衛氏朝鮮

-222衛氏朝鮮
(えいしちょうせん)
 史記によれば、朝鮮は戦国時代に戦国七雄一つ燕が、遼寧に長城を築き、朝鮮に攻め寄せて、「朝鮮」と「真番」が服属したという。燕が秦に滅ぼされ、漢が中国を統一すると漢が朝鮮を支配した。漢の高祖(劉邦)は仲のよかった盧綰(ろわん)を燕王に封じるが、その後対立して盧綰は匈奴に亡命する。(衛氏朝鮮-東アジア-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-195衛氏朝鮮[-195年ごろ~-108年](衛氏朝鮮-東アジア-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
衛満(えいまん) []
朝鮮王。中国、燕(えん)の人。前190年ごろ箕子(きし)朝鮮の王箕準(きじゅん)を追い払い、衛氏朝鮮を興した。生没年未詳。
中国の燕から亡命してきた衛満によって、箕子子孫から王権を奪い、衛氏朝鮮を建国し、首都を平壌におく。歴史的に検証可能な最初の国家であると、されている。
【古朝鮮】より
…漢の武帝によって楽浪ほか3郡が設立される以前の朝鮮古代の総称。通常は《史記》《漢書》所見の箕子(きし)朝鮮と衛氏朝鮮の2王朝をいうが、《三国遺事》の伝える檀君朝鮮(檀君)を上述の2王朝に先行させて、三つを古朝鮮という場合もある。《三国遺事》の伝えるところによると紀元前約2000年以前に檀君王倹が都を阿斯達に定め、朝鮮を建国したことになっている。…
衛氏朝鮮
えいしちょうせん
紀元前2世紀、西北朝鮮に燕(えん)の亡命者衛満(えいまん)が建国した王朝。
衛氏朝鮮
えいしちょうせん
古朝鮮の王朝の一。紀元前二世紀初め、燕えんの亡命者衛満箕子朝鮮(きし)を滅ぼして建国。都は王険城(現在の平壌)。
衛氏朝鮮
えいしちょうせん
朝鮮古代の王朝名。いわゆる古朝鮮の一つ。。その前の伝承的存在の檀君朝鮮、前12世紀の殷(いん)人箕子に始まるとされる箕子 (きし) 朝鮮 (→箕子東来説 ) と合せ、古朝鮮という名称で一括される。
衛氏朝鮮''
燕人の国
伝説の箕子朝鮮が実在していたかどうかは、はっきりわからない。衛氏朝鮮に関する史料はきわめて少く詳細は不明であるが、中国人を首長とし、その下に在地土着の韓族連盟をなしていたものと解釈されている。
また、中国を統一した「秦」は、BC214年に朝鮮に迫り、「朝鮮」はあらためて秦に服属した。
 秦が滅び、漢が成立するまでの間、激しい動乱により「燕」「斉」「趙」などから多数の中国人が朝鮮の方へ逃げてきた。
司馬遷の「史記」によれば、漢が中国を統一すると、廬綰(ろかん)を燕王とした。BC195年に燕国が漢と対立して滅亡すると、廬綰は匈奴へ亡命した。このとき、満は一千余人を率いて朝鮮に亡命して、朝鮮の実権を奪い、朝鮮半島南部の「真番」や朝鮮半島東岸の「臨屯」も支配下におさめた。これが、衛氏朝鮮である。
『史記』によれば前漢の高祖 12 年前195年に、燕王盧綰(ろわん)が漢に背反したとき、その部将の衛満が部下1000余人をひきいて浿水(ばいすい)現在の鴨緑江または大同江) を渡り、(位置に諸説あり)を渡り北朝鮮の地に亡命した。
そして、その家臣衛満は千人余りを従えて朝鮮に入り、王険城(平壌)を首都として衛氏朝鮮を建国した。 BC195年頃のことである。
前2世紀初め、燕(えん)から亡命した衛満が建国。
前108年、衛満の孫、右渠(うきょ)の代に漢の武帝に攻められて滅亡。
満は当初、箕子朝鮮(きし)最後の王、箕準に仕えていたが、漢の恵帝のとき、準を滅ぼして王となり、王険城(平壌(ピョンヤン))に都した。
やがて漢の外臣となった満は、近隣諸部族を服属させ、その領域は方数千里と伝えられている。
孫の右渠(うきょ)のときには、漢に対しても強硬な姿勢をとったため、前109年、武帝は大軍を遣わして王険城を包囲し、翌年これを滅ぼした。
始祖の衛満をはじめ、支配者層に移住中国人が多いことから、一般に植民地的政権とみなされやすいが、自立的な土着豪族勢力の存在は軽視できず、むしろ両者の妥協のうえに成立した連合的政権と考えられる。また衛満は朝鮮人系の燕在住者であったとする説もある。
前12世紀の殷(いん)人箕子に始まるとされる箕子朝鮮とあわせて古朝鮮と呼称されることがあり、さらにそれ以前の檀君(だんくん)神話の檀君朝鮮を加えることもある。
朝鮮半島北西部は古来から中国との交流がおこなわれ、政治、経済、文化の諸般に深い影響を受けていたようである。
そして、いよいよ実在が確認されている衛氏(えいし)朝鮮が登場します。(紀元前195年ごろ~紀元前108年)
箕子(きし)朝鮮国最後の国王、箕準(淮とも記す)に信頼され官職を授けられ封地も賜ったという。
中国から亡命した衛満が箕子(きし)朝鮮の国を奪い、前190年ころ王倹城(今の平壌付近)を都として建国。約80年間朝鮮北部を支配したが、
衛氏朝鮮は独立国家として振舞うが、BC108年に漢の武帝に滅ぼされ、漢の直轄地となった。
『魏略 (ぎりゃく) 』によると彼はその地の国王で箕子朝鮮国最後の王、箕準の信頼を得て逐次昇進し、やがて箕準を追放して王となり王険城 (現在の平壌といわれる) を首都とし、近隣諸国を討ち真番、臨屯郡方面も服属するにいたった。
-195後漢末期になると、遼東半島で台頭した公孫氏が楽浪郡を支配し、その南に帯方郡を設置した。(衛氏朝鮮-東アジア-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-195(衛氏朝鮮-東アジア-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-195-195年ごろ~-108年そして、いよいよ実在が確認されている衛氏(えいし)朝鮮が登場します。(-東アジア-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-195衛氏朝鮮は、中国の燕から亡命した、衛満(えいまん)によって建国されました。(-東アジア-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-195そして、その家臣衛満は千人余りを従えて朝鮮に入り、王険城(平壌)を首都として衛氏朝鮮を建国した。-195年頃のことである。衛満古朝鮮の王になる。王都は王険城。(-東アジア-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-194中国の燕から亡命してきた衛満によって、衛氏朝鮮建国。(-東アジア-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-194衛満、古朝鮮の王となる(-東アジア-衛氏朝鮮)-国史年表-古朝鮮時代
-194衛満の執権
 西方地地方で勢力を養った衞満が準王を追い出し古朝鮮の王となった。[-194年)
 この時期鉄器文化が広がり、また、韓半島南部地方の辰の諸国は漢との中継貿易で強国となった。(-朝鮮半島-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-194中国の燕から亡命してきた衛満によって、箕子子孫から王権を奪い、衛氏朝鮮を建国し、首都を平壌におく。(-東アジア-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-194歴史的に検証可能な最初の国家であると、されている。(-東アジア-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-194衛満,王倹城に攻め入り,準王を追放して古朝鮮の王となる
衛満の執権
西方地地方で勢力を養った衞満が準王を追い出し古朝鮮の王となった。[-194年)
この時期鉄器文化が広がり、また、韓半島南部地方の辰の諸国は漢との中継貿易で強国となった。(-東アジア-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-128BC128年に、衛氏朝鮮に反対する?(かい)君南閭たちが28万人を率いて遼東郡に降った。漢の武帝は、「蒼海(そうかい)郡」(注:朝鮮半島の東岸か?)を置いてこの地方を支配しようとしたが、失敗に終わったという。(古朝鮮滅亡-東アジア-衛氏朝鮮前漢)--古朝鮮時代→漢直轄支配
前108年前漢の武帝に滅ぼされた。
ところがその孫、衛右渠 (えいゆうきょ) のとき漢に反抗したので漢の武帝は元封2 (前 109) 年大軍を派遣して討伐し、翌年右渠は暗殺されて衛氏朝鮮国は3代 80年余で滅亡した。
-109漢の武帝はBC109年に衛氏朝鮮を攻めたが、朝鮮王右渠(うきょ)は5万の大軍を迎え撃ってこれを破り、7千人の海軍も撃破した。漢の武帝は和戦両様の策をとったので、朝鮮の大臣や将軍があいついで漢に降り、(古朝鮮滅亡-東アジア-衛氏朝鮮前漢)--古朝鮮時代→漢直轄支配
そこには楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の四郡が設置された。その後、真番・臨屯が楽浪郡に併合され、玄菟郡も遼東半島に移転した。
漢の武帝の朝鮮遠征(紀元前108年)で滅びた。衛満朝鮮。
その後、漢は古朝鮮の地に楽浪郡ほか3郡をおいて直接支配下に入れた。
-108もともと、朝鮮半島は、中国の燕の支配下にあったものだが、その後、衛氏朝鮮が独立国家としての振る舞いを強め、漢の意のままにならないことが、武帝の逆鱗にふれ、-108年、遠征により滅ぼされることになった。衛氏朝鮮は、約90年続いたことになる。(-東アジア-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-108-108年古朝鮮(衛満朝鮮・衛氏朝鮮)の滅亡。しかし、衛氏朝鮮は独立国家として振舞うが、前漢の武帝(ぶてい)によって滅ぼされ、(-東アジア-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-108-108年頃、前漢衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡など四郡を設置。(-東アジア-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-108もともと、朝鮮半島は、中国の燕の支配下にあったものだが、その後、衛氏朝鮮が独立国家としての振る舞いを強め、漢の意のままにならないことが、武帝の逆鱗にふれ、-108年、遠征により滅ぼされることになった。
衛氏朝鮮は、約90年続いたことになる。(衛氏朝鮮-東アジア-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-108衛氏朝鮮は、中国の燕の出身、衛満(えいまん)によって建国されました。しかし、この衛氏朝鮮も紀元前108年には、前漢の武帝(ぶてい)によって滅ぼされ、朝鮮半島の大部分は中国王朝の支配下に入ることになります。(衛氏朝鮮-東アジア-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-108朝鮮半島の大部分は漢の直轄地となった。(-東アジア-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-108そこには楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の四郡が設置された。その後、真番・臨屯が楽浪郡に併合され、玄菟郡も遼東半島に移転した。(-東アジア-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
-108後漢末期になると、遼東半島で台頭した公孫氏が楽浪郡を支配し、その南に帯方郡を設置した。(-東アジア-衛氏朝鮮)--古朝鮮時代
原三国時代(げんさんごくじだい)は、朝鮮の歴史区分の一つ。
紀元前108年に楽浪郡が置かれ、百済新羅が国家としての体裁を整える4世紀中頃までの朝鮮半島の事を差す。
楽浪郡から中国の文化を受容し、三韓が国家としての体裁を整えていく過程の時代である。
原三国時代と言う言葉が使われ出したのは1972年頃からでそれ以前は金海時代などと呼ばれていた。
-108衛氏朝鮮滅亡(衛氏朝鮮-東アジア-衛氏朝鮮前漢)-漢の時代(年表)-古朝鮮時代→漢直轄支配
-108武帝が朝鮮に楽浪・真番・臨屯・玄菟など4郡設置(-朝鮮半島-衛氏朝鮮前漢)--古朝鮮時代→漢直轄支配
-108前漢の武帝により,衛氏朝鮮滅亡
前漢楽浪郡など郡県設置.地域土着民の反発を受ける
衛氏朝鮮が滅亡すると、漢は、ここに、楽浪(らくろう)郡、真番郡、臨屯郡、および玄菟(げんと)郡の4つの郡をおき、直轄地として支配することになる。この直轄支配は、約400年続いた。(-東アジア-衛氏朝鮮前漢)--古朝鮮時代→漢直轄支配
-108古朝鮮滅亡(古朝鮮滅亡-東アジア-衛氏朝鮮前漢)-国史年表-古朝鮮時代→漢直轄支配
-108漢の武帝に征服される以前の朝鮮およびその時代。

檀君(だんくん)・箕子(きし)・衛氏(えいし)などの王朝の支配下にあった。支配地域は大同江から北西の地域。(-朝鮮半島-衛氏朝鮮前漢)--古朝鮮時代→漢直轄支配
-108BC108年 衛氏朝鮮滅亡
 BC195年ころに建国された衛氏朝鮮は、中国民族による征服王朝だったため常に朝鮮民族などの抵抗に悩み、数代にして衰徴に向かった。(古朝鮮滅亡-東アジア-衛氏朝鮮前漢)--古朝鮮時代→漢直轄支配
-108衛氏朝鮮は、つねに抵抗に悩み、数代にして衰徴に向かい、BC108年に漢の武帝の侵略を受けて滅びる。
(注:古代における「朝鮮」「真番」「臨屯」の位置は、必ずしも明確でなく、時代による変遷もあったようである。この時代の「朝鮮」については、朝鮮半島北西部とする説、中国の遼寧省あたりとする説、箕子朝鮮とする説などがある。)(古朝鮮滅亡-東アジア-衛氏朝鮮前漢)--古朝鮮時代→漢直轄支配
-108朝鮮半島、中国支配の始まり[-108ー313]''
紀元前108年に前漢の武帝(ぶてい)によって、衛氏朝鮮が滅ぼされると朝鮮半島の大部分は中国王朝の支配下に入ることになります。そこで武帝は征服した地を4つに分け漢四郡設置します。この前漢はやがて衰退していき、継ぐ新(しん)そして、後漢も西に進出したり、北からの脅威に備えたりで、徐々に朝鮮への支配は弱まっていきます。そして、3世紀になると、豪族の公孫氏(こうそんし)が朝鮮半島支配に動き出しました。この公孫氏は、本来は魏王朝から遼東地方の支配を任されていた豪族。しかし、この頃の中国は、あの有名な三国志の時代です。激しい戦乱の中、こっそり魏の目を盗んで朝鮮半島の中国勢力の拠点である楽浪郡を裂いて帯方郡(たいほうぐん)を設置してしまいました。ですが、この公孫氏も238年には魏によって滅ぼされてしまいます。(-東アジア-衛氏朝鮮前漢)--古朝鮮時代→漢直轄支配
-108翌BC108年に朝鮮王右渠は漢に内応した大臣の家臣に殺された。それでも王城を死守する大臣がいたが、彼も内応者に殺され、衛氏朝鮮は滅びたという。
 漢の武帝は、衛氏朝鮮の故地に「楽浪(らくろう)郡」「真番(しんばん)郡」「臨屯(りんとん)郡」「玄菟(げんと)郡」を置いて直接支配に乗り出した。(古朝鮮滅亡-東アジア-衛氏朝鮮前漢)--古朝鮮時代→漢直轄支配