』を初めとする中国の正史に登場する古代朝鮮の記事から調べます。正史の記事は東洋史の基準になりますから、正史によって、古代朝鮮史のあらましを調べます。そのあとで『三国史記』を検討して、日本と古代朝鮮の関係へと話を進めます。

 正史に朝鮮半島の国が登場するのは、箕子(きし)朝鮮が最初です。司馬遷が書いた『史記』の「宋微子世家」によれば、周の武王が殷を滅ぼした時に、殷の王族の箕子の言葉に感服したので、箕子を朝鮮に封じて臣下の扱いをしなかったといいます。紀元前千年頃のことです。殷では、その前の夏や後の王朝と違い、兄弟相続が多く見られます。日本の古代も兄弟相続が多いですから、殷の王族が朝鮮に封じられたことは無視できません。

 「後漢書東夷伝」の序文の末尾には、箕子朝鮮について次のように書かれています。

	 昔、箕子が殷の衰運を避けて朝鮮に移住した。それ以前の朝鮮の国の風俗については、何も伝えられていない。箕子の八条の規約が行われるようになって、朝鮮の人々に掟の必要なことを教えた。その結果、村にはみだりに盗むものがなく、家々は夜も門に閂(かんぬき)する必要がなく、箕子以前には頑迷無知な風俗によっていた人々も、ゆったりと大まかな法にしたがうようになった。この法は七、八百年も続き、それゆえ東夷諸種族は、一般に穏やかに行動し、心に謹しむことを慣習としている。この慣習が、東夷と他の三方の蛮夷との異なるところである。すくなくとも政治のゆきわたったところでは、道義が行なわれる。……省略……後に、中国との交易によって朝鮮との交通が次第に開け、中国王朝と交渉するようになったが、燕人の衛満は、その慣習を乱した。これより朝鮮の風習も次第に軽薄になった。老子は、「法令が多く出されることは盗賊が多く居ることだ」と言っている。箕子が条文を簡略にし信義をもってこれを運用したことは、聖賢が法律を定める基本を確立したものというべきである。(井上秀雄訳)

 ここには、箕子の統治によって朝鮮がよく治められたと書かれていますが、殷の王家は、もともと東北・朝鮮方面の出身だったかもしれません。箕子が中国人だったら、そううまくは治まらなかったでしょう。そしてまた、中国文明とは、四方の異民族の出会うところに生まれた混合文明だという疑いがかかります。

 この文章は、『漢書』の「地理誌・燕地の条」にある同様の文章を要約したもので、どちらも平凡社の『東アジア民族史・正史東夷伝・全二巻』(井上秀雄他訳注)で読めます。この文章によって、中国では箕子がすぐれた思想家・政治家として認識されていたことがわかります。

 古代朝鮮の歴史書にはもう一つ、一然の書いた『三国遺事』があります。これによれば、箕子朝鮮より古い時代の話として、檀君神話という建国神話があります。檀君はおそらく箕子の別名だろうと予想していますが、何せ神話ですからどのように理解したらよいのか、まだわかりません。そこでこれには触れずに、話を先に進めようと思います。
衛氏朝鮮辰国

 「史記朝鮮伝」によれば、燕がその全盛時以来、朝鮮・真番を攻略し、統属させようとしたといいます。朝鮮は箕子朝鮮で、真番は朝鮮半島の南部でしょう。

 BC222年に秦が燕を滅ぼすと、朝鮮は遼東郡の境域外とされたといいます。秦と箕子朝鮮の境界は鴨緑江のあたりと思われます。

 BC206年に秦が滅んで漢の時代になると、燕人の衛満が朝鮮に亡命し、やがて国を奪って王になりました。これを衛氏朝鮮といいます。

 『三国志』の「魏志韓伝」によれば、国を奪われた箕子朝鮮の準王は、海に逃れて南に渡り、韓王になったといいます。漢では、衛満の国を承認する代わりに、二つの条件を課しました。

 	①.東夷の中国への侵入を抑える。

②.東夷の君長の朝貢を妨害しない。

 ところが衛氏は約束を守りませんでした。衛氏は真番・臨屯を服属させ、その君長が漢に朝貢するのを妨害し、自らも朝貢しませんでした。そこで漢は軍を派遣し、BC108年に衛氏を滅ぼしました。

 ここに真番・臨屯という地名が登場するのは、真番を二つに分けたのでしょう。箕子朝鮮の準王が南に渡って韓王になったことによる変化です。準王の移住した東部(辰韓弁辰)が臨屯だと思われます。

 「後漢書韓伝」によれば、半島南部の韓国が昔の辰国だといいます。辰には朝という意味がありますから、辰国は朝鮮国を言い換えて区別したものでしょう。昔の辰国とは、昔の箕子朝鮮国という意味になります。南に渡った準王は、馬韓を降伏させて韓王になったが、その子孫が滅ぶと、馬韓人が自立して辰王になったと書かれています。

 「魏志韓伝」によれば、半島東南部の辰韓が昔の辰国だといいます。準王は海から韓族の地に入って住み着き、自ら韓王を称したと書かれています。また、『魏略』を引用して、準王の一族で国に留まったものは姓を韓氏と偽ったとありますから、韓国という地名は準王に由来するかもしれません。あるいは逆に、韓氏という姓が韓国の王に由来するのかもしれません。また、辰王は馬韓の月支国にいて、馬韓人を用いると書かれています。辰韓弁辰の十二国も辰王に臣属するが、その辰王はなぜか、自ら王になることはできないといいます。

 これらの史料を総合すると、準王が辰韓の地に入って住み着き韓国の王になったが、やがて子孫が絶え、馬韓人がもとのように韓国を制圧して、辰王を称したと言えそうです。辰韓弁辰には移住者が多くいましたが、その支配勢力は弁辰だったと思われます。弁には冠という意味があるからです。韓国の先住民は馬韓人だったのでしょう。

 「魏志辰韓伝」によれば、辰韓には秦韓の別名があり、秦人の言葉(文字)を使う人々がいたと書かれています。土地の老人によれば、彼らは昔の亡命者で、秦の労役を避けるために韓国に来たのであり、馬韓が東方の地を割いて与えてくれたといいます。

 彼らは秦の徐福の子孫だと思います。陳寿はこの人々を楽浪人の子孫と混同しましたが、楽浪人は箕子朝鮮辰国)の人々で、徐福より遅れて韓国に移ってきました。

 「後漢書濊伝」によれば、濊(わい)・沃沮(よくそ)・高句麗は、昔はみな朝鮮の地だったといいます。BC128年には、濊の君長が衛氏に反逆し、28万人を率いて遼東郡に服属しました。衛氏には人望が無かったのです。漢はこの地に蒼海郡(そうかいぐん)を置きましたが、すぐに廃止されました。蒼海郡と遼東郡の間に険しい蓋馬(ケマ)高原があり、支配が及びにくかったからでしょう。

 正史の中の朝鮮の歴史記事は、断片的です。そのため全体像を復原する作業は、まるでジグソーパズルのようです。

(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  Ⅱ古暦の巻  五章 古代朝鮮の年代論 (15・16・17・18)
  もどる    つぎへ    目次2へ

15 古代朝鮮(後)
楽浪郡の時代

 BC108年に衛氏を滅ぼした漢は、朝鮮半島に四つの郡を置きました。楽浪・玄菟・真番・臨屯の四郡です。衛氏朝鮮の西半部に楽浪郡を置き、東半部(旧蒼海郡)に玄菟郡を置きました。韓国西半部(馬韓)に真番郡を置き、韓国東半部(辰韓弁辰)に臨屯郡を置いたと思われます。

 しかし住民の抵抗にあって、楽浪郡以外は長続きしませんでした。玄菟郡はほとんどの領域を放棄して、遼東郡の中に移りました。真番郡と臨屯郡は、20年ほどで廃止されました。以後は、楽浪郡による間接的な半島支配に移行しました。

 漢末から魏の時代には楽浪郡の南半分に帯方郡が置かれ、二郡で半島を支配しました。

 「魏志韓伝」には、注目される記事がありました。馬韓の辰王は自ら王になることはできないとする記事です。中国の郡支配に強い抵抗を示した韓国の王が、自ら王になれないというのは理解できません。辰王が豪族らに共立される存在だったかもしれませんが、二郡の間接支配の陰に隠れて、別の支配体系があったかもしれません。

 思い出すのは、倭の五王の主張です。倭の五王は、馬韓・秦韓・弁辰百済新羅・加羅の支配権を主張し、その承認を宋に求めました。わざわざ古い三韓の名前まで持ち出したところを見ると、五王の主張の根源は3世紀までさかのぼる可能性があります。倭国の支配が辰王に及んでいても不思議ではありません。『日本書紀』では、4世紀の神功皇后の三韓征伐を韓国支配の根源と理解していますが、事実はもっと古いのだと思います。

 ただ、倭国の韓国支配を正史で確認することはできません。卑弥呼の支配が韓国に及んだとする記事はありません。「魏志韓伝」には、韓国が倭と接しているとか、弁辰は鉄を産し、それを韓・濊・倭が取っており、楽浪郡帯方郡にも供給すると書かれているだけです。

 3世紀の百済新羅はまだ小国です。馬韓の中の伯済国が後の百済で、辰韓の中の斯盧国が後の新羅だとされます。また、高句麗百済新羅の支配権を主張したことも謎です。高句麗は、自らを箕子朝鮮の後継者に任じたのかもしれませんし、他の理由があったのかもしれません。

 4世紀になると、世界が一変します。中国では北方民族が活発になって、316年に晋が滅び、翌年には江南で新たに東晋が建国されました。この時期の混乱に乗じて、高句麗楽浪郡を滅ぼしました。313年のことです。高句麗はさらに南の帯方郡も滅ぼしました。

 帯方郡が滅んだときには、百済帯方郡を助けて戦ったと『三国史記』に書かれています。百済帯方郡の遺民を吸収し、国力の充実を図ったのでしょう。4世紀後半には、高句麗を攻撃するような国に成長しました。

 新羅の成長もこの頃からです。中国の植民地支配という重しが取れ、民族勢力が勃興する時代になりました。ただし、準王(韓王)の権威を引き継いだ馬韓の旧勢力は、次第にその力を弱めることになりました。北方系の新興勢力が登場したのです。


(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  Ⅱ古暦の巻  五章 古代朝鮮の年代論 (15・16・17・18)
  もどる    つぎへ    目次2へ

16 高句麗(前)
高句麗本紀

 『三国史記』の「高句麗本紀」によれば、BC37年に、朱蒙(しゅもう)(鄒牟(すうむ))が高句麗を建国したといいます。その出自については神話めいた話が伝わっています。神話的な表現を取り除いて要約すると、次のようになります。

 	 初め、夫余(ふよ)王の解夫婁(かいふる)がいた。宰相が天神の勧めだと言って、都を移すように進言した。東海の浜辺の迦葉原(かしょうげん)は五穀の生育に良いと言って、そこに都を移すことを勧めたのである。王はその言葉に従った。その国を東夫余と名づけた。

 夫余の旧都に、どこからか解慕漱(かいぼそう)と自称する人がやって来て、都を開いた。その死後、解慕漱の子の朱蒙と、母の柳花がやって来た。成長すると、朱蒙の技能は他の王子たちよりすぐれていた。そのためにねたみを買って、殺されそうになった。

 朱蒙は、母の勧めを聞いて南に移り、卒本川(渾江)に来て都(遼寧省桓仁)を開いた。国号を高句麗とした。

 夫余王の姓は解氏とされていますが、朝鮮語では解を「へ」と読みます。「へ」は太陽の意味だといいます。日本語の日(ひ)と語源が同じだと思われます。夫余王は太陽氏(解氏)と理解できます。

 東海の浜辺の東夫余は、朝鮮半島の東海岸の濊をさすと思われます。「後漢書夫余伝」によれば、夫余(中国東北地方)は、もとは濊の地だったとされるからです。さらに、夫余国内に古城があり、濊城と呼ばれるとも書かれています。濊が朝鮮半島の東海岸に移住したあとに、別の夫余族がやって来たようです。

 朱蒙は諡号(おくりな)を東明といいますが、夫余の始祖も名を東明といい、その神話はよく似ています。「後漢高句麗伝」によれば、高句麗は夫余の別種で、言語・法則には同じものが多いと書かれています。

 「高句麗本紀」によれば、BC19年に朱蒙が死亡したと書かれています。しかし「後漢高句麗伝」によれば、新を開いた王莽(おうもう)が臣下に命じて、高句麗候の騶(すう)を誘い出して殺害させたと書かれています。騶(すう)は、朱蒙(鄒牟)のこととされます。この事件の年代は、「漢書王莽伝」によれば、AD12年です。

 『漢書』の年代を信じるなら、高句麗の初期には半年暦が使われたと考える他ありません。高句麗王の初めの三代の在位年数を半分にすると、朱蒙の死亡年がAD13年になるからです。「漢書王莽伝」に対して1年のずれがありますが、これは誤差でしょう。

 『三国史記』の称元法では、前王の死亡年と新王の元年は重なるのが普通です。しかし、前王が年末に死亡した場合などに、新王の元年が翌年になることもあるでしょう。したがって、高句麗の三代のうちの誰かが、前の王の死亡年の翌年を元年にしたとすれば、朱蒙の死亡年はAD12年になります。

 高句麗は箕子の影響で、早くから中国化が進んだと思いましたが、意外にその流れはゆるやかだったようです。あるいは、箕子が住民の文化に理解を示して、尊重したのかもしれません。そのために、この時代まで半年暦が残ったのでしょう。

 高句麗は、2代琉璃(るり)王の時に、都を集安(吉林省)に移しました。年代修正をすると、AD23年のことです。以後、5世紀に長寿王が平壌に都を移すまで、鴨緑江中流の小盆地が高句麗の都でした。
高句麗本紀

 「高句麗本紀」の記事は、4代の王から中国暦で書かれており、中国の正史と一致するはずだと思いました。ところが実際

には、6代・7代・8代の記事が正史と大きく食い違います。何か特別の事情があると想像されます。
 図表20   高句麗三大王の死亡年
西暦 ⑥宮 ⑦遂成 ⑧伯固
  53    7才即位       ー       ー
 146  100才退位   76才即位       ー
 165  119才死亡   95才死亡   77才即位
 179       ー       ー   91才死亡

 「高句麗本紀」によれば、6代太祖大王は名を宮といい、父の名は再思、母は夫余の女性だといいます。宮は53年に7才で即位したので母が摂政を務めました。宮は長寿だったようで、治世94年の146年に100才で同母弟の遂成に王位を譲り、165年に119才で亡くなったといいます。

 7代次大王は名を遂成といい、146年に76才で即位しました。治世20年の165年に臣下が次大王は暴虐だとして殺害しました。時に95才でした。

 8代新大王は名を伯固といい、宮の末弟だといいます。165年に77才で即位し、治世15年の179年に91才で亡くなりました。

 長寿の王が三代続いたことも珍しいですが、それ以上に不自然なのは、三代が兄弟とされることです。年令差を見ると、宮と遂成は24才、宮と伯固は42才です。まるで親子孫のようです。7才で即位したので母が摂政を努めたという王に、これほど年令の離れた弟がいたとは意外です。ありそうにないと言う意味では、これも一種の神話でしょう。日本書紀の三貴子分治などと同じように、高句麗でも三兄弟に特別の思い入れがあるのかもしれません。

 もっとも、日本の応神天皇と神功皇后のような事例もありますから、即断は避けるべきかもしれません

 「後漢高句麗伝」によれば、121年に宮が死んで、子の遂成が立ったと書かれています。その後、遂成が死んで、子の伯固が立ちました。伯固の記事のあとに、132年に玄菟郡に屯田を置いたと書かれています。伯固の即位は132年より前と思われます。三大王については、おそらく系譜でも在位年代でも、「後漢高句麗伝」が正しいでしょう。

 6宮─────7遂成─────8伯固
高句麗本紀

 これより以後、「高句麗本紀」には紀年上の大きな問題はないと思います。しかし、中国正史との間の人物比定に混乱があります。それは、9代・10代・11代に関わる人物比定です。ここでは、中国と高句麗の双方に問題があります。

 8伯固──┬──抜奇
      └──9伊夷模─────10位宮

 上は「魏志高句麗伝」に書かれた系譜です。「高句麗本紀」では、この正史の記事に惑わされて、一見奇妙な人物比定を行っています。

 8伯固──┬──(抜奇)
      ├──9故国川(伊夷模)
      ├──(発岐)
      └──10山上(延優・位宮)─────11東川

  19故国川……179~197
  10山上………197~227
  11東川………227~248

 まず抜奇ですが、この人物が一番の問題です。両書とも抜奇は即位しなかったとしていますが、即位した可能性があります。「高句麗本紀」の抜奇と発岐は同一人物です。どうやらこの抜奇をめぐって解釈が混乱したように見えます。

 わかりやすいのは位宮です。力が強く、乗馬に巧みで、狩や弓が上手だといいます。位宮は、記事の年代を重視して、11代東川王と見ることができます。「高句麗本紀」は位宮を延憂と同一視していますが、これは間違いで、二人は別人です。

 位宮は女王卑弥呼と同時代の人物です。景初2年(238年)に司馬懿が公孫淵を滅ぼしたときには、位宮は兵を派遣して司馬懿を助けました。しかし後に離反して、正始5年(244年)に毌丘倹(かんきゅうけん)に攻撃されました。「梁書高句麗伝」によれば、翌年にも毌丘倹に攻められて沃沮に逃げ、玄菟太守の王頎(おうき)にも追われたと書かれています。

 伊夷模は位宮の父ですから10代山上王です。「魏志高句麗伝」では、伊夷模は、兄の抜奇が不肖の子だったので、国人に支持されて即位したといいます。一方、山上王は名を延憂といい、国人が兄を支持しなかったので即位したといいます。両者の話は一致します。伊夷模と延優は同一人物、抜奇と発岐も同一人物です。

 抜奇は、遼東郡の公孫康が高句麗を攻めたときに、三万人を率いて公孫康に降ったといいます。一方、発岐もまた、国を裏切って公孫氏に付いたといいます。ここでも抜奇と発岐の話は一致します。

 問題は故国川王ですが、故国川王は抜奇でしょう。正史には故国川王は登場しないかに見えますが、そこには裏の事情があります。「魏志高句麗伝」によれば、建安年間(196~220)に公孫康が高句麗を破ったときに、抜奇が降伏したと書かれています。故国川王の在位は197年までですから、抜奇が故国川王だったと考えても、年代はどうにか合っています。敵の軍門に降った事を恥じて、この時から抜奇が不肖の子と呼ばれたのに違いありません。

 一方の伊夷模は、この事件を機に都を移して、新しい国を建てたとあります。伊夷模の即位は実はこの時で、年代は197年だったと思われます。以上のことから、高句麗王の正しい人物比定は、次のようになります。

 8伯固──┬──9故国川(抜奇・発岐)
      └──10山上(伊夷模・延優)─────11東川(位宮)
広開土王碑文

 その他の史料で「高句麗本紀」と違う記事のあるものは、広開土王碑文です。その文章は、石原道博編訳『魏志倭人伝他・中国正史日本伝1』に紹介されています。

 碑文によれば、広開土王の元年は391年で、時に、王は18才でした。39才で亡くなり、414年に山陵に葬ったとされます。一方「高句麗本紀」では、元年を392年とし、死亡年を412年とします。広開土王は18才の391年に即位したとすれば、39才になるのは412年です。したがって死亡年については、両者の記事は一致します。

 問題は即位年です。1年ずれていますが、碑文の391年が正しいと思います。碑文には、王を山陵に葬ったとしたあと、「ここにおいて碑を立つ。功績を銘記して後世に示す。」と記されています。後に成立した「高句麗本紀」より、死後すぐに立てられた碑文の方が信頼性が高いと思います。

 また、碑文の中に次の文があります。

  十七世孫国岡上広開土境平安好太王。

 国岡上広開土境平安好太王というのは、王の諡号(おくりな)です。あまりに長いので、普通は略称で広開土王とか好太王と呼ばれます。この文は、初代鄒牟王(朱蒙)の死後に、2代・3代が続いたとしたあとに現れます。名前を連ねて17世の子孫の広開土王に至るという意味になるようです。

 ここの問題は17世です。「高句麗本紀」によれば、広開土王は19代、13世の王とされます。例の三兄弟を親子孫に修正しても、まだ15世にしかなりません。したがって三兄弟のほかにも、系譜の誤りが二ヶ所あるはずです。修正の余地を残すところも二ヶ所あります。

 第一には、伯固王の在位がおよそ50年と長いにもかかわらず、子の故国川王が19年も在位したことです。ここは、故国川王を伯固王の孫としても良いでしょう。

 第二には、故国川王のあとに山上王の30年が続きますが、この二代を兄弟とする点が疑われます。故国川王の弟の子を山上王とする事もできるでしょう。

 6宮──7遂成──8伯固──◯◯─┬─9故国川 
                  └─◯◯──10山上──11東川
 図表21 高句麗王年表    ◯は修正した在位年代
代 王 名  修正しない
 在位年数    元年 ~ 死亡年
 1 東 明 19  ◯ 3後半~12後半
 2 琉 璃 37  ◯13前半~31前半
 3 大武神 27  ◯31前半~44前半
 4 閔 中  5    44 ~ 48 
 5 慕 本  6    48 ~ 53
 6 太祖大 94  ◯ 53 ~ 121
 7 次 大 20  ◯121 ~ 130頃
 8 新 大 15  ◯130頃~ 179
 9 故国川  9   179 ~ 197
10 山 上 31   197 ~ 227
11 東 川 22   227 ~ 248
12 中 川 23   248 ~ 270
13 西 川 23   270 ~ 29
14 烽 上  9   292 ~ 300
15 美 川 32   300 ~ 331
16 故国原 41   331 ~ 371
17 小獣林 14   371 ~ 384
18 故国壌  8  ◯384 ~ 391
19 広開土 22  ◯391 ~ 412
20 長 寿 79   413 ~ 491
21 文 咨 28   492 ~ 519
22 安 蔵 13   519 ~ 531
23 安 原 15   531 ~ 545
24 陽 原 15   545 ~ 559
25 平 原 32   559 ~ 590
26 嬰 陽 29   590 ~ 618
27 栄 留 25   618 ~ 642
28 宝 蔵 27   642 ~ 668

 図表22 高句麗王の修正しない系図
 
 1東明──2琉璃─┬─3大武神──5慕本
1東 明──2琉璃─├─4閔中
1 東明──2琉璃─└─再思──┬─6太祖大
 1東明──2琉璃─└─再思──├─7次大
1 東明──2琉璃─└─再思──└─8新大─┬─9故国川
1東 明──2琉璃─└─再思──└─8新大─└─10山上──┐
                              │
 ┌─────────────――――――――――――――─┘
 │
 └─11東川───12中川───13西川─┬─14烽上
1東 明──2琉璃─└─再思───13西川─└─◯◯――─┐
                             │
 ┌──────────────────────――――─┘
 │
 └─15美川───16故国原─┬─17小獣林
└─ 15美川───16故国原─└─18故国壌──┐
                         │
 ┌─────────────―――――――――─┘
 │
 └─19広開土──20長寿──◯◯──21文咨──┐
                          │
 ┌─────────────――――――――――─┘
 │
 └┬─22安蔵
 ─└─23安原──24陽原───25平原─┬─26嬰陽
─ 25        平       原─├─27栄留
└─24陽  原───25原       ─└──◯◯──┐
                        ┌────┘
                        └──28宝蔵

(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  Ⅱ古暦の巻  五章 古代朝鮮の年代論 (15・16・17・18)
  もどる    つぎへ    目次2へ

16 高句麗(後)
広開土王碑文

 その他の史料で「高句麗本紀」と違う記事のあるものは、広開土王碑文です。その文章は、石原道博編訳『魏志倭人伝他・中国正史日本伝1』に紹介されています。

 碑文によれば、広開土王の元年は391年で、時に、王は18才でした。39才で亡くなり、414年に山陵に葬ったとされます。一方「高句麗本紀」では、元年を392年とし、死亡年を412年とします。広開土王は18才の391年に即位したとすれば、39才になるのは412年です。したがって死亡年については、両者の記事は一致します。

 問題は即位年です。1年ずれていますが、碑文の391年が正しいと思います。碑文には、王を山陵に葬ったとしたあと、「ここにおいて碑を立つ。功績を銘記して後世に示す。」と記されています。後に成立した「高句麗本紀」より、死後すぐに立てられた碑文の方が信頼性が高いと思います。

 また、碑文の中に次の文があります。

  十七世孫国岡上広開土境平安好太王。

 国岡上広開土境平安好太王というのは、王の諡号(おくりな)です。あまりに長いので、普通は略称で広開土王とか好太王と呼ばれます。この文は、初代鄒牟王(朱蒙)の死後に、2代・3代が続いたとしたあとに現れます。名前を連ねて17世の子孫の広開土王に至るという意味になるようです。

 ここの問題は17世です。「高句麗本紀」によれば、広開土王は19代、13世の王とされます。例の三兄弟を親子孫に修正しても、まだ15世にしかなりません。したがって三兄弟のほかにも、系譜の誤りが二ヶ所あるはずです。修正の余地を残すところも二ヶ所あります。

 第一には、伯固王の在位がおよそ50年と長いにもかかわらず、子の故国川王が19年も在位したことです。ここは、故国川王を伯固王の孫としても良いでしょう。

 第二には、故国川王のあとに山上王の30年が続きますが、この二代を兄弟とする点が疑われます。故国川王の弟の子を山上王とする事もできるでしょう。

 6宮──7遂成──8伯固──◯◯─┬─9故国川 
                  └─◯◯──10山上──11東川
 図表21 高句麗王年表    ◯は修正した在位年代
代 王 名  修正しない
 在位年数   元年 ~ 死亡年
 1 東 明 19 ◯ 3後半~12後半
 2 琉 璃 37 ◯13前半~31前半
 3 大武神 27 ◯31前半~44前半
 4 閔 中  5   44 ~ 48 
 5 慕 本  6  48 ~ 53
 6 太祖大 94 ◯ 53 ~ 121
 7 次 大 20  ◯121 ~ 130頃
 8 新 大 15 ◯130頃~ 179
 9 故国川  9  179 ~ 197
10 山 上 31  197 ~ 227
11 東 川 22  227 ~ 248
12 中 川 23  248 ~ 270
13 西 川 23  270 ~ 29
14 烽 上  9 292 ~ 300
15 美 川 32 300 ~ 331
16 故国原 41 331 ~ 371
17 小獣林 14 371 ~ 384
18 故国壌  8 ◯384 ~ 391
19 広開土 22 ◯391 ~ 412
20 長 寿 79 413 ~ 491
21 文 咨 28 492 ~ 519
22 安 蔵 13 519 ~ 531
23 安 原 15 531 ~ 545
24 陽 原 15 545 ~ 559
25 平 原 32 559 ~ 590
26 嬰 陽 29 590 ~ 618
27 栄 留 25 618 ~ 642
28 宝 蔵 27 642 ~ 668

 図表22 高句麗王の修正しない系図
 
 1東明──2琉璃─┬─3大武神──5慕本
1東 明──2琉璃─├─4閔中
1 東明──2琉璃─└─再思──┬─6太祖大
 1東明──2琉璃─└─再思──├─7次大
1 東明──2琉璃─└─再思──└─8新大─┬─9故国川
1東 明──2琉璃─└─再思──└─8新大─└─10山上──┐
                              │
 ┌─────────────――――――――――――――─┘
 │
 └─11東川───12中川───13西川─┬─14烽上
1東 明──2琉璃─└─再思───13西川─└─◯◯――─┐
                             │
 ┌──────────────────────――――─┘
 │
 └─15美川───16故国原─┬─17小獣林
└─ 15美川───16故国原─└─18故国壌──┐
                         │
 ┌─────────────―――――――――─┘
 │
 └─19広開土──20長寿──◯◯──21文咨──┐
                          │
 ┌─────────────――――――――――─┘
 │
 └┬─22安蔵
 ─└─23安原──24陽原───25平原─┬─26嬰陽
─ 25        平       原─├─27栄留
└─24陽  原───25原       ─└──◯◯──┐
                        ┌────┘
                        └──28宝蔵

(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  Ⅱ古暦の巻  五章 古代朝鮮の年代論 (15・16・17・18)
  もどる    つぎへ    目次2へ

17 百済(前)
百済本紀

 「百済本紀」の本文によると、始祖は朱蒙の子の温祚(おんそ)だといいます。北の夫余から朱蒙の子が高句麗にやってきて太子になったので、温祚と兄の沸流(ふつりゅう)は対立を恐れて南に下り、百済を建国したといいます。

 しかし「百済本紀」は、兄の沸流を始祖とする別伝も紹介しています。こちらの伝承では、二人の兄弟は優台の子で、夫余の解扶婁(かいふる)王の子孫としています。母が兄弟を連れて朱蒙と再婚したあとで、夫余から朱蒙の子がやってきて太子になったので、兄弟は南に下り別に国を建てたといいます。

 本文では百済王を高句麗初代の朱蒙の子孫としますが、別伝では夫余王の子孫としています。ただし解扶婁の子孫といいますから、朝鮮半島の東海岸に移住した濊(わい)王の子孫です。いずれにしても、遠い先祖は夫余から出たといえます。しかし始祖を朱蒙と同時代とする点には無理があります。「百済本紀」の紀年では百済の建国はBC18年ですが、これは半年暦によっています。年代修正をすると、時代が合いません。

 「百済本紀」の紀年を修正するときには、313年が歴史上の定点になります。

 「高句麗本紀」の15代美川(びせん)王の条によれば、313年に楽浪郡に進入し、314年には帯方郡に侵入したと書かれています。高句麗が二郡を滅ぼしたのです。このとき、帯方郡では百済に救援を求めたようです。

 「百済本紀」の9代責稽(せきけい)王元年の条によれば、帯方の王女を夫人とした縁で百済が帯方を救ったが、再度高句麗が攻めてくることに備えて、城を修理したと書かれています。この記事が、314年の直後に対応します。「百済本紀」の紀年ではこの記事は286年ですが、これが314年直後に収まるように年代修正すればよいのです。

 結論を言うと、13代近肖古(きんしょうこ)王のときに中国暦が採用されたと考えれば、286年は316年後半になります。近肖古王の時代には、博士の高興を得て、初めて文字で記録するようになったといいますから、近肖古王(在位346~375)は、中国暦を採用した王にふさわしいと思われます。

 この修正によれば、百済の建国は165年前半になります。百済が建国した広州は、北の高句麗楽浪郡の勢力と、南の馬韓の勢力がぶつかるところです。温祚王の24年の条によれば、昔、馬韓が東北の地を割いて、百済に与えて安住させたといいます。

 その温祚王のときに、百済馬韓を滅ぼしたとありますが、信用できません。3世紀の馬韓には辰王がいたからです。馬韓の辰王が滅ぶのは、明確な記録はありませんが、6世紀の継体天皇の頃ではないかと思われます。

 2代多婁(たろう)王の6年の条には、この年に初めて稲田を作らせたと書かれています。この記事は、百済が北方起源であることを示しています。年代修正すると、190年になります。その後、百済は次第に力を蓄えました。314年には、高句麗に攻められた帯方郡に救援の軍を送りました。そしてこの後しばらくの間、楽浪郡の残存勢力と百済の間に、争乱が続いたようです。

 9代責稽王は、322年(修正年)に漢人と貊(はく)の侵入を受けて戦死しました。貊は高句麗系の民族です。10代分西(ふんせい)王は、325年(修正年)に楽浪西部の県を奪いましたが、その太守の放った刺客に殺害されたといいます。

 楽浪郡は、やがて高句麗の手中に帰しました。334年に故国原王が平壌城を増築したと書かれています。やがてこの城は高句麗の副都のようになり、427年には長寿王がここに都を移しました。

 一方、帯方郡を吸収した百済もまた、中国風の制度・文化を受け入れて、急速に国家としての成長を始めました。そして、近肖古王の時代には中国暦を採用して、最初の繁栄期を迎えるのです。
干支について

 『日本書紀』は、百済から伝わった歴史書を用いて日韓関係を記録しています。その最初を飾るのは、神功皇后の条の近肖古王の記事です。

 『日本書紀』の紀年では、神功皇后は3世紀の人で、4世紀の近肖古王の時代とは重なりません。にもかかわらず、二人を同時代の人として扱っています。年代論は抜きにして、二人を同時代の人とする強い伝承(記憶)があったからに違いありません。

 『日本書紀』は、編者舎人親王らの悪戦苦闘する様子がうかがえる歴史書です。本来なら半年暦や親子合算の習慣に基づく記録については、年代修正すべきでした。しかし奈良時代までの間に、過去にそうした習慣のあったことは忘れられました。

 そこで二人を同時代の人とするために、『日本書紀』では近肖古王の年代を120年繰り上げる操作を行いました。つまり近肖古王の死亡年である375年(乙亥年)を、255年(乙亥年)としたのです。なぜ120年かというと、昔は干支で年代を表わす方法を取っていましたが、その方法では60年ごとに同じ干支が巡ってくることを利用したのです。それで120年ずらしたら近肖古王と神功皇后の時代が重なったというわけです。

 それでは干支(えと)とは何かといえば、十干と十二支から一文字ずつを組み合わせて、年代を特定する方法です。まず十干は、甲(こう)乙(おつ)丙(へい)丁(てい)戊(ぼ)己(き)庚(こう)辛(しん)壬(じん)癸(き)の十文字です。これを各年に一文字ずつ順に当てていきます。10年で一巡します。

 十二支は、子(し)丑(ちゅう)寅(いん)卯(ぼう)辰(しん)巳(し)午(ご)未(み)申(しん)酉(ゆう)戌(しゅつ)亥(がい)の十二文字です。これを各年に一文字ずつ順に当てていきます。12年で一巡します。

 以上のことを毎年繰り返すと、干と支の組み合わせが60通りできます。つまり干支は60年で一巡します。そこで、甲子(こうし)年から癸亥(きがい)年まで60年分の組み合わせを一つの表にして、西暦を一つ記入しておくと、任意の年の干支がすぐに計算できます。

 たとえば、2009年は、60年かける33あまり29年です。29年は次の表により、己丑(きちゅう)年ですから、2009年も己丑年になります。和風の読みかたでは、ツチノト・ウシの年といいます。
4甲子(コウシ・きのえね) 34甲午(コウゴ・きのえうま)
5乙丑(オツチュウ・きのとうし) 35乙未(オツミ・きのとひつじ)
6丙寅(ヘイイン・ひのえとら) 36丙申(ヘイシン・ひのえさる)
7丁卯(テイボウ・ひのとう) 37丁酉(テイユウ・ひのととり)
8戊辰(ボシン・つちのえたつ) 38戊戌(ボシュツ・つちのえいぬ)
9己巳(キシ・つちのとみ) 39己亥(キガイ・つちのとい)
10庚午(コウゴ・かねのえうま) 40庚子(コウシ・かねのえね)
11辛未(シンミ・かねのとひつじ) 41辛丑(シンチュウ・かねのとうし)
12壬申(ジンシン・みずのえさる) 42壬寅(ジンイン・みずのえとら)
13癸酉(キユウ・みずのととり) 43癸卯(キボウ・みずのとう)
14甲戌(コウシュツ・きのえいぬ) 44甲辰(コウシン・きのえたつ)
15乙亥(オツガイ・きのとい) 45乙巳(オツシ・きのとみ)
16丙子(ヘイシ・ひのえね) 46丙午(ヘイゴ・ひのえうま)
17丁丑(テイチュウ・ひのとうし) 47丁未(テイミ・ひのとひつじ)
18戊寅(ボイン・つちのえとら) 48戊申(ボシン・つちのえさる)
19己卯(キボウ・つちのとう) 49己酉(キユウ・つちのととり)
20庚辰(コウシン・かねのえたつ) 50庚戌(コウシュツ・かねのえいぬ)
21辛巳(シンシ・かねのとみ) 51辛亥(シンガイ・かねのとい)
22壬午(ジンゴ・みずのえうま) 52壬子(ジンシ・みずのえね)
23癸未(キミ・みずのとひつじ) 53癸丑(キチュウ・みずのとうし)
24甲申(コウシン・きのえさる) 54甲寅(コウイン・きのえとら)
25乙酉(オツユウ・きのととり) 55乙卯(オツボウ・きのとう)
26丙戌(ヘイシュツ・ひのえいぬ) 56丙辰(へイシン・ひのえたつ)
27丁亥(テイガイ・ひのとい) 57丁巳(テイシ・ひのとみ)
28戊子(ボシ・つちのえね) 58戊午(ボゴ・つちのえうま)
29己丑(キチュウ・つちのとうし) 59己未(キミ・つちのとひつじ)
30庚寅(コウイン・かねのえとら) 60庚申(コウシン・かねのえさる)
31辛卯(シンボウ・かねのとう) 61辛酉(シンユウ・かねのととり)
32壬辰(ジンシン・みずのえたつ) 62壬戌(ジンシュツ・みずのえいぬ)
33癸巳(キシ・みずのとみ) 63癸亥(キガイ・みずのとい)

  コラム 和風の読み方の解説 例・甲子(コウシ・きのえね)

 き………五行説の木・火・土・金属・水のうちの一つ。
 の………格助詞の「の」
 え………「え」は年上の意味(例 えひめ)。一般に兄を当てる。
     「と」は年下の意味、正しくは「おと」(例 おとひめ)。
      一般に弟・乙を当てる。
     「えおと」が訛って、「えと」で、「兄・弟」の意味、
      後に干支・十二支の意味に転用された。
 ね………ね(鼠)・うし(牛)・とら(虎)・う(兎)
     ・たつ(竜)・み(蛇)・うま(馬)・ひつじ(羊)
     ・さる(猿)・とり(鳥)・いぬ(犬)・い(猪)
     のうちの一つ。

(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  Ⅱ古暦の巻  五章 古代朝鮮の年代論 (15・16・17・18)
  もどる    つぎへ    目次2へ

17 百済(中)
腆支王の謎

 『日本書紀』には、4世紀の近肖古王から6世紀の威徳王に至るまで、百済王の在位年代を示す記事があります。その記事は、大きく前半と後半に分けることができます。前半では、7人の王の在位が120年繰り上げて記録されています。後半では、7人の王の在位が繰り上げなしで記録されています。二つのグループの間には、記載から漏れた王(毘有王)が一人います。

 120年の繰り上がりを修正すると、『日本書紀』には欠けたところや細かな違いはあるものの、おおむね「百済本紀」の年代記事と一致します。このことは、互いに相手の正しさを証明し合っているようなものです。細かな違いについては、「百済本紀」のほうが正しいと思います。全ての年代がそろっていることを重視します。ただし、「百済本紀」にもいくつか問題があります。

 まず腆支(てんし)王の死亡年に問題があります。『日本書紀』では、直支(とき)王(腆支王)の死を414年(修正年)としています。ところが、「百済本紀」では420年としています。さらに「宋書百済伝」によれば、余映(腆支王)が424年に朝貢したと書かれています。日本・朝鮮・中国の記録がみな違っています。

 この件について、『日本書紀』に興味深い記事があります。応神天皇の25年の条に、次のように書かれています。

 	 百済の直支王(ときわう)薨(みまか)りぬ。即ち子久爾辛(くにしん)、立ちて王(こきし)と為(な)る。王、年(とし)幼(わか)し。木満致(もくまんち)、国政(くにのまつりごと)を執(と)る。王(こきし)の母(いろは)と相(あい)婬(たは)けて、多(さは)に無礼(ゐやなきわざ)す。天皇(すめらみこと)、聞(きこ)しめして召す。

 この記事のポイントは、直支王が亡くなった時に、幼少の太子とその母が残されたことです。幼少の太子は後の毘有(ひゆう)王でしょう。母は、久爾辛王だったと思います。

 「百済本紀」では腆支王の子は久爾辛王で、久爾辛王の子を毘有王としています。しかし分注には、腆支王の子を毘有王とする別伝があると書かれています。その分注を重視して、太子の毘有王が成長するまでのつなぎとして、母の久爾辛王が即位したと考えます。

 百済では、女王久爾辛の存在を中国に対して隠し通し、さも腆支王の治世が続いているかのように装ったのでしょう。日本でも推古女帝の存在を隠した例があります。女王を戴くことで中国に軽んじられることを避けたのかも知れません。

 そこで、腆支王から毘有王までの年代については「百済本紀」をそのまま採用し、系図については次のように考えます。

 18腆支王
    ├────20毘有王─────21蓋鹵王
 19久爾辛王

 次に蓋鹵王以後の七代については、年代は「百済本紀」が正しく、系譜は『日本書紀』が正しいと思います。「百済本紀」で系図を作ると、5世紀の100年間に六世代が収まって不自然です。100年間に三世代か四世代が収まるのが普通で、この点で『日本書紀』のほうが信用できます。

 次に、前半の枕流(ちんりゅう)王と辰斯(しんし)王の二代は在位が短く、近仇首(きんきゅうしゅ)王の弟と考えたほうが良さそうです。阿華(あか)王が近仇首王の子だと思います。ついでになりますが、近仇首王以前の系図については、8代・9代・10代の三人の王は、4代王の孫とすると収まりが良くなります。三国の中では、百済の系図に混乱が目立つようです。
 図表23  百済王の比較年表
代 王 名 百済本紀
元年~死亡年

日本書紀
元年~死亡年
13 近肖古 346~375   ~255
14 近仇首 375~384 256~264
15 枕 流 384~385 264~265
16 辰 斯 385~392 265~272
17 腆 支 392~405 272~285
18 阿 華 405~420 285~294
19 久爾辛 420~427 294~  
20 毘 有 427~455 記載漏れ
21 蓋 鹵 455~475   ~475
22 文 周 475~477 477~  
23 三 斤 477~479   ~479
24 東 城 479~501 479~502
25 武 寧 501~523 502~523
26  聖 523~554 524~554
27 威 徳     554~598 557~  

 図表24  百済王の比較系図

 ◯百済本紀

 13近肖古───14近仇首─┬─15枕流───17阿華──┐
               └─16辰斯         │
  ┌────────────―――――――――――――――┘
  │  別伝に
  │   18腆支───────────20毘有──
  │
  └───18腆支───19久爾辛───20毘有──┐
                           │
  ┌────────────―――――─────――┘
  │
  └─┬─21蓋鹵─―─22文周─―─23三斤
    │
    └──◯◯──―─24東城─―─25武寧──┐
                          │
                  ┌─────――┘
                  └─26聖──27威徳
 ◯日本書紀

 13近肖古───14近仇首─┬─15枕流──┐
               └─16辰斯  │
                       │
 ┌────────────―――――――――┘
 │
 └─17阿華───18腆支─19久爾辛──┐
                      │
 ┌────────────――――――――┘
 │
 └─(20毘有)

   ┌─女性─┬─21蓋鹵──25武寧──26聖──27威徳
   │    │
   │    └──◯◯───24東城 
   │
   └─22文周───23三斤

(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  Ⅱ古暦の巻  五章 古代朝鮮の年代論 (15・16・17・18)
  もどる    つぎへ    目次2へ

17 百済(後)
百済と倭国(倭の五王まで)

 「百済本紀」には日本の記事はわずかしかありませんが、『日本書紀』には百済との交流記事が多く、対照的です。

 『日本書紀』によれば、366年に倭国と百済の国交が開始されたあと、早くも369年に倭国の軍が朝鮮半島に出征しました。この時の出征が、朝鮮半島に支配権を確立した画期として記憶されています。よほど大きな戦果を上げたのでしょうか。

 「百済本紀」によると、369年に百済高句麗の侵入を撃退し、371年にも高句麗を撃退しました。特に371年には平壌まで攻め込んで、高句麗の故国原王を戦死させました。これは倭国と百済が同盟した成果だと思います。しかし同時に、高句麗の恨みを買った事件でもあったでしょう。

 「百済本紀」によれば、372年に百済は南朝の東晋に朝貢しました。その一方で、『日本書紀』によれば、同じ372年に倭国に七支刀を献じたと書かれています。その七支刀は、奈良県天理市の石上神宮に伝わり、刀身には東晋の泰和4年(372年)の銘文が刻まれています。

 高句麗広開土王が現れた4世紀末から5世紀初めにかけては、高句麗と倭国が交互に半島南部に侵入して、軍事的圧力を加えています。応神朝の出来事です。

 この時期の新羅では、高句麗と倭国の両方に人質を送り、危機を回避しました。しかし百済は、倭国には人質を送りましたが、高句麗との間にそのような記事は見られません。そのため、談徳(広開土王)の激しい攻撃にさらされたようです。「百済本紀」の399年の条には、民は役務に苦しみ、新羅に逃げる者が多く、人口が減少したとあります。

 百済は、397年に太子の腆支を倭国に送りました。403年には、倭国の使者を丁重に迎えたとする記事もあります。これは日本史にとって重要な記事だと思われます。『日本書紀』の応神天皇の14年(283年)の条によれば、百済王が縫衣工女を送ってきたとあります。120年繰り下げると、403年になります。雄略天皇の7年(463年)にも、百済が陶部・鞍部・画部・錦部・訳語の才伎(工人等)を送ってきたとありますが、この年も403年のことかもしれません。この記事に限っては、60年繰り下がっている可能性があります。

 475年には、高句麗の長寿王が百済の都を攻略し、滅亡の危機に追いやりました。しかし、このときには倭国が援助して、都を南の公州の移し、百済を再興したことが『日本書紀』に書かれています。雄略朝のできごとです。雄略天皇(倭王武)は、478年に宋に使者を派遣して上表文を奉じましたが、そこには、高句麗の暴虐を宋に訴えて、高句麗討伐の援軍を請う目的があったと思われます。
百済と倭国(倭の五王以後)

 継体天皇の時代には、百済は倭国から馬韓地方の割譲を受けて、国の再建を図りました。おそらくこれが馬韓滅亡の時期でしょう。倭国はこの馬韓を押さえたことにより、半島南部の支配権を手に入れたと考えた節があります。その馬韓百済に譲り渡したのです。百済は、538年には都を扶餘(ふよ)に移し、倭国に対しては、聖明王が欽明天皇に仏像その他を献上しました。これが日本への仏教伝来の初めとされます。

 551年には、聖明王が、高句麗と不和になっていた新羅と同盟して北上し、高句麗を討ちました。この結果、百済は漢山城(広州)周辺の故地を回復しました。

 欽明天皇の23年(562年)の条のよれば、大伴狭手彦(おおとものさてひこ)が百済の計を用いて数万の軍で、高句麗を討ち破ったといいます。この年次を別伝では11年(550年)とします。おそらく大伴狭手彦は、550年に倭国を出発し、551年に高句麗を討ったのでしょう。550年(庚午年)と562年(壬午年)の間違いについては、どちらも午年(うまどし)であるために間違えたのでしょうか。

 しかし553年になると、百済高句麗の平壌を攻めた留守を新羅に襲われて、漢山城周辺の地を新羅に奪われてしまいました。そこで554年には、新羅の裏切りに怒った百済の太子が新羅攻撃に向かいました。この時に、聖明王が心配して太子の後を追いましたが、新羅兵の待ち伏せにあって、王が戦死しました。

 7世紀になると、百済にも武王という軍事的天才が現れて、初めて自力で失地回復に努めました。ところがこのことにより、かえって唐に軍事介入の口実を与えたらしく、660年には唐と新羅の連合軍に攻撃されて、滅亡してしまったのです。倭国はこのときにも倭国にいた王子の豊璋を立てて、国の再興を図りました。しかし663年に白村江の戦いに敗れて、百済再興の望みは絶たれてしまいました。

 	参考 従来、4世紀には百済が馬韓を支配したとされていましたが、今変わりつつあります。

 現在の全羅南道・栄山江流域は、原三国時代には馬韓の領域であったが、4世紀以降は百済の領域となったと考えられてきた。近年、この地域の墓制や遺物の独自性を評価し、全羅南道地域の百済への服属を5世紀末ごろと捉え、それ以前は成人甕棺葬などを特徴とする独自の勢力が存在したと考えられるようになってきた。(白井克也)

 4~5世紀の全羅南道・栄山江流域を中心とした地域に,百済に属さぬ独自の政治勢力(馬韓)が存在したのではないかという議論は,最近の重要な研究課題となってきている。(白井克也)
 図表25  百済王の年表
代 王 名  修正しない
 在位年数    修正した
    元年 ~ 死亡年
 1 温 祚 46 165前半~187後半
 2 多 婁 50 187後半~212前半
 3 己 婁 52 212前半~237後半
 4 蓋 婁 39 237後半~256後半
 5 肖 古 49 256後半~280後半
 6 仇 首 21 280後半~290後半
 7 沙 伴 1 290後半~290後半
 8 古 爾 53 290後半~316後半
 9 責 稽 13 316後半~322後半
10 汾 西 7 322後半~325後半
11 比 流 41 325後半~345後半
12 契 3 345後半~346後半
13 近肖古 30 346 ~ 375
14 近仇首 10 375 ~ 384
15 枕 流 2 384 ~ 385
16 辰 斯 8 385 ~ 392
17 阿 華 14 392 ~ 405
18 腆 支 16 405 ~ 420
19 久爾辛 8 420 ~ 427
20 毘 有 29 427 ~ 455
21 蓋 鹵 21 455 ~ 475
22 文 周 3 475 ~ 477
23 三 斤 3 477 ~ 479
24 東 城 23 479 ~ 501
25 武 寧 23 501 ~ 523
26 聖 32 523 ~ 554
27 威 徳 45 554 ~ 598
28 恵 2 598 ~ 599
29 法 2 599 ~ 600
30 武 42 600 ~ 641
31 義 慈 20 641 ~ 660

   図表26  修正しない百済王の系図

 1温祚──2多婁──3己婁───4蓋婁──┐
                      │
  ┌───――――――――――――――――┘
  │
  └┬─5肖古───6仇首─┬─7沙伴
   │           └─11比流───13近肖古─┐
   └─8古爾───9責稽───10汾西───12契   │
                              │
  ┌─────────────────────――――――┘
  │
  └─14近仇首─┬─15枕流───17阿華──18腆支─┐
          └─16辰斯              │
                              │
  ┌──────────────―――――――――─―――┘
  └─19久爾辛─┐
          │
  ┌─――――――┘
  │
  └─20毘有─┬─21蓋鹵───22文周───23三斤
         └──◯◯────24東城───25武寧─┐
                              │
  ┌─────────────――――――――――――――┘
  └─26聖─┬─27威徳
        └─28恵───29法──30武──31義慈

(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  Ⅱ古暦の巻  五章 古代朝鮮の年代論 (15・16・17・18)
  もどる    つぎへ    目次2へ

18 新羅(前)
新羅本紀

 「新羅本紀」の紀年修正に必要となる歴史上の定点は、三つあります。しかし、言い換えると、弱い定点ばかりが見つかるので、三つ合わせなければ定点の役割を果たせないと言うことでもあります。

 第一の定点は、8代阿達羅(あたら)尼師今(にしきん)の20年の記事です。そこには、倭の女王卑弥呼が使者を派遣して来訪させたとあります。初めこの記事を信用して、年代修正をしました。すると、16代訖解(きっかい)尼師今の310年から中国暦を採用したことになりました。この場合、卑弥呼の記事を173年から242年に修正することになりました。ところがこの修正にはあとで問題が発生しました。

 第二の定点は、15代基臨(きりん)尼師今の3年の記事です。そこには、楽浪・帯方の二国(二郡)が服属してきたとあります。この記事が、二郡からの難民の流入を示すとすれば、314年以後のことと理解できます。

 この記事に着目して年代修正すると、17代奈勿(なもち)尼師今の356年から中国暦を採用したことになりました。この場合二郡からの難民の移住は328年のことになって、無理がありません。しかし第一の定点では、難民の移住は305年になって、不自然です。

 また、第二の定点による修正では、卑弥呼の記事は265年になります。この年は魏が滅んで晋に変わった年で、女王台与が晋に朝貢した前年にあたります。これは一見無理のようですが、卑弥呼を台与の誤りと見れば、問題がなくなります。したがって二つの定点のうち、第二の定点が正しいと思われます。

 新羅の王家には三つの姓があります。初めは朴氏の王がいましたが、次に昔氏の王が現れました。そして17代奈勿(なもち)尼師今からは金氏の王が続きます。この昔氏から金氏への変わり目が、半年暦から中国暦への変わり目にもなっています。この年代修正によれば、新羅の建国は150年後半です。

 新羅は地理的には中国から遠いのですが、準王や徐福の例もあるように、昔から中国方面からの移住者が多いところです。「新羅本紀」の3代儒理尼師今の14年の条によれば、高句麗の3代大武神王が楽浪を滅ぼしたので、その国人五千人が新羅に投降したと書かれています。紀年を修正すると、この年は197年になります。

 「高句麗本紀」の故国川王の19年(197年)の条によれば、中国に大乱があり、流入する漢人が多かったと書かれています。この時代は漢末の動乱期で、遼東郡では公孫氏が自立しました。公孫氏や高句麗楽浪郡を滅ぼしてもおかしくありません。故国川王が公孫氏に降ったのもこの年です。楽浪郡は公孫氏の手中に帰したと思われます。そうすると、この事件は第三の定点となります。

 儒理尼師今の記事は、「高句麗本紀」の大武神王の20年の条にもありますが、「新羅本紀」のほうが記事が詳しいですから、こちらがもとの伝承です。「高句麗本紀」の記事は、つじつま合わせのために、「新羅本紀」から転載したと思われます。ただし、「新羅本紀」のほうでも、「高句麗本紀」から大武神王の名を転載したことになります。

 『三国史記』では、このようなつじつま合わせの記事が多く見受けられます。台与の名が卑弥呼に変わっているのも、おそらくつじつま合わせの結果でしょう。

 なお、大武神王の15年の条にも、高句麗が楽浪を降伏させた話が、神話風に書かれています。この年の修正年はAD38年で、後漢の光武帝の時代になります。この年に楽浪郡が滅んだとは考えられませんから、20年の条の別伝だと思います。年代不詳の神話伝承を、ここにはめ込んだのでしょう。本来は197年の故国川王にかかわる伝承だったと思います。
 図表27  新羅王の年表
代 王 名  修正しない
 在位年数      修正した
    元年 ~ 死亡年
 1 赫居世 61 150年後半~180年後半
 2 南 解 21 180年後半~190年後半
 3 儒 理 34 190年後半~207年前半
 4 脱 解 24 207年前半~218年後半
 5 婆 娑 33 218年後半~234年後半
 6 祇 摩 23 234年後半~245年後半
 7 逸 聖 21 245年後半~255年後半
 8 阿達羅 31 255年後半~270年後半
 9 伐 休 13 270年後半~276年後半
10 奈 解 35 276年後半~293年後半
11 助 賁 18 293年後半~302年前半
12 沾 解 15 302年前半~309年前半
13 未 鄒 23 309年後半~320年後半
14 儒 礼 15 320年後半~327年後半
15 基 臨 13 327年後半~333年後半
16 訖 解 47 333年後半~356年後半
17 奈 勿 47 356 ~ 402
18 実 聖 16 402 ~ 417
19 訥 祇 42 417 ~ 458
20 慈 悲 22 458 ~ 479
21 炤 智 22 479 ~ 500
22 智 証 15 500 ~ 514
23 法 興 27 514 ~ 540
24 真 興 37 540 ~ 576
25 真 智 4 576 ~ 579
26 真 平 54 579 ~ 632
27 善 徳 16 632 ~ 647
28 真 徳 8 647 ~ 654
29 太宗武烈 8 654 ~ 661
30 文 武 21 661 ~ 681
   以下省略

(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  Ⅱ古暦の巻  五章 古代朝鮮の年代論 (15・16・17・18)
  もどる    つぎへ    目次2へ

18 新羅(中)
新羅と倭国

 「百済本紀」と違って、「新羅本紀」には倭という文字が数多く登場します。そのほとんどは倭の兵が攻めて来たというような記事で、憎むべき敵として登場します。ところが初期の記事には、そうでないものがあります。

 始祖赫居世(かくこせ)は、馬韓への使者として瓠公(かくこう)を派遣しましたが、瓠公はもと倭人だといいます。昔、ひょうたんを腰に下げて海を渡って来たと書かれています。瓠はひょうたん類の総称と辞書にあります。

 4代脱解(だっかい)尼師今は、昔氏の初めの王ですが、倭人の疑いのかかる人物です。脱解は多婆那(たばな)国の生まれといい、その国は、倭国から東北へ千里のところにあるといいます。倭国を福岡と見なせば、東北へ千里のところは出雲付近になります。出雲の先には、但馬(たじま)や丹波(たんば)があります。タバナ国は、タンバノ国とも理解できます。脱解は瓠公を大臣にしましたが、同じ倭人だから重く用いたと思われます。

 『日本書紀』の神功皇后の条には、波沙(はさ)王や宇流(うる)という人物が登場します。波沙王は新羅の5代婆娑(はさ)尼師今で、在位は218年~234年(修正年)です。卑弥呼の時代と重なりますから、卑弥呼とは交流があったかも知れません。宇流は、10代奈解(なかい)尼師今の太子の于老(うろう)です。新羅の高官でしたが、12代沾解(てんかい)尼師今の時代の303年(修正年)に、倭人に殺害されました。于老の時代は神功朝より古く、崇神朝の時代にあたります。朝鮮出兵の起源は、思いのほかに古いことがわかります。

 神功皇后の条によれば、波沙王の子の微叱己知(みしこち)を人質として倭国に送ったと書かれています。しかし、この二人は親子ではありませんし、時代も全く合いません。波沙王は3世紀の人で、微叱己知は5世紀の人です。

 18代実聖(じっせい)尼師今の元年(402年)の条によれば、前王の子の未斯欣(みしきん)を人質として、倭国に送ったと書かれています。この未斯欣が、微叱己知です。19代訥祇(とつぎ)麻立干(まりつかん)の2年(418年)には、未斯欣が倭国から逃げ帰ったといいます。未斯欣は、応神天皇から仁徳天皇の時代の人なのです。日本側にはしっかりした記録がなかったようです。年代は把握されておらず、記憶も断片的です。そのために、安易に神功皇后に結び付けたようです。

 5世紀までは、新羅にとっては強国に囲まれて苦しい時代でした。しかし、新羅はこの時代をよく耐え、6世紀になって大きく飛躍しました。新羅では王号に古い言葉を用いています。初代は居西干(こせかん)、2代は次次雄(ししゆう)、3代からは尼師今(にしきん)、19代からは麻立干(まりつかん)を用いました。6世紀初めの23代法興王(在位514~540)から王を称するようになりました。法興王の時代に、新羅の第二の画期があると思われます。

 新羅は530年に金官加羅国(金海市)を併合しましたが、これが新羅にとっては画期的なことだったと思われます。金海の王家は、おそらく準王の流れを汲む王家でしょう。それが馬韓に制せられたのは、下克上といえるでしょう。馬韓は辰王を自称しましたが、必ずしも韓王(辰王)を正当に引き継いではいないかも知れません。その点で、新羅は違っていました。新羅は金海の王家を尊重し、その後も重く用いたので、両王家は車の両輪のように新羅を支えました。

 新羅はおそらく、加羅を箕氏朝鮮の後継者と認めた上で、その権威を取り込んだと思われます。それは、新羅箕氏朝鮮の後継者になることを意味しました。その自覚が、法興王という王号に表れたと思います。

 これ以後、新羅は目覚しく発展しました。553年には、帯方郡の故地で百済の故地でもある地方を、百済から奪い取りました。560年には旧弁辰地方を併合しました。660年には太宗武烈王が唐と連合して、百済を滅ぼしました。668年には文武王が唐と連合して、高句麗を滅ぼしました。その後は、文武王が唐と戦って、大同江以南の地を確保して独立を守りました。
 図表28  修正しない新羅王の系図

 ◯朴氏の王

 1赫居世───2南解───3儒理─┬─5婆娑───6祇摩
  1赫居世───南解───3儒理─└─7逸聖───8阿達羅

 ◯昔氏の王

              4脱解────◯◯───9伐休─┐
                              │
  ┌──────────────────────────―┘
  │
  └─┬─◯◯─┬─11助賁─┬─14儒礼
    │    │      │
    │    └─12沾解 └──◯◯────15基臨
    │
    └─◯◯───10奈解────于老────16訖解

 ◯金氏の王

        ◯◯────◯◯────◯◯────◯◯──┐
                              │
  ┌──────────────────────────―┘
  │
  └─◯◯────◯◯───┬─13未鄒
               ├──◯◯───17奈勿──―┐
               │              │
               └──◯◯───18実聖   │
                              │
  ┌──────────────────────────―┘
  │
  └┬─19訥祇──20慈悲───21炤智
   │
   └──◯◯────◯◯────22智証─┬─23法興
                       │
                       └──◯◯―┐
                             │
  ┌──────────────────────────┘
  │
  └─24真興─┬─25真智───◯◯──29太宗武烈──┐
         │                    │
         └──◯◯                │
             ├──26真平──27善徳    │
         ┌──◯◯                │
         │                    │
         └──◯◯──28真徳          │
                              │
                 ┌────────────┘
                 │
                 └─30文武───以下省略

(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  Ⅱ古暦の巻  五章 古代朝鮮の年代論 (15・16・17・18)
  もどる    つぎへ    目次2へ

18 新羅(後)
慶州・新羅の建国と聖地移植 (2010・4・18ブログよりコピー)

 韓国慶州市街の南方の高位山のふもとには、新羅の初期の王墓といわれるものがあります。五陵と三陵などです。

 五陵とは、初代赫居世王とその王妃、2代南解王、3代儒理王、5代婆娑王の陵墓がまとまってあることから五陵と呼ばれています。真偽のほどはわかりません。『三国史記』では紀元前後の王たちであり、そのまま史実と考える人は韓国でもそんなにいないでしょうね。しかし私の復元年表では2世紀半ばから3世紀初めの王たちです。少し現実味を帯びてきます。

 三陵は、8代阿達羅王とその血を引くという後の時代の王の陵墓といいます。近くには6代祇摩王の陵墓もあります。

  1.赫居世 150年~180年
  2.南 解 180年~190年
  3.儒 理 190年~207年
  4.脱 解 207年~218年
  5.婆 娑 218年~234年
  6.祇 摩 234年~245年
  7.逸 聖 245年~255年
  8.阿達羅 255年~270年

 地形をみると、高位山は高千穂峯であるようです。

 高位山の東に南川が流れ、西に麟川が流れて高位山を囲んでいます。トンボの交尾の地形です。これだけなら単なる偶然ですが、トンボの交尾の内側に新羅の初期の王墓が築かれたとなると無視できません。高位山という名前も意味ありげですが、麟川の麟の字は、麒麟(キリン)という意味です。高位山の一帯が聖域とみなされた可能性があります。

 しかも、初代王の年代が2世紀後半となると、かなり古い聖地移植であり、日本における聖地移植に先行する可能性すらあります。新羅の初期の王は、倭国(邪馬台国)の建国に深くかかわった氏族の子孫と見て良いでしょう。『三国史記』によると、初期の新羅は倭国と敵対せず、むしろ仲が良かったと考えられますが、もしかすると一心同体に近い関係だったかも知れません。地図を見てそう思います。

 問題は考古学と話がかみ合うのかということですが、これがよくわかりません。日本でも、粘土包み木棺墓というべきものを粘土槨木棺墓といいますが、韓国でも、石囲い甕棺墓というべきものを石槨甕棺墓というのかな?棺や槨のありようが多様性に富んでいて、言葉が追い付かず混乱しているように見えます。現物を見ない限り、実態はつかめそうにありません。というわけで、ネット情報を読んでもさっぱりわかりません。どうなっているのでしょう。気になります。

 ついでに。

 『ようこそ サロン吉田山へ』というサイトの中の『積石塚を訪ねて』では、冒頭に高句麗15代美川王(300年~331年)の墓とされる積石塚の写真が紹介されています。最近は集安を訪ねる人も多いのでしょうね。貴重で、珍しい写真です。こういう写真が見たかったですね。中央部分がへこんでいるのは中の木槨が腐ってつぶれたのでしょうか。

追記2010・4・19

鮮卑族の慕容氏に敗北して美川王の墓が破壊されたのだそうです。

その破壊の跡とみなされているのですね。

そういえば、高句麗はたびたび国家存亡の危機に見舞われておりました。

  もどる    つぎへ    目次2へ