大韓民国

朝鮮半島の歴史

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大韓民国(読み)だいかんみんこく
百科事典マイペディア「大韓民国」の解説
大韓民国【だいかんみんこく】
◎正式名称−大韓民国Taehan-minguk/Republic of Korea。◎面積−9万9461km2。◎人口−4858万人(2010)。◎首都−ソウル(979万人,2010)。◎住民−朝鮮人。◎宗教−仏教25%,プロテスタント20%,カトリック7%,シャマニズム,天道教など。◎言語−韓国語(公用語)。◎通貨−ウォン。◎元首−大統領,朴槿恵(パク・クネ)(2012年12月選出,2013年2月就任,任期5年)。◎首相−黄教安。◎憲法−1987年10月公布,1988年2月施行。◎国会−一院制(定員299,任期4年)。2012年4月選挙結果,セヌリ党152,民主統合党127,統合進歩党13など。◎GDP−1兆6220億ドル(2012)。◎1人当りGDP−3万2431ドル(2012)。◎農林・漁業就業者比率−8.2%(2003)。◎平均寿命−男75.8歳,女82.4歳(2007)。◎乳児死亡率−4‰(2010)。◎識字率−99%。    *    *韓国と略称される。朝鮮のうち旧米軍占領地をもって,1948年8月15日に成立した共和国。行政区画は9道7市(ソウル特別市と釜山,大邱,仁川,光州,大田,蔚山の6広域市。後者は従来の直轄市を改称したもの)からなる。〔大韓民国の成立と独裁政権〕 第2次大戦の終了時に北緯38°以北はソ連軍に,以南は米軍に占領された。カイロ宣言に基づき朝鮮の独立が確認され,1945年米ソ共同委員会が設置された。1946年ソ連は北朝鮮人民委員会を樹立,一方,米国は同年軍政庁を過渡的政府に改組し,1948年5月国連の監視下で総選挙を行った。同年6月南朝鮮の国会は大韓民国憲法を制定し,8月に独立し,李承晩が大統領となった。1950年―1953年の朝鮮戦争では大きな損害をこうむった。李承晩は米国の援助を背景に独裁的政治を続けたが,1960年の四月革命で倒された。1961年朴正煕(ぼくせいき)少将らがクーデタを起こし,1963年の民政移管選挙で朴正煕が大統領に選ばれ,1965年,懸案の日韓条約を結んで対日国交を開き,総額8億ドル以上の〈請求権資金〉の日本による供与と引きかえに,韓国側の対日請求権を放棄した。1972年朴大統領は非常戒厳令を発動して強引に〈維新体制〉をつくり上げ,永久独裁体制の確立を図った。維新体制のもとで朴政権は,重化学工業化を前面に押し出して高度経済成長を目ざし成功した。しかし1979年10月,朴大統領は暗殺され,維新体制は崩壊した。代わって崔圭夏が大統領に選出されたが,1980年5月,全斗煥がクーデタにより全権を掌握し(これに抗議する学生デモの弾圧を契機に光州事件が起こった),同年9月大統領に就任した。〔外交・軍事〕 国家成立の当初から対米依存度が強く,独立以来多額の援助が米国から与えられた。対外的には1965年に14年間に及んだ日韓会談が終結,両国間の国交が正常化し良好な外交関係が続き,とくに金大中大統領時代に二国間の文化交流も活発化した。しかし近年は,歴史認識問題をめぐって日本との関係は冷え込み,日本よりも中国との関係を重視する外交政策にシフトしている。1988年のソウルオリンピックを契機に旧ソ連東欧諸国・社会主義国との関係改善も進み,1990年にソ連と,1992年には中国と国交を樹立した。南北朝鮮の統一問題は依然難航し,たえず軍事的脅威に直面しているが,1991年には朝鮮民主主義人民共和国と同時に国連に加盟した。朝鮮戦争以来,軍事力は増大し,総兵力67万2000人,うち陸軍56万人(2005年)を有するほか,米韓相互防衛条約(1953年)にもとづく在韓米軍が駐留している。在韓米軍の人員は米軍の世界的な戦略再編に伴い,段階的に削減され2008年に2万8500人が適切な規模として維持することを決定した。〔民主化以後〕 全斗煥は1987年の国民投票で憲法を改正し,1988年には独立以後初めて国民の選挙で選ばれた盧泰愚との平和的政権交代を実現した。1992年の大統領選挙では金泳三が当選,初の軍人でない大統領となった。金泳三は野党を率いてきたが,盧泰愚らの与党〈民主自由党〉(1990年結成。韓国民自党,のち新韓国党,1997年民主党と合同してハンナラ党)に合流した。1995年末,盧泰愚前大統領と全斗煥元大統領が,1980年のクーデタ前後の政権奪取過程と光州事件の責任,不正蓄財を追及されて逮捕された。1997年の大統領選挙で野党・国民会議(2000年新千年民主党と改称)の金大中が当選,初めての与野党間での政権交代となった。金大中政権は南北関係では〈太陽政策〉をかかげ,また日本文化の段階的開放をすすめてきた。2003年発足の盧武鉉政権も〈対北平和繁栄政策〉として前者の路線を引き継ぎ,また〈東北アジア共同体〉の創設をかかげている。同年9月,民主党から〈開かれたウリ党〉が分裂し大統領支持を貫いたが,野党の大統領弾劾が国会で可決される異例の事態のもとで,2004年総選挙でウリ党が過半数の議席を獲得し,また民主労総系の民主労働党(2000年結成)が第3党に浮上した。盧政権は植民地時代の〈親日派〉など歴史見直し,首都機能移転など保守派野党と対立する政策を打ち出している。日韓条約締結40年にあたる2005年を〈日韓友情年〉としたが,2003年末からのテレビドラマ放映を契機とする日本の〈韓流ブーム〉の一方,竹島問題,歴史教科書問題,小泉首相の靖国神社参拝問題など,対日関係は困難な局面が続いた。2008年2月,ハンナラ党の李明博大統領が就任,日韓首脳会談で〈日韓新時代〉の具現化を相互に確認,鳩山由紀夫内閣が,発足当初から,東アジア外交重視の姿勢を打ち出し,菅直人内閣も韓国重視の姿勢を継承しており日韓関係は改善に転じた。2011年4月から使われる中学の地理と公民の教科書で竹島日本領とする多くの教科書を合格とする検定結果が公表され,外交関係の緊張が懸念されたが,李明博政権は過剰な反応を控えた。しかし2013年8月,大統領が突如竹島に上陸,さらに会見で天皇の〈訪韓〉と〈謝罪〉問題に言及した。日本側はこれに強く反発し抗議。韓国の現職大統領が同島上陸に踏み切ったのははじめてである。折から日中間で尖閣諸島問題が緊迫化したため,韓国には,〈過去の日本の植民地支配・アジア侵略の歴史について真摯な反省が無い〉と主張する中国と共同歩調を取る姿勢もうかがえ,日韓関係は一気に冷却した。2012年12月の大統領選では,セヌリ党(ハンナラ党から党名変更)の朴槿恵候補と野党民主統合党の文在寅候補と接戦を展開したが朴槿恵が勝利,保守与党から二代続いて大統領が出る結果となった。2013年2月就任後,朴槿恵大統領は外交関連の主な国政課題として,〈韓米同盟の持続的発展及び関係国との国際協力強化〉,〈北東アジア平和協力構想とユーラシア協力拡大〉,〈韓米同盟と韓中パートナーシップの調和発展及び日韓関係の安定化〉を発表。初の外遊先として2013年5月に米国を訪問,対中関係の強化にも努め,就任後2番目の訪問先として日本ではなく2013年6月に中国を国賓訪問し,戦略的協力パートナーシップ関係を強化していくことで合意した。対日関係では,従軍慰安婦問題を焦点に歴史認識問題で安倍政権を厳しく批判し,李明博政権末期の対日強硬政策をさらに進め,韓日関係は完全に冷え込んだ。南北問題については,確実な抑止力を土台に安易な妥協を排した強硬姿勢をとりつつ,南北の間に信頼を積み上げていく〈朝鮮半島信頼プロセス〉を表明した。こうした一連の外交姿勢は韓国世論に高く評価され,朴槿恵政権は高支持率を維持した。しかし2014年4月旅客船フェリー・セウォル号が珍島沖海上で転覆・沈没する事故(セウォル号沈没事件)が発生,多数の高校生を含む300名以上の死者・行方不明者を出す大惨事となった。事故直後から政府の対応に批判が噴出,鄭原首相は辞任を表明したが,事態は収拾されず,朴槿恵政権を揺るがす大問題に発展した。朴槿恵大統領の支持率は一気に降下した。〔経済〕 1970年代から1980年代にかけて急速な高度成長をとげ,産業構造も農業中心から工業中心に転換。1997年末以降アジア通貨危機のなかでウォンが暴落し,IMFの支援を受けるに至ったが,財閥改革などを経て1999年以降再び成長に転じた。2000年代は対中国貿易が飛躍的に伸び,2003年には米国を抜いて韓国の最大の輸出先となった。2011年,李明博大統領(当時)は電機,自動車など好調な輸出産業を背景に,国内の反対世論を押し切って米国とのFTA締結に踏切った。朴槿恵政権も政策の継続を表明している。世界のGDPランクは13位(2014年)。〔南北関係〕 2000年6月に初めて南北首脳会談が平壌で実現し,双方がめざす〈統一〉のプロセスの共通性の確認,離散家族の再会,南北経済交流・協力,南北当局者の対話再開,金正日のソウル訪問の約束などが〈共同宣言〉に盛られ,南北関係は新たな段階を迎える期待感が高まった。2003年には北朝鮮の開城に韓国資本が進出して工業地区ができ,京義線と東海線で南北鉄道の連結式が挙行された。しかし核実験強行や度重なるミサイル発射など,北朝鮮はしばしば強硬姿勢に転じ,緊張が続いた。2010年11月,京畿湾の韓国領大延坪島に北朝鮮人民軍が突如砲撃を開始(大延坪島事件)。韓国海兵隊員2名と民間人2名が死亡,海兵隊・民間人合わせて19名が負傷,家屋と山林が火災にあった。韓国の軍事訓練と,予定されていた韓米合同軍事訓練に対する北朝鮮軍の反発と牽制の現れと見られ,2012年の北朝鮮・金正恩体制の成立とともに新たな軍事的緊張が高まった。→朝鮮/朝鮮民主主義人民共和国
→関連項目キムジャン文化|セヌリ党|ソウルオリンピック(1988年)|大韓航空機爆破事件|テコンドー|文鮮明|民主統合党

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「大韓民国」の解説
大韓民国
だいかんみんこく
Taehan minguk
正式名称 大韓民国
面積 9万9678km2。
人口 5015万4000(2013推計)。
首都 ソウル特別市。

アジア大陸の東部にある朝鮮半島の南半を占める国。1級行政区はソウル特別市,プサン(釜山)直轄市,テグ(大邱)直轄市,インチョン(仁川)直轄市,クアンジュ(光州)直轄市,テジョン(大田)直轄市,ウルサン(蔚山)直轄市と九つの道。東海岸に沿って脊梁山脈のテベク(太白)山脈が連なる。支脈のクアンジュ(広州)山脈,チャリョン(車嶺)山脈,ソベク(小白)山脈などが分岐して南岸,西岸に達し,多くの島嶼を形成している。ナクトン(洛東)江,ヨンサン(栄山)江,マンギョン(万頃)江,トンジン(東津)江,クム(錦)江,ハン(漢)江などが西岸あるいは南岸に注ぐ。老年期地形で準平原が発達し,また山間にも盆地や高原が開けているが,沖積平野は少ない。ホナム(湖南)平野が最大の穀倉地帯である。温帯季節風気候で,年平均気温は 12~14℃であるが,大陸の影響を受けて年較差が大きい。年降水量は 1000~1500mmで,7~10月に集中する。住民はほとんどが韓国人で,日本人,アメリカ人,中国人などが少数いる。公用語は韓国語(朝鮮語)で,ハングル文字が使われる。キリスト教徒が最も多く,ほかに仏教,儒教などの信者がいる。主作物は米,オオムギ,雑穀,サツマイモ,ジャガイモ。ほかにダイズ,果樹,野菜,ワタ,アサ,ゴマなどの栽培が多く,チョウセンニンジンを特産する。沿岸漁業は各地とも盛ん。西のファン(黄)海沿岸は遠浅で潮汐の差が大きいため塩田が多い。南西岸から南岸はタド(多島)海と呼ばれて島嶼が多く,ノリ,ワカメ,貝類の養殖が盛ん。主産業である工業は,1970年代に繊維・軽工業から重工業へと推移,電子,自動車,機械,造船,鉄鋼,石油化学などの工業が基幹となっている。ソウル市とインチョン市を中心に韓国最大のキョンイン(京仁)工業地域があり,ほかに南岸のプサン市,マサン(馬山)市,チャンウォン(昌原)市,ヨス(麗水)市,東岸のウルサン市,ポハン(浦項)市,内陸のクミ(亀尾)市などにも重工業地域が形成されている。テグ市,テジョン市は豊富な労働力を利用した軽工業地域である。鉄道はソウルを中心に幹線が放射状に延びるが,1970年代にキョンブ(京釜),ヨンドン(嶺東),ホナムなどの高速道路が開通し,自動車交通の重要性が高まった。定期空路がソウルと主要都市,チェジュ(済州)島との間に開かれている。観光資源は豊富である。チリ(智異)山,ソンニ(俗離)山などは森林と古刹に彩られた名山である。キョンジュ(慶州)市,チョンジュ(全州)市,コンジュ(公州)邑は百済新羅以来の古都で,ソウルも李氏朝鮮(→朝鮮王朝)の古跡に恵まれる。南岸の島々が織りなすハルリョ(閑麗)水道,豪快な海岸線とハルラ(漢拏)山で知られるチェジュ島などもある。(→朝鮮史

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旺文社世界史事典 三訂版「大韓民国」の解説
大韓民国
だいかんみんこく
朝鮮半島の南半部の国。首都ソウル
1945年,日本の敗戦によって解放された朝鮮半島には,暫定的に北緯38度線を境に,南にアメリカ軍,北にソ連軍が進駐した。その後,米ソ対立の激化によって統一した独立が困難となり,1948年5月国連監視下で南だけの総選挙が実施され,8月李承晩を大統領とする大韓民国が成立した。9月北で朝鮮民主主義人民共和国が成立したことで,北緯38度線による朝鮮分断が固定化された。1950年6月,北からの軍事行動によって北緯38度線付近で武力衝突,朝鮮戦争が勃発し,53年7月板門店で休戦となった。その後,軍事的にアメリカに依存し,独裁を強めた李承晩政権は,1960年,選挙の不正を契機とし,学生を中心とした反政府運動によって崩壊した。後継の張勉 (チヤンミヨン) 内閣が政局を収拾できぬうち,1961年5月朴正熙 (パクチヨンヒ) が軍事クーデタで政権を握り,63年大統領に就任して民政に移行した。1965年日韓基本条約を結んで日本と国交を樹立し,経済成長を促進させた。1972年「維新憲法」を発布して独裁を強化し,73年金大中事件を起こすなど,反対勢力への厳しい弾圧を続けたが,79年側近に暗殺された。1980年5月の民主化要求を軍事力で鎮圧した光州事件ののち,軍人出身の全斗煥 (チヨンドウホアン) が大統領に就任した。いっぽう経済面では,1970年代後半から外国からの資本と技術の導入によって工業化に成功し,新興工業経済地域(NIES)の一国に成長した。1987年,民主化要求の高まりで憲法が改正され,16年ぶりに大統領直接選挙が実施され,盧泰愚 (ノテウ) が当選した。翌1988年にはソウル−オリンピックが開催された(北朝鮮は不参加)。外交面では,1989年2月のハンガリーを手はじめに東欧諸国と国交を樹立し,90年9月にはソ連と国交を樹立した。また南北対話が進む中,1991年9月南北朝鮮国連同時加盟が実現した。翌1992年には,8月に中国と,12月にはヴェトナムと国交を樹立した。1993年2月,32年ぶりの文民政権である金泳三 (キムヨンサム) 政権が誕生した。民主化を進めて定着させ,1996年には経済協力開発機構(OECD)への加盟が承認された。しかしこの年から経済成長が下降し,1997年秋から経済危機に陥り,国際通貨基金(IMF)に緊急支援を要請するとともに,経済再建のため勧告を受け入れることになった。同年12月の大統領選で金大中 (キムデジユン) が当選,1998年2月の就任後,厳しい経済状況の再建に取り組むいっぽう,外交面では北朝鮮に対して柔軟な姿勢で臨む「太陽政策」を打ち出した。2000年6月,金大中大統領が北朝鮮の首都ピョンヤンを訪れ,両国首脳による初の南北会談が実現した。

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旺文社日本史事典 三訂版「大韓民国」の解説
大韓民国
だいかんみんこく
1948年,朝鮮半島の北緯38度以南にできた共和国
通称「韓国」。首都はソウル。初代大統領は李承晩。'50年米韓相互防衛援助協定を締結。'50〜53年にかけて朝鮮民主主義人民共和国との間で朝鮮戦争が行われた。'60年の四月革命で李の独裁政権は崩壊するが,翌年の軍部のクーデターにより朴正煕 (ぼくせいき) を首班とする軍事政権が成立。'63年の大統領選挙で朴が大統領となり民政移管が行われた。日本とは'65年に日韓基本条約が成立し国交を回復した。その後,全斗煥・盧泰愚政権をへて,'93年に初の軍人ではない金泳三政権が誕生した。'98年に成立した金大中政権は南北関係では「太陽政策」をかかげ,日本文化の段階的開放をすすめている。

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デジタル大辞泉「大韓民国」の解説
だいかんみんこく【大韓民国
朝鮮半島の38度線以南に、1948年に成立した国。首都ソウル。初代大統領は李承晩。韓国。テハンミングク。人口4864万(2010)。→朝鮮 →三十八度線
[補説]行政区は1特別市・6広域市・8道・1特別自治道に分けられる。
特別市:ソウル
広域市:釜山、大邱、仁川、光州、大田、蔚山
道:江原道、京畿道、慶尚北道、慶尚南道、忠清北道、忠清南道、全羅北道、全羅南道
特別自治道:済州道

テハンミングク【大韓民国
⇒だいかんみんこく(大韓民国

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精選版 日本国語大辞典「大韓民国」の解説
だいかん‐みんこく【大韓民国
朝鮮半島の南半部を占める共和国。一九四八年、第二次世界大戦後のアメリカ占領地区に成立。首都ソウル。韓国と略称する。

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世界大百科事典 第2版「大韓民国」の解説
だいかんみんこく【大韓民国 Taehan‐minguk】
正式名称=大韓民国Republic of Korea面積=9万9091km2人口(1996)=4523万人首都=ソウルSŏul(日本との時差なし)主要言語=韓国語(朝鮮語)通貨=ウォンWŏn第2次世界大戦後の米ソ両国による朝鮮の南北分割占領を背景に,1948年8月15日に南朝鮮に成立した国家。韓国と略称される。分断国家として北緯38度線をはさんだ南北対峙状況のもとで,歴代政権は反共を旗印とする強権的政治体制を維持し,民主化と統一を求める民衆との対立をつねにかかえこんできた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)「大韓民国」の解説
大韓民国
だいかんみんこく / テハンミンクク

→韓国

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