清(読み)しん(英語表記)Qing; Ch`ing
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

しん
Qing; Ch`ing
中国史上,最後の王朝(1636~1912)。満州族の建てた征服王朝であり,清朝末期から中国近代史が始まる。満州人は明朝末期に海西女直,建州女直,野人女直の 3部に分かれ,明の支配下にあったが,建州女直出身のヌルハチ(奴児哈赤)が満州族を統一してハン(汗)位につき,1616年に国号を後金と号したのに始まり,以後宣統帝(→溥儀)まで 12代続いた。ヌルハチはサルフの戦いで明軍を破り遼東に進出し,第2代ホンタイジ(皇太極)は内モンゴルを征討すると崇徳1(1636)年に国号を大清と改めて皇帝に即位した。順治1(1644)年に李自成が明を滅ぼしたのに乗じ(→李自成の乱),呉三桂に導かれて中国内地に進出し北京を都とした。第4代康煕帝のときに三藩の乱を鎮圧し,最後の反清復明勢力であった鄭成功の子孫も帰順し,全中国の統一に成功した。またネルチンスク条約でロシアの東進を阻止した。続く雍正帝,乾隆帝時代に準部,回部に支配権を及ぼし,チベットを保護領にするなど今日の中国領土の原形をつくり上げた。安定した政治による経済発展もめざましく,「康煕,乾隆の盛治」を現出した。乾隆末年から嘉慶帝時代に白蓮教徒の乱(→白蓮教)などの国内の動揺,加えてヨーロッパ資本主義の進出が始まり,第8代道光帝のときに武力による開国,アヘン戦争が起こった。アヘン戦争を契機にヨーロッパ列強の中国進出は激化し,中国は半植民地化するにいたった。咸豊帝時代に太平天国の革命運動も展開され,清朝は内憂外患に大きく動揺する。同治帝から光緒帝初期の洋務運動に代表される富国強兵策,あるいは日清戦争敗北以後の伝統的支配体制の変革を目的とする戊戌の変法が展開され,支配体制内部からの改革も試みられたが成功せず,さらに義和団事変ののちには立憲案などの諸改革も推進されたが,「滅満興漢(満州人の支配体制を滅ぼし,漢人の支配体制を目指す)」の民族主義と反封建主義とに立脚した孫文に代表される革命勢力は辛亥革命を成功させ,1912年宣統帝は退位して清朝は滅亡し,中華民国が成立した。

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デジタル大辞泉の解説
しん【清】
中国最後の王朝。1616年、女真族のヌルハチ(太祖)が明を滅ぼし、国号を後金として建国。1636年、2代太宗が国号を清と改称。都を瀋陽から北京に移した。康熙・乾隆両帝のとき全盛。19世紀に入って欧米列強の侵略や、太平天国などの農民反乱により衰退。1912年、辛亥革命によって滅亡した。

しん【清/請】[漢字項目]
〈清〉⇒せい
〈請〉⇒せい
せい【清】[漢字項目]
[音]セイ(漢) ショウ(シャウ)(呉) シン(唐) [訓]きよい きよまる きよめる すむ さやか すがやか
[学習漢字]4年
〈セイ〉
1 水がきよらかに澄みきる。「清水・清濁・清流・清冽(せいれつ)/河清」
2 けがれがなくさっぱりしている。すがすがしい。「清栄・清潔・清純・清浄・清新・清清(せいせい)・清楚(せいそ)・清涼/血清」
3 心や行いがきよく正しい。「清貧・清廉」
4 払いきよめる。きれいにかたづける。「清算・清掃/粛清」
〈ショウ〉きよらか。「清浄」
〈シン〉中国の王朝名。「清朝/日清」
[名のり]きよ・きよし・すが・すみ
[難読]清水(しみず)・清清(すがすが)しい

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百科事典マイペディアの解説
清【しん】
中国史上,最後の王朝。満州の女真族が建国し,3世紀にわたって中国を支配した。姓は愛新覚羅(あいしんかくら)/(アイシンギョロ)。始祖ヌルハチは女真族を統一,1616年即位して後金(こうきん)国と号した。その子のホンタイジ(太宗)は1636年清と改称。第3代順治帝の1644年,明朝の滅亡に乗じて中国に入り,北京に遷都した。これより18世紀末まで,康煕(こうき)帝,乾隆帝の時代には極盛期に達した。領土も中国全土からモンゴル・チベット・台湾・新疆(しんきょう)に及び,歴代王朝の中で最大となった。清は満州人に対しては八旗の制度によって統制したが,中国支配は明朝の伝統を受けて,漢人を登用して行わせた。しかし,19世紀からは白蓮教徒の乱,太平天国の乱などの内乱とアヘン戦争,アロー戦争などの外圧が相次いで起こり,日清戦争に敗北するや義和団事件が起こった。光緒帝,康有為の戊戌(ぼじゅつ)変法も西太后の反対でつぶれ,他方,孫文らの革命運動が盛んになり,1911年辛亥(しんがい)革命の結果,中華民国が成立した。1912年宣統帝(溥儀(ふぎ))が退位して清朝は滅亡した。
→関連項目山丹交易|薪水給与令|台湾|中華人民共和国|ツングース語系諸族|徳川家慶|ドルゴン(多爾袞)|満州族|明|琉球|琉球処分

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世界大百科事典 第2版の解説
しん【清 Qīng】
中国の東北(満州)地方から興った満州族(漢人,漢族に対して満人,満族とよばれる)の王朝。1616‐1912年。はじめ国号を後金と称し,1636年(崇徳1)に清と改めた。東北を統一した後,44年(順治1)長城を越えて中国本土に入って国都を瀋陽から北京にうつし,明朝滅亡の後を継いで全中国を統治する征服王朝となった。44年万里の長城の東端にある〈山海関〉を通って中国本土に進入したので,それ以前の東北統治時代を〈入関前〉,それ以後を〈入関後〉と時代区分している。

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大辞林 第三版の解説
しん【清】
中国最後の王朝(1616~1912)。女真族出身のヌルハチが諸部族を統一して後金こうきん国を建て、その子ホンタイジ(太宗)が国号を清と改めた(1636年)。順治帝の時、明の滅亡に乗じて中国内地に進出、北京に遷都。康熙こうき・雍正ようせい・乾隆けんりゆうの頃最盛期を迎えたが、以後農民反乱の続発と欧米列強の外圧とに苦しみ、辛亥しんがい革命によって滅んだ。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

しん
中国の東北(満州)から興り、明(みん)を継いで中国を支配した満洲族の王朝(1616~1912)。中国史上最後の王朝で、その末期は中国近代史に入る。[川勝 守]
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全国統一まで
満洲族は半猟、半牧、半農の生活を営んだツングース系民族で、女真(じょしん)または女直(じょちょく)といわれていた。金(きん)の滅亡(1234)後、元(げん)・明(みん)に服属したが、明では海西(かいせい)、建州(けんしゅう)、野人(やじん)の3部に分かれ、衛所(えいしょ)制が敷かれた。海西、建州は耕牛や漢人労働の利用により、しだいに文化・経済生活を向上させた。17世紀に入ると、建州女直のヌルハチは、豊臣(とよとみ)秀吉の朝鮮出兵によって明の統制力が緩んだのを機として、女直諸部を統合し、1616年ハン位(清の太祖)について、国号を金(後金(こうきん))と称した。明は大軍を派遣したが、19年のサルフの戦いに敗れた。ヌルハチは遼東(りょうとう)平野に進出し、瀋陽(しんよう)(奉天府(ほうてんふ))に遷都した。26年ヌルハチが死ぬと、子のホンタイジ(太宗)が位につき、内モンゴルのチャハル部を討ち、「大元伝国(だいげんでんこく)の璽(じ)」を得たので、36年改めて皇帝の位につき、国号を清と称した。同年、朝鮮を完全に屈服させ、その宗主国となった。当時、中国では都市の民変、農村の抗租などの民衆運動が激化し、また朝廷内部の党争が尾を引き、明の支配は揺らいでいた。明から清へ投降する士大夫が多くなり、中国的な行政組織が整備された。1643年、太宗が没し、子の順治帝(じゅんちてい)が幼少で即位すると、睿親王(えいしんのう)ドルゴンが摂政(せっしょう)となり、翌年李自成(りじせい)によって北京(ペキン)が攻略されると、山海関の守将呉三桂(ごさんけい)と交渉し、呉三桂を援助し明皇帝の仇(あだ)に報いるとして、山海関を越え、華北に入った(清の入関)。清の大軍は北京を回復し、李自成を追って華北一帯を制圧した。清は北京に遷都し、明の後を継ぐ中国王朝となった。異民族支配への抵抗は、まず福王、唐王、桂王(けいおう)ら明の皇族、遺臣らによる南明(なんみん)の動きとなったが、大勢を回復することはできなかった。むしろ清の統一への障害は、一つには清初の三大思想家、顧炎武(こえんぶ)、黄宗羲(こうそうぎ)、王船山(おうせんざん)の流れをくむ江南士大夫の反清感情であり、もう一つは平定に功があった呉三桂(平西王、雲南)、尚可喜(しょうかき)(平南王、福建)、耿仲明(こうちゅうめい)(靖南(せいなん)王、広東(カントン))のいわゆる三藩の強大化にあった。1645年、南京(ナンキン)を攻略すると、女真の風習である弁髪を強制したのも、中華の誇り高き江南人士に清への服従を強いる踏絵であった。そのほか機会をとらえては奏銷案(そうしょうあん)(税の未納者を処罰したもの)などの疑獄を構えて反清排満感情を抑圧し、文字の獄、禁書を行った。三藩に対しては、急死した順治帝のあと、8歳で即位した康煕(こうき)帝が成人して親政を始めるや、1673年の撤藩(てっぱん)の議を契機に三藩削除の策を進めた。そのため三藩の乱が起こり、一時は南方6省を失うという事態にまで及んだが、81年、鎮圧に成功した。ついで83年には、最後の明の遺臣で台湾に拠(よ)った鄭成功(ていせいこう)の子孫も帰順し、清の統一は完成した。[川勝 守]
全盛期
康煕帝から雍正帝(ようせいてい)を経て乾隆帝(けんりゅうてい)の中ごろまでの約130年間は清の全盛期で、その版図は拡大した。康煕帝は東進南下したロシアと1689年ネルチンスク条約を結んで、ロシア人を黒竜江(こくりゅうこう)流域から駆逐した。ついでモンゴル高原に覇を唱えたジュンガルに雍正、乾隆の3代にわたって遠征し、青海を版図に加え、チベットを保護国化し、ジュンガルの故地に準部(じゅんぶ)・回部(かいぶ)(後の新疆(しんきょう)省)を置いた。乾隆帝の時代には、さらに西トルキスタンのコーカンド、ブハラ、アフガニスタンにも勢力を伸ばし、ビルマ(現ミャンマー)、ベトナムから、ネパールのグルカにまで遠征軍が送られ、諸国は清の朝貢国となった。
 康煕、雍正、乾隆の3帝はいずれも有能な専制君主で、中国の文化や伝統を尊重して漢人官僚を重用し、租税の減免、黄河の治水、官吏の綱紀粛正を断行して民心を集め、社会の安定に寄与した。しかし、乾隆帝の晩年になると、権臣和(わしん)が賄賂(わいろ)をむさぼるなど、官吏の腐敗が著しくなって政治が乱れた。しかも、人口が3億人を超え、余剰人口は都市の流民や遊民、秘密結社や宗教結社を頼る者となった。そのほか少数民族地区へ入り込む者や海外へ出て華僑(かきょう)となる者も増大した。支配民族である満洲族の生活も苦しくなった。社会矛盾が増大して、地方に反乱が起こった。乾隆末年、四川(しせん)、雲南の辺境に起こったイスラム教徒(回民)やミャオ族などの諸反乱は、乾隆帝が嘉慶帝(かけいてい)に譲位した(1795)ころ、10年にわたって湖北ほか5省を席捲(せっけん)した白蓮(びゃくれん)教徒の大反乱となった。官兵である八旗(はっき)は無力で、民間の地主の軍(郷勇(きょうゆう))の力を借りた。しかし、その後も華南の海寇(かいこう)や北京の天理教の乱などが続き、世情は騒然としてきた。[川勝 守]
列強の侵略
すでに18世紀末に産業革命の段階に入ったイギリスは、販路拡大を企図して、乾隆帝のときにマカートニー、嘉慶帝のときにアマースト、道光帝のころネーピアなどを派遣して交渉にあたったが成功せず、1840年アヘン問題に端を発してついに戦争となった(アヘン戦争)。広州の林則徐(りんそくじょ)らの活躍は目覚ましかったが、戦争の長期化を恐れた朝廷は、イギリスと講和し、1842年南京条約を結んだ。この条約で香港(ホンコン)島が割譲され、上海(シャンハイ)ほかの5港が開港された。翌43年には開港場における居留地(租界)の設置、領事裁判権などを認める不平等条約である虎門寨(こもんさい)追加条約が結ばれた。44年にはアメリカ(望廈(ぼうか)条約)、フランス(黄埔(こうほ)条約)もイギリス同様の条約を結んだ。以後、清朝は列強の中国侵略の媒体としての性格を強めた。しかも中国人の中華意識と中国の土地が広く物が豊か(地大物博)であることに支えられた清は、自由貿易と国際法になじまず、再度の戦争を繰り返した。1856年のアロー戦争、84年の清仏戦争、94年の日清戦争など、清は戦争に敗北し多大な賠償金を負担した。こうした結果、大量の銀が流出し、人々は物価騰貴に苦しみ、また、列強による中国内の権益拡大とともに、従来の生活の変更を余儀なくされる者も増大した。洪秀全(こうしゅうぜん)が清朝打倒と地上の天国の建設を目ざした太平天国も、地主制などの封建的諸関係の変革とともに、外国勢力と対決せざるをえなかったのは、中国近代史の必然であった。清軍の無力を知った地主や大商人は情勢の進展に驚き、郷土の自衛軍を組織した。なかでも曽国藩(そうこくはん)の湘勇(しょうゆう)、李鴻章(りこうしょう)の淮勇(わいゆう)がその中心となった。
 太平天国の鎮圧後、曽国藩、李鴻章、左宗棠(さそうとう)らの漢民族出身の官僚は政府の要職を占め、西洋の技術を取り入れ、富国強兵・殖産興業に努めた。これを洋務運動といったが、「中体西用(ちゅうたいせいよう)」といわれるように中国の政治体制を変えずに西洋の科学技術を取り入れようとしたもので、社会の近代化は進まなかった。日清戦争の敗北は洋務運動の破綻(はたん)を示し、しかも日本への遼東半島割譲に反対するロシア、ドイツ、フランスの三国干渉の結果、列強の中国における利権獲得競争が激化した。康有為(こうゆうい)、梁啓超(りょうけいちょう)らは、清の支配体制を日本の明治維新に倣って立憲君主制にすべきであると主張し(変法自強)、1898年光緒帝(こうしょてい)にその主張が認められ、改革が始まった(戊戌(ぼじゅつ)の変法(へんぽう))。しかし西太后らの保守派は、軍を握る袁世凱(えんせいがい)と結び、改革派を弾圧、康有為らは日本へ亡命し、改革は100日で挫折(ざせつ)した(戊戌の政変)。[川勝 守]
専制国家の終焉
当時、民衆のキリスト教排斥(仇教(きゅうきょう))と列強の経済的進出への反対が高まり、これを山東を中心とした民間宗教結社の義和団が組織した。義和団は1898年暴動を起こし、「扶清滅洋(ふしんめつよう)」を旗印に教会、鉄道などを破壊しながら北京に迫り、外国公使館地域を包囲した。これに対し列強は、日本・ロシアを中心に軍隊を派遣し、義和団を鎮圧した。多大な賠償金の支払いと巨額の借款は中国の半植民地化を促進させたが、しかし中国民衆の動向は革命の機運に向かっており、「滅満興漢(めつまんこうかん)」の民族主義は華僑(かきょう)、留学生、民族資本家の反封建主義と合し、孫文(そんぶん/スンウェン)の中国同盟会に結集した。これに対し清朝は、1908年憲法大綱を発表し、9年後の国会開設を約束したが、すでに遅く、四川省での鉄道国有化反対運動が各地へ波及し、11年10月10日には武昌(ぶしょう)の湖北新軍が蜂起(ほうき)して辛亥(しんがい)革命となり、12年1月、革命派は孫文を臨時大総統に推し、南京に中華民国の成立を宣言した。ここに清朝最後の皇帝宣統帝(せんとうてい)溥儀(ふぎ/プーイー)は退位したが、それは中国専制君主制数千年の終焉(しゅうえん)でもあった。[川勝 守]
行政目次を見る
300万人に満たない満洲族が、100倍の人口をもち進んだ社会経済状態の中国を制圧できたのは、満洲族を残らず皆兵とした八旗の制度によって圧倒的な軍事力を支えとした一方、政治・行政制度では、前代の明の官制を、欠陥を是正しながらほぼ全面的に踏襲したことによる。しかし、やはり異民族支配の王朝としての特色が官制上にみられる。なお、清末に至り、西洋の制度を取り入れて諸改革が行われた。[川勝 守]
中央官制
太祖時代の1629年、漢文翻訳・国事記録の機関として文館が設置され、次の太宗時代の1636年に内国史院、内秘書院、内弘文院の内三院となり、各大学士が置かれたが、皇帝直属の書記室にすぎなかった。1658年、内三院は改められ、明制の内閣が設けられ、殿閣大学士と協弁大学士が置かれた。また別に最高政務機関としては太宗時代から皇族・満洲族貴族からなる議政王大臣があり、1644年の入関後も軍事をはじめ重要な国務の審議にあたったが、雍正年間(1723~35)に至り新たに軍機処が設けられ、内閣大学士、六部(りくぶ)尚書・侍郎のなかから軍機大臣が任ぜられ、重要な政務はここに集中するようになった。政務執行機関は吏・戸・礼・兵・刑・工の六部(りくぶ)、大理寺以下の5寺、監察機関の都察院(とさついん)のほか、翰林院(かんりんいん)、国子監(こくしかん)、欽天監(きんてんかん)など明制を継承した。満洲族関係の宗人府、内務府や藩部の事務を扱う理藩院(りはんいん)などを除く中央官庁の長官は、いずれも満漢併用(まんかんへいよう)であった。なおそのほかには宗室欠(そうしつけつ)、満州欠、蒙古欠(もうこけつ)などの専欠(ある特定の身分に限って、官職上の地位を与える)の制もとられていた。清末になると外交が重要となり、1861年に総理各国事務衙門(がもん)が設けられ、義和団事件後さらに外務部に改められた。1906年立憲準備とともに官制の大改革が行われ、一一部二院制が行われた。08年には資政院が開かれ、11年には内閣・軍機処が廃止され、責任内閣制が実施された。なお、この間1905年には、隋(ずい)・唐以来行われた科挙が廃止され、学校出身者が任用された。[川勝 守]
地方官制
中国本土、東北、台湾を直轄地とし、モンゴル、青海、チベット、新疆を藩部とした。中国本土は18省に分けられ、各省に巡撫(じゅんぶ)、数省ごとに総督が置かれ、総督は地方の最高長官であった。省の下は府、州、県、庁に分けられ、長官を知府、知州、知県、同知といった。なお省と府との中間に道が置かれ、道員がいた。満州は清朝発祥の地として重視され、盛京、吉林(きつりん)、黒竜江の3将軍が置かれ、特別の軍政が敷かれた。[川勝 守]
兵制
兵制は清朝独特で、その中心は八旗である。八旗は清の興起とともに行われた軍事ならびに行政の組織で、黄・白・紅・藍(あい)の四色旗と各色旗にへりをつけた4旗の計8旗に全満洲族が編成された。各旗は男300人を1ニル、5ニルを1ジャラン、5ジャランを1旗とした。のち、太宗時代にモンゴル、漢民族各八旗がつくられた。入関後にはもっぱら漢民族による緑営も創設され、北京の治安警察のほか、各省総督、巡撫、提督、総兵の指揮下で各地の治安維持にあたった。しかし、清末の白蓮教徒の乱や太平天国では、八旗、緑営ともに無力で、かわって郷勇が用いられた。同治(1862~74)中興期には李鴻章が郷勇に洋式武器を与えたり、八旗、緑営から選抜した練軍をもって洋式陸軍化を試み、また曽国藩が長江水師をつくり、ついで南洋・北洋水師がつくられた。とくに李鴻章の北洋水師は強力で近代海軍となったが、清の陸・海軍ともに日清戦争で大敗し、以後は張之洞(ちょうしどう)の自強軍に始まる各省の軍が次々とでき、これを新軍と称した。なかでも袁世凱の率いる北洋常備軍がもっとも精鋭であった。[川勝 守]
税制・財政
税制は、明末の一条鞭法(いちじょうべんぽう)を継承したが、康煕帝の末年に盛世滋生人丁(せいせいじせいじんてい)の制定が行われ、丁額(人頭税額)全体が固定されたことによって、人頭税(丁税)を土地税(地税)のなかに繰り入れることが実現した。やがて、これは雍正帝の時代に地丁銀制となったが、こうした税法の大改革により、これまで中国で長く行われてきた、税と徭役(ようえき)という2種の国家収取は税一本にまとめられた。税制と関連した制度に村落・郷村制度があるが、これも明代以来の里甲制が地方的変差をみせながら継承された。江南の江蘇(こうそ)、浙江(せっこう)では明末以来、均田均役が行われたが、これも雍正年間以後、順荘編里となった。その他の地域については不明な点が多い。一方、治安維持の郷村組織としては、近隣どうしの連帯責任を重んじる保甲制度と、郷紳地主の農村指導を期待した郷約が行われた。
 地丁銀の歳入全体に占める比重は乾隆年間(1736~95)にほぼ70%に達したが、これに次ぐ主要税目である塩課、関税の二者がしだいに増加した。とくに清末には、五港開港後の海関税や、太平天国鎮圧の軍費として新設された釐金(りきん)など、内地、外国両面の関税の増設があった。[川勝 守]
法制
入関前には成文法典はほとんどみられなかったが、1646年刑法典として明律を踏襲した清律集解附例(しんりつしっかいふれい)が制定され、ついで79年刑部現行則例がつくられ、それが律に取り入れられ、1740年に清律令として集成された。行政法典も明会典を踏襲して1690年康煕の大清会典が作成され、以後、雍正、乾隆、嘉慶、光緒の各代にわたって編纂(へんさん)されたが、初め会典内に入れられてあった事例は乾隆以後、会典則例または会典事例として分離独立させた。ただし会典は大綱を示したにすぎず、実際の運用には各官庁別につくられた則例、事例が重んぜられた。[川勝 守]
社会・経済目次を見る
宋(そう)・元・明と同じく官僚、地主、商人が社会の支配層であり、彼らの所有地は佃戸(でんこ)によって耕作された。一方、都市に住む職人や商人も零細な経営者が多く、しかも官僚の統制下にあった。明の中期以後、銀が流通すると、農村に定期市が増え、それらは鎮や市に発達した。この間、農村の貧富の差がさらに拡大し、多くの農民が土地を失って佃戸となり、また都市の遊民となった。その反面、没落した者の土地を買収した大地主が出現し、彼らは科挙に及第して進士や挙人などの身分を獲得し、また官職を手に入れて郷紳とよばれ、都市に広大な邸宅を構えた。明末清初の戦禍の後、清朝政府が流通の抑制や物価の安定を図ったこともあって、農村の回復がみられた時期もあったが、一般的には農村はしだいに疲弊するのに対し、都市は支配層や商工業者を中心ににぎわいをみせた。都市の繁栄は諸産業の発展にも支えられていた。農業では揚子江(ようすこう)中流域の湖南・湖北地方の開発が進み、揚子江の下流デルタをしのぐ穀倉地帯となったが、清後期には台湾、広西、さらに東北三省にも開拓が始まった。一般に華中・華南は稲作、華北は麦・粟(あわ)作が中心であるが、二毛作や二期作など集約農業が行われ、養蚕、綿花栽培のほか、茶、紙、藍(あい)、麻、豆などの手工業の原料生産が増加し、清代から新たにトウモロコシ、甘藷(かんしょ)、タバコ、ラッカセイなどの栽培が普及した。これらの新種の作物はおもに飢饉(ききん)対策用や換金作物であったから、その普及は農民や都市住民の生活の安定に寄与した。工業では伝統的な生糸・絹織物のほか、揚子江下流デルタ地方の上海付近に、明代以来綿織物業の農村家内工業が普及しており、また景徳鎮(けいとくちん)の陶磁器生産には数十万の職人が従事し、生産過程での分業も行われた。農業・工業の生産の発展は商業を盛んにした。北の山西商人(山西省・陝西(せんせい)省出身)、南の新安商人(安徽(あんき)省出身)などは、各地に同業あるいは同郷ごとに会館や公所を設けて結束し、全国的な取引に応じた。清代中期以後には、福建商人(商(びんしょう))、寧波(ニンポー)商人(または浙江商人)も上海などに進出したが、やがて華僑の活動とともに海外での活躍が目だった。また1757年以後、対外貿易は広東1港に限られていたが、そこで取引をしていたのはいわゆる広東十三行とよぶ特許商人公行(コーホン)であった。
 経済の発展によって人口は激増した。18世紀には中国の隅々まで開発が進み、湖南、四川、広西、貴州、雲南などに分布するミャオ族、チワン族などの少数民族の居地まで及んだ。しかしその結果、彼らと漢族との摩擦を生じ、少数民族の反乱を招いた。また、辺境に流亡してきた農民は白蓮教などの秘密宗教に頼って、しばしば反乱を起こした。なお、辺境や少数民族地区でなくとも、農村の過剰人口は、ともすれば都市に流入し、遊民や無頼となったが、この階層を中核として清代には政治秘密結社の幇(パン)(青幇(チンパン)・紅幇(ホンパン)など)や会党(三合会や哥老(かろう)会)ができた。清末の太平天国運動や辛亥革命にもこうした会党の活動がみられる。
 清は初め海禁を厳しくし、広東1港で、貿易は茶、生糸輸出を主とする片貿易であったが、19世紀に入り、インド産アヘンが密輸入されるとその関係は逆になった。アヘン戦争後、引き続くアヘン輸入と銀の流出のため中国経済は疲弊したが、農業と結合して驚くべき経済性をもつ在来家内綿工業が抵抗し、イギリス産業資本の綿織物輸出の思惑は外れた。しかしその後の執拗(しつよう)な戦争、条約取決め、政治圧力によって、1880年代には綿製品の輸入はアヘンをしのぎ、逆に綿花が出超に転じるなど貿易構造は原料植民地的な型を示した。この時期、洋務運動が展開し、軍需工業のほか上海機器織布局など民需企業にも官僚資本の進出があったが、いたずらに民間企業の発展を抑えただけであった。他方、日清戦争後、帝国主義段階に入った列強の中国分割は露骨となり、借款、金融、鉄道利権の獲得、企業の直接進出の形で強められ、中国は完全に半植民地化した。[川勝 守]
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清は好学の皇帝が多かったが、とくに康煕帝は呉三桂ら三藩に対抗して、江南士大夫の心をつかむためにも、学者を招いて講学させ、朱子学を正統的な官学とし、漢文化になじんだ。一方、明末以来の学者顧炎武、黄宗羲、王夫之(おうふうし)らは野にあって、反満洲族的な民族意識や政治観をもった書物を著した。清朝はやがてこれらに対し厳しい態度で臨み(文字の獄、禁書)、書物の編集事業に事寄せて国家検定の作業を行った。そのため学問は政治から遊離し、ひたすら古典の実証と解釈に沈潜した。この学を考証学とよぶが、その祖の顧炎武がもっていた激しい経世(政治的実践思想)の念は失われていった。史学の銭大(せんたいきん)、哲学思想の戴震(たいしん)、文字音韻学の段玉裁らの学者が輩出し、康煕帝の『康煕字典』、康煕・雍正帝の『古今図書集成』、乾隆帝の『四庫全書』などの大規模な文化事業に動員された。考証学には近代的批判精神や科学思想の萌芽(ほうが)もみられるが、やがてその非実践性から、道光以後の中国社会の危機のなかで、経世を重んじる公羊(くよう)学派の康有為、梁啓超の台頭をよび、古文学派においても曽国藩や張之洞の宋学復興の運動となった。曽、張らの主張は洋務運動のなかで「中体西用」となって展開されたが、やがて厳復らによる西洋思想の本格的紹介や、欧米、日本への留学による新思想、新学問の経験によって清朝文化は幕を下ろす。孫文の民族・民権・民生の三民主義はその結晶であった。
 清代の文学は、元・明に引き続いて戯曲や小説が多いが、戯曲では『長生殿伝奇』『桃花扇伝奇』が二大名作とされ、これらは中国古典劇の集成である京劇で上演された。小説では『聊斎志異(りょうさいしい)』『浮生六記』などのほか、『儒林外史』『紅楼夢(こうろうむ)』の二大長編がつくられた。これらはいずれも、爛熟(らんじゅく)しきった旧中国社会の満洲族貴族や漢民族官僚の家庭と人物を具体的に描写している。また清末には林(りんじょ)らによって西欧近代小説の紹介が始まる一方、『官場現形記』『老残遊記』『二十年目睹之怪現状(もくとのかいげんじょう)』など官界の腐敗を暴露した小説が現れ、『申報』『蘇報』『益聞録』などの新聞の発刊も始まった。
 絵画の主流は、明以来の南画であるが、清初に明末の董其昌(とうきしょう)の流れをくむ王時敏、王鑑(おうかん)、王(おうき)、王原祁(おうげんき)、呉歴、寿平(うんじゅへい)の四王呉が現れ宮廷画壇をつくったが、石濤(せきとう)、八大山人らの激しい抵抗精神をもつ作風も盛んであった。なお、イタリア人カスティリオーネ(郎世寧(ろうせいねい))が、西洋の遠近法や陰影法などの作風をもたらし、中国絵画に影響を与えた。
 書道は、清中期までは明末の董其昌の流れが大勢を占めたが、清末に北朝の碑の書法が重視され、阮元(げんげん)、包世臣(ほうせいしん)らによって新風がおこった。
 工芸は陶磁器、玉器、ガラス器、文房具などに豪華で精巧なものがつくられ、宮廷や官僚士大夫の文人趣味を増長させた。
 建築は、宋~明の伝統様式を継承したが、建築技法や彩色に技巧が凝らされた。なお離宮である円明園にはバロック式洋風建築もつくられた。[川勝 守]
『増井経夫著『中国の歴史7 清帝国』(1974・講談社)』
[参照項目] | 日中交渉史
[年表] | 清の時代(年表)

清(愛新覚羅氏)/略系図

清の版図

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精選版 日本国語大辞典の解説
きよ・い【清】
〘形口〙 きよ・し 〘形ク〙
[一] 物事について、けがれやよごれがなく、美しいさまである。
① けがれのないさま。清浄なさま。また、水や月などの澄みわたっているさまをもいう。
※万葉(8C後)一五・三七〇六「玉敷ける伎欲吉(キヨキ)渚(なぎさ)を潮満てば飽かず我行く還(かへ)るさに見む」
※源氏(1001‐14頃)桐壺「空きようすみわたれるに」
② さわやかで、気持のよいさま。
※万葉(8C後)六・一〇〇五「川速み 瀬の音そ清寸(きよき) 神さびて 見れば貴く」
[二] 心、気持、動機などについて、けがれやよごれがなく、美しいさまである。
① 心によこしまな、濁ったところのないさま。公明正大なさま。二心のないさま。忠義なさま。
※万葉(8C後)一八・四〇九四「ますらをの 伎欲吉(キヨキ)その名を 古(いにしへ)よ 今の現(をつつ)に 流さへる 祖(おや)の子等そ」
② いさぎよいさま。卑怯でないさま。
※曾我物語(南北朝頃)一〇「人手にかからんより、きよき自害してみせ申さん」
[三] (連用形が副詞的に使われて) 残すところのないさま。
※枕(10C終)二七六「つねにおぼえたる事も、また人の問ふに、きよう忘れてやみぬるをりぞ多かる」
きよ‐げ
〘形動〙
きよ‐さ
〘名〙
きよ・し【清】
〘形ク〙 ⇒きよい(清)
きよ・む【清】
〘他マ下二〙 ⇒きよめる(清)
しん【清】
一六一六年から一九一二年まで続いた中国最後の王朝名。建州女真出身のヌルハチ(太祖)が満州族を統一し後金を建国、子のホンタイジ(太宗)が一六三六年に国号を清とした。世祖(順治帝)のとき明の滅亡に乗じて中国にはいり北京に遷都。版図は台湾・外蒙古・チベット・ジュンガル・カシュガルにおよび、漢・唐をしのいだ。康熙・雍正・乾隆時代に最盛期に達したが、一八世紀末から国内に反乱が続発、欧米列強の外圧も加わって衰退し、一九一一年の辛亥革命により翌一二年宣統帝が退位して滅亡した。
すが‐し【清】
〘形シク〙 ⇒すがしい(清)
すが‐し・い【清】
〘形口〙 すがし 〘形シク〙 さわやかで気持がよい。すがすがしい。
※長塚節歌集(1917)〈長塚節〉大正三年「垂乳根の母が釣りたる青蚊帳をすがしといねつたるみたれども」
せい【清】
〘名〙 (形動)
① 澄みきってきよいこと。けがれのないこと。さっぱりしていること。また、そのさま。
※正法眼蔵(1231‐53)行持下「開闢よりこのかた化俗の人なし、国をすますときをきかず。いはゆるは、いかなるか清、いかなるか濁としらざるによる」
※花柳春話(1878‐79)〈織田純一郎訳〉五「其声の清且つ美なるは」 〔書経‐舜典〕
② 「せいおん(清音)」の略。
③ 酒のことをいう、人形浄瑠璃社会などの隠語。
※滑稽本・戯場粋言幕の外(1806)下「酒の事を清三郎、略して清三と云。ざぶらうともいふて古めかしきゆゑ、せいなどと又略してつかふ也」

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
世界大百科事典内の清の言及
【地主】より

…こうして,預所が当該荘園の地主であるという事例が認められるが,かといってつねに地主=預所とは限らない。1310年(延慶3)9月の大和国平野殿荘預所平光清重陳状案に,課役負担をめぐる預所と百姓との相論に際しての預所側の主張として,〈凡そ当国諸庄薗之習,地上果役に於ては,地主(名主の事也)半分,百姓半分沙汰致すは通例也〉(原漢文)と述べられているような例もある(東寺百合文書)。また戦国期の興福寺大乗院領神殿荘に関して,院主尋尊は〈地作一円重職御領也〉といっているが(大乗院寺社雑事記),これは同荘の地主職と作主職とを領主大乗院があわせ所有するのだという主張である。…
【琉球処分】より

…明治政府は王国体制のまま存続しつづける琉球の処遇について画策し,1872年(明治5)9月,琉球王国をひとまず〈琉球藩〉とし外務省の管轄とした。つづいて〈琉球藩〉を廃して〈沖縄県〉を設置しようとしたが,琉球側の執拗な抵抗と琉球に対して宗主権を主張する中国(清朝)の強い抗議にあい,容易に意図を実現することができなかった。74年,明治政府は先に台湾に漂着して殺害された琉球人に対する報復措置を名目に台湾出兵を行い,琉球が自国の版図であることを中国側に示した。…

※「清」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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