夏王朝

夏王朝(B.C.2069~B.C.1600)

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 これまで夏王朝の存在は呂氏春秋や史記などの文献に書かれているだけで、その存在は確認されていませんでした。しかし、1950年代終り、考古学者の徐旭生が河南省偃師県で二里頭遺跡を発見、殷王朝に匹敵する規模の大建築群の宮殿・住居・墓が見つかりました。
 さらに、1981年~87年、北京大学歴史系考古教研室が豫北の新郷と安陽地方を調査し、修武李固・温県北平皋・淇県宋爻遺址を発掘、1984年からは京大学歴史系考古教研室が魯西南渮澤地方・豫東商丘地方を調査し、渮澤安邱土固堆・夏邑清涼山遺址を発掘しました。
 その後の調査と考証の結果、豫北地方が河型先商文化と二里頭文化の隣接地帯であり、二里頭文化期には、河型先商文化・岳石文化・二里頭文化が黄河中・下流域で鼎立していたことが解明されました。また、二里崗下層期には河型先商文化が南下し、西の二里頭文化に取って代わり、二里崗上層期には東の岳石文化に取って代わったことが判りました。これらの状況は、文献上で商(殷)が夏を滅ぼした記述と符合し、二里頭文化が夏王朝の存在を証明することが明らかになりました。
 二里頭遺跡では、青銅器の本格的使用が認められ、斧・鑿・ナイフ・千枚通し・鏃・釣針・戈・酒宴に使う容器類が出土しました。卜骨も出土し、24種の刻画符号が確認され、その形状は甲骨文字と良く似ています。
 宮殿址の土台は人工的に固められた方形で、周囲に塀、内・外側に回廊が見つかっています。
 また、宮殿の側に大墓があり、この宮殿が死者に対する祭祀を行うためのものであったと考えられています。
 二里頭文化は四期に分かれるとされており、一期から三期までは拡大期で四期は衰退期と考えられています。この一期から二期までが夏王朝、三、四期が商に入るとされています。((『華夏考古』1991-2による)
 第一期には三門峡、関中平原東部、河南省南部に拡大し、二期になると、汾水流域に拡大し、その地域に二里頭文化東下馮類型を形成します。
 三期には沁水以西地区、河南省東・東南部に拡大します。二、三期頃になると、河北の輝衛文化・下七垣文化、山東の岳石文化などとの衝突が始まります。
 この時期の年代特定については、夏商周断代工程(『夏商周の時代区分に関するプロジェクト』)によって、確定されています。
文献上の夏王朝の歴史
 夏族は黄河中流域を支配する部族で、五嶽(中国の聖山:東嶽が泰山(山東省)・西嶽が華山(陝西省)・南嶽が霍山(安徽省)・北嶽が恒山(山西省)・中嶽が嵩山(河南省))の一つ、嵩山のほとりに住んでいました。
 堯、舜の時代はたびたび黄河の大洪水が起こったため、五帝のひとり、堯に使えていた鯀の息子・禹が“居外十三年、過家門不敢入(:13年もの間家の前を通っても入ることはなかった)”という努力の結果、黄河の治水に成功し、王に即位、陽城(現在の河南省登封)に建国したとされています。夏王朝の版図は河南省南・中・北部と山西省南部とされています。
 禹は補佐役の益に禅譲し、益は禹の死後3年間喪に服したあと、禹の子の啓に帝位を譲り、箕山に隠棲しました。
 啓は、釣台(河南省禹県)で多くの部族の首領らを召集して盛大な祭神の儀式を行い、帝位の継承を表明しました。しかし、西方の一部族(陝西省戸県)の有扈氏は、禅譲を主張して反対し、挙兵しました。
 甘水(戸県の西)での開戦直前、啓は上帝の名を借り、「上帝は有扈氏を滅ぼそうとされている。われわれの戦いは上帝の懲罰を行うためである。もし戦闘の最中に、戦車の左側にのる射手が上手に矢を射ず、戦車の右側にのる勇士が上手に敵を殺さず、戦車の御者が上手に馬をやらなかったならば、命令に服従しないものである。命令に服従するものには賞を与える。命令に服従しないものには罪を与えて、あるものは死刑にし、あるものは奴隷にする」という詔を発しました。その結果、有扈氏が負け、多くの部族が服従し、啓に朝貢しました。これ以降帝位は世襲制になりました。
 啓の時代、各部族・氏族の首領は貴族(大奴隷主)となり、捕らえた俘虜を奴隷にする奴隷社会が形成されました。
 5代目の王・中康の頃に、有窮国に攻め込まれて国都から落ち延び、その孫の少康の代でようやく復興します。
 15代目の王・孔甲は淫乱で、好んで鬼神と力比べをするなどし、王朝は衰退へ向かいます。16代目・皋、17代目・発の時代には、夏王朝は急速に滅亡へと向かいます。
 B.C.1600頃、発の子の桀が洛陽で18代目の王となりました。桀の暴虐無道・財物の浪費は、「ひとたび太鼓が鳴ると、3000人のものが一斉に牛のように首を伸ばして酒池の酒を飲んだ」とあります。また、桀は人を馬の変わりにして、その背にまたがって歩き、自分を太陽になぞらえました。
 そのころ、商部族首領の成湯が挙兵し、桀を南巣(安徽省巣県)に追放し、夏王朝は滅亡しました。

夏王朝の系図

初代・禹
 |
2代・益
 │
3代・啓
 ├─── ─┐       
5代・中康 4代・太康 
 │
6代・相
 │
7代・少康
 │
8代・豫
 │
9代・槐
 │
10代・芒
 │
11代・泄
 ├─── ─┐
13代・扃 12代・不降
 │     │
14代・廑 15代・孔甲
 │   
16代・皋  
 │
17代・発
 │
18代・桀

禹―启―太康―仲康―相―少康―杼―槐-芒―泄―不降―扃―廑―孔甲―皋―発―癸―桀


  • 2069 夏王朝 か (-1600)開祖は禹(う)(舜(しゅん)の禅(ゆずり)を受けたと伝えられる)。都は安邑(山西省)ほか。17代桀(けつ)のとき殷(いん)に滅ぼされる。河南省偃師(えんし)県二里頭遺跡の発見により、存在が確認される。

夏(前2070年頃~前1600年頃)はチベット系
夏の時代のことはよく分からない。
夏の啓という王様(夏王朝の先祖)については異常出生説話がある。
禹が治水につとめて働いているとき、熊の姿となって山下をめぐっているところを、禹の后がそれをみて恐れ、石になってしまった。その女は禹の子をはらんでいたので、禹はその石の前に立ち「わが子を返せ」と叫ぶと、石が割れて啓が生まれたという。
image2010112502.jpg西域の方を夏といい、夏は大きな顔をした男が、足を挙げて踊っている形(右図)。顔が大きく、背が高い。
これはだいたい西域の系統で、東洋人ではない。夏系統の民族が中国の西半分を占領していた。後になって西をつけて西夏という。
(注:後の西夏(1038~1227)は、黄河が湾曲するオルドスに興ったチベット系のタングート族が建国した。)

http://bbs.jinruisi.net/blog/2010/11/908.html