新羅

新羅

朝鮮の三国時代、半島の東南部を支配。7世紀に有力となり、唐と結んで668年に高句麗を滅ぼして半島を統一。唐から律令制などを学び、仏教文化が開花した。935年に高麗によって滅ぼされた。
 「しらぎ」とよむが本来は「シンラ」。356年に、朝鮮の三韓の一つ辰韓の地の12余国を、その一つの斯盧国が統一して、新羅が成立した。都は現在の慶州で、新羅では金城と称した。4~7世紀はじめまでの三国時代には、高句麗百済と争い、次第に強大となった。562年には半島南端の加羅の地を倭人(倭国)から奪い、次第に力を強めていった。

新羅の半島統一
 三国時代新羅は、7世紀に朝鮮半島を統一した。新羅は唐と結んで660年に百済を滅ぼし、663年には救援に出動した大和政権の水軍を白村江の戦いで破り、日本の介入を排除した。さらに668年には高句麗を滅ぼし、半島統一に成功した。当初は唐の援助を受けていたが、676年には唐の勢力を排除して自立した。

新羅の社会と文化
 新羅は国家体制として唐の律令制度を導入し、都の慶州を中心に、中央集権制をしいた。また、骨品制という独自の身分制度を持っていた。歴代の王は篤く仏教を信仰し、とくに都慶州とその周辺には仏国寺や石窟庵など、多くの寺院が建設して、8世紀の朝鮮の仏教の最盛期を出現させた。
新羅と日本  新羅が統一して半島情勢が安定すると、日本の奈良朝政府は675年から遣新羅使を派遣し、新羅からの使節も日本に来て両国は密接な外交関係をもっていた。新羅が強大となるに従い、両国関係は悪化した時期もあるが、遣新羅使は779年まで、日本への新羅使は840年まで続いた。

新羅の滅亡
 9世紀にはいると唐の衰退に従って新羅も衰退し、各地に地方政権が現れ、910年にはその一人の王建が高麗を建国し、935年に新羅高麗軍に攻められて滅ぼされた。その翌年、高麗百済などの残存勢力を平定して朝鮮半島を統一した。


http://www.y-history.net/appendix/wh0301-083.html


新羅 しらぎSinra
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
新羅
しらぎ
Sinra

朝鮮,古代三国の一つで,朝鮮最初の統一王朝 (?~935) 。「しんら」とも呼ぶ。『三国志』魏志東夷伝によれば朝鮮半島南東部には3世紀頃辰韓諸国があったというが,4世紀なかば頃諸般の情勢に促されて,そのなかの一国,斯盧 (しろ) 国が中心となり部族連合的国家が成立,同世紀 70年代には新羅と称した。以後6世紀初頭まで高句麗百済と対立しつつ統一国家形成をはかった。新羅王国の最初の基礎を定めたのは法興王 (在位 514~540) で,対外的には任那の中心金官加羅を合せて日本に脅威を与え,中国南朝の梁に朝貢して高句麗に対抗し,国内的には律令や年号を制定して王権の強化をはかった。次の真興王 (在位 540~576) は積極的に対外発展を進め百済と戦って聖明王を殺し,また残存任那を 562年打倒して日本の朝鮮支配を阻止した。王は中国の北斉に直接朝貢してその国家的地位を高めるとともに官制や軍制を整備して中央集権を促進した。さらに武烈王 (在位 654~661) から文武王 (在位 661~681) の時代は中国では隋,唐の初期にあたるが,唐と結んで 660年百済を,668年高句麗を滅ぼし,さらに半島を直接支配下におこうとする唐に抵抗して唐の勢力を退け,文武王 16 (676) 年半島の事実上の統一を完成した。武烈王以後約1世紀は新羅の全盛期で,735年には大同江以南の支配を唐に承認させ,領域の拡大をみた。慶州を首都として全国を9州に分け,郡県の制も一応整理され文運も隆昌をきわめた。しかし王位の相続にからむ諸種の矛盾は憲徳王 14 (822) 年の金憲章の大乱を引起し,この反乱を契機として中央の権力は弱化し,地方では豪族が割拠した,いわゆる「後三国」の対立時代を現出し,927年には後百済 (こうひゃくさい) のために景哀王が殺され,敬順王が即位した。 935年敬順王は最有力の豪族,高麗の太祖王建に投降してその貴族になり,新羅は名実ともに滅亡した。
新羅
しんら
新羅」のページをご覧ください。

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デジタル大辞泉の解説
しらぎ【新羅

古代朝鮮の王国名。4世紀中ごろ、朝鮮半島南東部、辰韓12国を斯盧(しろ)国が統一して建国。7世紀後半、唐と結んで百済(くだら)・高句麗(こうくり)を滅ぼし、668年、朝鮮全土最初の統一国家となった。都は慶州。律令や仏教文化など大陸の制度・文物を移入し、中央集権的統治を行ったが、935年、高麗(こうらい)の王建に滅ぼされた。しんら。

しんら【新羅
⇒しらぎ(新羅
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百科事典マイペディアの解説
新羅【しらぎ】
古代朝鮮の王朝。〈しんら〉とも読む。4世紀半ば,辰韓が斯盧(しろ)国によって統一され成立。慶州を都として発展。北の高句麗(こうくり),西の百済(くだら)と並んで三国時代を形成。6世紀後半,加羅(伽耶)地方と漢江下流域を支配下に入れ,7世紀後半には唐と結んで660年百済,668年高句麗を滅ぼす。676年半島に統一的支配を確立。唐を宗主国とし,唐制にならった貴族国家として栄え,王家の血縁思想と連なる骨品制や,律令官制も導入されたが,8世紀後半には支配体制もゆるみ,反乱が続発。9世紀末には後百済高麗(こうらい)が建国して三国分立を再現。935年新羅王は高麗に降伏して滅亡。6世紀前期の仏教伝来以後,学僧を生み,豊かな仏教芸術の花を咲かせた。日本とは7世紀後半から使節(遣新羅使)の往来が盛んになるが,8世紀前半には関係が悪化し,779年以後途絶した。
→関連項目阿倍比羅夫|怡土城|海印寺|開心寺址石塔|慶州石窟庵|慶尚南道|遣渤海使|壺【う】塚|三国遺事|三国史記|三国時代(朝鮮)|神功皇后|仲哀天皇|朝鮮|朝鮮語|朝鮮人|白村江の戦|仏国寺|宝相華文|任那|吏読
新羅【しんら】
新羅(しらぎ)
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防府市歴史用語集の解説
新羅

 日本が古墳時代の頃、3つの国に分かれていた朝鮮半島の国の1つで、南東部にありました。684年には朝鮮半島全土を支配しますが、935年にほろびました。
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世界大百科事典 第2版の解説
しらぎ【新羅 Silla】
古代朝鮮の国名。356‐935年に及ぶ(図)。〈しんら〉〈しら〉と発音するのが一般的であるが,日本では城の意味を語尾に付して,〈しらぎ〉と呼びならわしている。新羅の建国年次は,中国の文献で辰韓(しんかん)の斯盧(しろ)国から新羅に変わり,慶州で高塚墳が盛行する4世紀後半と見,《三国史記》によって奈勿(なもつ)王の即位年をあてた。この新羅建国期は六部(ろくぶ)の統合により貴族連合体制が成立する時期でもある。
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大辞林 第三版の解説
しらぎ【新羅

慶州を都とした朝鮮最初の統一王朝(356~935)。四世紀中頃、斯盧しら国が半島東南部の辰韓一二国を統合して建国。七世紀には唐と結んで百済くだら・高句麗こうくりを滅ぼし半島の統一支配を確立、唐に倣ならい中央集権化をはかったが、高麗こうらいの太祖王建によって滅ぼされた。しら。しんら。シルラ。

しんら【新羅
⇒ しらぎ(新羅

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世界大百科事典内の新羅の言及
新羅】より
…〈しんら〉〈しら〉と発音するのが一般的であるが,日本では城の意味を語尾に付して,〈しらぎ〉と呼びならわしている。新羅の建国年次は,中国の文献で辰韓(しんかん)の斯盧(しろ)国から新羅に変わり,慶州で高塚墳が盛行する4世紀後半と見,《三国史記》によって奈勿(なもつ)王の即位年をあてた。この新羅建国期は六部(ろくぶ)の統合により貴族連合体制が成立する時期でもある。…

【赫居世】より
…朝鮮古代の新羅始祖王名。別名は赫居世居西干,赫居世王,閼智(あつち)。…

【加羅】より
…広義の加羅諸国も,時代により変動し,洛東江下流域を中心に,ときに中流域まで及んでいる。加羅諸国は三国時代前半期に活躍し,562年に新羅に併合されるが,その多くは三国時代後期にかなりの自治を許され,統一新羅時代にもその伝統が生きていた。加羅諸国のおもな国は,古寧(慶北,咸昌),卓淳(大邱),碧珍(星州),大伽耶(高霊),非火(慶南,昌寧),多羅(陝川),阿羅(咸安),金官(金海),小伽耶(固城)。…

【遣新羅使】より
…571年から882年まで約3世紀にわたって日本から新羅へ派遣された公の外交使節。その時期・性格上3期に分けることができる(表参照)。…

三国時代】より
古代朝鮮で,313‐676年にわたり高句麗百済新羅の3国が鼎立・抗争した時代。この時代には三国が貴族連合体制の国家となったが,中国の植民地支配を脱したものの,なお強力な軍事介入のあった時代である。…

【神功皇后】より
…仲哀天皇の妃で記紀の新羅遠征説話の主人公,また応神天皇の母とされる。別名,気長足姫(おきながたらしひめ)尊(記では息長帯比売命)。…

【啄評】より
…朝鮮の6~7世紀の新羅王畿内の行政単位。喙評(中国),喙評(日本)とも書く。…

【朝鮮】より
…英語のKoreaは高麗の発音(Koryŏ)からきたもので,世界にまたがる大帝国を築いた元が伝えたものであろう。なお,朝鮮の異称や雅号として,〈三千里錦繡江山〉(南北が3000朝鮮里に及ぶ),〈槿域〉(ムクゲの花が咲くところ),〈青丘〉,〈鶏林〉(もとは新羅の異称),〈韓〉〈海東〉などがある。
【自然】

[地形の特徴]
 朝鮮は地形上,東・西朝鮮湾頭をつないだ北部と南部の二つに大きく区分できる。…

【朝鮮神話】より
…後者には現在シャーマンが口誦している巫歌神話と神話的昔話が含まれる。朝鮮神話全体の特徴は,(1)原初的形態を保持している,(2)巫俗や農耕儀礼など宗教儀礼との関係が密接である,(3)始祖神話の類が多く族譜意識が強い,(4)宇宙起源神話は神話記録者である儒学者の合理主義によって記録されなかったため,口伝のものが多い,(5)歴史的に高句麗百済新羅の三国鼎立が長く続いたため,神話が統一整序されず多様な伝承形態をとっている,などである。
[文献神話]
 文献神話のおもなものは次のとおりである。…

【味鄒】より
新羅の王で,新羅金氏の始祖伝説上の人物。味照,未祖,未召などとも記す。…

【律令格式】より
…律令法【早川 庄八】
【朝鮮】
 朝鮮三国では律令の条文が残っていないことから,律令の存在を否定する説,律令の体裁を整えない成文法が成立していたとする説,中国の律令が受容されていたとする説などがある。律令受容説では,《三国史記》の関係記事から,高句麗では晋の〈泰始律令〉(268制定)を受容して373年に律令を制定し,新羅ではこの高句麗の律令を受容して520年に律令を頒布したとしている。しかし,これら三国時代の律令は,いまだ法体系が確立しておらず,慣習法の一部が成文化されたものとみられる。…

【六部】より
…朝鮮古代の新羅王畿の地域区分。六村ともいわれ,梁部(楊山村),沙梁部(高墟村),本彼部(珍支部),牟梁部(大樹村),韓祇部(加利村),習比部(高耶村)からなる。…

新羅】より
…〈しんら〉〈しら〉と発音するのが一般的であるが,日本では城の意味を語尾に付して,〈しらぎ〉と呼びならわしている。新羅の建国年次は,中国の文献で辰韓(しんかん)の斯盧(しろ)国から新羅に変わり,慶州で高塚墳が盛行する4世紀後半と見,《三国史記》によって奈勿(なもつ)王の即位年をあてた。この新羅建国期は六部(ろくぶ)の統合により貴族連合体制が成立する時期でもある。…

※「新羅」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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新羅
漢字・読み シラギ・シラキ
別名 鶏林・斯羅・新羅奇・新良貴・志羅紀
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概要
新羅(シラキ・シラギ)は朝鮮半島にあった国家のこと。成立は四世紀。10世紀に高麗によって滅亡。韓国の国定教科書では新羅の成立は紀元前57年としているが、これは高麗の史書の三国史記(12世紀に成立)の記述に基づいたもの。三国史記の建国初期の記述は日本の古事記・日本書紀でいうところの「神代」にあたり、これを「史実」と見るのは難しい。

後漢書・三国志・晋書によると、秦の始皇帝の時代に労役から逃げた人が朝鮮半島にやって来て出来たのが「辰韓(シンカン)」。辰韓の土地は後の百済の地域にあった「馬韓(バカン)」が土地を分け与えたと史書にはあります。よって辰韓は「秦韓」とも書いた。となると新羅は中国人の国となってしまいます。

辰韓は「国家」ではなく、幾つかの同じ文化の村が集まった地域でした。その中から有力な国が発生します。それが斯蘆国(シロ・シラ・サロ)です。この斯蘆国が辰韓を統一しました。国の名前は朴氏のときに斯蘆国。昔氏で鶏林。金氏のときに新羅になったと三国史記にあります。

新羅をシラギと濁って読むようになるのは、奈良時代以降で、それ以前は「シラキ(新羅奇・新良貴・志羅紀)」と読んでいました。ギには「奴」というニュアンスがって、朝鮮半島の領地を奪われた日本が蔑む意味でそう呼んだのではないか?と思われます。

新羅の語源はおそらくは斯蘆(シラ)に「キ」です。この「キ」は「城」という意味だと思われます。ただ「シラギ」と「ギ」が濁るのは「新羅」+「奴」というニュアンスがあるからというのが定説です。どちらにしても日本が敵視していたのは間違いないことです。

物語・由来
第八段一書(四)新羅国・曾尸茂梨(ソシモリ)に
このときにスサノオは息子の五十猛神(イタケルノカミ)を連れて、新羅国に降り、曾尸茂梨(ソシモリ)に辿り着きました。
そこでスサノオが言いました。
「この土地に、わたしは居たくない」
それで土で船を作って、それに乗って東に渡り、出雲の簸の川(ヒノカワ)の川上にある鳥上之峯(トリカミノミネ)に辿り着きました。

崇神天皇(二十四)依網池・苅坂池・反折池を造る(日本書紀)
即位65年秋7月。任那国(ミマナノクニ)が蘇那曷叱知(ソナカシチ)を派遣して朝貢してきました。任那は筑紫から二千里あまり。北へ海を隔てて、鶏林(シラキ=新羅)の西南にあります。

新羅の国に押し騰りて
新羅の国王は恐ろしくなり
「これより
天皇の命令に従い、
馬飼いとして、毎年船を並べて、船が乾く暇も無く、舵が乾くことも無く、天地の続く限り、おつかえ致します」
と言いました。

百済の朝貢
建内宿禰が新羅人を率いて、百済池を作りました。


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356年ころ 新羅の建国

 朝鮮半島の南東部にあった辰韓の一小国であった斯盧(しろ・サロ)国が、名を代えて発展していき新羅(しらぎ・シルラ)となった。
 もとの斯盧国は6つの部落国家の集合体であった。現在の慶尚北道慶州市とこれをとりまく月城郡が、その範囲であった。
 新羅の国名がはじめて中国の歴史書に現れるのは377年で、新羅高句麗とともに五胡十六国時代の北朝である前秦に朝貢している。このときの王は、新羅国王楼寒(ろかん)と名乗った奈勿麻立干(なこつ(なむる)まりかん)で、356年はこの王の即位の年である。(注:ただし、奈勿麻立干は、第17代の王とされている。また、「麻立干」は王を意味する称号。)

新羅の建国伝説
 閼川(あつせん)の丘の上に、6つの部落を率いる長たちが集まった。6つの部落は揚山部(ようざんぶ)・高墟部(こうきょぶ)・大樹部(たいじゅぶ)・珍支部(ちんしぶ)・加利部(かりぶ)・高耶部(こうやぶ)で、その長たちは後の世に李(り)・鄭(てい)・孫(そん)・崔(さい)・裴(はい)・薛(せつ)と名乗る人たちの祖先であった。6人の部落の長は、ときおりこうして集まって大切な打合せをしていた。
 相談も済んで皆が立ち上がろうとしたとき、丘のはるか向こうの方に、一筋の光がたなびいている。行って見ると、蘿井(らせい)という井戸のそばで、白い馬が1頭、大きな卵をしきりに伏し拝んでいる。6人が近づくと、馬は天に向かってひと声高くいなないた。すると卵が割れて、なかから一人の男の子があらわれた。泉の水で産湯をつかわせると、赤子の体から神々しい光が輝いて目もまばゆいばかりである。王と仰ぐべきお方を、天が賜ったに違いない。徳のある君主を得たいというのが、6人の長たちのかねての願いであった。
 長たちの手でだいじに育てられ、13歳を迎えたときに王位に立った。氏(うじ)を「朴(ぼく)」、名を「赫居世(ホコセ)」といって、即位の日から国号を「徐羅伐(ソラボル)」ととなえた。漢の宣帝五鳳元年四月である(注:西暦 BC57年 にあたるが、発展して新羅となるのは約400年後となる。)。
 赫居世王は、61年の間、善政を行なった。

 赫居世のあとを子の南解が継ぎ、そのあとを南解の子の儒理が継いだ。この3人は朴姓である。儒理王のときに6部の村長にそれぞれ姓を授けたという。
 儒理王の遺言で、第4代の王は大輔(宰相)であった脱解(注)へ譲られた。昔姓である。
(注:この脱解は、「倭国の東北一千里」にあった国から海を渡ってやってきたらしい。このページ下部の【室谷克実氏の著作から】の項を参照のこと。)
 第13代の味鄒王から、金姓となった。金氏の祖は金閼智で、脱解王のとき始林(鶏林ともいう)の林のなかで木の枝にかかった黄金の櫃からみつかったという。その木の下で白い鶏が鳴いていたという。聡明で才智に富んでいたため脱解王は太子としたが、脱解王の死後に王位は脱解王の実子である婆娑に譲られた。味鄒王は金閼智の7世の孫で、味鄒王から金氏が王位につくようになった。

 国号の「徐羅伐」は、後に「鶏林」になおされ、三度目に「新羅」に改められた。
(注:「徐羅伐」の第1代王は「朴」姓で、第4代王は「昔」姓である。「鶏林」は「金」姓と関係が深いようだ。
 また、新羅人の王族・貴族が中国風の姓を持ったのは6世紀以降とするのが定説で、「朴」「昔」「金」の王姓が現れるのも後世のこととするのが定説だという。(出典:室谷克実著「日韓がタブーにする半島の歴史」(新潮新書、2010年)p94-95 ) )

中国が五胡十六国の時代
 356年、奈勿麻立干(なこつ(なむる)まりかん)の即位。「麻立干」は王を意味する称号。
 367年、百済新羅がともに初めて日本に朝貢した。(「日本書紀」の神功皇后47年の条)(注:もっと後代とする説もある。)
 377年、新羅高句麗とともに五胡十六国時代の北朝である前秦に朝貢した。
 399年、新羅王から高句麗広開土王へ使者を派遣し、「倭軍(注)が国土を占領して新羅王を家臣としてしまった。新羅王は、倭の家臣となるくらいなら高句麗に仕えたいので、ぜひ救援を送ってほしい。」と伝えたが、このとき、高句麗広開土王百済が倭と結んで反旗をひるがえしたので、平壌城まで出陣していた。
(注:「倭」については、時代によって指すものが変化している。内蒙古地方の倭、中国南方の倭、南朝鮮の倭など。ここでは、南朝鮮の倭で加羅諸国を指すとする説と、日本の大和朝廷を指すとする説がある。)
 400年、高句麗広開土王は5万人の大軍を新羅に送り、新羅の王城を占領していた倭軍を追い払い、任那加羅(現在の慶尚南道金海邑)まで進撃したが、安羅(現在の慶尚南道安邑)軍が再び新羅の王城を占拠したので、高句麗軍は新羅まで撤退して王城を取り戻した。これにより、新羅王は高句麗の家臣として朝貢した。

 402年、奈勿王が死去すると、高句麗で人質となっていた実聖が王位についた。即位すると早々に奈勿王の子の未斯欣(みしきん)を人質として倭国へ送っている。412年には、奈勿王の子のト好(ぼくこう)を高句麗へ人質として送った。さらに、実聖王は新羅に駐留していた高句麗兵に依頼して奈勿王の長子の訥祗(とき)を殺害しようとしたが、高句麗兵は訥祗の秀でた様子をみて逆に実聖王を殺して訥祗を王位につけた。

 493年、倭族にそなえて、臨海・長嶺の二鎮(城)をおいた。
 502年、第22代の智證王は、農業を勧めさせ、牛を用いた農耕を初めて行なった。
 503年、智證王のとき、国名を「斯羅」「斯盧」「新羅」などいろいろに呼ぶのを正式に「新羅」とし、王号を「麻立干」から「王」に正式に定めた。
 505年、異斯夫(いしふ)を悉直(現在の江原道三陟郡三陟邑)の軍主(地方の最高軍政官)にした、彼は512年に于山国(うざんこく・現在の鬱陵島)を降伏させた。
 514年、小京を阿尸(あし)村におき、6部(建国神話の6つの村落)と南方の住民を移住させて小京を充実させた。

 517年、法興王のとき、兵部を創設した。
 520年、律令を発布。(注:従来の慣習を条文化したにすぎないとする説がある。)
 528年、仏教の公認。(注:私的に伝来はしていた。)
 532年、金官国(現在の慶尚南道金海郡)を降した。
 536年、初めて独自の年号「建元」を用いた。
 545年、広く文士を集めて国史を編纂させた。

 551年、百済の聖王が新羅・加羅諸国と連合して高句麗と戦い、百済の旧王都である漢城地方を取り戻した。
 552年、新羅は一転して高句麗と連合し、百済から漢城地方を奪った。百済・加羅(ここでは大加羅国の意)・安羅は日本に救援軍の派遣を依頼した。
 554年、百済の王子の余昌(よしょう・のちの威徳王)は、函山城(かんざんじょう・現在の忠清北道沃川郡沃川邑)の戦いで新羅軍を破り、勢いに乗じて新羅国内へ進撃したが、逆に新羅軍に函山城を奪われて退路を断たれて孤立した。これを救うため父の百済王である聖王が函山城を攻めたが、かえって聖王は殺されてしまった。
 562年、新羅が加羅諸国の反乱を抑え、完全に占領した。

中国が隋の時代
 581年に隋が成立すると、高句麗百済はすぐに朝貢したが、新羅が朝貢したのは594年であった。
 百済高句麗を討つようしきりに隋へ要請していたが、新羅も漢江下流域をめぐって高句麗と戦っていたため、608年に出兵の要請を隋に行っている。

中国が唐の時代
 618年、唐が成立する。
 624年、百済高句麗新羅があいついで唐に朝貢した。

 636年、独山城(どくさんじょう・現在の忠清北道槐山郡)を百済に襲われ、あやうく漢江流域が孤立するところであった。
 641年、七重城(しちじゅうじょう・現在の京畿道坡州郡)などを高句麗に攻められた。
 642年、国西四十余城(秋風嶺以東、洛東江中流以西の地域か)を百済に奪われ、さらに唐への要衝路である党項城(とうこうじょう・現在の京畿道華城郡)を高句麗百済が襲い、南部の中心地である大耶城(だいやじょう・現在の慶尚南道陜川郡)を百済に奪われて大耶州の都督(長官)品釈(ひんしゃく)夫妻が殺された。
 品釈夫人は金春秋(のちの太宗武烈王)の娘であった。金春秋はみずから高句麗を訪ねて救援を求めたが、高句麗百済とともに新羅の領土を侵略しようとしており、彼を捕らえてしまうが同情する高句麗の家臣に助けられて脱出する。

 643年、新羅の使節が唐へ朝貢し、高句麗百済新羅を攻めて数十城をとろうとしているので、救援軍を出してほしいと要請した。
 645年、唐が高句麗に出兵すると、新羅も呼応して出兵したが、失敗に終わり、その間に新羅の西部と加羅地方を百済に侵略された。

 647年、新羅に内乱が起きる。当時は女王が立っていたが、643年に唐へ救援軍を要請した際に、唐から男王を迎えるなら守備の軍隊を派遣しようといわれていた。会議では女王の退位問題が決まらないまま新しい上大等(官職)が着任し、この上大等の調整によって大等会議は女王の退位を決定したが、これに反対する勢力が女王をかついで内乱となった。この勢力は、大等会議への出席ができない地方豪族や没落貴族などで、百済高句麗との戦いに活躍していた金庾信(きんゆしん・532年に新羅に統合された金官加羅王国の後裔)らが含まれていた。金庾信らの勢力は、はじめは大等の勢力に押されて極めて不利で、女王が陣中で死亡するほどであったが、すぐに新しい女王を立てて戦い大等の勢力を破ることができた。勝利を納めた新しい勢力は、行政組織の改革を進め律令体制を整備していった。

 647年、金春秋は日本の大和朝廷へ使節として来朝し、国交を円滑化し新羅の孤立打開を図った。
 648年、金春秋は子の文王とともに唐に朝貢し、百済への出兵を要請した。唐の太宗は、出兵を了承したが、時期は未定であった。新羅は諸制度の改革を推進し、対唐外交の必要から、唐の礼服の制度・正月の賀正の礼・行政官制などを取り入れ、650年には自国の年号をやめて唐の年号を採用した。
 654年に、金春秋は王に即位し、金庾信を上大等(官職)に任用した。

 655年、北部の33城を高句麗百済の連合軍に奪われ、唐に救援軍を要請した。唐は遼東郡に出兵したが、大きな効果はなかった。
 658~659年の唐による第3回の高句麗への出兵が行なわれるが、これが失敗に終わると、唐は百済を攻撃することにした。
 660年、唐は水陸13万人の大軍を動員して山東半島から出発し、新羅軍も5万人の兵で出陣した。新羅軍は黄山之原(現在の忠清南道論山郡)で勝利し、唐軍は白江(現在の錦江の中流扶余邑付近の別称)の伎伐浦(ぎばつぽ)で百済軍を破り、王都の泗沘城(しひじょう)を攻めた。百済王はいったん旧都の熊津城にのがれたが、皇太子らとともに降伏し、百済は滅亡した。
 百済の滅亡後、664年まで、王族の福信・僧道琛(どうちん)・日本へおくられていた王子豊などが、高句麗や日本の大和朝廷の支援を受けて執拗に唐・新羅連合軍と戦っている。

 661年、百済を滅ぼした唐・新羅連合軍は、一時、高句麗の王都の平壌城を包囲したが、高句麗軍の善戦にはばまれ、新羅の大宗武烈王(金春秋)が死去し、百済の復興軍が勢力を増し、唐の国内でも連年の出兵で人心が動揺しはじめたので、撤兵することとなった。唐・新羅連合軍は、百済の復興軍との戦いに専念した。
 大宗武烈王が死去すると、甥の文武王が即位し、引き続き金庾信を上大等(官職)に任用した。
(注:「白村江の戦い」は、663年です。 663年 白村江の戦い

 666年、高句麗の泉蓋蘇文が死去すると、唐・新羅連合軍は、再び高句麗を攻撃し、高句麗も善戦したが、翌667年に降伏し高句麗は滅びた。

唐と新羅の戦い
 660年に唐と新羅の連合軍が結成されたとき、平壌以南を新羅が、以北を唐が領有する約束であったが、唐は朝鮮半島全土を直轄領にしようと考えていた。そのため、唐は、百済高句麗との戦いのときから新羅軍の消耗を図っていた。戦後も百済の旧地に唐の都督府を置き、漢城州での反乱を扇動している。
 新羅はなんとか旧百済の地を確保しようとしていた。
 670年、高句麗の復興軍が唐と戦うと、新羅は元高句麗大臣淵浄土(えんじょうど)の子の安勝を高句麗王として迎え、唐と対立する。旧百済領から百済と唐の勢力を追放する戦いのなかで、新羅の第一級貴族たちが戦列を離れたり反乱を起こしたりした。彼らは、文化の進んだ唐と対立するよりも、唐と提携しようと考えたのかもしれない。唐との戦いに死力を尽くしたのは県令城主といった地方豪族および下級貴族であった。この戦いは、676年まで続く。
 672年、新羅軍だけでは唐軍に勝てないことが明らかになると、高句麗人・百済人・靺鞨人の部隊も編成され九誓幢(きゅうせいどう)と呼ばれる9つの部隊がつくられていった。9つの部隊の内訳は、高句麗人が3部隊、百済人が2部隊、靺鞨人が1部隊、新羅人が3部隊であった。
 676年、唐は朝鮮半島から撤退し、新羅は大同江以南の朝鮮半島を統一した。地方豪族・下級貴族らの力によって勝利した新羅は、中央貴族だけによる政治から地方豪族たちも同様の権限を持ちうる律令体制へと、政治体制を大きく変えていった。

【室谷克実氏の著作から】

 室谷克実著「日韓がタブーにする半島の歴史」(新潮新書、2010年)の42~43ページによると、次のとおり。
 中国の「三国志」の「魏志」「東夷伝」の「倭人伝」(いわゆる魏志倭人伝)の直前に「韓伝」がある。
 この「韓伝」によると、
朝鮮半島の南半分に「馬韓」「弁韓」「辰韓」の古代三韓があった。
馬韓は、黄海にに面した西央部から西南部にあり、50数か国あった。このうちの1つ伯済(ペクチェ)が後の百済である。
辰韓は、日本海に面した東部。
弁韓は、玄界灘に面した南部。
辰韓弁韓を合わせて「弁辰」とも呼び、合わせて24か国あった。このうちの1つであった斯盧(サロ)が後の新羅である。
(参考に: 239年 卑弥呼が魏に遣使 ≫ 「三国志・魏志」巻30 東夷伝・倭人 )

 室谷克実著「日韓がタブーにする半島の歴史」(新潮新書、2010年)p12-14 に、次の記述がある。なお、引用文中の太字および(注)は、当サイト管理人が施したものです。
(前略)(注:この部分では、古代において先進文化が朝鮮半島から日本へ伝わったとする説に、異議を唱えている。)
 例えば、半島に伝わる最古の正史(官撰の歴史書)である『三国史記(サムグクサギ)』には、列島から流れてきた脱解(タレ)という名の賢者が長い間、新羅の国を実質的に取り仕切り、彼が四代目の王位に即(つ)くと、倭人を大輔(テーポ)(総理大臣に該当)に任命したとある。その後、脱解の子孫からは七人が新羅の王位に即き、一方で倭国(ウェグク)と戦いながらも新羅の基礎をつくっていったことが記されているのだ。
(中略)
 あるいは、七世紀半ばに完成した中国の正史『隋書』には、こんな一節がある。

  新羅百済皆以俀為大国、多珍物、並敬仰之、恒通使往来
 <新羅百済も俀国を大国と見ている。優れた品々が多いためで、新羅百済も俀国を敬仰し、常に使節が往来している> (『隋書』は列島そのものを扱った部分では「俀」国という表記を用いている。帝紀などでは「倭」国となっている)

 この部分は「俀(倭)人がそう述べている」と言うのではない。地の文章だ。『隋書』は殆んど同時代書であり、これを編纂した唐の最高級の知識人たちは、俀(倭)国-新羅、俀(倭)国-百済の関係を、こう見ていたのだ。
 第三国同士の関係を語った部分とはいえ、中華思想の権化のような知識人が、そこに「敬仰」という表現を用いたことだけでも、すごいことではないか。

 室谷克実著「日韓がタブーにする半島の歴史」(新潮新書、2010年)p23-25 に、次の記述がある。
 なお、引用文中の「筆者註」は、著者の室谷克実氏による註で、標題以外の太字は、当サイト管理人が施したものです。
  日本海側の地から来た賢者
『三国史記』の第一巻(新羅本紀)に、列島から流れてきた賢者が、二代王の長女を娶(めと)り、義理の兄弟に当たる三代目の王の死後、四代目の王に即く話が載っている。その賢者の姓は「昔(ソク)」、名は「脱解」だ。
新羅本紀」は脱解王初年(五七年)の条で述べている。

  脱解本多婆那国所生也。其国在倭国東北一千里
 <脱解はそもそも多婆那(タパナ)国の生まれだ。その国は倭国の東北一千里にある>

 その生誕説話も載せている。そこには、新羅の初代王である朴赫居世(パクヒョッコセ)の生誕説話の倍以上の文字数が費やされている。木版の時代、一つの事柄の記述に充てられる文字数は、その事柄に対する編者、著者の重要性認識度に直結していると思う。
新羅本紀」を要約すると、こういうことだ。

  女(ヨ)国(『三国遺事』では積女(チョンニョ)国)から嫁いできた多婆那国の王妃は、妊娠して七年目に、大きな卵を産んだ。王は「人が卵を産むとは不祥である」として、捨てるよう命じた。そのため、王妃は卵を宝物とともに櫃(ひつ)に入れて海に流した。
 櫃は最初、金官(キムグワン)国(金海(キメ)市)に漂着したが、誰も怪しんで取り上げようとせず、次に辰韓(チナン)(慶尚道(キョンサンド))の海岸に流れ着いた。
 老婆が櫃を開けてみると少年がいた。その時、櫃に従うように鵲(かささぎ)が飛んでいた(筆者註=鵲は、朝鮮半島では古来、吉鳥とされる)。そこで、「鵲」の字の一部を採って、「昔」を姓とした。櫃を開けて取り出したので名を「脱解」とした。

 この説話により、脱解とは卵生と称されていて、その生国である多婆那国とは倭国から東北一千里の海岸に面した地にあったことが解る。
『三国史記』で用いられている「里」は、随里(一里=約四百五十㍍)か、朝鮮里(一里=約四百㍍)か、あるいは両者を混同して使っているとも考えられる。概ね、一里=四百㍍強と見てよい。
(後略)

 室谷克実著「日韓がタブーにする半島の歴史」の28~30ページで、新羅の初代王である朴 赫居世の生誕説話について、「三国史記」と「三国遺事」を比較している。
○「三国史記・新羅本紀
・秦や漢の圧政から逃れてきた人びと(原文は「朝鮮遺民」)が、慶州の山間部で6つの村(「辰韓の六部」)に分かれて暮らしていた。ある日、一人の村長が林の中で馬(注:「白馬」ではなく「馬」)が跪(ひざまず)いて嘶(いなな)くのを見た。そこへ行ってみると“瓢(ひさご)のような形”の大きな卵があった。卵を割ると男児が出て来た。
○「三国遺事
辰韓の六部の村長は、いずれも(地元の山峰に)天から降りてきた。
・「六部の人々が子弟を連れて集まり、『君主を立て、都を定めよう』と話し合っていたところ、山の麓に不思議な気配がした。雷のような光が地面に差したかと思うと、そこに一頭の白馬が跪いていて、礼拝するような姿勢をしていた。そこに行ってみると紫色の卵があり、白馬は長く嘶いてから天に駆け上がっていった」

 室谷克実著「日韓がタブーにする半島の歴史」の30~34ページでは、上に続いて新羅の第4代王である昔 脱解の説話について、「三国史記」と「三国遺事」を比較している。
○「三国史記・新羅本紀
・脱解の生国は、多婆那国。
・脱解の母は、女(ヨ)国の出身。
○「三国遺事
・漂着した場所は同じ、慶尚道の海岸(阿珍浦(アジンポ))。
・櫃(ひつ)は、「船に載せられていた櫃」。
・見つけたのは、ただの老女ではなく、新羅王のために魚介類を獲る役にあった海女。
(室谷克実氏は、この海女も倭種だったに違いないとみている。「三国史記」では漁業の話が出てくるのは極めて少ないという。)
・櫃の中にいた子供は、「私は龍城(ヨンソン)国の者だ。」「……父王の含達婆(ハムダルパ)が積女(チョンニョ)国の王女を妃に迎え……」「赤い龍が現れて船を護衛し、ここへやってきた。」などと述べた。
・「三国遺事」の著者である一然は、龍城国について、「正明(チョンミョン)国または琓夏(ワナ)国ともいう。琓夏は花厦(ファハ)国とも書く。龍城は倭の東北一千里のところにある」と分註を付けている。

 室谷克実著「日韓がタブーにする半島の歴史」(新潮新書、2010年)p40-41 に、次の記述がある。なお、引用文中の標題以外の太字および(注)は、当サイト管理人が施したものです。
 新羅最初の外交団の首席代表は倭人だった
 三代目の王には息子が二人いた。しかし、脱解を四代王に即けるよう遺言して没する(五七年)(注:第三代王の57年であろうか?)。脱解は王位に即くと、翌年には瓠公(ホゴン)を大輔(これは総理大臣に相当する。「新羅本紀」からは、軍事は脱解が掌握していたと読み取れる)に任命する。
 この瓠公は倭人だ。「新羅本紀」の朴赫居世三十八年(前二〇年)の条に、こうある。

  瓠公者未詳其族姓、本倭人。初以瓠繋腰、度海而来。故称瓠公
 <瓠公とは、その族姓は詳(つまび)らかではないが、そもそも倭人だ。瓠(ひょうたん)を腰に提げて、海を渡ってきた。それで瓠公と称された>

 勘が鋭い読者は、既に気付いているかもしれない。瓠公は大輔になった時、何歳だったのか。古代に、そんな高齢者がいたのか ― と。その問題については第三章で詳述する。ここは、問題を棚上げしたまま読み進めていただきたい。
「瓠を腰に提げて、海を」 ― 私は浦島太郎の姿を思い浮かべてしまうのだが、脱解による瓠公の大輔起用の結果、出来上がった体制は、王は倭種、ナンバー2は倭人となった。これは「倭種・倭人が統治する国」に他ならない。新羅に《倭・倭体制》が出来上がったのだ。
 瓠公が海を渡ってきたのは、新羅の初代王である朴赫居世の治世のことで、彼は新羅王室で重用されていた。
(後略)

 室谷克実著「日韓がタブーにする半島の歴史」(新潮新書、2010年)p79-81 から引用します。朝鮮半島の南部の状況についての記述です。
 なお、引用文中の標題以外の太字および(注)は、当サイト管理人が施したものです。
 半島西南端の前方後円墳は何を語るか
 新羅より南の地域は「倭」であり、その本拠は海を越えた九州にある ― この古代地勢図を認めないと、倭国勢力による新羅攻撃が、いかにも不可解なことになる。
 即ち、列島にだけあった倭国は、半島南部には手を付けないまま、東側に迂回した所に存在する新羅だけを執拗に攻めていたことになってしまう。
 あるいは、「半島では狗邪屋韓国だけが倭国の一国」と認めたとしても、狗邪韓国と新羅の間には倭に従わない韓族の国家がいくつもあるのに、倭兵はそうした国家をすり抜けて、山をいくつも越えた向こうにある新羅だけを攻撃していたことになる。
 しかも、その新羅とは、沃地でもなければ、貴重な鉱産物が出る国でもない。
 新羅は国域を北、南、西の三方に拡大した。が、倭国は、新羅以上の猛スピードで半島南部に勢力を築いていった。おそらく半島南西部から南東部に進む流れだったのだろう。
 半島の西南端に当たる栄山江(ヨンサンガン)(注:朝鮮半島の南西部を流れる河川。)地域に、十数基の前方後円墳があることに着目すべきだ。これらが前方後円墳と確認された瞬間、韓国のマスコミは「日本独特の墓制とされてきた前方後円墳も、韓国が起源だったことが明らかになった」と報じた。
 幼い頃から「日本の文化文明は、すべて韓民族が倭奴に教えてやったものだ」と刷り込まれてきた韓国人記者には、そうとしか考えられなかったのだろう。
 しかし、その後の調査で、栄山江地域の前方後円墳は五~六世紀の築造と明らかになった。日本の前方後円墳は三世紀には出現している。
 つまり、五~六世紀の半島最西南部には、端から端まで百㍍近い墓を造る倭人・倭種の強力な勢力があった。『後漢書・韓伝』は、馬韓の領域について「其北与楽浪、南与倭接」<その北は楽浪郡と、南は倭と接する>と書いている。半島最西南部は、後漢の時代には既に倭人・倭種が支配する領域だったと言っているのだ。
 そうだろう。金海市周辺よりも、ここに大勢力があってこそ、楽浪郡と通交しやすい。
 一方、半島東部の釜山市で海に注ぐ洛東江(ナクトンガン)(注:朝鮮半島の南東部を流れる河川。)は、河口から七十㌔上流でも河床海抜がほぼ〇㍍だ(広島大学国際協力研究科『韓国洛東江の水質汚染とその回復―調査報告』)。
 そんな緩やかな川だから、古代はちょっとした降雨でも平野部は水浸しになり、塩害も酷かったろう。新羅も同様だったと思われる。
 従って、農耕の適地は山間の盆地であり、盆地ごとに「辰韓の六部」のような小国家があったのだろう。『三国志・韓伝』が「弁辰辰韓は雑居す」としているのは、三世紀中葉の半島南部では、韓族主体の盆地国家群(辰韓)と、倭人・倭種が指導権を握る盆地国家群(弁韓)とが ― おそらく、洛東江上流地域を中心に ― 入り乱れた状態にあったことを示していると理解していいだろう。
 そうした盆地国家の伝統的な王家を、倭人・倭種が倒して、新たな指導者になったこともあろう。あるいは、伝統的な王家に、倭将の娘が嫁いだこともあろう。
『宋書』にある倭王・武が四七八年、宋の順帝に宛てた上表文で述べている「自昔祖禰(注:引用元では「禰」は示へん。)、躬擐甲冑、跋涉山川……渡平海北九十五国」<わが祖先は甲冑を身にまとい、山川を駆け巡り……海を渡っては海北の地を平らげること九十五カ国>とは、そうした状況の回顧だ。
 倭国も新羅も、三世紀後半までには盆地国家を次々と勢力圏に収め、遂には両者の勢力圏が接した。そうでなければ、倭国勢力と新羅の本格的対峙は起こりようもない。
(参考資料)
LINK 前方後円墳 - Wikipedia の「朝鮮半島南部の前方後円墳 - Wikipedia」の項
LINK 栄山江 - Wikipedia
LINK 洛東江 - Wikipedia
LINK Google マップ ≫ 栄山江
LINK お絵かきじいさんのある日 ≫ 韓国、栄山江流域の前方後円墳の極概略
LINK 東北学院大学 ≫ 研究・産学連携 ≫ 学術誌 ≫ 学術研究会 ≫ 歴史と文化 第50号 ≫ 栄山江流域の最近の考古学的調査の成果について(金容民 著) (PDFファイル)
LINK 東北学院大学 ≫ 研究・産学連携 ≫ 学術誌 ≫ 学術研究会 ≫ 歴史と文化 第50号 ≫ 6世紀中葉(泗沘期百済)以後の韓国栄山江流域(佐川正敏・崔英姫 著) (PDFファイル)

 また、室谷克実著「日韓がタブーにする半島の歴史」(新潮新書、2010年)の巻末にある「終章 皇国史観排除で歪められたもの」および「あとがき」では、戦後日本の学会で朝鮮史研究が歪められた状況について語られており、非常に興味深いです。ここには引用しませんが、関心のある方には一読をお勧めします。

【LINK】
LINK YouTube ≫ 『新羅4代王は列島から行った②【再】』室谷克実 AJER2012.11.24(2)
LINK YouTube ≫ よくわかる日本と朝鮮半島の古代史【学校やNHKでは教えてくれない事実】
LINK 新羅 - Wikipedia
LINK 朝鮮の君主一覧 - Wikipedia の「新羅」の項
LINK 異聞歴史館、扶桑家系研究所 ≫ リポート集 ≫ 異聞歴史館別館 ≫ 異聞歴史館別館7(朝鮮諸家家系図) の「朝鮮王統(7) (新羅・加羅王家)」の項
LINK www.KAMPOO.com ≫ 韓国歴史年表 ≫ 新羅の歴史年表
LINK YouTube ≫ 【長浜浩明】韓国人は何処から来たか[桜H26/4/15]

【参考ページ】
箕氏朝鮮の誕生(伝説)
BC900年ころ 日本の九州北部へ稲作農耕が伝わる
BC195年ころ 衛氏朝鮮の建国
BC108年 衛氏朝鮮滅亡
BC108年 楽浪郡など4郡設置
BC37年ころ 高句麗の建国
239年 卑弥呼が魏に遣使
346年ころ 百済の建国
356年ころ 新羅の建国 ~このページ
391年 高句麗広開土王(好太王)即位
660年 百済の滅亡
663年 白村江の戦い
668年 高句麗の滅亡
676年 新羅の三国統一
892年 新羅が衰退(後三国時代へ)
935年 新羅の滅亡
私の思うところ ≫ 日本の歴史認識 の「○室谷克実」の項

参考文献
古代朝鮮 NHKブックス172」井上秀雄著、日本放送協会、1972年
朝鮮史 新書東洋史10」梶村秀樹著、講談社現代新書、1977年
「朝鮮 地域からの世界史1」武田幸男・宮嶋博史・馬渕貞利著、朝日新聞社、1993年
三韓昔がたり」金素雲著、小堀桂一郎校訂・解説、講談社学術文庫、1985年
「日本書紀(上)全現代語訳」宇治谷孟、講談社学術文庫、1988年
「新訂版チャート式シリーズ 新世界史」堀米庸三・前川貞次郎共著、数研出版、1973年
「クロニック世界全史」講談社、1994年
「世界文化史年表」芸心社、1974年
「日韓がタブーにする半島の歴史」室谷克実著、新潮新書、2010年
LINK 栄山江 - Wikipedia
LINK 洛東江 - Wikipedia

更新 2016/7/19
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676年 新羅の三国統一

 高句麗百済新羅三国時代に、新羅はどちらかというと弱小国であった。しかし、太宗武烈王(金春秋)と文武王(太宗武烈王の甥)の代に、金?信(きんゆしん・532年に新羅に統合された金官加羅王国の後裔)を上大等(官職)に任用し、新羅による三国統一を実現させた。

 新羅は唐に何度も出兵を要請し、唐と新羅の連合軍によって、660年に百済を滅ぼし、666年に高句麗も滅亡させた。
 その後、朝鮮半島全土を直轄領にしようとする唐と戦い、676年に唐を撤退させて大同江以南の朝鮮半島を統一した。
 地方豪族・下級貴族らの力によって勝利した新羅は、中央貴族だけによる政治から地方豪族たちも同様の権限を持ちうる律令体制へと、政治体制を変えていった。

新羅の国内体制
 684年、国内に置いた高句麗系の報徳国を滅ぼした。
 685年までに、地方行政の基本となる九州・五小京制が一応完備する。これは統一新羅の国内を9つの州に分け、王都である慶州のほかに5つの小京を置いたものである。九州とその州都の所在地は、以前の軍事的な影響が強かったものから、地方行政を優先するものへ作り変えられていった。小京は、旧高句麗領内に2つ、旧百済領内に2つ、加羅地方に1つ作られ、新羅の文化を伝える起点の役割を持ち、王都慶州の貴族や住人がしばしば移住を命ぜられている。

律令田制
 687年、文武の官僚に識田(畑)を与え、従来の食邑(しょくゆう・土地と人民の全面的支配を認められた地域)を漸次縮小させようとした。689年には、下級官僚に与えていた禄邑(ろくゆう・共同で支配していた地域)を廃止し、租米を与えることにした。722年にようやく、農民一人ひとりに規定の土地を与えることができるようになった。しかし、従来から新羅では貴族や豪族の力が強く、土地と人民を支配してきたため、この制度がどの程度浸透したかはよくわかっていない。757年には、下級官僚の租米給付をやめて禄邑を復活している。

旧貴族と新興貴族の抗争
 768年、大恭(たいきょう)・大廉(たいれん)兄弟による大規模な内乱が起こった。王都の貴族と地方豪族をまきこんで、3か月にわたって戦われ、その間に王宮が33日間も包囲された。これは、貴族連合体制復活をねらう旧貴族派の反乱と推測される。
 770年、金融(金?信の後裔)が金?信系の貴族と地方豪族におされて、反乱を起こした。律令体制推進をはかる新興貴族派が、勢力の回復をねらったものと考えられる。
 775年、金隠居が反乱を起こす。金隠居は、大恭の反乱後に侍中(官職)となり、金融の反乱後に退いた人物で、旧貴族派とみられる。
 同775年、廉相(れんそう)と正門(しょうもん)とが、反乱をはかったとして誅殺されている。
 780年、志貞(してい)が反乱を起こし宮中を包囲したが、上大等(官職)の金良相と金敬信らが挙兵して志貞を誅殺するとともに、恵恭王も乱戦の中で殺害された。そして、金良相が王位について宣徳王となった。
 この後は、王位争奪の時代となり、権力の奪い合いとなった。

王位争奪の時代
 785年、宣徳王が死去すると、宣徳王代に上大等となっていた金敬信が王となり元聖王となった。
 元聖王の死後、嫡孫の昭聖王が即位するが2年で死去すると、その子である哀荘王が13歳で王位につき叔父の彦昇(げんしょう)が摂政となった。
 809年、哀荘王10年に、王の叔父である彦昇(摂政)と悌?(ていよう)の私兵が宮中に乱入し、哀荘王と王の弟を殺害し、彦昇がみずから王となった。憲徳王である。
 819年、各地の賊軍がいっせいに蜂起したが、各州の都督や郡の太守に命じて捕らえさせたという。中央の地方に対する関心が薄らいできているが、まだ律令体制は全国にいきわたっており反乱を鎮圧する力はあった。

 822年、州の都督や中央の官職を歴任した金憲昌が反乱を起こした。反乱の理由に、父の金周元がかつて元聖王と王位を争って王になれず地方へ隠居したことをあげている。地方の多くの豪族が彼を支持して擁立したものとみられ、その支配地域は旧百済領の3州と加羅地方の2州および中原・西原・金官の3小京にわたり、百済の旧都の熊津を都として国号を長安とした。この内乱は、貴族の私兵や花郎(注)兵団によって約1か月で鎮圧された。律令体制の兵制は姿を消している。
(注:花郎とは、聖なる人物(女性ともいわれる)を中心に貴族の青年が構成するエリート集団で、山川をめぐって心身を鍛錬し、詩文を養い知識を増し、王に仕える能力を育成した。唐に派遣されて、そこにとどまり能力を発揮した学者・学僧も多いという。)

 834年、憲徳王のあとを継いだ興徳王は、法令により衣服・車騎・生活用具・家屋など広範囲な生活分野を骨品制度の身分によって規定した。骨品制度による身分は、「真骨・真骨の女性・六頭品・六頭品の女性・五頭品・五頭品の女性・四頭品・四頭品の女性・平人(百姓)・平人の女性」となっている。骨品制度は、骨制度と頭品制度からなる。骨制度は王族の血縁関係を示すもので、金?信が内乱のときに善徳女王を擁立した時期にはじまる。頭品制度は王幾(王都とその周辺の地域。新羅建国の6部落の地域を意識している。)の住民の身分制度で、このときに始まったと考えられる。王幾以外では、外真村主(地方の正式な村主)は五頭品と同じ、次村主(地方の副村主)は四頭品と同じと規定している。王幾を中心とする地縁的な身分制度で、新羅の特徴である。

 836年、興徳王が死去すると、従来の貴族会議による決定は行われず、武力による後継者争いが行われた。争ったのは、元聖王の孫にあたる均貞(きんてい)とその甥である悌隆(ていりゅう)である。それぞれ支援する貴族たちの私兵によって戦った。まず、均貞らが内裏へ入り、その私兵が防衛にあたった。そこへ悌隆らの軍が攻め寄せて、均貞らの軍を敗退させ、均貞も殺された。勝利した悌隆は、即位して僖康王となった。
 838年、悌隆について戦い上大等(官職)に任じられた金明と侍中(官職)に任じられた利弘(りこう)の軍が、僖康王の側近を殺害し王の私兵を打ち負かした。僖康王はみずから命を絶ち、金明が王位について閔哀王となった。

 839年、閔哀王も、清海鎮(せいかいちん・現在の全羅南道莞島郡)大使の弓福(きゅうふく)をたよって亡命し地方で勢力を伸ばした祐徴(均貞の子)らの兵によって殺された。祐徴は即位して神武王となったが、即位後半年で死去し、太子の慶膺(けいよう)が文聖王となった。
 文聖王は、弓福の娘を王妃に迎えようとしたが、貴族たちが「弓福は地方出身の身分の卑しい者である」として反対したという。弓福は別名を張保皐(ちょうほこう)といい、唐や日本と積極的に交易して商人として知られていた。日本では、張宝高の名で知られている。彼は、841年に清海鎮で反乱を起こしたが、刺客によって殺された。

新羅の衰退
 889年、真聖女王のときに、地方の実情を無視して律令の規定する徴税を命じると、これに反対する蜂起が全国各地で起った。しかし、新羅王朝にはもはやこれを鎮圧する力がなく、中央とは関係なく地方勢力どうしの対立抗争が始まった。
 892年ころには、この地方勢力のなかから、新羅の支配を脱して自立するものが出てきた。
 そして、900年に後百済、901年に後高句麗と称するようになり、新羅とあわせて「後三国時代」とも呼ぶ。
 918年に、後高句麗にかわって高麗が建てられ、その後、後百済新羅高麗に降伏する。こうして、高麗により朝鮮半島が統一されることになる。

【参考ページ】
356年 新羅の建国
676年 新羅の三国統一 ・・・・・・(このページ)
892年 新羅が衰退(後三国時代へ)
935年 新羅の滅亡

参考文献
古代朝鮮 NHKブックス172」井上秀雄著、日本放送協会、1972年
朝鮮史 新書東洋史10」梶村秀樹著、講談社現代新書、1977年
「朝鮮 地域からの世界史1」武田幸男・宮嶋博史・馬渕貞利著、朝日新聞社、1993年
「クロニック世界全史」講談社、1994年

更新 2004/2/13
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「朝鮮 地域からの世界史」

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892年 新羅が衰退(後三国時代へ)

 地方豪族や下級貴族らの力によって朝鮮半島を統一した新羅は、当初、中央貴族だけによる政治から地方豪族たちも同様の権限を持ちうる律令体制へと政治体制を変えていった。しかし、しだいに旧貴族と新興貴族・地方豪族とが王権をめぐって抗争するようになり、さらには、貴族たちが私兵を使って武力による王位簒奪さえ行うようになった。中央の地方に対する関心は薄らいでゆき、反乱・内乱の起きる時代となっていった。
 不十分であった律令体制もくずれていったものとみられる。

地方の対立抗争
 889年、真聖女王のときに、地方の実情を無視して律令の規定する徴税を命じると、これに反対する蜂起が全国各地で起った。しかし、新羅王朝にはもはやこれを鎮圧する力がなく、中央とは関係なく地方勢力どうしの対立抗争が始まった。
 892年ころに大きな勢力となっていたのは、次のものであった。
・完山(現在の全羅北道全州市)の甄萱(けんけん)
・北原(ほくげん・現在の江原道原州市)の梁吉(りょうきつ)とその配下の弓裔(きゅうえい)
・竹州(ちくしゅう・現在の京幾道安城郡竹山里)の箕萱(きけん)

後百済
 完山の甄萱(けんけん・キョオヌウォン)は自営農民の出で、軍人となり副将にまでなった。892年に西南地方の州や県を襲うとともに同志を糾合したところ10日で5千人も集まったという。そこで武珍州治を占領し、さらに完山州を奪ってここを根拠地とした。900年に後百済と称して官職などを設置し、「百済の義慈王(ぎじおう・百済の最後の王)の恨みをはらす」とのスローガンを掲げた。

高句麗
 北原の梁吉の配下にいた弓裔(きゅうえい)は、新羅の憲安王の子であったが、生まれたときから歯がはえ眼は異常な光を放っていたため、国に災禍をもたらす前兆だというので、王宮の外へ出され、世達寺の僧になっていた。学問は好まず、性格も素直でなかったという。
 寺を出て、はじめ箕萱のもとに走ったが、梁吉の部下に移って戦功をたてた。王子が反乱を起こしたという噂が重なって、彼の名は全国に知れわたり、勢力も大きくなった。
 梁吉と対決する羽目となり、先手を打って攻め大勝した。そこで、国号を後高句麗と称した。901年のことである。

後百済と後高句麗の戦い
 甄萱(後百済)は、大耶城(だいやじょう)を攻め、徳津浦(とくしんぼ)で弓裔(後高句麗)と戦い、旧百済領の大半を支配したが、909年、弓裔に珍島を奪われ、翌910年、錦城も取られ。中国や日本への海上交通路を遮断された。

高麗
 911年に弓裔の後高句麗は国号を泰封に改めた。王となっても弓裔の歪んだ性格は治らず、疑い深くなり罪のない部下をしばしば斬罪に処し人望を失っていった。
 918年に、弓裔の部下であった王建(おうけん・ワンクウォン)が叛旗をひるがえし、兵たちがみな王建につくと、弓裔は平民の服を着て城をのがれて山にこもったが、まもなく農民にみつかり斬殺されたという。
 王建は開城の豪族の子で、弓裔が梁吉の部将であったころにその部下となっていた。王建はみずから高句麗人の後孫だと称し、国号を高麗とし、都を開城に定めた。

後百済高麗の戦い
 918年、王建が高麗を建国すると、甄萱(後百済)は使節を送って和議を結んだ。
 924年、甄萱(後百済)は子の須弥強(すみきょう)に、高麗の曹物城を攻めさせた。翌925年も曹物城をめぐって攻防が行なわれたが決着がつかず、和議を結んで人質を交換した。
 927年、後百済の人質が突然死んだこともあって、再び戦いとなった。甄萱(後百済)は、竹領に近い近品城を攻めるとともに、新羅の高欝府(こううつふ・現在の慶尚南道蔚山市)を襲い、さらに新羅の王都慶州を襲った。新羅の景哀王は殺され(注:甄萱の前に引き出されて自刃したとする文献もある)、王都慶州は壊滅的な打撃をうけた。甄萱は、景哀王の一族である金傅(ふ)を王位につけて引き上げた。敬順王である。
 その後、甄萱は、旧加羅地方を手中に収め、義城府を落とし、古昌郡にせまった。
 930年、甄萱と王建は、古昌郡瓶山の麓で戦い、王建が大勝した。その後、高麗後百済を運州で破り、しだいに圧迫していった。

新羅の滅亡
 935年10月、新羅の敬順王は太子や群臣を集めて、「高麗に降伏しようと思う」と胸中を明かした。このとき、太子は戦わずに降伏することに反対したが、王は「負けるとわかっている戦で民百姓を苦しめたくない」として降伏を決めた。太子はその場で席を立ち、皆骨山(金剛山の別名)に入り、麻衣を着、草を食べて生涯を終えたという。「麻衣太子(マイテジァ)」として有名だという。
 降伏の文書を受け取った王建は、礼を尽くして敬順の一行を迎え入れた。敬順には王建に次ぐ高麗太子よりも上の位を与え、宮殿を与えて、敬順の長女を王建の妻とした。

後百済の滅亡
 935年3月、後百済の甄萱はその子の神剣らと対立し、甄萱は金山寺に幽閉され、神剣が大王と称した。
 甄萱は宿敵の王建に助けを求めた。王建は即座に救出を命じ、甄萱は密かに救出されて高麗の王都である開城へ移された。
 936年、甄萱と王建は、10万人の大軍を率いて後百済へ向かった。一善郡の一利川の戦いで、後百済の軍は殲滅され降伏した。神剣王とその兄弟は捕らえられて、後に殺された(注:王建は神剣に対しても官位を与えて抱擁した、としている文献もある)。こうして後百済は滅亡し、王建の高麗によって三国が統一された。
 甄萱は、尚夫の尊号を与えられ、邸宅・食邑なども給付された。のちに、論山のある仏寺にはいって生涯を終えた。

【参考ページ】
356年 新羅の建国
676年 新羅の三国統一
892年 新羅が衰退(後三国時代へ)・・(このページ)
935年 新羅の滅亡

参考文献
古代朝鮮 NHKブックス172」井上秀雄著、日本放送協会、1972年
「物語 韓国史」金両基著、中公新書、1989年
朝鮮史 新書東洋史10」梶村秀樹著、講談社現代新書、1977年
「朝鮮 地域からの世界史1」武田幸男・宮嶋博史・馬渕貞利著、朝日新聞社、1993年
「クロニック世界全史」講談社、1994年

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935年 新羅の滅亡

 新羅王朝が国内の武装蜂起を鎮圧する力もなくなると、中央とは関係なく地方勢力どうしの対立抗争が始まった。そのなかから大きな勢力となっていたのものは、甄萱(けんけん・キョオヌウォン)の後百済と、弓裔の後高句麗で、後高句麗は国号を泰封に改めたのち、王建(おうけん・ワンクウォン)の高麗にとって代わられた。
 新羅後百済高麗が並び立ち、「後三国時代」と呼ばれる。

景哀王
 927年、後百済の軍が王都慶州に迫ってきたとの知らせを受けた新羅の景哀王は、高麗の王建に援軍を求めた。王建が兵を送ろうとしていたとき、甄萱はそれに気づいて先に新羅の王都を攻めた。
 後百済新羅の王都を襲ったとき、景哀王は南山の西麓にある鮑石亭で王妃や宮女たちと酒宴を楽しんでいたという。そこへ甄萱を先頭にした後百済の兵が押し寄せ、景哀王は王妃を連れて離宮へ逃げるのがやっとだった。後百済の兵は、男たちを見境なく討ち殺し、宮女たちは手当たり次第に乱暴されたという。景哀王は追っ手に捕まって、甄萱王の前に引き出されて殺された(注:甄萱が自刃を強要し、自ら命を絶ったとする文献もある)。甄萱は、景哀王の一族である金傅(ふ)を王位につけて引き上げた。敬順王である。
 王都慶州は壊滅的な打撃をうけた。

敬順王
 927年、高麗王の王建は、わずか50余騎の兵を伴って、新羅の王都を訪ねた。大軍の兵をつれてやってくると思っていた新羅の人々を驚かせた。王建の滞在中、高麗の兵は規律正しく乱暴をはたらく者はなかったという。新羅の敬順王は、しだいに王建の人柄に惹かれていったらしい。
 935年10月、敬順王は太子や群臣を集めて、「高麗に降伏しようと思う」と胸中を明かした。このとき、太子は戦わずに降伏することに反対したが、王は「負けるとわかっている戦で民百姓を苦しめたくない」として降伏を決めた。太子はその場で席を立ち、皆骨山(金剛山の別名)に入り、麻衣を着、草を食べて生涯を終えたという。「麻衣太子(マイテジァ)」として有名だという。
 降伏の文書を受け取った王建は、礼を尽くして敬順の一行を迎え入れた。敬順の一行は三里もつづいたという。敬順は王建に次ぐ高麗太子よりも上の位を与えられ、宮殿も与えられて群臣たちも迎え入れられた。敬順の長女は王建の妻に迎えられた。
 こうして、新羅は血を流さずに禅譲されて滅亡した。

【参考ページ】
356年 新羅の建国
676年 新羅の三国統一
892年 新羅が衰退(後三国時代へ)
935年 新羅の滅亡 ・・・・・・・・・(このページ)

参考文献
古代朝鮮 NHKブックス172」井上秀雄著、日本放送協会、1972年
「物語 韓国史」金両基著、中公新書、1989年

2004/2/13
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新羅の歴史年表

※新羅時代:B.C 57年~ A.D 995年まで約992年間56代の王。
王名 在位(期間) 参考
1 朴赫居世 B.C 57 ~ A.D 4 13才で王になり国の名前を徐羅伐と称した。王陵は慶州新羅五陵。
2 南解次次雄 4~24 朴赫居世の長男。※新羅は王の称号を使う前には次次雄、居西干、尼師今、麻立干を使用。王陵は慶州新羅五陵。
3 儒理尼師今 24~57 南解王の息子。王陵は慶州新羅五陵。
4 脫解尼師今 57~87 昔脫解。南解王の婿。王陵は慶州市東川洞の脫解王陵。
5 婆娑尼師今 80~112 儒理王の次男。王陵は慶州新羅五陵。
6 祗摩尼師今 112~134 婆娑王の息子。
7 逸聖泥師今 134~154 儒理王の長男という説がある。
8 阿達羅尼師今 154~184 逸聖王の長男。母は朴氏で支所禮王の娘。 妃も朴氏で祗摩尼師今の娘である內禮夫人。新羅末期の 神徳王(53代)、景明王(54代)、景哀王(55代)は阿達羅王の子孫である。
9 伐休泥師今 184~196 脫解王の孫。昔角干の息子。母は只珍內禮夫人金氏。阿達羅王が息子無しに死んで貴族によって推戴された。
10 奈解泥師今 196~230 伐休王の孫。昔伊買の息子。妃は11代助賁王の姉の娘。
11 助賁尼師今 230~247 伐休王の孫。母は玉帽夫人金氏。妃は10代奈解王の娘阿爾兮。
12 沾解泥師今 247~261 伐休王の孫。助賁王の弟。
13 味鄒泥師今 262~284 慶州金氏の始祖金閼智6代孫。母は朴伊柒の娘朴氏。妃は光明夫人昔氏。沾解王が息子無しに死んで大臣たちの推戴で王になった。
14 儒禮泥師今 284~298 助賁王の長男。母は朴氏。
15 基臨泥師今 298~310 助賁王の孫や次男という説がある。
16 訖解泥師今 310~356 奈解王の孫。母は助賁王の娘命元夫人昔氏。基臨王が息子無しに死んで貴族によって推戴された。
17 奈勿麻立干 356~402 味鄒王の甥であり婿。母は休禮夫人金氏。妃は味鄒王の娘保反夫人金氏。新羅の古代国家を整備し以後金氏が王位を世襲した。
18 實聖麻立干 402~417 母は昔登保の娘伊利夫人昔氏。妃は味鄒王の娘 阿留夫人金氏。
19 訥祗麻立干 417~458 父は奈勿王。母は味鄒王の娘保反夫人金氏。妃は實聖王の娘金氏。實聖王は高句麗へ人質として送った訥祗王を殺すつもりだったが高句麗の力を借りた訥祗王は實聖王殺して王になった。
20 慈悲麻立干 458~479 訥祗王の長男。母は實聖王の娘金氏。妃は訥祗王の弟金未斯欣の娘金氏。470年に三年山城を築城。
21 炤知麻立干 479~500 慈悲王の長男。母は訥祗王の弟金未斯欣の娘金氏。妃は善兮夫人金氏。
22 智證王 500~514 姓名は金智大路。奈勿王の曾孫。母は訥祗王の娘金氏。 503年に国号を新羅とし、王の称号を使い始めた。512年には異斯夫を使い于山國を服属させた。
23 法興王 514~540 姓名は金原宗。父は智證王。母は延帝夫人朴氏。妃は保刀夫人朴氏。532年に金官伽倻の 金仇亥が家族を連れて降伏してきた。異次頓の殉教によって仏教を公認した。
24 眞興王 540~576 姓名は金三麥宗。父は法興王の弟金立宗。母は法興王の娘息道夫人金氏。妃は思道夫人朴氏。562年に大伽倻を滅亡させた。
25 眞智王 576~579 姓名は金舍輪。眞興王の次男。母は思道夫人朴氏。妃は知道夫人朴氏。
26 眞平王 579~632 姓名は金白淨。父は眞興王の息子金銅輪。母は金立宗の娘萬呼夫人金氏。妃は摩耶夫人金氏。
27 善徳女王 632~647 姓名は金徳曼。眞平王の長女。母は摩耶夫人金氏。眞平王が息子無しに死んで貴族会議で女王になった。
28 眞徳女王 647~654 姓名は金勝曼。父は眞平王の弟。母は月明夫人朴氏。
29 武烈王 654~661 姓名は金春秋。祖父は眞智王。父は眞智王の次男金龍春。母は眞平王の長女天明婦人金氏。妃は金庾信の妹文明夫人金氏。660年に百済を滅亡させた。
30 文武王 661~681 姓名は金法敏 。武烈王の長男。母は金庾信の妹文明王后金氏。妃は慈儀王后金氏。668年に高句麗を滅亡させ、678年に唐の勢力を追い払い三国統一。
31 神文王 681~691 姓名は金政明。文武王の長男。
32 孝昭王 692~702 姓名は金理洪。神文王の長男。
33 聖徳王 702~737 姓名は金興光。神文王の次男。
34 孝成王 737~742 姓名は金承慶。聖徳王の次男。
35 景徳王 742~765 姓名は金憲英。父は聖徳王。孝成王の弟。751年に金大城が仏国寺を建立。
36 惠恭王 765~780 姓名は金乾運。景徳王の長男。
37 宣徳王 780~785 姓名は金良相。奈勿王の10代孫。母は聖徳王の娘四炤夫人金氏。
38 元聖王 785~798 姓名は金敬信。奈勿王の12代孫。母は繼烏夫人朴氏。
39 昭聖王 798~800 姓名は金俊邕。父は元聖王の太子金仁謙。
40 哀莊王 800~809 姓名は金淸明・金重熙。摂政していた叔父金彦昇に王位を奪われる。
41 憲徳王 809~826 姓名は金彦昇。父は元聖王の太子金仁謙。甥の哀莊王を殺して王になった。
42 興徳王 826~836 姓名は金秀宗。憲徳王の弟。828年に張保皐によって淸海鎭が設置された。
43 僖康王 836~838 姓名は金悌隆。 興徳王の死後叔父の金均貞を殺して王になった。
44 閔哀王 838~839 姓名は金明。金明が起こした乱で僖康王が自殺し王になった。
45 神武王 839 姓名は金祐徵。僖康王の從弟。
46 文聖王 839~857 姓名は金慶膺。父は神武王。4代孫金億廉の娘は高麗の太祖王建の嫁になる。4代孫金孝宗は56代敬順王の父。
47 憲安王 857~861 姓名は金誼靖。神武王の腹違いの弟。
48 景文王 861~875 姓名は金膺廉。憲安王の婿。僖康王の孫。妃は憲安王の娘文懿王后。
49 憲康王 875~886 姓名は金晸。景文王の長男。
50 定康王 886~887 姓名は金晃。景文王の次男。眞聖女王の兄。
51 眞聖女王 887~897 姓名は金曼。父は景文王。母は憲安王の長女寧花夫人金氏。統一新羅は後三国時代として分裂し始めた。
52 孝恭王 897~912 姓名は金嶢。憲康王の庶子。900年には甄萱が後百済の王を名乗り、901年には弓裔が後高句麗の王を名乗り始めた。
53 神徳王 913~917 姓名は朴景暉。8代阿達羅王の子孫。孝恭王が跡継ぎ無しで死んで貴族の推戴によって王になった。
54 景明王 917~924 姓名は朴昇英。父は神徳王。母は憲康王の娘義成王后。918年王建が弓裔を除去し高麗を建国した。
55 景哀王 924~927 姓名は朴魏膺。景明王の弟。927年甄萱の襲撃を受け自殺した。
56 敬順王 927~935 姓名は金傅。文聖王の6代孫。927年に甄萱によって王にさせられたが、935年に高麗太祖王建に降伏し王建の娘樂浪公主と結婚する。