渤海
渤海/海東の盛国
7世紀末に中国東北部を中心に建国されたツングース系民族の国。唐の冊封を受け、律令制を取り入れ「海東の盛国」と言われた。
7世紀末、シベリア南部の日本海岸にツングース系靺鞨族の大祚栄が建国した。唐王朝が中国を統一した7世紀ごろ、その東北の満州地方には、契丹(モンゴル系)と靺鞨が台頭してきた。靺鞨はツングース系で高句麗と同系統の民族であった。契丹は唐の太宗に服属し、その高句麗遠征に協力した。一方の靺鞨は668年、高句麗が唐の攻勢を受けて滅亡した後、大祚栄が出て、高句麗を復興させるとして、696年に遼東地方に震国を建てた。さらに大祚栄は713年に唐から渤海国王に冊封され、それ以後は渤海国を国号とした。
渤海の支配領域は、北は黒竜江に接し、シベリアおよび沿海州南部から、中国の東北地方(旧満州)の東半分、さらに鴨緑江の南の平壌を中心とした朝鮮北部に及んだ。つまり、現在のロシア・中国・北朝鮮の三国に及んでいる。
唐・日本との関係
大祚栄は713年に国号を渤海国と改め、唐から冊封を受け、その文化と律令制度を取り入れて、その支配領域は満州から朝鮮半島北部に及び、新羅と対抗した。日本にも727年以来渤海使が来航し、交易が行われた。日本からも遣渤海使が派遣され、絹などを輸出した。渤海の都の上京竜泉府(東京城)も日本の平城京と同じく長安城を模したもので、その故地からは和同開珎などが出土する。
「海東の盛国」
渤海は8~9世紀に朝鮮北部から中国東北部にかけての日本海岸に栄えたツングース系の国家。唐の文化を取り入れ、仏教文化が栄えており、唐では渤海を「海東の盛国」と呼んでいたという。
Episode 渤海に渡った日本の「舞女」
渤海の第3代の王、文王大欽茂(在位737~794)は、755年頃都の上京竜泉府をつくり、在位中に唐へ29回、日本へ10回の使いを送るなど、積極外交を展開した。日本も何度も遣渤海使を派遣しているが、上京竜泉府で発掘された和同開珎は758年に出発した小野朝臣田守の贈り物の一部であろうと推定されている。『新唐書』渤海伝によれば、唐の大暦年間(766~779年)、「日本舞女」十一名が渤海から唐朝に献じられた、と伝えている。日本側の資料には無いが、あるいは采女の中から送り出されたのかもしれない。彼女たちのその後はわからないが、日本、渤海、唐をめぐる物的、人的交流が盛んだったことが偲ばれる。<藤井一二『和同開珎』中公新書 1991 p.62>
10世紀の変動と渤海の滅亡
渤海は武王、文王と三代にわたって安定したが次第に内紛が多くなり、926年に耶律阿保機の率いる契丹に滅ぼされた。契丹はこの地に東丹国を置いたが、実質的には直接統治だった。この時期、唐の滅亡(907年)と五代十国の争乱をうけてアジアは激動している。朝鮮では新羅が滅亡し、936年に高麗が成立、雲南では937年に大理が成立、ベトナムでは939年に呉権が中国から自立した。また937年には契丹が遼と称している。そのような時期、日本では承平・天慶の乱(935~941年)が起こっている。
Episode 渤海滅亡と平将門の乱
10世紀は唐の滅亡をうけて東アジア各地で大きな変動が起こった時期であった。渤海の滅亡もその動きのひとつであったが、同じころ日本においても古代末期の大反乱、平将門の乱(藤原純友の乱と併せて承平・天慶の乱という)が起こっている。その乱の当事者である将門が939年に「新皇」として即位したときに、次のように言ったと『将門記』にでている。
(引用)今の世の人は、必ず撃て勝てるを以て君と為す。たといわが朝に非ずとも、みな人の国にあり。去ぬる延長年中(923~930)の大契丹王の如きは、正月一日を以て渤海の国を討ち取りて、東丹の国に改めて領掌せり。いかんぞ力を以て虜領せざらむや。<『将門記』2 梶原正昭訳注 東洋文庫 p.154> 一部わかりやすいように文字を改めた。
現代は力で権力を握るものなのだ、たとえ日本に例がなくとも、契丹が渤海を滅ぼし、力を以て国を奪ているではないか。といって武力で権力を奪取する正統性を契丹が渤海を滅ぼしたことをあげて主張しているのである。渤海滅亡は将門が反乱を起こした925年の9年前であるが、渤海の残党が930年に日本に使者を派遣し、救援を要請したが朝廷は拒否したことがあったので、アジアの出来事が日本でも知られていたのだ。将門の言葉は彼自身の言葉かどうか疑う説もあるが、当時の日本の権力闘争にも国際情勢が影響していたことを示す言葉として興味深い。
海東の盛国
中国東北地方(満州地方)は現在、東北三省、つまり黒竜江省(こくりゅうこう)、吉林省(きつりん)、遼寧省(りょうねい)が位置する地方である。5世紀後半から6世紀にかけて、その東北地方の松花江(しょうかこう。スンガリ川。黒竜江(アムール川)最大の支流)流域を居住していた勿吉部(もつきつぶ)といわれるツングース系(?)の部族がいた。勿吉は中国の南北朝時代(439-589)の北朝側である北魏(ほくぎ。386-534)、また北魏分裂後の東魏(とうぎ。534-550)に朝貢していた部族で、非常に勇猛だったと伝えられ、近隣国からは怖れられていた。5世紀末には扶余(夫余。ふよ。ツングース系(?)の貊族(ばくぞく)の建国。B.C.238-A.D.494)を倒すなど強い勢力を誇っていた。
この勿吉は、隋(ずい。581-618)の時代になるとその名が消え(扶余系からでた高句麗(こうくり。コグリョ。B.C.37?-A.D.668)に滅ぼされたとも言われる)、これに代わって、満州地方で勿吉の支配下にあった多くのツングース系諸部族が自立したが、これらの連合体を靺鞨(まっかつ)という(中国では、勿吉と区別するために隋朝以降に満州方面に出たツングース系諸部族の総称を、同音異字の「靺鞨」と表記した)。
靺鞨は多くの部族に分かれていたが、中心は7つの部族で、その中でも現在の吉林省方面にいたとされ、高句麗に服属した南の粟末部(ぞくまつぶ)や、黒竜江省方面にいたとされ、のち世に出る女真族(じょしん。女直。じょちょく)を生むことになる北の黒水部(こくすいぶ)の二大勢力が中心であった。7部族の他は粟末部から東南にいた白山部(はくさんぶ)、北部にいた伯咄部(はくとつぶ)などであった。
靺鞨二大勢力の1つであり、高句麗に付いていた粟末部は、さらに内部で幾つかの部族に分かれていた。隋の煬帝(ようだい。位604-618)は3度にわたる高句麗遠征(611,612,614)の際、粟末部内の幾部かを隋に投降させ、さらに彼らを営州(遼寧省・朝陽市方面。ちょうよう。同省西北部)へ移住させた。まもなく隋は滅び、唐(とう。618-907)がおこると、668年唐は高句麗を滅ぼして、最後まで高句麗に依存していた粟末の残りの部族も高句麗の遺民ごと投降させ、同じく営州へ移住させた。
営州ではのちに台頭するモンゴル系契丹族(きったん。キタイ)も移住させられていた。契丹族も同様で高句麗に服属していたが、その後は唐による服属の身となっていた。690年、唐王朝でクーデタがおこり、大混乱の中で女帝則天武后(そくてんぶこう。武則天。ぶそくてん。位690-705)が即位したことに乗じ、営州の支配下民族は徐々に強制移住への不満と民族自決を叫ぶようになり、混乱と化した。そして696年、契丹の首領・李尽忠(りじんちゅう。?-696)が、営州で反乱を起こした(李尽忠の乱)。
靺鞨・粟末部の中でも、契丹族の反乱に呼応して高句麗の遺民とともに唐から離反しようと考え、さらに高句麗に続く新しい王国を築こうと計画している人物がいた。粟末部の首領・乞乞仲象(こつこつちゅうしょう。乞乞は"きつきつ"とも。?-699)という人物である。粟末の乞乞仲象は、子の大祚栄(だいそえい。テジョヨン。?-719)、そして同じ靺鞨の白山部首領・乞四比羽(こつしひう。コルサビウ。?-698)らとともに、靺鞨と高句麗遺民を引き連れて営州脱出を強行した。則天武后は乞乞仲象に"震国公(しん)"、乞四比羽に"許国公(きょ)"の称号を与えて事態を収拾させようとしたがかなわなかった。その後乞乞仲象と乞四比羽は絶命したが(仲象は病死説あり)、残った大祚栄は屈せず果敢に攻め、697年には安東都護府(あんとうとごふ。都護府とは辺境担当の軍事機関)を攻め落とし、安東都護府は廃止される事態に陥った。
大祚栄軍の徹底抗戦によって、698年、ついに唐軍は撤退し、牡丹江(ぼたんこう。ムータンチャン。松花江最大の支流)上流へと向かい、現在の吉林省の延辺(えんぺん)朝鮮族自治州にある敦化市(とんか)に拠点を築いた。同市の東牟山(トンモサン)に都城を置いた大祚栄は、父乞乞仲象が則天武后から与えられた"震国公"の称号を自ら昇格させ、"震国王"として国家君主の座に出たのである(震王位698-713)。この国を"震(しん。"振"とも)"という。靺鞨・粟末部と高句麗の遺民で創り上げたこの国は、大祚栄を中心に唐や倭国(わ。日本)とならぶ強力な国家を建設することを理想に掲げていった。
則天武后はただちに震国に対して軍事圧迫を続けた。705年に則天武后が没し、その後中宗(ちゅうそう。位683-684)、さらに睿宗(えいそう。位684-690)の復位(中宗復位705-710・睿宗復位710-712)などを経て、712年に玄宗(げんそう。李隆基。りりゅうき。685-762)が即位すると(位712-756)、唐と震国間の緊張も緩和され始めた(705年には安東都護府も復活した)。713年、大祚栄は玄宗より「渤海郡王(ぼっかいぐんおう)」の称号を受け(渤海郡王位713-719。高王。こうおう)、唐の冊封(さくほう)に組み込まれたのである。つまり、大祚栄は、"郡"ではあったが、一国の統治者として唐朝に認められ、渤海郡と唐の関係は完全に修復したのである。しかしこれを境にこれまで安定した関係を保っていた契丹にとっては、同じ反唐精神を維持してきた盟友だけに、衝撃も大きかった。また唐の縁もあって朝鮮半島統一(676)に成功した新羅(しらぎ。シルラ。356?-935)も、統一後は唐との折り合いが悪かった。しかし唐と新羅の国境間に渤海が登場したことで国境がなくなった。このため渤海と新羅との関係は安定していたが、渤海が唐と和解したと同時に緊張が生じたとされている。
初代王の大祚栄は、719年に没し、その王位は子・大武芸(だいぶげい。?-737)に受け継がれた(武王。ぶおう。位719-737)。大武芸は父・大祚栄の堅実さとは対照的であり、勇猛で好戦的であった。このため、渤海を唐の冊封に組み込まれた"郡"ではなく、1つの独立国として独自の道を歩み、周辺地域・民族を併呑して自国の版図を拡大させる野心があった。大武芸の改革の第一歩として、まず年号を仁安に定め(仁安建元)、唐からの独立姿勢を見せた。このため唐との関係悪化が再燃することになる。721年には渤海の反唐姿勢に脅威した新羅が、北方の辺境に長城を建築した。
また渤海より北に拠点をかまえる靺鞨人の黒水部が唐と国交を結んだことで(722)、唐と黒水部による渤海挟撃を推察した大武芸は黒水部への侵攻を試みている。これにより、同系民族間での対立も発した。これにより、渤海は国境に隣接するすべての諸国家・諸民族との緊張状態が続き孤立したため、新たな友好関係を求めて、大陸を渡る決意をした。その矛先は、聖武天皇(しょうむ。在位724-749)が君臨する奈良時代(710-794)の日本であった。
白村江の戦い(663)以来、日本は新羅と対立していた。そこで渤海の大武芸は、新羅など対立する隣接諸国を牽制するために、日本へ24名の渤海使(遣日本使)を遣使し関係を結ぶことになった(727)。日本も翌728年から送渤海客使(次から遣渤海使と呼ばれる)として渤海へ遣使した。日本と軍事的友好関係を結んだことで、その後渤海は、唐の領する山東地方へ出兵を強硬している(732)。
大武芸没後、子の大欽茂(だいきんも。?-793)が文王として即位した(ぶんおう。位737-793)。大欽茂は父の行き過ぎた対外政策を省みて、唐の冊封を受けて文治的な政策を施すことに尽力した。
大欽茂は唐の制度に倣い、三省六部の統治体制、府州制の設置といった中央集権制度を発展させた。755年には唐の首都長安(ちょうあん。現・西安)を模倣して建設された上京竜泉府(じょうけいりゅうせんふ。現・黒竜江省の東京城。とうけいじょう)に遷都、渤海の中心都市として確立した(一時的に南東方の東京竜原府にも遷都)。
大欽茂はその後も唐へ積極的に遣使して唐との関係修復に努めた。結果、大欽茂は唐より"渤海郡王"から"渤海国王"の称号を受け、文字通り渤海という国号が中国に承認されたのであった。このため、国際関係は安定し、特に日本との軍事的同盟も緩和されて、文化交流を中心とした関係に落ち着くようになっていった。
渤海国として発展させた大欽茂の功績は大きかったが、大欽茂が793年に没すると、以後即位した国王は長期政権を持ちこたえることができず、第4代国王である大元義(だいげんぎ。位793-794)から第9代国王大明忠(だいめいちゅう。位817-818)までの6人の国王でわずか25年という短命政権に終わった(一時"郡王"に降格した時代もあった)。国家情勢は比較的安定していたが、朝廷内では、大祚栄の直系は大明忠で断絶し、国家存亡の危機が訪れた。しかし結果的には大祚栄の弟・大野勃(だいやぼつ。生没年不詳。古代朝鮮史『檀奇古史』著者)の4世子孫となる大仁秀(だいじんしゅう。?-830)が即位する形となり(宣王。せんおう。位818-830)、傍系から王位を継ぐことで落ち着いた。
即位した大仁秀はまず新羅にむけて出兵した。9世紀前半の新羅は、内紛と飢饉で混乱状態であり、好機と判断しての出兵であった。結果826年、新羅は渤海との国境部にさらなる長城を築くことになる。その後大仁秀は周辺に点在する靺鞨系部族を配下におさめ、版図拡大に集中した。また同族系にもかかわらず敵である黒水部をも攻略し、黒水部は管理下に置かれることになった。その後も旧領回復をはかった大仁秀は、結果、遼東半島を除くかつての高句麗にほぼ近い形で版図を拡大することができたのである。
大仁秀の治世では唐・日本との友好関係が平和に保たれ、自国と両国間に使節、留学生、貿易商人らが行き交った(ただし日本では、淳和天皇(じゅんなてんのう。位823-833)の時代、渤海からの遣使の行き過ぎで一時的に冷遇されたこともあった)。
このように興隆期が大仁秀の治世で再び訪れ、朝廷内も安定したことで渤海は息を吹き返した。渤海の異称である"海東の盛国"はこの時期から言われたものだとされている。
興隆は大仁秀没後も継続していたが、10世紀に入り、状況が一変した。907年、唐が滅亡したのである。唐の冊封体制が弱まると、唐の周辺諸国に対する支配力も減退、当然渤海の朝廷内部による権力闘争も激化していく。日本は唐に対して遣唐使を廃止に踏み切り(894)、大陸との交流を抑えた。新羅も内部分裂をおこし(後三国時代)、死に体と化していた。さらに黒水部も渤海からの支配体制弱体化により自立をはかるなど(その後女真族と呼ばれるようになる)、唐の滅亡により周辺は混乱状態となった。こうした中、唐の服属を受けていた契丹族が唐の滅亡後に強勢化し、なかでも耶律一族の迭刺部(てつら)は強力となった。ここから出た阿保機(耶律阿保機。やりつあぼき。872-926。のちに強大化する契丹国・遼(りょう。916-1125)を建国。太祖。遼王位907-926)は、国家拡大のため、これまで安定していた渤海との良好関係を放棄し、渤海征討に集中していく。
時の渤海の国王は第15代王大諲譔(だいいんせん。定王。位907-926)だった。国内では権力闘争が激化して朝廷は弱体化・不安定化が進行した。契丹が勢力を上げ、今にも領内侵攻の脅威にさらされる中、大諲譔は中国に援助を求めるが、当の中国は五代十国時代(907-979)に突入しており、建国直後で自国の武断政治に必死であり、周辺諸国にかまう余裕がなかった。また新羅も後に出た高麗(こうらい。918-1392)の勢力に圧されて、契丹に接近する動きを見せ、渤海はますます孤立した。
中国と朝鮮が分裂状態の中、渤海征討に生涯を捧げた耶律阿保機率いる契丹東征軍がついに渤海領内に侵攻(925)、翌926年、耶律阿保機は渤海の都・上京竜泉府を陥落させ、大諲譔を投降、廃位させた。民の多くは国外へ逃げ出し、高麗などへ落ち延びた。こうして、"海東の盛国"と呼ばれた靺鞨・粟末部の国家は、約220年余で消滅した(渤海滅亡。926)。
渤海征討に余力を捧げて、ついに上京竜泉府を陥れ、目標を達成した耶律阿保機は、滅亡した渤海の故地において、長子・耶律突欲(やりつとつよく。中国名は耶律倍。899-936)に王国・東丹(とうたん。"契丹国から東方へ建国"の意。926-936?/952?)を残し与えて、同年、契丹国の帰路において病没した。これにより契丹国はモンゴル高原東部から満州地方までに版図が拡大、2代目君主耶律堯骨(やりつぎょうこつ。太宗。位927-947)において、中国の燕雲十六州(えんうん)を獲得することに成功(936)、征服王朝の名を恣にした。
最後の渤海王であった大諲譔には後継者・大光顕(だいこうけん。生没年不詳)と名乗る人物がいたが、彼を含む渤海の遺民たちはその後も復興・再興を試みている。その大光顕の勢力があった"後渤海(928-934?)"をはじめとして、他にも定安(ていあん。938-1003)、兀惹(こつじゃく。10世紀後半頃)、興遼(こうりょう。1029-30)、大渤海(1116)"といった国家がおこったが、これらはみな渤海の遺民が建国したものであった。しかしどの国家も短命に終わり、契丹族と、これを滅ぼす女真族の勢力に取って代わっていくのであった。
今回が初メインとなる渤海国の登場です。日本史でも世界史でも登場します。菅原道真(すがわらのみちざね。845-903)が渤海使と漢詩のやりとりをしたことがあるそうで(著書『菅家文草』より)、日本においても縁の深い国です。しかし中国や朝鮮のメジャーな王朝に挟まれて、地道に生きながらえながらも、独自の路線で国政を貫いた渤海ですが、受験世界史や受験日本史では、唐、高句麗、新羅、遼らと比べても少々地味にうつる存在です。しかし受験項目においては必修で、頻出用語です。また歴史学の目から見た場合も、渤海の存在は非常に重要な評価があり、現在においても、朝鮮王朝の1つとしてとらえるか、中国の冊封を受けた地方政権かで、論争もあるほどです。
さて学習ポイントですが、受験世界史において覚えることは、まずメジャー級では、渤海は靺鞨人であること(粟末部は覚える必要なし。靺鞨人と答える)、建国者が大祚栄であること(韓国では大河ドラマの主人公になるぐらい有名。また韓国の駆逐艦の名前にも使われている)、遼の耶律阿保機に滅ぼされること、これぐらい覚えておけば大丈夫でしょう。ミドル級では首都が上京竜泉府であること、靺鞨人と高句麗の遺民によって建国されたこと、異称に海東の盛国"があること、滅亡年が926年であることぐらいでしょうか。マイナー級では、世界史では建国時の名前が"震"であること。日本史では、日本との間に渤海使・遣渤海使の通交があったこと(用語集にも掲載)などですが、難関私大や、難しいアジア史を出す大学には要注意かもしれません。
また余談ですが、大祚栄が攻め落とした安東都護府も知っておきましょう。周辺異民族を取り締まる六都護府の1つで、長官を都護と呼びます。設立当初は平壌に置かれました。大祚栄の攻撃により廃止されますが、705年、大祚栄との和解により再び設置されました。ちなみに六都護府とは安東(平壌方面)・安南(あんなん。ハノイ方面)・安北(あんほく。外モンゴル方面)・単于(ぜんう。内モンゴル方面)・安西(あんぜい。西域一帯)・北庭(ほくてい。新疆ウイグル自治区方面)です。唐王朝では、中央から監督者である都護を派遣して、都護の管理のもと、在地の族長に自治を許可して、間接統治者として任命させる政策を行っています。これを羈縻政策(きび)といいます。世界史用語では重要ですので知っておいて下さい。
ちなみに、渤海という国名は当然のことながら残っていませんが、地理名称は、現在では遼東半島と山東半島との間にある海域「渤海」の名として残っています。ただし、当時の渤海国の領域ではないところにこの名が付けられているのがなんとも不思議ですが。余裕があったらまた調べておきます。
(注)UNICODEを対応していないブラウザでは、漢字によっては"?"の表示がされます。大諲譔→インはごんべんに"煙"のつくりの部分、センはごんべんに"巽"。
https://www.worldhistoryeye.jp/154.html
平安時代[794年~1185年](東アジア-朝鮮、高句麗、渤海-) | ||||
631 | 高句麗、扶余城から東南の渤海湾に至るおよそ千里の長城を築き、唐の侵略に備える(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
668 | 渤海、唐により高句麗滅亡、平壌に安東都護府を設置 高句麗遺民は満洲の営州(遼寧省朝陽)に強制連行される(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
671 | 渤海、唐・新羅戦争始まる(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
676 | 渤海、新羅が朝鮮半島を統一(首都は慶州)(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
681 | 渤海、《神文王(681~692)即位》(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
682 | 渤海、礼部の配下に国学を創立(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
684 | 渤海、安勝の一族の反乱、報徳国を滅ぼす(統一の完了)(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
686 | 渤海、高句麗、滅亡(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
687 | 渤海、祖廟を祭る五廟の制度を整備し、儒教理念の明確化、郡県制の確立(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
689 | 渤海、租米による俸禄制を始める(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
690 | 690年~900年:渤海(属国)よいこの正しい半島歴史年表(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
692 | 渤海、《孝昭王(692~702)即位》(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
696 | 大祚栄が出て、高句麗を復興させるとして、696年に遼東地方に震国を建てた。(東アジア-、震国:渤海-) | |||
697 | 渤海、契丹・李尽忠の乱 靺鞨の乞乞仲象、乞四比羽らが東走 唐、契丹族の反乱により安東都護府を廃して、都護府とする(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
698 | 震国建国(696-)(のちの渤海(713-926年))(東アジア-中国、震国:渤海、高句麗-) | |||
698 | 高句麗の滅亡後、中国の唐の内政混乱に乗じて、営州に強制移住させられていた高句麗の遺民たちが、高句麗の将軍出身の大祚栄(テジョヨン)の指揮の下、旧高句麗の地に帰還し、震国(のちの渤海(713-926年))を建国する。(吉林省敦化付近:東牟山)幾たびか唐の討伐を凌ぎつつ勢力を拡大し、ついに、713年、唐に独立を認めさせ、渤海(パレ)が誕生した。渤海は、926年の滅亡まで、200年余り続いた。一時期は、中国の北東地域までを占める領土を有するほどの国力を保持していました。その当時、中国の唐は渤海を「海の東に隆盛した国(海東盛国)」と呼ぶほどでした。渤海は高句麗のかつての領土を回復し、高句麗を継承した国であるという点で歴史的に重要な意味を持っています。(東アジア-朝鮮、震国:渤海、高句麗-) | |||
698 | 渤海の建国国史年表(東アジア-朝鮮、震国:渤海、高句麗-) | |||
698 | 渤海、日本国からきた使者を崇礼殿で引見(国史年表)(東アジア-朝鮮、震国:渤海、高句麗-) | |||
699 | 渤海、唐への朝貢を再開(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
701 | 大宝律令制定(東アジア-朝鮮、高句麗、渤海-) | |||
702 | 渤海、《聖徳王(702~737)即位》(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
704 | 渤海、『最勝王経』(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
705 | 渤海、大門芸が唐に入侍 唐による侍御史を震国に派遣 安東都督府復活(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
705 | 渤海、大飢饉~706(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
713 | 渤海が建国(アジア-震国:渤海-奈良時代) | |||
713 | 大祚栄は713年に国号を渤海国と改める、渤海の成立(-、震国:渤海-) | |||
713 | 渤海の成立(アジア-震国:渤海、震国:渤海-奈良時代) | |||
713 | 大祚栄は713年に唐から渤海国王に冊封され、それ以後震国は渤海国を国号とした。渤海(パレ)は、926年の滅亡まで、200年余り続いた。(東アジア-朝鮮、高句麗、震国:渤海-) | |||
713 | 国号を震国から渤海へと改める(東アジア-朝鮮、震国:渤海-奈良時代) | |||
713 | 渤海、唐、大祚栄に渤海郡王に冊封(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
717 | 渤海、「十哲七十二弟子図」などがもたらされる 医博士・算博士を創設(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
719 | 渤海、大祚栄卒し、大武芸即位 周辺の靺鞨諸部族を編入する(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
721 | 渤海、渤海への対策として北辺の国境地帯に長城を築く 新羅による東北国境での長城建設(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
722 | 渤海、毛伐郡城を築いて日本の賊の侵入を防ぐ 黒水靺鞨が渤海領を通過して唐に遣使(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
725 | 渤海、唐により黒水靺鞨に黒水府が設置される(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
726 | 渤海、大武芸の弟・大門芸、唐に亡命(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
727 | 渤海使来朝(東アジア-朝鮮、高句麗、震国:渤海-) | |||
727 | 渤海、渤海、高仁義らを日本に派遣 蝦夷地に漂着したため高仁義等多数が殺害され、残った者が高斉徳に率いられ入京(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
727 | 渤海国使、出羽国に初めて来着(日本-日本、震国:渤海-奈良時代) | |||
728 | 渤海、日本、送渤海使を派遣(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
731 | 渤海、日本の戦船300艘が東部海岸に攻め寄せて辺境を襲ったがこれを撃破(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
732 | 渤海、渤海の将・張文休、水軍を率いて山東の蓬莱港を占領(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
733 | 渤海、渤海が山東半島に攻め込んだとき、唐の要請により渤海南部を攻めたが、失敗退却する 唐、大門芸に命じて渤海を攻撃させるが、大雪のため失敗(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
737 | 渤海、《孝成王(737~742)即位》(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
738 | 渤海、唐から『道徳経』を下賜 大武芸卒、大欽茂即位 唐との関係を修復する(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
739 | 渤海、遣唐判官・平群広成、渤海使とともに帰国(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
742 | 渤海、《景徳王(742~765)即位》(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
743 | 渤海、玄宗自らが注釈をつけた『孝経』を下賜(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
746 | 渤海、渤海人及び鉄利人1100人出羽国に漂着(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
749 | 渤海、この頃、旧国より中京顕徳府(吉林省和龍県西古城)に遷都(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
751 | 渤海、仏国寺・石窟庵、築造開始(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
755 | 渤海、この頃、中京顕徳府から上京龍泉府(黒龍江省寧安県東京城)に遷都(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
757 | 渤海、全国各地の地名を唐風に改称 官僚制度も行き詰まりとその矛盾により、官僚への俸給制度を廃止して禄邑制度を復活(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
759 | 渤海、中央官庁とそれに属する官職名についても唐風のものへの改称(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
762 | 渤海、六城を築いて渤海への備えとした 唐により大欽茂を渤海国王に冊封(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
763 | 渤海使、安史の乱…中国唐時代の大反乱…を報じる(日本-日本、震国:渤海-奈良時代) | |||
765 | 渤海、《恵恭王(765~780)即位》 この頃より新羅国の動揺・衰退がはじまる(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
768 | 渤海、律令体制の推進派と旧来の貴族連合的体制への復帰派との間の対立(~780)(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
774 | 渤海、大興から宝暦に改元(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
777 | 渤海、日本の舞女11人を唐に献上(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
779 | 渤海、渤海人通事、日本の朝廷で鉄利人と席を争う(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
780 | 渤海、恵恭王、殺害される 《宣徳王(780~785)即位》(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
785 | 渤海、宣徳王、病にて没す 上京龍泉府から東京龍原府(吉林省琿春県八連城)に遷都 《元聖王(785~798)即位》(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
788 | 新羅、読書三品科を設ける(東アジア-朝鮮、高句麗、渤海-) | |||
788 | 渤海、官吏登用の制度として、科挙に類似する「読書三品」を定める 国の西部で盗賊が現われる(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
793 | 渤海、大欽茂卒 弟・元義が即位するが廃位され、嫡孫が即位 都を東京龍原府から上京龍泉府に戻す 中央集権的な官僚制度を整備(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
794 | 渤海、奉恩寺を建て、王宮の西には望恩楼を築く(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
798 | 渤海、唐により大嵩?を渤海国王に冊封(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
798 | 渤海に使を遣わす(日本-日本、震国:渤海-平安時代) | |||
799 | 渤海、《昭聖王(799~800)即位》(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
799 | 渤海使の来日を6年に一度とする(日本-日本、震国:渤海-平安時代) | |||
800 | 渤海、《哀荘王(800~809)即位》(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
801 | 渤海、耽羅国(済州島)からの朝貢(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
802 | 渤海、伽耶山に海印寺を創建(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
803 | 渤海、日本とも国交が再開(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
804 | 最澄、空海が入唐(東アジア-朝鮮、高句麗、渤海-) | |||
804 | 渤海、日本から黄金三百両が進上された(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
805 | 渤海、律令体制の没落が始まる(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
806 | 渤海、日本からの使者を朝元殿で引見した(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
808 | 渤海、日本国の使者を厚くもてなした(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
809 | 渤海、摂政の反乱で、哀荘王は王弟とともに殺害される 唐により大元瑜を渤海国王に冊封 《憲徳王(809~826)即位》(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
810 | 渤海、唐に王子金憲章、金銀製の仏像などを献上 日本からの最後の第15次遣渤海使(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
812 | 渤海、渤海へ使者を派遣して動向をうかがう 新羅が崇正を派遣(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
813 | 渤海、唐により大言義を渤海国王に冊封(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
816 | 渤海、飢饉のため、唐の浙江省東部(170人)・日本へ(200人)の難民発生する(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
818 | 渤海、唐により大仁秀を渤海国王に冊封(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
819 | 渤海、唐の?州で反乱が起こると3万の兵を派遣する 各地の賊徒がいっせいに蜂起、鎮圧(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
821 | 渤海、王文矩を日本に派遣(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
822 | 渤海、都督職を歴任した金憲昌が反乱、鎮圧(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
824 | 渤海使の来日を12年に1度とする(日本-日本、震国:渤海-平安時代) | |||
825 | 渤海、金憲昌の子の金梵文が反乱、鎮圧(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
827 | 渤海、旧高句麗系の僧丘徳が経典を持ち帰る(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
828 | 張保皐、清海鎮設置(東アジア-朝鮮、高句麗、渤海-) | |||
828 | 渤海、金大廉が持ち帰った茶の種子を地理山に植える(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
830 | 渤海、大仁秀卒、大彜震が即位 咸和と改元(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
832 | 渤海、春夏の旱魃、7月の大雨で凶作(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
833 | 渤海、凶作で民が飢餓に苦しみ流行り病で多くの死者 賀守謙を幽州盧龍節度使に派遣 唐により張建章の渤海遣使(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
834 | 渤海、奢侈を禁じるとともに王都の住民に対する身分序列を明確化「頭品制度」(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
836 | 渤海、《僖康王(836~838)即位》(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
838 | 渤海、金明・利弘らが軍を起こして王の側近の貴族を殺害する反乱、僖康王自殺 《閔哀王(838~839)即位》(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
839 | 渤海、張保皐のもとに集結した祐徴らの一派、祐徴派の金陽軍により閔哀王殺害される 《神武王(839)即位》病に倒れ没する 《文聖王(839~857)即位》(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
840 | 渤海、新羅からの人質や学生あわせて105名の帰国(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
846 | 渤海、張保皐(弓福)の乱起こる(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
853 | 渤海、張建章が幽州に戻り『渤海記』を著す(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
857 | 渤海、《憲安王(857~861)即位》(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
858 | 渤海、晩霜、干害(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
859 | 渤海、穀物が高騰し、国民が餓える(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
860 | 渤海、憲安王、病にて没す(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
861 | 渤海、《景文王(861~875)即位》(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
864 | 渤海、日本からも国使を迎える(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
867 | 渤海、王都金城で疫病が流行り、洪水が起こる(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
869 | 渤海、唐に王子の金胤らを派遣し、馬二匹・砂金百両・銀二百両ほか、様々の進奉を行なう(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
870 | 渤海、王都が地震・洪水、冬には疫病が流行る(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
873 | 渤海、飢餓と疫病が起こる(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
875 | 渤海、《憲康王(875~886)即位》(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
876 | 渤海、皇龍寺で百高座を設けて講義・討論を行なう(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
878 | 渤海、日本からの使者を朝元殿で引見する(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
882 | 渤海、日本国王が黄金300両と明珠10個とを進上する(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
886 | 渤海、《定康王(886~887)即位》(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
887 | 渤海、定康王、病死 《真聖女王(887~897)即位》 国内で反乱が続発し、後三国時代の幕開けとなる(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
906 | 渤海、宰相の烏?度を唐に遣使 その子の光賛、賓貢に及第(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
911 | 渤海、大光賛を後梁に派遣(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
918 | 渤海、遼に使節を派遣(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
919 | 渤海、最後の渤海使を日本に派遣(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
924 | 渤海、渤海軍、契丹軍(遼国)占領中の遼東に反攻(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
925 | 渤海、契丹軍(遼国)、渤海の扶余府に侵攻 礼部卿の大和釣ら100戸を率いて高麗に投ず(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
926 | 渤海滅亡(東アジア-朝鮮、契丹、震国:渤海-) | |||
926 | 渤海を滅ぼした北方民族契丹(きったん)は、急速に勢力を強め、高麗との国境付近まで版図を広げる(東アジア-朝鮮、契丹、震国:渤海-) | |||
926 | 渤海滅亡国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
926 | 渤海、契丹軍(遼国)、上京龍泉府を攻略 渤海滅亡、高麗に渤海遺民が多数ながれる 契丹、渤海故地に東丹国設置(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
927 | 満州の渤海が滅ぶ(東アジア-震国:渤海-渤海) | |||
928 | 渤海、東丹国、遼陽に遷都(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
929 | 渤海、東丹国使、来日(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
929 | 渤海使来日(最後の渤海使727→)(日本-日本、震国:渤海-平安時代) | |||
930 | 渤海、日本との通交が絶える(東アジア-朝鮮、震国:渤海-) | |||
993 | 926年、渤海を滅ぼした北方民族契丹(きったん)は、急速に勢力を強め、高麗との国境付近まで版図を広げ、993年から、1019年まで、実に数次にわたって、高麗に侵攻してきた。だが、高麗は、これらの侵攻をことごとく撃退してしまうと、やがて、契丹の目は西方に向き、やがて、高麗は安定を取り戻す。(東アジア-朝鮮、高麗、契丹、震国:渤海-) |
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