檀君朝鮮

檀君朝鮮(檀君神話『三国遺事』)

 桓因(ファンイン、桓因は帝釈天の別名である)の庶子である桓雄(ファンウン)が天下に興味を持ち人間界に興味を持った、そのため、桓因は桓雄に天符印を3つ与えた

 桓雄は太伯山(妙香山)の頂きの神檀樹の下に風伯、雨師、雲師ら3000人の部下とともに降り、そこに神市という国をおこし、人間の地を360年余り治めた

 その時に、ある一つの穴に共に棲んでいた一頭の虎と熊が人間になりたいと訴えたので、桓雄は、ヨモギ一握りと蒜(ニンニク)20個をあたえ、これを食べて100日の間、太陽の光を見なければ人間になれるだろうと言った

 虎は途中で投げ出し人間になれなかったが、熊は21日目に女の姿「熊女」(ウンニョ)になった

 しかし、配偶者となる夫が見つからないので、再び桓雄に頼み、桓雄は人の姿に身を変えてこれと結婚し、一子を儲けた

 これが檀君王倹(壇君とも記す)である

 檀君は、堯帝が即位した50年後に平壌城に遷都し朝鮮と号した

 以後1500年間朝鮮を統治したが、周の武王が朝鮮の地に殷の王族である箕子を封じたので、壇君は山に隠れて山の神になった、1908歳で亡くなったと云う


       檀君朝鮮

 

 古代、檀君(だんくん)朝鮮・箕子朝鮮衛氏朝鮮という三つの朝鮮があったとされる。

 衛氏朝鮮以外は神話上の国家だと解されているが、韓国の歴史教科書では歴史上の史実として扱っており、神話だと断じるのは、朝鮮半島の歴史を歪める陰謀だと言われそうだ。一般には、前漢時代に朝鮮四郡を設置されるまでの時代を『古朝鮮』という。

 

『大朝鮮帝国史』(1994年出版)

 我が民族が住む全世界を朝鮮(チュシン)という。我が民族はパミール高原に源を発して、バイカル湖を経て、不咸山に移動した。不咸山に到着した我々の先祖は、そこを中心に集団で定着し、文化を発達させていった。紀元前六千年頃には紅山文明、続いて黄河文明を興した。我々の先祖は既に紀元前3898年に倍達国を建て、農耕民族の中華族を制圧し、大帝国を建設した。倍達国は十八代、1565年で終わり、その後に檀君朝鮮が建てられた。

 箕子朝鮮衛満朝鮮は朝鮮帝国の地方諸侯国にすぎなかった。従って、漢の武帝の衛満朝鮮征伐は中華族と地方政権との闘争であり、中国の史書が固執している漢四郡は、漢の武帝退治に功労が大きかった将軍たちに分封した領地だった。

 檀君朝鮮が脆弱になると、解慕漱の扶餘と東明王の高句麗を共に継承した高豆莫が諸国を合わせて卒本扶餘を興した。扶餘が興るとともに帝国の権威は落ち、地方勢力が成長した。

 紀元前三世紀頃には黄河上流に暮らしていた東胡族の一分岐が匈奴に押されて南下、紀元前57年にソウルに定着して国を建てたのだが、これが新羅である。新羅は以後、馬韓百済との闘争過程で小白山脈を越えて徐羅伐に移る。

 紀元前37年、卒本扶餘で育った高朱蒙が扶餘を脱出、卒本地方に至って高句麗を建て、続いて北満州一帯を統一した。この時、高句麗建国の功臣である陜父が日本地域に逃げ、最初の国、多婆羅国を日本地域に建てた。

 

 商(殷)時代からツングース語系諸族の粛慎(しゅくしん)はロシア沿海州から黒龍江省、吉林省を居住領域としていた。不咸山(ふかんさん)とは長白山(白頭山)のこと。

 大朝鮮帝国史の筆者は、この粛慎を民族の起源として念頭に置いているように思える。

 この本の史学的な評価は別にして、韓国における民族意識の一端を感じさせる内容だといえる。いずれにせよツングース語系諸族の足跡を記した史籍の多い朝鮮半島にあっては、国民の持つ民族意識や祖先の族譜に対する思いが日本人のように希薄ではないのだろう。高句麗史をめぐる中国史か韓国史かの紛争など、その典型だと感じられる。

 また、中国人、韓国人、日本人という呼称は国籍名であって民族名ではない。民族の定義は明確ではないが、民族名には自称と他称があり、中華思想に彩られた古代中国王朝の正史では、当該民族の自称名を確認することは難しい。韓族をどのように定義するのか知らないが、朝鮮半島に登場する民族や国家は多彩である。

 商の紂王を倒した周の武帝は、紂王の叔父である箕子(きし)を尊敬して臣下とせず,外臣として遼東の朝鮮侯に封じた。これが前漢まで続いた箕氏朝鮮だとする。これは伝承上の国家にすぎず、当時の朝鮮は未開地であった遼寧省周辺の総称だとする説もある。

 

檀君朝鮮三国遺事

 天帝「桓因」の子である桓雄は、父の命令により天符印三個を携え、人間社会を治めるため天界から、三危太伯山の頂きにある神檀樹の下に、従者三千名を引き連れ降臨した。その土地を神市と呼んだ。そして、雨師(雨神)、雲師(雲神)、風伯(風神)に命じて、地に自然を作り、農業を興し、善悪、法、道徳等、数々の決まりを作った。

 あるとき、桓雄は人間になりたがっている熊と虎に出会った。

 桓雄は、両獣に百日間、陽に当たらず、蓬(よもぎ)と大蒜(にんにく)を食べ続ければ人間になれると教えた。虎は数日で退屈に耐えきれず、太陽を求めて洞窟を飛び出したが、熊は21日目に人間の女性に化身した。人間になった熊女は、桓雄に「夫になるものがいないので、子供を産むことができない」と訴えた。その願いを聞いた桓雄は、瞬時に変身して熊女と情を交わし、二人の間に男児が誕生した。この男児に、桓雄は祭壇を支配する統治者という意味をもつ檀君(だんくん)と命名した。これが古朝鮮建国の始祖とされる檀君王倹である。

 檀君は即位五十年(紀元前2333年),庚寅の年に平壌を都として「朝鮮」を号した。

 治世一千五百年,周王朝の武帝が箕子を朝鮮侯に封じたので,隠退して阿斯達の山神となり、一千九百八歳の長寿を保った。

 

三国遺事

 13世紀末、高麗僧の普覚国尊一然(1206-1289年)が撰した歴史書。

 朝鮮半島では三国史記(1145年)に次いで古い歴史書とされる。高句麗百済新羅の三国の遺事を採録したもので、その関連事項については、高麗の中期までの事実を符説している。

 一然は、三国史記の編纂方針に不満を持っており、三国史記からこぼれ落ちた説話などをかき集め整理したものを三国遺事と命名して書き記したようだ。三国史記を日本書紀に例えるなら、三国遺事は古事記に相当するものとされている。

 なぜか一然の生前には刊行されず、弟子の無極(1251-1322)が補録して『無極記』と署名して出版したが、檀君説話から始まって楽浪国・扶余・勃海・靺鞨・黒水女真・三国の説話遺聞を収録しており、檀君伝説はこの書によって初めて紹介されたもので,駕洛国記も現在では本書によってしか窺い知ることができない。荒唐無稽な説話も多いが,新羅時代の社会的記述が多く,また同時代史的な面もあり、当時は存在した史料史籍もかなり用いているはずで、朝鮮古代史研究での最重要史書と評価されている。

 三国遺事が著された当時の高麗は,モンゴル民族の元王朝の圧政下にありながらも民族意識が高揚し,さらに大義名分論が強調された時代であり,このような背景のもとに檀君伝説が形成されたもので、李氏朝鮮王朝の国号採用にも有力な根拠とされた。ちなみに、1961年まで韓国では檀君紀元(西暦に2333年を加算)が使われていた。

 

檀君朝鮮』桓檀(がんだん)古記

 一世天皇の倍達桓雄が天下を平定して、都を「神市」に定める。二世居佛理桓雄。三世右耶古桓雄。四世慕土羅桓雄。五世太虞儀桓雄。六世多儀發桓雄。

 六世多儀發桓雄の末弟を大皞といい、伏犠と号した。伏犠は神市より出て、雨師の職を世襲し、後に青邱、楽浪を経て、陳に移り、燧人氏・有巣氏と並び、西土に号を立てる。

 後裔は、分かれて風山に居住し、風を姓とする。観、任、己、庖、理、似、彭、の八氏となる。今は山西の済水に義族の旧居住地があり、任、宿、須、句、須臾に分かれる。

 

 唐堯の徳は衰え、虞舜に国を譲る。虞舜は司空の夏禹を登用して成功する。

 檀君王倹は太子の扶婁を遣わし、招いて塗山に会する。虞舜の諸侯は辰韓に四度朝貢した。檀君王倹は、蚩尤の後孫の蚩頭男を番として険讀(けんとく=遼寧省盤山県)に官府(役所)を立て王倹城と称した。檀君王倹は蚩頭男の勇智を称えた。

 庚子の年、遼中(遼寧省瀋道)に十二城を築いた。蚩頭男の子の琅邪は、可汗城を改築し琅邪城と称した。