殷王朝

商(殷)時代(紀元前16世紀-11世紀)
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ツングース族 商(殷)時代

『史記』夏本紀

 帝桀之時,自孔甲以來而諸侯多畔夏,桀不務德而武傷百姓,百姓弗堪。乃召湯而囚之夏臺,已而釋之。湯修德,諸侯皆歸湯,湯遂率兵以伐夏桀。桀走鳴條,遂放而死。

 帝桀の時代、孔甲(桀の曽祖父。暴虐の王とされる)以来、諸侯の多くが夏王朝に叛いた。帝桀(けつ)は徳を積まず、武力で百姓を傷つけ、百姓は苦しみに堪えかねていた。帝桀は(商の)湯を召しだして夏台に幽囚し、その後釈放した。湯は徳を修め、諸侯はすべて湯に帰順した。湯は遂に兵を率いて夏の帝桀を討伐した。帝桀は鳴条(安邑の西)に奔るも、放逐されて死んだ。

「商(殷)」

 正式な国号は『商』である。商という文字は、本来女性の性器を表すことから、女性生殖機能を信仰する母系社会の氏族だったと思われる。

 通説では山東省と江蘇省の境にいたとされてきたが、商文化の伝播経緯から考えて、河北省を拠点として農業を発展させた部族であり、領域を拡大するため南下し、他の部族を服属させていったが、帰服した部族を奴隷にせず、原野に開拓入植させる作邑(さくゆう)という支配制度を採用して強勢になったと推定される。

 商族の首領「湯王」は鄭州商城(河南省鄭州市)を築くまでに強勢となり、ついに夏王朝を滅ぼし、亳(河南省偃師市)を都とした。その後、何度か遷都を重ね、盤庚が殷墟(河南省安陽県)に遷都し、滅亡までの約300年間に亘って都城としたことで殷(いん)王朝とも呼ばれる。『史記』が「殷本紀」としたことで殷が広く知られるようになったが、あくまでも商では殷墟を「大邑商」と呼んでおり、殷の呼称は、次の周王朝によるものである。

 組織体制は、大邑・族邑・属邑(小邑)が結びついた連合体で、邑(ゆう)というのは四方を城冊で囲んだ領域(村=国)の意味。大邑は王城、族邑は血統単位の集落国家である。商代初期の王城遺構とされる鄭州王城は、奈良時代の藤原京を凌ぐ規模があり、大邑内には祭壇、骨角器や陶器の製作所、酒造工場、青銅器の鋳造所などがあった。

 紀元前11世紀頃、周を中心とする西方の部族に間隙を衝かれて滅亡した。

「青銅器」

 なんといっても商時代の画期は、文字の制定と青銅器の発展である。殷墟から多種多様の大量の青銅器皿や兵器などが発掘されたが、どれも実に精巧なもので、特に司母戊と称される大型の方鼎は、重量が875kg、高さ130㎝もあり,鼎(かなえ)の表面には富麗堂皇(華麗で壮大な大広間)の花紋が施されていた。このことから商の時代には冶金技術と芸術の水準が非常に高かったことが想像できる。

「甲骨文字」

 近代まで中国の王朝は、紀元前11世紀の西周から始まり、商や夏は伝説だとされてきたが、1899年、劉鶚という人物が清朝の国士監祭酒の王懿栄がマラリアの特効薬として常用していた竜骨に文字が刻まれているのを発見し、商時代の卜辞だと考察したことから、商の実在を検証する動きが生まれ、それが商時代の卜占につかわれた文字・卜辞だと判明した。

 その数十年後、殷墟で殷の遺跡で発掘された甲骨文字の文書に記された歴代国王の名前が、史記に記録された系図と一致し、王名が「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」の十干を用いていることから架空と思われた商の実在が証明された。

「商王朝系図」

『史記』殷本紀

 湯崩,太子太丁未立而卒,於是乃立太丁之弟外丙,是為帝外丙。帝外丙即位三年,崩,立外丙之弟中壬,是為帝中壬。帝中壬即位四年,崩,伊尹乃立太丁之子太甲。(中略)

 褒帝太甲,稱太宗。太宗崩,子沃丁立。帝沃丁之時,伊尹卒。既葬伊尹於亳,咎單遂訓伊尹事,作沃丁。沃丁崩,弟太庚立,是為帝太庚。帝太庚崩,子帝小甲立。帝小甲崩,弟雍己立,是為帝雍己。殷道衰,諸侯或不至。帝雍己崩,弟太戊立,是為帝太戊。(中略)

 殷復興,諸侯歸之,故稱中宗。中宗崩,子帝中丁立。帝中丁遷于隞。河亶甲居相。祖乙遷于邢。帝中丁崩,弟外壬立,是為帝外壬。仲丁書闕不具。帝外壬崩,弟河亶甲立,是為帝河亶甲。河亶甲時,殷復衰。河亶甲崩,子帝祖乙立。帝祖乙立,殷復興。巫賢任職。祖乙崩,子帝祖辛立。帝祖辛崩,弟沃甲立,是為帝沃甲。帝沃甲崩,立沃甲兄祖辛之子祖丁,是為帝祖丁。帝祖丁崩,立弟沃甲之子南庚,是為帝南庚。帝南庚崩,立帝祖丁之子陽甲,是為帝陽甲。帝陽甲之時,殷衰。自中丁以來,廢適而更立諸弟子,弟子或爭相代立,比九世亂,於是諸侯莫朝。帝陽甲崩,弟盤庚立,是為帝盤庚。(中略)

 帝盤庚崩,弟小辛立,是為帝小辛。帝小辛立,殷復衰。(中略)

 帝小辛崩,弟小乙立,是為帝小乙。帝小乙崩,子帝武丁立。帝武丁即位,(中略)

 武丁修政行德,天下咸驩,殷道復興。帝武丁崩,子帝祖庚立。祖己嘉武丁之以祥雉為德,立其廟為高宗,遂作高宗肜日及訓。帝祖庚崩,弟祖甲立,是為帝甲。帝甲淫亂,殷復衰。帝甲崩,子帝廩辛立。帝廩辛崩,弟庚丁立,是為帝庚丁。帝庚丁崩,子帝武乙立。殷復去亳,徙河北。帝武乙無道,(中略)

 武乙獵於河渭之閒,暴雷,武乙震死。子帝太丁立。帝太丁崩,子帝乙立。帝乙立,殷益衰。帝乙長子曰微子啟,啟母賤,不得嗣。少子辛,辛母正后,辛為嗣。帝乙崩,子辛立,是為帝辛,天下謂之紂。

 上記の記述から系図を簡明に表示すると、次のようになる(全訳は省略)。

 ①湯王(天乙)、太丁(擁立前に死去)、②外丙(太丁の弟)、③中壬(太丁の弟)、

 ④太甲(太丁の子。太宗)、⑤沃丁(太甲の子)、⑥太庚(沃丁の弟)、⑦小甲(太庚の子)、⑧雍己(小甲の弟。衰退)、⑨太戊(雍己の弟。中宗。復興)、⑩中丁(中宗の子)、⑪外壬(中丁の弟)、⑫河亶甲(外壬の弟。衰退)、⑬祖乙(河亶甲の子。復興)、⑭祖辛(祖乙の子)、⑮沃甲(祖辛の弟)、⑯祖丁(祖辛の子)、⑰南庚(沃甲の子)、

⑱陽甲(祖丁の子。衰退)、⑲盤庚(陽甲の弟)、⑳小辛(盤庚の弟。衰退)、21小乙(小辛の弟)、22武丁(小乙の子。高宗。復興)、23祖庚(武丁の子)、24祖甲(祖庚の弟。衰退)、25庚丁(祖甲の弟)、26武乙(庚丁の子)、27文丁(武乙の子)、28帝乙(文丁の子。衰退)、29帝辛(帝乙の子。紂王)。

 上記の系図から、父子相伝の世襲を列記すると、①天乙-②外丙、④太甲-⑤沃丁、⑥太庚-⑦小甲、⑨太戊-⑩中丁、⑫河亶甲-⑬祖乙-⑭祖辛、21小乙-22武丁-23祖庚、25庚丁-26武乙-27文丁-28帝乙-29帝辛。以上の12組で、他は弟が王位を継承している。第21代の小乙の頃から父子世襲が定着したものと思われる。

 実際は、王位継承は平穏ではなかったようで、上記には次のような一節がある。

 自中丁以來,廢適而更立諸弟子,弟子或爭相代立,比九世亂、於是諸侯莫朝。

 ⑩中丁より以降は、廃嫡があったりして諸弟や諸子が立ち、弟と子が、あるいは互いに争って代立した、この(⑱陽甲まで)九代は乱れ、ここに諸侯は入朝しなくなった。

 また、王朝も29代も続くと栄枯盛衰を繰り返したようで、衰退と復興が何度も出てくるが、第22代の武丁の復興を最後に、衰退の一途をたどったものと思われる。

 商の時代、初めて国王の子を「子」と称するようになり、ここから王子や皇子の呼称が誕生する。また、後世には貴人や賢人の尊称として「子」が用いられるようになる(老子、荘子、孔子、箕子、孫子など)。従って、前述の「弟と子」は王の弟と王子のことである。

 太宗(太甲)

 初めは愚かで暴虐だったので、名臣として後世に名を残す伊尹によって三年間も幽閉され、そこで反省し、徳を積むようになり、改めて伊尹が王として太甲を迎え入れ、それ以降は善政を敷き、商の基盤を築いたことから太宗の尊号を受ける。有名な故事である。

 高宗(武丁)

 先天性の言語障害があったので、彼の代で文字が創作されたと推定される。また、歴史上で初めての固定的な軍隊組織をつくりあげている。さらに、新たに勃興してきた周の国王である季歴を謀殺して周の勢いを削いでいるが、この周の怨念が商王朝を滅ぼしたとも言える。

 武丁は「土方」に大軍を送り、さらに「鬼方」と3年間も交戦し、勝利を収め、「羌方」を討ち、次に「荊」と戦ったとある。ただし、それに疑問を呈する説もある。

 紂王(帝辛)

 商王朝最後の王。酒色に溺れて王朝を滅亡に導いた元凶とされる人物。

『新華社通信』2004年7月22日版

「中国の考古学者が商代最初の都城とされる河南省の偃師商城内で、大規模な人工池の遺跡を発見し、商代の帝王の池苑が確かに存在していたことが実証された。『史記』には商の紂王の『酒池肉林』の記載があるが、発見された池は研究の結果、史籍の記載に近く、商代の帝王の娯楽に供された『池苑』であるとされた」

 商の紂(ちゅう)王に関する「酒池肉林」の真偽はともかく、中国王朝の正史は儒教思想が根底にあり、教祖の孔子が「殷の三仁」と尊称した「比干、箕子、微子啓」などは有徳の賢者とされ、易姓革命(王朝交代)は王の徳の衰退を起因とする陰陽五行説の終始五徳論からも、紂王は悪逆非道な不徳の王にされたのかもしれない。

 紂王(ちゅうおう)に関する伝承の真偽はともかく、中国王朝の正史には儒教思想が根底にあり、教祖である孔子が「殷の三仁」と尊称した箕子などは有徳の賢者とされ、易姓革命(王朝交代)は王の徳の衰退によるとする終始五徳論(陰陽五行の項を参照)からも、紂王は悪逆非道な不徳の王にされたのかもしれない。

「殷の三仁(さんじん)」

 酒池肉林の故事に名を残す紂王を、叔父の比干と箕子、異母兄の微子啓の三人(殷の三仁)が諌めたが、比干は虐殺され、微子啓は商の祭祀の神器を抱いて周に亡命、最後に残った箕子にも危機が迫り、狂気を装ったが捕まって幽閉された(一説には逃れて朝鮮国王となった)。周の武王は、この箕子の収監を知って商打倒の軍をあげたといわれる。

『新華社通信』2002年4月11日版

「中国河南省衛輝市にある殷代の比干を祭った廟の石碑に彫られた殷比干莫(殷の比干の墓)の4文字を、専門家がこのほど中国に現存する唯一の孔子の真筆と鑑定した」

 殷の遺跡とされる衛輝市の墳墓の発掘現場から、「殷比干莫」と彫られた碑文を発見した。文献では孔子の親筆だとされており、その調査をした結果が上記の記事である。

『東大新報』2002年11月25日号

「本学の松丸名誉教授が調査の結果、河南省商丘で発掘された貴人墓(長子口墓と仮称)が、人骨鑑定等から文献上の微子(『呂氏春秋』では長子)の墓であると断定した」

 墓道を持つ大墓で、墓主の腰骨の辺りに黄泉(あの世)の案内を案内する犬、その犬の係りの骨が発見され、墓誌名からも微子と推定できる典型的な殷の王侯貴族の墓だが、墓主の人骨の鑑定で死亡年齢が60歳前後と文献上の微子と一致したようだ。

 上記二件の記事から、比干には立派な霊廟があり、微子も貴人墓であることから、往時から人々に尊敬されていたのは事実のようだが、ただし、なぜか中華に箕子の霊廟がない。

 箕子朝鮮伝承は、孔子の儒教が朝鮮半島に浸透した三世紀頃、楽浪郡豪族の韓氏が箕子伝承を利用して、韓氏の系譜の粉飾を図ったことで広がったとされ、その後、高麗時代の民族主義的な高揚感から、平壌に箕子陵や霊廟が建立されるほど信奉されるようになった。

「生贄制度」

 殷墟では青銅器以外にも不気味な遺物が発掘されている。安陽武官村の商王の大墳墓から、大量の豪華な金銀宝石の陪葬品の外に、殉葬された多数の奴隸の遺骨が出てきた。墓道の壁面に多数の首なし骸骨と頭蓋骨が配列されており、甲骨片上の文字から2,600人以上の奴隷が、埋葬者の先祖に対する生贄として屠殺されたことが判明した。

 祭祀権と王権が一体であった商時代には、祭祀に多数の人間を生贄として捧げる神事が執り行われており、西方の羌族を一度に数十人単位で捕獲して、祭壇に捧げられたとされる。

 ちなみに商族は異邦の土地を通るときは、邪霊を祓うために、異民族の生首を掲げて進んだことから、首が進むと書いて「道」という漢字を創作している。

「鬼方」

 高宗武丁は「土方」「鬼方」「羌方」を討ち、次に「荊蘇」と戦ったとされる。

 方とは「方国」のことで、諸侯の国を表すが、商代では「四方の国」、つまり自国の四方にある国(外国)という意味だが、異民族と限定している訳ではない。

『大戴記』帝系

 陸終氏娶于鬼方氏。鬼方氏之妹,謂之女隤氏。

 陸終氏は鬼方氏を娶った。鬼方氏の妹で、言うところの女隤(たい)氏である。

 陸終氏は三皇五帝の一人とされる高陽氏顓頊(せんぎょく)の後裔とされ、鬼方は古代から中原諸国と通婚していたようだが、その領域について論が定まっていない。

『竹書』『世本』

 鬼方即羌明甚。是则今青海,藏地喀木,及滇蜀之西徼,皆商代鬼方。

 鬼方とは、すなわち羌族であることは甚だ明白である。現在の青海や藏地喀木(ともに青海省)、および滇蜀(貴州省)の西の徼(異民族)で、皆、商代の鬼方である。

 延安属独立的方国鬼方之域。商帝武丁,曾発動大規模的討伐鬼方的戦争。《周易·既済》載「高宗伐鬼方,三年克之」(『延安歴史大事』陜西省延安市人民政府)

 延安市は独立方国の鬼方の領域に属している。商の武丁が、かつて鬼方との戦争に大規模な討伐を(帰属する部族に)発動した。『周易』既済には「高宗が鬼方を討伐、三年間でこれに勝つ」と記載されている。

 鬼方は延安市にいたのだと説明しているが、陜西省は、羌方、薫育、あるいは犬戎の領域であり、鬼方をそれらと同族だとするのだろうか。筆者には根拠が理解できない。

後漢書』

 至于武丁,征西戎、鬼方,三年乃克。[注[五]武丁,殷王也。易曰:“高宗伐鬼方。”前書音義曰:“鬼方,遠方也。”

 武丁に至り、西戎、鬼方を征伐し,(戦いは)三年に及んで勝利する。[注;武丁は殷王である。周易に言う「高宗が鬼方を討伐」。前書音義に言う「鬼方,遠方なり」

 なんとも簡明な説明である。古代にも鬼方の場所が特定できなかったようだ。

 長々と鬼方のことを書いたが、周は商の要請で鬼方と戦いながら、商が東方の人方との激烈な戦いを繰り返している間に、羌族の住む岐山南麓の平原に入り、連合して商に対抗する軍事勢力を築いていく。そして、これに諸侯が同盟してくるのだが、羌族は族人を略奪され生贄にされている恨みがあるが、鬼方が北方ではなく、西方の青海省や陜西省が領域であれば、周は鬼方と戦っているように偽装したことになる。

 いずれにせよ、鬼方はツングース語系諸族ではないようだ。

 この時期、すでにロシア沿海地方から松花江流域に粛慎(しゅくしん)が登場する。


  • 1050 いん殷王朝 今の河南省を中心に黄河下流域に威を振るう。「商」と自称。開祖は湯王。神権国家で、王は上帝(天)に仕える宗教的最高権威者として、卜占(ぼくせん)をもって天意をうかがった。30代紂(ちゅう)王の時、周(しゅう)の武王(ぶおう)に滅ぼされた。最後の都(王朝の後半期)が殷墟(いんきょ)。青銅器文化が栄え、文字(甲骨文)の使用開始。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/tungus-tsusi/tungus-tsusi-4-syo.htm


現在、存在が明らかにされている中国最古の王朝。本来は商といった。

前1550年、殷の湯王が、夏の暴君桀を滅ぼし、王朝を建てた(このような武力による政権交代を、放伐という)。都は河南省の二里崗遺跡の城郭がそれに当たると考えられている。以後、何度か遷都を繰り返し、次第に黄河中流中原に支配権を拡大していった。前13世紀に19代の王盤庚のとき、河南省安陽県の殷墟の地に遷都し、以後最後の紂王が前11世紀に周に倒されるまで続く。甲骨文字によるとこの都は大邑商と言われ、殷も当時は商といった。殷は高度な青銅器製造技術を持ち、甲骨文字を使用した。
邑制国家
 殷王朝は、殷王の支配する殷(当時は商と言われた)は一つの都市であり、周辺の邑と言われる都市国家との連合体を形成しており、その中で最有力であったので大邑と言われた。このような邑の連合体からなる殷王朝の国家形態を邑制国家と定義されている。殷王の権威は多分に宗教的な権威であり、神権政治が行われており、王が占いを行うときに使われたのが甲骨文字であった。また殷は青銅器製造技術を独占し、他の都市国家の首長に対して青銅器の祭器を分与することで権威を保っていたと考えられている。ただし、殷王と連合体を組む邑の範囲、つまり殷の勢力範囲をどもまでと見るかについては、華北の相当広い範囲と見る見方と、黄河中流域の狭い範囲とする見解とが対立している。
本来の国名は商
 用語集では、「殷は商とも称した」、あるいは「商は殷の別名」とも説明されているが、現代中国の歴史教科書では、商を正式な国号として次のように説明している。
(引用)「商の湯は毫(はく)に都を定めた。政治の混乱と水害により、商の前期にはしばしば遷都した。紀元前14世紀になって、商王の盤庚が殷に遷都すると、国は安定し始めた。後世の人は商を殷または殷商と呼んでいる。盤庚による殷への遷都ののち、商の統治範囲は拡大しつづけ、当時の世界の大国となった。」<中国中学校歴史教科書『入門中国の歴史』p.79 明石書店>
このように中国では殷ではなく「商」をこの王朝名として使われていているが、日本では「殷」という呼称で一貫して説明されることが定着している。


http://www.y-history.net/appendix/wh0203-015.html


殷(前1600年頃~前1050年頃)は山東省の沿海民族
殷は山東省から興った国。
竜山文化の一番古い黒陶文化が残っている山東省から、河北、河南に進出して殷王朝を建てた。まず北は河北省の一番北、モンゴルに近い藁城(コウジョウ)、そして西の洛陽のすぐ手前にある偃師(エンシ。夏王朝の都)まで一気に進出し、滅ぼしてから退いて鄭州(テイシュウ)に都する。南は揚子江を超えて寧郷(ネイキョウ)まで来ている。
image2010112504.jpg王朝の版図として、最大の外辺部分に非常に優れた青銅器を配置して、異民族に対して邪霊を祓うことを建国の第一の仕事とした。
寧郷の山の西に、南北に連なる武陵山脈があり、水稲文化を早くからもっていた苗族がいた。古くは南人と呼ばれ、非常に強悍で、殷にとっては恐るべき敵であった。南(右図)は銅鼓の形を示す字。
image2010112508.jpgそれで、殷人は西の方の羌(キョウ)族を祭祀の犠牲に用いることが甚だ多く、50羌、百羌、時には300羌を牲殺した。羌は集団で羊を飼い、後頭に辮髪(ベンパツ)の形を加えた字形が多いので(右図)、今のチベット族にあたる。このような大量の人牲はたぶん断首葬に用いられたもので、首祭りの呪的儀礼は、東南アジアから太平洋諸島にわたる未開の社会に残されている。
殷王朝は、日本の古代王権の性格と以下の点で非常によく似ており、東アジア的形態といえる。
1.婚姻制と王位継承
王統の間で近親婚(族内婚)、つまりイトコ婚が行なわれており、姉が嫁入りするとき妹も一緒にひきつれて行った。王位継承は兄弟相続で直系ではなかった。継続上二つのクラスがあり、甲乙のクラス、次に丙丁のクラスが継ぐというように交替の形で行なわれた。
2.神話
天地創成以来の神話をもち、その神々の子孫として王統譜が構成されている。
3.王朝の形成
各地の部族の首長を政治的秩序のもとに組織するために、(「部」的な)職能的部族として王室に奉仕させる形態で進められた。
4.文身・入墨の風習
文身の俗は東アジアを中心とする太平洋沿海諸民族のもので、内陸には存しない。
5.玉や子安貝を霊的なものとして珍重した
これも中国大陸のなかでは殷だけに特徴的に見られる。そして、あらゆるものが霊的な存在であるとの汎神論的な世界観をもつ。
image2010112510.jpg殷は、ゆたかな農耕社会を基礎として成立し、まつりを季節的なリズムとして営み、多くの神々とともに生きてきた。
なお沿海族はえびす、夷という。夷という字は腰を曲げた字(右図)。普通の人なら直立するが、日本人も沿海の人も、みな夷居(イキョ)してお辞儀をする、それで夷という。