箕子朝鮮

箕子朝鮮成立(前1122年-前200年)
関連概念:朝鮮半島現中国
箕子朝鮮殷周
箕子朝鮮(きしちょうせん)は、韓氏朝鮮ともいう。
朝鮮古代の伝承上の王国。

【伝承に見る箕子朝鮮

始祖の箕子は、殷成立時中国王朝の最後の王であった___の叔父で,彼は、甥の無道な政治を諌めた賢人であったという。

前1122年に、周成立時、___が殷を滅ぼしたとき,彼は、箕子に、黄河東北の朝鮮を封じたらしく、また,戦国時代、儒家の孔子は,箕子を最も代表的な賢者として尊崇したとされる。

箕子は、朝鮮において「8条の教え」をつくり,民を教化したので,民は、門戸を閉めなくとも物が盗まれないようになったというが、彼の孫の箕準の代に、燕からの亡命者衛満によって滅亡させられる。(衛氏朝鮮成立)
箕準はこのとき、南方に逃れ,辰国に依って韓王を称したという。

【箕子伝承の発生と展開】

箕子の伝承は,中国の儒者の一学説からおこり,楽浪郡の役人がこの説を受け入れ,3世紀には、朝鮮の「慕華思想」「儒教崇拝」の高まりによってますます発展した。
このような箕子伝承が流布し定着したのは、中国古典の「箕子伝承」を利用して自己の系譜の装飾をはかったことに始まるとされる。

その後、高麗成立時、儒教が隆盛になるにつれて、貴族や知識人に支持され,平壌に「箕子陵」や「廟」が建立された。

また、李氏朝鮮成立時代に入ると、「箕子井田の跡」が喧伝されるにいたり、また、儒教が国学となったので,この伝説が史実として政策的にもとりあげられた。

しかし,近代以後に「民族意識」が高揚し,自国文化が尊重されるようになると,あべこべにこの伝説は否定されることになる。


箕子朝鮮
 古朝鮮は、確実なところで、既にB.C.4世紀には、実在しています。いわゆる「箕子朝鮮」です。箕子朝鮮(きしちょうせん;?-B.C.194年)とは、商の箕子が建国したとされる朝鮮の伝説的な古代国家です。古朝鮮の一つで、韓氏朝鮮・奇氏朝鮮とも呼び、首都は王倹城で現在の平壌にありました。
 『史記』によれば、始祖の箕子(胥余)は商王朝28代文丁の子で、太師(タイシ;中国、周代では三公の一。天子の師となり補佐する官)となるに及び、甥の紂王の無軌道ぶりを諌めましたがいれられず、殺されることを恐れ、狂人を装いますが、商滅亡まで幽閉される事となります。商の滅亡後、周の武王は箕子を解放し、朝鮮に封じました。
 『三国遺事』では、「周の武王は即位した己卯(きぼう)の年に、箕子を朝鮮に封じた。檀君は・・・・その後また阿斯達(あしたつ)に隠れ山神になった。寿命は1,908歳であった」と述べています。
 朝鮮侯・箕子は礼儀や田作・養蚕・機織りの技術を広め、また人民が守る法令「犯禁八条」を実施して礼儀を教え、民を教化し、朝鮮教化の開祖として、後世までも尊崇されています。八条の全部は伝承されていませんが、「殺人には殺人、傷害には穀物での弁償、窃盗をすれば奴婢とする」といわれています。
 人々はその徳を慕って集まったが、彼は集まった人々を、奴隷扱いするような事はなかったようです。箕子の属する商時代は、中国史上希な、異常なまでの奴隷制社会でしたが・・・・
 箕子は誇り高き人物でした。『史記宋微子世家』によれば、「(周)武王乃ち箕子を朝鮮に封じて、臣とせず。」とあります。 箕子は周王国に臣従することを拒否したのです。おそらく首を刎ねられることも覚悟していたのでしょう。武王は箕子を尊敬していましたから、臣従を強制せず、箕国侯に封じます。以降、「箕子」と称します。当時としては極めて異例な処遇でした。
 箕子は誇り高き人物でしたから、他人の誇りを尊重しました。箕国の人々は、狩猟や採取で生活していた部族で、箕子から見れば、未開の部族民であったのでしょう。 しかし部族を解消して我が家来となれとは、強制しなかったようです。それぞれの伝統やしきたりを尊重して、独立した部族、独立したクニとして、すなわち箕子朝鮮の附庸(宗主国に従属してその保護と支配を受けているクニ)として扱ったといわれています。だからなお一層慕われ、人々は集まったのです。
 ただ建国後の動向はほとんど伝わっていません。3世紀前半に著された『魏略(ぎりゃく)』によると、箕子の子孫は朝鮮侯を世襲し、40余世を数えるとしています。
 
 歴史の中の箕子朝鮮
 初期鉄器時代の最初の頃、戦国期の燕国と交易を重ねていた当時の朝鮮の王は、箕否(きひ)であり、その子の最後の王・箕准(じゅん)です。
 箕子朝鮮はB.C.4~3世紀には、確かに実在はしていました。ただ朝鮮侯箕子の後裔かは、定かではありません。しかしながら歴史的事実として、B.C.10世紀、周の時代当初から、斉が山東地方を領有しますが、そこを根拠にする「箕」一族の集団がいたのです。
 戦国時代、その「箕」一族は、燕に服属しながらも、朝鮮西部の遼寧地方で王位を確立していたのです。燕は将軍秦開を派遣し、朝鮮の要地に官吏を置いて影響下におきます。
 B.C.222年に燕が滅亡し、B.C.221年に秦が中国を統一しますが、「魏略」では、秦代に将軍蒙恬が朝鮮に派遣され、時の朝鮮王・箕否は怖れて秦に服属を申し入れたと述べています。
 視点を変えれば寧ろ、斉と燕の人々は、「箕」一族の流れで、遼寧地方を中心にした民族が東来したと推測すらできるのです。
 箕子朝鮮はだいたい900年ほど続きますが、B.C.194年に、中国からの亡命者、衛満(ウイマン)に簒奪されます。『魏略』は箕准一族のその後を語ります。箕准の「子と親族でそのまま(朝鮮)に留まった者は、みだりに韓姓を称している」と。箕子朝鮮没後も、箕子の子孫を主張し、箕准一族と名乗り、韓姓を称する者が多く、楽浪郡設置前後から数百年、王姓の次に、韓姓が多くなり、当時の半島では第二位の姓でした。
 前漢時代の東夷諸国の状況をみると、松花江流域には夫余、鴨緑江流域には高句麗、遼東半島には狛、半島北部の日本海に沿った地方、現在の咸鏡道(ハムギョンド)付近には沃沮が、大同江流域には穢が居住し、朝鮮半島中東部・現在の江原道(カンウォンド)一帯には穢のながれの東穢がいました。現在の韓国の京畿道と江原道(南)を除く南の地、忠清北道.忠清南道.慶尚北道.慶尚南道.全羅北道.全羅南道にかけては、三韓時代の韓族が登場しています。
 このような箕子伝説は、儒教が隆盛した高麗以降の貴族や知識人によって支持され、箕子こそ朝鮮族の始祖と称えられました。民族意識が高まった近代以降においては、これを否定し、檀君が始祖として祀られるようになります。


箕子朝鮮 キシチョウセン

デジタル大辞泉の解説

きし‐ちょうせん〔‐テウセン〕【箕子朝鮮
前3世紀ごろ、朝鮮半島の北西部大同江流域に栄えた中国人の王国。首都は王険(現在の平壌)。始祖の箕子は、殷(いん)王朝の一族といわれる。前195年ごろ、衛満によって滅ぼされた。

箕子朝鮮【きしちょうせん】

古代朝鮮の王朝。いわゆる古朝鮮の一つで,伝説上の国。箕子は殷(いん)の王族で,殷滅亡とともに東方に亡命,朝鮮半島北西部に開国したという。前2世紀初め衛氏(えいし)朝鮮が興り,国を奪われたとされる。

きしちょうせん【箕子朝鮮

朝鮮古代の王朝名。いわゆる古朝鮮の一つ。衛氏朝鮮が正史所見の実在の王朝として認められているのに対し,箕子朝鮮は伝承的・説話的色彩がつよい。《史記》などの古文献によれば,箕子は名を胥余(しよよ)といい,殷の貴族で箕国に封ぜられ子爵であったという。殷末,紂王の太師となり,王の無道をいさめて,かえってうとんぜられ,やがて殷が滅亡すると朝鮮半島西北部,おそらく現平壌付近に亡命して国を建て,有名な〈八条の教訓〉を制定して人民を感化したとされている。

きしちょうせん【箕子朝鮮

古朝鮮の伝説的王朝の一。中国、周の武王が殷いん王族の箕子を朝鮮に封じたことに由来するという。紀元前二世紀初め衛満に滅ぼされた。

箕子朝鮮

きしちょうせん

古代朝鮮の王朝。衛氏(えいし)朝鮮とあわせ古朝鮮という。紀元前1100年ごろ、中国、周の武王が殷(いん)の紂王(ちゅうおう)を滅ぼしたとき、紂王の親族である箕子は朝鮮に走ったが、武王は箕子をその地に封じたと伝えられる。これより箕子朝鮮が始まり、前2世紀に燕(えん)の亡命者衛満によって最後の王箕準(きじゅん)が滅ぼされた。箕子の東来については伝説的色彩が強く、史実とは認めがたい。箕子朝鮮については『漢書(かんじょ)』以後中国の歴史書に記述があり、とくに『魏略(ぎりゃく)』に詳細な記述がある。また、朝鮮においても、高麗(こうらい)、李(り)朝と時代が下るにつれて、その内容は慕華(ぼか)、崇儒思想の高揚とともにしだいに潤色が加えられていった。史実として認められる点は、中国の戦国時代より漢族が東方に進出し、さらに朝鮮北西部に流入して、やがて大同江下流域を中心に周辺の土着民を支配するに至ったことであろう。なお、このような性格の王朝そのものの実在性を否定し、箕子朝鮮の主体勢力を朝鮮の土着社会の氏族とみる説もある。[李 成 市]

…漢の武帝によって楽浪ほか3郡が設立される以前の朝鮮古代の総称。通常は《史記》《漢書》所見の箕子(きし)朝鮮と衛氏朝鮮の2王朝をいうが,《三国遺事》の伝える檀君朝鮮(檀君)を上述の2王朝に先行させて,三つを古朝鮮という場合もある。《三国遺事》の伝えるところによると紀元前約2000年以前に檀君王倹が都を阿斯達に定め,朝鮮を建国したことになっている。…
【朝鮮】より

…この神話は北方の熊信仰,南方の聖地信仰などを基礎としたもので,はじめ平壌地方の固有信仰であったが,モンゴル侵略に抵抗した高麗農民が檀君を開国の始祖神として民族的な団結をはかった。朝鮮王朝(李朝)の国号採用に当たっても,箕子朝鮮と並んで檀君朝鮮の朝鮮が有力な根拠とされた。19世紀末の民族意識の高揚期に,檀君は再び開国神として信仰され,大倧教や檀君教という新宗教が成立して現在にいたっている。…

箕子朝鮮(きしちょうせん、BC12世紀? - BC194年)
箕子朝鮮は殷に出自を持つ箕子が建国した朝鮮の古代国家。古朝鮮の一つ。
首都は王険城(現在の平壌)。『三国志』「魏志」東夷伝 辰韓条、『魏略』逸文などに具体的な記述があり、考古学的発見からは、箕の姓を持つ人々が商朝から周朝にかけて中国北部に住んでおり、商朝から周朝への時代変化とともに満州、朝鮮へと移住した可能性が指摘されている。
『史記』によれば、始祖の箕子(胥余)は、中国の殷王朝28代文丁の子で、太師となるに及び、甥の帝辛(紂王)の暴政を諌めた賢人であった。

BC1046年
殷の滅亡後、周の武王は箕子を崇めて家臣とせず、朝鮮に封じた。朝鮮侯箕子は殷の遺民を率いて東方へ赴き、礼儀や農事・養蚕・機織の技術を広め、また犯禁八条を実施して民を教化したので、理想的な社会が保たれたという。

『魏略』の逸文によると、箕子の子孫は朝鮮侯を世襲したが、東周が衰退すると王を僭称するようになり、周王朝を尊んで燕を攻撃しようとした。
しかし大夫礼が朝鮮王を諌めたので、王は攻撃を中止して、逆に燕に礼(人名)を派遣したので燕は朝鮮を攻めるようなことはなかった。

以降からその子孫は驕慢になり、燕の将軍秦開に攻めこまれ二千里の領土を奪われ、満潘汗を国境に定めた。そのため朝鮮はついに弱体化した。

BC214年
秦が天下を統一すると、その勢力は遼東にまで及び、これを恐れた朝鮮王否は秦に服属した。
その子の準王(箕準)の代になると、秦の動乱により燕・斉・趙から朝鮮へ逃亡する民が増加したため、王は彼らを西方に居住させたという。

BC195年
前漢の劉邦配下である燕王盧綰の部将であった衛満箕子朝鮮に亡命して来た。
衛満は準王の信任を得て辺境の守備を担当するも、翌年に逃亡民勢力を率いて王倹城を攻落し王権を簒奪して、衛氏朝鮮を興した。ここに40余世続く箕子朝鮮は滅びたとされる。

『漢書』巻二十八下、地理志下、燕地
殷道の衰うるや、箕子去りて朝鮮に之き、その民に教うるに禮義・田作・織作を以てす。…貴ぶべきかな、仁賢の化するや。

とあり、楽浪郡支配下の朝鮮人に箕子の人民教化による公序良俗が残存していることを伝えており、楽浪郡支配下の朝鮮の豪族たちが、自らのルーツを箕子による人民教化に結びつけ、周辺民族よりも文明人であると自負しており、この白負は、楽浪郡滅亡後、漢人の支配から解き放たれた朝鮮の豪族たちが、高句麗の支配下で、三韓の支配下で、高句麗三韓の豪族たちに継承され、後の新羅による三韓統一により、箕子朝鮮三韓全体のルーツとして位置づけられることになったという。

Wikipedia 箕子朝鮮より

『漢書』巻二十八下、地理志下、燕 より抜粋

燕地,尾、箕分野也。武王定殷,封召公於燕,其後三十六世與六國俱稱王。東有漁陽、右北平、遼西,遼東,西有上谷、代郡、雁門,南得涿郡之易、容城、范陽、北新城、故安、涿縣、良鄉、新昌,及勃海之安次,皆燕分也。樂浪、玄菟,亦宜屬焉。
燕稱王十世,秦欲滅六國,燕王太子丹遣勇士荊軻西刺秦王,不成而誅,秦遂舉兵滅燕。
薊,南通齊、趙,勃、碣之間一都會也。初太子丹賓養勇士,不愛後宮美女,民化以為俗,至今猶然。賓客相過,以婦侍宿,嫁取之夕,男女無別,反以為榮。後稍頗止,然終未改。其俗愚悍少慮,輕薄無威,亦有所長,敢於急人,燕丹遺風也。
上谷至遼東,地廣民希,數被胡寇,俗與趙、代相類,有魚鹽棗栗之饒。北隙烏丸、夫餘,東賈真番之利。
玄菟、樂浪,武帝時置,皆朝鮮、濊貉、句驪蠻夷。殷道衰,箕子去之朝鮮,教其民以禮義,田蠶織作。樂浪朝鮮民犯禁八條:相殺以當時償殺;相傷以穀償;相盜者男沒入為其家奴,女子為婢,欲自贖者,人五十萬。雖免為民,俗猶羞之,嫁取無所讎,是以其民終不相盜,無門戶之閉,婦人貞信不淫辟。其田民飲食以籩豆,都邑頗放效吏及內郡賈人,往往以杯器食。郡初取吏於遼東,吏見民無閉臧,及賈人往者,夜則為盜,俗稍益薄。今於犯禁浸多,至六十餘條。可貴哉,仁賢之化也!然東夷天性柔順,異於三方之外,故孔子悼道不行,設浮於海,欲居九夷,有以也夫!樂浪海中有倭人,分為百餘國,以歲時來獻見雲。

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衛氏朝鮮(えいしちょうせん BC195年? - BC108年)
後漢書』には「初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王(はじめ、朝鮮王準が衛満に敗れ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻めて、これを撃ち破り、韓王として自立した)」と記されており、衛満に敗れた準王は数千人を率いて逃亡し、馬韓を攻めて韓王となった。

箕子が朝鮮において、人民教化したことは、『漢書』巻二十八下、地理志下、燕に記載されている。

BC334年
この段階で燕はすでに「朝鮮」(朝鮮半島北部)を領有していた。

BC284年
燕は自国内に郡制を設け上谷から遼東までを5郡とし、東胡を防ぐためその北に東西二千里の長城を築いたが、『史記』によれば、この頃(燕の全盛期)、朝鮮は燕の配下に入った(朝鮮と真番(朝鮮半島南部)を「略属」させ、要地には砦を築き官吏を駐在させた)。
また、中国商人の権益を保護していた。
秦代(燕が秦に滅ぼされて後)は秦の属領となり、燕の時代に築かれた朝鮮・真番の砦は二つだけ残して廃されたが、遼東郡の保護下にあった。

BC209年
秦末、陳勝呉広の乱が起こると中国全土は大混乱となり、燕国は韓広を王として再び独立を成し遂げた。

BC206年
秦が滅ぶと、天下の覇権を握った項羽によって臧荼が燕王に立てられ韓広は遼東王に左遷された。ここで燕は遼河を挟んで東西二つの国に分かれたことになる。
その年の内に臧荼は韓広を攻め遼東を併合して燕全体の王となった。

BC202年
『史記』によれば、前漢の高祖の時代、燕王臧荼は反乱を起こして処刑され、代わって盧綰を燕王に封じた。

BC197年
盧綰が漢に背いて匈奴に亡命。

劉建を形式的な燕王に封じたが実態は遼東郡を含む燕の旧領を直轄化した。
身の危険が迫った燕人の衛満は身なりを現地風にかえて浿水(現在の鴨緑江)を渡河、千人余りの徒党と共に朝鮮に亡命した。
衛満は、我ら亡命者が朝鮮を護ると箕子朝鮮王の準王にとりいり、朝鮮西部に亡命者コロニーを造った。
秦・漢の混乱期以来、この亡命者コロニーに逃げこんだ中国人は数万人にのぼっていた。
さらに衛満は燕・斉・趙からの亡命者を誘いいれ、亡命者コロニーの指導者となり、朝鮮を乗っ取る機会をうかがった。
衛満前漢が攻めてきたと詐称して、準王を護るという口実で、王都に乗りこんだ。
その時、準王は衛満に応戦したが、『魏略』は、「準は満と戦ったが、勝負にならなかった」と戦況を記した。
芝居が現実となり、昨日の亡命者は、今日の朝鮮王となる。
それは、亡命してから朝鮮王になるまで1年内外の出来事である。
衛満は、中国人(燕・斉の亡命者)と原住民の連合政権を樹立、王険城(平壌)を首都として王位に就き、衛満朝鮮を建国した。
『三国志』『魏略』及び『後漢書』によると、前漢建国当時の朝鮮は箕子の子孫が代々朝鮮侯として治めていた(箕子朝鮮)が、後に朝鮮王を僭称するようになり、箕準の代に至り亡命者衛満の手により王権を奪われ箕準は残兵を率いて南方の馬韓の地を攻略しそこで韓王となった。

Wikipedia 衛氏朝鮮

辰国(しんこく)
辰国は『史記』や『漢書』の朝鮮伝によれば、衛氏朝鮮の時代(BC2世紀)に現在の朝鮮半島の南部にあったという国である。
記録は少なく、その詳細はほとんどわからない。民族系統は不明であり、群小の国々の総称なのか一国の名なのかもわからない。

『三国志』『魏略』及び『後漢書』によると、前漢建国当時の朝鮮は箕子の子孫が代々朝鮮侯として治めていたが、後に朝鮮王を僭称するようになり、箕準の代に至り亡命者衛満の手により王権を奪われ箕準は残兵を率いて南方の馬韓の地を攻略しそこで韓王となったとある。

三韓との関係
『史記』よりもはるか後世に書かれた『三国志』には「辰韓者古之辰国也」とあり、3世紀の辰韓辰国の後身とされている。
これに対し、『三国志』よりもさらに新しい『後漢書』では「韓有三種,一曰馬韓,二曰辰韓,三曰弁韩(略)凡七十八国(略)皆古之辰国也」とあり、三韓の地すべてが昔の辰国であるとしていて『三国志』とは異説となっている。
いずれにしろ辰国辰韓または三韓の前身であるとされている。
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漢四郡(かんのしぐん)
朝鮮半島の中・西北部にあった衛氏朝鮮を滅ぼした前漢の武帝がBC108年に設置した楽浪郡・真番郡・臨屯郡、BC107年に設置した玄菟郡の郡のことである。
各郡の位置については諸説ある。
中国王朝は313年までおよそ400年もの間、朝鮮半島中部・北部を郡県により直接支配し、また朝鮮半島南部に対して間接統制を行った。

漢四郡に先立って、
BC134年
前漢は濊州(遼東郡の東北方面、のちの蒼海郡の地か)を取らんとして城邑を築いた。

BC128年
蒼海郡(そうかいぐん)
漢の武帝が朝鮮北部から満州南部にかけて設置した植民地である。
衛氏朝鮮に服属していた濊の君主である南閭が、衛氏朝鮮の衛右渠に叛いて、28万人を率いて漢に投降したことがきっかけで、蒼海郡が設置されたが、2年後のBC126年に公孫弘の建議により廃止された。

漢四郡の設置
BC108年
楽浪郡(らくろうぐん)
漢朝によって設置され、BC108年からAD313年まで存在した、朝鮮半島北部の郡。
郡治所は朝鮮県(衛氏朝鮮の王険城、今の平壌)に置かれ、郡の南部には南部都尉が置かれていた。

BC108年
真番郡(しんばんぐん)
漢朝により幽州刺史部の下に設置され、15県からなり、郡治が置かれた霅県の位置は長安を去ること7,640里という。管轄する領域の範囲は諸説があって確定していない。前82年に真番郡は廃止された。

BC108年
臨屯郡(りんとんぐん)
漢朝により幽州刺史部の下に臨屯郡が設置された。15県からなり、その境域はほぼ現在の江原道に該当すると考えられている。BC82年に15県中の9県は廃止となり、残りの6県と玄菟郡の夫租県を合わせた7県は楽浪郡に編入され、臨屯郡は消滅した。

BC107年
玄菟郡(げんとぐん)
玄菟郡はその設置期間に3段階の沿革が存在し、それぞれ「第一玄菟郡」「第二玄菟郡」「第三玄菟郡」とよばれている。

BC107年
遼東郡の東・楽浪郡の北に隣接する地に設置され、幽州に属した。
郡内の県は、夫租、高句驪、西蓋馬、上殷台の4県しかわからない。
当時の戸数は45,006戸、人口は221,845人。
当初の領域は遼東郡北端から出発して中朝国境地帯山岳部(吉林省東部と北朝鮮慈江道・両江道に跨がる地域)から咸鏡道を通り日本海に達する回廊状に県城が並んだものと推察してこれを「玄菟回廊」と呼ぶ学者もいる。

BC82年
漢四郡のうち真番郡・臨屯郡が廃止され、そのうち臨屯郡の6県が楽浪郡に編入された。
玄菟郡はこのとき廃止をまぬがれたものの、夫租県が楽浪郡に編入された。
玄菟郡の郡治は夫租県から変わって高句驪県(現在の吉林省集安市通溝郷)に移された。
これで、玄菟郡領域のうち日本海沿岸部(咸鏡南北道)は夫租県とその周辺一帯を除いて大部分が放棄されたことになる。

BC75年
未開であり人口の少ない北部や東部の丘陵・山岳地帯は、統治費用が嵩むとして直接支配を徐々に放棄して、冊封体制下での間接支配に切り替える方針になり、玄菟郡は西へ縮小移転された。
郡治の高句驪県は現在の遼寧省撫順市内の東部、新賓満族自治県永陵鎮老城村(昔の興京)付近へ移され、元の場所には高句麗侯(後の高句麗王国の前身)が冊封された。

12年
異民族蔑視政策を進めた王莽が高句麗を下句麗へ改名した為に、高句麗が玄菟郡を侵犯するようになる。

30年
光武帝建武6年に楽浪郡東部都尉は廃止となり、嶺東7県の直接統治は放棄され、それぞれ県侯として冊封して独立させた。

32年
建武8年に高句麗侯は再び冊封体制下へ組み込まれ、候から王へ昇格された。

57年建武中元二年
倭奴国が朝貢したとされている。このとき光武帝が与えた金印(漢委奴国王印)が福岡県の志賀島で出土している。『後漢書』

107年安帝永初元年
倭国王帥升等献生口百六十人 ともあり、永初元年(107年)に倭国王帥升 が人材(労働者か)を百六十人献上したとされている。『後漢書』

107年
(永初元年)になると、玄菟郡はさらに西に移転し遼東郡の内部に移された。
遼東郡北部都尉の管轄区を遼東郡から切り離して新しく玄菟郡とし、遼東郡に隣接していた旧玄菟郡を廃止、高句麗による領有を許可した。
これにより、旧玄菟郡の領域はすべて放棄された。郡治の高句麗県は現在の瀋陽(瀋陽と撫順の中間からやや瀋陽寄り)に遷された。

帯方郡(たいほうぐん)
設置から消滅する313年の109年間、古代中国によって朝鮮半島の中西部に置かれた軍事・政治・経済の地方拠点(植民地との見方も存在する)。
楽浪郡の南半を割いた数県(晋代では7県〈『晋書地理志』〉)と、東の濊、南の韓、南端の倭(半島南端)がこれに属す。
後漢から魏、西晋の時代にかけ、郡の経営や羈縻支配を通じて韓・倭という東夷地域へ中国の文化や技術を持ち込んだほか、直轄となった魏朝以降には華北の中国文化の窓口としても重要な役割を果たした。

204年
朝鮮半島に新たに帯方郡が置かれた。 楽浪郡帯方郡は313年まで存続した。

後漢書 卷八十五·東夷列傳第七十五 倭 より抜粋

建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見。

桓、靈間,倭國大亂,更相攻伐,歷年無主。有一女子各曰卑彌呼,年長不嫁,事鬼神道,能以妖惑眾,於是共立為王。侍婢千人,少有見者,唯有男子一人給飲食,傳辭語。居處宮室、樓觀城柵,皆持兵守衛。法俗嚴峻。

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高句麗前期(BC75年~313年)・扶余
夫余

現在の中国東北部(満州)にかつて存在した民族およびその国家。扶余(扶餘)とも表記される。

夫余が建国する以前のこの地には濊(わい)族が住んでいたと思われ、松花江上流の弱水(奄利大水、現拉林河)を渡河南進して夫余を建国する以前の慶華古城(「濊城」、周囲約800m、前漢初期には存在、黒龍江省賓県)も発見されている。

BC75年
未開であり人口の少ない北部や東部の丘陵・山岳地帯は、統治費用が嵩むとして直接支配を徐々に放棄して、冊封体制下での間接支配に切り替える方針になり、玄菟郡は西へ縮小移転された。
郡治の高句驪県は現在の遼寧省撫順市内の東部、新賓満族自治県永陵鎮老城村(昔の興京)付近へ移され、元の場所には高句麗侯(後の高句麗王国の前身)が冊封された。

BC37年漢孝元帝の建昭2年
朱蒙は国を建て高句麗と号した。即位直後から隣接する濊貊(三国史記中の靺鞨は濊貊を指す)の部落に対して略奪や破壊を繰り返すと、濊貊は恐れて服属した。

※東明聖王(紀元前58年 - 紀元前19年)は、高句麗の初代(在位:紀元前37年 - 紀元前19年)とされる指導者であり、東明王とも呼ばれる。姓は高、諱は朱蒙(しゅもう)とされる。扶余の金蛙王(きんあおう)と中国の河伯の娘の柳花夫人の息子である。扶余の7人の王子と対立し、卒本(ジョルボン 遼寧省本渓市桓仁)に亡命して高句麗を建国、初代指導者となった。ツングース系民族。

3年
第2代の瑠璃明王が隣国に在った夫余の兵を避けるため鴨緑江岸の丸都城(丸都山城、尉那巌城。現在の中国吉林省集安市近郊。かつての玄菟郡配下の高句麗県)の山城へ遷都したと伝えられる。

9年
王莽が新を建てると異民族に対する蔑視政策を執ったため、周辺諸国は離反し、夫余も離反した。

12年
異民族蔑視政策を進めた王莽が高句麗を下句麗へ改名した為に、高句麗が玄菟郡を侵犯するようになる。

25年
東夷諸国が後漢に来朝し、中国に方物を献上するようになった。建武25年(49年)10月、夫余王が遣使を送って朝貢したので、光武帝はこれを厚くもてなした。

30年
光武帝建武6年に楽浪郡東部都尉は廃止となり、嶺東7県の直接統治は放棄され、それぞれ県侯として冊封して独立させた。

32年建武8年
高句麗侯は再び冊封体制下へ組み込まれ、候から王へ昇格された。

53年
高句麗,太祖王即位。

107年永初元年
玄菟郡はさらに西に移転し遼東郡の内部に移された。
遼東郡北部都尉の管轄区を遼東郡から切り離して新しく玄菟郡とし、遼東郡に隣接していた旧玄菟郡を廃止、高句麗による領有を許可した。
これにより、旧玄菟郡の領域はすべて放棄された。郡治の高句麗県は現在の瀋陽(瀋陽と撫順の中間からやや瀋陽寄り)に遷された。

111年
夫余王は歩騎7~8千人を率いて玄菟郡を寇鈔し吏民を殺傷したが、間もなく再び帰附した。

120年
夫余王は嫡子の尉仇台を遣わして印闕貢献してきたので、安帝は尉仇台に印綬金綵を賜った。翌121年、高句麗が1万の兵を率いて漢の玄菟城を囲むと、夫余王は嫡子の尉仇台に2万の兵を率いさせて援軍に遣り、高句麗軍を壊滅させた。

122年
高句麗馬韓,濊貊と共に遼東へ侵攻したので、夫余は兵を派遣して打ち破り救った。

136年
夫余王は京師(洛陽)に来朝した。

150年
馬韓弁韓辰韓の勢力強くなる。

161年
夫余の遣使が朝賀貢献。永康元年(167年)、夫余王の夫台は2万余人を率いて玄菟郡を侵略したが、玄菟太守の公孫域によって撃破され、千余名が斬首された。

174年
夫余は再び冊封国として貢ぎ物を献じた。

189年
夫余はもともと玄菟郡に属していたが、献帝(在位:189年 - 220年)の時代に夫余王の尉仇台が遼東郡に属したいと申し出たため、遼東郡に属した。この時期は玄菟郡にしろ遼東郡にしろ公孫氏の支配下になっており、東夷諸国は公孫氏に附属した。時に高句麗と鮮卑が強盛だったので、公孫度はその二虜の間に在る夫余と同盟を組み、公孫氏の宗女(公孫度の娘とも妹ともいう)をもって尉仇台の妃とした。

194年
高句麗,春窮期に穀物を貸し与え,秋の収穫後返済する,賑貸法実施。

197年
第9代の故国川王が死んだ後、王位継承をめぐって発岐と延優との間に争いが起こり、卒本に拠った発岐は公孫度を頼って延優と対立したが、丸都城に拠った延優が王となって発岐の勢力を併呑した。

219年
高句麗の政情不安に付け込んだ遼東太守の公孫康が高句麗へ侵攻し、高句麗は敗退して村々が焼かれたほか、伯固の長子発岐、消奴部ほか各将が下戸3万余人を引き連れ公孫氏へ降った。

高句麗は以前から魏に朝貢を行って臣属しており、司馬懿による公孫氏の平定にも兵数千人を遣わしていたが、魏が公孫氏を平定して国境を接する。

242年
西安平で寇掠を働き魏の将軍毌丘倹による侵攻を招いた。

244年
1回目の侵攻が行われ、東川王(憂位居)は2万の兵を率いて迎え撃ったが連戦連敗し、丸都城を落とされ千人が斬首された。毌丘倹は将兵の墳墓破壊を禁じ捕虜と首都を返還したが高句麗は服属せず。

245年
再び魏軍の侵攻を招いた。魏軍は南北の2方向から侵攻して高句麗を大いに打ち破り全土の村々を落とすと、東川王は南沃沮へ逃げたが更に追撃を受け北方にある粛慎との境いまで逃れた。この戦いにより3千人が捕えられて斬首され、従属させていた東濊も高句麗を離れ魏に服属した。東川王が魏軍が引き上げた後に築城された都を平壌城というが、丸都城の別名または集安市付近の域名であり、後の平壌城とは別のものである。

312年
その後も遼東半島への進出を目指し、西晋の八王の乱・五胡の進入などの混乱に乗じて楽浪郡を占拠し、この地にいた漢人を登用することで技術的、制度的な発展も遂げた。
しかし、遼西に前燕を建国した鮮卑慕容部の慕容皝に都を落され、臣従した。

313年建興元年
遼東へ進出した高句麗が南下して楽浪郡を占領すると、朝鮮半島南半に孤立した帯方郡は晋の手を離れ情報も途絶した。

三韓時代及びそれ以前の朝鮮半島に存在する諸国家の概説
夫余

現在の中国東北部(満州)にかつて存在した民族およびその国家。扶余(扶餘)とも表記される。

夫余が建国する以前のこの地には濊(わい)族が住んでいたと思われ、松花江上流の弱水(奄利大水、現拉林河)を渡河南進して夫余を建国する以前の慶華古城(「濊城」、周囲約800m、前漢初期には存在、黒龍江省賓県)も発見されている。

元朔元年(紀元前128年)秋、匈奴が遼西郡に侵入してその太守を殺害し、漁陽郡,雁門郡にも侵入して都尉を破り、3千人余りも殺害した。これに対し、漢は将軍の衛青を雁門郡から、将軍の李息を代郡から派遣し、千人分の捕虜と首級を得た。この一件に際して東夷薉(穢 わい)国君主の南閭(なんりょ)等28万人が漢に降ったため、そこに蒼海郡を設置した。元朔3年(紀元前126年)春、蒼海郡を廃止した。 。

粛慎

粛慎(しゅくしん、みしはせ、あしはせ、拼音:Sùshèn)とは、満州(中国東北地方)に住んでいたとされるツングース系狩猟民族。また、後にこの民族が住んでいた地域の名称ともなった。この粛慎という呼び名は周代・春秋戦国時代の華北を中心とする東アジア都市文化圏の人々(後に漢民族として統合されていく前身となった人々)が粛慎人の自称を音訳した呼び名である。息慎(そくしん、Xīshèn),稷慎(しょくしん、Jìshèn)とも表記される。 中国の周代の文献の中にしばしば見られるほか、日本の『日本書紀』の中にも粛慎の記述が見られる。ただ、中国文献中の粛慎と日本文献中の粛慎の存在した時期にかなりの開きがあり関係性は不明。 後代の挹婁,勿吉,靺鞨,女真(満州族)と同系の民族と考えられている。

挹婁

後漢から五胡十六国時代(1世紀から4世紀)にかけて、外満州付近に存在したとされる民族。

古の粛慎(しゅくしん、みしはせ)の末裔とされ、魏代・晋代でもそのまま粛慎と呼ばれ続けた。挹婁の呼称は、彼等自身の自称ではなく、鏃(yoro)、箭や後の牛禄(niru)、坑(yeru)などの音訳と考えられている。

漢代以降は夫余に従属していたが、夫余が重税を課したため、魏の黄初年間(220年 - 226年)に反乱を起こした。夫余は何度か挹婁を討伐したが、独立し魏への朝貢を行った。

前秦の苻堅(在位:357年 - 385年)が華北を統一すると、粛慎(挹婁)は楛矢を献じた。
その後は勿吉→靺鞨と名称を変えていく。

馬韓

BC2世紀末から4世紀中葉に、朝鮮半島南部に存在した部族集団である三韓の一つ。帯方郡の南、黄海に接し、東方は辰韓(後の新羅)、南方は倭に接していた。後の百済と重なる場所にあった地域である。

馬韓人は定住民であり、穀物を植え、養蚕を行っていた。それぞれの部族には酋長がおり、大きな部族の酋長を臣智(しんち)と言い、それに次ぐものを邑借(ゆうしゃく)と呼び、集落に城郭は無く、五十余国が存在した。その内の伯済国が百済になったとする説もある。

後漢書』辰韓伝、『三国志』魏書辰韓伝によると、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦の遺民がおり、馬韓人はその東の地を割いて、彼らに与え住まわせ辰韓人と名づけたという。また、『三国志』魏書弁辰伝によると、馬韓人と辰韓人は言語が異なっていたという。

建国

三国遺事』によると、「魏志云。魏滿擊朝鮮。朝鮮王準率宮人左右。越海而南至韓地。開國號馬韓。」

『魏書』によると、「侯准既僭號稱王,爲燕亡人衛滿所攻奪,將其左右宮人走入海,居韓地,自號韓王。」

後漢書』には「初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王。(初め、朝鮮王準が衛満に滅ぼされ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻めて、これを撃ち破り、韓王として自立した。)」と記されており、衛満箕子朝鮮を滅ぼした際に箕子朝鮮の最後の王、準王は数千人を率いて逃亡し、馬韓を攻め落として韓王となって馬韓を支配した。


濊貊(わいはく、かいはく)

中国の黒龍江省西部・吉林省西部・遼寧省から北朝鮮にかけて、北西~南東に伸びる帯状の地域に存在したとされる古代の種族。同種の近縁である濊と貊の二種族を連称したもの。周代以降の記録に濊・貊の名が見えるが、漢代に入り濊貊と記されるケースが増える。

BC2世紀の中国東北部にいた「濊」「貊」は、濊貊・沃沮高句麗・夫余の四種族の前身であり、現在の韓国江原道にいた「東濊(濊貊)」は前漢代の中国東北部にいた濊の後裔とされる。

濊貊系とみられる集団は、他に沃沮・部類(符類、附類)・高夷・東濊などと、貊と同音または近似音の貉・北發・白民などがある。史書には、夫余の出自が濊とみられる記述があり、また貊を高句麗の別名または別種と記す。部類と夫余の上古音が同じ(Pĭwa ʎĭa)とする説もある、晋の孔晁は高句麗を高夷の子孫としている。

後漢書』では、濊・沃沮高句麗は元々朝鮮(衛氏朝鮮)の地に居たと記す。

沃沮(よくそ)

BC2世紀から3世紀にかけて朝鮮半島北部の倭国海に沿った地方(現在の咸鏡道付近)に住んでいたと思われる民族。『三国志』や『後漢書』では東沃沮(とうよくそ)と表記される。

『三国志』では、北東は狭く西南に広い、高句麗の蓋馬大山(長白山脈)の東から海岸までに及び、北に挹婁・夫餘と、南に濊貊と接し、その言語は高句麗と大体同じで時に少し異なると記される。北に夫余・高句麗、西と南に濊貊、東に倭国海と接していた。

沃沮」という独自の国家があったのではなく、前漢の玄菟郡の夫租県(現在の咸鏡南道の咸興市付近)にいた濊貊系種族を指すものと考えられており、同じく濊から分かれた夫余・東穢や高句麗とは同系とされている。

辰韓(しんかん、BC2世紀 - 356年)

朝鮮半島南部にあった三韓の一つ。帯方郡の南、倭国海に接し、後の新羅と重なる場所にあった地域である。その境は、南にある弁韓と接しており、入り組んでいた。もともと6国であったが、後に分かれて12国になった。 そのうちの斯蘆が後の新羅になった。

辰韓人は穀物と稲を育て、養蚕を生業としていた。『三国志』魏書弁辰伝によると、馬韓人とは言語が異なっていたが、弁韓人とは互いに雑居し、風俗や言語は似通っていたという。『後漢書』弁辰伝によれば辰韓とは城郭や衣服などは同じだが、言語と風俗は異なっていたという。

『三国史記』と『三国遺事』によると、中国の王室の娘娑蘇が海を渡って辰韓に渡来して、新羅の初代王赫居世居西干と王后閼英を生んだとする。

辰韓と古代中国人との関係

後漢書』巻85辰韓伝、『三国志』魏書巻30辰韓伝、『晋書』巻97辰韓伝、『北史』巻94新羅伝によると、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人がおり、馬韓はその東の地を割いて、与え住まわせ辰韓人と名づけたという。そのため、その地の言葉には秦語(陝西方言。長安に都があった頃の標準語で、この亡民が秦代〜前漢代に渡来したことを物語る)が混じり、秦韓とも書いた。秦人は王にはならず、辰韓は常に馬韓人を主(あるじ)として用いており、これは代々相承(親から子へ受け継がれる)のものであった。そのため自立せず、辰韓人は明らかに流入し移って来た人であるため馬韓が全てを制していたと『晋書』は記している。

弁韓(べんかん)

BC2世紀末から4世紀にかけて朝鮮半島南部に存在した三韓の一つ。弁辰とも言う。

領域

馬韓の東、辰韓の南、倭国海に接し、後の任那・加羅と重なる場所にあった地域である。その境は、辰韓と接しており、入り組んでいた。

のち、金官国(駕洛国)がこの地域の盟主となり、それぞれの国家の連合をつくった。

社会・風俗

『三国志』魏書弁辰伝によると、辰韓弁辰(弁韓)は、風俗や言語が似通っていたという。土地は肥沃で、五穀や稲の栽培に適していた。蚕を飼い、縑布を作った。大鳥の羽根を用いて死者を送るがそれは、死者を天空に飛揚させるという意味であった。鉄の産地であり、韓、濊、倭などが採掘していた。市場での売買では鉄が交換されており、それは中国での金銭使用のようであった。

また倭人とも習俗が似ており、男女とも入れ墨をしていたとある。武器は馬韓と同じであった。礼儀がよく、道ですれ違うと、すすんで相手に道を譲った。

公孫氏による帯方郡創設
189年
後漢の末、中国東北部の遼東太守となった公孫度は、勢力を拡大して自立を強め、後漢の放棄した朝鮮半島へ進出、現在の平壌付近から漢城北方にかけての一帯にあった楽浪郡を支配下に置いた。

204年
その後を継いだ嫡子・公孫康は、楽浪郡18城の南半、屯有県(現・黄海北道黄州か)以南を割くとともに南方の土着勢力韓・濊族を討ち、併せて帯方郡として「是より後、倭・韓遂に帯方に属す」という朝鮮半島南半の統治体制を築く。

郡治とは、その周囲の数十県(城)の軍事・政治・経済を束ねる一大機構であり、個々の県治よりもひときわ大きな城塞都市であった。公孫康はほどなく魏の曹操に恭順し、その推薦によって後漢の献帝から左将軍・襄平侯に任ぜられ、帯方郡後漢の郡として追認された。 公孫康の死後、実弟・公孫恭が後を継ぎ、後漢の献帝から禅譲を受けた魏朝の文帝(曹操の子・曹丕)により、車騎将軍・襄平侯に封じられた。

228年
成長した公孫康の子の公孫淵は叔父・公孫恭の位を奪い取り、魏の曹叡(明帝)からの承認も取りつけて揚烈将軍・遼東太守に任ぜられる。

237年景初元年
公孫淵は、祖父以上に自立志向が強く、魏朝の仇敵である呉の孫権との同盟を画策し、最終的には、魏から受けた大司馬・楽浪公の地位を不足とし、反旗を翻して独立を宣言。遼東の襄平城で燕王を自称するにいたる。帯方郡楽浪郡もそのまま燕に属した。

238年
魏の太尉・司馬懿の率いる四万の兵によって襄平城を囲まれ、長期の兵糧攻めにあって公孫淵とその子・公孫脩は滅びる。

これまで帯方郡は「後漢─魏─燕」と、形式的にはその所属に変遷があったが、実質的は一貫して公孫氏の領有下にあり、韓や倭といった東夷からの朝貢は公孫氏が受け取っていたと思われる。
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魏 帯方郡楽浪郡の二郡直轄経営
238年
襄平城の攻城戦の最中であろうか、魏は劉昕と鮮于嗣をそれぞれ帯方太守、楽浪太守に任じ、両者を密かに海路で、山東半島から黄海を越えて朝鮮半島に派遣。帯方郡楽浪郡の2郡を掌握させた。
帯方郡はこれにより魏の直轄地となる。
太守・劉昕は、周辺の東濊・韓族の首長に邑君あるいは邑長の印綬を賜与し、魏との冊封関係を改めて結び直した。

238年景初2年
邪馬台国・卑弥呼も、景初2年(238年。『魏志倭人伝』の記述は誤りで、景初3年が正しいとする説もある)6月に、この新生・帯方郡の地へ、朝貢使の難升米を派遣した。
このとき太守は劉夏であったが、彼は郡の官吏を付けて後漢の都・洛陽まで難升米の一行を送らせた。

240年正始元年
新太守となった弓遵は、魏の詔書・金印紫綬を配下の梯儁に持たせて卑弥呼のもとへ送った。

245年
弓遵は、嶺東へ遠征して東濊を討った後、それまで帯方郡が所管していた辰韓八国を楽浪郡へ編入。

247年
弓遵から引き継いだ太守・王頎は、倭の使者から邪馬台国と狗奴国との交戦の報告を受け、自ら上洛して官の決裁を仰ぐが、魏朝から邪馬台国へ援軍が送られることはなく、魏の少帝の詔書と黄幢を携えた塞曹掾史(外交官、軍使、軍司令副官など諸説あり)の張政が派遣されるに留まった。

『三国志』魏書東夷伝 倭人の条
卑弥呼(ひみこ、175年 - 247年あるいは248年頃)は、『魏志倭人伝』等の中国の史書に記されている倭国の王(女王)。邪馬台国に都をおいていたとされる。封号は親魏倭王。後継には宗女の壹與が女王に即位したとされる。

時期不明 - 倭国で男性の王の時代が続いた(70-80年間)が、その後に内乱があり(5-6年間)、その後で一人の女子を立てて王とした(卑弥呼の即位)。名を卑彌呼といい、鬼道に仕え、よく衆を惑わす。年齢は既に高齢で夫はなく、弟がいて国の統治を補佐した。
238年 中国
倭国 卑弥呼、初めて難升米らを魏に派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられた。
240年 中国
倭国 帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた。
243年 中国
倭国 倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。
245年 中国
倭国 難升米に黄幢を授与。
247年 中国
倭国 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、狗奴国との戦いを報告した。魏は張政を倭に派遣し、難升米に詔書、黄幢を授与。
不明年 中国
倭国 卑弥呼が死に、墓が作られた。男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。卑弥呼の宗女「壹與」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。倭の女王壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。
266年 中国
倭国 (西晋の泰始2)11月、倭の女王(壱与か?)遣使し、西晋に朝献する(『日本書紀』神功66年条に引く晋起居注、晋書武帝紀)。この後、413年まで中国の史書には倭の関係記事見えず。
壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らは魏の都に上り、男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ

帯方郡の滅亡
265年泰始元年
魏の重臣であった司馬炎(懿の孫、後の晋の武帝)が魏の曹奐(元帝)から禅譲を受けて晋朝(西晋)を興す。

300年永康元年
魏は身内の八王の乱ですっかり混迷状態に陥った。
この時代、帯方郡に属する県は、帯方・列口・南新・長岑、提奚、含資、海冥の7県であった(『晋書地理志』)。

313年建興元年
遼東へ進出した高句麗が南下して楽浪郡を占領すると、朝鮮半島南半に孤立した帯方郡は晋の手を離れ情報も途絶した。

元の帯方郡楽浪郡南部に残された漢人の政権や都市は、東晋を奉じて5世紀初頭までの存続が確認されているが、5世紀前半には百済によって征服され、5世紀後半に入ると南下した高句麗百済を駆逐して支配下へ置いた。

高句麗新羅伽耶諸国とあわせて百済の存在した時代。三国時代
百済
4世紀中頃に国際舞台に登場する(『晋書』「慕容載記」)。
それ以前の歴史は同時代資料では明らかでない。
国際舞台への登場は、360年代の伽耶南部・倭との通交と372年の東晋への遣使である。
通説では『三国志』に見える馬韓諸国のなかの伯済国が前身だと考えられているが詳細は不明である。

新羅
朝鮮半島南東部にあった国家。当初は「辰韓の斯蘆」(しろ)と称していたが、503年に「新羅」を正式な国号とした。

伽耶(かや)は加羅(から)。また加羅諸国(からしょこく)
3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す。
414年に高句麗が建立した広開土王碑文にある「任那加羅」が史料初見とされている。

高句麗百済の戦争
漢城時代の百済は拡大を続ける北方の大国・高句麗との死闘を繰り返した。

355年
前燕から〈征東将軍・営州刺史・楽浪公・高句麗王〉に冊封される。
前燕が前秦に滅ぼされると引き続いて前秦に臣従した。

360年代
伽耶南部・倭との通交。

369年代
百済、倭国へ七支刀を献上。
この外交は当時百済高句麗と軍事対立にあったため、まず東晋と冊封関係を結び、次いで倭国と友好関係を構築するためだったとしている。

371年
高句麗百済の攻撃に王が戦死する危機に直面する。
百済の近肖古王は楽浪郡の故地である平壌を攻めて高句麗の故国原王を戦死させた。

百済はその後、高句麗の好太王や長寿王のために押され気味となり、高句麗に対抗するために倭国と結ぶようになった。 この間の事情は好太王碑文に記されている。

372年
百済、東晋への遣使。

372年
前秦の苻堅が高句麗に仏像や経文を送り、高句麗は官史養成のために太学創立、朝鮮半島を支配下に置いていた国家では最も早く仏教を受容した。『三国遺事』『三国史記』

384年(百済枕流王1年)、
百済、東晋から胡僧の摩羅難陀を迎えたこと、その翌年には漢山に寺を創建したことが伝わっている

385年(百済枕流王2年)
王都漢山に仏寺を創建して僧侶10人を度す。

391年
19代好太王は後燕と戦って遼東に勢力を伸ばし、南に百済を討って一時は首都漢城(現ソウル特別市)のすぐ傍まで迫り、百済王を臣従させた。

碑文
碑文は三段から構成され、一段目は朱蒙による高句麗の開国伝承・建碑の由来、二段目に好太王の業績、三段目に好太王の墓を守る「守墓人烟戸」の規定が記されている。

そのうち、倭に関する記述としては、いわゆる辛卯年条の他に、以下がある。

399年
百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌に出向いた。
ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。

400年
5万の大軍を派遣して新羅を救援した。
新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。

404年
倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。

碑文では好太王の即位を辛卯年(391年)とするなど、干支年が後世の文献資料(『三国史記』『三国遺事』では壬辰年(392年)とする)の紀年との間に1年のずれがある。
また、『三国史記』の新羅紀では、「実聖王元年(402年)に倭国と通好す。
奈勿王子未斯欣を質となす」と新羅が倭へ人質を送っていた記録等があり、他の史料と碑文の内容がほぼ一致しているところが見られる。

辛卯年条 碑文のうち、欠損により判別の出来ない記述のある二段目の部分(「百殘新羅舊是屬民由来朝貢而倭以耒卯年来渡[海]破百殘■■新羅以爲臣民」)の解釈がしばしば議論の対象となっている。

391年
倭が百済□□新羅を破り臣民とした。

393年
倭が新羅の都を包囲したのをはじめ、たびたび倭が新羅に攻め込む様子が記録されている。

397年
百済はいったん高句麗に従属したが、阿莘王の王子腆支を人質として倭に送って国交を結ぶ。

399年
百済、倭に服属した。

400年
倭の攻撃を受けた新羅高句麗に救援を求めると、好太王は新羅救援軍の派遣を決定、高句麗軍が新羅へ軍を進めると新羅の都にいた倭軍は任那・加羅へ退き、高句麗軍はこれを追撃した。これにより新羅は朝貢国となった。

402年
新羅もまた倭に奈勿王の子未斯欣を人質に送って属国となった。

404年
高句麗領帯方界まで攻め込んだ倭軍を高句麗軍が撃退した。

405年
倭の人質となっていた百済王子の腆支が、倭の護衛により帰国し百済王に即位した。
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5cの朝鮮半島
高句麗
長寿王の時代には朝鮮半島の大部分から遼河以東まで勢力圏を拡大し、当初高句麗系の高雲を天王に戴く北燕と親善関係を結んだ。この時代には領域を南方にも拡げ、平壌城に遷都した。
遷都直後は大城山城を拠点としたが、後に平壌城に居城を構えた。
長寿王は西へ進出して遼河以東を勢力下に収める。

475年
百済の首都を陥落させて百済王を殺害、百済は南に遷都した。
この時期は満洲南部、遼東半島、朝鮮半島の大部分を支配するに至った。

5c末
百済新羅が強くなり、百済新羅の連合により南部の領土を奪われている。
危機感を覚えた高句麗百済に接近し、中国には南北朝の両方に朝貢を行って友好を保ち、新羅との対立を深めていく。
高句麗が最も危惧していたのは北朝の勢力であり、その牽制のために南朝や突厥などとも手を結ぶ戦略を採った。

百済
近肖古王は371年に楽浪郡の故地である平壌を攻めて高句麗の故国原王を戦死させたこともある。

しかし、その後は高句麗の好太王や長寿王のために押され気味となり、高句麗に対抗するために倭国と結ぶようになった。
この間の事情は好太王碑文に記されている。

高句麗の長寿王は平壌に遷都し、華北の北魏との関係が安定するとますます百済に対する圧力を加えた。
これに対して百済は、この頃に高句麗の支配から逃れた新羅と同盟(羅済同盟)を結び、北魏にも高句麗攻撃を要請したが、475年にはかえって都・漢城を落とされ、蓋鹵王が戦死した

王都漢城を失った475年当時、新羅に滞在していて難を逃れた文周王は都を熊津(現・忠清南道公州市)に遷したが、百済は漢城失陥の衝撃からなかなか回復できなかった。

東城王の時代になって中国・南朝や倭国との外交関係を強化するとともに、国内では王権の伸張を図り南方へ領土を拡大して、武寧王の時代にかけて一応の回復を見せた。

新羅
古代の朝鮮半島南東部にあった国家。当初は「斯蘆」(しろ)と称していたが、503年に「新羅」を正式な国号とした。
朝鮮半島北部の高句麗、半島南西部の百済との並立時代を経て、7世紀中頃までに朝鮮半島中部以南をほぼ統一し、高麗、朝鮮と続くその後の半島国家の祖形となった。

斯蘆国の時代
3世紀ごろ、半島南東部には辰韓十二国があり、その中に斯蘆国があった。辰韓の「辰」は斯蘆の頭音で、辰韓とは斯蘆国を中心とする韓の国々の意味と考えられている。
新羅は、この斯蘆国が発展して基盤となって、周辺の小国を併せて発展していき、国家の態をなしたものと見られている。

4世紀から5世紀にかけての新羅百済は、高句麗に比べて、国力も領土も弱小であった。

377年
『太平御覧』で引用する『秦書』には、前秦に初めて新羅が朝貢したと記されている。

382年
新羅王楼寒(ろうかん)の朝貢が行われ、その際に新羅の前身が辰韓の斯盧国であることを前秦に述べたとされる。
この「楼寒」については王号の「麻立干」を表すものと見られ、該当する王が奈勿尼師今に比定されている。
記述から奈勿尼師今の即位(356年)が新羅の実質上の建国年とも考えられている。

『秦書』
斯羅國,本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也。或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘。

斯羅國は元は東夷の辰韓の小国。魏の時代では新羅といい、劉宋の時代には斯羅というが同一の国である。
或るとき韓に属し、あるときは倭に属したため国王は使者を派遣できなかった。

広開土王碑や中原高句麗碑には、時期によって倭、高句麗によって支配を受けていたと書かれている。

加羅諸国
三韓の一つの弁韓を母体とする。
3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す。

414年
高句麗が建立した広開土王碑文にある「任那加羅」が史料初見とされている。

南齊書よると、加羅國,三韓種也。
建元元年,國王荷知使來獻。詔曰:「量廣始登,遠夷洽化。加羅王荷知款關海外,奉贄東遐。可授輔國將軍、本國王。
と記録されている。

宋書、梁書などでは三国志中にある倭人の領域が任那に元の弁韓地域が加羅になったと記録している。

任那地域では金官国の影響力が衰え、5世紀後半には加羅地域で大加羅国(慶尚北道高霊郡)の影響力が強くなった。

1世紀中葉に倭人の国で最も北に位置する狗邪韓国(慶尚南道金海市)とその北に位置する弁韓諸国と呼ばれる小国家群が出現している。
後に狗邪韓国(金官国)となる地域は、弥生時代中期(前4、3世紀)以後になると従来の土器とは様式の全く異なる弥生式土器が急増し始めるが、これは後の狗邪韓国(金官国)に繋がる倭人が進出した結果と見られる。
首露王により建国されたとされる「金官国」が統合の中心とする仮説が主張されている。

4世紀初めに中国の羈縻支配が弱まると馬韓は自立して百済を形成したが、辰韓弁韓の諸国は国家形成が遅れた。
宋書、梁書などでは三国志中にある倭人の領域が任那に元の弁韓地域が加羅になったと記録している。
任那は倭国の支配地域、加羅諸国は倭に従属した国家群で、倭の支配機関の存立を記述している。

任那
朝鮮半島における倭国の北端である『三国志』魏書東夷伝倭人条の項目における狗邪韓国(くやかんこく)の後継にあたる金官国を中心とする地域、三韓弁辰弁韓および辰韓の一部、馬韓の一部(現在の全羅南道を含む地域)を含むと看做すのが通説である。
任那諸国の中の金官国(現在の慶尚南道金海市)を指すものと主張する説もある。

後に狗邪韓国(金官国)そして任那となる地域は、弥生時代中期(前4、3世紀)に入り従来の土器とは様式の全く異なる弥生土器が急増し始めるが、これは後の任那に繋がる地域へ倭人が進出した結果と見られる。

金石文
大師諱審希俗姓新金氏其先任那王族草拔聖枝每苦隣兵投於我國遠祖興武大王鼇山稟氣鰈水騰精握文符而出自相庭携武略而高扶王室

百済にも新羅にも属さなかった領域は、例えば478年の倭王武の上表文にみられる「任那・加羅・秦韓・慕韓」にて推測できる。

ここにでてくる四者のうち、任那は上記の「狭義の任那」=金官国(及び金官国を中心とする諸国)。同じく加羅は上記の「狭義の加羅」=大加羅(及び大加羅を中心とする諸国)。
秦韓はかつての辰韓12国のうちいまだ新羅に併合されず残存していた諸国、例えば卓淳国や非自本国、啄国など。
慕韓はかつての馬韓52国のうちいまだ百済に併合されず残存していた諸国、例えば百済に割譲された任那四県など、にそれぞれ該当する。

中国史料における任那
400年
広開土王碑文(414年建立) : 永楽10年(400年)条の「任那加羅」が史料初見とされている。

438年
『宋書』では「弁辰」が消えて、438年条に「任那」が見える。

451年
『宋書』では「任那、加羅」と2国が併記される。
その後の『南斉書』も併記を踏襲している。
『梁書』は、「任那、伽羅」と表記を変えて併記する。

451年
宋書倭国伝によると、451年に、宋朝の文帝は、倭王済に「使持節都督倭・新羅任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けたという。

478年
宋朝の順帝は、倭王武に「使持節都督倭・新羅任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王」の号を授けたという。

『宋書』「夷蠻伝」倭国伝 『南齊書』列傳 第三十九 蠻 東南夷 梁書諸夷伝
「自昔祖禰 躬擐甲冑 跋渉山川 不遑寧處 東征毛人五十國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國」(『宋書』倭国伝)

昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。

「詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王」 詔を以て武を使持節、都督倭・新羅任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に叙爵した。と倭国が宋へ朝貢をし、宋が倭王(武)へ朝鮮半島の支配を認めたとしており、当時の外交状況が見て取れる。

宋の文帝の命によって、439年(元嘉16)から編纂が始まり、何・承天・山謙之・琲裴之(はいしょうし)・徐爰(じょかん)らの当代有数の文人たちによって継続されていた。
487年(永明5)に南斉の武帝の命を受けた沈約(しんやく)が翌年(元嘉17)に本紀10巻・列伝60巻を完成させ、志30巻は502年(天監元)にできあがった。
『宋書』は全体として事実を簡にな記述しており、宋王朝の官府に集積されていた史料を実録的に記述している。

倭の五王の中の珍に関係する記述が列伝の倭国条だけでなく本紀の文帝紀にもある。

413年 東晋 義熙9 讃 東晋・安帝に貢物を献ずる。(『晋書』安帝紀、『太平御覧』)
421年 宋 讃 宋に朝献し、武帝から除授の詔をうける。おそらく安東将軍倭国王。(『宋書』夷蛮伝)
425年 宋 讃 司馬の曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる。(『宋書』夷蛮伝)
430年 宋 讃? 1月、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる。(『宋書』文帝紀)
438年 宋 珍 これより先(後の意味以下同)、倭王讃没し、弟珍立つ。この年、宋に朝献し、自ら「使持節都督倭・百済新羅任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める。(『宋書』夷蛮伝)
4月、宋文帝、珍を安東将軍倭国王とする。(『宋書』文帝紀)
珍はまた、倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍にされんことを求め、許される。(『宋書』夷蛮伝)
443年 宋 済 宋・文帝に朝献して、安東将軍倭国王とされる。(『宋書』夷蛮伝)
451年 宋 済 宋朝・文帝から「使持節都督倭・新羅任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号される。安東将軍はもとのまま。(『宋書』倭国伝)
7月、安東大将軍に進号する。(『宋書』文帝紀)
また、上った23人は、宋朝から軍・郡に関する称号を与えられる。(『宋書』夷蛮伝)
460年 宋 済? 12月、孝武帝へ遣使して貢物を献ずる。
462年 宋 興 3月、宋・孝武帝、済の世子の興を安東将軍倭国王とする。(『宋書』孝武帝紀、倭国伝)
477年 宋 興(武) 11月、遣使して貢物を献ずる。(『宋書』順帝紀)
これより先、興没し、弟の武立つ。武は自ら「使持節都督倭・百済新羅任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する。(『宋書』夷蛮伝)
478年 宋 武 上表して、自ら開府儀同三司と称し、叙正を求める。順帝、武を「使持節都督倭・新羅任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする。(『宋書』順帝紀)(「武」と明記したもので初めて)
479年 南斉 武 南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王の武を鎮東大将軍(征東将軍)に進号。(『南斉書』倭国伝)
502年 梁 武 4月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を征東大将軍に進号する。(『梁書』武帝紀)

「自昔祖禰 躬擐甲冑 跋渉山川 不遑寧處 東征毛人五十國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國」(『宋書』倭国伝)
昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。

「詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王」
詔を以て武を使持節、都督倭・新羅任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に叙爵した。
と日本が宋へ朝貢をし、宋が倭王(武)へ朝鮮半島の支配を認めたとしており、当時の外交状況が見て取れる。

中国大陸南朝の将軍ランク
魏晋南北朝では、朝貢国の有力者に将軍の称号を与えた。東方では、
①車騎将軍
②征東大将軍
③鎮東大将軍
④安東大将軍
⑤征東将軍
⑥鎮東将軍
⑦安東将軍

倭王珍は、倭だけでなく朝鮮半島の百濟、新羅任那辰韓馬韓の六国の軍を指揮する安東大将軍を名乗り、正式な任命を求めた。
しかし、宋はそれより格下の安東将軍・倭王という称号を与えている。
倭の五王の時代は、広開土王の石碑に記録された高句麗対百濟・倭連合の戦争の直後だった。
このため、南朝の宋王と交渉して、任命されることで高句麗を牽制しようと考えた。
武王は、朝鮮半島の百濟以外の地域の軍を統括する安東大将軍をもらった。
宋の滅亡後に武王は斉と梁に朝貢し、このうち斉からは、よりランクの高い鎮東大将軍の称号を手にいれる。
しかし、すでに高句麗の王は鎮東大将軍、百濟の王は鎮東将軍の称号を得ていた。
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6cの朝鮮半島
5c~6cの三国の情勢

高句麗
平壌城時代
遷都直後は大城山城を拠点としたが、後に平壌城に居城を構えた。
長寿王は西へ進出して遼河以東を勢力下に収め、475年には百済の首都を陥落させて百済王を殺害、百済は南に遷都した。 この時期は満洲南部、遼東半島、朝鮮半島の大部分を支配するに至った。
しかし5世紀末になると百済新羅が強くなり、百済新羅の連合により南部の領土を奪われている。
危機感を覚えた高句麗百済に接近し、中国には南北朝の両方に朝貢を行って友好を保ち、新羅との対立を深めていく。
高句麗が最も危惧していたのは北朝の勢力であり、その牽制のために南朝や突厥などとも手を結ぶ戦略を採った。

百済
王都漢城を失った475年当時、新羅に滞在していて難を逃れた文周王は都を熊津(現・忠清南道公州市)に遷したが、百済は漢城失陥の衝撃からなかなか回復できなかった。
東城王の時代になって中国・南朝や倭国との外交関係を強化するとともに、国内では王権の伸張を図り南方へ領土を拡大して、武寧王の時代にかけて一応の回復を見せた。
しかし6世紀に入ると、新羅が大きく国力を伸張させ、高句麗南部へ領土を拡大させた。
このような中で百済の聖王は538年都を熊津から泗沘(現・忠清南道扶余郡)に遷した。
この南遷は百済の領土が南方(全羅道方面)に拡大したためでもあると考えられる。
聖王によって泗沘に都が遷されると同時に、国号も南扶余と改められたが、この国号が国際的に定着することはなかった。
この頃、かつての百済の都だった漢江流域も新羅の支配下に入り、高句麗からの脅威はなくなったものの、これまで同盟関係にあった新羅との対立関係が生じた。

聖王は倭国との同盟を強固にすべく諸博士や仏像・経典などを送り、倭国への先進文物の伝来に貢献したが、554年には新羅との戦いで戦死する。

ここにおいて朝鮮半島の歴史高句麗百済の対立から百済新羅の対立へ大きく旋回した。
百済は次第に高句麗との同盟に傾き、共同して新羅を攻撃するようになった。

新羅
『三国史記』の新羅本紀は「辰韓の斯蘆国」の時代から含めて一貫した新羅の歴史としているが、史実性があるのは4世紀の第17代奈勿王以後であり、それ以前の個々の記事は伝説的なものであって史実性は低いとされる。
4世紀から5世紀にかけての新羅百済は、高句麗に比べて、国力も領土も弱小であった。
当時、新羅領土の2倍である百済があった。また、新羅にとっては朝鮮半島南部までもを領有していた大和朝廷も脅威であった。
新羅は長く高句麗に従属していたが、5世紀中頃からその支配下を脱却しようとしてこれと争うようになった。
その傍らでは辰韓諸国に対する支配力を高め、加羅諸国の領有をめぐっては百済とも対抗する姿勢を明らかにし、ここに三国が相競う様相を顕われ始めた。

さらには広開土王碑の銘文や日本の「三韓征伐」伝承にも垣間見られるように、新羅は倭国による断続的な侵攻にさらされ、その結果として何らかのかたちで倭国の支配下にあった期間もあったと考えられている。
6世紀になると智証麻立干・法興王らが国制の整備によって国力を高め、6世紀中頃には真興王による急激な領域拡大が可能となった。
高句麗を攻撃し北に領土を広げ、百済・日本の連合軍を退け、562年には加羅地方の大加羅を滅ぼして占領し、文字通りの三国時代となった。
中国に対しては564年に北斉に朝貢して翌年に冊封を受け、その一方で568年に南朝の陳にも朝貢した。
このように中国大陸の南北王朝との関係を深めたことは、半島北部の高句麗に大きな脅威を与えた。
隋、唐に対しても建国後まもなく使者を派遣して冊封を受けた。

6世紀になって百済高句麗の関係が改善するにつれて倭と高句麗との関係も友好的なものとなり、相互の通好も行われた。
新羅が大きく国力を伸張させ、高句麗南部へ領土を拡大させた。
7世紀前半までの高句麗と倭との国交は文化的な交流に限定されており、特に仏僧の活躍が目立つ。

任那加羅諸国
伽耶(かや)は加羅(から)の現代韓国に於ける表記。
また加羅諸国(からしょこく)は、3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す。
414年に高句麗が建立した広開土王碑文にある「任那加羅」が史料初見とされている。

中国梁国の時の南齊書よると、
加羅國,三韓種也。建元元年,國王荷知使來獻。詔曰:「量廣始登,遠夷洽化。加羅王荷知款關海外,奉贄東遐。可授輔國將軍、本國王。
と記録されている。

大加羅を中心にした後期伽耶連盟は、481年に高句麗とそれに附属する濊貊の新羅侵入に対して、百済と共に援兵を送った。
百済が倭に対して半ば強要する形で加羅西部の四県を割譲させると、加羅諸国は百済と小白山脈を境界として接し険悪になった。
百済が卓淳国・多羅国などへ侵攻すると、大加羅の異脳王は522年に新羅の法興王に対して婚姻を申し入れ、新羅との同盟を願ったが叛服常ない新羅は却って任那加羅諸国への侵攻を繰り返し、532年には任那の金官国が新羅に降伏した。
この為、任那加羅諸国は百済に救援を求め、百済は安羅に駐屯して新羅に備えるとともに、聖王が主宰して任那加羅諸国の首長と倭の使臣との間による復興会議を開いたが、百済は単に任那加羅諸国を新羅から守ろうとしたのではなく、百済自身が任那加羅諸国への勢力拡大を狙っていた。
こうして任那加羅地域は新羅百済の争奪戦に巻き込まれることとなったが、百済が554年に管山城の戦いで新羅に敗れて聖王が戦死すると新羅の優勢は決定的となり、562年には大加羅(高霊)が新羅に滅ぼされ、残る加羅諸国は新羅に併合された。

後期伽耶連盟
5世紀末に百済の南下と新羅の統合により、任那加羅のうち北部に位置する加羅地域への倭国の支配力が衰えると、小国群に自衛の為の統合の機運が生じ、高霊地方の主体勢力だった半路国(または伴跛国)が主導して後期伽耶連盟を形成したという説がある。479年、南斉に朝貢して〈輔国将軍・加羅王〉に冊封されたのは、この大加羅国と考えられている。

503年
当初は「斯蘆」(しろ)と称していたが、「新羅」を正式な国号とした。

522年
大加羅の異脳王は新羅の法興王に対して婚姻を申し入れる。

526年(百済聖王4年)
百済僧謙益がインドより天竺僧と帰国する。『五分律』を翻訳する。
大加羅の異脳王は新羅の法興王に対して婚姻を申し入れ、新羅との同盟を願ったが叛服常ない新羅は却って任那加羅諸国への侵攻を繰り返した。

527年(継体21)6月3日
ヤマト王権の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した(いずれも朝鮮半島南部の諸国)。
この計画を知った新羅は、筑紫(九州地方北部)の有力者であった磐井(日本書紀では筑紫国造磐井)へ贈賄し、ヤマト王権軍の妨害を要請した。

磐井は挙兵し、火の国(肥前国・肥後国)と豊の国(豊前国・豊後国)を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍をはばんで交戦した。
このとき磐井は近江毛野に「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ。お前などの指示には従わない。」と言ったとされている。
ヤマト王権では平定軍の派遣について協議し、継体天皇が大伴金村・物部麁鹿火・巨勢男人らに将軍の人選を諮問したところ、物部麁鹿火が推挙され、同年8月1日、麁鹿火が将軍に任命された。『日本書紀』

528年(継体22年)11月11日
磐井軍と麁鹿火率いるヤマト王権軍が、筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)にて交戦し、激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北した。『日本書紀』

529年3月
ヤマト王権(倭国)は再び近江毛野を任那の安羅へ派遣し、新羅との領土交渉を行わせている。『日本書紀』

532年
任那の金官国が新羅に降伏した。
新羅の圧力に抗しきれず、仇衝王(金仇亥)が国を挙げて降伏している。

538年(宣化天皇3年)
仏教の百済からの公伝は、538年(宣化天皇3年)または552年(欽明天皇13年)とされている。
『日本書紀』は欽明天皇13年(552年)、百済の聖王(聖明王)の使者が金銅釈迦仏像、経典などを天皇に献上したと記す。
一方、『上宮聖徳法王帝説』、『元興寺縁起』はこれを欽明天皇7年の戊午年(538年)のこととする。

538年
百済の聖王は538年都を熊津から泗沘(現・忠清南道扶余郡)に遷した。
この南遷は百済の領土が南方(全羅道方面)に拡大したためでもあると考えられる。

541年(聖王19年)
百済が梁に毛詩博士、経義、工匠や画師を求める。

554年
百済の聖王は倭国との同盟を強固にすべく諸博士や仏像・経典などを送り、倭国への先進文物の伝来に貢献したが、管山城の戦いで新羅に敗れて聖王が戦死する。

ここにおいて朝鮮半島の歴史高句麗百済の対立から百済新羅の対立へ大きく旋回した。 百済は次第に高句麗との同盟に傾き、共同して新羅を攻撃するようになった。

562年
大加羅(高霊)が新羅に滅ぼされ、残る加羅諸国は新羅に併合された。

564年
新羅は北斉に朝貢して翌年に冊封を受ける。

568年
新羅、南朝の陳に朝貢した。

570年
北陸に漂流した高句麗人が「烏羽之表」を携えており、これが正式な国書であると王辰爾によって解読され、初めて国交が開かれたと伝えられる。

581年
中国の王朝 隋。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した。

588年
隋 文帝は陳への遠征軍を出発させる。この時の遠征軍の総指揮官が文帝の次男楊広(後の煬帝)である。

588年(崇峻天皇元年)
飛鳥寺(法興寺)
崇峻朝の588年(崇峻天皇元年)に着工され、596年(推古天皇4年)に完成した。蘇我馬子が造営の中心になった。『日本書紀』

589年
隋 次男楊広(後の煬帝)は、陳の都建康はあっけなく陥落し、陳の皇帝陳叔宝は井戸に隠れている所を捕らえられた。

593年(推古天皇元年)
四天王寺 難波(大阪)。
『日本書紀』によれば聖徳太子の発願によりに建て始められた。飛鳥寺とともに、日本最古の本格的仏教寺院の1つである。

594年(推古2)
仏教興隆の詔が下されたのを受けて諸臣連達が、天皇と自己の祖先一族のために競って私寺(氏寺)を造り始めた。

595年
飛鳥仏教は百済高句麗の仏僧によって支えられていた。
高句麗僧・慧慈、百済僧・慧聰が来朝・帰化し、翌年には飛鳥寺に住まうようになる。

604年
隋 文帝の崩御に伴い煬帝即位。

六世紀の朝鮮半島と倭国の関係(日本書紀)
500年 新羅本紀 春三月 倭人が長峯鎮を攻め陥した。
502年 中国王朝(南朝) 梁 天監1 武 4月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を征東大将軍に進号する。(『梁書』武帝紀)
509年2月 日本
継体 百済に遣使した。
512年 標準世界史 伽耶任那)4県を百済に譲渡
512年4月 日本
継体 穗積臣押山を百済に派遣し、筑紫の国の馬40匹を賜った。12月、百済が遣使貢調し、任那国の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の四県を請うた。哆唎国守穗積臣押山は四県の下賜を進言し、大伴大連金村もこれを了承し、物部大連麁鹿火を宣勅使とし、百済任那四県を賜った。
513年6月 日本
継体 済が姐彌文貴将軍・洲利即爾将軍を派遣し、穗積臣押山に副えて五経博士段楊爾を貢上し、伴跛国に奪われた百済の己汶の地の奪還を要請した。
11月、己汶・帯沙を百済国に賜った。この月、伴跛国が戢支を派遣し、珍宝を献上し己汶の地を乞うたが、承知しなかった。
514年3月 日本
継体 伴跛が城を小呑・帯沙に築き満奚に連ね、のろし台、兵糧庫を置き、日本に備えた。新羅を攻め村邑を略奪した。
515年2月 日本
継体 百済の使者文貴将軍に物部連を副えて送った。この月、沙都島に着くと伴跛人が残虐をほしいままにしているというので、物部連は水軍五百を率いて帯沙江に向った。
516年5月 日本
継体 百済が前部木刕不麻甲背を派遣し、物部連らを己汶に迎え労をねぎらい、国に導いて入った。
9月、百済が物部連に副えて州利即次将軍を派遣し、己汶の地を賜ったことに感謝の意を表した。14日、百済高麗使安定らに副えて灼莫古将軍と日本斯那奴阿比多を派遣し、来朝して好を結んだ。
527年6月 日本
継体 近江毛野臣は兵6万を率いて、新羅に破られた南加羅と[口彔]己呑を復興し任那に合わせようとした。このとき筑紫国造磐井が火豐二国を拠りどころとし、高麗百済新羅任那の年貢職船を誘致し、また毛野臣軍を遮った。
8月、物部麁鹿火大連を磐井征討の将に任じた。
527年 標準世界史 筑紫国国造、磐井の乱。
528年11月 日本
継体 物部大連麁鹿火は筑紫御井郡で磐井と交戦し、磐井を斬り、境界を定めた。
12月、筑紫君葛子は殺されるのを恐れて、糟屋屯倉を献上して死罪を免れるよう乞うた。
529年3月 日本
継体 百済王が下哆唎国守穗積押山臣に、加羅の多沙津を百済朝貢の経由港に請うた。
物部伊勢連父根・吉士老を派遣して、多沙津を百済に賜った。
加羅王は、この港は官家を置いて以来、朝貢するときの渡航の港であるのになぜ隣国に賜うのか、と日本を怨み新羅と結んだ。
加羅王は新羅王女を娶るがその後新羅と仲違いし、新羅は拔刀伽・古跛・布那牟羅の三城、北境の五城を取った。
この月、近江毛野臣を安羅に派遣し、新羅に対し南加羅・[口彔]己呑を建てるようにいった。百済は将軍君尹貴・麻那甲背・麻鹵らを、新羅は夫智奈麻禮・奚奈麻禮らを安羅に派遣した。
4月、任那王の己能末多干岐が来朝し、新羅がしばしば国境を越えて来侵するので救助して欲しいと請うた。
この月、任那にいる毛野臣に、任那新羅を和解させるよう命じた。毛野臣は熊川にいて新羅(王佐利遲)と百済の国王を呼んだ。しかし二国とも王自ら来なかったので毛野臣は怒った。
新羅は上臣伊叱夫禮智干岐を派遣し三千の兵を率いて、勅を聴こうとしたが、毛野臣はこの兵力をみて任那の己叱己利城に入った。
新羅の上臣は三月待ったが毛野臣が勅を宣しないので、四村(※金官・背伐・安多・委陀、一本では、多々羅・須那羅・和多・費智)を略奪し本国へひきあげた。多々羅など四村が掠奪されたのは毛野臣の過である、と噂された。
530年9月 日本
継体 任那使が、毛野臣は久斯牟羅に舍宅をつくり2年、悪政を行なっていると訴えた。天皇はこれを聞き呼び戻したが、毛野臣は承知せず勝手な行動をしていたので、任那の阿利斯等は久禮斯己母を新羅に、奴須久利を百済に派遣して兵を請うた。
毛野臣は百済兵を背評で迎え撃った。二国(百済新羅)は一月滞留し城を築いて還った。引き上げるとき、騰利枳牟羅・布那牟羅・牟雌枳牟羅・阿夫羅・久知波多枳の五城を落とした。
10月、調吉士が任那から来て、毛野臣が加羅に争乱を起こしたことなどを上申した。そこで目頬子を派遣して毛野臣を呼び戻した。この年、毛野臣は対馬に着いたが病気になり死んだ。送葬に川をたどって近江に入った。目頬子がはじめて任那に着いたとき、郷家らが歌を贈った。「韓国に いかに言ことそ 目頬子来る むかさくる 壱岐の渡りを 目頬子来る」
百済本記』によれば、25年〔531〕3月、軍は安羅に至り乞乇城をつくった。この月、高麗がその王・安を殺した。また、日本の天皇及び太子・皇子がともに亡くなったという。
534年 標準世界史 武蔵国造の乱。
534年5月 日本
安閑 百済が下部脩徳嫡徳孫・上部都徳己州己婁らを派遣し、いつもの調を貢上した。
537年10月 日本
宣化 新羅任那に侵入して荒らしたので、大伴金村大連に命じて、磐と狭手彦を派遣し任那を助けた。磐は筑紫に留まり三韓に備え、狭手彦は任那を鎮め、加えて百済を救った。
538年 日本
宣化 百済の聖王(聖明王)が、釈迦仏像や経論などを朝廷に贈り、仏教が公伝される。
540年8月 日本
欽明 麗・百済新羅任那が遣使貢献した。
541年4月 日本
欽明 安羅・加羅・卒麻・散半奚・多羅・斯二岐・子他・任那日本府の官が百済に行き、詔書を聴いた。
百済聖明王は任那旱岐らに、天皇の願いは任那復興であること、また、今新羅にだまされたのは自分の過ちであり、それを悔いて下部中佐平麻鹵・城方甲背昧奴らを加羅に派遣し、任那日本府と会い任那を建てることを誓いあったこと、[口彔]己呑や南加羅が取られたのは新羅が強かったからではなく、皆で力を合わせれば必ず任那は復興できることを説いた。
7月、百済は安羅日本府新羅が通じていると聞き、前部奈率鼻利莫古・奈率宣文・中部奈率木刕眯淳・紀臣奈率彌麻沙らを安羅に派遣し、安羅日本府の河内直が新羅と通じていたことを責めた。
そして任那(安羅を代表とする諸国)に、百済任那の昔からの関係、新羅への警戒などについて語り、百済にしたがい天皇の勅を聴き、任那を立てるようにいった。
聖明王はさらに任那日本府に、(日本府の)卿らが新羅の言葉を真に受けて任那を滅ぼし、天皇を辱めるのを恐れるといった。百済が紀臣奈率彌麻沙・中部奈率己連を派遣し、下韓・任那の情勢を報告した。
543年9月 日本
欽明 百済聖明王が前部奈率眞牟貴文・護徳己州己婁と物部施徳麻奇牟らを派遣して、扶南の財物と奴二口を献上した。
11月、津守連を百済に派遣し、任那の下韓にある百済の郡令城主を日本府に附けるように、また、任那を早く建てるようにいった。
12月、聖明王はこの詔勅についていかにしたらよいか群臣に聴いた。上佐平沙宅己婁・中佐平木刕麻那・下佐平木尹貴・徳率鼻利莫古・徳率東城道天・徳率木刕眯淳・徳率国雖多・奈率燕比善那らは協議して、任那の執事、国々の旱岐らを呼んで協議するのが善策であり、河内直・移那斯・麻都らが安羅に住んでいたのでは任那を建てるのは難しい、と答えた。この月、百済任那日本府の執事を呼んだが、ともに元旦が過ぎてから行くと答えた。
544年1月 日本
欽明 正月、百済はまた任那日本府の執事を呼んだが、ともに祭が終わってから行くと答えた。百済はさらに遣使し、任那日本府の執事を呼んだが、ともに身分の低いものが来たので、任那を建てる協議ができなかった。
2月、百済は施徳馬武・施徳高分屋・施徳斯那奴次酒らを任那に派遣し、日本府任那の旱岐らに、日本府任那の執事を三回召集したが来なかったので、任那の政を図り天皇に申し上げることができなかった、日本府の卿と任那の旱岐らは百済へ来て天皇の宣勅を聴くように、といった。また別に、河内直・移那斯・麻都と河内直の先祖である那干陀甲背・加獵直岐甲背の悪行を責めた。
これに対して日本府は、日本の臣と任那の執事は新羅に行って勅を聴くようにといわれており、百済に行かなかったのは任那の意向ではない、といった。
3月、百済は奈率阿乇得文・許勢奈率奇麻・物部奈率奇非らを派遣し、阿賢移那斯・佐魯麻都が安羅にいると任那を建てるのは難しいこと、的臣らが天朝を欺いたこと、佐魯麻都は新羅の奈麻礼の冠をつけていること、[口彔]国と卓淳国が滅んだのは内応や二心が原因であることなどを上申した。
10月、百済使者奈率得文・奈率奇麻らが帰った。
11月、百済日本府の臣、任那の執事を呼んで、百済に来て勅を聞くようにいった。日本(府)の吉備臣、安羅の下旱岐大不孫・久取柔利、加羅の上首位古殿奚、卒麻の君、斯二岐の君、散半奚の君の子、多羅の二首位訖乾智、子他の旱岐、久嗟の旱岐が百済に行った。 百済王聖明は詔書を示して、どのようにしたら任那を建てることができるか、と訊いた。吉備臣、任那の旱岐らは、任那を建てるのは大王にかかっている、大王に従いたい、といった。聖明王は、①新羅と安羅の境に大川があるので、その地に拠って六城を修復し、天皇に三千の兵士を請う。②南韓は北敵の防衛と新羅を攻めるのに必要であり、郡令城主は引続き置く。③吉備臣、河内直、移那斯、麻都が任那にいたのでは任那を建てることはできないので、本邑に還るよう天皇にお願いする、という三つの策を示した。
545年3月 日本
欽明 膳臣巴提便を百済に派遣した。 5月、百済が奈率其[忄夌]・奈率用奇多・施徳次酒らを派遣して上表した。
9月、百済が中部護徳菩薩らを任那に派遣した。この月、天皇の善徳と官家の国の福を願い、百済が丈六の仏像を造った。この年、高麗に大乱があり、多数のものが殺された。
。(※注の『百済本記』には、「高麗の細群と麁群が戦い、細群が敗れた。狛国王香岡上王が亡くなった」とある。『三国史記』「高句麗本紀」によれば、このときの高句麗王は安原王である。)
546年6月 日本
欽明 百済が中部奈率掠葉礼らを派遣し、調を献上した。この年、高麗に大乱があり、二千余人が戦死した。
547年4月 日本
欽明 百済が前部徳率真慕宣文・奈率奇麻らを派遣し、救軍を乞うた。
548年1月 日本
欽明 百済使者前部徳率真慕宣文らの帰国に際し、救軍は必ず送るからすみやかに王に報告するようにといった。
4月、百済が中部杆率掠葉礼を派遣し、馬津城の役で、安羅と日本府高麗と通じ百済を伐とうとしたことがわかったので、しばらくの間救兵を停止してもらいたいといってきた。
6月、百済に遣使して、任那とともに対策を練り防ぐように、といった。 10月、370人を百済に派遣し、得爾辛に城を築くのを助けた。
549年6月 日本
欽明 将徳久貴・固徳馬次文らが帰国するとき、移那斯と麻都が高麗に遣使したことの虚実を調査し、救兵は停止する、といった。
550年2月 日本
欽明 百済に遣使し、北敵は強暴だと聞く、矢30具を与える、といった。
4月、百済にいた日本王人が帰国しようとしたとき、百済王聖明は、任那のことは勅を固く守る、移那斯と麻都のことは勅に従うだけだといい、高麗奴六口、別に王人に奴一口を贈った。
551年3月 日本
欽明 麦の種一千斛を百済王に賜った。この年、百済聖明王は二国の兵(新羅任那)を率い高麗を征伐し漢城を獲った。平壤を討ち旧領を回復した。
552年5月 日本
欽明 百済・加羅・安羅が中部徳率木刕今敦・河内部阿斯比多らを派遣し、高麗新羅百済任那を滅ぼそうと計画しているので、兵を出し不意を攻めるよう求めた。
10月、百済聖明王が西部姫氏達率怒唎斯致契らを派遣して、釈迦仏金銅像一軀・幡蓋若干・経論若干巻を献上した。この年百済が漢城と平壤を棄て、新羅が漢城に入った。今の新羅の牛頭方・尼彌方である。
553年1月 日本
欽明 百済は上部徳率科野次酒・杆率礼塞敦らを派遣し、軍兵を乞うた。
6月、内臣を百済に遣使し、良馬二匹・同船二隻・弓50張・箭50具を与えた。また医博士・易博士・暦博士を交替させ、卜書・暦本・種々の薬物を送付するようにいった。
8月、百済が上部奈率科野新羅・下部固徳汶休帯山らを派遣し、援軍の派遣(新羅と狛国が安羅を奪取し道を遮断しようとしている)、亡くなった的臣の代わりの派遣、そして弓馬を乞うた。
10月、百済王子余昌が高麗と合戦した。
554年1月 日本
欽明 百済が中部木刕施徳文次・前部施徳曰佐分屋らを筑紫に派遣して、内臣・佐伯連らに、この年の役は前よりも危ういので正月に間に合わせてほしい、といった。内臣は、すぐに援助軍一千、馬百匹、船四十隻を派遣する、といった。
2月、百済が下部杆率将軍三貴・上部奈率物部烏らを派遣して救兵を乞うた。百済は、奈率東城子言に代えて徳率東城子莫古を送り、五経博士・僧を交替し、別に易博士・暦博士・医博士・採薬師・楽人を送った。
5月、内臣が水軍を率いて百済に到着した。
12月、百済が下部杆率汶斯干奴を派遣し、有至臣の軍に加え(狛と新羅が協力しているので有至臣軍だけでは足りない)竹斯島の兵士の派遣を要請し、百済任那を助けにいく、事は急である、といった。
余昌は新羅を討つことを謀った。老臣が止めるのも聞かず、新羅に入り久陀牟羅の塞を築いた。父明王は憂慮し自ら出かけていった。新羅は明王みずから来たと聞き、国中の兵を発して道を断ち撃破した。明王は新羅の奴・苦都の手で殺された。余昌は敵に囲まれたが、弓の名手・筑紫国造の働きによって逃げることができた。
555年2月 日本
欽明 百済王子余昌が王子恵を派遣し、聖明王が賊のために殺されたことを報告した。
556年1月 日本
欽明 百済世子恵が帰国するとき、大量の兵器・良馬を与え、阿倍臣・佐伯連・播磨直を派遣して、筑紫国の水軍を率い、護衛して国に送った。別に筑紫火君を派遣して、勇士一千を率いて、彌弖まで護送した。港の路の要害の地を守らせた。
560年9月 日本
欽明 新羅が彌至己知奈麻を派遣して調賦を献上した。
561年 日本
欽明 新羅が久礼叱及伐干を派遣して調賦を献上したが、もてなす儀礼が減っていたので、及伐干は怒り恨んで帰った。この年また、新羅が奴氐大舎を派遣して、前と同じ調賦を献上した。序列が百済の下だったので大舎は怒って還った。新羅は城を阿羅の波斯山に築き、日本に備えた。
562年1月 日本
欽明 新羅任那の官家を攻め滅ぼした。(※注の一本には、21年に任那は滅んだとある。また総体を任那といい、個々の国は加羅国・安羅国・斯二岐国・多羅国・卒麻国・古嵯国・子他国・散半下国・乞飡国・稔礼国、合わせて十国だとある。)
7月、新羅が遣使して調賦を献上した。使者は新羅任那を滅ぼしたのを知っていたので帰国を請わなかった。この月、大将軍紀男麻呂宿禰は兵を率いて哆唎を出て、副将河辺臣瓊岳は任那に行った。紀男麻呂は新羅を破り百済に入った。河辺臣瓊岳は戦事に通暁せず、新羅に撃破された。
8月、大将軍大伴連狭手彦を派遣し、兵数万をもって高麗を伐った。狹手彦は百済の計をもって高麗を打ち破った。
11月、新羅が遣使して調賦を貢上した。使者は新羅任那を滅ぼしたのを知っていたので帰国を請わなかった。
562年 標準世界史 伽耶任那)の日本府新羅に滅ぼされる。
新羅人(帰化人)の来航。
570年4月 日本
欽明 高麗の使者が風浪に苦しみ、越の海岸に漂着した。天皇は、山背国相楽郡に館を建て清め、厚くたすけ養うようにといった。
571年3月 日本
欽明 坂田耳子郎君を新羅に派遣して、任那の滅んだ理由を訊いた。
4月、天皇は皇太子に、新羅を撃って任那を建てるようにといった。
8月、新羅が弔使未叱子失消らを派遣した。
573年5月 日本
敏達 高麗の使者が越の海岸に泊まった。高麗が頻繁に道に迷うのを疑い、吉備海部直難波に高麗使を送り還らせた。
574年5月 日本
敏達 高麗の使者が越の海岸に泊まった。11月、新羅が遣使進調した。
575年2月 日本
敏達 百済が遣使進調した。新羅がまだ任那を建てないので、天皇は皇子と大臣に任那のことを怠らないようにといった。
4月、吉士金子を新羅に、吉士木蓮子を任那に、吉士訳語彦を百済に派遣した。
6月、新羅が遣使進調した。あわせて多々羅・須奈羅・和陀・発鬼の四つの邑の調を進上した。
577年5月 日本
敏達 大別王と小黒吉士を派遣して、百済国に宰とした。11月、百済国王は大別王らに経論若干巻・律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工六人を献上した。
579年10月 日本
敏達 新羅が枳叱政奈末を派遣して進調した。あわせて仏像を送った。
580年6月 日本
敏達 新羅が安刀奈末・失消奈末を派遣して進調したが、納めずに帰国させた。
581年

  • 618年 中国
    隋 中国に隋王朝が成立した。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した。
    隋の大陸統一により、脅威を感じた高句麗が隋の敵・突厥と結んで隋に対抗しようとする様子を見せたため、隋は100万に及ぶ大軍を起こし、これを3度にわたって攻撃した。
    612年から本格的に開始された高句麗遠征は113万人の兵士が徴兵される大規模なものであった。
    582年10月 日本
    敏達 新羅が安刀奈末・失消奈末を派遣して進調したが、納めずに帰国させた。
    583年7月 日本
    敏達 天皇は任那復興を謀るため、百済に紀国造押勝と吉備海部直羽嶋を派遣して日羅を呼んだ。百済国王は日羅を惜しんで承知しなかった。この年、再び吉備海部直羽島を百済に派遣し日羅を呼んだ。百済国王は天朝を畏れて敢えて勅に背かなかった。日羅らは吉備児島の屯倉に着いた。朝庭は大夫らを難波館に派遣して日羅を訪ねさせ、また館を阿斗の桑市に造って住まわせた。阿倍目臣・物部贄子連・大伴糠手子連を派遣し、国政について日羅に訊いた。日羅は、百済が筑紫を請おうといっているので、壱岐・対馬に伏兵を置き、やってくるのを待って殺すべきである、だまされてはいけない、といった。日羅は難波の館に移った。百済の大使と副使は臣下に日羅を殺させた。日羅は蘇生して、これはわが使の奴がしたことで新羅ではない、といった。
    584年2月 日本
    敏達 難波吉士木蓮子を新羅に派遣した。ついに任那に行った。
    587年2月 日本
    用明 天皇の仏教帰依について物部守屋と蘇我馬子が対立。後の聖徳太子は蘇我氏側につき、物部氏を滅ぼした。物部氏を滅ぼして以降、約半世紀の間、蘇我氏が大臣として権力を握った。
    588年1月 日本
    崇峻 百済国が使者とともに恵総・令斤・恵らを送り、仏舎利を献上した。飛鳥の衣縫造の祖樹葉之家を壊して、蘇我馬子がはじめて法興寺(※元興寺)をつくった。
    591年8月 日本
    崇峻 天皇が群臣に、任那を建てたいと思うがどうか、といった。みな、天皇の思いと同じであるといった。
    11月、紀男麻呂宿禰・許勢猿臣・大伴囓連・葛城烏奈良臣を大将軍とし、二万余の軍をもって出向いて筑紫に軍を構え、吉士金を新羅に、吉士木蓮子を任那に送り、任那のことを問い正した。
    592年 日本
    崇峻 蘇我馬子は東漢駒を遣い、崇峻天皇を暗殺すると、日本初の女帝となる推古天皇を立てた。
    593年 標準世界史 四天王寺造立。
    593年 日本
    推古 厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ、摂政となった。
    597年4月 日本
    推古 百済王が王子阿佐を使わして朝貢した。11月、吉士磐金を新羅に派遣した。
    599年9月 日本
    推古 百済が駱駝一匹・驢一匹・羊二頭・白雉一羽を貢上した。
    600年2月 日本
    推古 新羅任那が攻めあった。天皇は任那を救おうと思った。この年、境部臣を大将軍とし、穗積臣を副将軍とし、任那のために新羅を撃ち、五つの城を攻め落とした。新羅王は多々羅・素奈羅・弗知鬼・委陀・南迦羅・阿羅々の六城を割いて降服した。新羅任那は遣使貢調し、以後不戦と毎年の朝貢を誓った。しかし将軍らが引き上げると新羅はまた任那に侵攻した。