李氏朝鮮時代

朝鮮半島の歴史(朝鮮_)追加
1392''朝鮮王朝、朝鮮時代(1392~1897)
朝鮮時代(1392~1897)''(朝鮮、李氏朝鮮_)
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13921392年~1637年:明(属国)(朝鮮_よいこの正しい半島歴史年表)編集
1392高麗滅亡、李氏朝鮮成立(~1910)(朝鮮、高麗李氏朝鮮_)編集
1392李氏朝鮮の建国(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1392朝鮮の歴史朝鮮半島の歴史/1392(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1392朝鮮王朝[1392~1910年]
15世紀に権力構造が改編され、中央集権体制が強化された。(朝鮮、李氏朝鮮_)
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1392朝鮮半島の歴史/1392(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1392李氏朝鮮王朝建国(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1392李氏朝鮮(1392~1897)
・一割もいない両班・貴族階級が、中人、常民、賎民、奴婢を支配・樽も車もなく、庶民は白い服しか着なかった・商店も貨幣もない実物経済、御用証人のみ
朝鮮は、14世紀末に建国されました。儒教が国の基本理念となり、朝鮮社会全般に大きな影響を与えました。1443年には世宗大王によりハングルが作られました。1592年に壬辰倭乱(文禄・慶長の役)が始まると共に諸外国の勢力が侵入してきたことにより、朝鮮の国力は次第に衰退していきました。
モンゴル帝国(元)からの独立を勝ち取った高麗。しかし、この高麗も倭寇(海賊)などの活動により衰退していくことになります。この倭寇の撃退で名を馳せたのが高麗の武将・女真人の李成桂(りせいけい)でした。
李成桂は、1392年に自ら高麗の王に即位します。李成桂は、王に即位すると国号を「朝鮮」としました。ちなみに、朝鮮という呼び名は、以前にも「箕子朝鮮・きしちょうせん」や「衛氏朝鮮・えいしちょうせん」という呼び名がありましたので日本では、これらと分けるために李朝朝鮮または李氏朝鮮と呼ぶことがあります。
この李朝朝鮮の首都は漢城(ソウル)です。
李成桂は、進んで明(中国)の文化や制度を取り入れ、明にならい朱子学(しゅしがく)を官学化したりもしました。今の韓国の国旗は「太極旗」といいますが、あれは朱子学の世界観を図解化したものですね。
15世紀に権力構造が改編され、中央集権体制が強化された。(朝鮮、李氏朝鮮_)
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13921392年朝鮮建国高麗(??)の武将、李成桂(???)は、自ら高麗王につき、翌1393年には、国名を「朝鮮」(??)と改称し、首都を漢陽(今のソウル)に移した。その後、数代にわたり、国としての各種制度・体制を整備していくが、王位継承のもつれから、うちのめされた李成桂は、晩年、仏門に帰依することになる。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
13921392李成桂が高麗の恭譲王から王位を簒奪し、高麗王に即位、明より権知高麗国事として認められる、(権知高麗国事:高麗の政治をあずかっていると云う地位)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
13921392年自ら即位し李氏朝鮮を興し、ここに、高麗は、474年の幕を下ろすことになった。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
13921392年日本では、南北朝が合一。元が滅んで明の時代になると、倭寇や元を見限り明につき元との戦いで功績をあげた李成桂が立ち上がり、1392年に高句麗を王となる。李成桂は、王位につくやすぐさま、当時誕生したばかりの明王朝に伺いを立て国号を決めて貰っている。李成桂は明から権知朝鮮国事(朝鮮・李氏朝鮮初代の王)に封ぜられた。この時、李成桂は、箕氏朝鮮の旧号「朝鮮」と李成桂の生地「和寧」の二つの名前を持ち出し、明の太祖の朱元璋から「朝鮮」の国号を使うことを許されている。世界史の中で様々な国が存在するが、他国に自国の国号を決めて貰った国など、後にも先にも朝鮮ただ一カ国である。本来ならこの一時を持って、朝鮮が中国の属国であった事を、何よりも物語っているのだが、韓国人はこれでもまだ朝鮮が中国の属国であったことを認めないのである。都は漢陽(ソウル)である。朝鮮は約500年続き、明の朝貢国の時代(1393~1637年)、清の朝貢国の時代(1637~1894年)、欧米や日本が干渉した時代(19世紀後半~1910年)に分けられる。李成桂は儒教を崇拝し、仏教を排斥する政策をとった。しかし、彼は晩年に仏門に帰依するなど儒教も仏教も保護された。明の朝貢国の時代には、文禄・慶長の役と清の侵攻の大きな戦争が発生し国土は焦土と化した。李氏朝鮮(1393~1896)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1392高麗滅亡.李成桂,朝鮮建国(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1392科田法実施.全国の土地の大部分を国家の収租地とする(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1392近世社会?(~1863)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1392朝鮮時代*1392年高麗(??)の武将、李成桂(???)は、自ら高麗王につき、翌1393年には、国名を「朝鮮」(??)と改称し、首都を漢陽(今のソウル)に移した。その後、数代にわたり、国としての各種制度・体制を整備していくが、王位継承のもつれから、うちのめされた李成桂は、晩年、仏門に帰依することになる。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1392李成桂、王位に就く、高麗王朝滅亡。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1392李成桂が高麗の恭譲王から王位を簒奪し、高麗王に即位、明より権知高麗国事として認められる、(権知高麗国事:高麗の政治をあずかっていると云う地位)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1392高麗滅亡.朝鮮建国(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1392高麗、鄭夢周が暗殺される(朝鮮、高麗_)編集
13931393李氏朝鮮(1393~1896)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
13931393李成桂が権知朝鮮国事に冊され、国号が朝鮮となる、明の皇帝から、新たな国号を「朝鮮」と「和寧」の二案から選んでもらうという形式的手順を踏んだ、内乱(~1400)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1393国号を朝鮮とする(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1393李成桂が権知朝鮮国事に冊され、国号が朝鮮となる、明の皇帝から、新たな国号を「朝鮮」と「和寧」の二案から選んでもらうという形式的手順を踏んだ、内乱(~1400)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1394開城から漢陽(現、ソウル)に遷都(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1394漢陽遷都(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1396倭寇の本拠地、対馬に軍隊を派遣、政治と軍事を分離した議政府をつくり、中央集権制度の確立(朝鮮、李氏朝鮮_対馬)編集
1398第一次王子の乱.五男芳遠,世子冊封に不満を抱き反乱(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1399奴婢弁正都監設置.奴婢の戸籍を管理(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1400第二次王子の乱.芳遠の実兄芳幹の乱.芳遠により鎮圧(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
14011401明より朝鮮国王の冊封をうける(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1401申聞鼓設置.民衆が自由に請願できる制度(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1401明より朝鮮国王の冊封をうける(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
14021402年号牌法の実施(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
140216歳以上の男性に身分を問わず身分証(牌)を携帯させる,号牌法実施(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1402号牌法を実施(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1402号牌法実施(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1403朝鮮で活字ができる(朝鮮_)編集
1403鋳字所設置(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1403鋳字所設置(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1404室町幕府と国交回復、日朝貿易盛んとなる(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1408李成桂死去.73歳(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1411漢陽に,人文機関である五部学堂設置.文化水準を高める(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1411漢陽に五部学堂設置(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1413「太祖実録」を編纂.以来,歴代王朝の実録編纂続く(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1413朝鮮八道の地方行政組織を完成.中央集権体制を確立(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1413両界地域に道制を施行する(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1413朝鮮八道の地方行政組織完成(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1413「太祖実録」を編纂(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1416四都設置(-1443)(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1418《太宗が譲位して、世宗が即位(~1450)》、(儒教の推進による王道政治、現在の朝鮮領土の原型ができる)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1418世宗が即位(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1418朝鮮王朝第4代王,世宗即位(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1418世宗即位(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1419朝鮮、倭寇征伐を理由として対馬を侵略する。日本、侵略した朝鮮を撃退。(応永の外寇)(朝鮮、李氏朝鮮_対馬)編集
1419応永の外冦.倭冦の被害に対し,対馬島を攻撃(朝鮮、李氏朝鮮_対馬)編集
1420集賢殿拡張.学問的作業だけでなく人材の養成と新文化の定着を図る(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1420集賢殿拡張(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1423高麗史」編纂.高麗時代の歴史を自主的な視点で整理(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1426三浦に倭館を設置し、常住を許可する(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1433鴨緑江方面に四郡設置.女真族の侵入を防ぐ(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1433朝鮮初期の医書「郷薬集成方」完成.旧来の朝鮮医書の集大成(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1433四軍設置(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
14341437六鎮設置(-1449)(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1437豆満江方面に六鎮設置.北方の城壁となし安全を図る(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1438日時計製作(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1441世界初の測雨器製作.全国各地の降雨量測定(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1441測雨器製作(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1442朝鮮独自の暦書「七政算内編」作製(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
14431443年対馬の宗氏、朝鮮と嘉吉条約を結び通商再開。※応仁の乱の最中も無関係に通商。(朝鮮、李氏朝鮮_対馬)編集
14431443年第四代国王、世宗(??)の時代は、朝鮮時代の中でも王権が強固で権威も行き届いており、もっとも安定した時代とされている。この年、世宗王はハングルの基になる訓民正を制定するも、集賢殿の副提学であった雀萬理は「昔から中華の土地では風土が異なっても方言を文字にした例はない」と批判。これに対し世宗は「これは文字ではないので、中華に対しての反逆ではない。訓民正音である。」※訓民正音とは愚かな民に発音を教える記号のこと。
また、この李朝で何と言っても覚えておきたいのがハングル(訓民正音)の制定です。これを制定したのは14431146年のこと。制定したのは第4代国王・世宗(せいそう)の時代でした。(朝鮮、李氏朝鮮_)
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1443訓民正音(ハングル)を草案(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1443訓民正音(ハングル)創製(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1443訓民正音の制定(1446年公布)、歳遺船(年間渡航許可船)の制度を定める(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1443第四代国王、世宗(??)の時代は、朝鮮時代の中でも王権が強固で権威も行き届いており、もっとも安定した時代とされている。この年、世宗王はハングルの基になる訓民正音が作られた。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1443癸亥約条(嘉吉条約).対馬の宗氏に通交貿易の条件を与える(朝鮮、李氏朝鮮_対馬)編集
1443「訓民正音」創製(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1445義塩法制定.義塩色という官庁を設け,塩の流通を国家が管理(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1446「訓民正音」としてハングル文字が公布(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1446義塩色廃止.私売買を禁止.民衆の不満を買う(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1446訓民正音(ハングル)を公布(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1446「訓民正音」領布(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1450世宗死去.53歳(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1453癸酉靖難、首陽大君の王位纂奪、首陽大君(のちの第7代国王・世祖)が朝廷大臣たちを殺し,政権を掌握(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1455首陽大君,端宗を退け第7代王世祖に上がる(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1456丙子冕獄(死六臣が処刑される)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1466現職官吏だけに土地を支給する,職田法実施(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1466職田法(官職についているものだけに田地の給付)の制定(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1466職田法実施(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1467応仁の乱起こる(~77)1467(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1467李施愛の乱.中央文臣中心の政治に地方豪族が不満(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1468世祖が崩御し睿宗即位(1469年に崩御)、南怡の謀叛事件が起こる(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1469「経国大典」完成.朝鮮独自の法典を編纂.統治規制を成文化.(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1470成宗の治世に『経国大典』頒布、朝鮮王朝の諸法体系化の完成をみる(~19世紀末)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1470「経国大典」完成(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1485経国大典完成(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
14851169「経国大典」完成(-1449)(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1498士林派に対する弾圧が始まる(戊午士禍)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1498戊午士禍(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1504甲子士禍.燕山君,母の廃妃関連者を処刑(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1504甲子士禍が起こる(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1506燕山君がクーデターにより失脚し、中宗が即位(中宗反正)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1506朴元宗の乱.燕山君廃位追放.晋城大君が中宗に即位(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1510三浦の乱、日本人居留民と朝鮮人が交戦。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1510在朝日本人の貿易活動等を統制したため、三港で日本人と援軍の宗軍による暴動が起こる(三浦の乱)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1510三浦の乱が起こる(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1510三浦倭乱.三浦で起こった日本人居留民の暴動事件.日本との通交中断(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1510三浦の乱が起こる(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1510三浦倭乱(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1510三浦の乱(さんぽのらん)李氏朝鮮の三浦(釜山浦・薺浦・塩浦)で起きた対馬の宗氏・恒居倭人(こうきょわじん-貿易の為に朝鮮に居留している日本人)の反乱。(朝鮮、李氏朝鮮、日本_対馬)編集
1512壬申約条締結.足利幕府と結ぶ.倭人の出入りを制限(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1512壬申約条(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1519己卯士禍.趙光祖の改革に対する中宗と勲旧勢力の親衛クーデター(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1519己卯士禍が起こる、(趙光祖の改革政治が挫折)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
15431543年白雲洞書院設立(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1543白雲洞書院(最初の書院)建造.儒教精神の定着に力を注ぐ(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1543白雲洞書院を建造建てる(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1545乙已士禍(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1545仁宗崩御(在位1544年~1545年)、明宗即位乙巳士禍が起こる(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1547丁未約条.倭人との交易を許すが規制を強化(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1549ザビエル来日1549(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1554軍事機構,備辺司設置.倭冦と女真族の侵入に備える(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1554備辺司設置(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
15551555備辺司設置(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1555乙卯倭変.三浦倭乱による貿易規制に対し,倭人が全羅道の一部を占領(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1555備辺司設置(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1555乙卯倭変(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
15591559林巨正の乱(~1562)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1559林巨正の乱(~1562)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1559林巨正の乱.民衆を代弁する義賊.3年間(~1562)政府を悩ます(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
15671567《宣祖即位》、勲旧派の終焉、以後、士林派(新進官僚による政治勢力)同士の対立が続く(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1567《宣祖即位》、勲旧派の終焉、以後、士林派(新進官僚による政治勢力)同士の対立が続く(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1573室町幕府滅亡1573(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
15751575東人・西人の党争の始まり(乙亥党論)、陶山書院建立(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1575東人・西人の党争の始まり(乙亥党論)、陶山書院建立(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1575東人派と西人派の対立(党争の始まり)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1575東人派と西人派の対立(党争の始まり)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1582マリ,済州島漂着(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1582マリ、済州島漂着(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
15871587年九州の平定。伴天連追放令(豊臣秀吉)朝鮮国王に入貢要求。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
15881588年海賊停止令。琉球国王に入貢要求。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
15891589鄭汝立の乱(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
15891589年中国征服を狙う豊臣秀吉は、朝鮮に明征討の先鋒になるよう要求してきた。朝鮮は日本の真意を確認するため通信使を派遣した。帰朝した通信使は、「日本は侵攻の準備をしている」と報告したが、「秀吉を恐れる必要はない」との報告もあり、結局、防衛準備を行わなかった。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1589鄭汝立の乱(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1590豊臣秀吉の全国統一1590(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
15911591年豊臣秀吉、インド副王(ポルトガル総督)に入貢要求。この時、スペイン国王にも入貢要求フィリピンに入貢要求。唐陣(朝鮮出兵)を命じる。(朝鮮、李氏朝鮮、インド、スペインフィリピン、日本_)編集
1592文禄の役
この頃、日本では、豊臣秀吉が日本を統一し、更に勢力拡大のため、大陸進出をはかろうとしていた。そして、1592年、いわゆる文禄の役が発生し、たちまちにして、首都漢城(ソウル)を攻略してしまう。当時腐敗が進んでいた朝鮮は、なすすべもなく、国土を疲弊してしまった。やがて、中国から明の援軍が進出して、戦線は膠着し、和議交渉を試みるが失敗に終る。1597年、日本は再度侵攻し、慶長の役が勃発する。しかし、秀吉の健康が損なわれ、戦争が泥沼状態になり、やがて、秀吉の死去によって、この7年に及ぶ戦乱は終結する。この動乱により、朝鮮は、政治的にも、経済的にも、また社会的にも、壊滅的な状態に追いやられ、破綻寸前に陥った。(朝鮮、李氏朝鮮_)
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15921592壬辰の倭乱・丁西の倭乱(~1598:豊臣秀吉の2度の朝鮮侵攻で、全国土が戦乱の被害をうける)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1592壬辰倭乱(文禄の役)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
15921592年壬辰倭乱この朝鮮に対して豊臣秀吉が侵略のために軍を派遣します。「文禄・慶長の役」ですね。朝鮮の人々がいうところの「壬辰・丁酉(じんしん・ていゆう)の倭乱」です。この秀吉軍に激しく対抗し、活躍したのが朝鮮海軍の李舜臣(イスンシン)でした。韓国には現在でも英雄であり、銅像がいたるところに立っています。この秀吉の朝鮮侵略の計画は、秀吉の死により日本軍の撤退という形で終わりを告げますが、朝鮮にとっても大きな打撃となりました。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
15921592年(文禄元年)文禄の役この頃、日本では、豊臣秀吉が日本を統一し、更に勢力拡大のため、大陸進出をはかろうとしていた。日本軍が釜山に上陸し、いわゆる文禄の役が発生し、体制の整わない朝鮮軍は各地で破れ、たちまちにして、首都漢城(ソウル)を攻略し、数ヶ月で朝鮮全土が制圧された。釜山近くの蔚山城の戦いが有名。加藤清正はこの時虎退治をした。当時腐敗が進んでいた朝鮮は、なすすべもなく、国土を疲弊してしまった。朝鮮の国境、豆満江を越えて、満州のオラニンイ(ワルカ)へ支援要請を受けた明軍が到着し、義勇軍が立ち上がると戦線は膠着した。そして、一旦休戦し3年におよぶ和平交渉が始まったが決裂。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1592閑山島大捷.李瞬臣勝利(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1592壬辰の倭乱・丁西の倭乱(~1598:豊臣秀吉の2度の朝鮮侵攻で、全国土が戦乱の被害をうける)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1592壬辰倭乱(文禄の役).1回目の倭国秀吉軍の侵略.漢城陥落(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1592壬辰倭乱、閑山島大捷(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
159253朝鮮出兵の一番隊、小西行長・加藤清正が漢城(現在のソウル)に入城(日本、朝鮮_)編集
1593幸州大捷(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1593幸州大捷(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
15971597年慶長の役日本は再び侵攻してきた。北上する日本軍を漢城付近で明軍が迎え撃ち、泥沼の戦いが続いた。しかし、秀吉の健康が損なわれ、戦争が泥沼状態になり、やがて、秀吉の死去によって、この7年に及ぶ戦乱は終結する。この動乱により、朝鮮は、政治的にも、経済的にも、また社会的にも、壊滅的な状態に追いやられ、破綻寸前に陥った。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1597丁酉再乱(慶長の役).2回目の秀吉軍の侵略.(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1597丁酉倭乱(慶長の役)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1597丁酉再乱(慶長の役)が起こる(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1598秀吉死去.倭軍撤収始める(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
15991599年秀吉が死去し、日本軍は撤退した。現地の土地を出兵した者がのぞまないため、負けという形になった。この戦乱で朝鮮は崩壊寸前まで追いやられ、明も国力は弱体化し、滅亡の遠因になった。
朝鮮出兵→本当は「明」への出兵、唐陣。「明」←→中原のみの国(朝鮮、李氏朝鮮_)
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15991599年秀吉が死去し、日本軍は撤退した。現地の土地を出兵した者がのぞまないため、負けという形になった。この戦乱で朝鮮は崩壊寸前まで追いやられ、明も国力は弱体化し、滅亡の遠因になった。朝鮮出兵→本当は「明」への出兵、唐陣。「明」←→中原のみの国(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1599露梁大捷.李瞬臣流れ弾に当たり戦死.7年間の戦乱を終える(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1600関が原の戦い1600(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1603江戸幕府成立1603(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1607回答兼刷還使を日本へ派遣する(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
16071607年日本との関係は。秀吉の死後、朝鮮通信使が日本に送られ関係を修復しました。朝鮮通信使→人質奪還のための使節。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1607日本と国交回復.朝鮮通信使始まる(~1811)(朝鮮、日本、李氏朝鮮_)編集
1608京幾道で大同法を実施(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1608京畿道に大同法実施.土地の結数によって米,布,銭で税を貢納(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1608光海君が即位。北人政権が成立。京畿道に大同法を実施(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1608京畿道に大同法実施(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1609李氏朝鮮と対馬の宗氏との間で己酉約条(慶長条約)が結ばれ、貿易が再開される(朝鮮、李氏朝鮮_対馬)編集
1609その後も、王位継承をめぐる争いは、断続的に発生し、紆余曲折があるが、1609年になって、日本と和約し、外交面での修復が展開されていく。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1609日本と和約し外交関係の修復にも力を入れた(朝鮮通信使)。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1609己酉約条締結.対馬の宗氏に通交貿易許す.富山(釜山)浦に再び倭館設置(朝鮮、李氏朝鮮_対馬)編集
1609日本と己酉約定締結(朝鮮、日本、李氏朝鮮_)編集
1609日本と己酉約条締結(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1610朝鮮の伝統医学の集大成「東医宝鑑」完成(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1610「東医宝鑑」完成(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1611量田実施.農地の実情を調査し国家財源の増大に努める(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1613七庶の獄(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1616光海君の明・金中立外交(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1616中国では明が衰え、満州に後金が独立した。#style(class=box_black_swm){{満州・・・非漢字国満州人満州語・・アルタイ語系文字}}(朝鮮、李氏朝鮮後金:清_)編集
1616中国では明が衰え、満州に後金が独立した。
満州・・・非漢字国満州人満州語・・アルタイ語系文字(朝鮮、李氏朝鮮後金:清_)
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1616琉球から煙草輸入される(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1619サルホの戦いで後金軍に敗れる(朝鮮、李氏朝鮮後金:清_)編集
1623仁祖反正で光海君廃位(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1623仁祖反正(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1623仁祖反正.西人派が北人派を一掃し,仁祖を王に擁立する武力政変(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1624李 (ファル)の乱(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1624李 の乱.仁祖反正後の論功行賞に対する不満(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1624李 の乱(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
16271627丁卯胡乱(後金の朝鮮侵攻)(朝鮮、李氏朝鮮後金:清_)編集
16271627年後金(後の清)のヌルハチホンタイジ(女真人・満州人)は明と同盟関係にある朝鮮に侵攻してきた。朝鮮軍は敗北を重ね、皇帝は江華島へ避難した。その後、後金に服従することで講和が成立、交易開始、後金軍は撤退した。(朝鮮、李氏朝鮮後金:清_)編集
1627丁卯胡乱.後金(後の清)鴨緑江を越え侵入(朝鮮、李氏朝鮮後金:清_)編集
1627丁卯胡乱(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1628オランダ人ベルテブレ,済州島漂着.帰化し朝鮮人女性と結婚(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1628ベルテブレ、済州島漂着(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1629平安道・黄海道の流浪民の明火賤集団により漢城攻略(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1631鄭斗源,明から千里眼,時計,鉄砲を伝える(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1631鄭斗源が明から千里鏡、時計自鳴鍾、鉄砲火砲などを輸入(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
16361636清のホンタイジが朝鮮に親征(丙子胡乱)、朝鮮国王仁祖、南漢山城に篭城、(後金、国号を清とする)(朝鮮、李氏朝鮮後金:清_)編集
16361636年丙子胡乱後金は国号を清とし、清に服従することと明討伐の派遣軍3万の提供を要求してきた。朝鮮はこれを拒否、清は12万の大軍で侵攻してきた。朝鮮軍はなすすべもなく40日あまりで降伏した。朝鮮は明と断交すること、王子を人質に差し出すこと、莫大な賠償金を支払うなどの屈辱的な講和条約を結ばされた。また、朝鮮王の仁祖は、清の皇帝の前で三跪九叩頭の礼を行い、服従する誓いをさせられた。【三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)】中国皇帝に臣下の礼をとるため、三度ひざまずき、九度頭を地にこすりつける儀式。(朝鮮、李氏朝鮮後金:清_)編集
1636丙子胡乱、清国への朝貢を行う(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1636丙子胡乱.清が君臣関係を要求し侵略.世子を人質として清へ送る(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1636丙子胡乱(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
 後金から清へ
 ヌルハチの建国したアイシン(後金)はしだいに周辺民族を制圧して、第2代のホンタイジの時の1636年に、中国風に国号を清に改め、さらに明が李自成の反乱で滅亡した後に北京に入り、李自成を討って1644年に中国全土を統一した。(朝鮮、李氏朝鮮後金:清_)
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16371637年~1897年:清(属国)(朝鮮_よいこの正しい半島歴史年表)編集
16371637仁祖(朝鮮王)降伏、明に替わり、清の皇帝を認める(大清皇帝功徳碑)、以後、1895年の下関条約締結まで、朝鮮は清に臣従する、小中華思想(朝鮮のみが、中華文明の継承者であるとする)が髙揚(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1637仁祖(朝鮮王)降伏、明に替わり、清の皇帝を認める(大清皇帝功徳碑)、以後、1895年の下関条約締結まで、朝鮮は清に臣従する、小中華思想(朝鮮のみが、中華文明の継承者であるとする)が髙揚(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1637清の北京に国家使節として燕行使派遣.1894年まで続く(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1645昭顕世子,清から化学,カトリック教などの洋書を伝える(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1645昭顕世子が清からカトリック書や科学書などを持ち帰る(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1645昭顕世子が清からカトリック書や科学書などを持ち帰る(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1645昭顕世子が清から科学書籍、カトリック書籍などの洋書を輸入(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1646林慶業の乱.下層民衆の反乱.失敗に終わる(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
165017世紀この頃の朝鮮半島は中国の清による冊封体制の中にありました。(朝鮮、清、李氏朝鮮_)編集
165017世紀前半清から攻撃を受け、朝鮮は清の属国となりました。朝鮮の朝貢物は女性(生口)(朝鮮、清、李氏朝鮮_)編集
1653ハメル,済州島漂着.後に脱出し「朝鮮幽囚記」を著す(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1653時憲暦採択.太陰暦と太陽暦を合わせて,二十四節気と1日の時間を計算(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1653ハメル、済州島漂着(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1653時憲暦採択(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
16541654年羅禅征伐(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1654第一次羅禪(ロシア)征伐.黒龍江へ侵略した羅禪を清の要請で撃退(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1658第二次羅禪征伐.朝鮮の鳥銃軍,再度ロシアを撃退(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1658第二次羅禅征伐(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1659胡西地方に大同法実施.民衆の税負担を減らす(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1659湖西地方に大同法実施(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
16601660己亥礼訟(礼論が起こる)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1660己亥礼訟(礼論が起こる)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1662堤堰司設置(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1662堤堰司設置(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1674甲寅礼訟により、南人が政権を握る(両班制度の中の党派争い)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1674甲虎礼訴が起こり、南人政権が成立(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1678常平通宝鋳造.朝鮮後期の法貨の誕生(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1678常平通宝鋳造(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
16801680庚申換局(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1680西人政権(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1680庚申換局.南人派が失脚し西人政権樹立.一党専制化始まる(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1680庚申換局(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1680酉人政権が成立(庚申換局)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1680酉人政権が成立(庚申換局)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
16831683西人が老論と少論に分裂(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1683西人が老論と少論に分裂(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1688京畿道楊州で弥勒信仰者が漢城に侵攻しようとするが失敗(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
16891689己巳換局(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1689己巳換局(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1689己已換局、西人政権が再び南人政権へ(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1689己已換局、西人政権が再び南人政権へ(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
16941694粛宗の治世に甲戌の獄起こる(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1694甲戌換局、西人が再び政権を掌握(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1694粛宗の治世に甲戌の獄起こる(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1694申戌換局.南人派が小論派除去に失敗して打撃を受ける(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1694甲戌換局、西人が再び政権を掌握(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1696安龍福,鬱陵島から日本人追放.独島(竹島)を朝鮮領土として主張(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1696安龍福、欝陵島から日本人を追放追い払う(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1697義賊,張吉山の乱.反政府活動を続けるが最後まで逮捕されず(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
170017世紀末
党派政争が次第に激しくなり、さまざまな、政策が打ち出され、王権の強化拡大策が試みられる。この頃、中国の清との間で領土問題が発生したり、日本との間では、鬱陵島やその周辺の島々の帰属問題が発生した。当時の江戸幕府は、鬱陵島を朝鮮の領土として承認する協定を締結した。現在、日韓で懸案の、竹島(独島)の帰属問題は、このときの協定内容に起因する争いである。(朝鮮、李氏朝鮮_)
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170017世紀末党派政争が次第に激しくなり、さまざまな、政策が打ち出され、王権の強化拡大策が試みられる。この頃、中国の清との間で領土問題が発生したり、日本との間では、鬱陵島やその周辺の島々の帰属問題が発生した。当時の江戸幕府は、鬱陵島を朝鮮の領土として承認する協定を締結した。現在、日韓で懸案の、竹島(独島)の帰属問題は、このときの協定内容に起因する争いである。(朝鮮、清、李氏朝鮮、日本_)編集
1708全国的に大同法施行.土地所有の程度により税を負担(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1708全国に大同法施行(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
17121712白頭山に定界碑を建立(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1712清との領界を定める白頭山定界碑建立(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1712白頭山に定界碑を建立(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1712白頭山定界碑建立(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1716享保の改革1716(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
17211721景宗の治世に、壬寅の獄起こる(~1722辛壬士禍)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1721景宗の治世に、壬寅の獄起こる(~1722辛壬士禍)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1724《英祖即位(在~1776)》(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
17251725年蕩平策実施(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1725圧膝刑や死者に罪を追加して再度殺す刑罰を禁止(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1725蕩平策実施.党争の悪弊を正し,王権の伸張と不偏不党を図る(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1725老論政権成立(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1725蕩平策実施(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1727丁未換局、少論政権成立(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
17281728李麟佐の乱(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1728李鱗佐の乱.政界から追放された過激派勢力が政権を奪取しようとする(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1728李麟佐の乱(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1729三覆法制定.死刑囚への初審,再審,三審を認める(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
17501750年均役法実施(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1750均役法実施.奴婢以外の成年男子に軍役を課し,身役と賦役の弊害を正す(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1750均役法実施される(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1750均役法実施される(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1750均役法実施(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1759「東史綱目」完成.正史の間違いを批判.野史も取り入れる(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
17621762英祖の治世に荘献世子事件起こる、精神を病んだ荘献世子が異常な行動を取り、王命により米櫃の中に閉じ込められ、餓死する(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1762英祖の治世に荘献世子事件起こる、精神を病んだ荘献世子が異常な行動を取り、王命により米櫃の中に閉じ込められ、餓死する(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
17631763年朝鮮通信使が日本からサツマイモを持ち帰り、朝鮮で食糧対策の一環として取り入れられた。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1763さつまいも日本より伝来(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1763朝鮮通信使が日本からサツマイモを持ち帰り、朝鮮で食糧対策の一環として取り入れられた。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1763さつまいもの伝来(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1772老中田沼意次、田沼時代が始まる1772(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1774個人の家での刑罰「濫刑」や,男性器を切り取る「鯨刺」禁止(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
17761776年奎章閣設置(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1776昌徳宮の北苑に奎章閣設置.文芸の中心機関となる(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1776奎章閣設置(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1782天明の大飢饉(~87)1782(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
17841784李承薫が天主教の書籍を持ち込む(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1784李承薫、北京で洗礼を受けて帰国、伝道を行う(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1784李承薫,北京で西洋の神父より洗礼を受け帰国,天主教伝道(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1784李承薫が天主教の書籍を持ち込む(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1784李承薫の天主教カトリック伝道(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1785「大典通編」完成(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
17861786年西学禁止(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1786西学(天主教)禁じる(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1786西学が禁止される(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1786西学が禁止される(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1786西学を禁じる(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1787寛政の改革(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
17911791辛亥通共政策(商業における自由売買を決める)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1791辛亥通共政策(商業における自由売買を決める)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
17961796正祖による水原城(華城)建設、(朝鮮後半の全盛期)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1796正祖による水原城(華城)建設、(朝鮮後半の全盛期)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
180018世紀中国を経由してカトリックが入ってくる。朝鮮内部では、王朝が強力に推進してきた儒教との対比で、容認派と反対派との抗争が起こり、朝鮮王朝は、1791年、ついにカトリック弾圧を実施した。そして、これを皮切りに、以後数次にわたり、カトリック弾圧が断行され、多くの犠牲者も出した。このカトリック弾圧に対しては、19世紀になってからも、西洋諸国からの強力な抗議・干渉が、高まって行く。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
180018世紀中国を経由してカトリックが入ってくる。朝鮮内部では、王朝が強力に推進してきた儒教との対比で、容認派と反対派との抗争が起こり、朝鮮王朝は、1791年、ついにカトリック弾圧を実施した。そして、これを皮切りに、以後数次にわたり、カトリック弾圧が断行され、多くの犠牲者も出した。このカトリック弾圧に対しては、19世紀になってからも、西洋諸国からの強力な抗議・干渉が、高まって行く。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
180018世紀末中国を経由してカトリックが入ってくる。朝鮮内部では、王朝が強力に推進してきた儒教との対比で、容認派と反対派との抗争が起こり、朝鮮王朝は、1791年、ついにカトリック弾圧を実施した。そして、これを皮切りに、以後数次にわたり、カトリック弾圧が断行され、多くの犠牲者も出した。このカトリック弾圧に対しては、19世紀になってからも、西洋諸国からの強力な抗議・干渉が、高まって行く。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18011801年辛酉迫害(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1801辛酉邪獄(天主教徒[カトリック]と中国人神父の殺害)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1801辛酉迫害(辛酉邪獄)、天主教に寛大であった時派への弾圧(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1801辛酉迫害(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
18041804《純祖の治世、安東金氏による権勢政治(~1863年)》、士林派の終焉(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1804《純祖の治世、安東金氏による権勢政治(~1863年)》、士林派の終焉(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1811洪景来の乱(~1812地方差別に反発した一揆)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1811洪景来の乱(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1811洪景来の乱(~1812地方差別に反発した一揆)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1811洪景来の乱(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1811最後の朝鮮通信使,対馬に来着(朝鮮、李氏朝鮮_対馬)編集
1811没落両班,洪景来の乱.農民とともに平安道で起こる(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1811洪景来の乱(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1825異国船打払令1825(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1831天主教朝鮮教区設置(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1831カトリック朝鮮教区設置(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1832イギリス船、アートマス号が来航して通商を求める(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1832イギリス船ロード・アーマスト号来航し通商を求める(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1832英国商船来航し、通商をもとめる(朝鮮、李氏朝鮮、イギリス_)編集
1832イギリス船、アートマス号が来航して通商を求める(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1837大塩平八郎の乱1837(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18391839己亥迫害(漢城の天主教徒の弾圧)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1839己亥邪獄.フランス人神父と信者多数処刑(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1839己亥迫害(漢城の天主教徒の弾圧)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1839斥邪綸音公布.民衆に公式にカトリック教を禁じる教書を下す(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1839已亥迫害(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1839己亥迫害(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1845イギリスの軍艦サマラン号が済州島と西海岸を不法に測量する(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18461846丙午迫害(天主教徒の漢江畔での処刑)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1846フランス軍,カトリック教弾圧に抗議し忠清道に入り書簡を渡す(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1846丙午迫害(天主教徒の漢江畔での処刑)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
185378日本へアメリカの使節ペリー提督らの黒船が浦賀に来航1853(嘉永6年6月3日)(日本、アメリカ_)編集
1854日米和親条約締結1854(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1856ハリス来日1856(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1858日米修好通商条約締結1858(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1858安政の大獄1859(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1860崔済愚,東学(西教のカトリック教に対し,東方の道を立てる)創始(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1860崔済愚、東学創始(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1860崔済愚、東学を創始(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1861金正浩,「大東輿地図」作成.産業,文化への関心を反映(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1861金正浩、「大東輿地図」をつくる(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1862慶州道の晋州地方から農民蜂起始まる(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18621862年壬戌農民蜂起(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1862慶州道の晋州地方から農民蜂起始まる(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1862壬戌農民蜂起(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1863《哲宗崩御し、高宗即位》、大院君政権の成立(王権強化)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1863近代社会?(~1945)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18631863年興宣大院君、執権。大院君の鎖国政策。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1863高宗即位.父の興宣大院君執権.実権を握る(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1863高宗即位。興宣大院君執権(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1864朝鮮で大院君が政権を掌握(朝鮮_)編集
18644崔済愚処刑。(朝鮮、大韓帝国、日本_日韓併合)編集
18651865年閔妃が王妃に。#style(class=box_black_swm){{閔妃・・・1851ー95年閔茲暎、公宗の王妃。後の明成皇后。}}(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18651865年閔妃が王妃に。
閔妃・・・1851ー95年閔茲暎、公宗の王妃。後の明成皇后。}}(朝鮮、李氏朝鮮_)
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1865壬辰倭乱で焼失した景福宮再建(~1872)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1865景福宮再建(-1872)(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
18661866キリスト教を弾圧し、信者1000人の死傷者を出した(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18661866丙寅教獄(フランス人神父を含む多数の天主教徒の処刑により、フランス艦隊の江華島攻撃)、丙寅洋擾(アメリカ武装商船シャーマン号が朝鮮軍人の拉致や発砲を行うも、逆に焼討ちにあい全員殺害される)(朝鮮、アメリカ、李氏朝鮮、フランス_)編集
18661866年丙寅迫害→丙寅洋擾カトリック虐殺→舐めきって準備不足の仏に勝利?ジェネラルシャーマン号事件。アメリカ商船を奇襲、虐殺。(朝鮮、アメリカ、李氏朝鮮、フランス_)編集
18661866年高宗の王妃に。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1866キリスト教を弾圧し、信者1000人の死傷者を出した(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1866ドイツの冒険商人,交易を拒否され大院君の父の墓をあばこうとして失敗(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1866丙虎邪獄。シャーマン事件(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1866丙寅教獄(フランス人神父を含む多数の天主教徒の処刑により、フランス艦隊の江華島攻撃)、丙寅洋擾(アメリカ武装商船シャーマン号が朝鮮軍人の拉致や発砲を行うも、逆に焼討ちにあい全員殺害される)(朝鮮、アメリカ、李氏朝鮮、フランス_)編集
1866丙寅迫害.天主教に対する弾圧.9人のフランス人神父と数千人の信徒が処刑(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1866丙寅洋擾.丙寅迫害に対してフランス侵略するが撃退(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1866平壌洋擾.アメリカの武装商船ゼネラル・シャーマン号焼打ち(朝鮮、アメリカ、李氏朝鮮_)編集
1866丙寅迫害、丙寅洋擾(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
186610フランス艦隊江華島攻撃(丙寅洋擾)。(朝鮮、大韓帝国、日本_日韓併合)編集
18671867年(明治元年)明治政府は宗氏を通じ、王政復古を朝鮮に通達。「皇」「勅」の字の多用に朝鮮が怒り、受け取り拒否。以後、朝鮮は日本使者に非礼。帰国後、全員が「即時征韓論」を唱える。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1867大政奉還、王政復古1867(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18681王政復古宣言。4. 宗義達(対馬藩主)朝鮮通交事務取扱となる。(朝鮮、大韓帝国、日本_日韓併合)編集
18689戊辰戦争、明治維新(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18691. 樋口鉄四郎(対馬藩家老)を朝鮮へ派遣、「皇」「勅」書契問題おこる。(朝鮮、大韓帝国、日本_日韓併合)編集
18701. 佐田白茅を朝鮮へ派遣。10. 吉岡弘毅を朝鮮へ派遣。(朝鮮、大韓帝国、日本_日韓併合)編集
18711871年辛未洋擾、米軍、江華島で報復。朝鮮軍敗北も「賛国維持」で勝利と宣伝。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1871辛未洋擾、アメリカ艦隊、江華島へ侵攻(朝鮮、アメリカ、李氏朝鮮_)編集
1871辛未洋擾.アメリカの艦隊が江華島に侵入,撃退(朝鮮、アメリカ、李氏朝鮮_)編集
1871辛未洋擾、アメリカ艦隊、江華島へ侵攻(朝鮮、アメリカ、李氏朝鮮_)編集
1871辛未洋擾(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
18716. アタリカ艦隊江華島攻撃(辛未洋擾)。9. 日清修好条規・通商章程調印。11. 岩倉具視らを欧米へ派遣。(朝鮮、大韓帝国、日本_日韓併合)編集
18729. 花房義質を朝鮮へ派遣、朝鮮政府退去を要求。草梁倭館を接収、日本公館とする。(朝鮮、大韓帝国、日本_日韓併合)編集
1873朝鮮で閔氏が政権を奪取(朝鮮_)編集
1873《大院君追放、閔妃を中心にした閔氏政権の成立》(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18731873年大院君失脚により、閔一族の権勢。高宗、親政。
同族争いの歴史
輿宣大院君━┳━┃高宗━━━閔妃(朝鮮、李氏朝鮮_)
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18731873年(明治6年)征韓論争(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1873大院君政権が倒れ、閔氏政権が成立(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18738. 閣議、参議西郷隆盛の朝鮮派遣決定。10. 西郷の朝鮮派遣を無期延期、征韓派5参議下野(明治6年10月政変)。 12. 閔氏政権成立。(朝鮮、大韓帝国、日本_日韓併合)編集
18741874年(明治7年)純宗、出産。高宗、妾に男子有り。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18745.~10. 日本軍、台湾出兵。9. 日本公館長森山茂と東莱府使との閧に交渉開始合意。(朝鮮、大韓帝国、日本_日韓併合)編集
18751875江華島事件(日本が朝鮮との国交通商を要求し武力示威した事件)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18751875年(明治8年)清に息子を王世子と認めてもらう。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18751875年(明治8年)日本軍と朝鮮軍との間で江華島事件(こうかとうじけん)がおきます。これは、日本軍が朝鮮付近の海を測量したのに対して朝鮮軍との間に衝突が起きたのですね。日本に媚びる。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1875江華島事件(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1875江華島事件(日本が朝鮮との国交通商を要求し武力示威した事件)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1875江華島事件。雲揚号が江華島へ侵攻(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1875日本の軍艦雲揚号江華島へ侵入.武力示威を展開.永宗島占拠(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1875江華島事件。雲揚号が江華島へ侵攻(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1875雲揚号事件(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
18752. 森山茂理事官、釜山着任、朝鮮政府と意見対立(7月 金継運との会見拒否、9. 帰国)。(朝鮮、大韓帝国、日本_日韓併合)編集
18759. 「雲揚」、江華島・永宗島攻撃(江華島事件)。10. 参議木戸孝允、朝鮮政策につき意見書提出。12. 参議黒田清隆を朝鮮派遣全権大使に任命。(朝鮮、大韓帝国、日本_日韓併合)編集
18761876日朝修好条規を結ぶ、釜山など三港の開港と自由貿易、開港場の居留地、日本商民への領事裁判権の承認、日本貨幣の流通、輸出入品への関税免除など、参考:、(1880)日本公使の常駐、元山の開港、無関税規定の改定、(1883)仁川の開港(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18761876年江華島条約江華島事件の翌年には、日本は朝鮮との間に不平等条約「日朝修好条規」を結ぶことに成功しました。この日朝修好条規により朝鮮は日本に対して釜山、元山、仁川を開港し、開港地には日本の居留地を設定しなければならず、領事裁判権を認め、関税自主権も失うことになります。これによって、日本人が朝鮮に渡って、米の流通を牛耳ってしまうんですね。そして、大量の穀物などが日本に輸入され、朝鮮では穀物の価格がどんどん高くなってしまう事態となります。1876年には、当時の開国派政権との間で、いわゆる江華島条約(日朝修好条規)を締結する。これに引き続いて、アメリカ、フランス、ロシアなどと、相次いで通商条約を結ぶことになる。(朝鮮、日本、李氏朝鮮、アメリカ、フランス、ロシア_)編集
18761876年王朝内部の抗争は、絶えることなく続くが、一方で、徐々に迫ってくる諸外国に対しては、とうとう強硬な鎖国政策をとることとなる。だが、これが、後年、朝廷混乱に拍車をかけることになる。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18761876年(明治9年)日朝修好条規清の宗主権を否定両班でない階層は、親日派で近代化を目指す宮中で興宣大院君と閔妃が権力争いを繰り返す日清の条約の後
※両班朝鮮の身分制度・・・千年にわたる、非人間的な身分制度
貴族・・・王族及びその縁者両班・・・特権階級併合前の李氏朝鮮末期、戸籍上の半数中人・・・官僚機構をになう専門職常民・・・多くが小作農、実質的な人権がない常奴の蔑称も七賎・・・賎民階層(商人、船夫、獄卒、逓夫、僧侶、白丁、巫女、李朝時代には妓生(きいせん))白丁は戸籍が無く、性も無い、その他いくつもの禁止事項が。奴婢・・・家畜同然で、他人に売買はされる存在。(朝鮮、清、李氏朝鮮、日本_)
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1876日朝修好条規締結1867(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1876王朝内部の抗争は、絶えることなく続くが、一方で、徐々に迫ってくる諸外国に対しては、とうとう強硬な鎖国政策をとることとなる。だが、これが、後年、朝廷混乱に拍車をかけることになる。しかし、やがて、1875年、日本軍は、開国を求めて、江華島に侵入し、1876年には、当時の開国派政権との間で、いわゆる江華島条約(日朝修好条規)を締結する。これに引き続いて、アメリカ、フランス、ロシアなどと、相次いで通商条約を結ぶことになる。(朝鮮、日本、李氏朝鮮、アメリカ、フランス、ロシア_)編集
1876江華条約(日朝修好条規)調印。釜山港開港(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1876日朝修好条規を結ぶ、釜山など三港の開港と自由貿易、開港場の居留地、日本商民への領事裁判権の承認、日本貨幣の流通、輸出入品への関税免除など、参考:、(1880)日本公使の常駐、元山の開港、無関税規定の改定、(1883)仁川の開港(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1876日本と江華島条約(日朝修好条規)締結(朝鮮、日本、李氏朝鮮_)編集
1876江華条約(日朝修好条規)調印。釜山港開港(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1876江華島条約を締結(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
18761. 森有礼公使、李鴻章と会談。清国政府、朝鮮国王に開国を勧告。2. 黒田全権ら江華島に上陸(11日より交渉開始)。日朝修好条規調印(27日)。5. 第1回修信使(金騎秀)来日。8日朝修好条規付録、日本国人民貿易規則(通商章程)調印。(朝鮮、大韓帝国、日本_日韓併合)編集
1877西南戦争1877(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1877釜山に日本人居留地設置(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18779. 花房義質代理公使を開港交渉のため朝鮮へ派遣、成功せず。(朝鮮、大韓帝国、日本_日韓併合)編集
18789. 朝鮮政府、釜山港輸出入品につき朝鮮商人に課税(12月廃止)。(朝鮮、大韓帝国、日本_日韓併合)編集
1879池錫永,種痘法実施(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1879池錫永、種痘法実施(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
18794. 琉球藩廃止、沖縄県設置。6. 花房代理公使、朝鮮政府と開港交渉(仁川開港を断念)。(朝鮮、大韓帝国、日本_日韓併合)編集
18804. 花房義質、弁理公使となる。5. 元山開港。米シュウフェルト提督釜山入港、国書奉呈拒否される。8. 金弘集来日。シュウフェルト天津着、以後李鴻章と朝鮮の通商条約締結交渉に入る。12. 花房弁理公使、朝鮮国王に国書奉呈。(朝鮮、大韓帝国、日本_日韓併合)編集
18811881年調査視察団(紳士遊覧団)、領選使派遣(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1881日本へ紳士遊覧団および清国へ領選使派遣.開化政策を推進(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1881紳士遊覧団および領選使派遣(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
18811. 朝鮮統理機務衛門設置。2. 清露間にイリ条約調印。5. 朴定陽ら来日。11. 趙秉稿来日。(朝鮮、大韓帝国、日本_日韓併合)編集
1882朝鮮で壬午軍乱(朝鮮_)編集
18821882大院君、開化政策の否定とする、壬午軍乱(軍内における棒給などの不満による暴動で、閔政権打倒される)起こる、朝米(朝英・朝独)修好通商条約の締結、清国は壬午軍乱を鎮圧し、ソウルに軍隊を駐留させ、朝中商民水陸貿易章程を締結する、清国による内政干渉がはじまる
壬午事変後の朝鮮
・朝清商民水陸貿易章程で経済的に属国化・馬建忠とメレンドルフが顧問に。閔妃はメレンドルフ(高宗側近)と組みロシアに色目。・・・清の不信。(朝鮮、李氏朝鮮_)
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18821882年米朝修好通称条約壬午事変(じんごじへん)壬午軍乱(じんごぐんらん)壬午事変というのは、朝鮮にて当時、政権を握っていた閔氏(びんし)人物が日本と友好であったが為、それに反発するグループがクーデターを起こした事件です。結局、これには日本軍、清軍が介入し鎮圧。この事件後、日本はソウルにおける日本軍の駐留権を認めさせ、清も朝鮮に対して軍隊を指導するなど内政干渉を強めていきます。ちなみに、この事件の後、それまで親日的であった閔氏は内政干渉を強める清よりへと傾いていきます。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18821882年大院君、復権。
壬午事変前の改革
閔氏政権vs金弘集・開化政策・清を見習う日本を見習う日本人顧問を呼んで新式訓練(別技軍)
壬午事変
・給与13ヶ月分に旧式軍人が激怒7月23日蜂起・金弘集ら事大党、日本公使館を焼くなどクーデター・大院君が担がれる・閔妃は女官に紛れ脱出→日本を見捨て清(袁世凱)を頼る(朝鮮、李氏朝鮮_)
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18821882年大院君、復権。
壬午事変前の改革
閔氏政権vs金弘集
・開化政策
・清を見習う日本を見習う日本人顧問を呼んで新式訓練(別技軍)
壬午事変
・給与13ヶ月分に旧式軍人が激怒7月23日蜂起
・金弘集ら事大党、日本公使館を焼くなどクーデター
・大院君が担がれる
・閔妃は女官に紛れ脱出→日本を見捨て清(袁世凱)を頼る(朝鮮、李氏朝鮮_)
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18821882年8月30日済物浦条約日本は軍艦5隻に陸軍一個大隊と海軍陸戦隊を載せ、仁川から一気にソウルまで駆け上がり、居留民保護。以下を朝鮮に認めさせる・謝罪・責任者処罰・賠償・公使館警備のための軍隊駐留(再発防止)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1882壬午軍乱(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1882壬午軍乱(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1882壬午軍乱.旧式軍隊への差別待遇に対する不満爆発(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1882大院君、開化政策の否定とする、壬午軍乱(軍内における棒給などの不満による暴動で、閔政権打倒される)起こる、朝米(朝英・朝独)修好通商条約の締結、清国は壬午軍乱を鎮圧し、ソウルに軍隊を駐留させ、朝中商民水陸貿易章程を締結する、清国による内政干渉がはじまる
壬午事変後の朝鮮
・朝清商民水陸貿易章程で経済的に属国化
・馬建忠とメレンドルフが顧問に。閔妃はメレンドルフ(高宗側近)と組みロシアに色目。・・・清の不信。(朝鮮、李氏朝鮮_)
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1882米・英・独と通商条約締結.日本とロシアを牽制(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1882壬午軍乱(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1882壬午軍乱(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1882米英独などアメリカ、イギリス、ドイツと通商条約締結(朝鮮、アメリカ、イギリス、ドイツ、李氏朝鮮_国史年表)編集
18823. 金玉均来日(8月まで滞在)。5. 朝米修好通商条約調印。6. 朝英仁川条約調印(イギリス批准せず)。朝独修好通商条約調印(ドイツ批准せず)。7. 壬午軍乱おこる。8日朝修好条規続約・済物浦条約調印。清国軍、大院君を拉致、天津へ連行。9. 仁川開港。朝清商民水陸貿易章程調印。10. 朴泳孝・金玉均ら来日。12. 横浜正金銀行、朝鮮政府と17万円借款協定成立。ドイツ人ノレンドルフ朝鮮政府統理衛門に傭聘。(朝鮮、大韓帝国、日本_日韓併合)編集
18827朝鮮国に壬午事変勃発。翌月、済物浦条約締結。(朝鮮_)編集
1883元山学舎設立(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1883太極旗使用(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1883典圜局設置.貨幣発行(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1883博文局設立.開化党,朝鮮初の近代的新聞「漢城旬報」発刊(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1883「漢城旬報」発刊(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1883曲圜局設置(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1883元山学舎設立(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1883大極旗使用(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
18836. 金玉均来日、借款を求めるが交渉不成立(1884年5月帰国)。10. 駐清英国公使パークス、横浜駐在独領事ツァッペとともに漢城入京、メレンドルフと条約再交渉 11. 朝英修好通商条約・朝独修好通商条約調印 11. 清仏戦争はじまる。(朝鮮、大韓帝国、日本_日韓併合)編集
1884朝鮮で甲申政変(朝鮮_)編集
18841884朝露修好通商条約の締結、甲申政変(甲申事変)、開化派のクーデターは失敗に終わり、事大派の勝利となる(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18841884年12月4日甲申事変(こうしんじへん)そして、そのすぐ後、甲申事変が起きます。これは、朝鮮にて清の影響力が強まる中、日本と組んで近代化を目指した方がいい!というグループがクーデターを起こすのです。もちろん彼らは自分達だけでは無理なので日本の軍にも期待しています。それに対して、閔氏は清に援軍を要請します。朝鮮の人々の中でも日本につくか?清につくか?で争いが頻発した時代ですね。しかし、日本も清も本気で戦争を始められる状態では当時なかった。1884年といえば清はベトナムをめぐって清仏戦争を起こしていて、日本も自由民権運動の真っ只中。そこで、両国間の間で天津条約(てんしんじょうやく)というのが結ばれます。これは、とりあえず、両国とも軍を朝鮮から軍を引き上げましょう。また、今後朝鮮への出兵する際には事前に通告をし合うことにしましょう。と約束事を設けたんですね。閔妃失脚も、清の力で復権。
甲申事変
金玉均、竹添進一郎日本公使館の協力を得て、閔氏政権に対して、クーデター
1.国王殿下の呼称の廃止皇帝陛下として独立国の君主として振る舞う事。2.清国に対して、朝貢の礼を廃止する事。3.内閣を廃し、税制を改め、宦官の制を廃する事。
など、14項目の政策を発表
清は、清仏戦争の敗北により、全力を朝鮮に。閔妃は、再び清を頼る。日本軍150対清国1500で銃撃戦。
清軍、日本公使館焼き討ち。市街で居留民虐殺。竹添、長崎へ脱出。金玉均、朴永孝も日本へ亡命。3日で、クーデター失敗。清は、大院君を送り出す。
甲申事変後の処理
・閔妃の復讐・開化は要人の家族、凌遅刑・金玉均、暗殺団、組織
漢城条約(日本に対して)・謝罪・賠償金
事大主義強い方に付く、勝ちそうな方に付く。親清・親露・親日の見方はできない。(朝鮮、清、李氏朝鮮、日本_)
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1884甲申政変(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1884甲申政変.開化党による政変革命.清国軍の介入により3日天下に終わる(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1884甲申政変(甲申事件)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1884朝露修好通商条約の締結、甲申政変(甲申事変)、開化派のクーデターは失敗に終わり、事大派の勝利となる(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1884郵政局設置.近代的郵政事業を目指す(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1884甲申政変(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1884郵政局設置(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1884甲申政変(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
18846. 朝伊修好通商条約調印 7. 朝露修好通商条約調印。日本公使館新築 12.4. 甲申政変おこる。朴泳孝・金玉均ら日本へ亡命。井上馨外務卿を特派全権大使として朝鮮へ派遣。(朝鮮、大韓帝国、日本_日韓併合)編集
188412朝鮮国内にて甲申事変。(朝鮮、日本_)編集
18851885日本と漢城条約の締結、英艦隊、巨文島を占領する、(日清間に天津条約の締結)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18851885年4月天津条約・朝鮮より、両軍の撤兵・軍事顧問団不派遣・出兵前に事前通告の原則(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18851885年巨文島事件(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18851885年ロシアを後盾にしようとして失敗。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1885ソウル・仁川間電信開通(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1885巨文島事件.イギリス巨文島を占領,ポール・ハミルトンと命名(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1885広恵院設立(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1885日本と漢城条約の締結、英艦隊、巨文島を占領する、(日清間に天津条約の締結)(朝鮮、日本、李氏朝鮮_)編集
1885培材学堂設立(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1885巨文島事件(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1885培材学堂設立(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1885ソウル・仁川間電信開通(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1885広恵院設立(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
18851. 漢城条約調印。竹添公使召還。呉大澂、漢城入京。3. 福沢諭吉「脱亜論」発表。4. 天津条約調印。4. イギリス海軍巨文島占拠。6. スベエル、ロシア軍人傭聘協定締結のため漢城入京。メレンドルフ解任。7. 榎本武揚駐清公使、李鴻章に日清共同朝鮮内政改革案を提示。日本守備隊・清国軍、朝鮮より撤退。9. 幽閉中の大院君赦免(10月帰国)。(朝鮮、大韓帝国、日本_日韓併合)編集
1886育英公院,梨花学堂設立(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1886育英公院、梨花学堂設立(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
18866. 朝仏修好通商条約調印。(朝鮮、大韓帝国、日本_日韓併合)編集
1887清国の仲介により,巨文島よりイギリス軍撤退く(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1888ドイツでヴィルヘルム2世が即位し、国際政治が大変動。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18891889年威鏡道、防穀令実施(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1889凶作を理由に咸鏡道に穀物輸出禁止令.日本の反対で解除(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1889咸鏡道に防穀令実施(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
18892. 大日本帝国憲法公布。5. 黄海道で防穀令施行。9. 咸鏡道で防穀令施行。(朝鮮、大韓帝国、日本_日韓併合)編集
18892大日本帝国憲法発布1889(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1890山県有朋による「外交政略論」の提出、(朝鮮を日本の利益線とみなし、その防護が国家目標であるとする)(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18903. 黄海道で防穀令施行。11. 第1回帝国議会召集。(朝鮮、大韓帝国、日本_日韓併合)編集
189112. 朝鮮政府に防穀損害賠償要求(防穀令事件)。(朝鮮、大韓帝国、日本_日韓併合)編集
189212. 東学教徒、崔済愚の伸寃運動開始。(朝鮮、大韓帝国、日本_日韓併合)編集
18933. 東学教徒報恩集会。(朝鮮、大韓帝国、日本_日韓併合)編集
18941894年3月朝鮮で東学党の乱(一次・二次甲午農民戦争)、農民が減税などを訴え起こした乱です。 党派間のクーデターによる混乱や、外国との開国通商による物価高騰に苦しめられた農民が中心になって蜂起し、官軍と起こした内戦である。 大院君派と閔妃派の対立が深まり、大院君、東学党の大幹部の全?準を食客に。大院君は儒教原理主義を押し立て、清の後ろ盾を頼る。しかし、日本にも色目。閔妃はロシアに色目を使うも、清に媚びる。閔妃が清に出兵要請。 東学党二代目教祖雀時亮→排外的西洋文化が、古来文化をこわす。 地方役人の賄賂に、地方農民が怒り乱となった。 これを鎮圧させる為に閔妃は清に援軍を要請します。これを見た日本も日本の公使館を守るなどの理由で出兵。官・農民間の和議が成立して終結する。 閔妃、失脚。 しかしその後も、清軍と日本軍は、双方が朝鮮に駐屯を続け、 ついに、日清戦争が勃発する。 日清戦争で陸上戦闘の主戦場となる この戦争は1895年、日本軍の勝利に終わり、朝鮮は日本の影響下におかれることになる。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18941894年東学農民運動、甲午改革(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18941894年閔妃、金玉均を暗殺。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18941894年6月2日伊藤内閣、解散と開戦を同時決定。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18941894年6月5日朝鮮王朝が清軍に出兵を依頼、朝鮮に出兵。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18941894年6月8日清出兵に伴い日本軍、朝鮮に出兵。日清英露の四国で協議。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18941894年7月22日日本、朝鮮に清軍の撤退を要求。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18941894年7月23日王宮占領。高宗拘束。大院君、第三次政権樹立も、1ヶ月で日本に呆れられる。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18941894年8月1日(明治27年)日清戦争日清両国、宣戦布告。大院君へ引退勧告。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18941894年9月15日平壌攻略。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18941894年9月17日黄海海戦勝利。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1894甲午改革.日本の圧力で閔氏政権を倒し,第一次金弘集内閣成立(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1894甲午農民政争が始まる(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1894東学農民運動.反封建,反侵略の近代民族運動に移っていく(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1894日清戦争(~95)1894(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1894甲午農民政争が始まる(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1894東学農民運動、甲午改革(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1894東学党の乱(朝鮮_)編集
18944. 甲午農民戦争。6. 朝鮮政府、清国に援兵要請。清国・日本、朝鮮に出兵。全州和議、全羅道に執綱所設置。日本政府、清国と朝鮮内政共同改革を提議、拒否される。7. 大鳥公使、朝鮮政府に内政改革案を提示。日英通商航海条約調印。日本軍が王宮占領、大院君摂政となる(甲午政変)。豊島沖海戦(日清戦争はじまる)。甲午改革はじまる。8対清宣戦布告。第1次金弘集内閣成立。大日本大朝鮮両国盟約(攻守同盟)調印。9. 平壌占領。黄海海戦。10. 農民軍各地で決起。11. 井上公使、内政改革要領を朝鮮国王に奏上。日本軍、旅順口占領。12. 農民軍公州で敗退、全璋準捕われ処刑。軍国機務処廃止。(朝鮮、大韓帝国、日本_日韓併合)編集
1894朝鮮で甲午農民戦争(東学党の乱)(朝鮮_)編集
18941894 東学党の乱(一次・二次甲午農民戦争)、大院君派と閔妃派の対立が深まる  日清戦争で陸上戦闘の主戦場となる(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18941894年 甲午農民戦争(東学党の乱)が発生する。党派間のクーデターによる混乱や、外国との開国通商による物価高騰に苦しめられた農民が中心になって蜂起し、官軍と起こした内戦である。この戦争は、政府の要請による清の援軍と日本の介入とにより、官・農民間の和議が成立して終結する。  しかしその後も、清軍と日本軍は、双方が朝鮮に駐屯を続け、ついに、日清戦争が勃発する。この戦争は1895年、日本軍の勝利に終わり、朝鮮は日本の影響下におかれることになる。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18941894年 東学党の乱  そして、10年後に東学党の乱というのが起きます。農民が減税などを訴え起こした乱です。これを鎮圧させる為に閔妃は清に援軍を要請します。これを見た日本も日本の公使館を守るなどの理由で出兵。しかし、この乱が鎮圧した後も清、日本共に兵を引き上げず朝鮮国内に留めていたことから日清戦争へともつれ込んでいきます。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18941894年3月 東学党の運動が盛んに。東学党の乱  大院君、東学党の大幹部の全?準を食客に。  大院君は儒教原理主義を押し立て、清の後ろ盾を頼る。しかし、日本にも色目。  閔妃はロシアに色目を使うも、清に媚びる。  閔妃が清に出兵要請。  閔妃、失脚。    東学党二代目教祖 雀時亮    →排外的西洋文化が、古来文化をこわす。    地方役人の賄賂に、地方農民が怒り乱となった。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18943朝鮮国内で東学党の乱。(朝鮮_)編集
18948日清戦争宣戦布告。(朝鮮、清、日本_)編集
1894117大連占領。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1894117旅順占領。この日清戦争については、ご存知の通り。日本の大勝利により下関条約が結ばれます。大院君、日清戦争中、開化派を弾圧。日本が激怒も、涙の弁明で命乞い。幽閉。
「朝鮮雑記・・・日本人が見た1894年の李氏朝鮮」祥伝社・本間九介(安達九郎)匙や箸などを使わず、すべて手で。小便で顔を荒い、婦女子が陰部を洗う(梅毒など伝染病予防)(朝鮮、李氏朝鮮_)
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1895朝鮮で閔妃殺害事件(朝鮮、日本_)編集
1895日清講和条約(下関条約成立、朝鮮が独立国であることを確認)朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止される親露反日政策をとった閔妃(明成皇后)が日本軍守備隊や警察、訓練隊等により殺害される(乙未事変)三浦梧楼の指揮によって殺害されたとする説が一般的だが、他方日本の保守派・右派の間では、それについて確認がとれていないことを強調する立場もある(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18951895年10月8日乙未改革閔妃殺害事件(びんひさつがいじけん)(乙未事変)日清戦争による日本の勝利に伴い、朝鮮半島は清の冊封体制から逃れた訳ですが、国内ではこのままでは日本のいいなりになってしまうと危機感が広がっていくわけです。そして、朝鮮の宮廷内では、ロシアと手を組んで日本に対抗しようという動きが出てきます。当時、日本は日清戦争によって獲得した遼東半島をロシアが中心となった三国干渉により清に返還していますから、朝鮮王朝としてはロシアを味方につければ日本もおとなしくなるだろうという考えがあったわけです。当然、日本はこの事態に激怒するわけですが、それにしても恐ろしい事件を引き起こすことになります。1895年10月8日、閔妃殺害事件(びんひさつがいじけん)(乙未事変)です。大院君、三浦梧楼公使と閔妃殺害を計画。閔妃殺害事件後、幽閉。#ref(hbb.jpg,nolink,around,left,画像の説明);閔妃の本当の写真は?閔妃は国王の王妃です。彼女がロシアと手を組もうとしている朝鮮宮廷内の動きの背後にいるのではないか?という日本側の憶測により、閔妃を殺害した上でガソリンにて遺体を妬いてしまうという暴挙をおこします。この閔妃殺害には陸軍600人、民間人47人が参加したとされ、首謀者とされたのが三浦梧楼(ごろう)という人物です。彼は、ソウル公使であったのですが、彼ひとりでこの大事件を画策したというのにはさすがに無理がありますね。そして、結局彼らは証拠不十分ということで処罰されることはありませんでした。この事件の背後にいたのは、日本政府?または、殺害事件の前にも暗殺未遂事件が起きていることから閔妃に不満を持つ宮廷内の人物が日本側と手を組んで?など近年ではさまざまな憶測が飛び交っています。背後に誰がいたのか?それは定かではありませんが、しかし、首謀者が三浦梧楼とされ、彼は処罰されずということで朝鮮国内では日本に対して不満が爆発していくきっかけとなっていきました。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18951895年10月8日乙未改革閔妃殺害事件(びんひさつがいじけん)(乙未事変)日清戦争による日本の勝利に伴い、朝鮮半島は清の冊封体制から逃れた訳ですが、国内ではこのままでは日本のいいなりになってしまうと危機感が広がっていくわけです。そして、朝鮮の宮廷内では、ロシアと手を組んで日本に対抗しようという動きが出てきます。当時、日本は日清戦争によって獲得した遼東半島をロシアが中心となった三国干渉により清に返還していますから、朝鮮王朝としてはロシアを味方につければ日本もおとなしくなるだろうという考えがあったわけです。当然、日本はこの事態に激怒するわけですが、それにしても恐ろしい事件を引き起こすことになります。1895年10月8日、閔妃殺害事件(びんひさつがいじけん)(乙未事変)です。大院君、三浦梧楼公使と閔妃殺害を計画。閔妃殺害事件後、幽閉。
閔妃の本当の写真は?
閔妃は国王の王妃です。彼女がロシアと手を組もうとしている朝鮮宮廷内の動きの背後にいるのではないか?という日本側の憶測により、閔妃を殺害した上でガソリンにて遺体を妬いてしまうという暴挙をおこします。この閔妃殺害には陸軍600人、民間人47人が参加したとされ、首謀者とされたのが三浦梧楼(ごろう)という人物です。彼は、ソウル公使であったのですが、彼ひとりでこの大事件を画策したというのにはさすがに無理がありますね。そして、結局彼らは証拠不十分ということで処罰されることはありませんでした。この事件の背後にいたのは、日本政府?または、殺害事件の前にも暗殺未遂事件が起きていることから閔妃に不満を持つ宮廷内の人物が日本側と手を組んで?など近年ではさまざまな憶測が飛び交っています。
背後に誰がいたのか?それは定かではありませんが、しかし、首謀者が三浦梧楼とされ、彼は処罰されずということで朝鮮国内では日本に対して不満が爆発していくきっかけとなっていきました。(朝鮮、李氏朝鮮_)
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18951895年4月三国干渉で親露政策。ドイツフランスロシアロシアと友好関係維持→遼東半島が日本領になると南下政策に支障。日本に圧力→遼東半島を清国に返還。清国より賠償金上乗せ。「朝鮮には貨幣がない」(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18951895年4月17日下関会議。#style(class=box_black_swm){{下関条約の内容1:朝鮮の独立を認めること。(この直後、朝鮮は大韓帝国と国名を変え、独立を宣言します)2:遼東半島(りょうとうはんとう)を日本に譲り渡す。(中国と朝鮮の間にある半島で日本の戦略的にかなり重要な土地です)3:台湾を日本に譲り渡す。(これにより日本は初の海外植民地として台湾を獲得しました。)4:澎湖諸島(ほうこしょとう)を日本に譲り渡す。(これは台湾と中国本土の間の島々。)5:賠償金2億両を日本に支払う。(約3億1000万円。当時の日本の国家予算のなんと2倍以上のお金です)6:日清通商航海条約を結ぶ(清に欧米と同条件の不平等条約を日本とも結ばせた)沙市、重慶、蘇洲、杭洲の開港。?}}朝鮮において重要なのは最初の朝鮮の独立を清に認めさせたというところ!これにより、清による朝鮮の冊封体制は完全に消滅。1897年には朝鮮は大韓帝国と改称することになります。そして、韓国併合。つまりは、日本による朝鮮の植民地化へと進んでいくのです。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18951895年4月17日下関会議。
下関条約の内容1:朝鮮の独立を認めること。(この直後、朝鮮は大韓帝国と国名を変え、独立を宣言します)2:遼東半島(りょうとうはんとう)を日本に譲り渡す。(中国と朝鮮の間にある半島で日本の戦略的にかなり重要な土地です)3:台湾を日本に譲り渡す。(これにより日本は初の海外植民地として台湾を獲得しました。)4:澎湖諸島(ほうこしょとう)を日本に譲り渡す。(これは台湾と中国本土の間の島々。)5:賠償金2億両を日本に支払う。(約3億1000万円。当時の日本の国家予算のなんと2倍以上のお金です)6:日清通商航海条約を結ぶ(清に欧米と同条件の不平等条約を日本とも結ばせた)沙市、重慶、蘇洲、杭洲の開港。?
朝鮮において重要なのは最初の朝鮮の独立を清に認めさせたというところ!これにより、清による朝鮮の冊封体制は完全に消滅。1897年には朝鮮は大韓帝国と改称することになります。
そして、韓国併合。つまりは、日本による朝鮮の植民地化へと進んでいくのです。(朝鮮、李氏朝鮮_)
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1895乙未事変.日本公使三浦梧楼の指揮により王妃閔妃暗殺(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1895断髪令発布(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1895日本軍の弾圧(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1895日清講和条約(下関条約)締結。三国干渉。1895(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1895閔妃殺害事件(乙未事変(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1895乙未事変(閔后弑殺)(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1895兪吉濬「西遊見聞」を書く(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
18952. 北洋艦隊降伏。3. 日本銀行、朝鮮政府と300万円借款契約 4.17. 日清講和条約調印 4.23. 三国干渉 8. 三浦梧楼駐朝公使となる。10. 閔妃殺害(乙未事変)。12. 断髪令公布。(朝鮮、大韓帝国、日本_日韓併合)編集
18961896山県・ロバノフ協定(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18961896年大院君、隠居。「独立新聞」創刊独立協会設立(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
18961896年露館播遷高宗、暗殺を恐れロシア公使館に逃げ込む。(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1896俄館播遷.親露派により国王をロシア公使館へ移す(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1896義兵が起こる
露館播遷
独立協会設立(朝鮮、李氏朝鮮_)
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1896山県・ロバノフ協定(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1896徐載弼,アメリカより帰国し「独立新聞」発刊(朝鮮、アメリカ、李氏朝鮮_)編集
1896太陽暦採用(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1896独立協会を設立.独立門を建てる(朝鮮、李氏朝鮮_)編集
1896義兵が起こる
露館播遷
独立協会設立(朝鮮、李氏朝鮮_)
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1896俄館播遷(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1896「独立新聞」発刊(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
1896独立協会の設立(朝鮮、李氏朝鮮_国史年表)編集
18961. 各地に義兵闘争おこる(乙未義兵)。2. 「俄館播遷」。金弘集ら殺害される。4. 徐載弼「独立新聞」発行。5. 小村・ウェーバー協定調印。6. 山県・ロバノフ協定調印。7. 徐載弼・尹致昊ら独立協会結成。11. 漢城に独立門建立。12. 「大朝鮮独立協会会報」発刊。(朝鮮、大韓帝国、日本_日韓併合)編集