百済2
CENTER:百済の歴史(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
-108 | 原三国時代(BC108-4世紀中葉)(東アジア-朝鮮、高句麗、百済、前漢-) | |||
原三国時代(げんさんごくじだい)は、朝鮮の歴史区分の一つ。紀元前108年に楽浪郡が置かれ、百済・新羅が国家としての体裁を整える4世紀中頃までの朝鮮半島の事を差す。楽浪郡から中国の文化を受容し、三韓が国家としての体裁を整えていく過程の時代である。原三国時代と言う言葉が使われ出したのは1972年頃からでそれ以前は金海時代などと呼ばれていた。(東アジア-朝鮮、高句麗、百済、前漢-) | ||||
-100 | 三国時代 BC100年頃 中国の漢が、朝鮮半島北部に4つの郡をおいて支配していたころ、半島南部では、3つの部族国家・三韓が興る。三韓とは、馬韓(マハン)、弁韓(ピョオナン)、それに辰韓(ジナン)の3つである。馬韓では、54の小国があったが、やがて伯済(ペクジェ)が強くなり、後に百済(ペクチェ)になる。弁韓には、12の小国があり、やがて伽耶(カヤ)になるが、それも後に新羅に吸収された。辰韓は、12の小国からなり、やがて斯蘆(サロ)が強くなり、後に新羅(シルラ)になる。(東アジア-朝鮮、百済-三国時代) | |||
-57 | 朴赫居世、徐羅伐(後の新羅)建国 第1代 新羅王 赫居世西干(BC57~AD4) 辰韓の斯蘆国で赫居世(ヒョッコセイ)を王として、新羅を建国する。国号は、徐羅伐(ソラブゥォル)とした。その後、国名は鶏林と変わり、新羅となるのは、503年になってからである。 三国時代(BC57ー676) 韓半島とアジアの北東地域を中心に4世紀初め頃から7世紀中頃まで高句麗・百済・新羅が互いに争っていた時代を三国時代といいます。BC57年 辰韓の斯蘆国で赫居世(ヒョッコセイ)を王として、新羅を建国する。(「三国史記」)国号は、徐羅伐(ソラブゥォル)とした。その後、国名は鶏林と変わり、新羅となるのは、503年になってからである。 新羅(356ー935) 新羅は三国時代の古代国家のひとつで、韓半島南部を拠点とし繁栄しました。BC57年からAD935年までの992年間国を守り、7世紀中頃に唐と連合し百済と高句麗を破り三国を統一しました。その後、唐は連合国から侵略国へと立場を変えました。これにより新羅は高句麗、百済からの流民と力を合わせ、唐の侵略勢力を抑え大同江~元山湾以南に韓国の歴史上最初の単一民族統一国家を建国しました。}}(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
-37 | 一方、この頃中国北東部には、扶余(プヨ)という国が興り、半島の北部には、高句麗(コグリョ)が興って、(「三国遺事」)それぞれ、成長していく。高句麗は、扶余から南下してきた朱蒙(チュモン)が、BC37年に建国した国だとされている。 高句麗(BC37ー668)高句麗は韓半島の古代国家のうちのひとつで、百済・新羅と合わせた三国の中で最も大きな領土を有している国でした。BC37年に建国され、韓半島の北部と南満州一帯を拠点とし繁栄しました。中国の諸王朝とも熾烈に争い領土を広げていきましたが、AD668年に新羅と唐の連合軍との争いにより滅亡しました。}}(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
-37 | BC37年 高句麗の建国(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
-18 | その3・三国時代の幕開け・百済と新羅の誕生紀元前37年、今のロシアのウラジオストク、中国の吉林省、北朝鮮の北東部にわたる広い範囲に朱夢が建国した高句麗。その南には百済と新羅がありました。その三国は、王制が定着した後、7世紀半ばにいたるまで、激しい戦争を繰りかえしながら存在しました。「三国史記」によると、百済の始まりは高句麗からでした。ある日、高句麗の王、朱夢の所に、男の子が訪ねてきました。朱夢が扶余にいたときに産ませた息子のユリであると言い、その証として半分に折れた短刀を見せました。朱夢はユリを自分の息子と認めます。そして王位継承権者である太子の地位を与えました。朱夢には他にも高句麗で作った2人の息子・兄のビリュ、弟のオンゾがいました。ユリが太子になるのを、素直に受け入れた弟であるビリュとオンゾは、自分たちに従う臣下を連れて南の方に行きます。二人はどこへ行ったのでしょう。兄のビリュは今の仁川であるミツホルに行きました。しかし、ミツホルの土地は湿気と塩分が多く生活しにくい所で大変な苦労がありました。そのことを恥と思ったビリュは、それが原因で病に倒れました。一方、弟のオンゾは、今のソウルと推定される威礼城に行きました。ビリュ亡き後、ミツホルの人たちも威礼城にやってきました。オンゾは漢江の周りから京畿や忠清の地域に存在していた部族国家を統合して、一つの国家を作り上げていました。外部からの侵略もなく、しかも高句麗の先進文物を用いて相当安定した国づくりができたのでしょう。やがてオンゾは国名を百済に変えました。しかしその百済も西暦660年に、また高句麗は668年に滅びます。その二つの国を滅ぼしたのが三国の中で一番遅く国家体制を作った新羅です。新羅を建国したのは朴ヒョコセといいます。彼は慶州にあった6つの部族の首長らに推挙されて王の位につきましたがその王位は世襲ではなく、朴、昔、金という三つの氏族が代わる代わる王位につくこととなりました。もう少し詳しくみてみましょう。その新羅の建国者・朴ヒョコとはどんな人だったのでしょう。その少し前のお話になります。今の慶尚道にあった辰韓には6つの村がありました。6つの村の村長たちは、自分たちを導いて、村民らが従うことができる王のような存在が現れることを希望するようになりました。そうしたある日、森の中から神秘な光が発せられ、まぶしいくらい真っ白な馬がおじぎを続けているではありませんか。6人の村長らが近づいて見ると、そこには青い光が漂う一個の卵がありました。白馬は人を見ると天に上って行きました。そして卵が二つに割れて、そこから可愛い男の子が生まれました。村長らは、その青い神秘な光は天の啓示であり、白馬は天の使者、その子は天が送ってくれた人物だと受けとめて、誠意をもって育て、彼が13歳になった時、王として即位させました。その男の子が朴ヒョコセだったのです。これは自らつけた名前です。ここにも、卵から生まれてきた男の子が出てきました。ヒョコセの活躍の話は神話の世界と、呪術の範囲に留まっている部分が多いそうです。その分、高句麗や百済よりは古代王国になるのが遅かったといえるでしょう。新羅という国名を定めるのも、ずっと後の22代目の王の時代のことです。しかし、新羅は優秀な鉄器文化を持つ周辺国、即ち高句麗、百済との交流を通じて、時には牽制をもうけながら、ゆっくりと将来の三国統一の基盤づくりに励むのです。高句麗と百済、そして新羅。それらが作った三国時代。その期間は長く、700年間にも及びました。(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
-18 | 十済(後の百済)建国(東アジア-朝鮮、十済:百済-) | |||
-18 | 建国神話 (前18年~) (東アジア-朝鮮、十済:百済-) | |||
-18 | 朱蒙の子,温柞,百済建国 高句麗の始祖である朱蒙の3人の子供のうち、沸流(ふつりゅう)と温祚(おんそ)が高句麗を出て、南に向かい、馬韓の伯済を中心に小国をまとめ、百済を建国する。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
-18 | 百済の建国伝説 高句麗の始祖である朱蒙(しゅもう)には3人の子があり、長男の類利(るいり)が高句麗を継いだので、弟の沸流(ふつりゅう)と温祚(おんそ)は高句麗を出て自分たちの国を建てようと南へ向かった。10人の臣下と大勢の百姓がこれに伴った。 (注:「三国史記」の別伝によると、沸流と温祚は朱蒙の実の子ではなく、朱蒙が生まれた東扶余の有力者の娘で召西奴の連れ子としている。) やがて漢山(かんざん・現在の京幾道広州郡)へたどり着き、2人は臣下とともに負児岳(ふじがく)という高い山の頂にのぼって周囲を見渡した。沸流は、海の見える方が気に入った。しかし、10人の臣下は口をそろえて反対し、「それよりも、こちらの方です。北に江が流れ、東に山をひかえ、南は平野、西は海、こんな究竟な、よい場所はありません。都はぜひ、こちらへお建てになることです。」そういって勧めたが、沸流はどうしても聞かない。百姓たちを半分にわけて、自分だけ海辺の方へ都を置くことになった。弥鄒忽(みすこつ・現在の仁川)である。弟の温祚は臣下たちの意見に従って、漢山の慰礼城(いれいじょう・現在の京畿道広州郡)に都を定めた。10人の臣下にちなんで、国の名を「十済」と呼ぶことになった。 弥鄒忽は土地が湿っているうえ水が塩辛く、百姓たちもさんざん苦労を重ねた。沸流が弟のようすを見に慰礼城へ来てみると、何の不足もなく幸せに暮らしている。自分を恥じた沸流は、それを苦にして病となり亡くなった。それで百姓たちは慰礼城へ移り、人民が増えたので、国号を「百済」に改めた。 百済は、ここから領土を広げて大きくなった。 (注:実際には、百済として大きな勢力となったのは、高句麗の建国よりも約400年のちのこととみられる。) 第1代百済王温祖王(BC18~AD28) 韓国の三国史記によると、百済の建国は、紀元前18年となり、高句麗の祖である朱蒙(チュモン)の三男、温祚によって建国されたとされています。温祚は、慰礼城(現在の広州市南漢山城か?)に都を定め、10人の臣下にちなんで、国の名を「十済」と呼んだのが始まりとされています。 韓国の教科書でも、紀元前18年を百済建国の年として採用しているそうですが、韓国の歴史家の間では、紀元前1世紀から紀元後3世紀まで様々な説があり、日本や中国では3世紀頃の成立という見方が有力です。 温祚王即位オンソ(扶餘王の次男とされる 慰礼城、現ソウル市付近) (百済王の尊称は於羅瑕オラカあるいは「革+建」吉支ケンキシと周書にある) (北史、隋書では遼東太守の公孫度の娘が嫁いだために東夷の強国となるとある)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
-18 | 高句麗の始祖である朱蒙の3人の子供のうち、沸流(ふつりゅう)と温祚(おんそ)が高句麗を出て、南に向かい、馬韓の伯済を中心に小国をまとめ、百済を建国する。(「三国史記」)RIGHT:倭の奴国王、光武帝より金印を贈られる(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
-18 | 韓国の三国史記によると、百済の建国は、紀元前18年となり、高句麗の祖である朱蒙(チュモン)の三男、温祚によって建国されたとされています。温祚は、慰礼城 (現在の広州市 南漢山城か?)に都を定め、10人の臣下にちなんで、国の名を「十済」と呼んだのが始まりとされています。 韓国の教科書でも、紀元前18年を百済建国の年として採用しているそうですが、韓国の歴史家の間では、紀元前1世紀から紀元後3世紀まで様々な説があり、日本や中国では3世紀頃の成立という見方が有力です。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
-18 | 温祚王即位オンソ(扶餘王の次男とされる 慰礼城、現ソウル市付近) (百済王の尊称は於羅瑕オラカあるいは「革+建」吉支ケンキシと周書にある) (北史、隋書では遼東太守の公孫度の娘が嫁いだために東夷の強国となるとある)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
-18 | 温祚王 おんそおうOn‐jo‐wang 世界大百科事典 第2版の解説 おんそおう【温祚王 On‐jo‐wang】 朝鮮,百済の始祖。伝説上の人物。《三国史記》が伝える百済の建国伝説によると,温祚王は高句麗の始祖朱蒙の第3子であったが,長兄で異母兄の類利を恐れ,兄の沸流とともに扶余の地を逃れて南下し,漢山に至った。沸流は弥鄒忽に居を定め,温祚は慰礼城に都して国号を十済とした。ときに紀元前18年であったという。その後沸流が死ぬと,温祚はその民をあわせ,国号を百済とし,扶余氏を名のった,と伝えられている。扶余族の南下によって百済の国家が形成されたことを反映した建国伝説である。 出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
-18 | 高句麗、新羅とともに韓国の三国時代を築いた百済。 倭国との関わりも深く、唐も含めて、東アジア一円の社会、文化に深く関与しています。 その歴史を紐解くことで、旅行の楽しみも倍増!まずは、百済の歴史を旅してみましょう。 百済(くだら)は、朝鮮半島南西部を占めた古代国家。 一般的に、支配階級は北の高句麗王族と同じく、中国満州付近から出た扶余族と見られています。「隋書」百済伝には、「百済の祖先は高(句)麗国より出づる」とあり、新羅、倭国、また中国からも渡来してきた人が住み、他民族的な国家を形成していたようです。 韓国・朝鮮史上では、およそ紀元前1世紀から紀元後7世紀までの間、半島北部の「高句麗」、南東部の「新羅」、そして南部の伽耶諸国とあわせて南西部の「百済」の三国が支配していた時代を「三国時代」といいます。(東アジア-朝鮮、百済、高句麗、新羅-) | |||
-16 | 靺鞨が北部に侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
-13 | 日食(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
-11 | 靺鞨が慰礼城を包囲(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
-10 | 神鹿を得て馬韓に送る(馬韓はソウル南方全羅南道に至る群小国家群とされる)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
-6 | 東の楽浪、北の靺鞨を避けて首都を漢江南岸に移し領土を京畿平野一帯としこれを馬韓に伝える(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
-2 | 楽浪が侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
-1 | 前漢、劉氏・・平帝(元宗)百済に靺鞨侵入、長を捕らえ馬韓に送る(東アジア-前漢、朝鮮、百済-前漢) | |||
-1 | 靺鞨侵入、長を捕らえ馬韓に送る(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
6 | 柵を作るも馬韓王の抗議にて撤去(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
7 | 巫によって辰韓と馬韓併合の意生ずる(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
9 | 馬韓を滅ぼす(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
19 | 第2代高句麗王琉璃明王(19~AD18) 干ばつ(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
19 | 干ばつ(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
20 | 大壇を築いて天地を祭る(儒教の祭祀儀礼の説あり)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
22 | 靺鞨が侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
25 | 南沃沮が帰順(現江原道付近)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
28 | 第2代百済王多婁王(28~77) 多婁王即位タル(温祚王の子)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
33 | 国の南部に初めて稲田を作る(朝鮮での田は畑の意でこれが水田かどうかは不明)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
34 | 靺鞨が侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
57 | 辰韓:秦韓、《脱解尼師今(4代昔氏 57~80)》 百済の多婁王と蛙山城をめぐって度々戦争(東アジア-朝鮮、辰韓-) | |||
60 | ブーディカの反乱AD60年に夫プラスタグス王が亡くなると、二人の娘の王位継承は認められず、ローマは領土や財産を没収した。ブーディカはローマの侵略に必死に抵抗したが、縛られて鞭で打たれ、更に2人の娘は辱めを受けた。 この仕打ちに対しブーディカは激しく怒り、周辺部族と連合して大規模な反乱を起こした。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
63 | 領土を広げ新羅と交渉するも得ず(忠清北道の清州付近)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
64 | 新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
73 | 新羅、倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。 日食(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
73 | 日食(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
75 | 新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
77 | 第3代百済王己婁王(77~128) 己婁王即位コル(多婁王の子)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
77 | 己婁王即位コル(多婁王の子)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
85 | 新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
87 | 日食(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
92 | 日食(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
105 | 辰韓:秦韓、百済の己婁王が新羅に対して和睦を求めてくる(東アジア-朝鮮、辰韓-) | |||
105 | 新羅と和睦交渉(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
108 | 大飢饉、人を殺して食べる(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
113 | 辰韓:秦韓、百済の己婁王が使者を送ってきて盟友関係が出来る(東アジア-朝鮮、辰韓-) | |||
113 | 新羅に使者(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
121 | 百済建国事情 建光元年(121年)秋、第7代高句麗王遂成(次大王)が馬韓と?貊の数千騎で玄菟郡治を囲んだ。扶余王は子の尉仇台を派遣し、二万余の兵を率いて州郡の軍と合力させ、これを討ち破った。 公孫度が東方地域に進出してきたので、第2代夫餘王尉仇台は、改めて遼東に服属することになった。この時期、高句麗と鮮卑が強盛であった。公孫度は、夫餘が高句麗と鮮卑にはさまれている状況から扶余と同盟を結ぶため夫餘一族の女性と結婚した。扶余は、これらの戦いの最中、故地に残留した旧扶余と公孫氏に帰属した尉仇台系扶余に分岐したのである。 このときの尉仇台系の扶余が馬韓の伯済国を支配し、後に馬韓を統一した。扶余王の尉仇台が馬韓統一の基礎を築き、その子温祚が伯済国を足場にして百済を立てた。と考えられる。古代史の復元では百済建国はAD164年である。 『宋書』『梁書』『南史』などによれば、百済は始めは高句麗と「ともに」遼東の東千里の地にあったという。この地は遼東半島周辺である。百済は当初遼東半島地域にあったと思われるが、『唐会要』百済伝に「仇台は高句麗に国を破られ、百家で海を済(渡)る。故に百済と号する。」とあるように、国を破られて、南に移動したようである。 新羅、夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
125 | 辰韓:秦韓、靺鞨が浸入してくるも百済の援軍をもとめ退ける(東アジア-朝鮮、辰韓-) | |||
125 | 新羅に侵入した靺鞨に対し援軍を送る(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
128 | 第4代百済王蓋婁王(128~166) 蓋婁王即位ガイル(己婁王の子)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
128 | 蓋婁王即位ガイル(己婁王の子)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
150 | 150年頃馬韓、弁韓、辰韓の勢力が大きくなる(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
163 | 百済の温祚即位(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
165 | 第8代高句麗王新大王(165~179) 新羅の将軍が百済に逃亡し引き渡しをめぐって新羅と争う 日食(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
165 | 新羅の将軍が百済に逃亡し引き渡しをめぐって新羅と争う 日食(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
166 | 第5代百済王肖古王(166~214) 肖古王即位ショウコ(素古、蓋婁王の子)(神功紀に引用)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
166 | 肖古王即位ショウコ(素古、蓋婁王の子)(神功紀に引用)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
167 | 辰韓:秦韓、百済が新羅の西部辺境2城を奪って住民1千人を捕虜、のち和睦(東アジア-朝鮮、辰韓-) | |||
167 | 新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
170 | 辰韓:秦韓、百済は再び新羅の国境付近に侵攻(東アジア-朝鮮、辰韓-) | |||
170 | 百済遷都 百済本紀の記録 百済本紀には遷都の状況が次のように記録されている。 温祚13年 王は臣下に対して「我が国の東には楽浪があり、北には靺鞨があって、国境を侵しているので少しも安らかな日がない。いわんや今は怪しい兆しがしばしばあらわれ、国母が世を去り情勢が安らかではないので、都を移さなければならない。私が先日漢江の南を回ってみたら、土地が肥えていたから、よろしく、そこに都を移して、永久に安全な計を諮るべきである。」 秋7月漢山の下に柵を立てて慰礼城の民を移した。8月に使者を馬韓に使わして、都を移したことを知らせ、遂に境界を定めた。北は臨津江、南は熊川、東は平康に達した。9月に都城と宮殿を立てた。翌14年春正月、都を移した。 温祚13年は古代史の復元ではAD170年に該当する。しかし、その後、楽浪や靺鞨の百済攻撃は継続している。遷都の時期が温祚13年より後ではないかと思われる。 百済は倭国や新羅と同じ半年一年暦で考えると事象の一致が見られる。高句麗は中国暦のようである。半年一年暦は倭国固有の暦なので、百済は建国当初半年一年暦を使っていたとは思われない。中国暦だったと思われる。倭国との交流が活発になってから倭国と同じ半年一年暦に変更したと思われる。温祚13年は中国干支で庚戌である。これがそのまま半年一年干支となったとすれば、AD197年が遷都の年と考えられる。これは高句麗第10代山上王が即位した年である。 日食(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
186 | 百済遷都に至る情勢 公孫度は、186年、董卓が実権を握ったとき、友人であった徐栄の推挙もあって、189年、遼東太守に任じられた。遼東で勢力を拡大し、後漢が放棄した楽浪郡を支配下に置いた。遼東が都から遠く離れた地域であったため、192年、董卓が死んだ後は、公孫氏による独立国のような体制をとり、周辺に勢力を伸ばし、高句麗や烏桓を討伐した。 記録にはないが百済はこの頃、遼東にあり、公孫度の攻撃を頻繁に受けていたと思われる。これが、温祚13年の「楽浪が国境を侵している」という記事につながるのである。 百済が遷都したと思われる197年には高句麗山上王が即位しているが、王位継承をめぐって高句麗で大騒乱が起こっている。 第9代高句麗王故国川王が王子のいないままにて死去した。その王妃の于氏は初め喪を伏せたまま、すぐ下の弟である発岐に王位を継ぐことを勧めた。発岐は王の死を知らなかったために于氏の勧めが不遜であると責めたため、于氏は延優の元へ行き延優に王位に継ぐことを勧めた。延優はこれに応え、翌日早朝に延優は王位に就いた山上王である。発岐は王位に就き損ねたことを不服として、遼東太守の公孫度と結託し武力侵攻を行うが、王位簒奪に失敗した。 『唐会要』百済伝には「百済は高句麗に国を破られた」と記録されており、その年が山上王の即位年だとすると、次のような推定が成り立つ。 百済は公孫度の攻撃に破れて遼東の属国のような状態になっていた。このような時に、高句麗王子発岐が公孫度を頼ってきた。公孫度はこれを契機に高句麗を侵略しようと百済に命じて高句麗を攻撃させた。百済は公孫度の命令にやむなく従って高句麗を攻撃したが、高句麗によって公孫度と共に破れてしまった。 高句麗のこの攻撃で百済は領土を失って、遷都を決断したのではないかと推定する。遼東半島から海に逃げ、半島に沿って南下し、漢江(韓国ソウル市)付近に上陸したものと考えられる。 百済の多婁即位(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
188 | 辰韓:秦韓、百済が母山城に侵攻するが撃退(東アジア-朝鮮、辰韓-) | |||
188 | 新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
189 | 辰韓:秦韓、狗壌で百済と戦って勝利(東アジア-朝鮮、辰韓-) | |||
189 | 日食(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
190 | 辰韓:秦韓、百済が新羅の円山郷に侵攻する(東アジア-朝鮮、辰韓-) | |||
199 | 第2代加羅王居登王(199~259) 新羅へ侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
201 | 新羅との衝突 百済は領地拡張する中で、新羅の領域内にも入り込む結果になり、しばしば新羅と衝突することになった。新羅は倭国領内の一領域なのであるが、次第に独立国の様相を持ち始め大和朝廷との対立がしばしば起こっていた。 新羅はAD201年、倭人である脱解が第4代新羅王に即位し、大和朝廷との和解をはかろうと202年倭国との間で使者の交換をした。 新羅本紀脱解王3年 夏五月、倭国と国交を結び、互いに使者を交換した。 この当時卑弥呼は独自の情報網により、おそらく百済が侵入していることは知っていたと思われるが、百済の活用を考えて様子を探っていたのではあるまいか。 このような時に百済が西から新羅の国境侵犯をしてきたのである。ここで、百済と新羅の国境争いが起こった。 (東アジア-朝鮮、新羅、百済-) | |||
201 | 新羅との衝突 百済は領地拡張する中で、新羅の領域内にも入り込む結果になり、しばしば新羅と衝突することになった。新羅は倭国領内の一領域なのであるが、次第に独立国の様相を持ち始め大和朝廷との対立がしばしば起こっていた。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
203 | 新羅本紀脱解王5年(AD203年前半)馬韓の将軍新羅に投降 馬韓は新羅の北西、百済の北の領域に存在した諸国の総称である。その馬韓の将軍が新羅に投降したのである。馬韓はこの頃公孫康率いる楽浪郡に攻め立てられ、楽浪郡に所属するようになった時期である。それを嫌った将軍が新羅に投降したものと考えられる。 この203年には、楽浪郡の攻撃が百済の北辺に迫っていたといえる。百済としては楽浪郡を迎え撃たなければならず、新羅と争っている余裕はなく、AD204年前半、新羅に使者を出して、新羅との間の国境を確定させようとした。それが、以下の記録である。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
204 | 百済本紀多婁王36年(AD204年前半)使者を新羅に派遣して会見を乞うたが聞かなかった。 新羅本紀脱解王7年(AD204年前半)百済王が地境を拓定するために会見を乞うたが合わなかった。 この時、脱解王は百済王に使者を出し、「その地は倭国領である。倭王卑弥呼の許可は取ってあるのか。そうでなければ倭国に滅ぼされるぞ」とでも脅しを入れたと思われる。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
205 | 倭国との交渉 百済王は早速その実態を調べたことであろう。その結果、今都としている漢江周辺は間違いなく倭国領であり、このまま放置していたのでは倭国との戦いが始まるのは確実であると思った。北から楽浪郡、南から倭国に攻められたのでは百済の滅亡は日を見るよりも明らかだった。百済の選択肢は二つだった。楽浪郡の支配下に下るか、倭国と組んで楽浪郡と対峙するかである。 焦った百済王は早速倭国との交渉に入ることにしたが、倭国とのパイプがないために、伽耶の卓淳旱岐のもとへ三人の使者を送り、倭国との橋渡しをしてもらうように頼んだのである。卓淳旱岐が倭国に使者を送り、倭王卑弥呼との連絡を取ったのである。 卑弥呼は百済からの挨拶を待っていたのである。卑弥呼の情報網により、百済は遼東を追い出されて、領地を失った国であること、楽浪郡の勢力がすぐ北まで攻め依ってきていること。新羅と対立関係にあることなどを既に知っていた。 百済を倭国領から追い出してしまえば、彼らは住むところを失うので、窮鼠猫を咬むの例えにもある通り、倭国に対して宣戦布告をしてくる可能性がある。今、倭国内は倭の大乱を終えたばかりで、安定状況になく、海外遠征での戦いは避けたい気持ちがあった。また、新羅が朝鮮半島で幅を利かせており、新羅に対抗できる国が朝鮮半島には存在していない。また、北からの楽浪郡の侵入を阻止しなければならないという思いもあった。伽耶諸国を強く育てる対策は打ったが、まだ実用段階ではなかった。 百済は新羅と対立関係にある実力を持った国なので、百済が新羅に対抗できる国となれば、新羅の朝鮮半島での横暴も抑えられると思ったのではないか。 このような思いもあって、卑弥呼は百済からの使者に会ったのである。 百済としても、倭国との交渉が決裂してこの領地を追い出されてしまえば行くところもなく、なんとか倭国に漢江周辺の地の領有を認めてもらおうと、最高の対応で礼儀正しく卑弥呼に会ったのであろう。 卑弥呼としては百済に漢江周辺の領有を任せる代わりに次のような条件を出したと思われる。 ①毎年貢物をよこすこと。 ②新羅に対抗し、新羅の横暴を止めること ③朝廷からの使者が大陸に渡る時の橋渡しをすること。 ④朝鮮半島や大陸の情報を知りうる限り、朝廷に伝えること。 ⑤楽浪郡の北からの侵入を阻止すること。 百済としては倭国と戦争したり、追い出されることに比べればたやすいことであり、百済王は承諾した。卑弥呼としても、朝廷の力で朝鮮半島の倭の領域を統治するのは大変であることと、楽浪郡や高句麗が何れ朝鮮半島に進出してきて、朝鮮半島が戦乱状態になることを予想しており、百済がその防波堤になってくれることを願っていた。AD205年を境に倭国と百済との強力な同盟関係が成立した。 三国史記・・修正年・・百済本紀・・新羅本紀 63・・204・・使者を新羅に派遣して会見を乞うたが聞かなかった・・百済王が地境を拓定するために会見を乞うた 64・・204・・蛙山城を攻めたが勝てなかった。・・百済が蛙山城・狗壌城を攻撃した。 66・・205・・蛙山城を攻めとったが暫らくして破れた・・百済が蛙山城を攻めとったが奪回した。 70・・207・・新羅を攻めた・・百済が攻めてきた。 74・・209・・新羅を攻めた・・百済が辺境を侵したのでこれを防いだ。 75・・210・・蛙山城を攻め落とした・・ 76・・210・・蛙山城を奪回された・・蛙山城を奪回した。 84・・214・・・・百済が辺境を侵した 85・・215・・新羅の辺境を侵した・・ 百済は倭国の了解のもと遠慮なく新羅と戦えるようになり、頻繁に新羅と戦うこととなった。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
205 | 後漢が帯方郡を設置(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
209 | 高句麗、国内城を郡に定める(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
210 | 靺鞨が侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
211 | 百済の己婁即位(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
212 | 日食(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
214 | 辰韓:秦韓、百済が腰車城を攻めて城主を殺したたため、反撃し沙?城を陥落(東アジア-朝鮮、辰韓-) | |||
214 | 第6代百済王仇首王(214~234) 仇首王即位キュウシュ(貴須、肖古王の長男身長七尺という) 靺鞨と戦闘(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
216 | 靺鞨が侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
218 | 辰韓:秦韓、百済軍が?山を包囲するも敗走させる(東アジア-朝鮮、辰韓-) | |||
218 | 新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
221 | 日食(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
222 | 辰韓:秦韓、百済が牛頭州に侵入(東アジア-朝鮮、辰韓-) | |||
222 | 新羅を攻撃 日食(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
224 | 辰韓:秦韓、烽山の麓で百済軍と戦って、戦勝する(東アジア-朝鮮、辰韓-) | |||
224 | 新羅が侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
234 | 第7代百済王古尓王(234~286) 古尓王即位コニ(蓋婁王の第2子) 沙伴王即位サハン(仇首王の長男、幼少のため古尓王が継承)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
236 | 百済の蓋婁即位(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
238 | 天地を祭るために太鼓と笛を用いる(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
240 | 新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
246 | 魏と高句麗が合して侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
247 | 第12代新羅王沾解尼師今(247~261) 干ばつ多発(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
248 | 第12代高句麗王中川王(248~270) 崇神248-273(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
255 | 新羅を攻撃 百済の肖古即位(東アジア-朝鮮、新羅、百済-) | |||
255 | 辰韓:秦韓、百済の侵攻するも防御する(東アジア-朝鮮、辰韓-) | |||
258 | 靺鞨が使者(東アジア-朝鮮、百済、靺鞨-) | |||
260 | 官位を制定官人の服飾は紫、緋色、青の順と定める 百済(古爾王),十六官等と公服制定(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
260 | 百済(古爾王)、一六官等と公服制定国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
261 | 百済、新羅と和親を求めるも得られず(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
266 | 辰韓:秦韓、百済が烽山城を攻めるが敗走する(東アジア-朝鮮、辰韓-) | |||
266 | 新羅を攻めるも敗退(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
278 | 辰韓:秦韓、百済が侵入してきて槐谷城を包囲したが、撃退した(東アジア-朝鮮、辰韓-) | |||
279 | 百済の仇首即位(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
283 | 辰韓:秦韓、百済が攻め入り、槐谷城を包囲したが、防御する(東アジア-朝鮮、辰韓-) | |||
284 | 8 | 6 | 百済、阿直岐を遣わし良馬二匹を献上(日本-日本-古墳時代) | |
286 | 辰韓:秦韓、百済が講和を求めて使者を送ってくる(東アジア-朝鮮、辰韓-) | |||
286 | 第8代百済王責稽王(286~298) 新羅と和親を求める 責稽王即位セキケイ(青稽、古尓王の子)帯方の王妃を妃とする 高句麗の帯方攻撃に対して援軍(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
289 | 新羅、夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。 百済の古爾即位 百済の沙伴即位(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
295 | 新羅、春王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
298 | 第15代新羅王基臨尼師今(298~310) 第9代百済王汾西王(298~304) 漢が貊人とともに侵入責稽王戦死 汾西王即位フンセイ(責稽王の長男)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
304 | 第10代百済王比流王(304~344) 楽浪を攻撃するも楽浪の刺客により汾西王殺される 比流王即位ヒリュウ(仇首王の第2子)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
308 | 日食(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
313 | 三国時代高句麗・百済・新羅が戦争を繰り返した。(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
313 | 高句麗、楽浪郡を滅ぼす新羅、百済の建国(東アジア-朝鮮、高句麗、新羅、百済-高句麗) | |||
313 | 高句麗,楽浪郡滅亡させる漢が、半島北部に設置して支配下においた楽浪など4郡が、高句麗によって、滅ぼされる。これにより、漢からの支配を追放することになる。高句麗による楽浪郡の滅亡紀元前108年に衛氏朝鮮が魏に滅ぼされると朝鮮半島の大部分は長きに渡る中国勢力からの支配を受けることになります。前漢→後漢→魏→晋へと。そんな中、北から朝鮮半島へと勢力拡大を狙う国がありました。中国東北地方から出たツングース系貊族が建てた高句麗です。この高句麗により313年、中国勢力の拠点であった楽浪郡が滅ぼされます。この頃は、中国の晋が滅亡する前後のことですね。さらに、帯方郡も滅ぼされ(高句麗によって滅ぼされたとする書と朝鮮の土着の勢力によって併合されたとする書がある)、これにより朝鮮半島から中国勢力が駆逐されることになります。さぁ、中国勢力を追い出した高句麗は、どんどん南へと勢力拡大を狙います。この頃の朝鮮半島南部は小さな国々が集まり、馬韓(ばかん)、辰韓(しんかん)、弁韓(べんかん)といういわゆる三韓が小国国家郡をつくっていましたが、高句麗の脅威もあり統一の機運が高まります。そして、馬韓が統一され建てられた国家が百済に。辰韓が統一されてできた国が新羅となりました。ちなみに、弁韓の地は統合がうまく進まず、加羅諸国となりますが、後に百済、新羅に統合されます。これで、高句麗も簡単には朝鮮統一とはいかなくなります。そう朝鮮史上に残る「三国時代」の始まりです。(東アジア-朝鮮、前漢、高句麗、楽浪郡-) | |||
313 | 高句麗、楽浪郡、帯方郡を滅亡させる(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
313 | 中国の漢が、半島北部に設置して支配下においた楽浪など4郡が、高句麗によって、滅ぼされる。これにより、中国からの支配を追放することになる。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
315 | 百済の責稽即位(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
321 | 百済の汾西即位(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
324 | 百済の比流即位(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
331 | 第16代高句麗王故国原王(331~371) 大飢饉、人を殺して食べる(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
334 | 契王即位ケイ(汾西王の長男)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
335 | 日食(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
337 | 新羅の使者(東アジア-朝鮮、新羅、百済-) | |||
337 | 辰韓:秦韓、国交を開くため百済に使者を送る(東アジア-朝鮮、辰韓-) | |||
344 | 第11代百済王契王(344~346) 新羅、倭国が使者をつかわして、婚姻を請うたが、すでに以前に女子を嫁がせたことがあるので断った。(東アジア-朝鮮、新羅、百済-) | |||
345 | 新羅、二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。 百済の契即位(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
346 | 「百済」建国朝鮮半島に百済興る。(--) | |||
346 | 百済の建国(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
346 | '■前期漢城時期(?475年) 中国が五胡十六国の時代'(東アジア-朝鮮、百済-前期 漢城時期) | |||
346 | 朝鮮半島南部に百済建国(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
346 | 第12代百済王近肖古王(346~375) 第5代加羅王伊尸品王(346~407) 近肖古王の即位。(注:ただし、近肖古王は、第13代の王とされている。)近肖古王の代に、博士高興が文字の記録を始めた。(百済)(百済) 近肖古王即位キンショウコ(句、比流王の第2子) 新羅、倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。 中国が五胡十六国の時代 百済,近肖古王即位 百済の照古即位 ■前期漢城時期(?475年) ソウル夢村土城跡 夢村土城の土塁跡(ソウル)中国の史料の上でも「百済」の存在が明確になるのは、第13代の近肖古王(346年即位)から。この頃の百済の都「漢城」は、ソウルの南、風納土城、夢村土城(現在のオリンピック公園)と考えられています。 近肖古王の時、拡大を続ける高句麗に対抗、百済は平壌まで攻め入り、故国原王を討ち取るものの、のちの高句麗の広開土王に反撃され、そのため、新羅、日本(倭国)と同盟を結ぶようにもなりました。 しかし、475年、高句麗・長寿王に攻め入られ、ついに首都・漢城は落城、時の第21代蓋鹵王は捕らえられ、討死しました。 346年、近肖古王の即位。 近肖古王の代に、博士高興が文字の記録を始めた。 百済の建国 346年ころ百済の建国朝鮮半島の南西部にあった馬韓の一小国であった伯済(はくさい・ペクジェ)が、周囲の小国を統合して支配下に置き、慰礼城(いれいじょう・現在の京畿道広州郡・後に漢山城へ移る)を都として、百済(くだら・ペクジェ)に発展した。伯済の国名は「魏志」韓伝に見え、百済の国名がはじめて現れるのは「晋書」の帝紀咸安二年(372年)正月の条で、このとき百済の近肖古王が東晋に朝貢している。346年は、近肖古王の即位の年である。(注:ただし、近肖古王は、第13代の王とされている。)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
346 | 百済、建国。 百済(346ー660)百済は三国時代の古代国家のひとつで、BC18年からAD660年まで国を守りました。高句麗の王族である温祚が韓半島の西南部に建国しました。洗練された発展した文化が花開き、特に日本に多くの影響を与えました。AD660年に新羅と唐の連合軍により滅ぼされました。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
346 | 346年ころ百済の建国 朝鮮半島の南西部にあった馬韓の一小国であった伯済(はくさい・ペクジェ)が、周囲の小国を統合して支配下に置き、慰礼城(いれいじょう・現在の京畿道広州郡・後に漢山城へ移る)を都として、百済(くだら・ペクジェ)に発展した。 伯済の国名は「魏志」韓伝に見え、百済の国名がはじめて現れるのは「晋書」の帝紀咸安二年(372年)正月の条で、このとき百済の近肖古王が東晋に朝貢している。 346年は、近肖古王の即位の年である。(注:ただし、近肖古王は、第13代の王とされている。)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
346 | ■前期 漢城時期( ? 475年)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
346 | ■前期 漢城時期( ? 475年) ソウル 夢村土城跡 夢村土城の土塁跡(ソウル) 中国の史料の上でも「百済」の存在が明確になるのは、第13代の近肖古王(346年即位)から。この頃の百済の都「漢城」は、ソウルの南、風納土城、夢村土城(現在のオリンピック公園)と考えられています。 近肖古王の時、拡大を続ける高句麗に対抗、百済は平壌まで攻め入り、故国原王を討ち取るものの、のちの高句麗の広開土王に反撃され、そのため、新羅、日本(倭国)と同盟を結ぶようにもなりました。 しかし、475年、高句麗・長寿王に攻め入られ、ついに首都・漢城は落城、時の第21代蓋鹵王は捕らえられ、討死しました。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
346 | 中国が五胡十六国の時代(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
346 | 百済の照古即位(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
346 | 近肖古王即位キンショウコ(句、比流王の第2子)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
346 | 346年、近肖古王の即位。 近肖古王の代に、博士高興が文字の記録を始めた。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
346 | 百済、《近肖古王即位》 百済のもとは、馬韓の伯済国で漢江下流域(現、ソウルの江南地区)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
350 | 朝鮮に高句麗・百済・新羅の三国が成立(東アジア-朝鮮、高句麗・百済・新羅-) | |||
356 | 第17代新羅王奈勿尼師今(356~402) 朝鮮半島南部に新羅建国 新羅,奈勿王即位 新羅の建国 仲哀356-360 三国時代(356ー676) 韓半島とアジアの北東地域を中心に4世紀初め頃から7世紀中頃まで高句麗・百済・新羅が互いに争っていた時代を三国時代といいます。高句麗・百済・新羅が戦争を繰り返した。:3世紀頃三国時代BC1世紀中頃には漢の支配が弱まり、BC37年に中国の遼寧省付近に伝説の人物朱蒙(しゅもう)が高句麗(こうくり、こま)を建国した。高句麗は次第に四方に勢力を延ばし、楽浪郡や帯方郡を滅ぼした。391年に即位した広開土王(好太王)は遼東に勢力を伸ばし、満州南部から朝鮮半島の大半を領土とした。半島南部では、3世紀頃に三韓(馬韓、辰韓、弁韓)と呼ばれる国が分立し、楽浪郡の支配を受けていた。4世紀中には馬韓を百済(くだら)が、辰韓を新羅(しらぎ)が統一して、朝鮮半島の三国時代が始まった。三国は激しく争い、新羅は他の二国に圧迫されていた。4世紀中頃には日本が弁韓に進出し、任那(みまな:伽耶(かや)とも言う)を支配した。中国を統一した隋は、4度の高句麗遠征に失敗して滅び、次の唐も高句麗遠征に失敗した。新羅は唐との関係を強化し、唐・新羅連合軍は660年に百済を滅し、663年には百済の遺臣とそれを支援する倭国軍(指導者は後の天智天皇の中大兄皇子)を白村江で破った。そして668年には、残った高句麗を滅し、新羅が朝鮮半島を統一した。新羅は仏教を保護し、民衆の生活も豊かになった。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
356 | 356年 新羅の建国(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
364 | 百済再建(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
364 | 百済再建 漢江付近はこの当時倭国の領域であった。しかしながら、大和朝廷の施政権はほとんど及んでおらず、ほとんど未開地のような情勢であったと思われる。百済としては、まだどこにも所属していないと思い、新しい国として百済再建を諮った。 周辺がほとんど未開の地であるために、少しずつ領土を拡張していった。その中でこの地が倭国領であることを知ったと思われる。 百済王としては、倭国が巨大な領域を占めており、かなりの強国であるという噂を知り、このままこの地を領有していると、何れ倭国と交戦しなければならなくなり、存亡の危機にかかわることになりかねないので、倭国王との接触を図ろうとしたと思われる。 その関連記事が神功皇后44年及び46年の記事であろうと思われる。 神功44年百済王は、卓淳旱岐のもとへ、日本へ渡る道を知っているか三人の使者を送った。 神功46年斯摩宿禰を卓淳國に遣す。百済との交流が始まる。 神功44年は364年である。百済が建国後200年も倭国の存在を知らないなど考えにくいことであり、この記事は神功皇后ではなく卑弥呼の時代のものと考える。神功44年は中国干支で甲子である。この干支がこの当時の半年一年干支の間違いであるとすれば、同じ甲子となるのはAD204年後半である。よって、卓淳國で使者を送ったのは204年、百済との交流が始まったのは205年となる。 新羅、倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
366 | 新羅に使者(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
367 | 百済と新羅がともに初めて日本に朝貢した。(「日本書紀」の神功皇后47年の条)(注:もっと後代とする説もある。)(百済)(東アジア-朝鮮、百済、新羅-) | |||
368 | 日食 新羅に使者(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
369 | 高句麗、2万の軍隊を率いて百済を攻めたが、雉壌の地で大敗する(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
369 | 高句麗が侵入百済軍の軍旗に黄色を用いる(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
369 | 百済、高句麗、百済を攻め雉壌の戦いで敗北する(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
371 | 高句麗、百済の近肖古王が兵3万を率いて高句麗に攻め込み、流れ矢に当たり戦死 《小獣林王(371~384)》 小獣林王はひたすらに国力の回復に努めた(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
371 | 第17代高句麗王小獣林王(371~384) 近肖古王,高句麗の平壌城を攻撃.故国原王戦死 高句麗が侵入百済軍は平壌城を攻撃、高句麗王が戦死 高句麗の平壌城をせめて占拠した。このとき、高句麗の古国原王は流れ矢にあたって戦死した。(注:高句麗が百済を攻めてきて、これを撃破したとする文献もある。)(百済)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
371 | 高句麗が侵入 百済軍は平壌城を攻撃、高句麗王が戦死(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
371 | 371年、高句麗の平壌城をせめて占拠した。このとき、高句麗の古国原王は流れ矢にあたって戦死した。(注:高句麗が百済を攻めてきて、これを撃破したとする文献もある。)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
371 | 百済、高句麗の平壌城を攻め、高句麗故国原王戦死(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
372 | 七支刀百済王が倭国に七支刀を送った。(--) | |||
372 | 慰礼城から漢山城(現在の京畿道広州郡・慰礼城と約6.5kmしか離れていない)へ遷都した。 高句麗,仏教伝来,太学設置.漢学を教える 高句麗、仏教の伝来。 晋に朝貢(晋書に為鎮東将軍領楽浪太守とあり) 東晋へ朝貢。百済王余句(近肖古王)が鎮東将軍領楽浪太守の号を授けられる。 百済王と世子(太子)が日本へ使節を送り「七支刀(しちしとう)」を倭王に贈った。(「日本書紀」の神功皇后52年の条)(石神神社七支刀369製作) 百済,東晋に使節を送る(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
372 | 晋に朝貢(晋書に為鎮東将軍領楽浪太守とあり)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
372 | 372年、東晋へ朝貢。百済王余句(近肖古王)が鎮東将軍領楽浪太守の号を授けられる。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
372 | 372年、日本へ使節を送り「七支刀(しちしとう)」を贈った。(「日本書紀」の神功皇后52年の条)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
372 | 372年、慰礼城から漢山城(現在の京畿道広州郡・慰礼城と約6.5kmしか離れていない)へ遷都した。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
372 | 百済、東晋、百済王余句(近肖古王)を鎮東将軍領楽浪太守にする(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
372 | 百済、東晋に使節を送る国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、百済、東晋-) | |||
375 | 第13代百済王近仇首王(375~384) 近仇首王即位キンキュウシュ(須、近肖古王の子) 高句麗侵入 (注記にこの時代に文字を得て事を記すようになったとある) 百済の貴須即位(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
377 | 高句麗の平壌城を攻撃 北朝の前秦へも朝貢。(百済)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
384 | 百済、仏教の伝来。 第14代百済王枕流王(384~385) 第18代高句麗王故国壌王(384~392) 西域の僧侶摩羅難?(まらなんだ)が東晋を経て百済に渡り仏教を伝える。 百済,仏教伝来(東晋の僧・摩羅難陀).中央集権化の手段として公認 百済の枕流即位 枕流王即位チンリュウ(近仇首王の子) 晋に朝貢仏僧が晋から渡来(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
384 | 百済、仏教伝来国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
384 | 百済の枕流即位(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
384 | 枕流王即位チンリュウ(近仇首王の子) 晋に朝貢 仏僧が晋から渡来(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
384 | 384年、西域の僧侶摩羅難?(まらなんだ)が東晋を経て百済に渡り仏教を伝える。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
384 | 百済、晋から百済に仏教伝来(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
385 | 第15代百済王辰斯王(385~392) 辰斯王即位シンシ(枕流王の弟) 百済の辰斯即位 仏寺を創建(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
385 | 百済の辰斯即位(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
385 | 仏寺を創建(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
385 | 辰斯王即位シンシ(枕流王の弟)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
386 | 高句麗が侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
387 | 東晋から、百済の太子余暉が使持節都督鎮東将軍百済王の号を授けられる。 靺鞨が侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
389 | 高句麗を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
390 | 高句麗、百済の侵攻により、都押城(平壌市中和郡)を破られるなど、劣勢に陥いる(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
391 | 高句麗、広開土王即位。 高句麗、そもそも新羅・百残(百済の蔑称か?)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が■を渡り百残・■■・新羅を破り、臣民となしてしまった。 高句麗の広開土王(好太王)即位(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
391 | 倭が海を渡り百済などを打ち破って臣下とした。(広開土王碑の碑文から)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
391 | 靺鞨が侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
391 | 391年 高句麗の広開土王(好太王)即位(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
391 | 倭兵、海を渡り百済・新羅を破って臣民とする(好太王碑文)(東アジア-朝鮮、百済、日本:倭-古墳時代) | |||
391 | 倭兵、朝鮮半島に出兵し、百済・新羅を破り高句麗と交戦(~404)したが朝鮮半島から撤退(東アジア-朝鮮、百済、日本:倭-古墳時代) | |||
391 | 倭が朝鮮半島(南部)の百済(くだら)、加羅(から)、新羅(しんら)を臣民とする(好太王碑-こうたいおうひ)(日本-日本-古墳時代) | |||
392 | 高句麗、新羅と友好関係をむすぶ 百済の石硯城を含めた10城を奪取し、関彌城を陥落させる 北方の契丹を征伐し、男女500人を捕らえ捕虜となっていた高句麗人1万人を連れ戻す(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
392 | 第16代百済王阿芳王(392~405)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
392 | 阿シン王即位アシン(草冠+辛、阿芳、枕流王の子)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
392 | 日食 高句麗の広開土王が侵入多くの領土を奪われる(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
392 | 百済の阿辛(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
392 | 百済、高句麗、百済北部を攻め、十余城を落とす(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
395 | 高句麗、侵攻して来た百済軍を撃破して、百済との接境に7城を築いて防備を強化した(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
395 | 高句麗の広開土王と戦うも大敗する(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
396 | 高句麗、漢江を越えて進撃して百済の58城700村を攻略し、百済王に隷属することを誓わせる(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
396 | 高句麗,百済を服従させる 高句麗の広開土王が、平壌城を奪い返す。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
396 | 396年、高句麗の広開土王が、平壌城を奪い返す。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
396 | 百済、高句麗、百済を撃ち、58城を奪い、百済王弟を人質とする(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
397 | 倭と結んで高句麗と戦うため、百済の太子腆支を倭国へ送る。 倭国と国交を結び王子の腆支を人質とする(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
397 | 百済、倭国と通好し、太子を人質とする(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
399 | 高句麗、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平譲にでむいた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。 高句麗攻撃のための徴発により人々が新羅に逃げる(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
399 | 高句麗攻撃のための徴発により人々が新羅に逃げる(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
399 | 百済、倭と結び、倭兵、新羅国境に満ちる。(好太王碑文)(東アジア-朝鮮、百済、日本:倭-古墳時代) | |||
400 | 日食(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
402 | 百済から倭国へ使者を送る。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
402 | 倭国に使者を送り大珠を求む(大珠の意不明)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
402 | 402年、百済から倭国へ使者を送る。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
403 | 新羅、百済からも侵入を受ける(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
403 | 倭国から百済へ使者を送る。 倭国の使者を特に手厚くねぎらう(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
404 | 高句麗、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。 倭軍が帯方界(現在の黄海道)まで進出する。(広開土王碑の碑文から)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
404 | 404年、倭軍が帯方界(現在の黄海道)まで進出する。(広開土王碑の碑文から)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
405 | 百済,阿直岐・博士王仁など日本に渡り漢学伝える(東アジア-朝鮮、新羅、倭-) | |||
405 | 百済阿花王が薨る。天皇は直支王を召して国に帰り王位を嗣ぐようにいい、東韓の地を賜った。(日本-朝鮮、朝鮮:百済-) | |||
405 | 百済、日本に漢学伝える国史年表(国史年表)(日本-朝鮮、朝鮮:百済-) | |||
405 | 第17代百済王腆支王(405~420)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
405 | 百済の阿?王が死去したので、倭国へ送られていた太子腆支が帰国を許され倭人を伴って国境まで来ると、都の解注という者が報告して言うには、「太子の弟の訓解(くんかい)が摂政をして太子の帰りを待つ間に、末弟の?礼(せつれい)が訓解を殺して王となっている。太子は軽々しく入国しないでください。」という。そこで、太子は倭人とともに島にたてこもり、その間に貴族たちが?礼を殺し、太子を迎え入れて腆支王となった。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
405 | 百済の直支(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
405 | 腆支王即位テンシ(直支、映、枕流王の子) 人質となっていたとき枕流王が死去、弟を殺した末弟が王となったために乞うて 倭国の護衛により海中の島にて待機してのち王となる(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
405 | 405年、百済の阿?王が死去したので、倭国へ送られていた太子腆支が帰国を許され倭人を伴って国境まで来ると、都の解注という者が報告して言うには、「太子の弟の訓解(くんかい)が摂政をして太子の帰りを待つ間に、末弟の?礼(せつれい)が訓解を殺して王となっている。太子は軽々しく入国しないでください。」という。そこで、太子は倭人とともに島にたてこもり、その間に貴族たちが?礼を殺し、太子を迎え入れて腆支王となった。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
406 | 晋に朝貢(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
407 | 高句麗、百済を攻撃して6城を攻略する(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
409 | 倭国の使者が夜明珠を送る厚く礼遇する(夜明珠の意不明)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
414 | 高句麗、広開土王牌(好太王)碑建立。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
414 | 広開土王碑(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
416 | 東晋から、百済王余映(腆支王)が同様に鎮東将軍百済王の号を授けられる。 東晋の使者が王を鎮東将軍百済王とする(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
418 | 百済、倭国に白綿を送る(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
419 | 日食(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
420 | 第18代百済王久尓王(420~427)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
420 | 久尓辛王即位クニシン(腆支王の長男)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
420 | 宋から、百済王余映が使持節都督百済諸軍事鎮東大将軍百済王の号を授けられる。 「宋書」東夷百済国伝に、高句麗がほぼ遼東郡を支配し、百済が遼西郡をほぼ支配した、との記述がある。一見不自然であるが、百済は海上交通の技術に優れ、一時的に遼西郡を侵略したのではないかという。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
420 | 420年、宋から、百済王余映が使持節都督百済諸軍事鎮東大将軍百済王の号を授けられる。 「宋書」東夷百済国伝に、高句麗がほぼ遼東郡を支配し、百済が遼西郡をほぼ支配した、との記述がある。一見不自然であるが、百済は海上交通の技術に優れ、一時的に遼西郡を侵略したのではないかという。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
427 | 第19代百済王毘有王(427~455)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
427 | ヒ有王即位ヒユウ(田+比、久尓辛王の長男あるいは腆支王の養子)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
428 | 倭国の使者(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
429 | 宋に朝貢(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
433 | 百済と新羅、高句麗に対して同盟を結ぶ 高句麗の南進政策で首都(慰礼城:漢江流域)が陥落されて非常に苦しんだ百済は、首都を熊津(忠清南道の公州)と泗 (忠清南道の扶餘)に移しながら体制を整備して復興を図った。 高句麗の南進は韓国の南東部で成長していた新羅にも大きな脅威をあたえた。そこで、新羅と百済は高句麗の攻撃を受けた場合、互いに助け合うという羅済同盟を結んだ。結婚同盟まで発展した百済と新羅の同盟関係は高句麗の度重なる攻撃を防ぐのに大きく役立った。 百済と新羅は高句麗の南進政策をある程度防ぎながら国の秩序を立て直すことができた。そのようにして体制を整備して国力を強化した両国は6世紀に入ると高句麗と対抗できる実力を持つようになった。(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
433 | 新羅、百済同盟成立国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
433 | 新羅、百済の同盟成立。(東アジア-朝鮮、新羅、百済-) | |||
433 | 新羅・百済同盟成立(東アジア-朝鮮、新羅、百済-) | |||
433 | 新羅に使者を送り和親を求む(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
433 | 百済、新羅と同盟(羅済同盟)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
434 | 新羅の使者が答礼(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
438 | 羅済同盟成立。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
440 | 新羅、倭人が、南の辺境に侵入。夏六月にまた東の辺境を攻める。 日食(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
442 | 伽耶、倭が大伽耶に侵攻するも、百済に救援を求め、これを排除する(東アジア-朝鮮、伽耶-) | |||
447 | 干ばつ 新羅への避難民(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
451 | 倭王済「安東大将軍倭国王」に任命される(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
455 | 新羅、高句麗が百済に侵入した際には、救援兵を発した(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
455 | 第20代百済王蓋鹵王(455~475)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
455 | 蓋鹵王即位ガイロ(近蓋婁、ヒ有王の長男)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
455 | 百済、高句麗、百済を撃ち、新羅が百済を救う(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
458 | 百済、百済余慶(蓋鹵王)、宋に使者を送り、臣下の叙授を求める(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
468 | 日食(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
469 | 高句麗に侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
472 | 魏に朝貢 魏に高句麗の罪悪を並べ救援を乞う上表文と応答があるが 魏が百済を支援しなかったために朝貢をやめる(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
472 | 百済、百済王余慶、北魏に使者を送り、高句麗出兵を求める(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
475 | 高句麗の南進により,百済漢城から熊津(公州)に遷都(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
475 | 高句麗、百済の漢城(ソウル)を陥落させて蓋鹵王を殺害(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
475 | 新羅、高句麗が百済に攻め入り援軍を送るも都漢城は陥落・蓋鹵王も殺害される(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
475 | '■中期熊津(公州)時代(475年?538年)'(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
475 | 熊津の公山城跡(公州)長寿王の攻撃から逃れた蓋鹵王の子、文周王は都を熊津(今の忠清南道公州)に遷すものの、大臣に刺客を送られ、暗殺。しばらく混乱期が続きます。 第24代東城王は、新羅、倭との関係を密にし、南へ領土を広げ、百済王権と国力の回復に成果を挙げるものの、晩年は飢饉の際にも贅沢浪費をし、臣下によって暗殺されます。 高句麗、百済の漢山城を攻略。百済、熊津へ都を遷す。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
475 | 第21代百済王文周王(475~477)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
475 | 高句麗が侵入し蓋鹵王を殺す 子の文周等は南へ逃げる(木劦満致らを伴う)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
475 | 高句麗の長寿王が3万の兵で百済の王都漢城を包囲し猛攻した。百済の蓋鹵(がいろ)王は脱出しようとして捕らえられた。攻められる前に子の文周らを南に逃した。文周らは熊津(ゆうしん・現在の忠清南道公州邑)に都を置いた。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
475 | 文周王即位ブンシュウ(ブン洲サンズイ+文、蓋鹵王の子) 新羅の援軍をつれて帰国(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
475 | 475年、高句麗の長寿王が3万の兵で百済の王都漢城を包囲し猛攻した。百済の蓋鹵(がいろ)王は脱出しようとして捕らえられた。攻められる前に子の文周らを南に逃した。文周らは熊津(ゆうしん・現在の忠清南道公州邑)に都を置いた。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
475 | 百済、高句麗長寿王、百済の漢城を陥落させ、百済蓋鹵王を殺す(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
475 | 百済、百済文周王即位し、熊津(現・忠清南道公州市)に遷都(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
476 | 耽羅:耽牟羅:屯羅、百済の文周王に朝貢した(東アジア-朝鮮、耽羅:耽牟羅:屯羅-) | |||
476 | 新羅、倭人が東辺を攻める。 耽羅国(済州島)が朝貢(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
477 | 第22代百済王三斤王(477~479)即位サンキン(壬乞、文周王の長男幼年につき解仇が実権)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
477 | 百済、百済兵官佐平解仇、文周王を殺し、三斤王を立てる(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
478 | 解仇が謀反(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
478 | 大臣の解仇が刺客を放って文周王を殺し、13歳の三斤が王となる。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
478 | 478年、大臣の解仇が刺客を放って文周王を殺し、13歳の三斤が王となる。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
479 | 第23代百済王東城王(479~501)即位トウジョウ(牟大、摩牟、文周王の弟の子)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
479 | 解仇らが反乱を起こし、三斤王は真一族の援けを受けて解仇らを討ち取った。 次の東城王は、新羅との関係を緊密にし、南へ領土を広げた。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
479 | 東城王即位トウジョウ(牟大、摩牟、文周王の弟の子)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
479 | 479年、解仇らが反乱を起こし、三斤王は真一族の援けを受けて解仇らを討ち取った。 次の東城王は、新羅との関係を緊密にし、南へ領土を広げた。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
479 | 百済、《百済東城王即位》(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
481 | 新羅、高句麗・靺鞨が攻めてきたとき、百済・伽耶の援軍を得て追撃(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
482 | 靺鞨が侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
484 | 新羅、高句麗が侵入し、百済と協力して追撃(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
484 | 南斉に朝貢するも高句麗がこれを妨害(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
485 | 新羅に使者(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
488 | 魏の討伐軍侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
490 | 百済、北魏、数十万騎百済を攻める(南斉書)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
491 | 飢饉で新羅への避難民(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
493 | 新羅に妃を求める(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
494 | 高句麗、扶余王が妻子とともに降伏してくる 新羅と戦って薩水の原で犬牙城に追い詰めたが、百済の援軍のため断念する(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
494 | 新羅、薩水の河原戦いで百済の東城王が3千の兵とともに救援し、高句麗兵を退却させた(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
494 | 新羅に侵入した高句麗軍に対し援軍(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
495 | 高句麗、百済の雉壌城を包囲したが、新羅の援軍のため断念する(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
495 | 新羅、高句麗が百済に攻め入りが、援軍し高句麗兵を壊滅(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
495 | 日食 高句麗の侵入に新羅が援軍(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
495 | 百済、高句麗、百済の雉壌城を攻め、新羅が百済を救援する(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
498 | 耽羅:耽牟羅:屯羅、百済の東城王に服属した(東アジア-朝鮮、耽羅:耽牟羅:屯羅-) | |||
499 | 干ばつ(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
500 | 家臣が王の浪費をいさめるも聞かれず(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
501 | 第24代百済王武寧王(501~523)即位ブネイ(斯摩、隆、東城王の第2子) 東城王が、加林城主に任じられたことを不満とした臣下に殺されると、武寧王が立ってこれを討った。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
501 | 武寧王即位ブネイ(斯摩、隆、東城王の第2子)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
501 | 501年、東城王が、加林城主に任じられたことを不満とした臣下に殺されると、武寧王が立ってこれを討った。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
501 | 百済、《東城王暗殺され、武寧王即位》(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
502 | 飢饉と疫病 高句麗を攻撃 新羅,牛による耕田を始めて実施(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
502 | 飢饉と疫病 高句麗を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
503 | 高句麗、百済に攻め入られ、水谷城を落とされる(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
503 | 百済、百済武寧王、倭国に遣使(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
506 | 靺鞨が侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
507 | 高句麗、靺鞨と共同で百済の漢城(ソウル)を攻めようとしたが、百済軍に迎撃される(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
507 | 高句麗侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
508 | 耽羅:耽牟羅:屯羅、南海中の耽羅人が初めて百済国と通じた(東アジア-朝鮮、耽羅:耽牟羅:屯羅-) | |||
512 | 四県割譲大連大伴金村が、百済へ任那の四県を割譲し、新羅の反発を買う。(--) | |||
512 | 高句麗、百済に攻め入り、加弗城・円山城を陥落させ、男女一千人余りの捕虜を得た(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
512 | 百済が日本へ使節を送り、任那4県の割譲を要請し、認められる。(「日本書紀」の継体天皇6年の条) 梁に朝貢 高句麗侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
512 | 大伴金村(日本)が任那4県を百済に割譲する(東アジア-朝鮮、百済、日本:倭-) | |||
513 | 百済の将軍らと五経博士(儒教の博士)を日本に派遣し、判跛国(はへこく(はひこく)・現在の慶尚北道星州郡)が百済の己?(こもむ・現在の全羅北道南原郡と任実郡および全羅南道谷城郡)地方を奪ったので審判のうえ返還してほしいと申し出た。判跛国も珍宝を日本に献じて、己?の地を与えてくれるよう願い出たが、日本は己?と帯沙(たさ・現在の慶尚南道河東郡)を百済の領有と認めた。(「日本書紀」の継体天皇7年の条)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
513 | 百済から儒教が伝来(日本-日本-古墳時代) | |||
514 | 第23代新羅王法興王(514~540) 判跛国は帯沙と子呑(ことむ・位置不明)に城を築き、各地にのろし台を作って日本にそなえた。また、新羅にも侵入して被害を与えている。(「日本書紀」の継体天皇8年の条)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
514 | 514年、判跛国は帯沙と子呑(ことむ・位置不明)に城を築き、各地にのろし台を作って日本にそなえた。また、新羅にも侵入して被害を与えている。(「日本書紀」の継体天皇8年の条)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
515 | 百済から日本への使節であった将軍らが帰国を願い出たので、物部連を伴って帰国させると、判跛国が軍備を増強しているとの情報を聞き、使節の将軍らは新羅を通って帰国させ、物部連は500人の海軍を率いて帯沙江へ行ったが判跛国軍の襲撃を受け命からがら逃げ延びた。(「日本書紀」の継体天皇9年の条)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
516 | 日食 百済は物部連らを己?で迎え入れ、多くのねぎらい物を与えた。帰国の際には、新たな五経博士を送って先の博士と交代させた。また、これとは別に百済の使節が高句麗の使節を連れて日本へ行った。(「日本書紀」の継体天皇10年の条)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
521 | 新羅、百済に伴われて梁に対して朝貢(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
521 | 使者を梁に送り寧東大将軍を授かる(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
523 | 高句麗、百済に侵攻する(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
523 | 第25代百済王聖王(523~554)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
523 | 聖王即位セイ(メイジョウ、明+のぎへん+農、武寧王の子) 高句麗が侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
523 | 百済、《百済聖王(聖明王)即位》(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
524 | 梁から綏東将軍百済王を受ける(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
525 | 百済、武寧王陵を築造する。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
525 | 新羅と国交を結ぶ(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
527 | 磐井の乱527(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
529 | 高句麗、再び百済に攻め入り五谷(黄海道瑞興郡)で大勝し、首級二千余をあげた(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
529 | 高句麗が侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
538 | 仏教伝来百済から仏教が伝わる(552の説もある)。(--) | |||
538 | '■後期泗 (扶余)時代(538年?660年) 三国時代の百済 南扶余'(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
538 | 泗 に遷都した聖王(「聖明王」)は、国号も「南扶余」と変えましたが、その名は定着しなかったようです。 扶余定林寺五重塔 滅亡の傷跡を残す定林寺・五重塔551年、聖王は、新羅・加羅諸国と連合して高句麗と戦い、旧都の漢城地方を取り戻しますが、翌年、高句麗と連合した新羅に奪われ、同盟関係にあった新羅と対立が生じます。そのため聖王は、倭国に援軍を要請、仏像・経典などを送ったのもこの時期です。聖王は、積極的に仏寺の造営をすすめ、王興寺・定林寺などの寺址が扶余で発見されています。しかし、聖王は、554年に新羅との戦いで戦死します。その後、百済は次第に、かつての宿敵・高句麗と同盟を結ぶようになり、百済最後の王となる第31代義慈王は、執拗に新羅に攻め入ります。国際的にも孤立することとなった新羅は、善徳女王をはじめとして、唐に救援を求めるようになります。 はじめは新羅と百済の和平を求めていた唐ですが、百済義慈王に和平の意思はなく、唐の3度にわたる高句麗制圧も失敗に終わると、唐は新羅と同盟を結び、百済を攻撃する方針に切り替えていきます。 こうして半島情勢は、「百済-高句麗」VS「新羅-唐」の対立構造となり、日本(倭国)ががどちらに着くかが外交の焦点となりました。 百済、泗 (しび)遷都。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
538 | 百済、王都を泗 城(扶余)に遷す。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
538 | 百済から仏教伝来538年(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
538 | 三国時代の百済 三国時代の地図、5世紀終わり頃 ByEvawen,Gzhao[GFDLorCCBY3.0] 第25代武寧王の時代になって、ようやく百済王権の回復を見せます。しかし、次第に新羅が勢力を伸ばし、高句麗の南部(百済の北側)へと領土を拡大させていきます。 武寧王の亡き後即位した、第26代聖王(日本書紀での「聖明王」)は、高句麗からの攻撃を受けたこともあり、538年、都を熊津から、南の泗 (サビ)、今の扶余へ遷都しました。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
538 | 都を熊津から泗 (しひ・現在の忠清南道扶余郡扶余邑)に遷した。錦江によって25kmくだったところで、要害の地から平野を見下ろす丘陵に移った。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
538 | 都を泗 (さんずい+比)に遷都し国名を南扶餘とする (所夫里とも呼び現在の忠清南道の扶餘市)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
538 | 百済,泗 城(扶余)に遷都(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
538 | 百済、都を泗 城に移す国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
538 | ■後期 泗 (扶余)時代(538年 ? 660年)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
538 | 南扶余(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
538 | 538年、都を熊津から泗 (しひ・現在の忠清南道扶余郡扶余邑)に遷した。錦江によって25kmくだったところで、要害の地から平野を見下ろす丘陵に移った。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
538 | 538年、百済から日本へ仏教が伝えられた。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
538 | 百済、百済聖王、泗?(現・忠清南道扶余市)に遷都し、国号を南扶余と号す(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
538 | 百済の聖明王,倭に仏像・経論を送る(東アジア-朝鮮、百済、倭-) | |||
538 | 日本に百済から仏教が伝わる(552年とする説もある)(日本-日本、百済-古墳時代) | |||
540 | 高句麗、百済が侵攻して来もこれを撃退する(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
541 | 新羅、百済との同盟 高句麗領に入り、百済と共同して漢江流域に進出した第一歩の「丹陽赤城碑」を設置(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
541 | 梁に使者を送り博士、仏典、匠を求めて得る(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
547 | 日食(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
548 | 高句麗、?の兵を用いて百済の独山城に侵攻するも、新羅の応援により退却(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
548 | 新羅、高句麗が百済に攻め込んだときには百済を助けた(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
548 | 高句麗がワイ(さんずい+歳)と共に侵入、新羅援軍を得て撃退(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
548 | 高句麗がワイ(さんずい+歳)と共に侵入、新羅援軍を得て撃退(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
550 | 高句麗、百済に道薩城を陥落させられ、百済の金?城を攻撃しているあいだに二城とも新羅に奪われる(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
550 | 新羅、高句麗と百済との交戦の時には係争地である道薩城及び金?城を奪い取った(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
550 | 高句麗を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
551 | 百済の聖王は、新羅・加羅諸国と連合して高句麗と戦い、旧王都の漢城地方を取り戻した。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
552 | 新羅は一転して高句麗と連合し、漢城地方を新羅に奪われた。百済と加羅(ここでは大加羅国の意)・安羅は日本に救援軍の派遣を依頼した。 百済聖王30年,達率恕利斯致契が日本に仏教伝える(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
552 | 百済、日本に仏教を伝える 『日本書紀』によると、日本に仏教が伝来したのは飛鳥時代、552年(欽明十三年)に百済の聖明王から釈迦仏の金銅像と経論他が贈られた時だとされている。しかし、現在では『上宮聖徳法王帝説』(聖徳太子の伝記)や『元興寺伽藍縁起』(元興寺の成り立ち・変遷を記述したもの)を根拠に538年(宣化三年)に仏教が伝えられたと考えられ、歴史の教科書にも538年が掲載されている(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
552 | 百済、日本に仏教を伝える国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、百済、日本-) | |||
552 | 百済の聖明王が朝廷に金銅の釈迦物を献上し、蘇我稲目が賜る。(日本-日本-古墳時代) | |||
552 | 百済王から仏像と経典を賜られる(日本-日本-古墳時代) | |||
553 | 新羅、百済が高句麗から取り戻したばかりの漢山城を含む一帯を奪い、漢江流域に新州を設置(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
553 | 新羅が百済北部を占有する 百済王女が新羅へ嫁する(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
554 | 新羅、百済・伽耶と連合して管山城に攻め入ったが、連合軍2万9千600を殲滅した(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
554 | 第26代百済王威徳王(554~598)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
554 | 威徳王即位イトク(昌、聖王の子) 高句麗が侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
554 | 王自ら新羅を攻めるも敗死(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
554 | 百済の王子の余昌(よしょう・のちの威徳王)は、函山城(かんざんじょう・現在の忠清北道沃川郡沃川邑)の戦いで新羅郡を破り、勢いに乗じて新羅国内へ進撃したが、逆に新羅軍に函山城を奪われて退路を断たれて孤立した。これを救うため父の聖王が函山城を攻めたが、かえって聖王は殺されてしまった。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
554 | 554年、百済の王子の余昌(よしょう・のちの威徳王)は、函山城(かんざんじょう・現在の忠清北道沃川郡沃川邑)の戦いで新羅郡を破り、勢いに乗じて新羅国内へ進撃したが、逆に新羅軍に函山城を奪われて退路を断たれて孤立した。これを救うため父の聖王が函山城を攻めたが、かえって聖王は殺されてしまった。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
554 | 百済、百済聖王、新羅の管山城を撃ち敗死。百済威徳王即位(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
559 | 日食(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
561 | 新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
562 | 加羅諸国が新羅に占領される。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
562 | 百済、高句麗、百済の熊川城を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
567 | 陳へ朝貢(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
570 | 高斉(北斉)に使者、車騎大将軍帯方郡公百済王を得る(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
572 | 北斉に朝貢(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
577 | 新羅、百済の侵攻を受けるが、撃破する(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
577 | 陳に朝貢 新羅が侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
578 | 新羅、百済に対して閼也山城を割譲する(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
578 | 北周に朝貢(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
581 | 中国が隋の時代(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
581 | 581年に隋が成立すると、高句麗と百済はすぐに朝貢した。百済は、隋が成立すると、しきりに高句麗を討つよう要請している。 隋に朝貢(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
581 | 隋に朝貢(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
584 | 陳に朝貢(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
584 | 陳に朝貢(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
584 | 百済、高句麗、百済を攻撃し、新羅が百済を救援する(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
588 | 善信尼(ぜんしんのあま)らを百済に受戒の法を得るために発たせた。(日本-日本-古墳時代) | |||
589 | 隋が陳を併合 隋の戦船が済州島に漂着し船は百済を経て帰還(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
592 | 飛鳥文化 (あすかぶんか) 仏教渡来~ 大化の改新 ・仏教を中心とした文化 【建築】飛鳥寺、法隆寺 【仏像】釈迦三尊像 百済観音像 【工芸品】玉虫厨子(たまむしのずし) 帰化人(日本-日本-古墳時代→飛鳥時代) | |||
597 | 百済の王子阿佐を日本に派遣する。(「日本書紀」推古天皇5年の条)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
598 | 第27代百済王恵王(598~599)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
598 | 恵王即位ケイ(季、聖王の第2子)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
598 | 隋に朝貢し高句麗討伐の許諾を得る 高句麗が侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
599 | 第28代百済王法王(599~600)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
599 | 法王即位ホウ(宣、孝順、恵王の子あるいは威徳王の子) 殺生令をだし漁猟の道具を焼く(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
600 | 第29代百済王武王(600~641)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
600 | 武王即位ブ(璋、法王の子)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
600 | 仏寺を創建 聖徳太子(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
600 | 百済、《百済武王(600~641)即位》(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
602 | 新羅、百済との阿莫城での会戦では大勝する(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
602 | 百済僧観勒、暦法などを伝える(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
602 | 新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
605 | 新羅が侵入(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
607 | 隋に朝貢 隋の使者が倭国へゆくために百済の南路を通る(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
607 | 奈良に法隆寺(玉虫厨子(たまむしのずし)、釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう)、百済観音像(くだらかんのんぞう)など)を建立(世界最古の木造建造物)(日本-日本-飛鳥時代) | |||
609 | 肥後国に百済人80余人漂着(日本-日本、百済-飛鳥時代) | |||
611 | 隋に朝貢(このとき隋は高句麗討伐の準備中で歓待される) 新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
612 | 百済人味摩之,伎楽舞を日本に伝える(日本-呉(くれ)、百済、日本-) | |||
612 | 新羅、隋の高句麗遠征 百済とは?岑城・母山城付近で激しく戦うが敗戦する(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
614 | 高句麗、第四次遠征でも隋軍を退け、隋の衰亡を早めさせるきっかけをつくる 百済からは石頭城で捕虜三千人、新羅からは捕虜八千人と牛鳴山城を得る(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
616 | 新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
616 | 百済、新羅の母山城を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
618 | 中国が唐の時代(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
618 | 第27代高句麗王栄留王(618~642) 新羅が侵入 唐が成立する。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
618 | 618年、唐が成立する。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
621 | 唐に朝貢(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
623 | 百済、新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
623 | 法隆寺金堂釈迦三尊像、法隆寺百済観音像(鞍作鳥(止利仏師))(日本-日本-飛鳥時代) | |||
624 | 唐に朝貢し帯方郡主百済王を得る 新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
624 | 百済、高句麗、新羅があいついで唐に朝貢した。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
625 | 唐に朝貢(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
626 | 新羅、高句麗と百済とが和解してともに新羅に当たる状況となる(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
626 | 唐への使者を高句麗が妨害(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
627 | 新羅へ旧領奪回を目すも、新羅の唐への使者で中止する 唐の太宗が百済新羅両国へ和平の命を下す 百済は陳謝の使者を送る(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
628 | 新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
631 | 百済王子「豊璋」百済王子「豊璋」、人質として来日。(--) | |||
631 | 唐に朝貢(東アジア-朝鮮、百済、唐-) | |||
631 | 百済王子豊璋、人質として来日(日本-日本、百済-飛鳥時代) | |||
632 | 第27代新羅王善徳女王(632~646) 新羅攻撃唐に朝貢(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
633 | 新羅、西武国境地帯に百済の侵入(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
633 | 新羅攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
636 | 新羅、百済が独山城を襲撃しようとして潜んでいたところを、殲滅(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
636 | 漢江流域の孤立をねらって、新羅の独山城(どくさんじょう・現在の忠清北道槐山郡)を襲う。(百済) 645年、唐が高句麗に出兵すると、新羅も呼応して出兵したが、失敗に終わり、その間に百済は新羅の西部と加羅地方を侵略した。 642年、百済は、新羅の国西四十余城(秋風嶺以東、洛東江中流以西の地域か)を奪い、さらに新羅の唐への要衝路である党項城(とうこうじょう・現在の京畿道華城郡)を高句麗とともに襲い、南部の中心地である大耶城(だいやじょう・現在の慶尚南道陜川郡)を奪って、大耶州の都督(長官)品釈(ひんしゃく)夫妻を殺した。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
636 | 唐に朝貢(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
636 | 1 | 1 | 日食(東アジア-日本、百済-飛鳥時代) | |
638 | 百済、新羅の独山城を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
639 | 12 | 14 | 百済川(曽我川)(奈良県広陵町)に九重の塔を建てる(百済寺)(日本-日本-飛鳥時代) | |
640 | 王子を唐に派遣し国学を学ぶを求める(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
641 | 第30代百済王義慈王(641~660)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
641 | 義慈王即位ギジ(武王の子)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
641 | 百済、《百済義慈王(641~660)即位》(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
642 | 新羅、百済に西部40余城・大耶城も陥落し、高句麗に援軍求めるが得られず(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
642 | 皇極642-644 唐の使者が帯方郡主百済王を与える(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
642 | 唐に朝貢 新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
643 | 高句麗と和睦し新羅を攻撃新羅は唐に救援を求める(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
643 | 百済、高句麗と同盟(麗済同盟)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
644 | 唐に朝貢太宗は両国を諭す(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
645 | 唐が高句麗に出兵すると、新羅が呼応して出兵したが、失敗に終わり、その間に百済は新羅の西部と加羅地方を侵略した。(百済)(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
645 | 唐が高句麗に出兵すると、新羅が呼応して出兵したが、失敗に終わり、その間に百済は新羅の西部と加羅地方を侵略した。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
645 | 唐が高句麗を攻めるを知って新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
645 | 唐が高句麗に出兵すると、新羅が呼応して出兵したが、失敗に終わり、その間に百済は新羅の西部と加羅地方を侵略した。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
645 | 8 | 8 | 孝徳天皇が百済大寺に僧尼を集め仏教興隆の詔を発表(日本-日本-飛鳥時代) | |
647 | 新羅を攻めるも敗北(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
648 | 新羅、百済に侵攻されるが金?信の活躍で撃退に成功 唐に百済討伐の援軍を願い出、了承を得る(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
648 | 新羅を攻めるも再び敗北(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
651 | 唐に朝貢 太宗再び諭す (新羅の使者もあり太宗はその言上の理を認める)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
653 | 倭国と国交を結ぶ 高句麗、靺鞨とともに新羅を攻撃(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
655 | 百済、新羅、百済の刀比川城を攻撃(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
655 | 新羅、高句麗・靺鞨・百済の連合軍が攻め入って北部辺境の33城が奪われ、唐に救援を求めた 唐、高句麗を攻撃(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
655 | 高句麗と百済の連合軍が、新羅の北部の33城を奪い、新羅は唐に救援軍を要請した。唐は遼東郡に出兵したが、大きな効果はなかった。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
655 | 新羅は危急を唐に知らせる(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
657 | 百済、王の庶子41人を佐平の官に任命(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
658 | 658~659年の唐による第3回の高句麗への出兵が行なわれるが、これが失敗に終わると、唐は百済を攻撃することにした。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
659 | 新羅、百済、侵攻してくる(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
660 | 百済滅亡 (--) | |||
660 | 660年、唐は水陸13万人の大軍を動員し、山東半島から出発し、新羅軍も5万人の兵で出陣した。新羅軍は黄山之原(現在の忠清南道論山郡)で勝利し、唐軍は白江(現在の錦江の中流扶余邑付近の別称)の伎伐浦(ぎばつぽ)で百済軍を破り、王都の泗 城(しひじょう・錦江の下流域)を攻めた。百済王はいったん旧都の熊津城(錦江の中流域)にのがれたが、皇太子らとともに降伏し、百済は滅亡した。百済の滅亡後、664年まで、王族の福信・僧道?(どうちん)・日本へおくられていた王子豊璋などが、高句麗や日本の大和朝廷の支援を受けて執拗に唐・新羅連合軍と戦っている。日本からは3万7千人余りの軍を送り(百済)(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
660 | 百済が、新羅と唐によって滅ぼされる。(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
660 | 新羅と、唐と連合して百済を滅ぼす(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
660 | 新羅、唐の連合軍により百済滅亡(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
660 | 百済が、新羅と唐によって滅ぼされる。(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
660 | 新羅、唐・新羅連合軍による百済滅亡(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
660 | 耽羅:耽牟羅:屯羅、(百済滅亡)(東アジア-朝鮮、耽羅:耽牟羅:屯羅-) | |||
660 | 百済、唐・新羅に敗れ、百済の遺臣が救いを求める(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
■百済滅亡と白村江の戦(660-663年) 扶余扶蘇山城より眺める白馬江 扶蘇山城より白馬江を望む660年、ついに唐は13万人の大軍を動員、新羅の5万の兵と連合して、百済に攻め入ります。 百済軍は、黄山之原(現在の忠清南道論山)において決戦に挑み、善戦するも新羅軍に大敗してしまいます。 一方、唐軍を白江(現在の白馬江。錦江の中流扶余付近)に引き込む作戦に出ますが、唐軍に泗 城(扶余・扶蘇山城)を包囲されてしまいます。一時義慈王は旧都の熊津城(錦江の中流域)に脱れますが降伏し、ついに百済は滅亡したのでした。(東アジア-朝鮮、百済-) | ||||
660 | 唐は13万の軍を率い新羅も5万をもってこれに従う(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
660 | 百済滅亡国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
660 | 660年、唐は水陸13万人の大軍を動員し、山東半島から出発し、新羅軍も5万人の兵で出陣した。新羅軍は黄山之原(現在の忠清南道論山郡)で勝利し、唐軍は白江(現在の錦江の中流扶余邑付近の別称)の伎伐浦(ぎばつぽ)で百済軍を破り、王都の泗 城(しひじょう・錦江の下流域)を攻めた。百済王はいったん旧都の熊津城(錦江の中流域)にのがれたが、皇太子らとともに降伏し、百済は滅亡した。(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
660 | 百済、唐・新羅連合軍、百済を滅ぼす(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
661 | 斉明天皇・中大兄、百済再興のため出発(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
661 | 第31代百済王豊璋王(661~663)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
661 | 義慈王は籠城戦と白江で迎え撃つの2案を議する 百済軍敗北(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
661 | 1 | 6 | 斉明天皇は百済級援軍を率いて出航。(日本-日本-飛鳥時代) | |
662 | 白村江の戦い.新羅・唐軍に倭軍大敗(東アジア-朝鮮、新羅、唐、百済、倭-) | |||
662 | 扶餘豊(王)が残兵を率いて戦う 唐新羅連合軍は救援の倭軍の軍船400艘を白江に焼く 百済軍と倭軍は唐に降伏し、扶餘豊は行方不明となる 唐の高宗は扶餘隆を都督とする(東アジア-朝鮮、新羅、唐、百済、倭-) | |||
662 | 阿曇比羅夫、百済再興に向かう(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
663 | 白村江の戦い日本、百済の連合軍が、等、新羅の連合軍に大敗する。以後日本は朝鮮から撤退。(--) | |||
663 | 白村江(はくすきのえ)の戦い。朝鮮半島の白村江での倭・百済連合軍と唐・新羅連合軍との戦いで唐の勝利。倭は敗戦の影響で西日本各地に山城を築き防人を配備して大宰府を設置した。更に都を近江大津宮に遷都する。(東アジア-朝鮮-) | |||
663 | 新羅、[百済・倭国連合]と[唐・新羅連合]との[白村江の戦い]で、 倭国の水軍を壊滅させ、百済の再興の望みを断ち切る(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
663 | 白村江の戦い(東アジア-朝鮮、新羅、唐、百済、日本-) | |||
663 | 百済が唐に滅ぼされる(東アジア-朝鮮、新羅、唐、百済、倭-) | |||
663 | 錦江河口で2日間にわたって唐・新羅の連合軍と戦ったが大敗した。古名をとって、「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」と呼ばれる。(百済)(東アジア-朝鮮、新羅、唐、百済、倭-) | |||
663 | 新羅、唐の連合軍、日本軍を白村江で撃退(白村江の戦い)(東アジア-朝鮮、新羅、唐、百済、倭-) | |||
663 | 新羅、倭国の水軍が来て百済を助ける。(東アジア-朝鮮、新羅、唐、百済、倭-) | |||
663 | 白村江の戦い錦江河口付近 白村江?錦江河口付近(群山)百済の滅亡後も、百済の遺臣たちは百済復興を願い、各地で抵抗を続け、人質として日本へおくられていた百済の王子豊璋も、高句麗や日本(斉明天皇、中大兄皇子ら)の支援を受けて、唐・新羅連合軍と戦いますが、内部分裂を起こしてしまいます。 日本(倭国)からも、3万7千人余りの軍が送られ、豊璋らとともに、663年、「白村江」(今の錦江?)の河口付近で、唐・新羅の連合軍と戦いますが、結果、大敗に終わりました。日本史上の「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」です。(東アジア-朝鮮、新羅、唐、百済、倭-) | |||
663 | 百済、倭国の百済救援軍、白村江で唐軍に大敗(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
663 | 8 | 27 | 白村江[はくすきのえ(はくそんこう)]の戦い。百済の遺民およびこれを支援する日本軍と、百済を滅ぼした唐・新羅軍との戦い。日本側が敗北する(日本-日本-飛鳥時代) | |
664 | 百済の滅亡後、664年まで、王族の福信・僧道?(どうちん)・日本へおくられていた王子豊璋などが、高句麗や日本の大和朝廷の支援を受けて執拗に唐・新羅連合軍と戦っている。日本からは3万7千人余りの軍を送り、663年に、錦江河口で2日間にわたって唐・新羅の連合軍と戦ったが大敗した。古名をとって、「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」と呼ばれる。(東アジア-朝鮮、新羅、唐、百済、倭-) | |||
665 | 唐使来日、入京百済人400人余を近江国神(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
665 | 扶餘隆が新羅と盟誓を結ぶ(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
666 | 百済人2000人を東国に移す(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
668 | 百済滅亡についで、唐・新羅連合軍は、668年に高句麗を滅ぼし、これによって三国時代は終わり、統一新羅の時代がはじまりました。(東アジア-朝鮮、高句麗、百済、新羅、唐-) | |||
669 | 百済人700余人を近江国蒲生郡におく(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
670 | 新羅、唐と争い、百済故地を収める(~676)(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
676 | 朝鮮半島、三国時代~新羅による朝鮮統一~ 紀元前108年より長きに渡る中国勢力からの支配を受けていた朝鮮。しかし、それも中国東北地方から出た民族が建てた国、高句麗により中国勢力の拠点、楽浪郡が滅ぼされると(313年)朝鮮半島内における激しい争いの幕開けとなります。朝鮮半島の南にある小国は、まとまり始め百済、新羅が誕生。朝鮮半島の三国時代の始まりです。&ref(): File not found: "image1201.jpg" at page "百済2";;さぁ、上の図を見れば圧倒的に有利なのは高句麗ですね。4世紀後半、高句麗は中国の東北地方から朝鮮半島の北の大半を領土とし全盛期を迎えます。しかし、これは中国にとってはやっかいです。これ以上、高句麗には力をつけて欲しくはないところ・・・。6世紀後半から7世紀前半に高句麗は、中国(隋・ずい)から再三に渡って攻撃を受けることになります。ですが、この頃の高句麗は超つよく、その攻撃をすべて跳ね返す!ですが、その頃、南で着実に勢力を伸ばしている国がありました。新羅です。新羅は、地図を見ればわかるように朝鮮半島の東側だから中国からは遠い。ということは、中国にとって新羅は直接の脅威ではなかったわけです。新羅は、中国との良好な関係を保ちながら、百済、高句麗の領土を削っていきます。この新羅の勢力拡大に脅威を抱いた高句麗は百済と同盟を結ぶことになります。6世紀後半のことです。高句麗は、隋からの攻撃を受けながら、新羅の動きにも目を光らせていなければならなかった訳ですね。そして、中国でも大きな動きが起こります。隋が滅び、かわり唐が中国を支配しました。この唐と新羅は同盟を結ぶことになります。660年のことです。唐と手を組んだ新羅はさっそく連合軍を率いて百済を滅亡(660年8月)。この戦いは、日本も大きく関わっています。白村江の戦い(はくすきのえ・はくそんこうのたたかい)です。日本は百済を助ける為に大軍を送り込みますが、残念ながら敗退します。:668年そして、新羅は高句麗も滅ぼしました。(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
676 | 統一新羅時代(676ー935) 統一後の新羅は文化・芸術の興隆に努め、特に仏教文化はこの時期に黄金期を迎えます。しかし、貴族層の間での覇権争いにより次第に国力が衰退していき、結局935年に高麗に併合されてしまいました。しか~し!百済、高句麗を滅ぼした新羅。この新羅が今度は唐にとっては目障りです。なんと、共に戦った新羅と唐が戦争状態になります。670年のことです。この争いは6年続きます。(東アジア-朝鮮、高句麗-) | |||
676 | 統一新羅と後三国時代[676~918年] 新羅は骨品制〔こっぴんせい〕という貴族制度を通して王権を強化した。華やかな文化が花開いた。手工業や商業が活発になり、絹織物、金銀細工、螺鈿漆器、人参などを唐や日本に輸出して富を得た。末期には、王権が弱くなり地方では豪族勢力が成長して、後高句麗、後百済などという国をたて、ふたたび三国が鼎立することになった。(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
676 | 676-679扶餘隆高句麗にて死去 唐の則天武后はその孫に高句麗(百済)王を名乗らせるが領土なく絶える(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
892 | 後百済(892年-936年)(東アジア-朝鮮、後百済-) | |||
892 | 後百済、甄萱が完山に後百済を興す(東アジア-朝鮮、後百済-) | |||
894 | 後高句麗(894年-918年)→高麗 9~10世紀頃繁栄を誇った新羅であるが、8世紀末頃から王都内で反乱や内紛が相次ぎ、加えて農民たちの蜂起もあって、新羅朝廷の統治能力は、弱体化していた。9世紀地方の豪族達も反乱を起こし、新羅の政権から離脱していった。中でも、甄萱(キョオヌウォン)、梁吉(ヤンキル)、弓裔(クンイェ)らが有力な勢力であった。そして、これらの勢力によって、新羅は、3つに分裂することになる。900年即ち、甄萱がに後百済を建国し、弓裔は898年に後高句麗を建国したのである。(東アジア-朝鮮、後高句麗-) | |||
896 | 甄萱が後百済を建国(東アジア-朝鮮、後百済-) | |||
897 | 新羅、《孝恭王(897~912)即位:酒色におぼれる》 大規模な内乱(後三国時代)に突入しており、後百済の甄萱や後高句麗の弓裔などの勢力が急激に領土を侵食していた (赤袴賊と呼ばれる集団による反乱をみる)(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
900 | 甄萱,後百済建国.現在の全羅道と忠清道を支配(東アジア-朝鮮、後百済-) | |||
900 | 甄萱、後百済建国国史年表(国史年表)(東アジア-朝鮮、後百済-) | |||
900 | 9~10世紀頃繁栄を誇った新羅であるが、8世紀末頃から王都内で反乱や内紛が相次ぎ、加えて農民たちの蜂起もあって、新羅朝廷の統治能力は、弱体化していた。9世紀になると地方の豪族達も反乱を起こし、新羅の政権から離脱していった。中でも、甄萱(キョオヌウォン)、梁吉(ヤンキル)、弓裔(クンイェ)らが有力な勢力であった。そして、これらの勢力によって、新羅は、3つに分裂することになる。即ち、甄萱が900年に後百済を建国し、弓裔は898年に後高句麗を建国したのである。(東アジア-朝鮮、高句麗、後百済-) | |||
912 | 新羅、《神徳王(912~917)即位》 後高句麗の弓裔、後百済の甄萱などの勢力に浸食されるだけ(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
918 | 高麗時代(918ー1392)'' 高麗・・・モンゴル人→女真人→満州人高麗は、918年に建国されました。この時期、国教として定められていた仏教は、政治と文化に大きな影響を及ぼしながら更に発展しました。高麗青磁やユネスコ世界文化遺産にも指定されている八万大蔵経、直指心経などの重要な遺産もこの時期に作られました。特に、直指心経は世界最初の金属活字で印刷された仏教経典で、グーテンベルク聖書よりも78年前に作られたものです。そんな高麗も14世紀後半からは次第に国力が衰えていきました。676年に新羅によって朝鮮半島初の統一がなされますが、8世紀末から9世紀まで王位継承の争いが起こり、地方でも農民が反乱を起したり、飢饉に見舞われたりと新羅は国力を失っていきます。そんな中、有力な豪族たちが新羅を分裂させ国を建国していきました。後三国時代といわれる時代です。この争いを制したのは高麗。高麗は935年に新羅を併合すると、936年には後百済を滅ぼし朝鮮半島を統一しました。高麗の建国者は王建(おうけん)。首都は開城(かいじょう)です。この高麗。現在、韓国のことをKoreaといいますよね。これは、高麗を表すKoryoが変化したものだといいます。当時、高麗は青磁(せいじ)という陶磁器を輸出し世界に名を知られることになりましたので、この高麗のイメージが強かったのでしょうね。また、高麗は日本ともちょっと因縁があります。そう元寇です。高麗は1259年にフビライ=ハンの率いるモンゴル(元)軍の侵攻により属国となります。これに対して、高麗は三別抄(さんべつしょう)と呼ばれる選抜部隊が奮闘し対抗するのですが、これも1273年には完全に鎮圧されてしまいます。そして、1274年には元により高麗水軍を前面に立てた日本攻撃が始まるのです。文永の役ですね。さらに1281年には再び日本に攻めてきます。弘安の役です。この高麗は、1356年に元から独立しますが、同時期に頻繁に発生していた倭寇(わこう・海賊)に悩まされ、高麗は徐々に衰退していくことになります。中国の科挙制度が導入され、儒教を統治思想として中央集権的な体制が整備された。(東アジア-朝鮮、高麗-) | |||
918 | こうして、新羅、後百済、後高句麗の3国が鼎立する中で、弓裔の下にいた王建(ワンゴン)は、傲慢な弓裔を滅ぼし、新たに高麗(コリョ)を建国し、自ら王を名乗る。王建は、次第に地方の豪族たちをまとめあげ、(東アジア-朝鮮、高麗、新羅、後百済、後高句麗-) | |||
920 | 新羅、景明王は王建と好みを通じて後百済に対抗したが、924年に亡くなった(東アジア-朝鮮、新羅-) | |||
936 | 高麗、後百済を滅ぼし朝鮮半島統一(東アジア-朝鮮、高麗-) | |||
936 | 後百済を滅ぼして、高麗が、半島の再統一(後三国統一)をなしとげる。このときの首都は、開城(ケソン)におかれた。(東アジア-朝鮮、高麗,後百済-) | |||
936 | 高麗、後百済を滅ぼして朝鮮半島を再統一(東アジア-朝鮮、高麗、後百済-) | |||
936 | こうして、新羅、後百済、後高句麗の3国が鼎立する中で、弓裔の下にいた王建(ワンゴン)は、傲慢な弓裔を滅ぼし、918年、新たに高麗(コリョ)を建国し、自ら王を名乗る。王建は、次第に地方の豪族たちをまとめあげ、935年には、新羅を併合、そして、936年には、後百済を滅ぼして、高麗が、半島の再統一をなしとげる。このときの首都は、開城(ケソン)におかれた。高麗時代(東アジア-朝鮮、新羅、後百済、後高句麗-) | |||
2009 | LINK 縄文と古代文明を探求しよう! ≫ NHKスペシャル「日本と朝鮮半島2000年」第2回放映(2009年6月17日付)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
2012 | 【LINK】 LINK 水.土壌.心の汚染や、アジア太平洋の利権を現場で考え真実を伝える ≫ 朝鮮半島南部の前方後円墳&任那日本府&ヒスイ製勾玉は糸魚川のみ産地(2012年3月17日付)(東アジア-朝鮮、百済-) | |||
2013 | LINK News U.S. 中国・韓国・在日朝鮮人崩壊ニュース ≫ 韓国人「日本人は百済系だからウリ達と兄弟ニダ!!」 ← バカ 今の韓国人は百済とは何の関係もなし!!!!! そもそも日本は百済を統治する立場に!!!!! 劣等遺伝子民族は真の歴史を知り発狂憤死すべきである!!!! 2ch「天皇が半島の子孫なら、なぜ『日王』などと呼ぶのか。嘘と妄想と手のひら返しを繰り返しすぎだろ」(2013年5月1日付) このサイトのコメントとして、次の記述がある。太字は、当サイト管理人による。 『★現天皇のゆかり発言で有名になった桓武天皇の母親の高野新笠の系図 武寧王[461年日本生まれ第25代百済王(在位501-523年)] 純陀太子在日1世(日本に人質に) 斯我君在日2世 法師君在日3世 雄蘇利紀君在日4世 和史宇奈羅在日5世(和氏に改名して日本に帰化) 和史粟勝在日6世 和史浄足在日7世 和史武助在日8世 和史乙継在日9世(娘を天皇家に嫁がせて高野姓を賜る) 高野朝臣新笠在日10世―桓武天皇[第50代天皇(在位781-806年)] ・・・つまり桓武天皇の母親の高野新笠は10代前に渡来し、6代前に日本に帰化した百済系10世なのです。 彼女の百済系の割合は1/(2^10)=0.00098。パーセントにすると0.098%となります。 逆に日本系の割合は99.902%で、血筋から見ても帰化している事から見ても正真正銘の日本人です。 ましてや125代の今上天皇との関係は「0」と言って差し支えありません。 また「百済≠韓国」である事も強調しておきます。 さらに「武寧王の父の東城王は日本(倭)からやって来た」と韓国の古文書に書かれている事も付け加えておきます。 そして桓武天皇が即位したのは781年・・・つまり660年百済滅亡の121年後なのです。百済の政治的な関わりは「0」です。』(東アジア-朝鮮、百済-) |