周王朝

周王朝

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東周(読み)とうしゅう
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
東周
とうしゅう

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デジタル大辞泉の解説
とう‐しゅう〔‐シウ〕【東周】
⇒周(しゅう)

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百科事典マイペディアの解説
東周【とうしゅう】
→周

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世界大百科事典 第2版の解説
とうしゅう【東周 Dōng Zhōu】
中国古代の周王朝が前770年,都を東の成周(河南省洛陽市)にうつしてから,前256年秦に滅ぼされるまでをいう。前221年秦始皇帝が中国を統一するまでを東周時代と概括することもある。周【伊藤 道治】

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大辞林 第三版の解説
とうしゅう【東周】
⇒ 周しゆう

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
東周
とうしゅう
中国の王朝周が、都を関中から東の洛邑(らくゆう)に移して以後の呼び名。ほぼ春秋戦国時代にあたる。[編集部]
[参照項目] | 周 | 春秋戦国時代

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精選版 日本国語大辞典の解説
とう‐しゅう ‥シウ【東周】
中国古代の王朝(前七七一‐前二五六)。周の平王が犬戎の侵入によって首都鎬京(こうけい)を捨て、東方の成周に遷都したので、以後を東周という。→周(二)(一)

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世界大百科事典内の東周の言及
【殷周美術】より

…安徽省屯渓の西周前期墓は封土をもち,中原からの青銅器に加え南方系要素の青銅器と特有の灰釉陶が出土する。 前770年,洛陽にうつった東周王朝はまったく権威を失い,諸侯国が覇者として相ついで強大となった。しかし,青銅器に見るところ,西周後期の様式が続き,なお春秋中期までは形式だけでも周室の威令が続いている。…
【周】より

…この王朝は前771年に一度滅び,前770年東の成周洛邑(河南省洛陽市)に再興され,前256年第37代赧王(たんおう)のとき秦によって完全に滅ぼされる。前771年を界として,それ以前は,都が西の西安西郊にあったので西周時代,以後は都が東にうつったので東周時代(春秋戦国時代ともいう)とよぶ。周が王朝としての実力を保持していたのは西周時代であり,本項ではこの時代について述べる。…
【春秋戦国時代】より

…周の平王が洛陽の成周に東遷即位した前770年から秦始皇帝が中国を統一した前221年まで。この間の大部分に周王室は東の成周に存続したので東周時代ともよぶ。また前453年で前後に二分し,前半を春秋時代,後半を戦国時代とよぶ。…

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周(読み)しゅう(英語表記)Zhou; Chou
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

しゅう
Zhou; Chou
中国古代の王朝 (前 1050頃~256) 。伝説上の祖を后稷 (こうしょく) という。もともと陝西または山西の奥にいた部族とみられるが,古公亶父 (ここうたんぽ) のとき,犬戎 (けんじゅう) の圧迫で渭水盆地にのぞむ岐山のふもとに移り,子の季歴から西伯昌 (→文王) ,武王の3代で体制を整備し,武王が殷を滅ぼし前 11世紀に建国した。都は鎬京 (こうけい。陝西省西安付近) 。2代成王が東都らく邑 (らくゆう。河南省洛陽付近) を建設。3代康王にかけ天下は安定した。 10代 厲王 (れいおう) の失政により,一時王統が絶え,11代宣王が中興した。 12代幽王は褒じ (ほうじ) への愛におぼれて暴政を行い,戎狄の侵入を受け殺され,13代平王がらく邑に遷都した (前 770) 。それ以前を西周 (前 1050~770) ,以後を東周 (前 770~256) と呼ぶ。東周期は春秋・戦国時代で,王の実権はなくなり,37代赧王 (たんおう) のとき,秦の昭王に滅ぼされた (前 256) 。

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デジタル大辞泉の解説
しゅう〔シウ〕【周】
[名]数学で、図形を囲む閉じた曲線または折れ線。また、その長さ。円の場合は円周という。
[接尾]助数詞。あるもののまわりをまわる回数を数えるのに用いる。「トラックを三周する」
しゅう【周】[中国の王朝]
中国古代の王朝。前12世紀末に、文王の子武王が殷(いん)を滅ぼして建国。都を鎬京(こうけい)に置き、封建体制をしき、華北中原を支配したが、第13代平王の時(前771年)西方の犬戎(けんじゅう)の攻略を受けて東遷し、都を洛邑(らくゆう)(洛陽)に移した。以後、王朝はしだいに衰微。前256年(一説に前249年)秦(しん)に滅ぼされた。東遷以前を西周、以後を東周といい、東周の約500年は春秋戦国時代にあたる。
唐の則天武后が建てた王朝。武周。→後周(こうしゅう) →北周
しゅう【周】[漢字項目]
[音]シュウ(シウ)(漢) [訓]まわり あまねし
[学習漢字]4年
1 すみずみまで行き渡る。あまねく。「周知・周到・周密」
2 まわる。まわり。「周囲・周回・周期・周年・周辺・周遊/一周・円周・外周・半周」
3 あわてる。「周章」
4 中国古代の王朝名。「周易(しゅうえき)/西周・東周」
[名のり]あまね・いたる・かた・かぬ・かね・ただ・ちか・ちかし・なり・のり・ひろし・まこと
[難読]周章(あわ)てる

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百科事典マイペディアの解説
周【しゅう】
(1)中国,殷(いん)に次ぐ古代王朝。姓は姫(き)。初め渭水(いすい)盆地にあって殷の支配を受けたが,武王が前1050年ころ,殷を滅ぼして中原に進出,鎬京(こうけい)(現,西安市近郊)に都し,殷の神権政治より脱して封建制度をしき,多くの諸侯国を分封した。文化的には,殷の青銅器文化を受け継ぎ,祭祀用の青銅器・金文などが発達した。諸侯国間には礼秩序による政治体制がしかれた。前770年北西方から侵入した犬戎(けんじゅう)に追われ,洛陽(らくよう)に遷都。これまでを西周,以後を東周と呼ぶ。東周では王権が衰え,ことに前6世紀に鉄器使用が始まると諸侯の割拠する分裂の形勢となり,前5世紀を境に春秋時代,戦国時代に分けられる。周の王室は前256年,秦に滅ぼされた。→春秋戦国時代(2)中国,南北朝の一つ。北周と呼ばれる。556年鮮卑(せんぴ)の宇文氏が西魏を奪って建国,長安を都とした。577年北斉を滅ぼし,華北を統一。官制その他は《周礼(しゅらい)》に基づき,周朝を模範としたので,周を称した。581年隋に国を奪われた。(3)中国,唐の則天武后が690年帝位についてから在位中15年間称した国号。武周とも。唐朝は一時中絶した形になったが,武后が危篤に陥るや,705年中宗が復位して唐朝を回復。(4)中国,五代(五代十国)の一つ。後周とも。951年郭威が後漢を奪って建国(太祖)。大いに国力を向上させ,次いで立った世宗は天下統一の業を進める。しかし3代にして,960年宋の太祖趙匡胤に国を奪われた。
→関連項目燕|灰陶|魏|金石文|呉|散氏盤|三星堆遺跡|周公|斉|青銅器|青銅器時代|禅譲放伐|楚|宗法|太公望|中華人民共和国|銅鏃|版築|文王|文公|毛公鼎|木槨墓

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世界大百科事典 第2版の解説
しゅう【周 Zhōu】
中国古代の王朝名,またこの王朝が存立した時代,文化の名にも使用する。前1050?‐前256年。《史記》によると,尭帝の農官であった后稷(こうしよく)が始祖とされる。后稷の15世後の子孫の武王が,前1050年ころ殷王帝辛(紂王)を牧野(河南省淇県)で破り,殷を倒して,王朝を創設した。この王朝は前771年に一度滅び,前770年東の成周洛邑(河南省洛陽市)に再興され,前256年第37代赧王(たんおう)のとき秦によって完全に滅ぼされる。
しゅう【周 Zhōu】
中国,南北朝時代の北朝の王朝。557‐581年。北周,宇文周ともいい,長安を首都とした。西魏の実力者宇文泰が病没すると,魏周革命が遂行されて,宇文泰の子の宇文覚が即位した(孝閔帝)。しかし実権は宇文泰の甥で宇文泰の遺嘱を受けた宇文護の手に握られた。宇文護は軍事と行政を独裁し,西魏以来の元勲を殺すなど宇文氏政権の確立に努めたが,他方では宇文覚を殺して宇文泰の庶長子宇文毓(いく)(明帝)を立てるなど,自己の地位の保持に努めた。
しゅう【周 Zhōu】
中国の唐代に,則天武后が建てた王朝。他の同名の王朝と区別して〈武周〉ともいう。690‐705年。唐朝の高宗の皇后として,660年(顕慶5)以後,病弱の高宗に代わり朝政をとりしきっていた武后は高宗の没後も中宗,睿宗の皇太后ながら,皇帝さながらの政務を行った。生家の武氏の一族を重用しはじめ,洛陽を神都と改名して事実上の首都にした。中国上古の理想の世とされた周王朝の再現をスローガンとするとともに,時あたかも中国社会に広く受容されてきた仏教を大いに利用して王朝革命を行った。
しゅう【周 Zhōu】
中国,五代最後の王朝。後周ともいう。951‐960年。後漢の枢密使,天雄軍節度使郭威(太祖)が建てた。彼は内政に意を用い,領域の安定支配をよくはかった君主であった。実子を後漢に殺されていたので,皇后柴氏のおいの柴栄(さいえい)を養子とした。これが五代第一の名君世宗で,地方節度使兵力を削減しつつ禁軍の大改革を行い,それによって蜀の一部,南唐の淮南(わいなん)地域,さらに契丹領燕雲十六州の一部奪回に成功したが,途中で病没した。

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大辞林 第三版の解説
しゅう【周】

[1] ( 名 )
① もののまわり。めぐり。周囲。
② 〘数〙 多角形・円・楕円などを形づくる線。また、その長さ。

( 接尾 )
助数詞。あるもののまわりをまわる回数を数えるのに用いる。 「トラックを四-する」

しゅう【周】
① 中国古代の王朝(前1050?~前256)。姫き姓の国。殷に従属していたが、西伯(文王)の治世のあとを継いでその子武王が殷王紂ちゆうを滅ぼして建国。鎬京こうけいに都をおき、封建制をしく。前771年犬戎けんじゆうの侵入を招き、洛邑らくゆうに東遷。東遷以前を西周という。以後は東周といい、諸侯が分立する春秋戦国時代に相当する。
② 唐の則天武后が建てた王朝(690~705)。武周。 → 北周 ・後周こうしゆう

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

しゅう
中国古代の王朝。周は西周時代(前11世紀~前771)と、東周時代(前771~前249)とに分けられるが、東周時代はほぼ春秋戦国時代にあたる。本項は西周を述べる。[宇都木章]
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伝説によると、周の始祖は帝堯(ぎょう)に仕えた后稷(こうしょく)であるという。その後、周族は戎狄(じゅうてき)の間に雑居し、公劉(こうりゅう)のときに(ひん)(山西あるいは陝西(せんせい)省)の地に居し、古公亶父(たんぽ)(太王)に至って陝西省の岐山(きざん)の地(周原)に国都を移した。これより次王季歴(きれき)(王季)の時期にかけて、周辺の諸部族を討って発展し、文王のときには西伯と称せられ、新都を豊(ほう)(陝西省西安)に営み、殷(いん)王朝と対抗する勢力をもった。次の武王は父の志を継ぎ、呂尚(りょしょう)(姜(きょう)姓族の首長)ら諸侯を従えて、紂王(ちゅうおう)を牧野(ぼくや)に討って殷を滅ぼし、鎬京(こうけい)(陝西省西安)を首都として周王朝を建てた(その時期は紀元前12世紀後半あるいは前11世紀後半)。考古学的調査によると、陝西省岐山県付近から、周初以来の遺跡、遺物が多く発見され、周初の歴史を物語る青銅器銘文もみつかっている。また宝鶏(ほうけい)県を中心に、「先周文化」とよばれる周族早期の文化の調査も行われている。さらに殷墟前期の武丁卜辞(ぶていぼくじ)のなかに「周方」の名がみえ、周は早くから殷の西方の「国」であったことが確かめられている。周都豊・鎬京の調査も進められ、現在ほぼその位置は明らかにされたが、城郭や王陵などは未発見である。
 武王は、滅ぼした殷の遺民を支配するために、紂王の子、武庚禄父(ぶこうろくほ)を封建し、さらに兄弟を諸侯として征服民を監督せしめたが、次の成王が幼少で即位し、武王の弟周公旦(たん)が摂政になると、兄弟の間に権力争いが生じ、これに武庚の反乱が加わって周室は大きく乱れた。周公は召公(しょうこうせき)らとともに乱を平定し、さらに東方諸部族を遠征して周室を再建し、一族・功臣を要地に封建してこれを周の藩屏(はんぺい)とし、洛邑(らくゆう)(河南省河南)を造営して東方支配の重鎮とした(成周)。近年の考古学的調査によると、周初の発展はほとんど殷の故地を覆うものであり、ことに東北は遼寧(りょうねい)省に及んでいたことが、召公一族の封ぜられた燕(えん)()国の青銅器の発見によって明らかになった。
 周初の文化は殷文化を受け継いだものであることも明らかになったが、それはおそらく、殷代以来の諸部族が多く周王室に職事せしめられたからであろうといわれる。
 4代昭王、5代穆(ぼく)王のときは周の対外発展期で、昭王は南征して楚(そ)を討ち、穆王は西に犬戎(けんじゅう)を征し、東に徐夷(じょい)を討ったという。7代懿(い)王から9代夷王にかけて王威が衰え始め、次の(れい)王のときには、王室を支えていた諸侯の勢力が盛んになったうえ、王は卿士栄夷(けいしえいい)公を用いて悪政を行ったため、国人の反乱が生じ、王は(てい)(山西省霍(かく)県)に出奔したという(前841)。その後14年間、共和時代になるが、これは周公と召公の執政期とする説、あるいは諸侯が協力して政治を行ったとする説のほか、共伯和という諸侯の執政期であるともいう。前827年宣王によって周室は再興され、王はしきりに四夷を討伐したというが、この時期、諸侯の強大化はますます進んで独立化の傾向を示し、次の幽王の悪政を契機に、諸侯は離反し、周は申侯と犬戎の軍によって滅ぼされた。幽王の子、平王は東の洛邑で即位したが、王権は衰退し、諸侯が割拠する分裂時代となった。[宇都木章]
制度目次を見る
周代は邑(ゆう)制(邑土)国家の時代といわれる。王室の直接支配地(王畿(おうき))は「郷遂制度」を中心にして、郊外の地には卿大夫(けいたいふ)の采邑(さいゆう)や公邑が設置されていた。封建諸侯(貴族)は周王室を大宗(本家)として、それぞれの封地に城市(邑)を営み、これを国と称した。諸侯はこの国都を中心にして、周囲の諸邑を支配し、これを鄙邑(ひゆう)とした。国には宗廟(そうびょう)、社稷(しゃしょく)を奉ずる貴族(公、卿大夫)のほか士、農、工、商の民が住し、彼らは国人とよばれ、軍事、政治の面でも活躍していた。これに対し鄙邑の民は野人とよばれ、貴族の采邑とされたり、国都へのさまざまな義務を課せられたりした。国人も野人も血縁共同体的な集団をなしており、農民は「井田(せいでん)制」によって組織されていたと伝えられるが、しかし共同体の性格についても、「井田制」の理解についても異論が多く、したがって貢、助、徹とよばれる税制もさだかでない。西周後半期の青銅器銘文には貴族の土地所有を示すものがあるから、邑共同体を基盤にしつつ、大土地所有(私田)が展開されていたものと思われる。したがってこの邑制国家の時代が奴隷社会か、封建社会かは理解の仕方によって異なる。[宇都木章]
文化目次を見る
周代の文化は経書によって伝えられている。とくに王の詔誥(しょうこう)を収めた『書経』や、王室の雅歌や各国の歌を集めた『詩経』は重要であるが、そこでは周王は「天命」を受けて、徳をもって万民を治めるという政治的色彩の強い天の思想が展開されている。一方、数多い青銅器銘文(金文)からは西周時代のさまざまな儀礼が物語られている。また考古学的な調査研究によって青銅礼器のほか武器、車馬具、玉器、漆器、織物など優れた遺品が明らかになり、宮殿建築や墓葬の状態も解明されつつある。近年渭水(いすい)流域から出土する多くの青銅器や岐山県の宮廟跡の周代卜辞、あるいは貴族大墓の発掘は人々の注目を集めている。[宇都木章]
『貝塚茂樹・伊藤道治著『中国の歴史1 原始から春秋戦国』(1974・講談社) ▽天野元之助著『中国社会経済史――殷周之部』(1979・開明書院) ▽白川静著『金文の世界――殷周社会史』(平凡社・東洋文庫)』
[参照項目] | 春秋戦国時代

周(姫氏)/略系図

周代の遺跡分布(西周時代)

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精選版 日本国語大辞典の解説
しゅう シウ【周】
[1] 〘名〙
① ある場所のまわり。また、年のひとめぐり。
※令集解(701)戸「古記云。三周謂二三年一」
② 数学で、面上の多角形または曲線形のまわりを限る線。また、その長さ。
[2]
[一] 中国古代の王朝(前一一〇〇頃‐前二五六)。姓は姫。陝西に起こり、渭水盆地に定住、殷(いん)の支配を受けたが、のちにこれと対立、武王のとき殷王紂を滅ぼして建国、鎬京(西安)に都を定めた。礼的秩序による封建的政治体制をしき、黄河流域から揚子江岸まで支配したが、第一三代平王のとき(前七七一)犬戎の侵入を受けて東遷、都を洛邑(河南)に移した(遷都以前を西周、以後を東周という)。以後周室の権威は失われ、諸侯の割拠する春秋・戦国時代にはいり、三七代で秦に滅ぼされた。
[二] 中国の南北朝時代、北朝の一王朝(五五七‐五八一)。首都長安。外戚の楊堅(隋の文帝)に国を奪われ滅んだ。北周。宇文周。
[三] 唐の則天武后が、帝位について称した国号(六九〇‐七〇五)。武周。
[四] 五代の最後の王朝(九五一‐九六〇)。後漢の節度使郭威が建国。後周。

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世界大百科事典内の周の言及
【殷周美術】より

…中国の殷・周王朝の時代から秦による統一までを扱う。はじめ夏(か)に天下を治める徳があったとき,遠方の国々は物の図を献じ,鼎(てい)を鋳てその図を彫り込んだ(《左氏伝》)という。…
【中国思想】より

…しかし近来は文化人類学の研究成果から,天の崇拝は本来東アジアから中近東にかけての遊牧民族の信仰から生まれたとする説が有力になった。この線に沿って考えると,前12~前11世紀ごろ西北部に進入して新王朝を立てた周は,もともと遊牧部族であったと推定されるから,天の信仰はこの周の部族が中国に持ちこんだものと思われる。ただ周はまもなく農耕生活に移ったので,天の神も農業神の性格を持つようになったのであろう。…
【則天武后】より

…中国,唐の高宗の皇后であったが,高宗の死後,唐に代わって周朝(武周)を建てた。在位690‐705年。…
【唐】より

…首都は長安(陝西省西安市)で副都が洛陽(河南省洛陽市)。王室の李氏が北周王室の宇文氏,隋王室の楊氏とともに,北魏が北辺に配置した6軍団の一つである武川鎮軍閥の出身であるという共通点をもっていたこともあり,唐の政治と制度には北周と隋のそれらを継承するものが多い。唐朝の国号は,李淵の祖父李虎が漢の太原郡にあたる唐国公の封爵を北周より受け,また李淵が隋より唐王に進封されたことに由来するという。…
【武周革命】より

…中国で,690年に唐の睿宗(えいそう)の生母である太后の武氏(則天武后)が,皇帝となって国号を周と改め,唐朝を中断させたことをいう。病弱の高宗に代わって政務を決裁してきた武后は,朝廷における実権を掌握してしまい,683年(弘道1)に高宗が亡くなると,武后の子である太子哲が即位して中宗となったが2ヵ月たらずで廃され,つぎに立った睿宗もまったくの傀儡(かいらい)にすぎなかった。…

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周(西周:前1050年頃~前770年)は西北の牧畜民
周は陝西省の渭水盆地を本拠地とする
(注:渭水盆地は関中(カンチュウ)とも呼ばれ、中国古代の政治的中心であり、西周の鎬京(コウケイ)、秦の咸陽(カンヨウ)、前漢・唐の長安などの都はすべてこの地に営まれた)。前14世紀頃から殷に服属する有力な邑の一つであったが、化外の民であったであろう。
周はその伝承から考えると、おそらくもと西北の牧畜族(騎馬民族のような少数民族)。かれらは姜?(キョウゲン)の感生帝説話のような祖神の物語をもっていたが、神話の体系をもっていない。文化的にも後進のものであった。
長子相続と同姓不婚の宗族
姓を同じくする父系の親族集団を宗族といい、血縁を政治支配の原理とする。宗族は長子相続と同姓不婚を原理とし、その嫡流(本家)を大宗、次男以下の分家を小宗という。宗族は大宗の強力な統制のもとで、共通の祖先祭祀などを通じてつねに一族の団結に務めた。
姓組織(=同姓不婚、近親婚への禁忌)は、狩猟・牧畜族のもの
周は姫姓(キセイ)といい、姜姓(キョウセイ)とは古くから通婚の関係にあった。
姜姓の諸国は、羌族が土着して中原諸族の一つとなったもので、羌の字形からみて牧羊人であり、辮髪をしており、チベット系の種族である。羌族は牧畜族ではあるが、あまり戦闘的な性格をもたなかったようである。
image2010112509.jpg(しかしこの温順な種族も、かつては苗族とその地を接していて、激しい闘争を繰り返したことが神話として伝えられている。)
周は飾りを施した楯のかたちで(右図)、この特殊な楯を種族のしるしとしていた。かれらは、通婚関係にある姜姓の諸族からみても、好戦的な種族であったらしい。
天の思想
周は、西方の諸族(西北の夏系諸族)と連合して殷をうち、殷の帝辛が再度にわたる東征によって国力を消耗しているときに、これを破って周王朝を建てた。しかし周には、殷に代わりうる神話がなかったので、その王朝の秩序の基礎として、新しい原理を求めなければならなかった。
王たることは、ただ帝の直系たるその系統の上にのみ存するのではない。それは帝意にかなえるもの、天命を受けたものに与えられるべきもの。天命は民意によって示され、民意をえたものこそ、天子たるべき。民意を媒介として、天の認識が生まれ、天命の思想が成立する。天命の思想は、殷周の革命によって生まれ、革命の理論であるとともに、周王朝の支配の原理でもあった。
周人は帝を非人格化した一つの理念としての天を、究極のものとした。これによって、周は古い神話と断絶した。神話の世界は滅び、理性的な天がこれに代わった。
呪的な神秘な力による支配から、内的な徳性、精神的な力に本づくものとなった。
牧畜的な社会を基礎とし、周囲の遊牧民との果敢な闘争を生き抜いてきた周族から見れば、殷は神話のなかに眠る社会であった。
(参考)白川静『漢字-生い立ちとその背景-』『続文字講話』、木下康彦他『詳説世界史研究』